はてなキーワード: 帰宅部とは
昔から人と違っていて、独りだった。
高校は進学校だったが、塾にも通わず、帰宅部ので親しい友人はいなかった。
高校の先生からも進学校だからやっていける、周囲とのコミュニケーションが苦手な生徒だと思われてそうだ。
サブカル系の話題についていけなかったり、人との関わりの下手さを感じていた。
また、合わない学科に入って失敗した。
この時、自分に合った学科を選べていたら、その道に進めたか、友人もできたのかと後悔している。
そんなことから、自分は人と違う、普通の人生は無理だという諦観がある。
友人と呼べる人はなく、社外のつながりもない。
今の会社を離れると人とのつながりがなくなってしまいそうである。
頭では、独りで生きていくことはできない。
人間関係が重要だということは分かっているが、それを実行できていない。
やり方が分からない。
その原因は主に部活動ということも知った。
私が生まれてからずっと文系帰宅部一直線で生きてきたので、部活まじで意味がわからない勢というバイアスを隠す気もないけど、それにしても確かに部活顧問って滅私奉公だな~とは思う。
うちは子供がいないのでギリギリ離婚の危機はまぬがれてきたけれど、もし子供がいても顧問継続してたら確実に離婚騒ぎになってたと思う。
からの話は最近のコロナ禍下での部活の状況についてで、傍から見ていてめちゃくちゃストレスを感じる。
緊急事態宣言発令中の自治体に住んでるんだけど、夏休み中の部活は「1日3時間まで」って制限のみ。むしろ毎日やってるし、土日は大会ですってよ?
しかも部活命の体育会系学校ってわけでもなく、ベスト8、16も入んない程度のゆる部活でそれをやってるのが意味わからなすぎてつらい。
100歩譲って生徒さんは休む自由も退部する自由もあるだろうけど、教員は生徒がいる限り見守る義務がある。
しかも、夫の環境では職域接種なにそれ?っていうのもひどいなーと思う。
ぼかしますが40~50代の教員がノーワクチンで生徒はマスクなしの体育館にいなきゃいけないのって晒し者にもほどがあるのでは?
実際ちょいちょい感染者の話も聞こえてくるらしい。
どうにかならないかな、ほんと!
もうかれこれ10年ほど前の話だ。
親の決めた糞つまらない私立一貫校に行かされたことを不満に思い、こんな学校には一秒たりともいたくないと帰宅部を選んだ。
だが、当時早熟だった私は部活に入らないことでコミュニケーション能力や上下関係、体力が身につかないことを恐れたため、帰宅部ガチ勢になることを決めたのだった。
まずは体力面。幸い近所にテニスクラブがあったため、祖父にお金を出してもらいスクールに通うことにした。これが週3回。自主練や筋トレもしていたので、テニス部連中と同じくらいには上達したし個人で大会にも出ていた。
次にコミュニケーション面。学校では部活に入っていないと人間関係が希薄になりがちだ。そこで、ピアノや書道など、学校で何かしら賞が取れそう&活躍の機会がありそうな習い事は継続し、年始の書初めで賞を取ったりピアノ伴奏をしたりと、そこそこ存在感をアピールした。
上下関係も学んでおかなければまずいと思ったので、
高校に入ってからはとあるチェーン店でバイトをした。団体競技がしたくなったのでテニスをやめ、ダンスを習いに行っていた。
大学でも似たような生活をしていたので、私は人生で一度も部活動をやったことがない。
就活では習い事を部活と偽ってエピソードを捏造したが、内定は貰えた。
だが、苦楽を共にした友達というものが学内に存在しないので、中高時代の友達で今でも仲がいい人は一人もいないし大学にもいない。
私は今人生の帰路にいる。
悪く言えば一度決めたらそれしか見えなくなる、かなり視野の狭い人間だ。
ここは重要なのでどうか忘れずに以下を読み進めてほしい。
26歳という年齢をむかえ、私は残りの20代をどう過ごすべきなのか悩んでいる。
シェイプアップのためジムにも通い、より完璧なスタイルに仕上げる。そのあとはありとあらゆる方法を使って男を探すだろう。
次に勉強。
仕事以外の時間はその勉強に費やしているが、なにせそこそこブラックな会社で時間がない上理解力があまりよくないので20代で合格にもっていけるか怪しいなと思い始めている。
