はてなキーワード: 理想論とは
「健常者と同じ職場で同じように働かせればいいのに」という無邪気なブコメが多数あるが、なぜそうならないのか、代行業に需要が発生するのか説明する。
(現在は「障害者」表記は避けられてるが、法や制度で呼称が定められてる場合はその通りに記載する)
従業員が43.5人以上いる企業や役所や省庁には、障害者雇用促進法で全従業員数に対して一定割合以上の障がい者を雇うことが義務づけられている。
雇うと助成金が貰えるし、割合に足りないと罰金(納付金)を払わないといけないが、金額はどちらも微々たるもので、それよりも違反企業名の公表によるイメージダウン・批判を受けることのダメージが大きい。ちなみに企業よりも役所や省庁のほうが義務割合が少し高い。
障がい者には身体障がい・知的障がい・精神障がい(発達障がい含む)の3(4)種類あるが、雇用義務上は区別されずどの種類でもいい。(重度身体障害・重度知的障害は1人で2人分カウント等の特例もある)
オフィスワークでは、頭脳労働や組織内の対人折衝が必要とされるため、必然的に知的水準・調和能力の高い身体障がい者に需要が集中する。障害者手帳を持つほどの知的障がいだと、「雇っても職場には任せられる仕事がない」ためだ。
知的障がい者のための特別業務(社内で使う封筒をのり付けさせるとか、始終情報収集という名で動画を見させるとか)を担う部署を作って入れても、隔離部屋として問題になるしできない。各部署に配置して作業させ(悪く言うと遊ばせておく)ればいいじゃないかと思うかもしれないが、各職場ごとに知的障がい者につきっきりで面倒を見る看護者(作業所でいうところの福祉作業指導員)をつけないといけないし、周囲社員へのモチベーション悪化という弊害が出る。
精神障がい・発達障がいについては認知能力や対人コミュニケーションに難があるため(だから障がい者なんだ、工夫次第で難をカバーできるレベルなら手帳は貰えない)、各職場に配置してトラブルメーカーとなり他の従業員へのマイナスの影響が出るのが怖い。
雇われる障がい者側としても、福利厚生や給与条件の良いほうを望むので、オフィスワークができる身体障がい者で労働意志のある者は、公務員・大企業だけで吸収されてしまう。
特に目・耳・手・知能・内部が健常な下肢障がい者はひっぱりだこで、省庁や役場や大企業で他の障がい者は見なくとも車椅子に乗った下肢障がい者の姿をほぼ必ず見られるのはそのためだ。(省庁役場はあまりに下肢障がい者に拘るので全く足りず、でも法的義務は満たさないといけず、かといって「雇用代行業」のような企業に委託する裏技も忌むため、手帳所有に至らないレベルの障がい者も雇用実績に水増計上してたのが2018年に発覚し大問題になった。)
次に需要が高いのは心機能障害や腸機能障害等の内臓・循環器系の内部障がい者で、こちらは見た目では判らないがやはり公務員や大企業に多くいる。
また精神障害の中でもてんかんは知的能力・調和力に問題がないため需要が高い。
それでも公務員と大企業の義務人数を満たせず、省庁では水増しや大企業では雇用代行に走ることとなっている。
従業員数が数十人・数百人程度で大企業というほど規模が大きくないが障がい者雇用義務が課されている中規模企業で障がい者を求人すると、身体障がい者の応募者はなく、知的障害者や統合失調症・感情障害・発達障害等の精神障害者を雇うしかなくなる。
手帳を持つほどの精神障がい者は知的水準が高くとも(てんかんを除き)対人コミュニケーションの点で日常生活にも支障がある例が多く、職場に決まった時間に出勤して、他の従業員とコミュニケーションを取りながら決まった時間まで働き続けるという、「健常者と同じ職場で同じように働く」こと自体が困難な人が多い。企業側もそれをわかってるから採用したがらない。もしかしたら大丈夫かも、の当たるも八卦の賭けで正職員として採用するほどの経済的余裕がない企業が多いし、ダメで解雇したあとのトラブルや告発され「障がいがあるとわかってて雇用したんだろう」との批判も怖い。
知的障害者については指導員がいれば単純作業が可能だが、現代日本で単純作業は福祉作業所や、シルバー人材センターや、家庭内手工業的な小企業や、工場では機械が担っており、障がい者の雇用義務が課された中企業のオフィスや工場で知的障がい者ができる労働が無い。
よく福祉作業所ではパンやアクセサリー・小物を作ってるが、パン屋は個人経営や小企業なので雇用義務が課されないし、大きなパン製造工場では製造ライン工という位置になるため、やはり難しい。アクセサリー・小物製造に至っては個人経営ばかりだ。
そんな状況で、法的に課された雇用義務を果たそうとすれば、話題になってるような、知的障がい者を作業指導員がつきっきりで農業という名の家庭菜園レベルの土いじりをさせている雇用代行業に頼るしかない。
委託するより義務違反して一人あたり5万円の納付金を払ったほうが安いとしても、社名公表によるイメージ悪化や批判を恐れ、困窮した末の逃げ道としての需要が発生しているのが現状だ。
代行業を禁止すれば、大企業は農業部門や農業専業の特例子会社を作って、赤字覚悟で(専業農家が機械使って作る野菜に勝てるわけがない)直接雇用するだけで、当事者からすれば状況は変わらないだろう。
特別部署や子会社を作る余裕のない中企業に至っては「どうやっても雇用は無理」と違反覚悟で開き直って、全体として雇用数が減るだけになるのは目に見えてる。
……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……
prologue
いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャルの可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界の価値を刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないものの価値が、目に見えるものの価値に負けてしまったことを意味しているのだ。微調整
人生のシンボル世界とアレゴリーの冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神の本来の豊かさの立体的構成について)
「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“
このうわべは月並な文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」
—ミラン・クンデラ『不滅』
1 - verse
宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。
それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである。
感情は字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しかし実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一の感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。
映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物の感情をひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。
人間は存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。
そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまうものである。
ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。
たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のものを発明する必要はなくなる。
それと同様に、世の中の九割以上のものが面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり、物語が面白いと思えなくなってから、しかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。
トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単なゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。
人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。
もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているからである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である。
最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。
往々にして悪魔は自分自身を天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然と哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものはSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。
探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任の肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。
自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。
日本人のモラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。
日本では個性的なことをやると嫌われる。日本でオリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現の範疇でしか成立しない。
一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在そのもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプット)からである。
今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しかし自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである。
安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会的人生の流通権力は、結局、人間を排除する社会の固さにひれ伏し続けているからである。安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。
たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。
物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品のこちら側こそが物語だからである。あなたが人生という言葉を使う時、その人生は乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活をイメージするだろうか。乾パンと乾パンが出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安を払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉も欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉の意味が乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなたの脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である。段落
芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないから不快ではない、として表面を見るのである。
今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないからいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代の限界だったのだ。段落改訂
そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである。思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である。段落改訂
そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものである。ポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂
趣味的だからだ。趣味というのは自己満足だから、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものだからだ。趣味は危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂
ほとんどがニューヨークやパリや海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。
これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである。
ゴッホの絵画は生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢である。しかし、人生を理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。
本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である。段落
人間の生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。
ピカソはシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶はシステムだ。このように、この世のすべてのものは「システム」である。システムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである。
システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分と区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。
イチローがホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。
イチローがホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットにボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである。
食べ物でいえば、ハンバーガーそのものは固体であるが、ハンバーガーの牛肉パテ一枚は液体である。ハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマト、レタス、ピクルス、ソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである。
では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。
飲み物の場合であれば、それ自体がすでに液体である。いくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉からの抽出の仕方もわからない。
そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり、感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである。
もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。
世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである。遠近法(パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。
実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たちの思考に弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整
この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのものの本質のポテンシャルを判断することが不可能になる。言うなれば、開封されないゲームソフトのパッケージのようでもある。段落改訂
沸騰していく社会
小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂
なぜなら大多数にとっては、矛盾を解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面からは矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。
ある人間が、自分の生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分の生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身の生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデントの連続から成っているのだから。段落
このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである。
社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒や批判にいたっては悪いイメージが自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒や批判は良いものである。
歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったとき、あの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41
……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……
prologue
いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャルの可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界の価値を刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないものの価値が、目に見えるものの価値に負けてしまったことを意味しているのだ。微調整
人生のシンボル世界とアレゴリーの冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神の本来の豊かさの立体的構成について)
「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“
このうわべは月並な文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」
—ミラン・クンデラ『不滅』
1 - verse
宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。
それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである。
感情は字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しかし実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一の感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。
映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物の感情をひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。
人間は存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。
そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまうものである。
ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。
たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のものを発明する必要はなくなる。
それと同様に、世の中の九割以上のものが面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり、物語が面白いと思えなくなってから、しかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。
トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単なゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。
人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。
もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているからである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である。
最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。
往々にして悪魔は自分自身を天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然と哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものはSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。
探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任の肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。
自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。
日本人のモラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。
日本では個性的なことをやると嫌われる。日本でオリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現の範疇でしか成立しない。
一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在そのもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプット)からである。
今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しかし自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである。
