はてなキーワード: 存在意義とは
第3段階:不足の中から実行できるものを選択する(ここから「そんな事をしていていのか、そんな事に何の意味があるのか」という意見がここだけ見た層から出てくる)
第4段階:明るい未来にむけての方向性に軌道修正や着地点、段階を実際の結果と合わせて修正、運用していく(この段階では第1段階の目的から外れる、追加される場合は一旦機能を停止ないし切り離ししなければ、別目的のための動力生成機関に成り果て意味をなさなくなるので、前段階再考の要など出た場合は注意する)
どの段階の何がどうするのをどう不明なのでしょうか。
一旦発射された銃弾は軌道が変えられないので、目的地に着かないと見受けられた時点で任を解かないとならない。実行する者は幸いである。自らが銃弾の位置にいるからである。
銃を持っていると自負する者も幸いである。打ち出されんと方向性と熱量を持って銃弾としているものを招き入れる事ができるからである。
銃弾も火薬もなく薬莢である事を嘆くものは災いである。あなた方は、そこにそれがあったと示す以外に存在の価値をなくしてしまっているのである。
もし見えないんですけどって言ってるだけであれば、今明るい未来が見えていない人がいたという事とどこにどれだけそれが集まったかという検出結果以外に存在意義がないそれだけの存在であるということと、そんなAIスピーカーみたいな人に施すべき未来の明るさとは何なのかということでしょう。
夏休みでもないのに8月31日って意識しちゃう。夏休みの宿題って何のためにあるんだろうなあと毎年適度に手抜きしていた。夏休みの宿題の存在意義は今でもよく分からん。
嫌いな人が自分の好きな漫画や、その漫画のキャラを好き〜〜って言ってて、漫画やキャラは悪くないのに嫌いになっちゃいそうで嫌だ。まだ推していたいから早く嫌いな人と離れたい。
上手い生き方を覚えないうちにこんな歳まで生きちゃったなと思う。
ここ数日こじれた嫉妬したり、メンタル弱ったりしててどうにも調子悪い。加えて、台風のせいで低気圧と土砂降りの雨。不調が重なるのしんどいなあ。大きく辛い出来事がなくても、毎日些細に体調やメンタルが弱ったり、顔に出来た吹出物を気にしたりとかそういうことを毎日しないといけないと思うと、一気に人生が面倒くさくなる。一定でいたい。
ふとしたとき、アッ自分って何にもねえ〜〜〜〜〜〜と思って死にたくなる。経験値もなければスキルもない。そういう時ほど何かを持ってる人に嫉妬してしまうから、余計そんな自分が嫌になる。
1位:水菜。歯触りが派手でラーメンの邪魔をする。水っぽいからスープが薄まる。わりと苦味が強くて味を持っていかれる。邪魔。どけ。
2位:糸唐辛子。辛くないラーメンに乗ってる分にはまだアクセントになるから分かるが辛いラーメンに乗っているのは無意味。スープの辛さに完全に負けているし存在意義がないのに口どけが悪い。邪魔。あー邪魔。
3位:紫玉ねぎ。最近乗せる店が多すぎる。生のたまねぎ、すべてを持っていくだろう、なにを思ってお前はラーメンに乗せるんだ、ラーメンに愛情はないのか、それはもはや刻んだ紫玉ねぎスープだ、馬鹿め。
あってもいい色どりランキング
1位:白髪ねぎ。おいしい😋🍴💕
来年いきなりのことじゃなくて、
5年後10年後どうなるのかなーって思ってるんだけどね
>なるわけねえだろwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
まだそんなに魅力的なサービスではないが、米ではもう始まってるよ
家の固定回線と5Gに置き換え 米国で取り組みも - ITmedia
https://www.itmedia.co.jp/mobile/articles/1902/03/news028_2.html
>無線が有線を上回るなんてことはねえよwwwwwwwwwwwwwwwwww
>5Gは体感ベースで4G(LTE)の100倍速いとされ、理論上は最大20Gbpsの通信速度を実現できるといわれています。
https://tokusengai.com/_ct/17271580
>5Gになると、1㎡あたりの接続数が100万になります。4Gでも数千の接続が可能ですが、5Gになるとその100倍の接続数を実現することが出来ます
https://geekly.co.jp/column/cat-technology/1903_052/
回線速度が爆発的に早くなれば、エラー補正に使える容量も格段に増えるので、今よりは相当安定するはず
>スマホやモバイルWi-Fiで非常に厄介なのが速度制限です。もしこれが無くなったら固定回線の存在意義が完全に吹っ飛びます。
https://net-champion.com/5g-mobile-wifi/