私は学生時代にほぼ帰宅部で、人との関わりをほぼ避けて生きてきた。故にコミュニケーション能力が皆無で、営業をやっているが会社では干され気味で仕事も全然できない。なぜ営業職に受かったのかといえば、私は学生時代少しだけだが声劇部に所属しており、明朗快活な陽キャの演技で面接官を騙したからだ。
就活の仕方とか全然分からなかったので、受けたのはここ一社のみ。役作りと同じ要領で設定シートをつくり演技をしたらなぜか受かってしまった。詐欺まがいの演技にだまされガチのクズを採用してしまい、人事はさぞかし怒られたのではないだろうか。なにせ所属していた部活もやっていたバイトも創作なのだから。
唯一好きなことといえば勉強だが、根があまり頭が良くない(親戚も両親も頭が悪く従兄弟は中卒)
そもそも勉強が好きな理由も、一人でできてそこそこ達成感があるからで、ほかに大きな理由はあまりない。
今後の人生を考えた時、婚活か勉強か、どちらに邁進したほうが食いっぱぐれずにすむだろうか。
とりあえず現会社で一生過ごすにはあまりにも人間関係が宜しくないのでどちらにしろ転職は視野に入れている。また、かなりのコミュ障で人に嫌われる性格なので職を点々とする未来も十分にあり得るなと思い、何か資格でも持っておいたほうが良いだろうと暇を持て余した学生時代にとある資格を取っている。(明言は避けるが使えばそこそこ食いっぱぐれない類のものだ)
だったら勉強すればいいのではとは思うが、最近は私のような人間が正社員で働いていること自体が会社にとって迷惑なのではと思い始めた。とにかく仕事が出来ず協調性がなく全くと言っていいほど向上心が持てないからだ。
答えは出ない。とりあえず残業に戻ることとする。
好きだと気づいたのはクラス替えの後だった。
小学5年生でクラス替えをした時、アヤトくんとクラスが離れ離れになってひどく落ち込んだ。
特にかかわりのないまま夏を迎え、校外学習に行く準備が始まった。もう10年以上も前のことなので記憶が曖昧だが、なぜかご飯の時間に私の班だけがアヤトくんのクラスと合同でグループを組むことになって、たまたまアヤトくんと同じグループになれた。
一緒にカレーを作ってる写真が卒アルに載っているので卒業後もたまに見返したりしてた。
放課後に通っていた書道教室が一緒だったので、たまに書道教室で会うことが密かな楽しみだった。
5年生の時はそれくらいしか思い出はなく、ひっそりと思いを抱えたまま6年生になった。
6年生になると、またアヤトくんと同じクラスになれた。毎日楽しくて、勉強なんか身に入らずアヤトくんだけをみていたし、2日間会えなくなるから金曜日が大嫌いだった。
そもそも、付き合うことの意味も分かっていなかったわたしは、気持ちをどこに向ければいいのかもよく分かっていなかった。
それでもアヤトくんの優しさに触れる度に好きでどうしようもなくなっていた。
私は漢字ドリルや計算ドリルを進めるのが好きだったのでみんなより早く1周して、勝手に2周目を進めていた。そんな時、アヤトくんも同じく2周目に進んでいることが分かって、なんとなく、どっちが先に2周目終わるか勝負ね!なんて言って幼いながらも接点を増やしていった。
ほとんど同じくらいのペースで2周目がおわって、私たちはドリル3周目を迎えた。もはやドリルへの執着ではなくアヤトくんへの執着だった。
3周目がおわるころに、担任が私とアヤトくんの異常なスピードに気づいて、クラスメイトの前で褒めてくれた。どっちが先に3週目終わるかな?と先生が言ってくれて、先に終わったら金ピカのシールをくれると言った。金ピカのシールなんて別に興味がなかったけど私とアヤトくんだけの特別な勝負が公になって嬉し恥ずかしの気分だった。
もうすぐ3周目がおわるころ、アヤトくんはなぜかスピードを落としてしまった。そして私は先に3周目を終えて金ピカのシールをもらった。
何も言ってなかったけどアヤトくんはわざと負けてくれたんだと思う。その優しさでまた心がぎゅっとなった。
アヤトくんはこんなに優しいから、結構人気な男の子だった。クラスメイトの中には他にもアヤトくんのことを好きな子がいた。
その子は、3年生の時に理科でアヤトくんが作ったモーターカーを間違えて踏んで壊してしまったらしい。小学生にとって、自分の作品を壊されたら阿鼻叫喚してもおかしくないが、彼は笑って許してくれたらしい。それで好きになってしまったと話を聞いた時、私もまた好きが大きくなってしまった。
そうこうして卒業の時期を迎えた。中学も同じなので特別寂しさはなかったが、アヤトくんと1番近くで話せたのはこの時期が最後だった。
