はてなキーワード: 字数とは
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私もまた感想文は苦手だった。
感想を書いて自分の内心を外部に晒す。苦痛、恥辱、弱点を晒す、言質を取られる、そんな感情を伴う。
今でこそ「内心の自由の侵害であり、黙秘を許さぬ虐待でしかない」と言えるが、年端も行かぬ小学生にそんな抗弁もできようハズがない。
他にも、どんなアドバイスを受けようとも「それは自分の言葉でない」「自分はそんな事は言わない」という、
頭の引き出しの中になにもないクセに、外から来るすべてを拒絶するという性質があった。
何故なら「自分で書いたモノ」と自己が切り離されず、そのような外から来た言葉を混ぜることは
アイデンティティの喪失を意味するため、拒絶するしかないのだ。
初めて「なんか適当にそれっぽいこと書いて、意識高い感じ出しとけ」と出来たのは大学1年生のときだが、
思ってもないことを書いた反動で、以来その講義のレポートは2度と出せなかった。
感想文苦手の子も、思っていること、考えていることは沢山あるだろう。
でもそれを表現するには、上述の文章くらいは自分で書ける程度の土台が必要だ。
だから、言語化するには複雑だったり多くの言葉を費やさなければならない感想であると、
時には面倒だから、或いは困難だから、「感想はない」にならざるを得ない事もある。
そもそも、ほぼそういう物語があったんだという事実認定で終わるだけで、「ふーん」だけが感想の場合もある。
だから「おもしろかったです(本当は別に何も思わなかった)」しか書けない。
「ふーん」だけではなく「ふーんそうなのかー」と思った行を見つけて何か書いておく、そうやって字数を稼ぐのが私の感想文だった。
それでも字数が足りずに行き詰まることも多々あった。
ダラダラと書いて最終的に何を言いたいということもなく、
まるで自分で意義を認められないものが出来上がった時、書いたものすべて消しゴムにかける。
増田は称賛されているようだが、こういう私のような人間には何一つ響くものがない。
読む相手を蔑ろにしなければ出来ないであろう、嘘を並べ立てる不真面目な虚言家として軽蔑する。
そんな反感を、少なくとも高校生くらいまでなら覚えていただろう。
端的に言うと、感想文を書かせるのは無理だ。
無い袖は振れない。上述でいうところの土台がない。
出来るのはせいぜいニュースなど折に触れては親の考えを植え付け、
子どもが大人になって「吐き気を催す」と捨てられるまでの間、引き出しの中身としてやることだ。
言葉、概念、思考、技術、さすがにもういい年なので、それなりに備わった。
第二に、ふーんでは終わらない内容であること。
書けないのは何より心の問題だった。
乾いたスポンジに、まだ数滴の目薬しか垂らしていないのに、一体そこから何が絞り出されるのか。
真に琴線に触れたのならば、心から滲み出たものをそのまま文にしたためることも出来ようが、
何とも思わなかった物語に対して、架空の心を生み出して代弁させるのに必要な精神機能は、
だが、仮に「アメリカは〇〇人の国である」という穴埋めがあったとしよう。
感想がないこと、言い表せないこと、それが混沌な状態であっても「そのままであること」が物語の正しい姿であるのに、
100%正しい表現ではない言葉で決めつけてしまうと、自分の心の中にある物語が壊れ、損なってしまう。
子ども心にそれは悲しいことで、感想を書けなかった記憶もある。
もはや感想というよりは随想であるが、元増田のように書くには余程精神が活性でなけれれば出来ないだろう。
一応事前に決めたプロット通り書き上げたので、増田に感想を記すよ。
分量は25000字くらい。倍くらいにはなると思ってたけど、わりと字数って稼げないもんだなと思った。
◆圧倒的掘り下げ不足
プロットを書いたあと、人物像もある程度掘り下げてから書いたつもりだったけど、いざ書き始めたら掘り下げ不足に泣いた。
ちょっとした会話でも、何でそんなことを言うんだろう、どうしてこんな感情を抱くんだろう、なぜあんなことをしたんだろう…と主人公のことを突き詰めて考え始めると、やっぱり全然掘り下げが足りないのね。書き進めるごとに、自分の書いているものが本当に薄っぺらで、深みがない文章であることに気づかされて泣けた。やめたくなった。
なんとか完成させたけど、これは結局なんなんだ。25000字のゴミといってもよい。つらい。これからもっと掘り下げして加筆しないと。
◆圧倒的バッドエンド
最後、主人公に救いを用意するつもりだったのに、私の筆力不足で絶望に沈んだまま終焉を迎えた。というかプロットもバッドエンドではあったのだが、意図したよりもっと陰惨としてしまった。あと、書いているうちに救ってあげたくなってきたのだ。
ごめんよー!救ってあげられなくてごめん!
なんとか救ってあげたい。とってつけたような感じじゃなくて自然な流れで。
ここも加筆してなんとか救わないと。
◆圧倒的自分の話
主人公、意図しない部分で超いやなやつ感が出てるな、と思ったら全部自分だったよ!
というか登場人物全員自分!そんで全員クズ!読み返すと超はずかしい。やだー。
ごめん!きみたち何も悪くないんだ。単に私の性格が悪いだけなんだ。本当にごめん!
