はてなキーワード: 社会生活とは
万年床な私が、ベッドを買ったもんだから合わないのか、「うとうと」することが多くなった。
とある睡眠アプリによると、人間の睡眠サイクルには「うとうと」があり、この時に人間は夢を見ると……
それは悲しい気持ちになる夢だった。
端的に書くのならば、身近な人がなくなる夢だった。
私は色々なことが重なり、この年になっても身近な人の最後を迎えたことがない。
そう、もう良い年です。
社会人にもなり実家からは離れたものの、自分自身の家庭をもつようなことはなく、独身貴族を謳歌する日々。
そのような私の生活の中でどれほど家族のことを想っているのだろうか。
最近では、食事のときも、目を閉じたときも仕事のことを考えているというのに……
悲しみに明け暮れるのだろうか。
私は、それでも仕事をするのだろうし、出来るのだろう。
……でも、私になにかあれば、家族は悲しんでくれるのだろう。
会社の同僚たちは、困るだろうな。まぁ、でも何とかなるだろう。
隣近所の人たちは、困るだろうな。大家さんも、でもどうしようもないね。
日本の政治家の先生方は、こま……困らないだろうな。今日も喧々諤々たる国会を開くのだろう。
この星・地球は、困らないだろうな。今日も明日も太陽は昇り、季節は巡る。
そう、たとえ私が亡くなったとしても、この星や人類の歴史からすると些細で何ら影響のないことなのだろう。
それでも、私の日々の生活に何か意味があると思いたいのは、社会生活をする人間のエゴなのだろう。
だからこそ、私は身近な人が、そのような最後を選択するのは悲しいと思う。
彼が、色々と悩んでそうなことは伺える。あまり力になれていないのも知っている。
只々、話がしたい。私にじゃなくてもいい。
夢の内容を補足しながら書くとこのようになる。
私は、駅前にある塾が入っているようなビルのような場所で、何かの試験を受け終えたところだった。
私も帰ろうと思い、エレベーターを待つものの人が多くて、乗ることが出来ない。
同級生の友人が「ここは3階なのだから、階段のほうが早い」といい、私もそうかと思い階段を降りることにした。
階段を降りた先には、(なぜか)主要駅の乗り換え案内があった。
(場面がとんで)
私は、おそらく昼下がりの穏やかな晴天のもと、数人の友人たちと街道から入った細道を歩いていた。
前後には、同じような同級生のグループの姿が見られたので帰り道なのだろう。
ふと振り返ると先の主要駅が見え、多くの同級生たちが並んでいるのが見えた(気がする)。
それを見た友人が「こういう抜け道を知っているのは、地元民だけあるな」みたいなことを言っていた。
私達は、主要駅で電車に乗らずに、歩いて行った先の駅から電車に乗ったようだ。
その電車は、いわゆる各停だったので、目的の駅には行かないため、少し先の駅で電車の乗り換えが必要だった。
なので私達は乗り換えのために、駅のホームに降りた。
電車はすぐには来なかった。
最初に来た電車は、(なぜか)特急に変わり、急発進していった。
私と友人はようやく来た電車に乗り込んだ。そこには先に乗っていた同級生が二人いた。
私達の四人は、なんやかんや言いながら電車の中で話ししていた。おそらく、先の試験のことでも話していたのだろう。
(すくなくとも)私は、目的の駅についたようで、電車から降りた。
(突然だが)駅のホームには、母がいた。
私は、母は弟と先行していたと思っていたので、「弟は?」と聞いたが、母は「誰かいるの?」と聞き返し足元を見た。
母の足元には、なんだか小さな、とはいえせいぜい小学生低学年程度の子供がいた。
やや髪が長く女の子のようにも見えたが、笑った顔がそっくりだった。その子は、駅のホームを走り去っていった。
「弟の小さい頃に似た子がいた」と私がつぶやくと、「昔は外で遊ぶのも好きだったから来てくれたのかもね」と母は言う。
「……え」
母は、駅のホームの前方を見ながら話す。
「(近くの人、もしくは駅員)が教えてくれたの」
私は、前方に行く。人だかりがある。
目が覚めた。
ひとと会話してて、自分が「始終(しじゅう)」という語を使ったら「ちょっと待って、しじゅう?」と相手がひっかかった。
「しじゅう…? あっもしかして四六時中って言いたいわけ?」
と、スムーズに会話は流れていった。
こういう時に自分は一切逆らわない。話が通じることが重要だからだ。
相手が完全に間違えた表現使ってても指摘せずに自分も「採用」したりすらする。フィンガーボウルの水を間をおかず飲み干す。
でも「シジュウなんて言葉はないのだが自分が四六時中をちょっと覚え違いしてた」みたいな空気で流したことは小さなトゲが刺さったみたいにずっと居心地悪い。実は。
■追記
始終が適当かどうかみたいな自説開陳を始めるブクマカ群。リアルでそういうモードに入られたら困る(あくまでシジュウなんてナイっ! と詰められてもそれ以上譲れないし、勝ってしまったら恨まれる)から、いやいやながら予め安全側に振ってるよという話なのだが。
「この場合、私は間違ってないですよね」とお伺い立ててる訳でもない。至適かどうかはともかく(それはケースバイケースだ)不適当でないのは最初から私にはわかっている。