>導入当初の有望な用途として、固定回線代わりの利用があります。5Gでは現在の光回線と同等以上の通信速度(1Gbps)も実現できます。
>据え置き型の5Gルーターであれば、移動しないため速度が出しやすく、たとえ展開エリアが限定的でも家の中で通信が入れば不便はありません。
https://japanese.engadget.com/2019/03/02/5g-mwc19/
なんにしろ「現状では将来どうなるかよくわかんない」が答えだけどね
表面的には順調な人生だ。それなりの大学を出て、それなりの給与で会社に勤め、健康的な妻子がいる。二人とも誰かに迷惑をかけるようなこともしていない。俺も多分、していない。
会社に勤めてそろそろ二十年。若いころは現場が楽しかったが、中間管理職になって部下の後始末ばかりの日々。部下が無能というわけではない。経験不足で足りない部分があるから、これまでの知見でそれを補う。その過程で社内外の関係各方面に迷惑をかけることもあるから、頭を下げる。ひたすら頭を下げる。ただただ頭を下げる。まったく楽しくない。頭を下げるだけなら、俺じゃなくてもいい、俺がいなくても構わない。そう思う。管理職になれるのは社内の限られた人数だが、俺は別に管理職にならなくても良かった。現場にいたかった。
単身赴任は間もなく五年。妻と息子のいる家にたまに帰っても、いいことはない。妻はずっとテレビを見ている。くだらないテレビドラマ。「私の唯一の趣味」というから、好きにさせている。最近は贔屓の役者のファン同士、ツイッターで交流している。テレビはつけっぱなし、目はスマホでツイッターのタイムラインを追っている。テレビの内容でファンが盛り上がっているそうで、たまに変な笑い声を上げる。息子は息子で、ひたすらユーチューブを見ている。テレビつけっぱなし、妻はツイッター、息子はユーチューブ。それが食卓の風景。俺がいなくても構わない。家族といても休みは日中、昼寝をしている。つけっぱなしのテレビは妻と息子の物だし、俺にはほかにやることもない。夜は飲みに出かける。
つまり、俺は典型的なおっさんだ。いてもいなくてもいい。居場所なんてどこにもない。
会社にとって、俺の存在意義は体のいい弾除け。厄介ごとを下処理する係。代わりはいくらでもいる。
家庭にとって、俺の存在意義は金。生活費、学費、住宅ローンを払うだけの財布。今のところ代わりはいないが、俺が死んで妻に保険金でも入ればそれで最低限の生活はなんとかなるんじゃないか。家を売ってもいいだろうし。
会社をやめたいな、と毎日思う。でも、やめたら、妻と子の生活はどうなるんだ。そう考えて思いとどまる。思いとどまって単身赴任先から家に帰ると、テレビつけっぱなしのツイッター妻とユーチューブ息子がいる。これまでさしたる感謝の言葉を聞いたこともなかったが、この二十年、俺には所詮、財布としての価値しかなかったのだから、仕方がないのだろう。俺が死んで妻子に金が入ればそれで彼らは充分に幸せに生きていけるような気がしてくる。
ああ、会社やめたいなあ。ああ、死にたいなあ。そんな風に思いながら、それでもまだ生きている。いつまでこんな風に生き続けるのだろう。ああ、会社やめたいなあ。ああ、死にたいなあ。それでもまだ生きている。こうやってみんな生きながら葬られていくんだ。人生って初めから終わっていたんだな。やっとわかったよ。そんな簡単なことに気づけなかったなんて、俺は本当にバカだったな。
山梨学院大学で異常事態…「非常勤講師切り捨て」とモラルの崩壊(田中 圭太郎)
しかし私の興味を引いたのは、山梨学院大学が教育に重きを置いて高度な研究機関となることは目指さないと公言していることに対して、田中氏が以下の批判をしている点である。
言うまでもなく、大学の両輪は「研究」と「教育」であるはずだ。しかし「研究者は今後雇用しない」と受け止められる文言が、ここには堂々と書かれているのだ。
ツイッター上でも大学教員を中心に山梨学院大に批判的な声が上がっているが、大学の両輪は「研究」と「教育」である、というのは現代において言うまでもない当然の前提なのだろうか。例えば、『経済学部タチバナキ教授が見たニッポンの大学教授と大学生』(橘木 俊詔)によると、「アメリカの大学ではトップ50までが研究中心の大学、それ以外は教育中心の大学と二分化」されているようである。教員のキャリアも、それに応じて研究中心と教育中心のそれぞれのスペシャリストとして専門分化しているようだ。
また日本においては、大学教員が研究に重きを置くと第一線での研究活動は多忙を極めるので、学生の教育がその合間になるという実態がある、と氏は指摘する。そこで日本においても米国と同じく、研究中心か教育中心かのいずれかに教員のキャリアも分岐していくだろう、と氏は予想している。