帰る準備をしてる頃、視界が揺れた。
花瓶も、窓ガラスもわれ、ガタガタと物音が落ちる音とみんなの叫び声が響いてこわくてこわくて仕方なかった。
揺れが落ち着いてグラウンドに避難する時、怖くて立ち上がれなかった私に、アヤトくんは手を差し伸べてくれて一緒に歩いてくれた。
この日がアヤトくんの一番近くに居れた日だった。
サッカー少年だったアヤトくんはなぜか帰宅部になっていた。帰宅部の怖そうな友達とつるむようになったアヤトくんをみてなぜか寂しくなった。
ほんとはアヤトくんめちゃくちゃサッカー上手いのに、なんでってずっと思ってたけど聞く勇気はなかった。
クラスも遠くて接点もなかった。しばらくして放課後にアヤトくんのクラスに用があって行ったら、アヤトくんは髪を伸ばしてチャラくなっていた。そしてリュックにはピンクのよく分からないキャラクターのキーホルダーを着けていた。その隣に全く同じキーホルダーを着けている女の子がいて心臓がばくばくした。
一瞬で彼女だと悟った。
中学から一緒になった、出会ってそんなに時間もたってない子にいとも簡単に取られてしまうことを初めて学んだ。思いの長さは強さじゃないんだと知ってどん底に落ちた。
この彼女は私とアヤトくんがドリル競争を繰り広げてたことなんてなんも知らないのに、もう彼女になれてるんだ、ってよく分からない嫉妬をした。
結局アヤトくんへの気持ちを諦められないまま中2になった。アヤトくんは彼女と別れたらしい。
ずっと好きだと思いながら何も言えず、冬になった。
バレンタインを渡そうとして渡せなくてゴミ箱に捨てたのも確か中2の冬だった気がする。
同じ頃、修学旅行で隣の部屋で恋バナしてるからおいでと言われてるんるんで向かうと、ギャルの女の子がベッドの上で楽しそうに話をしていた。
「それでー、ちゅープリ撮ったの!」
そう言ってギャルは顔を赤くしていた。
キスなんてしたことない私は、ギャルが大人に見えて仕方なかった。その後まもなくしてちゅープリを見せてもらうとアヤトくんが映っていた。
その後の記憶はほぼない。帰りのバスは心が虚無だった。もうあの頃のアヤトくんはいないんだとわかって、それなのに自分はあの頃で止まっているのが悲しかった。
中3になると塾が忙しくなって、次第にアヤトくんのことを考える時間はほぼ無くなっていった。
アヤトくんの志望校すらも知らなかった。
でも、6年生の時にあれだけドリルを一生懸命やってたんだから、勉強は嫌いじゃないだろうしそれなりの高校に行くんだろうなあと思っていた。
卒業間近に、アヤトくんが市内のバカ高に進むと知って、ああそうか、と思った。
もう何もかも変わってしまったんだと思った。
高校に入って、私は別の人を好きになった。
アヤトくんのことはもう頭の片隅にもなかった。
時は経って、
18歳になるころ、アヤトくんはデキ婚した。
アヤトくんがパパか。そう思ったものの羨ましいの感情も特になかった。
私は都内の大学に通い、それなりに自分の生活を楽しんでいた。成人式でアヤトくんに再会すると「俺の事覚えてないよね〜?」と声をかけられた。いや、覚えてるよ!と話して、今私は大学に行ってるよ、と話したら別の世界にいる人を見るような目で「すげ〜な!しっかりしてるんだな」と言われた。
それからまた時が経った。
アヤトくんは離婚したらしい。
ふーんくらいにしか思っていなかったが、意外なところでまた再開する。
出会いがなくマッチングアプリをインストールして適当にスワイプしていると、アヤトくんがいた。
同い年なはずなのにすっかりおじさんになったアヤトくんの姿があった。
32年の追跡調査でわかった「幸福な人生の秘訣」 | WIRED.jp
成人してからの幸福度に最も結びついていた要素は、若年期における「社会とのつながり」だった(その方面に詳しい人向けに言っておくと、相関係数は0.62)。これに比べて、「学業成績」は幸福度の予測因子としてはるかに劣っており、相関係数は0.12だった。
この研究では、「社会とのつながり」について、「社会的愛着の質」「組織的なクラブやグループへの参加」「主観的能力または長所」「生活への満足度」の4つの尺度で評価している。
第一に、十代の若者にとって、社会的愛着の大きな部分を占めるのは「両親との関係」だ。十代のころに両親との関係が良好であるほど、幸福度の高い成人になる可能性は上昇する。また、十代の若者にとって、自分の親を好きであることと同じくらい重要で、なおかつ同じくらい想像しがたいことは、彼らが学校を好きであることだ。
