前置きとして強く言っておくけれど、誹謗中傷を行っていた連中を擁護するつもりは一切ない。
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女子プロレスラーの(おそらく自殺と思われる)死亡に端を発し、芸能人に対するあまりにも多い誹謗中傷へ非難の目が向けられている。
それに伴い「芸能人がTwitterやるのキッツいんだぞ」といった話も、芸能人側からあがるようになってきた。
しかし、「培ってきた圧倒的な知名度」を用い、「マネージャー等の第三者が間に入って反響のフィルタリングを行わない体制」を作った上で
活動しているのは他ならない自身の選択だという前提を置き去りにしないでほしいと感じる。
名がコンテンツの一部である芸能人が、その名義でアカウントを作る以上はTwitter上の活動は業務であり、
前述の活動方針でやっていくと決めた段階で「高い発言力・拡散力に比例する反発の大きさ」は織り込むべきリスクに入っていなければならない。
それができていないのは営利事業としての不備だと思う。
「事業としての」対応策はある。本人以外のTwitter担当者を立ててアカウントを運用すればいいだけだ。実際にやっている例もある。
人件費が負担という場合は、事業の規模感に見合っていないリターンを、リスクを承知で望むのかという「選択」の問題になる。
どちらにしても事前に検討していなければならないことだ。
「じゃあ芸能人は個人でTwitterしちゃいけないのか」という話には、
芸能人の名義を用いずに利用すればいいだけなので何も問題はない。
仮名や名義の使い分けはTwitter上で当たり前に行われていることであり芸能人の自由を阻害することにはならない。
そういった環境の中で、あえて芸能人当人が手ずからTwitterアカウントを運用するというのは「そういうこと」なのだと、
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「人死にの事実」は人から冷静さを奪い、盲目的にさせ、タブーを生み出し、感情的な言説を押し通してしまう。
志村けんも"死んでしまった以上は"「趣味の夜遊びが原因で、本人側にも落ち度があった可能性はないのか」という追求はまったくできなくなってしまった。
本件も「誹謗中傷を行なった連中」という揺るぎない悪が設定され、
死者の側に・彼女が所属している組織に・炎上の原因となったコンテンツの制作者に落ち度はなかったのかという話は感情で封殺されつつあるように見える。
現代インターネットに求めるものではない・諦めるべきことなのは重々理解しているが、それでも感情に支配された世界はおそろしく思う。
後にも重ねて強く言っておくけれど、誹謗中傷を行っていた連中を擁護するつもりは一切ない。
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誹謗中傷を行っていた連中への擁護ですね、わかります
怖くて書けないというか、字数が多くて書けないわな。