「あんな嫌な目には遭いたくない。私はどうすればよかったのでしょう…?」という相談でもない。こういうのは回避できない社会生活のコストである。
それを前提に「バカの気づかないところでこっちは色々気を使ってやってるんだからな馬鹿野郎このやろう」という愚痴である。無論私の気づかないところで以下略。
ちなみに件の会話の相手は警官であった。おともだちとのくだけた雑談を勝手にイメージしてか「始終なんて堅すぎて口語として不自然だ」みたいなことを鬼の首取ったようにいう向きもあったが、そもそもちょっと不自然な条件下のやりとりなのだ。どういう状況だったのかあらゆる判断材料を示そうとしていたら文章は無限に長くなる。「いろんな状況があり得るよな」「説明されてない事情もあるんだろうな」という、カメラアングル外への想像力を持って欲しいものだが。
結語の「居心地悪い」は本文中にも触れたような雰囲気重視の「敢えて採用する誤用」なのだが誰ひとり引っかからないのは少しだけ意外だった。
女だけど、たしかに全体的に収入低い女多くて、同性ながらビビる。
彼女たちがどうやって生活成り立たせてるか自分なりに調べてみたことがあったんだけど、かなりの割合で「実家暮らし」「一人暮らしだが、家賃やら通信費やらの一部を実家に支援してもらってる」ってパターンが多かった。
あとは、単に節約が上手いパターン。激安賃貸で、安い食材使った料理で凌いでる。
メルカリで手作り品売るだけで生計立てられるような天才にはまだ会ったことないなwww
まあ正社員で働くにしても、女性は休職退職リスクが高いから、昇給が男性に比べて劣るように設定されてる職場がやはり未だに多いよね。それでも派遣や非正規やるよりは正社員やった方がまだマシだと思うけどねー。
追記)ちなみに女性は、服・化粧品・雑貨などは、「知り合いが譲ってくれる」「タダでもらえる」というケースが多々ある。あとパパ活やったり港区女子になったりしなくても、社会生活やってれば、食事を奢られることが普通にある。
90年代00年代はPCでネットに触れる人は少なかったけど、触ってる人はネット歴を経るにつれてだいたいのネットカルチャーを俯瞰できただろ?
スマホからネットに入ったような一般人も、ネットの世界に接続した以上、いずれそうなっていく運命
ただ規模が大きすぎて四方八方へ広がる奇天烈カルチャーの浸透に時間がかかりすぎて、カルチャーショックの悲鳴が鳴り止まないだけ
90年代00年代なら、カルチャーショックを受けても「知らないのは俺だけだったんだ」くらい除け者感があったけど
今は「そんなの皆しらねーぞ常識的に考えろ」ということが言えてしまう空気だから、難儀ではあるけど、だからといって世界を分けるべきじゃない
スマホデビュー層にとっての文化はテレビに映るものだけだったからギャップを埋めるにはまだまだ相当時間がかかるだろう
時間がかかるけど、「そういうのが存在してることは知ってるけど、自分は興味ない/距離を置く」みたいな状態が秩序としてはベストなんだよ
現実でもそうだろ?ビジネスとしての売春や、個人での売春みたいなことをやっている人間が日本にも存在していることを知ってはいるけど、俺の普段の社会生活とは無縁だ――
みたいな感じよ。これは別にドラッグだろうとヤクザだろうと汚職だろうとDV男だろうと乳児蒸し殺しパチンカーだろうと車転がし路上飲みパリピだろうと、何でも同じ。
自分とは違う常識が支配する世界があることを認識することが重要なんだよ。見えないようにしたら解決するわけじゃない。むしろ見えないことこそ、自衛不可能になるから危険なの。
どんな怖いものがあるか想像もつかない世界になったら、国家がガチガチにパターナリズム発揮して管理統制しないとダメになるだろ?
既婚アラフォーです。
俺も嫁も、中学生くらいの女の子が好きなので、お互いに性欲は湧きません。
子作りは中々壮絶だったんですけど、割愛。
「自分の子供と同年代に欲情する変態」と言われても、これが俺達です。少なくとも、思春期頃から変わっていません。
そもそも、嫁と知り合ったのも、昔いた某ジュニアアイドル繋がりだし。
世間様じゃ、俺達みたいな人間は異常者で、性的少数者にも含まれないらしいですね。
性的指向じゃなくて嗜好なんだとか。
うるせーとしか思いませんが。こっちは自分達は異常だ異常だって、何年も何年も悩んで、カウンセリングも受けて、それでも何も変わらなかったんだから。
結婚して子供を作ったのは、異常者というレッテル貼りに対するせめてもの抵抗の為でした。
俺達は実際の中学生に手を出したことはないし、違法なポルノも所持してないし。
(ジュニアアイドルの写真集はいつぞやの法改正の時に、泣く泣く捨てました。子供には見せられないしね)
まともな社会生活を送れて、家庭だって作れるんだって見せてやりたかったんです。
ネットじゃ、俺達みたいな存在自体を犯罪者予備軍くらいに言ってる連中がいて、本当に止めて欲しいです。ばーかばーか。
異性愛者だろうが同性愛者だろうがそれ以外だろうが、相手の同意なく交渉に及べば犯罪ですわ。
中学生相手だと同意があっても犯罪ですわ(細かい法解釈は抜きにして)。
犯罪と分かっていることをわざわざやるような人間じゃないんですよ、こちとら。
「いつかは手を出すんだろ?」ですか?