「毒親」なんて単語が入った記事で、3users以上のはてブを獲得しているものは3000件を超える程度あり、その関心の高さがはてなーには見られる。そして、その基本論調は語るまでもなく、ここぞとばかりに毒親を批判する。あまりに批判したい気持ちが先行していて、ブラック企業やカルト宗教のようなやり口に自覚なく手を出してしまうこともある(久しぶりにこんな胸糞案件を見た)。当たり前だが、はてなーで「10代の頃に両親との関係」が良好であることはない。
また、「公立中は動物園」と言い放ったブコメがトップで星を集め、それが問題視されても「公立中動物園」擁護ブコメが一番星を集めるのが、はてなだ(はてなリベラルやばすぎ)。学校をあまりにも憎んでいるので、地毛黒染め校則の件については保護者たちの強い要請や生徒集客、公立中の統廃合といった諸事情をろくに考慮することなく、ファビョってしまった(「子供を小学校に通わせなくてもよい」という意見に対して、元教育者として言いたいことは山のようにある)。校則だけでなく、エアコンデマにも引っかかる有様(はてなブックマークが学校のエアコンデマに対抗できなかった件について思うこと)。学校制度とは別の学校生活の方も、「教室アルバム」の反応からすれば、ダメダメなようだ(今どきの卒業式はこんなに進化している!「教室アルバム」が超楽しそうでグッとくる)。当然、はてなーは「学校が好き」なわけがない。
ただし、社会とのつながりや学校を好きであることが重要だからといって、その子どもが「人気者」でないと幸福な大人になれないということはまったくない。花形クォーターバックであることより重要なのは、「何か悩み事があったり、怒りを覚えたときに相談できる相手」を持つことだと、研究チームは述べている。また、所属するクラブはスポーツである必要はない。幸福につながるのは運動への熱心さではなくグループに属することだ。
「何か悩み事があったり、怒りを覚えたときに相談できる相手」は、はてなーにとってはてな匿名ダイヤリーを通じたはてブだろうが、鬱病の人をはてブでフルボッコするぐらいには凶暴だ(鬱病の人をはてブでフルボッコにしたら亡くなってしまったという事例)。あのネガティブで執拗に攻撃を繰り返す感じは、実社会で考えたら完全にパワハラ上司のそれ。ゴールポストを動かして、粗探しして、ひたすら攻撃を続ける様は、部下とかをメンタル不全に追い詰める有様とどう違うのだろうか。企業のハラスメント問題を最上段から批評しつつ、加害者という立場に片足突っ込んでいる人たちが相談相手として適切だとはとても思えない。
そしてもうひとつ重要なのは、32歳になったときの幸福度を予測する因子は、10代の若者が客観的事実としてどのような生活を送っているかではなく、その若者自身が自分の生活をどのように評価しているかだという点だ。その若者は、自分の将来について楽観的で、自立していて、おおむね忙しい毎日を送っているだろうか? もし答えがイエスなら、その若者は、西洋社会における若者のステレオタイプを覆す存在であり、かつまた将来、非常に幸福な大人になる可能性が高いということだ。
はてなーが10代の時に「自分の将来について楽観的で、自立していて、おおむね忙しい毎日を送っている」なんてちょっと想像ができない。移民やAIに将来仕事が奪われるんだと悲観的で、リタリンやネットに依存していて、帰宅部で暇な毎日を送っているんじゃないかな。
元増田が書いたつもりのこととはずれるからトラバはしないんだけどさ、
だって昔の話にしては、運動部での苦しみや暴力を伝える描写が多すぎるし詳し過ぎる。
あれ読んで「運動部に入ってない人の言う事は信用ならないな!運動部に入ってた人は信用できるな!」とはならないじゃん。そんな事書いて推敲してる本人が1番わかってるはずじゃん。
むしろ「自分はこんなに嫌な事をされた」って訴えてるように見える。
嫌だと思う気持ちに蓋をしすぎて自分でも気付けなくなっちゃってる感じ。
不幸自慢になってることに気づいてない。
自分がされた事を無意味な暴力だったと認めるのは辛すぎて「あの暴力には意味があったんだ。あのお陰で自分は肉体的にも精神的にも強くなった」と思い込もうとしてるだけじゃない?