加筆修正頑張るよ。
25000字のゴミと言っても初めて完結させた小説だから嬉しいよ。
あと自分の10年分くらいの経験が詰まっているようで、気持ちの整理になったよ。
だからこそ救いのある結末にしたい…うう。
ある友人に我慢できず、他の友達に話すのも気が引けるので筆を執ることにした。
私の自分語りを多分に含んだ愚痴のような物なので、肩の力を抜いて読んでいただければ幸いだ。
私はしがない字書きの大学生である。中学生の頃には仲の良い友人二人と、自分たちを模したキャラクターを架空の世界の中活躍させる創作を交換ノートの中でやっていた。元々絵を描くことも好きだったが、どう足掻いても上手く描けないことに諦めを感じ、気付けば文章ばかりを書いていた。
高校に入ると文芸部に入った。入部届けを提出するまで、入ったことは親には黙っていた。シンプルにそれまでやっていた吹奏楽に嫌気が差しただけなのだが、高い楽器(丁度自分の貯めていたお年玉やらお小遣いやらの全額程度だった)を買ったというのに吹奏楽を続けなかったので、父親は後にも先にも無いほど激怒した。当時の私は相当にショックを受けたが、まあこれは関係の無い話なのでやめておく。
とにかく文芸部に入ったのだ。正直本当に楽しかった。気の合う友人もできた。文学という架け橋が無かったら話すことも無かったような、私とは系統の違った部員と一冊の本を作るのは刺激的だった。空が白んできても何も浮かばず空虚な日の出を見たり、締切の為に定期テストそっちのけで徹夜をしてキーボードを叩いて編集をしたり、高校生なりの熱量で部活を、書くことを、“創作”を、楽しんでいた。
恐らく想像がついている方もいらっしゃると思うが、私はオタクである。とはいえ、二次創作をイラスト等の投稿や閲覧が楽しめるSNSに投稿を始めたのはつい最近で、それまでは内輪のオリキャラでの創作小説を書いたり、時には友人を主体にした夢小説を書くこともあった。
そんなこんなでここの所二次創作を楽しんでいる私であるが、どうにも腑に落ちないことがある。
端的に言ってしまうと、あまり好かない友人がいるのだ。彼女は高校1年生の頃からの友人で、ありがちな書き方ではあるが彼女をAと呼ぼうと思う。(A以外にアルファベットは出てこないので、特に気に留めて置く必要はない。)
Aは自信家だった。帰国子女のAは英語を始めとして成績優秀で教員にも好かれる模範的な生徒だった。本人はそれを隠すこともなく、「私は天才だから」「と言うより、努力型の秀才なんだけどね」と言ってのけていた。努力を惜しまない姿勢は素晴らしいし、怠惰な私は純粋に尊敬したが、その努力をひけらかす行為はいただけなかった。受験期にはキーワードをページいっぱいに書き連ねたノートやボロボロになった単語帳を常に持ち歩き、志望校の赤本まで隠さず机の上に置いてあった。私は「落ちたら恥ずかしくないのかな」とぼんやり思っていたし、本番当日にもAは「Twitterしてる場合じゃないけど不安 報われなかったらどうしよう」だの「爆死」だの呟いていたが、最終的にAは無事合格し、その大学へと進学した。
思うに、Aはオープンな性格なのだ。未だにTwitterの鍵垢同士で繋がっているのだが、課題の進捗やらをよく呟いている。「自称天才だから(オンデマンド)授業明日の分全部受けてレポートまで書いた」「虚しいから労って(レポートの画像)」などなど。活きの良い大学生である。
さて、本題から離れてしまったが、私がお話したかったのはAの創作についての話である。
実はAは高校在学中から一次創作を嗜んでいた。Aはもう一人の友人とタッグを組んで自作のゲームを作ろうとしているようだった。所謂ファンタジー物で、次々とキャラクターを生み出してはストーリーの核となる部分を練ったり、キャラクター自身の掘り下げをしていた。
なぜ私がそれを知っているのか。それは彼女が片っ端からTwitterに放流するからである。興味が無いので完全にスルーしていたが、AやAの周りの友人はいつもAの生み出したキャラクターの話をしていた。
彼女はゲームのシナリオとなるその“創作”の本筋を書いて、もう一人の友人は立ち絵や背景を書いていた。
Aのそんな旨の呟きをよく見かけた。
そのうち、Aの周りにいる友人は、そのキャラクターのイラストを描き出した。漫画にせよ小説にせよ映画にせよ、ストーリーを追ううちにキャラクターの個性を見出す私にとっては、設定や性格が書き連ねられた一枚絵を見せられても特に何も思わなかったが、友人たちは違ったようだ。確かに毎日それらのキャラクターの話を聞いていれば興味を持つのも自然だろう。
最初こそAは大いに喜んでいたが、そのうちさして大きなリアクションをとらなくなっていった。そのうち、「おまえらのファンアート15溜まったら本編まじで進めるわ、ケツ叩いてもらわないと無理かも」といった旨をツイートしていた。
Aとタッグを組んでいた友人は、徐々にTwitterに浮上しなくなっていった。その代わり、Aは自分のことを“字書き”と自称することが増えて、ゲーム制作の話は一切しなくなっていった。
Aはよく産みの苦しみの類いのツイートをする。
そう言って一通り喚き散らした後、「やっぱり今日は書けないから寝よう」と言って日付の変わる前には就寝している。
なるほど、AもAなりに書くことを楽しんでいるようだ。いつか自分の創作を完成させて、それが大々的に二次創作される日を夢見ているらしい。丁度今、絵の上手い他の友人に描いてもらっているように。
四の五の言わずに書けよ。
一発当てたいなら本気で完成させろよ。
甘えてんのか。
もちろん私は今の文壇をリードするような大作家でもなければ、新進気鋭の小説家でもなんでもない。しかし、Aよりも文字を書くことは数こなしてきた。適切な表現が思い浮かばなかったり、心苦しくても大部分を削除してエンディングを書き直したり、寝食を忘れて夢中になって書いていたこともある。もちろんそれが重要なことでないこともわかっている。