それ、あなたの感想ですよね?(大嫌いなフレーズだけど、これ以上にピンとくる言葉が思いつかない)
嫁だって同性ってことを利用してのスキンシップは我慢してるわ。
もう一人くらい欲しかったけど、精神的に無理でした。主に嫁の方が。
どっちの両親からもぶーぶー言われましたけど、本当の理由を言う訳にもいかず。
子供にもずっと黙っていなければなりません。
このことは墓まで持っていくつもりでしたが、嫁と相談して、こういう匿名の場に、断片的な情報だけでも残しておくことにしました。
きっと同じような悩みを抱えて生きている人もいると思うので。
君は孤独じゃないよって伝えたいのです。
身バレしたくないので、この辺で。
3次元と2次元は全くの別。簡潔で分かりやすい例えが思いつかないが、3次元の人間は老若男女問わず生々しくて汚らわしいと思うので、近寄らないし見たいとも思わない。生身の人間ってゴリラが服着て社会生活してるみたいでグロテスクに感じます。
Yahooコメではここぞとばかりにジャニタレヲタがキャッキャ言ってるけど、ほんと真面目にドン引きですね、この人たち社会生活送れてる?
社会生活送れてるとして、収入、人間関係、いずれかにつまづきあったりしない?というのが感想
子どもたちに聞かせないようにするのは親の役割であって、性虐待見て見ぬふりしてきたことに徹底して向き合うのが君らの役割でしょ
そもそも地下にくらべればマシとはいえ、Jrって接触商法させられてたし桶ダンスもしてたしで、興味ない人から見ても酷いものでしたよ
ただまぁ記者がヤラセでなくガチなら、今後は頭のおかしい人たちを増長させるような振る舞いはお控えください
(見ても不快にしかならないので、実際の会見の様子は見ていない。この会見を扱った記事に、強行して声を出す記者・怒鳴った?とか記載があったので)
ソレ実際やったらどういう弊害出るか理解して言ってんの?わかんないで言ってんなら頭悪いよキミとか
もしかして自分の意見はクソクレームとして捌かれるのではないだろうかと一瞬考えるようになるのでクソクレームは減るんじゃないだろうか
まともな意見を言う人はそれでも伝えようとしてくれるし、そういう人のはちゃんとご意見として受け止める
組織的にも「yey!!馬鹿に屈さない姿勢最高にcooolだぜ!!!!」って感じで士気向上にも繋がると思う
その課に繋ぐ前に判断するやつがまともな意見かクソクレームか判断するのムズいだろってなるかもしれんけど
普通に組織に属して、社会生活おくってて、外部からの連絡を受ける人ならソレくらいは余裕で判断できると思うし
「銀」は自陣では王の護衛が主目的だから重装を脱がないが、敵陣では敵王を討つために重装を脱ぎ捨てて行動する。だから金将と同じ扱いになるわけだ。
でもって、
「香車」…分かるな?「車」だ。敵陣に入ったら車を捨てて自由に動き回るんだよ。
「桂馬」…同じく分かるな?「馬」だ。敵陣に入ったら馬を捨てて……(以下略)
「歩」…「敵陣に入るまでは真っすぐ歩いてけ」って命令されてるんだよ。敵陣に入ったら命令から解放されて……(以下略)ただし「王」を打ち取っちゃいけない。雑兵だからな。
「飛車角」…これは「大ゴマ」で移送装甲車に複数の兵士が乗ってるとこを想像してくれ。敵陣に入ったら下車して散開するんだよ。強力だね。
まあそんな感じだ。王と金将が成らない理由も、これで理解できたか? つーか、こんなことでいちいち悩んでたらゲームできなくないか? 社会生活とか大丈夫か?
