はてなキーワード: 懺悔とは
結局あのあと自殺未遂した。で、自殺未遂のあと結局どうなったかというと、今は学部時代以来に久々に止まっていた時間が動き出したかのようになった。
自殺未遂以前の状態は最悪だった。自殺未遂する以前の数年間は今思っても哀れ以外のなにものでもない。
通っていた病院の先生の治療方針は、身体的な問題に対するうつ状態へのアプローチだった。睡眠不足・睡眠の質が原因、野菜を食べること、運動すること…
私は、謎の原因で毎日毎日つらかった。まず朝起きたくない。起きたら一日が始まってしまうから。さて、起きたらどんな一日が始まるか。自分の出来なさに対する懺悔、今日こそは打破するという決心、しかし動かなくなってしまった身体。いや、正確には謎の夢から醒めるところから。夢の典型パターンとしては、謎の義務やルールが存在していて、それを私が知らないうちに破ってしまうこと。そして、私には次の仕事があること。朝、目が覚めると、「私はまだあの仕事が終わっていない。起きてはいけない。戻らなきゃいけない‥でも夢なのか。あれは夢なのだから、現実のやらなきゃいけないことをやらないと‥」と毎朝朦朧とした意識のなかで目が覚める。目が醒めてもベッドから起きない。かろうじてくだらないまとめサイトには指と脳が動く。そのうちに睡眠欲が私の頭を殴ってきていつの間にか寝てしまう。そしてまた夢を見る。これを3回くらい繰り返すと14時とか15時になっていて、流石に大学に足に運ぶ。日が少しずつ傾き始めている通学路を歩く。コンクリートの匂いと鳥の声と木のざわめきがする坂を歩いていく。火照ったからだを冷やすため、あるいは冷えたからだをあたためるために売店で飲み物を買う。そして、研究室に向かう。少しでも運動量を増やそうと思ってひんやりとした研究棟の階段を登る。けれど、なんだか貧血がしてくる。階段の踊り場で壁によりかかる。そしてまた、動く決心をして研究室の扉を開く。そして笑顔で研究室の仲間に挨拶する。おどけて笑って、研究室の後輩にフランクに話しかけたり、留学生の生活上の困ってることを相談されたら、そんなの私がかわりに電話してあげるよ、と言う。そして、まったく働かない頭をデスク前に置いて時間を過ごしていく。そんなイツモドオリの日々。
もう6、7年もこんな生活だ。もうさすがに破綻だろう。だから、1ヶ月まるまる実家でなにもせず過ごしてみたりした。医師の言うことをやってみせた。毎週2、3日は大学の温水プールで泳ぐか、ランニングをした。緑黄色野菜も食べた。睡眠も不足にならないように8時間はかならずキープした。でもよくならない。
だれもいない更衣室、塩素の匂い、誰かのシャワーの音。どこか遠い場所でのことみたいだった。100メートルも泳げなかった私は1キロメートル泳げるようになっていたころにもそれらの感覚は鈍いままだった。
ランニングするのは嫌いじゃなかったけれど、走っていると思考が自分を責めていく。このままではいけない。けれど、そう焦っている事自体がだめだ。リラックスするべきだ。次の計画はどうしよう。まずは健康が先決だ。うつ状態の人はセロトニンが分泌されていないらしい…
学生の間ずっとお金がないので自炊は得意だった。かぼちゃ、ほうれん草、トマト、キャベツ、ブロッコリー、牛肉、豚肉、鶏肉、鮭、納豆、豆腐、ヨーグルト。こういったものをよく食べた。家で作ったご飯を大学に持っていって食べたりしていた。
でも、もうネットサーフィンくらいしかできないくらいになってしまった。研究はしていたけれど研究風のなにかであって、先生に、もはやタスクレベルに分解してもらって、それをようやくとりかかるもこなすことができない。
普段イツモドオリの私だけれど仲のいい先生たちには徐々に私のくらさを露呈していくようになる。
けれど先生たちはそんな私にも良くしてくれた。どこかイベントに誘ってくれたり、意味のない雑談を何時間もしてくれたり。けれど、良くしようと思ってくれればくれるほどただ苦しいだけだった。
暖かい日差しのもとで、木々の木漏れ日が湖畔を彩っていた。そんな素晴らしい風景も、たしかにきれいなのだけど、きれいなものを見ても心動かされない自分の状況の衰退が際立たせられているだけに思えた。
鈍っていく自分の感覚、自分の感覚がどんどん信じられなくなっていく。
リストカットなどをしたら痕が残ってしまう。だから、痕にならない針を腕にさして苦痛を感じた。「こんな私でも痛いときちんと思えるんだ」という安堵があった。