世界トップの学術業績を出している米国の大学が研究中心と教育中心に分業しており、加えて研究を重視する教員による教育が手薄になりやすいという日本の大学の問題意識を考慮すると、山梨学院大が教育中心に舵を切るという方針は、大学の存在意義を否定するものとは言い難いように思う。少なくとも「言うまでもなく、大学の両輪は「研究」と「教育」であるはずだ」の一言で終わらせるのではなく、研究中心と教育中心に分化した場合にどのような弊害が生じうるのか、そして米国ではどのような弊害が生じたか、など丁寧な議論を展開した上でこの方針を批判するべきだろう。
保存性の高さから年貢としても用いられてきた白米はいつしかただの食品とは一線を画する物と信じられてきた。
白米は栄養価が高い。
白米は偉い人が食べるもの。
白米さえ食べていれば幸せ。
その名は「脚気」。
細かい話は本題から外れるので結論から言えば、白米は万能の食品でなどでは全くなく、白米に偏った食生活は栄養バランスの崩壊を招くのである。
物資不足の中、多くの食品が庶民にとって貴重品となっていった。
あらゆる食べ物が貴重品となる中で、庶民が口にする機会の減少を最も嘆いた食品の最大公約数こそが白米である。
白米が万能の栄養を持ち合わせないという事実は、戦後の飢えた民衆とは無関係の事実である。
純粋なカロリー不足による死すらも目前に迫る世界では、栄養という言葉はカロリーという意味に置き換わる。
白米の持つカロリーは純粋な栄養として扱われ、カロリー不足という万能の死を回避する無敵の栄養商品として白米は再び蘇る。
栄養という言葉の意味は、タンパク質や様々なミネラレル、ビタミンをバランスよく取るという意味に置き換えられていく。
カロリーの摂取目安は到達目標ではなく制限目標として設定されていく時代。
嗜好性の高い書品の増加により街にはカロリーが溢れていく。
何気なく飲んだタピオカミルクティーの500㌔㌍と同じだけ何かの摂取を諦める必要があると人々が悩む時代。
白羽の矢が立ったのは白米である。
聖域となっていた白米はゆっくりとその神秘のヴェールを解かれていく。
白米が食べられることを有難がっていた時代、当たり前になっていく時代、そして食べないという選択肢に人々が辿り着いた時代。
戦争という暗黒時代が1度は戻した時計の針、それは再び運命の場所へとたどり着く。
白米2度目の死。
おそらく表現規制の最前線にいる人しか分かってないと思うので&早稲田大学エロ漫画研究会の記事がバズっているので再掲。
自主規制団体が必要とされる理由は大きく分けて3つ存在する。1つには、販売店を安心させるため。2つ目は、条例上あった方が有利だから。3つ目は、世論との妥協のためだ。
(太字強調は筆者による)
わいせつな文書、図画、電磁的記録に係る記録媒体その他の物を頒布し、又は公然と陳列した者は、二年以下の懲役若しくは二百五十万円以下の罰金若しくは科料に処し、又は懲役及び罰金を併科する。
電気通信の送信によりわいせつな電磁的記録その他の記録を頒布した者も、同様とする。
[児童買春、児童ポルノに係る行為等の規制及び処罰並びに児童の保護等に関する法律 第7条第6項]
児童ポルノを不特定若しくは多数の者に提供し、又は公然と陳列した者は、五年以下の懲役若しくは五百万円以下の罰金に処し、又はこれを併科する。
電気通信回線を通じて第二条第三項各号のいずれかに掲げる児童の姿態を視覚により認識することができる方法により描写した情報を記録した電磁的記録その他の記録を不特定又は多数の者に提供した者も、同様とする。
つまり、わいせつな文書・図画や、児童ポルノに関する罪を問われるのは製造者や所持者だけではない。法律上は、販売した者も罪に問われる場合がある。
が、店員にとってみたら『わいせつっぽい物を販売したらある日突然逮捕されるかもしれない』は恐怖である。
そのような販売店の恐怖が『それっぽいものは全部売らない』になるのは商業的にも文化的にもマイナスなので、
ビデオ・映像関係の年齢表示や、成年向けコミックのマークはそのような販売店の声に対し、『自主規制団体が、刑法および児童ポルノ法に違反していないことを確認したと責任を負います』という意味がある。
だからこそ、数年に1度程度の割合で『AV女優が実は18歳未満だった』という事件があるが、そのAVを置いていたツタヤの店員が全て逮捕されるわけではないし、
以前薄消しが流行ってビデ倫の関係者が逮捕されたことがあるが、問題になったビデ倫の作品を扱っていた販売店の関係者は逮捕されていない。
逆に言うと、そういう団体を通していない、いわゆる裏ビデオを分かっていて売ったら店員が逮捕される可能性もあるはずだ。