「わたし、○○(私の本名)ちゃんのことすごいと思うよ。文芸部に入ったら、締め切りとかそういう重圧で死んじゃいそうだもん。自分の好きな物上手く書けなそうじゃない?」
私はこれに何と返したかは覚えていない。しかし、文芸部は私に書き終えることの大切さを教えてくれた。
オープンな彼女は書いている最中の苦しみを漏らすことを抑えていられない。しかもそれをやたらと文学的に表現しようとする。浮かんでこない、降ってこない、突然書けなくなる……、そういったありきたりの表現で。Aはやたらと“創作”や“小説”という言葉を使いたがった。自分が今しているのは“創作”で、“小説”を書いている。その行為に酔っているように見えた。けれど言葉が固くなってはいけないと思っているのか、進捗状況が載ったスクリーンショットに映る文はなろう系を模したような劣化させたような文体なのである。
「私の文幼稚なのはわかってるんだけど、かっこつけた描写はしたくないな。児童書目指してるし」
子供が読みやすい文、単純に砕けた文、そして口語ばかりで仮名遣いの怪しい文。難解な表現を使うことと、状況を説明するために上手く言葉を組み立てること。これらは明確に分けられていると思う。斜に構えた描写を、子供には解しがたいと思っているのだろうか。私は自身の素の書き方がかなり固いこともあり、まるで自分が“かっこつけた描写”をしているような気がしたこともあり、なんだか頭にきてしまった。
また、数日後にはこんなツイートもあった。
「承認欲求足りな過ぎて手っ取り早く誰かに褒められたいけど、二次創作は書けないからなぁ」
私は、自分の書いた二次創作を「承認欲求を得るための行動だ」と言われたように感じたのだ。書いた物を貶されるのは嫌だけれど、書く動機をAのようにあからさまに「誰かから評価されるため」にすり替えられるのが耐えられなかったのだ。ネットに公開している以上、何らかの反応があることはもちろん嬉しい。しかしそれ以上に、頭に浮かんできたシチュエーションを練ってひとつの話を作ることが楽しいのだ。
今思うとAはそこまで考えて発言したように思えない。恐らく私の考えすぎだ。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いし、何を言ったかより誰が言ったかが気になる質なのかもしれない。
SNS上でのAとの繋がりを消そうにも、そのアカウントには共通の友人が多く、彼女たちが気を利かせて私の転生後のアカウントをAに伝えてしまうことは想像に難くない。かと言って「繋げないでくれ」とあからさまに嫌う素振りを見せて友人関係にヒビを入れたくもないし、ログアウトしてしまうと他の友人の呟きまで見れなくなるのも寂しい。そういうわけで今でもAとはFF内で、表向きは仲良くやっているわけである。
さほど苦ではない。しかし確実に自分がストレスを感じていることはわかるので、いつか縁を切ろうと思っている。
結局これはさして大きな問題ではなく、周りからチヤホヤされている人間を妬ましく思っている私の醜さが露呈しただけなような気がしたので、この辺で筆を置いておこう。自分の“創作”のスタンスに口を挟まれて気分を悪くするのは、私自身もそうだから。
インターネットに、いや現実世界でも、人間は多数の人格を持っている。
これは別に多数人格者の話ではなく、一般的な人間としての話で。会社、家、家族、友人、恋人。どんな形であれ私含め色々な人は色々な人格を持っており、その人格を扱って生きている。
と、いう話が昔習った社会学だか心理学だかの授業であった。人格や顔を使い分けることで生きやすくしているらしい。
話は変わるが、私は様々なSNSでアカウントを複数持っている。
Twitterは4~5つ、Pawooで1つ、pixivは2つ、その他諸々。それぞれが交わったり交わらなかったりしながら、適当に更新する日々が続いている。
というのも私は絵を描く人間で、多少なりとも人気のあるジャンルでいわゆるちょっとマイナーかな?くらいのキャラ2人組を永遠と描いていた。
漫画、イラスト、小説、立体造形。時にはゲームも作ったし、グッズを作り1人眺めるという行為も何度もしてきた。だがその中で、どうしても物足りなさを感じるときがある。
だが、絵を描いている人間であり、同じジャンルで活動しているとすれば絵柄で私かどうかわかってしまうのは当然であり、それはまあ避けたいということで小説に手を出した。
先述した通り元の私(仮名:A)は小説も書いている。突発的に思いついた内容を文章にしたためpixivに放り投げた。だが、何度投稿しても何度書き上げても、その字数は毎度1000字程度までしか書くことができなかった。1000字程度で勝手にオチが付いてくる。起承転結が纏まっており、気に入った文章でもあるのだが、pixivで何度となく体験した「どれだけ読んでもこの2人の話が終わらないよ~~!」「スクロールバーが小さくて沢山文字があって嬉しい~!」「この小説1万字あるの!?いつまでも読めるな…」みたいな経験を私の小説で味わうことが出来なかった。
そこで、新しくpixivのアカウントを1つ開設した。(というより、その前に出した同人誌に私の友人という体で一度小説を寄稿した事があるが)このアカウントの私をBとすることにしよう。
Aとは中学生の時に出会い、高校からは別の学校へ。だがAとはたまに遊ぶ程度の友人で、小説を好み、眼鏡をかけており、国語や数学が得意で、家からの近さで選んだ大学に通っており、文章を書くのが好きだがそれをどこかに発表したことはなく、Aに誘われAの好きな2人組にハマり、Aの出している同人誌に小説を寄稿したらAから褒められ、そのままAに乗せられてpixivに登録。Twitterには怖いというイメージを持っており登録していなかったが、まぁ近日中に登録してもいいかなと思っている。
これが存在しないBの人格です。存在しませんが。Twitterなどの場でBについて言及する時やBがTwitterをするとしたらこんな人間であるとするための人格。