安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会的人生の流通権力は、結局、人間を排除する社会の固さにひれ伏し続けているからである。安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。
たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。
物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品のこちら側こそが物語だからである。あなたが人生という言葉を使う時、その人生は乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活をイメージするだろうか。乾パンと乾パンが出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安を払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉も欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉の意味が乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなたの脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である。段落
芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないから不快ではない、として表面を見るのである。
今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないからいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代の限界だったのだ。段落改訂
そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである。思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である。段落改訂
そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものである。ポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂
趣味的だからだ。趣味というのは自己満足だから、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものだからだ。趣味は危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂
ほとんどがニューヨークやパリや海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。
これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである。
ゴッホの絵画は生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢である。しかし、人生を理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。
本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である。段落
人間の生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。
ピカソはシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶はシステムだ。このように、この世のすべてのものは「システム」である。システムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである。
システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分と区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。
イチローがホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。
イチローがホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットにボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである。
食べ物でいえば、ハンバーガーそのものは固体であるが、ハンバーガーの牛肉パテ一枚は液体である。ハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマト、レタス、ピクルス、ソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである。
では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。
飲み物の場合であれば、それ自体がすでに液体である。いくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉からの抽出の仕方もわからない。
そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり、感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである。
もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。
世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである。遠近法(パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。
実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たちの思考に弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整
この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのものの本質のポテンシャルを判断することが不可能になる。言うなれば、開封されないゲームソフトのパッケージのようでもある。段落改訂
沸騰していく社会
小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂
なぜなら大多数にとっては、矛盾を解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面からは矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。
ある人間が、自分の生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分の生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身の生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデントの連続から成っているのだから。段落
このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである。
社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒や批判にいたっては悪いイメージが自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒や批判は良いものである。
歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったとき、あの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41
……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……
prologue
いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャルの可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界の価値を刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないものの価値が、目に見えるものの価値に負けてしまったことを意味しているのだ。微調整
人生のシンボル世界とアレゴリーの冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神の本来の豊かさの立体的構成について)
「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“
このうわべは月並な文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」
—ミラン・クンデラ『不滅』
1 - verse
宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。
それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである。
感情は字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しかし実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一の感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。
映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物の感情をひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。
人間は存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。
そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまうものである。
ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。
たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のものを発明する必要はなくなる。
それと同様に、世の中の九割以上のものが面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり、物語が面白いと思えなくなってから、しかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。
トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単なゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。
人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。
もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているからである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である。
最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。
往々にして悪魔は自分自身を天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然と哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものはSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。