上で書いたような『わいせつな文書・図画』や『児童ポルノ』は世間で広義で用いられるような意味ではなく、たとえ18歳以上にしか売っていないとしても、売った人は逮捕されるような物の話である。
では、一般的に「18歳未満には販売できません」で書店やアマゾンで売っている商品はどのような法的根拠で売っているか。それが条例上の理由だ。
第九条の二 図書類の発行を業とする者(以下「図書類発行業者」という。)は、図書類の発行、販売若しくは貸付けを業とする者により構成する団体で倫理綱領等により自主規制を行うもの(以下「自主規制団体」という。)又は自らが、次の各号に掲げる基準に照らし、それぞれ当該各号に定める内容に該当すると認める図書類に、青少年が閲覧し、又は観覧することが適当でない旨の表示をするように努めなければならない。
まどろっこしいが、要は『一定の倫理基準に該当する物は、青少年に閲覧・販売できないように努力せねばならない。(そして、成人に販売する分には問題ない)』ということである。
"18禁"などに関する(映像作品やゲームではR-15も一応は存在する)法令上のもっとも重要な(もしかしたら唯一の)根拠はこの前後の条文だ。
この条文があるからリアルでもネットでも、18禁の作品を売る際には専用のゾーンを設けなければならない。その区分が雑だという話(特にネットにおいて)はノーコメント。
2で書いたように、自主規制団体または出版社が自ら成年マークをつけたものは『表示図書類』として扱われる。それとは別に、『指定図書類』というものが条例には存在する。
第八条 知事は、次に掲げるものを青少年の健全な育成を阻害するものとして指定することができる。(以下略)
第九条 図書類の販売又は貸付けを業とする者及びその代理人、使用人その他の従業者並びに営業に関して図書類を頒布する者及びその代理人、使用人その他の従業者(以下「図書類販売業者等」という。)は、前条第一項第一号又は第二号の規定により知事が指定した図書類(以下「指定図書類」という。)を青少年に販売し、頒布し、又は貸し付けてはならない。
いわゆる『有害指定』である。“成年マーク付きのものは有害指定されない”と明記されているわけではないが、条文上『表示図書類』と併記して扱われているので事実上棲み分けている。
そして、『有害指定』の対照となるのは、「成年マークをつけなくても大丈夫だろう」と自主規制団体や出版社が考えた本の中で、青少年健全育成会議で指定された本である。(ちなみにエロ以外でも、犯罪や自殺を推奨しているとして指定される場合はある)
さらに言うならば、『表示図書類』は書店やアマゾンでも売っている。だが、『指定図書類』は流通が扱わなくなるため、事実上販売できなくなる。公式サイトからの通販などは可能なのかもしれないが…。
そもそもこのような自主規制団体が生まれたのは1950~60年代に『低俗な本・雑誌が溢れた』ことに対する世論の批判とそれを受けての条例(2や3で書いたのは東京都の条例だが、同様の条例は全ての都道府県に存在する)制定の動きに対してであり、
ビデオやゲームが出た後も法規制の動き(もしくは実際の逮捕事件)を受けてから出版の団体を参考にして自主規制団体が生まれている。
もっとも、出版と映像では少なからず差がある。最大の違いは、出版は成年マークのついていない書籍については一切の表示がないのに対し映像やゲームでは(ほぼ)全ての作品について「審査の結果、年齢区分はこうなりました」という表示があるということだ。
世の中において『私の考えるこれこれの思想・道徳に反する本は全て排除せよ』という日本国憲法ガン無視の全体主義者は少数だが、
「たとえ低俗な出版物であっても、他者の権利を侵害していないならば全て認められるべきだ」というガチの一元的内在制約説原理主義者もまた少数であり、
「低俗な本に対する一定の倫理的歯止めをする制度は必要だよね」という中庸な人がおそらく最大多数だ。
(酒鬼薔薇の本など典型例だ。私の倫理観はあの本が出ることを嫌悪するが、あのような本の出版をどうやって規制するのか、というと非常に難しいよなと思う部分はある)
そういう人たちに対して「いや、一定の倫理的歯止めはかけていますよ」というアピールをして、ひいては条例・法律上の規制をするような世論に持っていかせないという存在としても自主規制団体は役立っており、
民主主義の世の中においてそのような団体の存在意義は一概に否定するものでもない。
私は上半身の体毛が薄い方で、髭も脇毛も胸毛も腕毛も豆もやしみたいなものである。
(幸い髪の毛はフサフサなので要らぬ心配はせぬように)
一方で下半身の毛は何故か濃い。
たまにスネ毛を剃ってみたりチン毛をカットしてみたりしてたのだが、そういえば尻毛に手を入れたことはない。
考えて見たら尻毛の存在意義ってなんなんだ?