G&Wは、私有財産は宗教と不可分であるため、根源的なものだと主張する。その例として、先住民の伝統的な儀式で使われるトランペットやその他の道具を挙げている:
このような神聖なものは、多くの場合、存在する唯一の重要かつ排他的な財産形態である......神聖な文脈に厳密に限定されるのは、命令関係だけではない......絶対的な、つまり今日でいうところの『私的』財産も同様である。このような社会では、私有財産の概念と聖なるものの概念には、形式的に深い類似性があることが判明する。どちらも本質的には排除の構造なのである。(p. 159)
ここで「絶対的なもの」が「私的なもの」と訳されていることに注目してほしい。祭祀財産が「絶対的」な程度に神聖であるならば、それは定義上「私有財産」として適格である、という主張のようだ。
この混同は、著者が宗教と私有財産の関連付けに権威を求めているときに強化される。この時点でG&W(p.159)は、エミール・デュルケムの「聖なるもの」という古典的な定義を持ち出している:
デュルケムは、聖なるものの最も明確な表現は、ポリネシア語で「触れてはならない」を意味するタブーであると主張した。しかし、私たちが絶対的な私有財産について語るとき、その根底にある論理と社会的効果において、非常によく似たもの、実際にはほとんど同じものについて語っているのではないだろうか。
そして著者は、アマゾンの原住民と仕事をする民族学者たちが、「湖や山から栽培種、リアーナ林、動物に至るまで、彼らの周りにあるほとんどすべてのものには所有者がいる、あるいは潜在的に所有できる可能性がある」(p.161)ことを発見したと述べている。ある種や資源に対する霊的存在の神聖な所有権は、その種や資源を他の世界とは一線を画すものである。同じような理屈が、西洋の私有財産の概念を支えているとG&Wは書いている。もしあなたが車を所有しているならば、あなたは全世界の誰であろうと、そこに立ち入ったり使用したりすることを妨げる権利がある」(p.159)と彼らは説明する。
G&Wが、精神的な「所有権」についての伝統的な概念と、自分の車を所有することについての考えを混同しているのを見つけるのは、非常に息を呑むようなことである。現代の私的所有権を、超自然的存在による天然資源の「所有権」と、その「根底にある論理と社会的効果」において「ほとんど同じ」とみなす彼らは、いったいどこの世界にいるのだろうか?
先住民の活動家たちが、湖や山は強力な精霊にとって神聖なものだと語るとき、彼らは「私有財産」に等しいものを支持しているわけではない。もし「偉大なる精霊」が森を所有しているのであれば、その森は売り物ではなく、私有化されるものでもなく、伐採会社に所有権を主張されるものでもないという明確な含意がある。
デュルケムの洞察の中で最も強力なもののひとつは、人々が神性を呼び起こすとき、そのコミュニティ全体の道徳的な力を想定しているということである。つまり、ある山が神のものであるならば、それは私有化できないと宣言していることになる。G&Wがそれを逆手に取り、「私有財産」という概念は、あるものが神聖であるという考え方そのものと不可分に生まれたものだと主張するとき、これがいかに粗雑な間違った表現であるかがわかるだろう。
デュルケム(1965年)にとって、「分離」は私的流用のアンチテーゼであった。近親相姦に対する世界的な文化的タブーの起源を説明するために、彼は「ある種の隔離的な力、つまり男性的な集団を遠ざける力を女性に持たせている」(1965: 72)という伝統的な信仰を当惑させた。デュルケムは、このような信念体系において、女性の隔離する力は血の力であり、聖なるものの概念と密接に結びついていると書いている。女性が血を流すと神性が目に見えるようになるとすれば、それは女性の血そのものが神であるからである。血が尽きるとき、神はこぼれ落ちる」(Durkheim 1965: 89)。
デュルケムにとって、「分離」という原初的な概念は、私有財産とは何の関係もなかった。問題は、成人した若い女性に何が起こるかということだった(1965: 68-96)。月経が始まると、彼女の親族は、彼女の所有権を主張するために、つまり彼女を「入門」させるために、体として集まり、彼女を男性との付き合いからも世間からも隔離した。彼女の隔離は、特別な儀式である成人式によって達成された。これにより、彼女の身体は神聖なものであり、それに関する彼女の選択は、姉妹や他の親族に対して説明責任があることが確立された。デュルケムにとって、このような集団的行為と関連して、人間の意識、言語、文化の出現は、共同体という新しい種類の権威が初めて誕生した時点であった。
もしG&Wが現代の進化科学に関心を示していたなら、こうしたデュルケーム的洞察が、血のように赤い黄土色が、男性に女性の肉体が神聖なものであることを新たに認識させるために、女性によって化粧用の「戦化粧品」として使用されたという考えに基づく、人類の進化における黄土色の記録に関する最も新しく権威ある現代の考古学的説明を、いかに先取りしていたかを認識できただろう(Watts 2014, Power 2019, Power et al.)