探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任の肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。
自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。
日本人のモラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。
日本では個性的なことをやると嫌われる。日本でオリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現の範疇でしか成立しない。
一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在そのもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプット)からである。
今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しかし自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである。
安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会的人生の流通権力は、結局、人間を排除する社会の固さにひれ伏し続けているからである。安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。
たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。
物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品のこちら側こそが物語だからである。あなたが人生という言葉を使う時、その人生は乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活をイメージするだろうか。乾パンと乾パンが出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安を払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉も欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉の意味が乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなたの脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である。段落
芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないから不快ではない、として表面を見るのである。
今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないからいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代の限界だったのだ。段落改訂
そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである。思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である。段落改訂
そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものである。ポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂
趣味的だからだ。趣味というのは自己満足だから、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものだからだ。趣味は危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂
ほとんどがニューヨークやパリや海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。
これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである。
ゴッホの絵画は生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢である。しかし、人生を理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。
本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である。段落
人間の生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。
ピカソはシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶はシステムだ。このように、この世のすべてのものは「システム」である。システムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである。
システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分と区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。
イチローがホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。
イチローがホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットにボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである。
食べ物でいえば、ハンバーガーそのものは固体であるが、ハンバーガーの牛肉パテ一枚は液体である。ハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマト、レタス、ピクルス、ソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである。
では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。
飲み物の場合であれば、それ自体がすでに液体である。いくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉からの抽出の仕方もわからない。
そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり、感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである。
もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。
世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである。遠近法(パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。
実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たちの思考に弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整
この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのものの本質のポテンシャルを判断することが不可能になる。言うなれば、開封されないゲームソフトのパッケージのようでもある。段落改訂
沸騰していく社会
小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂
なぜなら大多数にとっては、矛盾を解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面からは矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。
ある人間が、自分の生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分の生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身の生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデントの連続から成っているのだから。段落
このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである。
社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒や批判にいたっては悪いイメージが自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒や批判は良いものである。
歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったとき、あの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41
別に意見を述べる事自体は悪くないんだけどね、何も業界のことも会計のことも知らないなら、理想的な終着点じゃなくて、素人的な理想論だけど、こうなってほしいなあ、とか言えばワシのような変な人に絡まれないと思うわ
君の意見を鵜呑みにして意見を述べた素人その2、その意見を鵜呑みにして意見を述べた素人その3、みたいな感じでどんどん素人の地獄の伝言ゲームが始まるので辟易してるから
終わりにするっつったのにまた馬鹿がポップアップしてきたので追記。外から適当に石投げて無事で済むと思うな。
https://twitter.com/azukiosamitu/status/1610299197311574017
まあ活動8年でここ2年余り見てコミケ語られてもなあと言うのが25年来のロートル選手であるあたしの第一声だなあ。数回の辛いとこ凌いでいけるようなタフさがないと持続はできないわなあ
新参者は黙ってろって?典型的な老害でこういうやつが全体の空気を毀損するんだよ。長生きしてるだけで自分がえらいと勘違いしてんのか?
典型的なお気持ちジャッジマン。バズったお気持ちなら自分の規範でジャッジしていいと思ってんのか?それが勘違いと思い上がりだっつってんの。逝ってよし!!!
https://twitter.com/_nyaruse_/status/1609927529619685376
評論サークルが「コミケは大手以外厳しくなった」と書いた記事を読んだけど共感できない。
この方、3年ぶりにコミケに参加して爆死したみたいだけど、コロナ中に参加せず休んでてコロナ以前の感覚で準備して持ち込めばそりゃあ・・・って感じなんよ。
「寝ている間に世界は変わった」ってすごいね。寝てねえわ。起きて生活してたわ。
無論、そのあいだ四六時中同人活動のこと考えてたわけじゃない。それがそんなに悪いことかね?
https://twitter.com/shima_ko/status/1610106425589760000
正月からわっと長文書いてるのも私自身ここ2週間ずっと仕事でてるのに何やってんだろなとは思うけど「ずっと前から思ってきたこと」についてまるで今突然に世界が変わったみたいなことを聞かされると「今まで寝てたのか?」とは思う。
この2年間、わたくしにはわたくしの生活があったことに想像力を働かせてもろて…
https://twitter.com/HakkaisanDassai/status/1610478655402291201
果たして同人誌を何の為に描いているのかと言う話と繋がってくる事かと思います。
個人的には、同人誌の根底にあるのは個人の興味関心だと思うのです。それを一人でも手に取って共感してもらえれば、これ以上ない喜びになるのではないのでしょうか?