ググってみた。
存在価値などないらしい。
気になりだしたら処理したくなるのが人間の性。
あぁ、かくも愚かな人間よ。
今のままで一度も尻毛の居住区を侵略しようなどと考えたこともなかったのに。
ひとたび「ムダ」だというバイアスがかかった途端、私は30年間連れ添った尻毛をいとも簡単に亡き者にしようとしているのである。
カミソリで処理する勇気はない。
万が一処理を誤った日には毎日パンツを買い換える羽目になってしまう。
処理するなら除毛剤だ。
私は早速ドラッグストアに駆け込んだ。
メンズ用の除毛剤がないのだ…!
これでもいいんだけど、よく考えたらレジに持っていくのも恥ずかしい。
手元に届いた除毛剤の注意書きを読む。
「あらかじめ除毛しようとする部位に少量を塗って10分程度放置し、赤み、かゆみなどの刺激がないかを確認してください」
うるせぇ!こちとら一刻も早く尻毛に強制退去を申し出たいんじゃ!
かかる火の粉など知ったことか!
少しヒリヒリする…
でもそれ以上に、気持ち悪い…
尻の谷間に感じる除毛剤の感覚は、あの苦い感覚と酷似している。
うっかり実が出た時の感覚…パンツへの被害をなんとか抑えようと谷間くんが頑張ってくれている時のあの感覚そっくりだ。
10分後、シャワーでぬるま湯をかけながら尻毛を引っ張ってみる。
そう思ったくらい漆黒の縮れ毛が大量に指の中にある。
痛みはほとんどなかった。
ついに私は尻毛とおさらばしたのだ。
街中で人とすれ違う時に心の中で小さく呟く…
「良いだろう、私はお尻つるつるなんだぞ。一味違うんだぞ。」
いつもより胸を張って歩けた気がした。
ところで私はフワッフワのやわらかいダブルロールのトイレットペーパーより、ガッシガシに硬いシングルロールの方が好きだ。
ダブルがいいとか言ってる人は気取ってるか贅沢病に犯された人間に違いないと、そう思っていた。
尻毛を処理して2日後のことだった。
いつものようにカッタイ紙で力一杯尻を拭いた時に痛みが走った…
紙には血がついていた。
そうか、これまで私が硬い紙を好んでいたのは、尻毛に抗うためだったのか…
ヤワな紙は尻毛の生えてない、もしくは処理している人にとって、あふれんばかりの優しさを以って接してくれる偉大なる母のごとき存在だったのだ。
私はそれまで自らが抱いていた差別意識を恥じた。
あぁ、かくも愚かな人間よ。
我らには想像力というものがありながら、痛みと後悔無くしては反省することすらできないのだ。
しかし、私は尻毛を通じて己の弱さをひとつ認識することができた。
私にとって尻毛の処理はムダではなかったのだ。
貴方たちによって悟りに一歩進んだ人間が、少なくともここにひとりは存在する。
私は感謝しなければならない。
アニメなんてなくても生きていける。
そう論じるのは簡単なことだ。
だが
人間はそもそも不完全なものであり、合理性のみで人生を全うすることは難しい。
それが出来る人間もいようがその数は決して多くない。
アニメに限らず、ゲーム、酒、タバコ、異性、ギャンブル、車、ゴルフ、音楽、アイドル、スポーツ観戦、特撮、映画、小説…
多くの人間は一見非生産なものにひと時その身を浸して癒やしを得、日々の暮らしにおける心の糧にしているものだ。
まずこういったものに批判をすること自体禁酒法時代のアメリカや天保の改革の風俗取締令のようなナンセンスさがある。
すでに多くの批判が寄せられているが、大阪芸術大学の純丘曜彰教授の例のコラムの改稿前のものを長くなるが引用し、思うところを述べていきたい。
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/夢の作り手と買い手。そこに一線があるうちはいい。だが、彼らがいつまでもおとなしく夢の買い手のままの立場でいてくれる、などと思うのは、作り手の傲慢な思い上がりだろう。連中は、もとより学園祭体験を求めている。だからファンなのだ。そして、連中はいつか一線を越えて、作り手の領域に踏み込んでくる。/
あまりに痛ましい事件だ。だが、いつか起こると思っていた。予兆はあった。たとえば、16年の小金井事件。熱烈なファンが豹変し、本人を襲撃。アイドルやアニメは、そのマーケットがクリティカルな連中であるという自覚に欠けている。