さて、『万物の黎明』の中心的なアイデアにたどり着いた。それは、私たちはかつて皆自由であり、生き方を選ぶことができたからである。
人類学を学んだことのある人なら、エスキモーのアザラシ猟師たちが伝統的に冬の間は性的共産主義を実践し、夏の間は家父長制的な家族生活に切り替わる。G&Wは、この振り子あるいは振動モデルをヨーロッパ後期旧石器時代の氷河期文化に適用し、これらの複雑な狩猟採集民は、エリート特権と権力の垂直階層を意図的に築き上げ、古い季節が新しい季節に移り変わるときに、それらをすべて取り壊す喜びを享受していたと論じている。
この革命を大いに楽しんだからこそ、氷河期の天才政治家たちは、革命で得たものに永久にしがみついていてはいけないことに気づいたのだ。彼らは、連続する革命を楽しみ続けるためには、その間を一過性の反革命で埋めなければならないことを理解していた。次の革命的高揚のための格好の標的を提示するために、「特別な」個人が支配力を確立するのを許すことによって、そうするのである。
私はこの考えが大好きだ。偶然にも、30年前に『血の関係』が出版されて以来(ナイト1991年)、私たち急進人類学グループが狩猟採集民の平等主義の奥義として分析してきた振動原理と酷似している。一方、私の振動モデルはまったく同じではなかった。というのも、私たちは亜北極圏ではなくアフリカで進化したのだから、季節的なリズムよりも月ごとの周期性が優先されるべき十分な生態学的理由があったのだ。つまり、G&Wが想像したような方法で権力が掌握され、明け渡されたのであれば、社会生活は月の満ち欠けと連動する月周期でひっくり返されたことになる(Knight 1991: 327-373)。
G&Wの歴史は、狩猟採集民の対立と交替に満ちているが、その周期性は一方的な季節性である。狩猟採集民は太陽だけでなく月にも従うことを彼らは知らないのだろうか?彼らの最も重要な儀式は、女性の月経の満ち欠けと結びついており、月によって予定されている。
コンゴの熱帯雨林では、女性たちは男性に勇気と潜在的な支配力を示すよう意図的に促すが、ンゴクと呼ばれる女性だけの儀式では、男女間の「権力の振り子」で遊び半分に降伏する前に男性に反抗する。G&W (pp. 114-15)はこのことに言及しているが、その後に次のように主張している:
単一のパターンはない。唯一の一貫した現象は、交代という事実そのものと、その結果としてのさまざまな社会的可能性の認識である。このことから確認できるのは、「社会的不平等の起源」を探すことは、本当に間違った問いを立てているということである。
もし人類が、その歴史の大半を通じて、異なる社会的配置の間を流動的に行き来し、定期的に階層を組み立てては解体してきたのだとしたら、本当の疑問は「なぜ行き詰まったのか」ということかもしれない。
この最後の質問は実に深いものである。しかし、この問いに答えるには、以前はどのような状況であったのか、ある程度現実的な認識を深めてからでなければならない。私たちの先史時代の祖先が、本当に自由で、本当に「身動きがとれなかった」時代があっただろうか?
中央アフリカの森の民バヤカでは、月は「女性の最大の夫」と言われている(Lewis 2008)。どの男性の立場から見ても、妻は血を流すたびに、事実上、天国の夫のために彼を捨てることになる。この古代の比喩(Knight and Lewis 2017)の背後にある現実は、女性が月のある期間、遊び半分で「権力を掌握」した後、自分の主張が通れば進んで男性に譲るという伝統であり、Finnegan(2008)が「動く共産主義」と呼ぶものが確立している。このような社会における親族関係と居住のパターンは、月経と排卵、兄弟と恋人、親族関係と結婚、共同体の連帯とセックスの親密さの間で揺れ動く振り子を設定する。
このようなパターンが古代から存在した可能性が高いことを考えれば、G&Wが政治的な揺れに対するある種のブロックを、歴史の過程で実際に起こったこととみなすのは正しい。しかし、そのブロックを説明するには、G&Wが触れようとしないトピックを扱う必要がある。それは、月経をめぐる先住民の慣習に敬意を持ってアプローチすることを意味する(Knight 1991.)また、親族関係のパターンや結婚後の住居の多様性を理解することも重要である--これも決定的に重要なトピックだが、G&Wは著書でほとんど触れていない。
非貯蔵型狩猟採集民の間では、女性は一般的に、少なくとも子どもが2、3人生まれるまでは実の母親と暮らすことにこだわる(Marlowe 2004)。遺伝学的研究によれば、私たちの種が進化したアフリカでは、このパターンははるか過去にまでさかのぼる(Destro-Bisol et al.)終生結婚の代わりに「花嫁サービス」が一般的で、アフリカの狩猟採集民の女性は、母親のキャンプに住み続けながら、選んだ恋人を受け入れる。一時的な夫は、狩猟した肉を花嫁とその家庭に持ち帰ることで、自分の役に立たなければならない。それができなければ、彼は出て行く!このような取り決めのもとで、誰もが親族関係と結婚生活の間を交互に行き来する。