改めて文字に起こすとやばい幻覚を見ている人の日記みたいになっているなとは今思った。
それはさておき、この設定を適当に練り上げ、pixivも登録し、Bとして改めて小説を書き上げた。
一番初めに上げる小説。いつもと同じくらいの時間をかけ書き上げた小説は、いつもの2倍程度の文字数を持っていた。
文字数にして2400字程度。そんなことあるんだというのが正直な感想である。
あくまで私はBとして小説を書いているので、(まぁ多少日本語が似ていても)文体は変えて書いているつもりであり、小説をパソコンを使って書いた結果がこれらしい。
人格によって文章量が変わるということはあるのだろうか、というのがこの日記の本題である。
文章自体を書くことは好きで、Twitterでも適当な文を毎日ぽいぽいと投げているし、今回の日記も気が付いたら案外多く文章を書くことになった。人格Aで小説を投稿したころより小説も沢山の種類を読むようになったも事も案外関係しているのかもしれない。
ただ、Aとして書いているときよりも文章としての表現の仕方や台詞の書き方が変わっているし、なにより文章量を増やすのに苦痛を感じない。
Aとして書いているときは、元々900字くらいの小説をなんとか伸ばせないかと検討して1100字程度に増やしていた。だが、Bとして書いた小説の2作目は、作品の途中(4割程度)にもかかわらず3000字を優に超えている。
もしかするとBを小説を書く為の人格だと思っている故に小説を書くという気構えが無意識に出来ており、それが理由で文字数も増えていくのかもしれない。
余談だが、私はAとして日記を書く場合はスマートフォンで書いている。
機器により内容は変わるのかもしれない。次はスマートフォンでBとして書いてみようか。
それにしてもすごい文字数の日記になってしまった。ここまで読んでくれた人には感謝の念を伝えたい。
おまけ
私の推し(生きている)は自分のついた嘘が嘘ではないという記憶の下友人の話をしていたことがあったし(先日それが嘘だと分かり「へぇー…」と他人事のように一瞬納得していたのが印象的だった)過去にもTwitterでは「娘が1人いるという嘘をSNSでついていたら気付くとその存在しない娘との思い出がふと出てきて怖くてその娘の話は二度としなくなった」という話も以前耳にしたことがある。いや娘かどうかは覚えていないが。
今の私は大体嘘をついてSNSを生きており、そもそもの人格Aですら事実に嘘を混ぜてSNSに書き込んでいるし、人格Bはもう存在しない人間を作り上げて活動している。
小さな嘘はどんどん自分に降り積もる(らしい)し、今の私は割と中核~大きなサイズの嘘で作られたSNSをしている状態である。
某所で連載小説やってるとき(増田には一度も出してないから間違うなよ)
新作アップしたりちょっと前あげたけど気に食わない部分を訂正したときに
数分以内に(字数などをみて)気づいてくれて
即座にツイッターで「〇〇が××になってた!こっちのほうがたしかにぐっとくるぜ!」みたいなガチ気に入った系感想くれる人がいて
調子にのって表紙かいてって頼んだら書いてくれたので本にして売って過疎ジャンルにしてはまあまあ売れて楽しかった
ただしそういうのを書ける時期ってのは人生でかなり限られてる時期だけで
夜ふかしして資料を下調べする余力があったり、お金とひまもあったり、
たまたまジャンルが自分好みでそれが苦にならないだったりしないと無理
実際自分もここ数年何一つ絞り出せなかった無理無理無理無理
ちなみに第一話が8000閲覧で第四話で第四話が2000閲覧とか
全然バズってないっちゃそうなんだけどな
さて、後半やるか…。なんかもう嫌になってきちゃうな。ここから先、自閉症はおろか発達障害さえ出てこない代わりに、「男らしさ」がマジックワードとしてメキメキ頭角を現してきます。「男らしさ」の指標は論文によって様々であり、その点にrei氏は意識的かどうかは怪しいところですが、少なくとも段落ごとに「男らしさ」の内容が変転していきます。では読みましょう。
知らんがな。次。
テストステロン値の高い男性は顔の横幅が広くなる傾向にあり、テストステロン値の低い男性は顔の横幅が狭くなる傾向にある。そしてチー牛の元となったイラストの男性も面長であるが、先進国の女性全般に「面長の男性らしくない男性を嫌い、横幅の広い男性らしい男性を好む」傾向が確認されている。例えば、米国で若い男女を対象としてスピードデート研究を行ったところ、男性の顔つきの男らしさが短期的な関係に対する女性の関心の差異の34%を説明していることが示された。
https://ink.library.smu.edu.sg/cgi/viewcontent.cgi?article=2727&context=soss_research (論文d)
スピードデートっていうのはいわゆる婚活パーティ。この論文dでは、顔つきの男らしさを、テストステロンに影響されると考えられている顔の縦横比で表しているみたいです。多分婚活パーティでの女性の反応と男性の顔の縦横比の関係を調べたんでしょう。で、rei氏は"先進国の女性全般に「面長の男性らしくない男性を嫌い、横幅の広い男性らしい男性を好む」傾向が確認されている。”と書いてますが、この主張の出典はどこですか?論文dの先行研究に触れてる部分にもDiscussionにも、国の発展度合いは女性の嗜好と関連性がある、といった記述は見受けられません。関連性が本当はあるのだとしても、米国内の研究だけを例に挙げて、"先進国の女性全般に"と言い切るのは流石に通らないです。もっとも、顔の縦の長さや横の長さが女性にとってなんらかの関心を引く要素の一つであることは間違いなさそうです。これはさすがに誰か気づいて指摘してるだろうと思うんですけど、この論文dを出したのは米国の大学ではなくてシンガポールの大学なんですよね。ざっと見た感じ、アメリカで行われたともアメリカ人を対象にしたとも書かれてません。次の段落に移ります。