2人の娘がいる父親です。
家族も全員爬虫類を含めた動物が好きで、蛇やトカゲと触れ合ってはニコニコしています。
特に娘2人はボールパイソンが好きらしく、物心ついた時から触れ合いを楽しんでいました。
上の娘が中学生に、下の娘が小学生に同時に上がったためお祝いを買ってあげることになったのです。娘たちは「ハムスターがほしい」と言いました。
厳重に管理をしているとはいえ、もしもどちらかが脱走した時にはハムスターが食べられてしまう危険があるからダメだ、と伝えました。それでもハムスターがほしいと2人ともわんわん泣く始末です。普段物を欲しがらない娘たちが泣くほど欲しがってるなら自分たちが気をつければいいだけの事だと妻に諭され、サプライズとしてハムスターを飼うことにしました。
ペットショップでジャンガリアンを2匹購入しました。持ち帰り、ハムスター飼育経験のある妻が別室で娘たちにバレないように管理を行っていました。
翌日。その日私は蛇の給餌を行っていました。2人の娘も一緒です。すると妻の部屋から「キャッ」という悲鳴が聞こえた後に「まって!」と大きな声がしました。
何事かと思いドアを開けた瞬間、足元を小さい影が抜けていきました。
そうです。ハムスターでした。娘たちはそれに気付かず「ママどうしたの?」「大丈夫?」と妻の心配をしています。指をケージの扉を開けた時、ケージから出ようとしたハムスターを手で遮った瞬間、指先を噛まれたようでした。
大丈夫だよと娘に声をかける妻が、口パクで「ハムスター つかまえて」と伝えてきたので部屋に戻り、捕獲の手順を頭に浮かべた瞬間でした。
「シュッ」という音が聞こえたのです。娘達が好きなボールパイソンが、冷凍マウスを食べる時に聞こえる音がしたのです。
嫌な予感がして床を見ると、弱肉強食の世界が見えました。時すでに遅し、ボールパイソンは自分の頭と同じサイズ程のジャンガリアンハムスターに巻きついていました。
本当に一瞬だったのでしょう。ハムスターの顔は買った時とほぼ同じ顔なのに、体は冷凍マウスのようにぐにゃぐにゃなのです。そしてゆっくり、ゆっくりと頭から飲み込まれて消えていきました。
完全に私のミスです。妻の声に驚きケージの扉を開けたままでした。娘が見なかった事だけ不幸中の幸いと言えましょう。それでも動物虐待だと罵られても仕方の無い出来事です。
部屋から出てきた私を見て、妻は小さな声で「あちゃー…」と一言だけ呟くと、私に「これは事故だから、いい教訓になったと思えば良いと思うよ。これから気をつけよ。」と言いました。
落ち込む私に笑顔満開の娘二人が「パパ!ありがとう!」「2人で大事にそだてる!ありがとう!」と抱きついて来ました。
ごめんよ。本当は一人1匹だったんだよ。
2人と2匹で色んな思い出を作ってあげたかった。
寿命の長い爬虫類では幼い君たちが感じづらい命の大切さを教えてあげたかった。
本当にごめんなさい。
人間は愚かなので、ここで懺悔する。とっくにモルカーロスを乗り越えただろう増田たちは生暖かい目で読んでほしい。
モルカーを知ったきっかけは、1話の放映後にツイッターでバズり散らかしていたことだった。かわいいモルモットの乗り物が主役なのに舞台は治安が悪め、そんなアニメをYoutubeで見れるらしい。
初めて見たとき、「なにこれ?」。2回目は「教育系アニメか」。3回目で「モルカーってかわいい」。
気が付いたら5回目に突入していたとき、久しぶりに「これはハマった」と本気で感じた。
それからは暇だったこともあり、公式のYoutubeが更新される時間に張り付いては視聴した。一週間が待ち遠しくて、ツイッターやコメントで人の考察を見て感動し、何度も繰り返し見る。それに加えて、たくさんの人がこぞってイラストや小説を書いていたので、溢れ返った二次創作を見るだけでも毎日が楽しかった。世界観やキャラクターが好きで、ストーリーは面白いし、何しろ短いアニメなんだから飽きようもないと確信していた。
しかし、突然見なくなった。3分すらモルカーに渡せなくなった。ふと、SNSで盛り上がる人たちを横目に「見たくないな」と思ってしまったときには終わっていたのだろう。
別にこちらの環境が変化したわけでもなく、新しい何かに熱中していたわけでもない。ただ理由もわからず急激に冷めていった。
2分半の12話、合計したらたったの30分。それすら作品に集中できない人間になってしまった。