母親と同居するのは弾力的なパターンだが、夫からの圧力で住居を変え、夫とその親族と永住せざるを得なくなることもある。このような場合、子供連れの若い母親は逃げ出すことが難しくなる。かつての自由を失うと、夫の世話は強制的な支配へと変貌する。エンゲルス(1972[1884])が「女性性の世界史的敗北」と雄弁に表現したのは、この悲惨な結果だった。世界の多くの地域で、結婚を固定的な絆に変えた家父長制的な力は、それに応じて社会生活全体にも固定性を押し付けた。
これは、「なぜ私たちは行き詰まったのか」という問いに対する有望な答えのように見える。では、G&Wはこの問いにどんな答えを出すのか?彼らの最終章は非常に蛇行していて、それを知るのは難しい。彼らは、人へのケアが強制的なコントロールへとシームレスに変化する可能性について言及しているが、なぜかこれを結婚後の住居や家族生活の変化とは結びつけていない。最も身近なところでは、17世紀のヨーロッパと北米のウェンダットにおける処刑と拷問の光景を描写している。国王が臣民を罰する権利は、妻子を躾ける家長の義務をモデルにしていたことを思い起こさせる。このような政治的支配は、公に王の注意義務として表現された。これとは対照的に、ウェンダットが囚人に長時間の拷問を加えるのは、支配と統制を愛情によるケアから公的に区別するという、正反対の点を強調するためであった。囚人は家庭の一員ではないので、拷問される必要があったのであって、愛される必要はなかったのだ。
そうしてG&Wは、ケアと支配の区別の中に、私たちがなぜ行き詰まったのかについての待望の説明を見出したのである:
私たちは、ケアと支配の間のこの関連性、あるいは混乱が、互いの関係を再創造することによって自分自身を自由に再創造する能力を私たちがいかにして失ったかという、より大きな問題にとって極めて重要であると考える。つまり、私たちがいかにして立ち往生してしまったのかを理解する上で、極めて重要なことなのだ...。
狩猟採集民の研究やジェンダー研究を探求する代わりに、G&Wは視野を先住アメリカ人の軍事指導者、拷問者、ヨーロッパの君主の経験に限定し、これらの人々の心理的葛藤を想像することで、私たちがどのように「行き詰まった」のかを探っている。上に引用した当惑させるような言葉に意味があるとすれば、私たちが行き詰まったのは、特定の権力欲の強い人物が、人々を思いやることと暴力的に支配することを混同してしまったからだと示唆しているようだ。
これはまともな説明だろうか?人々は本当にこのように混乱してしまったのだろうか?答えの代わりに、G&W自身が行き詰まったようだ。私たちは、同じ質問を少し違った言葉で提示されているだけなのだ:
外的な暴力と内的なケア、つまり最も非人間的な人間関係と最も親密な人間関係との間に新たに確立された結びつきは、すべてが混乱し始めるポイントを示しているのだろうか?かつては柔軟で交渉可能だった関係が、結局はその場に固定されてしまった例、言い換えれば、私たちが事実上立ち往生してしまった例なのだろうか?
この本全体で最も重要な問いに答えようとする努力は、これ以上なされていない。
(続く……)
『万物の黎明』の中心的なアイデアは挑戦的だ。人間とは政治的に冒険的で実験的なものであり、自由と平等の呪縛の後に、変化を起こすために抑圧を選ぶ傾向があると言われるほどである。歴史は、ある極端なものと次の極端なものの間を揺れ動く、リズミカルな形をとっている。しかし近年、私たちは皆、ひとつの体制から抜け出せなくなっており、その理由を理解しようと努めなければならない。
これらすべては新しく新鮮ではあるが、信用できるものではない。私は、私たちの人間性を規定する政治的本能や社会的感情は、平等主義という条件の下で形成されたという人類学的な標準的見解の方を好む。今日に至るまで、私たちは皆、対等な仲間の中で笑ったり、遊んだり、社交したりできるときに最もリラックスし、幸福を感じる。しかし、グレーバーとウェングロー(以下、G&W)は、このような私たちに馴染み深い経験を土台にする代わりに、狩猟採集民の祖先が平等主義者であったという考え方全体に反対している。彼らの見解では、彼らは抑圧されることを選択した可能性が高い。
彼らの言葉を借りれば、「われわれの人間性の本質が、われわれが自意識的な政治的行為者であり、したがって幅広い社会的取り決めを受け入れることができるという事実から成り立っているとすれば、人類は歴史の大部分にわたって、実際に幅広い社会的取り決めを探求してきたはずだということにならないだろうか」。これらの可能性の中には、著者たちが容易に認めているように(86-7頁)、チンパンジーのような虐待的な支配階層も含まれている。G&Wは、もし我々の祖先がそれほど冒険好きであったなら、きっと平等主義だけでなく、攻撃的でいじめっ子のオスによる嫌がらせや虐待、支配も実験しただろうと主張しているようだ。
G&Wは、私たちが革命の過程で社会的、道徳的に人間になったという考えに対する一貫した攻撃の中で、これらの点を指摘している。私はずっと、人間の言語、意識、親族関係、道徳は漸進的な進化の過程で進化し、それが巨大な社会的・政治的革命で頂点に達したという考えを探求してきた。私の動機は常に、人間は本来利己的で競争的だから社会主義は不可能であり、「革命でさえ人間の本性を変えることはできない」という一般的な偏見に挑戦することであった。