論文eの題は"Dominant looking male teenagers copulate earlier.”、和訳すると支配的な見た目の10代の男子はより早く性交する、ですね。このリンクをクリックしてもらうとわかるんですけど、Abstract(要約)しか書いてません。本文はどこでしょうか?試しにCitation(引用)って書いてる下のあたりのリンクを踏んでみましょうか。でもやっぱりAbstractしかありません。実は、論文ってタダで読める訳じゃないんです。検索して出てきた論文を読みたいと思っても、お金を払って電子ジャーナルや学術誌を購読しないと読めないことが多々あります。大学生や研究者の場合、基本的に大学が代わりに費用を負担しているので割り当てられたメールアドレスを使えば無料で読めます。私も大学のアカウントでサインインして読みました。大学生や研究者でなくても大学図書館に行ってコピーすれば印刷代はかかりますが、可能でしょう。しかしこのご時世、ほとんどの大学図書館は解放されていませんでした。以上を踏まえると、rei氏は電子ジャーナルを個人購読していると考えられます。なんと素晴らしい心がけ!一般企業勤務年収700万の会社員であるrei氏が支払う購読料で出版不況に喘ぐ学術誌業界はきっと大助かりのことでしょう。みなさんにこの感動を伝えたいあまり、すっかり前置きが長くなってしまいました。では論文eの内容を概説します。
アメリカの7thGrade、8thGradeの男の子、日本で言えば中一中二の男子に対して、男子の性行為経験の有無、身体の男性的成熟度、リーダーっぽい支配的印象の程度、イケメンな印象の程度の四要素間の相関を統計的処理にかけて調べました。その結果、身体の男性的成熟が進んでいて、支配的な印象を与える、イケメンな男子ほど性的活動が活発な傾向があると判明したそうです。
論文eは捉えがたい「男らしさ」を多面的に定義づけ、そして「男らしい顔つき」の男子はより早く性交渉する機会があると分析したわけで、なかなか面白いなあと思ったりするんですが、それをrei氏は"顔つきの男らしさは童貞卒業の早さを予測する因子であることが示唆されている”の一行で済ませてるんですよ。まとめ方が雑。情報取りこぼしすぎ。ちなみに論文eによると支配的な顔つきの男子やイケメンな男子は眼鏡をかけていない傾向があったそうですが、この記述から、眼鏡をかけているチー牛顔の男子は性的経験に乏しい、とまで言えるのかどうかは正直よくわからないです。次の段落に移ります。
しかしながら、チー牛顔がここまで忌避されるのは「豊かな先進国だから」という事情もある。たまにインターネットでは「所詮この世は弱肉強食強ければ生き弱ければ死ぬ」みたいな事を言う人間がいるが、この世は弱肉強食ではなく適者生存であり、また社会が豊かで平和だからこそ、そのように言ってられる面がある。人間は戦争や災害時など本当に弱肉強食な環境下では、所謂「群れ」になる。そして野生動物の群れを見れば分かる通り、群れ内では弱肉強食の摂理は働かず、互助や相互監視や役割分担といった形で群れ内は「平和」な形になる。これは考えれば当然の事であり、本当に厳しい環境下において同じ種で争っている場合ではない。要するに個人主義は社会が平和である事を前提とした価値観なのだ。
色々トンチンカンなこと書いてるrei氏のこのnoteで、最も意味不明な箇所がここです。何を言いたいのかマジで把握できなくて、読むだけで一時間くらい費やした。ここまで可読性が低いのはいくつか理由が考えられて、まず接続詞がおかしい。段落頭、「しかしながら」は逆接の接続詞のはずですね。前の二段落でrei氏が言いたかったであろう主張は「女性は男らしい顔を好む」のはず。しかしながら、この段落では突然、「平和な社会状況であることが人々の行動に与える影響」の話が出現します。新規情報です。新キャラです。「しかしながら」の前後で予想を裏切るような意味内容の反転は生じていません。もう一つ指摘するとすれば、対立軸が不明確な言葉遣いである点。「先進国」ときたら「発展途上国」、「弱肉強食」ときたら「共存共栄」、「個人主義」ときたら「全体主義」もしくは利己主義の逆という意味で「利他主義」。こうした対義語にリードされてあっち行ったりこっち行ったりしながら議論を進めていくのが一般的なリズムな訳です。現代文の定石です。ではもう一度読んでみましょう。
……………。何が書いてあるか、何を主張したいかわかりましたか?私にはわかりません。とりあえず”この世は弱肉強食ではなく適者生存"の部分に着目してみましょう。なにやら進化論じみた雰囲気がしますね。弱肉強食と適者生存、進化論については、科学史や哲学史関連の書籍を出版している吉川浩満氏のインタビュー記事がとてもわかりやすかったので、ちょっと長いですが紹介させていただきます。
https://synodos.jp/science/17264
この記事によると、弱肉強食を世界認識モデルに組み込んでしまうのは素人あるあるらしいです。rei氏も度々モテ/非モテ論の文脈に位置付けられる文章を書いていましたね。インタビュー記事は続いて「適者生存」概念の歴史的経緯へとトピックが移ります。吉川氏によると、ダーウィニズムは進化の目的や生物の序列を認めない立場なのだそうです。そして、絶滅を免れて生き残った生物種のことを適した生物、すなわち適者であると定めましょう、というダーウィニズムの考え方を端的に表すスローガンこそが、「適者生存」なのです。生存する者を適者とみなす「適者生存」とは、ダーウィニズムにおける議論の出発点にすぎなかったんですね。これをひっくり返して飲み込んでしまうと、お前は適者でないから生存できないんだ、俺は劣っているから勝負や競争に負けるんだ、となってしまいます。これはよくない、本当によくないですよ。優生思想ど真ん中、ナチスドイツの大虐殺。そんでもってこれがrei氏の手にかかると非モテだから結婚できないんだという同語反復に陥っちゃうわけです。