はっきりいって、この文章を書くには30分以上掛かっている。その時間で本編を流すことだってできるはずなのに、どんどんモルカーへのハードルが上がっていく。
祭はもう終わったのに、今更参加するのは遅いような気がして。
……ここまで書いてようやくわかったけど、自分が好きだったのは「モルカー」の周りでどんちゃん騒ぎすることだったんだな。じゃなかったら、こんな感想出てこないだろうし。
モルカー、君達の生き様を盛り上がるためだけのガソリンとして消費してごめんね。
人間は愚かだ。
【追記】
アマプラで残りを観ました。思ってたよりわからなかったし、期待値が高すぎただけだった。
これでモルカーと適切な距離でいれそうだ。
最初に言っておくが、これは随分前の話だ。
大型トラックを運転していると、とある大物悪徳政治家を見かけた。
彼はまさにこの日本という国を滅茶苦茶にした張本人として、ネットでも何度も「なぜ暗殺されない?」と不思議がられていた男だ。
ハンドルを切って突っ込んでやればその男が殺せることを、私は尻の下から薄っすらと這い寄るようなエンジンの力強い鼓動の余波から感じ取っていた。
『どうする?殺すか?この国のために、俺のクソみたいな人生を使いきってしまうのも悪くないんじゃないのか?』
幸か不幸か彼の回りにいるガードマンたちは生身ばかりで、車が突然割り込んできて止められる心配もなく、その男の回りにはガードマン達しかいなかった。
『高度なトロッコ問題だ……!現代の法治国家にて暗殺なぞ……!!!しかし、「もうここまできたら殺すしかない!!!」はずの悪党どもが、実際には殺されることなく回っている社会の法なぞを律儀に守っているから、悪党がかえってのさばるだけなのだ……!!!』
必死に巡らせた思考の速度も、一瞬のすれ違いの間に答えを出すには間に合わず、私が運転するトラックはそのチャンスをあとにしてドンドン先へ進んでしまった。
『引き返すか……?!せいぜい死ぬのは俺とガードマンを入れても5人かそこら……しかしああいった悪党が今後も「どうせ殺されない。裁かれない。市民はビビってなにもしない」と調子づけば間接的に死ぬ人間の数はどれほどになるのだ……???』
人間は大型車の運転を何年も続けていると、ハンドルを握っている間は簡単なことでは冷や汗をかかなくなる。
本能と理性がお互いに冷静であること義務付けあわせるかのような機能が身体の中に作り出されるのだ。
それなのに、あの時に垂れ続けた冷や汗の量たるや……。
これ以上思考を運転以外の物に持っていくのは危険だと感じた私は、ついさっき見た光景を必死に忘れることにした。
それからも、その悪党が裏で糸を引いていると思われる事象により日本が滅茶苦茶にされたというニュースは何度も私の耳に入った。
もしも……あの時私が日本中の政治屋に「国民をなめるな!ころすぞ!」と圧をかけていれば……救えた命があったのではないか……。
その思いがこの1年ずっと脳の中を這い回っている。
いい加減疲れた。
私はクソコラが嫌いだ。
ネットに数多存在するクソコラを見て笑えていたのは過去の話だ。
笑えなくなったのは私が間接的に「される側」になったためであり、この記事にはそれに関した懺悔の思いも含まれている。
この記事はいわゆる「お気持ち」であり、二次創作への個人的な価値観もあり、また、製作側であるが故に匿名にせざるを得ない情けなさをないまぜにした長ったらしい愚痴である。
=====
インターネットには実写、イラスト問わず無数のクソコラが転がっている。
まだましなものは人物を雑に切り抜いて別の背景に合成したり、当事者から許可の降りているコラージュだ。(ぼっさんなどが最たる例だと思う)
故に、私がここで明確に「嫌い」とするクソコラは全ではなく、「製作者側の許可はなく、二次創作の範疇であり、且つなんらかの二次的影響を波及させるもの」である。
正直、公式の画像を使用している時点で本当に二次創作の範疇であると言えるのかは微妙であるが、製作側が直接注意をしないのであれば黙認の範囲なのだと思う。
以下記事内でクソコラというワードが出た場合は、このように対象を限定したものであるということである。
また、大きめの主語となるため特定などに意味はないとは思うが、大なり小なりフェイク部分を混ぜることをご容赦願いたい。
(このような稚拙で一方的な狡く読みづらい文章を読む物好きがいればの話であるが)