私はいつもこう答えていた。そう、私たちは類人猿の一種である。そう、私たちは霊長類のいとこたちのように、競争的で利己的、攻撃的でしばしば暴力的な本能を持っている。しかし、それが私たちの成功の原因ではない。優秀な母親や父親になる能力、自分の子供だけでなく互いの子供を思いやる能力、道徳的なルールを確立する能力、他人が自分を見ているように自分も見ている能力、音楽、ダンス、言語を使って夢を共有する能力など、私たちの本性にまつわる人間的な特徴すべてが、まさに歴史上最も偉大な革命の産物であり、成功した革命なのだ。
この「人間革命」の複雑さを詳述した私自身の著書(Knight 1991)が出版されてからほぼ10年後、人類学者のクリストファー・ボーム(Christopher Boehm)は、その洞察にもかかわらず、最も重要な要素であるセックスとジェンダーの力学についての言及を一切省くことで、政治的な観点から安全策を講じた理論のバージョンを発表した(1999)。G&Wが人間革命理論の信用を失墜させるために明示的に言及するのに十分安全だと考えているのは、この抽象的でユニセックスなバージョンなのである。
ボームは、私たちの最も古い祖先は、一方的な協力者でも一方的な競争者でもなかったと指摘する。それどころか、他者を支配する一方で、支配されることに抵抗するために同盟を結ぶという心理的傾向があった。このような下からの集団的抵抗は、最終的には、リーダーになろうとする者が集団を支配するのを阻止するために、全員が一丸となることで頂点に達した。私たちの祖先のチンパンジー的な支配は、今や逆転し、「逆支配」、つまり平等主義的な倫理観にコミットした道徳意識の高い共同体による支配へと結実したのである。
G&Wは、人類は「......何をすべきか指示されることを自意識的に嫌うようになった」(p.133)という考えに賛同している。この文脈では、現存する狩猟採集民が「嘲笑、羞恥、遠ざけ......他の霊長類に類似するものはない」(p.86)、「自惚れ屋やいじめっ子を地上に引きずりおろすために集団で採用される戦術の数々」を示していることに同意している。彼らがまったく関心を示さないのは、そうした戦術が進化の過程で人間の本性を形成する上で重要な役割を果たしたという考えである。
ボームの説明に対する反論をまとめると、狩猟採集民が一貫して平等主義を好んでいたという示唆は、「何万年もの間、何も起こらなかった」という「奇妙な主張」であるという。狩猟採集民の祖先が一貫して平等主義的であったとすれば、彼らの政治的生活は何らかの形で凍結され、時間が止まってしまったに違いない。G&Wは次の言葉で締めくくっている:約12,000年前以前、人類は基本的に平等主義者であったとボームは主張する。ボームによれば、約20万年間、[これらの]政治的動物はみな、ただ一つの生き方を選んだのである」。(p. 87)
唯一の問題は、これはボームが書いたことではないということだ。彼の実際の言葉は引用に値する:
ひとたびどこかのバンドが平等主義的な秩序を発明すれば、この社会的なやり方の根本的な変化は近隣のバンドにも目につくようになる。特に、非常に攻撃的ないじめっ子を擁するバンドでは、部下が支配されることに対して両義的であれば、どこでもその利点は明らかだっただろう......。魅力的な平等主義の伝統が、地元では専制的な伝統に取って代わり、徐々に文化的な拡散が起こると予想される。やがて、より長い距離を移動する移動パターンによって、この政治的発明がかなり急速に大陸から大陸へと広まっていったと考えられる。(Boehm 1999: 195)
これが成功した革命のやり方だ。ボームの主張は単純に、1万2千年前まで『人類は基本的に平等主義者だった』というものではない。そうではなく、初期の人類はさまざまな政治システムを発展させながら、平等主義というひとつの特に成功したモデルに徐々に収斂していったというのである。
かなり不当なことに、『万物の黎明』は現代の進化論を社会進化論と混同している。社会進化論とは、「未開」から「野蛮」を経て「文明」へと進歩する段階のはしごを描いた19世紀の物語である。ダーウィニズムは科学的であると私たちは語り聞かされるが、実際は純粋な神話である。G&Wはそのように空想的に、進化論を全く認めない人類の起源に関する視点を、読者が真剣に検討することを期待している。
この著者たちが認める唯一の科学は「考古学的科学」であり、その考古学がさほど遡らない場合のみである。彼らは、政治や社会生活については、古代の人類の「頭蓋の遺骨と、時折出てくる火打石のかけら」(p.81)からは何も読み取れないという理由で、「万物の黎明」をわずか3万年前とすることを正当化している。
このような言い訳は、私たちの種の最もユニークな特徴である芸術と象徴文化が、以前考えられていたよりも3、4倍早くアフリカで生まれたという最近の証拠に照らすと、もはや通用しない。この証拠は、骨や石に限らず、ビーズ、幾何学的な彫刻、墓用品を伴う埋葬、砥石や絵の具壺などの工芸品で構成されている。G&Wは、これらの発見のうちの1つか2つに気づいてはいるが(83-4頁)、ほとんど関心を示していない。最先端のダーウィン理論を黄土の記録に適用すれば、社会力学、儀式の実行パターン、性別による同盟関係についての予測を生み出す可能性が非常に現実的になるにもかかわらず、である。(Power 2019; Power et al.