わかりましたか?rei氏は語の意味をまともに調べることすらせず、雰囲気だけで文章を練り練りしてるんですよ。キリがないんで次行きますね。
それは異性選好においても同様であり、34か国の異性愛女性4483人のサンプルを使用して、社会的、生態学的、経済的変数が女性の顔の男らしさの好みをどのように予測するかをテストするかを調べた研究では、国の健康指数と人間開発指数が高い国でより強くなると報告された。男らしい顔に対する女性の好みは、子孫の生存率が高く、経済状況がより好ましい条件の下でより強いことを示している。
アッ!前段落の最後の部分、"要するに個人主義は社会が平和である事を前提とした価値観なのだ。”の意味がわかりましたよ。社会が危機的状況に陥っているときは生存を目指して仲良く男女協力して生殖に励むけれど、現代の平和で裕福な先進国ニッポンにおいて女性は利己的に振る舞うために男性的魅力に乏しいチー牛顔の人々は選ばれないのだ、ってことですね?世が世なら俺たちには女があてがわれるはずだった、でも時代がそうさせなかった、とrei氏は言いたかったんですね?うぅ、頭がクラクラしてきた……。いや、確かに人間は動物の一種だけどさ、何もそこまで野山の猿やジャングルのゴリラと同一視するのはやりすぎでないか?なんだよ、"男らしさの好みをどのように予測するかをテストするかを調べた研究”って。日本語になってないじゃん……。
https://note.com/hiroko_yayane/n/n7970f9279b51
6/17追記 ↑リンク先が謎の理由で消滅していましたが、新しく書いて頂いたみたいなので貼り直しました。
そして男らしい顔つきの男性は攻撃性、不正行為、自己中心的な衝動性、欺瞞、搾取的行動など「所詮この世は弱肉強食」マインドを持つ傾向があることが示唆されている。要は豊かで自由で安定した先進国になるほど優しい男性はモテなくなる傾向が存在するのだ。
論文gでは、顔の縦横比と攻撃性の関係しか見てません。先進国の話もモテ/非モテの話もしてません。"要は"以下の部分は導けないと思います。
それにnoteのタイトルは「何故、我々は三色チーズ牛丼顔なのか?」でしたが、なぜか結論は「先進国ほど優しい男性はモテなくなる」に着地しているんですね。
話がめちゃくちゃズレていってるんですよ。rei氏もそれに気づいてないんですよ。
でね、ようやく全部読み終わったと思うじゃないですか。まだ喋らせてください、まだあるんですよ。この記事本当にすごくて、本文の下にあるコメント欄を見てみましょう。
https://www.nature.com/articles/s41598-017-09939-y#Sec17 (論文x)
ま〜た何をどう修正したのかよくわからん論文のリンクが貼ってありますね。
私が読んだ時には既に修正されていたんですが、他の方のツイートによると、もともとrei氏は、コルチゾール値が高くなってテストステロン値が低下するから発達障害男性は「男らしくない」顔つきになるという論証の根拠として、結論が真逆の論文を引っ張り出していたみたいです。
https://twitter.com/reefedgeswim/status/1265592680915931136
この論文xは、タイトルの「ASD男児及び女児における顔面形態学的な超男性化傾向と症候学との関連」からわかる通り、一番最初に読んだ論文aの結論「ASD男性の顔は両性具有で男らしくない」とは反対のことが書かれています。時系列的には論文aの方が先で、論文xは後。そしてDiscussionの中で論文aと相反する結果について考察しています。その考察によれば、論文aの実験2の対象として選ばれたのは二十歳前後の男女であるのに対し、論文xの実験対象は三歳から十二歳の児童であることが重要な違いを生んだ可能性があるそうです。思春期の間に男性は血清中のテストステロン値が女性と比べて爆発的に増加します。この思春期におけるテストステロンがなんらかの働きをしたせいで相反する実験結果が出た可能性がある、というわけです。しかし、これまたややこしいことに、成人の顔の形に関して出生前のテストステロンが与える影響の方が出生後のテストステロンが与える影響よりも大きいとする論文もあるそうで、研究者の間でもどちらがどうだと確定的な結論は出ていないっぽい。
文章の誤リンクの件に話を戻しましょうか。可能性の話をしますが、数多くの論文を渉猟しているrei氏のことですから、貼りたい論文と題が似ているのを間違えて貼っちゃったのかもしれませんね。訂正前の論文のタイトルは"Hypermasculinised facial morphology in boys and girls with Autism Spectrum Disorder and its association with symptomatology”で、訂正後の論文は"Enhanced Cortisol Response to Stress in Children in Autism”です。Autismとin、二つも単語が重複してるじゃないですか!論文のタイトルは全体の要旨を簡潔に書き表したものですから、その中の重要な単語が二つも同じであれば、内容が近い論文だったような…と曖昧な記憶が生成されてうっかり取り違えてしまうことがあってもおかしくないでしょう、とでも言うと思ったか?ちゃんと論文読み込んでるやつがこんな凡ミスするわけねえだろ。だいたいさ、何が正しいのか誰もわからない研究のフロントラインで色んな科学者が仮説を立てて検証してディスカッションしてるような事柄の、おそらくこうかもしれない、って部分を、論文だから百パーセント正しいんだとピックアップしてるのありえん不誠実でしょ。今後まだまだ検証の余地があるって書いてあることを揺るぎない事実として取り上げちゃってるってこと、わかりますか?
reiさん、あんまり疑いたくないんですけど、本当に論文読んだんですか?