そのキャラクターは作品内では比較的人気は高くなく、しかし嫌われているわけではない。
性格や設定にある程度の尖りはあれど、それは創作キャラクターにおいては大して異様な特徴ではない。しかし、その少々尖った部分がそのキャラクターに深みを与え、個として際立たせているポイントでもある。
このようなキャラクターなど無数にいると思う。むしろ、こちらの方が基本的には多いはずだ。
今まで見てきた犠牲者達のパターンはいくつかある。例を挙げると、
・画像の頭部を切り抜かれ、実写や全く異なる体型の別キャラクターの頭部にすげ替えられる
・二次創作で誇張されがちな尖ったキャラクター性をより強調して変態性へ改変する
しょうもな……
問題はこれらのクソコラの犠牲者達が、前述の通り「作品内では比較的人気ではない」部分にある。
もしこのクソコラの対象がその作品で最も人気のあるキャラクターで行われていたとき、不快感を顕わにする人々は多くいるし、それを声明する。
しかし、往々にして比較的人気のないキャラクターの数少ないファンたちは、これらのクソコラを楽しむ「実はそのキャラクター自体はどうでもいい大勢の人々」を前に閉口することがままある。
「言っても仕方ない」、「水を差したくない」、「自分が見なければいい」くらいの気持ちであると思う。
私もそうしたいと思っている。
少し前に、二次創作におけるキャラクター改変を糾弾する文章が投稿され、話題になった。
私は該当の記事の(過激な言動はともかく)内容については同意できる部分が多かった側だ。
二次創作をするにあたり、元のキャラクター性を捻じ曲げる行為は、それが必要でなければすべきではない……というべきか、「二次創作である意味が無い」というべきか……
特定のキャラクター性を捻じ曲げたり、極端に誇張したりした作品群が広く認知されたとき、ファン間においてあまりにもあんまりだと思える状況が起こる。
『(該当キャラクター)って、〇〇(クソコラによって付与された改変)だよね』
このキャラ改変が単独の同人作家によるものであれば、作家性がついて回るためある程度「二次創作である」という感覚が視覚的にも制限を与えてくれる。
しかし、クソコラは“公式の画像を使用している”という部分があり、故に“誰が作っても視覚的な作家性が希薄になる”のだ。
どういうことか?
Twitterに蔓延する漫画の数コマの改変コラ画像がよい例である。
その改変コラ画像は、誰が作ったものであるか、パッと見て判別できるだろうか?
少なくとも私にはできない。
そしてできないからこそ、製作者以外の人間が別所で使用し拡散するし、更にその作家性は限りなくゼロに近づいていく。
作家性がほぼ失われた二次創作であるコラ画像が高い認知を得たとき、それは一定の概念となって読者やプレイヤーの認識に擦り込まれてしまう。
これが最大の問題だと私は思っている。
決して筋肉質ではないキャラクターがムキムキマッチョとされたり
……
そのキャラクターを好きな者、製作に関わった私からしたら、かなり“““嫌”””なのだ。
もし私がこの吐き出しを行う切っ掛けになったキャラクターのクソコラが、「1人1回くらい」のものであれば何も感じなかったと思う。
ここまで汚物を垂れ流しているのも、そのキャラクターのクソコラを年単位で作り続けている者たちが存在するからだ。
真っ当に作ったキャラクターが、そのクソコラによって「変態キャラ」にされているからだ。
この感覚はおそらく、「そのキャラクターを純粋に好む人」「製作側になった人」にしかわからないのだと思う。
実際、そうしたクソコラを笑って楽しんでいた人物が、己の最も好きなキャラクターにその歯牙がかかった途端に不快感を顕わにしたのを見ている。
そこにあるのは自覚のない悪意だけだ。
それはかつて、クソコラとは言えないが若輩の私は知り合いの創作キャラクターを改変して遊び、当事者に苦言を呈されたことがあるからだ。
そのときは戯れのつもりであった。そのときも申し訳なかったという気持ちはあった。
が、いざ、しかも全く面識のない人間の手によって「される側」に立ったとき、愚かにもようやくその苦しみを理解してしまった。
ここ数年、私はそのことについてより深く反省し、恥ずかしかったと思い、思い出す度に身悶えするような懺悔の思いに苛まれている。
おそらく当該人物はもう気にしていないとは思うが、かといって許されたわけでもないと私は独り悔やんでいる。