最後でずっこけたわ。理想論を語るのはそりゃだれでもできますけど、完全に野球未経験のおっさんが草野球チームに「理想のベースボール」を語ることの滑稽さ、相当ですよ。生意気っていうか、くそダサい。幼稚で恥ずかしい。
もう当然の前提だがこのレベルのことから書いたほうがいいっぽいので改めて書くけど、儲けのためにやってるわけじゃないのよ。同人、しかも評論なんて儲けを考えたら割にあわない。一方で、本を刷るのもイベント出るのもなんやかんや金がかかる。だから継続的に本を刷ってイベントに参加して頒布するためには、どうしたって支出のマイナスをゼロに近づけるための努力と技術があったほうがいいのだ。同人誌を1ページでも書く前に、そのくらいのこと想像してからつぶやけるようになろう。
そもそも元の文章に「たくさん売るためにやってるんじゃない。自分の納得したものをかたちにできたか否かが大事なのだ。」と書いておいたじゃん。
にもかかわらずこの類のコメントするやつ結構いるけど、「書いてあることを読み取る」訓練をしたうえでインターネットやったほうがいいよ。
https://twitter.com/hayamiyuzuka/status/1609837418068475904
素人が好きで描いたものを持ち寄るイベントなんだから、基本儲けは厳しいものですよ。
嘆くならそのスペース他のサークルに譲ったらいいよ。
こいつとか
confi 批評系で金儲けしようとしてるやつ初めて見た
こいつとかね。
ttps://twitter.com/_chikuwa/status/1610635318159630338
まあコミケで「大手サークル以外厳しいと思う」ってのは利益を求めたらそうなんじゃないの?って思うがそれって昔から大して変わらんでしょって印象がある。でもコミケって(表向きは)そういうものじゃないでしょ。
https://twitter.com/more_e/status/1610037604921266179
色々と言いたいことは分かるんだけど『一般参加者が減って売上が減るならコミケに行かない』と決めたのなら行かなくて良いと思うんだよな…
こっちは逆に「書いてもいないことを読み取っている」パターンね。『一般参加者が減って売上が減るならコミケに行かない』と決めたのはどこのどいつだよ。
コミケは「厳しい場所」になったんじゃないかということは書いたが、わたくし自身は「コミケに今後も出るor出ない」も「同人活動を続けるorやめる」も書いてない。
「一般入場の制限撤廃されたらいいなー」とは直接書いてないけど、そのくらいの願望を読み取られるならまあ理解できる。
でも出ませんもやめますも書いてないのにそう読み取るのは、自分の願望をテクストに投影しすぎ。この類の言及も結構あったな。全部はあげるのめんどくせえのでやらないが。みんな、「書いてあることを読み取る」訓練をしよう。野矢茂樹 『大人のための国語ゼミ』とか読んでさ。
ttps://twitter.com/motomi84894599/status/1610774350885703680
その増田、全方位に喧嘩売っていくスタイル(会場でカラー18pを1000円で買った相手にすら電子の方が安いからお前みたいな貧乏人は電子で買えと薦めてくる系)だから売り上げ落ちてるの当然じゃないかと
またすげえのが出てきた。「会場でカラー18pを1000円で買った相手にすら電子の方が安いからお前みたいな貧乏人は電子で買えと薦めてくる系」ってお前の願望以外の何物でもないだろうがよ。てか、本文で紙媒体への愛着を表明しているのにこのレッテル貼りするの、マジでなにも読んでないんだね。
投げられた石に投げ返してたら「全方位に喧嘩売っていく」認定とはこれまたすごいね。そんなに言い返されるのが嫌なら静かにしておきなさいね。雑魚ぶりに呆れ返るよ。
ttps://twitter.com/motomi84894599/status/1610576722470273024
というかそのサークル、頒布品が「同人誌の一般的な価格より高い(カラー18pで1000円)」と書いただけで引用リプ粘着されたから、そもそも地雷な人だったよ…(´・ω・`)