もとはと言えば、1973年の手塚プロダクションの瓦解に始まる。同じころ、もう一方のアニメの雄、東映も労働争議で多くの人材を放出。かれらは、それぞれにスタジオを起こした。だが、これらのスタジオは、アニメの製作ノウハウはあっても、資金的な制作能力に欠けており、広告代理店やテレビ局の傘下に寄せ集められ、下請的な過労働が常態化していく。
そんな中で74年日曜夜に放送された『宇宙戦艦ヤマト』は、視聴率の低迷以前に予算管理と製作進行が破綻して打ち切り。にもかかわらず、時間帯を変えた再放送で人気を得て、77年に映画版として大成功。当初はSFブームと思われ、78年の『銀河鉄道999』や79年の『機動戦士ガンダム』が続いた。しかし、サンリオ資本のキティフィルムは、80年に薬師丸ひろ子主演で柳沢きみおのマンガ『翔んだカップル』を実写化し、SFではなく、その背景に共通しているジュブナイル、つまり中高生モノの手応えを感じており、81年、アニメに転じて『うる星やつら』を大成功させる。
このアニメの実際の製作を請け負っていたのが、手塚系のスタジオぴえろで、その応援として、同じ手塚系の京都アニメーションの前身が稼働し始める。そして、その後のアニメ業界の大勢の方向を決定づけたのが、84年、この監督だった押井守の映画版オリジナルストーリー『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』。SF色を取り入れた学園コメディで、学園祭の準備が楽しくて仕方ない宇宙人の女の子ラムの夢に世界が取り込まれ、その学園祭前日を延々と毎日、繰り返しているという話。
アニメには、砂絵からストップモーションまで、いろいろな手法があり、セル画式だけでも、『サザエさん』や『ドラえもん』のようなファミリーテレビ番組はもちろん、『ドラゴンボール』や『ワンピース』のような人気マンガを動かしたもの、『ベルサイユのばら』『セーラームーン』のような少女マンガ系、『風の谷のナウシカ』や『AKIRA』のようなディストピアSF、さらにはもっとタイトな大人向けのものもある。
にもかかわらず、京アニは、一貫して主力作品は学園物なのだ。それも、『ビューティフル・ドリーマー』の終わりなき日常というモティーフは、さまざまな作品に反復して登場する。たとえば、07年の『らき☆すた』の最終回第24話は、『BD』と同じ学園祭の前日。エンディングでは、あえて『BD』のテーマ曲を下手くそに歌っている。つまり、この作品では、この回に限らず、終わりなき日常に浸り続けるオタクのファンをあえて挑発するようなトゲがあちこちに隠されていた。しかし、「エンドレスエイト」として知られる09年の『涼宮ハルヒの憂鬱』2期第12話から19話までとなると、延々とほとんど同じ夏休みのエピソードが繰り返され、『BD』に悪酔いしたリメイクのような様相を呈する。
もっと言ってしまえば、京アニという製作会社が、終わりなき学園祭の前日を繰り返しているようなところだった。学園物、高校生のサークル物語、友だち話を作り、終わり無く次回作の公開に追われ続けてきた。内容が似たり寄ったりの繰り返しというだけでなく、そもそも創立から40年、経営者がずっと同じというのも、ある意味、呪われた夢のようだ。天性の善人とはいえ、社長の姿は、『BD』の「夢邪鬼」と重なる。そして、そうであれば、いつか「獏」がやってきて、夢を喰い潰すのは必然だった。
なぜ学園物が当たったのか。なぜそれがアニメの主流となったのか。中学高校は、日本人にとって、最大公約数の共通体験だからだ。入学式、修学旅行、学園祭、卒業式。教室、体育館、登下校。だが、実際のファンの中心は、中高生ではない。もっと上だ。学園物は、この中高の共通体験以上の自分の個人の人生が空っぽな者、いや、イジメや引きこもりで中高の一般的な共通体験さえも持つことができなかった者が、精神的に中高時代に留まり続けるよすがとなってしまっていた。それは、いい年をしたアイドルが、中高生マガイの制服を着て、初恋さえ手が届かなかったようなキモオタのアラサー、アラフォーのファンを誑かすのと似ている。