これは自己嫌悪と、自己投影による己かわいさの苦しみによって引き起こされている嫌悪感の吐露だ。
よりにもよって商業方面での製作側になったため、そのキャラクターの全権を持っているわけではなく、個人的に釘を刺すことも出来ず、Twitterで愚痴るのも都合が悪く、こうして匿名に甘んじている。
コラージュをやめろとは言わない。言えない。
ただ願わくば、本来のキャラクターが尊重された上で二次創作が行われるようにならんことを。
[追記4/18]
記号については私が変えればいいだけのことに思えたので消した。
誰かに何かを強要している文章ではないし、反応に対して何か返すことはしないと思っていたが、私の文章の拙さ故に明らかに読み違えられていそうなことに関してだけ補足。
「人気キャラクターはクソコラされない」のではなく、「人気キャラクターのクソコラに対してはキャラクターを好む人間の母数が多いため不快感を口に出す方もそれなりに現れる上、人気キャラクターであるが故にクソコラによる二次創作の認識は拡がっても同時にそれが公式ではないという感覚も伝わりやすい」ため、私が嫌悪している(記事内における)クソコラ群とは少しばかり性質が異なると考えている。
私がここでクソコラと呼んでいるのは、あくまで「人気が無い故に歯止めの利かなくなっているコラ画像」であって、すべてのクソコラではありません。
[追記ここまで]
いつからプロテスタントに懺悔のシステムが導入されたんだ?死んで裁かれるまで、あるいは審判の日が来るまで、自分が天国と地獄のどちらに行くかは分からないってのがプロテスタントの立場だと思ったけど。あと、日本は無宗教ではないなんてのは、いまさら何を言ってんだ的な当たり前の話ですわ。お墓や地蔵が倒れてたらまた立てた方がいいかなと思ったり、おむすびを踏んづけるはよくないことだと感じたり、多くの人の中にあるそういう感覚ってのは、紛れもなく宗教的な心情の現れだ。
私はクリスチャンです。といってもカトリックのような懺悔だとかミサがあるわけではなく、割と自由な感じのプロテスタントの教会のクリスチャンです。日曜礼拝とかあるけど、サボってもそんなに怒られないし、私自身日曜礼拝サボりまくりのダメダメクリスチャンなんですが。だいたい神様を信じたら、だいたいの「やってしまった!でも悔い改めるわ!」で神様は許してくれるのでな?ゆるいぜキリスト教プロテスタント。
こういう感じで、ゆるふわに神様を信仰しています。教会や宗派によっては厳しいとこもあるみたいですが。
で、なんとなく、増田にでも書いて、すっきりしようと思って書くのです。それは、日本人の宗教観についてです。日本人は無宗教だといわれますが、私にとっては違和感しかありません。
というのも日本人って、なんとなく神を信じていてなんとなく信じていいないだけなんじゃないかって思っていて、それは無宗教でもないよねというか。
たしかに私のように一つの宗教を信じているって日本人は少ないと思います(一つの宗教を信じている中にも私のようにゆるゆるふわふわ信仰している人もいれば、ガチ信仰している人もいるんですが)。
でも全く宗教を信じていないってわけでもないなって感じます。それはよく言われるように「初詣で神社に行ったり、お葬式に出席したり、結婚式をチャペル」みたいなことをするけど、「宗教を信じていない」というのから来ています。
私にとっては意味が分かりません。矛盾しているのです。本当に宗教を信じていないならば、神社に行ったりなんかしないはずです。
また、アニメや漫画を見ていても、「神様」みたいなキャラクターが出てきたり、神話みたいなものも抵抗なく受け入れているのを見て、それって無神論者であれば受け入れられないと思います。
それが古くからの伝統だから?慣習だから?みんなやっているから?と答えられますが、それこそ私にとっては「宗教の信仰」なんですよ。
私の家も古くからキリスト教を信仰しているから家の慣習で私もクリスチャンやっているだけなんですよね。
神様も「ぜったいいる!!」みたいな感覚というか「ああ、なんかいるよね~」って気分で信仰しています。
ずっと解消されない疑問で、つまり、「無宗教」「なんの信仰もしていない」ってのになんで、みんな神社言ったり、お寺言ったりしてるでしょうか?という疑問が未だに解消されないので、ここに書いてすっきりしたいと思っていますがすっきりしないな。と。誰かすっきりさせてください...