その考えを補強する為に
とか
「自分の肉体を追い込んだ経験がないから常識的な判断をする経験のベースがない」
って考えたり
「鬼滅の作者(自分にとって凄い or 偉い人)は運動部に入った事がある(自分と同じ経験をした事がある)んじゃないか(だから自分も同じように偉いしあの苦しみには意味があった)」って想像したりするんじゃないか。
元増田が書いてる
これは本当にその通りで私も地域差別には反対。
でもそれ以上に、元増田の個人的なトラウマを、ツイート批判という偽装をして吐き出してるように見える。
あまりにも「運動部経験が無い人は自分より弱くて話が通じない」って考えで人を見下してると、もしも「運動部経験が無いのに話が通じて元増田より強い人」が周りに現れだしたら、それからずっと、「運動部経験が無い人より、自分はダメな奴だ」って見下しながら生きてかなきゃいけないよ。
もし元増田が尊敬してる人が「部活?いや学生時代は帰宅部でしたwwやりたい事あったんでwww」って言ってるのを見たりしたら、自分を恨む事にもなるよ。
今は「運動部経験があって強い人」にしか出会った事がないかもしれないけど歳とったらわかんないよ。
https://anond.hatelabo.jp/20210130055110
最近、「多様性」だの「マイノリティの尊重」だの、綺麗事をよく聞くようになった。
全くバカバカしい。そういうことを言える人は、周りの人物に恵まれているのだと思う。
全く空気が読めないし、関係を構築できないから友達もほとんどいないし、こだわりがとても強い。
暇でしょうがないのか、私や両親の神経を逆なでするようなことばかり言ってくる。
にもかかわらず、両親は彼に激甘。
私がバイトで稼ぐ金額の数倍に等しい小遣いを、すぐに浪費してしまう。
しかし、高校生になっても全く成長しない彼に、最近では殺意すら覚えるようになった。
家族なら何を言ってもいいのか。迷惑をかけてもいいのだろうか。
家にいる時間を減らせばいい。
そう思う人もいるかもしれないし、実際私も行動に移した。
だが、今はコロナが流行っている。外出するだけで目くじらを立てられる。
私は差別主義者ですか?
そりゃあ…何だかんだ自分に甘く好きな時に好きなもの食べてる人たちとは違うんで…
現在168センチ、53~54キロ(夏はもうちょい痩せる)。アラサー既婚子持ち。
甘い飲み物は基本飲まない(コーヒーはブラック、紅茶はストレート)。
口に物を運ぶときは常に一日のカロリー摂取量を超えないよう意識してる。
例えば昼に外食したら夜ほぼ食べない、夜に飲み会あるなら朝昼はサラダスープのみとか。
ストレッチと筋トレ(ゆるいやつ)もやってるけどこれは気休めだな…
私、食べたら即吸収する体質なんですよ。
別に今はダイエットしてる訳じゃないけど、24時間365日上で書いたことを守って生きてます。
ちなみに夫は食べても太らない家系の人。身長175㎝で体重は私と同じくらい。
そんな彼は毎晩晩酌して、甘いものも大好きで常にお菓子買ってくる。
子供はどっちになるんだろうね…
父は瞬間湯沸かし器みたいな人で、些細なことですぐキレて手が出る。
私も物心ついた頃から殴られたり床に倒されて踏まれたりしていた。
父は人とのいざこざで殴ったり恫喝したりしたことを武勇伝としてずっと話していた。
小中学生のスポーツチームの指導なんかもやっていて、今だったら問題になるレベルの体罰の話も自慢げにしていた。