rei氏の書く文章、noteでもtweetでも、どういう意図なのか全くわからないけど、ほぼ全て漢数字が半角数字に置き換えられてるんですよね。でも恐ろしいことに、このチー牛顔を取り上げたnoteでは、3色チーズ牛丼顔と書いてないんです……。
10年前ってどんなこと話してたんだろうなと思って
https://anond.hatelabo.jp/archive/201006
「キュッキュッキュー☆」
聞いていると喉の奥が胃液で痛くなってくる。
リズムが単調で歌詞の字数がぴったりはまっているところから、意図せず発した言葉が五七五になっていた時のような恥ずかしさを感じる。
「ハッハッ歯ー!」
笑い声と歯をかけているのだろうけど寒いギャグを聞かされたような気がして震える。
「シュッシュッシュッ♪おおきくお口」
「ピッカ〜ン!」
なぜか腹が立つ。
全体を通してはなかっぱのドヤ感が強くて見ていられない。
あるところで議論をしようとするなよお前ら。Twitterもはてぶもダメだ。
まともな議論には字数がかかる、それは議論の細部を埋めるのがものすごく大変だからだ。あらゆる事柄には例外がつきものだから、それらをカバーしようとするだけで字数が伸びる。論旨そのものが込み入ってる場合はもっと伸びる。100文字やら140文字やらで議論は無理だ。
Twitterなら連投すればいいという意見はあるだろうけど、あれはほとんどの人が最初のツイートしか見ないので議論にならない。
なんかいい感じの、最低文字数制限があるような議論プラットフォームがあればいいのかもしれないが、流行る気がしない。多分古き良きブログがなんだかんだ一番まともなんだろう。アメリカだとMediumとかまさにその意図だったはず。
怖くて書けないというか、字数が多くて書けないわな。
(追記:あなたの批判記事に付いたブコメを見ると「私は今でも反対だ」系のコメントに賛同が大量に集まっており、反対を「少ない」と思ったのは私の思い違いだったようだ。)
ブコメで済ませたかったのだが、書ききれずこちらに返答しようと思う。
「一斉休校に反対すること」
はイコールではないということだ。
「やることなすこと遅いし思いつきで社会を混乱させることばかりで本気で無能。準備せずにチャーター機で迎えに行くとか感染者を公共交通機関でリリースとか。来年度予算コロナ対策費0円。疎開で祖父母に感染ありそう 無能内閣 安倍晋三 自民党 バイオテロ内閣 貯金0家庭は? 片親家庭は?幼児は? 1ヶ月何してた?宴会 法的根拠は?予算は? 準備してからやれ」
これって
と言い捨てられるのだろうか。主張は「1ヶ月何してた? 準備してからやれ」ではないのか。
他のコメントについてもそうだ。最初に書いたとおり「唐突な一斉休校に対してその影響についての懸念」と「一斉休校に反対すること」は違う。そういうのは言ってみれば藁人形論法だ。
私などは当時、後手になったのを挽回する為に急な決断になったこと自体には理解と安堵の意見が多いものと予想していたので意外だったが、基本的には件のブコメに書いたように「後手後手だったから」批判されているのがほとんどだと思う。
たしかに「記憶の書き換え」というのは紋切り型の雑な揶揄で字数が少ない中つい使ってしまったのを反省したい。正確に言うと「批判」=「反対」と思ってしまう人には記憶を書き換えるまでもなく、最初から反対派が多数であったのだから。
それから以下で言われてることについて
で、bumble_crawl さんさあ。
あんたの出した記事は相当わざと操作しないと出てこない記事だよな?
発表当初の反応なんか人気順でソートして日付を気を付ければ間違いようがないんだよ。
わざわざこんな2日後の、反応も少ない、別の主題の記事を持ち出したのは故意にインチキを図ったよな?
インチキを認めたくなければ
一応言っておくと、「https://bit.ly/2AvsDkw」というようにgoogleで一斉休校の周辺1週間くらいをソートしてトップに出てきたのがあのページだ。この記事を書き始める直前まで再現されたが、なぜか今やるとあなたの引用したページがトップで私のはトップどころかどこにも出てこない。まあ私が検索能力共にくだらない人間なのは事実なのでインチキで構わないが、ブクマ数400オーバーは充分人気記事だし一斉休校についての会見なのに「別の主題の記事」というのもよく分からない。発表直後の脊髄反射的なページしか許さないというのもどうだろう。2日後で何が変わったのだろうか。
ちなみにその脊髄反射的なページはさらにメタブクマされていて、そちらには次のようなコメントが人気に並んでいる。俯瞰して見た休校自体への賛否は私はこちらの方がよくあらわしているのではと思う。そしてやはり「批判」を「反対」と読み違えている向きが多いように感じる。
おとといの基本方針で「一律の自粛要請はしない」と言っておきながら翌日と今日にすっかりそれを覆してるから場当たりとしか言えない。1か月前にすれば効果あったかもしれないけど、何もかも遅い&急すぎ。
たとえば基本方針に学校を閉鎖すべきと書いてあって、先週末あたりにこの話が出てきたならそこまで大きなショックは受けないよ。準備期間がなさすぎる。こりゃ日曜までにスーパーから商品が消えるな
数日前には政府基本計画が思い切った対策になっていないと非難轟轟であったのに、いざ自らの身にその「対策」が降ってくるとコレである。呆れるほかない。
あれだけ日本の対策は甘いと言っておいて他国と同じことしたらこれかよ…。満員電車にしても「禁止しろ!(俺は乗るけど)」ってことなんだね。ひどい話だ。
ブコメのこの反応は意外…北海道の臨時休校で親が子供見れないって道新の記事のヤフコメでは逆に親の方がぶっ叩かれてた。ヤフコメ民もそこまで言うことねえだろと思ってた矢先のはてながこれという
無意味な策だ、とは言わない。只段階を踏むべき策ではあった。食料の消費が増えるから、急に大量に買い込まないといけなくなったりするし。これよりか経営者に始業時間ずらせと言った方が支持されたと思うで
[B! 医療] [B! COVID-19] 全国の小中高 臨時休校要請へ 来月2日~春休みまで 首相 | NHKニュース
私はしがない字書きだ。ドマイナーなジャンルで細々と字を書いている。比較的男性向けのジャンルだが女性のファンも多く、イベントがあるとサークル参加する人の割合は女性の方がかなり多いと思う。
そしてありがたいことに小説もそこそこ読んでもらえるようで、本を出せばそれなりに出る。小説本を出す人も少なくない。匿名の記事で時たま見かけるような、「字書きには人権がない」みたいなことを感じたことはあまりない。時々絵師の言葉の端々から「あぁ字書きのことを下に見てやがるな」と思うことは全くないとは言わないが、比較的温かい雰囲気の中で書かせてもらっている。
絵師様に挿絵や表紙を依頼しても嫌な顔をされることはあまりないし、光栄なことにコラボをさせてもらうことも時々ある。
そんな中で、私が感じたことをつらつらと書かせてもらいたい。
これに限る。
コラボをさせてもらう。字書きの私からすれば、自分では逆立ちしたって決して描けない神絵がやってくる。
そりゃもう持てる語彙すべてをフル回転してその感動を伝える。いやだってほら、こんな素晴らしい絵を描いてもらってる。しかも自分のために。
自分の話を元に描いてもらった神絵、もしくはその神絵にこれから自分が話を付ける権利を有している。こんなに嬉しいことはない。
テンションも上がる。絵をほめちぎる。なんなら褒めているという感覚はほぼない。自分の心の奥底から湧いてきたこの感動を言葉にしているだけだ。
そしたら、絵師様もとっても喜んでくれる。嬉しい、こんなに褒めてもらえるなんて、と私の書いた感動の言葉に対して感動したと返事が返ってくる。
「こんな細かいところまで見てくださって本当にありがとうございます!」
「ラフを投げただけですごく褒めてくれるので筆が乗りました!」
「もらえた言葉があまりにも嬉しくて、家族に報告しちゃいました!」
……まじか?そんなに喜んでもらえるの??嬉しいのは私の方なのに??