あ、なんか別のサークルと勘違いしてるっぽいね。人違いで石投げんでくれるか。
ttps://twitter.com/motomi84894599/status/1610450164527034373
高いんです、このサークルさんの頒布物(カラーとはいえ18pで1000円)(バイアグラ本は白黒で34pで1000円)
両方とも各500円だったら売れたと思う
改めて、人違いですよ。念の為。
https://twitter.com/AsouNayuta/status/1610311989657767939
例え“評論ジャンル”でも、しっかり“時勢に合わせた活動(内容や宣伝を含む)をしたか?”と聞かれて堂々胸を張れる活動してるのか?は疑いたい
https://twitter.com/cureseraphim/status/1610198927642591233
うーん…2日間スタッフ側から見てた感想だけど、大手(いわゆる壁)サークルでも当日まで全く告知や活動してなかったところは全く捌けて無かったし、島中サークルでも日頃から凄い頻度で発信してるところは早々に完売してた。
言っちゃえば直前の告知だけじゃなくて、日頃から自分の存在を発信し続けてる、うちのとこに絶対に手に取りに来てね!ってサークルは売れる(てかそういうサークルに買いに行きたい人がチケット買うので当然)し、発信の少ないサークルには厳しい。けどそれはコミケに限らないと思う。
ーーー
件のサークル主が3年ぶりのコミケ参加だったことは時世もあるから批判されるべきことではないと思う。
ただ、その間自分の作品と存在をアピールし続けていたか?そして、その間コミケの情勢についてアンテナ張っていたか?ココがポイントかなと私は思う。
やめてくれー、インターネット軍師。やめてくれー。恥ずかしくなるから。一切触れてねえのに、広報戦略の不備というわら人形こさえて賢しらにふるまうの、なんなんやろね。やめてくれー。
でも「3年ぶりのコミケ参加だったことは時世もあるから批判されるべきことではない」ここはマジでその通り。
ttps://twitter.com/suku_mizumi/status/1610153702765252608
てか、さっきのコミケ大手論。評論でやってるならむしろ増田で書くなよ、実名で書けよ。そっちのが遥かに美味しいだろ、という内容だったな。
いやいや、こんな攻撃的な振る舞いを実名でやったら知り合いからドン引きされるし馬鹿が寄ってくるしでいいことないですよ。
そもそも部数とか頒布実績とか、あんまり知られたくない、秘密にしたいんですね。自意識漏れ出た文章を名前と結びつけて書くのも美しくないし。というわけで匿名ダイアリーを使いました。
最終的に身分明かしてBOOTHのURLを貼る最終回もあったかもしれないけど、それこそ儲け目当て!儲け目当て!と鳴く虫どもが大喜びしそうだしね。
好意的な反応してくれる人もいて涙涙ですよ。ちゃんとみてます!ありがとう!でもそれはここに貼ってみんなにみせたげたりはしない!わたくし自身で大切に受け止めています!
わたくしの頒布した批評誌に興味もったと表明してくれた人もいて、素朴にうれしかったっす。どこかでエンカウントしたらよろしくね。そういう偶然がたぶんどこかにあるはずだから。
貼れるリンクの数に制限あるから後から追加したやつはh抜きで置いてます。新たに匿名ダイアリー立ち上げるのももう面倒なのでね。
以前このようなエントリを投稿したのだが、このエントリの文脈を前提にColabo騒動を考えるのであれば「自由を得るため皆で関わろう」という考え方になる。
ボクのような性質を持った人間は情報がオープンであることが望ましいと考えるし、その観点から言えばColaboは保護している女性に危害が及ばないよう慎重になりながら情報を可能な限りオープンとし、我々市民は自治体や団体と連携しつつオープンな情報を活用してデバッグ(検証)とリファクタリング(最適化)を行えるような体制を築いたほうが良い。
そのようなものは理想論だと言いたくなる人も居るだろうが、我々は理想を実現するためにFLOSSやGNUを標榜しているのでは無かったか?