父の友人達もそれを持ち上げ、「さすがだなあ」「それが正しい」とかっこいいことであるかのように扱っていた。
私は幼少期から父から殴られ、暴力自慢話を聞き、周囲の反応を見ていたので、力で相手をねじ伏せることはかっこいいことで、ためらわないでよいことだと思い込んで育った。
それから色んなマンガで男よりケンカが強い女キャラを見てかっこいいと思い、ごくせんのドラマも流行っていたので「男を殴れて勝てる女はかっこいい」とどんどん思い込んでいった。
漫画やドラマでは「女を殴るなんてありえない」というシーンがあったりするので、女の子に暴力をふるおうとは思わず、男子とよく取っ組み合うようになった。なぜか女である自分が殴られることに抵抗はなかった。
取っ組み合いにきっかけや理由なんてない。小学生男子なんて暴れたい盛りだし、意味もなく突進してくるやつとか、私がすぐ手が出るのをわかっててからかいに来るやつが同級生にたくさんいて、私はいちいち応戦していた。
父は人を殴って相手の歯を折った時の傷が指に残っており、それを勲章のごとく自慢していたので、私は男がケンカで体や顔に傷をつけることはかっこいいことだと本気で思っており、男子と取っ組み合うと顔面にも容赦なく蹴りを入れたりしていた。
休み時間や放課後にはだいたい男子たちと暴れ、殴ったり殴られたりする毎日で、これが普通だった。ドッチボールとかサッカーとかで遊ぶのと同じ感覚でケンカして遊んでいた。
ある日の休み時間、いつも通りに男子たちと取っ組み合う中で1人の男子の頬に回し蹴りを入れた。結構なクリーンヒットだった気がする。
特に気にせず他の男子とさらに取っ組み合っていたら、数分後「何やってんの!!!」という担任の金切り声が響いた。
いつも「危ないよ!」くらいの注意しかしなかった担任だけどその日は様子が違った。
担任の横にさっき私が回し蹴りをくらわした子がいて、泣いているので「え、何?何?」と手を止めて近寄ると
「何じゃないよーーー!!もういやーーー!!!」と担任が泣き叫び、膝から崩れ落ちた。
それから校長室に呼ばれ校長に事情を話し、それぞれの保護者を待ち、帰った。
翌日登校したら担任に呼ばれ相談室のようなところで「これを読みなさい」と手紙のようなものを渡された。
私が回し蹴りした男子のお母さんが担任に宛てたもののようで、口内を切ったのと歯茎への衝撃?で出血が多かったがとりあえずは大けがではないこと、
大けがではなくてもどうしてうちの息子がこんな目に遭わなければならないのかということ、男の子相手ならやんちゃ同士で許せるかもしれなかったが女の子にやられたなんて信じられないということ、
担任は私が手紙を読んでいる間ずっと泣いており、その後数日学校に来た後は長期の休みに入ってしまった。
手紙に書かれていた通り、私の父親は件の当日に私を迎えに来たけど、担任から事の顛末を聞いたくらいで後は私に何も言ってこなかった。
怒るでもなく慰めるでもなく事情を聞くでもなく。ガストで夕飯を食べて帰った。その日も帰宅してから別件でキレられ、殴られた。
数日後、男女数人で公園で鬼ごっこか缶蹴りかをして遊んでたと思う。
1人の女子を後ろから手で目隠しし数を数えていたら、知らない女の人がすごい剣幕でやってきて「やめなさい!」と怒られた。
危ない遊びはやめて!こないだの〇〇くんの時もだけどあなたの暴力性は信じられない!あなたはおかしい!女の子にも乱暴する気!?