ちなみにこれは私個人に限った話ではない。
過去に複数の絵師と字書きが集まった企画を行った時も、グループDM内では字書き仲間は私と同じように興奮の極みのような感想を送り、絵師はそれに対してこちらが逆に申し訳なくなるくらい、感想ありがとうの言葉が返ってくる。
ここで私は気付く。
……もしかして、絵師様って普段はそんなに褒められてない……?
こんなに素晴らしい絵を描くのに?
日頃から私たちのタイムラインをあんなに素敵に彩ってくれるのに?
確かに『感想くれ!』っていう叫びを書いたお気持ち漫画やお気持ちイラストを見かける。
確かに私たちも、リプライ欄であのテンションで垂れ流すのはどうかと思うので感動をぐっと閉じ込めてふぁぼりつで済ましてしまうことがある。
コメント欄の半分がびっくりマークと三点リーダーで埋まってしまいそうなので、「可愛い」「素敵」と短い言葉で済ましてしまうことがある。
日頃から交流を持ち、長文リプを送り合っているような関係じゃないと、突然ツイッター上で鼻息荒い感想リプライは送りにくい。字数の制限もある。
そうか、絵師様はこんなに絵がうまくて可愛くて最高の作品を生み出すのに、こちらの思いが届いていない。
Twitterという公の場所で絵を投稿している以上、140字以上の感想を貰えることは極端に少ないし、死ぬ気で出した本でも買ってくれる人はいる、直接自分の本を求めてきてくれる人もいる、戦利品報告の中に自分の本はある、……ただ、そこから個別に感想を貰えるかと言われれば、実際そう多くはないだろう。
絵を描くたび、イベントに出るたび、「褒めてもらいたくて描いたわけじゃない、私は自分が描きたいから描いたの!」……と、そう自分に言い聞かせて、満たされない承認欲求をなんとか誤魔化してきた人だっているだろう。
そこで、だ。
タイトルに戻ろう。
そうすれば、私たち字書きはあなたのために全力で話を考えるし、頂いた絵に対しては、持てる力すべてを使ってその感動を伝える。DMというクローズドな場所の中で、字数の制限もなく、他人の目もない状態で、あなたが私のために描いてくれた絵を全力で絵の良さを伝えていく。私とあなたしかいない場所で、まっすぐ100%あなたへの、あなたの作品への言葉を伝えていく。
「絵にお話とかつけてもらいたいな~」「お話に絵をつけてもらいたいな~」と何の気なしに言ってみて、乗ってきた人と組んでみるのも一つだ。
良いなと思った字書きの作品に対して「勝手に絵を付けさせてもらっちゃいました」と先に描いてしまってもいい(そんなことされたら字書きは大抵興奮と感動のあまり死ぬがすぐに生き返るので軽率に殺してほしい)
誕生日を迎えた字書きのおめでとうリプやフォロワーと絡む系のタグでこっそり伝えてみてもいい。
「この人に褒めてもらいたいな」そう思える人に、軽率にコラボを投げかけてほしい。
もしかしたら、「そんなことして迷惑なんじゃ……」と思う心配性な子猫ちゃん絵師がいるかもしれない。
安心して。字書きの99.999%は絵師のことが大好きだ。自分じゃ描けない『絵』を生み出せる人に対して、敬意を払っていないわけがない。(敬意を払っていない字書きがいる?そんなものは燃やしてしまえ!)
悲しいことだが、絵描きが字書きを下に見ることはあっても、字書きが絵描きを下に見ることはあまりない……と私は思う。
でも、それを逆手に取ってしまえばいい。絵師以上に褒めてもらえないのが字書きの世界、自分の話を好きだと言ってきてくれた人が誰であっても字書きは嬉しい。初対面の人でも。それが絵師さんならな尚更うれしい。簡単に字書きは舞い上がる。
絵師が字書きにコラボを持ちかける(字書きはちゃめちゃに嬉しい)
↓
字書きが一生懸命お話を考え、絵師さんもそれを元に絵を描いてくれる(字書き嬉しい)
↓
絵師さんの絵を字書きが最高潮のテンションで褒める(絵師さん嬉しい)
↓
ほら見て。嬉しいと嬉しいことが重なって、ほかの人まで嬉しくなる。これが世界平和。認められた、自分の作品を喜んで受け入れてくれる人がいる。そんなプラスの感情で創作が進む。
創作って一人の戦いだし、やっぱり辛いことだってある。だからこそ、好きな絵やお話を、嬉しい気持ちで創れることってこれ以上ない幸せだと思うんです。
なのでもう一度言います。