理想論、それは褒め言葉だろう感謝する。
GNUはそもそも、製品を無償で提供しサポート業務を有償で請け負うと言ったビジネスモデルが提唱されている。
そのような中で発展したGNU/Linuxはプロプライエタリの代表格であったMicrosoftがWindowsのサブシステムとしてGNU/Linuxを取り込むといった成果が近年見られるし、より一般大衆目線で事例を挙げるのであればAndroidスマートフォンはGNU/Linuxベースだ。
FLOSSやGNUの事例を参照し、女性の保護は無償で請け負いつつも生活のサポートは有償で行うというような、無償を支えるための有償ビジネスモデルとして様々な無償-有償パターンを洗い出し・議論し・試験し・実現していくことこそ、女性が、そして我々が自由を得るために必要な行動なのではないかと皆さんへ問いたい。
ボクは以前のエントリで語ったように思想には詳しくない。
しかしボクがよく知るハッカー文化は、万人が自由にアクセスできる環境や道具や制度を揃え、万人が自由にそれらを選択し活用し好きなものを好きなように好きなだけ生産できる社会を是とする。
様々な事情により不自由であった女性が保護された先で、自由に使うことが可能な選択できる環境や道具や制度が社会にあることを知り、好きなものを好きなように好きなだけ生産できるようになることは素晴らしいことじゃないか。
更にその生産するまでの過程がオープンであるのならば、それを見て憧れ、1人2人と自由に至る女性が増えていくことへ繋がる。
「失敗したらどうするのか?」と言いたくなるだろう。
そんな意見への返答は「動かせばバグ出る!ボクたちはそれをよく知っている!」だ。
バグを恐れるな先ずは動かせ!壊れたら、落ちたら、問題が見つかったら検証し取り除こう!
それがボクたちのやり方だし、だからこそ検証可能性は担保しておかなければならない。だからこそブラックボックスではいけない。
Colaboだけでなく全ての団体へ言おう!
自由でオープンな社会を目指そう!自由でオープンな団体となろう!
ボクはそうなれるようこれからもColaboだけでなく全ての団体を応援し、FLOSS活動を通してColaboだけでなく全ての団体へ貢献していく!
冷静に考えてみて、憶測で親ならばを語ってるんだよ?
確かにアナタは子供であり親を見てきたかも知れないが、アナタは少なくとも親の経験がないはず
つまりそれは憶測であり子供の理想論であって親の実感が伴った意見ではない
俺の思い込みに基づく勝手なアドバイスなんで、違ったらごめんね。
この状況で、給与水準が高いとか、やりたいことに一致している特殊な業界だとかで給与以外に得るものがあるとかあればいいと思う。
恐らく夫さんは仕事のことを楽しそうに話していたこともあったそうだから、後者だったんじゃないかな。
でも、それが失われているなら、そして本人が見切りをつけて転職を考えているならば、そんなにがんばってそこに拘る必要があるようには、ちょっと思えないです。
ただ、転職を考えて、自分のキャリアを見直す機会にするのは非常によいことだと思うので、そう言う気持ちで応援してはどうだろう。
資格を取得するというのは、夫さんにとって何らかの気晴らしになるかもしれない。
資格があるからいつでも退職できるんだぞ!キャリアの棚卸しをちゃんとやって、俺にはスキルがあるんだぞ!って思っておくことで、大胆に行動できるという事も有るから。お守りだね。
その結果、職場での待遇や仕事もよくできるようになって、元の会社に勤めたまま現状が改善するということもよくある話です。
ただし、転職エージェントというのは、職業を紹介して就職させたことで報酬を得るという職業なので、基本的に転職するかどうか迷っている人を転職させようとしてくる。
彼らが声をかけてくるのは、言わば「仕入れ」に相当する行動なので、だから迷っている人ほどせかしたりする。
上手く付き合っていくことは大事。彼らも別に悪いことをしているわけじゃないけれど、距離感を大切にしてね。