みたいなことを言われ、めちゃくちゃ怒られた。
私は知らない人だったけどたぶん同級生の母親とかだったんだと思う。私がクラスメイトにケガをさせたことを知っているようだった。
取っ組み合いのような遊び方よりははるかに優しい遊び方をしていたと思うんだけど、自分が少し相手に触れるような遊び方をしているだけで大人はこんなに取り乱すんだ、と少しショックだった。
危険人物である、悪である、と人に思われていることを急に自覚して、なんだかとんでもない気持ちになった。
今考えたら子どもを育てている親からすれば暴力的な子が自分の子の近くにいれば怖いし叱るべきなのはわかる。
どう考えてもあの頃の私はおかしかった。
それから私は取っ組み合いや殴り合いをやめて、普通の子どもになったと思う。(体育や休み時間にやるスポーツは派手にやっていたけど、普段の生活では大人しくなった)
腹が立つことや納得いかないことも話し合いでなるべく穏便に解決することを学んで、大声を出して主張する人や嫌なことがあると物にあたる人、手が出る人を見ると嫌だなあと思うようになった。
子どもながらに自分のしてきたことを棚に上げたり棚から下ろして飲み込んで吐きそうになったり、ぐるぐる悩みながら中学生になった。
小学校には私以外にも男勝りをアイデンティティーにしているような女子が数人いたけど、中学校にはボーイッシュな子はいてもそんな暴力的な子はいなかった。
制服のスカートのままで毎日男子とのケンカを楽しんでいる豪快な女子なんてマンガの世界にしかいなかった。
中学校までは同じ小学校出身も多かったが、高校はなるべく遠く、同じ小学校の人があまり受験しない学校を選んだ。
穏やかでにこやかに、口の悪いこともなるべく言わないように過ごし、友人も文化部や帰宅部の和やかな雰囲気の子が多かった。
父は相変わらずスポーツチームの指導に勤しみ、家にはたびたび非通知で電話がくるようになった。
「うちの子がそちらのコーチに殴られて倒れた後蹴られたそうですが」「1人だけグラウンドを20周以上走らされ吐いたと聞いた。家に帰って来ても体調が戻らず、もうクラブの練習に行きたくないと言っている」
知らずに電話を取ってしまった時は人の憤りと恨みを直に感じてしまい1人で泣いた。
母がそういう電話を取った時は「名乗りもせず言いたいことだけ言って失礼じゃないですか?」と応戦していた。
父はそもそも電話が鳴っても取らない。家主は家では自分の席から動かず、家族は家主が動かないでいいように働くべきだそうだ。
鳴る電話は父が暇で電話の一番近くにいても必ず誰かが取らされ、電話が取れなかった時ややむを得ず父が取った時などは殴られた。
偶然小学校の同級生の男子と会社で同期となったので、2人で飲みに行った。
当時殴り合いをしていたうちの1人だったので、お互いに「お前落ち着いたなあ」と言いながら飲んだ。
私が男子を流血させて担任を取り乱させたことも覚えていたし、今でもその男子と交流があるという。傷は残っていないし、私の話が悪い意味で出ることもないらしい。
それでも「あの時はごめん」と謝った。涙が出た。
何と言っても私がしたことやあの時の自分の考えが変わるわけじゃないのに、女の私が泣くのはずるいと我ながら思った。
「俺も暴れる問題児だったからお互い様だ」と言われた。今度は件の男子も連れて飲もうと言ってくれた。
同期は父の教えていたスポーツチームにも所属しシバかれていたので、「父は理不尽に怒るし体罰もするし嫌いだったでしょう」と聞くと、苦そうな顔で「ま、あの頃は子どもだから……」と言われた。
私も父を好ましく思っていないはずなのに、そう言われて少し胸が痛かった。
かっこよくない。自分の気分だけで人を大声や暴力で威圧することなんて何もかっこよくない。
父は父母の署名により数年前にスポーツチームの指導者を辞めさせられた。
誰に言うということでもないので、増田に書き捨てておく。
ここはオレといっしょだな。オレはロスジェネじゃなくて、バブルの一歩手前くらいの、就職楽々世代だったのだが。
クラスの中では1番か2番くらいに背が高かったので、小学校の時に2〜3回喋ったことがある程度の薄い関係のセンパイに
「お前、背が高いからバレーボールやれよ、エースアタッカーになれるぞ!」って誘われて、まぁ運動嫌いだし運動神経も平均以下だけど、どっか入部するのが義務だからしゃーないか!って気分で入った。
球拾いが8割がただったが、パスとかレシーブとかの練習もそこそこやった。
生来の運動音痴なので、スパイクの練習があっても、5回に4回は空振り。まともに当たって相手コートにボールが飛ぶことは皆無だったね。
で、1学期の終わりくらいにはもうだいぶやる気を無くしていて、そこで新入部員が新しいユニフォームを買うことになった際に、
番号が1から10何番までついてるやつで、「4番」という縁起の悪い数字を押し付けられたのがイヤで、退部したw
その後、1年くらいは、どこにも所属してない「帰宅部」で、のらりくらりした。
2年生の2学期くらいに、いろいろ説得してくるセンセーをかわしきれなくなって、吹奏楽部にこれまたイヤイヤで入部、一番「容易」とされるパーカッション担当で、タンバリンとか木魚とかトライアングルとか叩きまくるw
その後、センパイが卒業して欠員ができたティンパニ担当となり、メキメキ頭角を現さなかったが、出場した地区コンクールの審査員評で
「ティンパニの音程はなかなかしっかりしている」との評価を受け、それが中学校時代の最良の思い出であるw
おわり