夢の作り手と買い手。そこに一線があるうちはいい。だが、彼らがいつまでもおとなしく夢の買い手のままの立場でいてくれる、などと思うのは、作り手の傲慢な思い上がりだろう。連中は、もとより学園祭体験を求めている。だからファンなのだ。グッズを買い集め、「聖地」を巡礼し、そして、連中はいつか一線を越えて、作り手の領域に踏み込んでくる。それが拒否されれば、連中がどう出るか、わかりそうなものだ。
『恋はデジャブ』(93)という映画がある。これもまた、同じ一日をループで繰り返しながら、主人公が精神的に成長するという物語。この話では、主人公だけでなく、周囲の人々も同じ一日を繰り返す。つまり、主人公の成長を待ってくれる。だが、映画と違って、現実は、そうはいかない。終わりの無い学園物のアニメにうつつを抜かしている間に、同級生は進学し、就職し、結婚し、子供を作り、人生を前に進めていく。記号化されたアニメの主人公は、のび太もカツオも、同じ失敗を繰り返しても、明日には明日がある。しかし、現実の人間は、老いてふけ、体力も気力も失われ、友人も知人も彼を見捨てて去り、支えてくれる親も死んでいく。こういう連中に残された最後の希望は、自分も永遠の夢の学園祭の準備の中に飛び込んで、その仲間になることだけ。
起業する、選挙に立候補する、アイドルやタレント、芸人になる、小説やマンガの賞に応募する、もしくは、大金持ちと結婚する。時代のせいか、本人のせいか、いずれにせよ、人生がうまくいかなかった連中は、その一発逆転を狙う。だが、彼らはあまりに長く、ありもしないふわふわした夢を見させられ過ぎた。だから、一発逆転も、また別の夢。かならず失敗する。そして、最後には逆恨み、逆切れ、周囲を道連れにした自殺テロ。
いくらファンが付き、いくら経営が安定するとしても、偽の夢を売って弱者や敗者を精神的に搾取し続け、自分たち自身もまたその夢の中毒に染まるなどというのは、麻薬の売人以下だ。まずは業界全体、作り手たち自身がいいかげん夢から覚め、ガキの学園祭の前日のような粗製濫造、間に合わせの自転車操業と決別し、しっかりと現実にツメを立てて、夢の終わりの大人の物語を示すこそが、同じ悲劇を繰り返さず、すべてを供養することになると思う。
まずはこの業界全体、作り手たち自身がいいかげん夢から覚め、ガキの学園祭の前日のような粗製濫造、間に合わせの自転車操業と決別する必要がある。もう学園祭は終わったのだ。休もう。番組も、映画も、穴を開けて休もう。あれだけの京アニの惨事を目の前にしながら、よりタイトな状況で黙々と規定の製作スケジュールをこなそうとしていることこそ、異常だ。こんなときくらい、京アニにかぎらず、業界の関連全社、いったん立ち止まって、仕事や待遇、業界のあり方、物語の方向性、ファンとの関係を見直し、あらためてしっかりと現実にツメを立てて、夢の終わりの大人の物語を示すこそが、同じ悲劇を繰り返さず、すべてを供養することになると思う。
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「京アニは学園ものだけ」という言説に対し、傷痍軍人の女性が戦後を生きる「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の存在意義が改めて燦然と光り輝いているという事実。劇場版も企画されており以降もシリーズ化されればそれはもう「学園ものだけ」という批判にはあたらない、はずだったのだが…。
また京アニオリジナルの源流をたどればMUNTOという異世界ファンタジーもあり、今後何が飛び出すか、その可能性は無限に満ちていた。
日本のオタク作品の大半が確かに学園ものなのは事実であるが、それは世界観の説明が容易であること、多くの視聴者が経験していて没入しやすいこと、といったアドバンテージがある、いわば「手堅い」ジャンルゆえ。
京アニは決して裕福な会社であったとは言い切れないし、またアニメ業界自体流行り廃りが激しく、そんな中で一定の収益を手堅くあげる選択をとっても批判されるいわれはあるまい。