嬴政が「戦争をなくすために中華を統一する!」「人間の本質は光だ!」とかぶち上げて侵略戦争してるけど、
秦が中華を統一したところで中国の内戦に限ってすら戦争がなくなることなんて全くなかったわけだし、
統一後も圧政が元になって民衆の恨み買いまくってるし、クソデカ陵墓作らせたり不老不死に執着したり、
董卓や曹操が可愛く思えてくるほどやってることが悪役そのものなんだが、よくこんな人物をここまで美化できるなと思う。
漫画自体は戦争描写がめちゃめちゃ面白いし大好きなんだが、嬴政を正当化するのは無理がありすぎて滑稽ですらある。
極めて現実的な統治を語った呂不韋に対して、何の根拠もない理想論で論破した風に描かれているシーンとか滑稽の極みで、
あれにほだされて蔡沢とかが「胸が苦しい!」みたいになってたのとか、「それはひょっとしてギャグで言ってるのか!?」としか思えなかった。
大学を就職予備校だと思う卒業研究真っただ中の理系大学生です。
大学は研究機関っていう空論/理想論はわかるんだけど、実態は就職予備校だと思うんだよね。(割と偏差値の高い俺の通う大学でもそう)
教授が学生に向かって、大学は研究機関だと言い続けているんだけど、無駄だと思う。
毎年、大学を就職予備校だと考える大学生が大量生産される根本的な原因は、「高校教育」「若者の貧困」「研究者の貧困」だと思う。
借金をしないと大学へ行けない貧しい学生/まして借金を増やして修士/博士まで行くわけない、風俗/パパ活なんかしちゃう女友達までもいる。
企業の採用募集要項を見ると、学士/修士/博士でそこまで給料に差はない。また、メディアで日本の研究者は貧しいと聞く。
これらが根本的な原因だよ。
つまり、何が言いたいかというと、大学は就職予備校なんだから、とっとと俺に卒業研究の単位をよこせ!!!!!ってことだよ
大学が就職予備校になると、日本の国力が落ちるって?いいんだよ、いずれ日本は太平洋二分論によって、東日本はアメリカ、西日本は中国に実効支配されるんだから。
なんか叩く流れができてしまって意図した方向からだいぶズレてしまった。申し訳ない
再度書いておくが俺は元増田だけじゃなくて京大生とかその反対側も全て無駄だったって言ってるだけで、元増田だけについて特に何かを非難したかったわけではない
ちょっと煽り気味に書いてしまって神経を逆撫でしたのは先に謝っておく
なお主張はずっと変わらず、非専門家が内容に踏み込んで何か言っても不毛だねって俺が思ってるだけ
俺は権威主義的なところが多少あるけど、権威主義って別に悪くないんじゃねと思っている そこらのヒキオタニートが家で理想論掲げてるのと実務化が現実の制約込みで色々考えてるのは全然実用性が違うでしょう?権威を鵜呑みにしすぎるなっていうのは俺も心得ているけど、だからといってそれが素人の意見まで全部平等に扱いましょうってことにはならないんだよな
普段何も考えず惰性で生きてきたような人たちが新型コロナワクチンの時だけ急に自分で考え始めたりして、急に権威を批判し始めたりしてなんで?って思うことは多々ある
・前半は自分でわかっているようだが、公共広告の古い定義にこだわった揚げ足取りにすぎない。
ウィキペディアの定義が万能というわけではないのはもちろんだ。
本来なら「子供の目に触れる場所」が表現の議論における「公共の場」の定義だろうな
アメリカではスクールバスだの本人が運転する自家用車・バイク・スクーターで通えばいいから目にしないだろうけど。
就職前の学生に人生の早い段階からスマホゲームでギャンブルと女におぼれてろって広告出すのはさすがに教育に悪すぎやしねえか?
まあどんな大手ゲーム会社であれ事務次官の無職息子みたいなのが百万単位でつぎ込むおそろしいゲームつくったのにまた電子麻薬で人をだめにしようとしてるのかとしかおもわれないぜ。
・後半、
「本来」って言葉をわざわざいれて書いてるからうすうす自覚はあるんだろうが、