残念ながら、これらの著者たちは、どのような形であれ、ダーウィニズムには近づこうとしない。彼らは、彼らが「フェミニスト」と呼ぶ人物(実際には霊長類とヒトの社会生物学の創始者として高く評価されているサラ・ハーディ)が、人間の本能と心理の形成における集団的育児の重要な役割について「物語」を考え出したことを認めている。「神話は悪いものではない」とコメントしながら、彼らはこの特別な神話を「重要なもの」と表現している。そして、「エデンの園は存在せず、一人のイヴも存在しなかったのだから、このような洞察は部分的なものにしかなりえない」(p.82)と口にして、すぐさまこの神話に疑念を投げかける。この種のトリック--この場合は、ハーディの画期的な研究が、私たちの共通のミトコンドリアDNAの祖先の年代測定より200万年ほど前のホモ属の出現に焦点を当てているという事実を無視すること--は、明らかに、人類の起源研究が追求する価値があるという考えそのものを損なわせることを目的としている。
中石器時代や新石器時代の考古学に興味のある読者なら、本書には興味をそそられる推測がたくさん書かれているだろう。しかし、私たちがどのようにして人間になったのか、つまり、異常に明瞭な目、並外れて大きな脳、独特の社会的感情、笑い、音楽や言語に対する生得的能力などがどのようにして発達したのかに興味がある人には、まったく何も見つからないだろう!
タイトルは深刻な誤解を招く。『万物の黎明』? 『万物のティータイム』の方が正確だろう。物語は、氷河期のフランスとスペインに描かれた壮大な洞窟壁画で知られるヨーロッパの後期旧石器時代から始まる。著者によれば、その段階でようやく考古学が面白くなってくる。初めて、社会の複雑さ、階層、豪華な埋葬などの証拠が見え始めるのだ。
G&Wにとって、狩猟採集民の祖先がアフリカでもっと早くから平等主義的なライフスタイルを確立していたという事実は、さしたる関心事ではない。彼らは、タンザニアのハザ族のような現存する狩猟採集民が資源を共有していることは認めるが、それを賞賛する代わりに、蓄積への抵抗が「社会的複雑性」の出現を妨げていると不満を述べている。著者たちは社会階級という概念を嫌っているようだ。
つまり、狩猟採集民は富の蓄積に抵抗することで、複雑性を妨害する、つまり階級社会の発生を阻止するのである。G&Wはここで狩猟採集民の専門家であるジェームズ・ウッドバーンの権威を持ち出している。彼らは彼の研究から、「真に平等主義的な社会を維持する唯一の方法は、あらゆる種類の余剰を蓄積する可能性をまったく排除することである」(p.128)と結論づけている。このことは、社会の複雑さを排除し、人間の文化的・知的生活の豊かさを排除することになると彼らは主張する。
ウッドバーン(1982、2005)は確かに、蓄積に対する意図的な抵抗が狩猟採集民の平等主義を支えており、意識的になされた政治的選択を表していると主張している。彼は、このような平等主義は非蓄積型狩猟採集民だけの特徴であると観察し、「即時回帰」こそが人類経済の原型であると結論づけた。しかしウッドバーンは、そのような平等主義に複雑性が欠けているとは主張しなかった。実際、彼は「単純な」社会形態と「複雑な」社会形態との二項対立を有害で誤解を招くものとみなしていた。ウッドバーンにとって、平等主義を維持することはこの上なく洗練された達成であり、単に不平等が生じるのを許容するよりもはるかに高いレベルの政治的知性と複雑性が要求されたのである。ハザ族には、必要以上の富を蓄積させることがいかに危険かを理解する知性があると彼は説明した。
しかしG&Wによれば、富の不平等は問題ではない。彼らの立場を支持するために、彼らは17世紀にヨーロッパの「文明」を批判したファースト・アメリカンのカンディアロンクを引き合いに出している。やや説得力に欠けるが、彼らは、カンディアロンクと彼の最初のアメリカ人共同思想家たちは、「富の差が権力の体系的不平等に変換されうることを想像することさえ困難であった」(p.130)と断言している。
G&Wは、即時回帰型の狩猟採集民が富の不平等が生じるのを拒んだことを認めている。しかし驚くべきことに、彼らはこの状況全体を期待外れとみなしている:
こう言うと、何か希望に満ちた楽観的な話に聞こえるかもしれない。実はそうではない。この言葉が示唆するのは、やはり、最も単純な採集者以外には、その名に値する平等は本質的に不可能だということだ。それでは、私たちにはどんな未来が待っているのだろうか?
どんな未来?アフリカの狩猟採集民からインスピレーションを得ている活動家たちは、現代の都市生活者を、不運なハッザ族のように、小さな遊牧民集団の中で繰り返される単純な生活に「はまり込む」よう招いている、と彼らは示唆する。
はっきり言っておくが、私は原始主義者ではない。私は技術的、社会的、政治的発展に賛成である。ハザ族は、必要に応じて富を共有し、笑い、歌い、遊びの中で「時間を浪費」し、誰かに支配されることに抵抗し、他のすべての心配事よりも互いの子供の世話を優先することが、充実した楽しいことであることを示している。開発に関して言えば、この政治的に洗練された弓矢ハンターたちは、私たちに多くのことを教えてくれるだろう。
(続く……)