エンドレスエイトがいまだに物議を醸す存在であるのは事実だが、話題性が1期よりは希薄になりがちな2期ハルヒを「語る」上で大きな要素になっているという点では意義のある存在ともいえるのかもしれない。
終わりなき学園祭としてひとつの象徴となった「ビューティフル・ドリーマー」、
うる星やつらが漫画版で約9年、アニメ版で約5年もの長きに渡り「途切れることなく」続いた学園ものであった記憶もあって、ことにアニメに対して古い感性の人間ほど「終わりなき青春」を延々続ける印象もあるが、
近年の製作ペースは1クール12話、月にならせば3ヶ月ほどのスパンが基準で、シリーズが続いても2クールか長くても4クールあたりが殆どで、1年を通して続くことはもはや一部の例のみで、1クールないし2クールベースの途切れ途切れの発表ペースになっている。しかもうる星が3年を超えて学生生活を描き続けたのに対し、妥当な時間経過とともに終わり即ち「卒業」があるのも近年の特徴。
しかもアニメファンは常にコンテンツの新陳代謝にさらされる中で、コンテンツの完結を一区切りとして、同じ制作会社だからといって次に提示される新コンテンツを必ず追い続けてくれるとは限らない。
1期で好評だったシリーズ物の2期ですら、1期以上に人気を得るのは実際難しい。
そしてこの御仁が憂うまでもなくアニメ自体卒業していく人間も確かに存在する。
そういった熾烈なレッドオーシャンで波間の泡のように浮いては消えていくのがアニメ制作会社の非情なる現実。
そんな熾烈な世界にあって健気に誠実に作品を作り続け、また大きな落ち込みもなく良質な作品を供給できる会社を存続させてきた、業界の良心の要石のような会社が京アニであって、それはこういう批判の俎上に上げるべき存在ではそもそもない。
事件前からかねがね用意されていたであろう「ぼくのかんがえた日本アニメ概論」をここぞとばかりに持ってきたのだろうが、世界的に見ても比類なきほど理不尽な、そして悲惨な事件に対して論じるにはあまりにも適さない代物であったと言わざるを得ない。
このケースは犯人の特性も含めて極めて異常であり、安易な因果応報的論説にははめ込めないほどの歪さ不条理さがあるのだ。いやしくも大学教授を名乗る立場にふさわしくない浅薄さであったと言わざるを得ない。
この御仁が禄を食んでいる大阪芸大は早くからサブカルチャーに特化した今やオタク御用達の大学であり、辺境にありながら高い人気を持ち続けているのはそれ故もあるのに、そこからオタク批判をすること自体、あたかも親の庇護を受けながらヤンキーやってるイキリ中学生のようであり甚だ滑稽でしかない。
まぁ一方で確かにアニメ作りすぎなのは事実であるが、それは業界全体レベルの話であり京アニを論って言う話ではない。それは数を作らないと食えないという業界構造にこそ問題があり、是正されるべきものであるのは論を俟たない。だが、かつて勇名を馳せた会社ですら粗製乱造なものも見受けられる中、ひとつひとつの作品を売れる売れないに関わらず本当に誠実に作ってきた会社を取り上げて言うことではない。まして「麻薬の売人以下」とまで蔑まれるいわれはない。
あとアニメうる星はその後綺羅星の如く多くの俊英を生み育てる土壌になり、アニメ産業及びアニメ文化の嚆矢ともなったという意味で意義深い作品であり、とりわけビューティフル・ドリーマーはアニメ制作班の若き野心とオリジナリティに溢れた傑作であったことも付け加えておく。だがそれに内包されている批判精神は今や一周回って定番になってしまい、それをもってアニメ批判オタク批判をするには「今更感」で一杯で陳腐化していることも。
最後に
人的物的、そして心理的にも大きなダメージを負い再起すらも危ぶまれる中、これからの再起を表明した八田社長と京アニには、深い敬意を表しつつ、事件前に比肩する制作体制を整えるのはおそらくまだ時間がかかるであろうとも、その行く末を見守っていきたいし、微力であれ力添えもしていきたいものである。
そして、亡くなられた方のご冥福と、負傷された方のご快癒をお祈りしつつ、件のコラムのような浅はかな批判論を払拭する新たな可能性に満ちた作品群を期待したい。それがいつになろうとも。