※追記
みなさんのコメントを見て、なんとなく理由が分かってきました。ありがとうございます。ですが、同時に私の疑問をもうすこしはっきり言語化すると、
例えば、みなさん、神社にお参りに行きますよね?その時に、手水で手を洗って、2回お辞儀して、2回拍手するらしいですね? それでお賽銭?というお金を投げ込んで、なにかお祈り(願いごと)をするらしいですよね?(実際には私は一度もお参りをしたことがないので実態が分かりませんが、人から聞いた話によるんですが)
これって、まさに何か信仰していないとできないことだと思うんです。でも、日本人は「無宗教」だというのがよく分からないのです。無宗教なのに、お祈りしてしきたり守って挙句の果てに献金(お賽銭)までしてる。
お葬式なんて、仏教の行事で、なにかお坊さんがお経を唱えるのを訳も分からず、ずっと聞いているらしいのですが、僕らからすると牧師さんのわけのわからない説教を聞くのと同じようなもんじゃないかと。(ちなみに、余談ですが「教会に行くと洗脳されそうで怖い」って言われたりするんですが、「お経を聞いて洗脳されないの?」というのと似たような疑問を持ったりします。あと話が逸れますが、お坊さんのお経って日本語じゃないらしいのですが、なんで日本語で唱えてくれないのでしょうかね?だれも文句いわないんですか?)
でもコメントをみる限りそういうのを信仰と思っていないとか、「信仰に自覚的ではない」んだなと理解しました。もしくは、「他の熱心な信者に比べると、信仰していないので無宗教」という感じですかね?
異常な興奮を求めて集った、七人のしかつめらしい男が(私もその中の一人だった)態々わざわざ其為そのためにしつらえた「赤い部屋」の、緋色ひいろの天鵞絨びろうどで張った深い肘掛椅子に凭もたれ込んで、今晩の話手が何事か怪異な物語を話し出すのを、今か今かと待構まちかまえていた。
七人の真中には、これも緋色の天鵞絨で覆おおわれた一つの大きな円卓子まるテーブルの上に、古風な彫刻のある燭台しょくだいにさされた、三挺さんちょうの太い蝋燭ろうそくがユラユラと幽かすかに揺れながら燃えていた。
部屋の四周には、窓や入口のドアさえ残さないで、天井から床まで、真紅まっかな重々しい垂絹たれぎぬが豊かな襞ひだを作って懸けられていた。ロマンチックな蝋燭の光が、その静脈から流れ出したばかりの血の様にも、ドス黒い色をした垂絹の表に、我々七人の異様に大きな影法師かげぼうしを投げていた。そして、その影法師は、蝋燭の焔につれて、幾つかの巨大な昆虫でもあるかの様に、垂絹の襞の曲線の上を、伸びたり縮んだりしながら這い歩いていた。
いつもながらその部屋は、私を、丁度とほうもなく大きな生物の心臓の中に坐ってでもいる様な気持にした。私にはその心臓が、大きさに相応したのろさを以もって、ドキンドキンと脈うつ音さえ感じられる様に思えた。
誰も物を云わなかった。私は蝋燭をすかして、向側に腰掛けた人達の赤黒く見える影の多い顔を、何ということなしに見つめていた。それらの顔は、不思議にも、お能の面の様に無表情に微動さえしないかと思われた。
やがて、今晩の話手と定められた新入会員のT氏は、腰掛けたままで、じっと蝋燭の火を見つめながら、次の様に話し始めた。私は、陰影の加減で骸骨の様に見える彼の顎が、物を云う度にガクガクと物淋しく合わさる様子を、奇怪なからくり仕掛けの生人形でも見る様な気持で眺めていた。
私は、自分では確かに正気の積りでいますし、人も亦またその様に取扱って呉くれていますけれど、真実まったく正気なのかどうか分りません。狂人かも知れません。それ程でないとしても、何かの精神病者という様なものかも知れません。兎とに角かく、私という人間は、不思議な程この世の中がつまらないのです。生きているという事が、もうもう退屈で退屈で仕様がないのです。
初めの間うちは、でも、人並みに色々の道楽に耽ふけった時代もありましたけれど、それが何一つ私の生れつきの退屈を慰なぐさめては呉れないで、却かえって、もうこれで世の中の面白いことというものはお仕舞なのか、なあんだつまらないという失望ばかりが残るのでした。で、段々、私は何かをやるのが臆劫おっくうになって来ました。例えば、これこれの遊びは面白い、きっとお前を有頂天にして呉れるだろうという様な話を聞かされますと、おお、そんなものがあったのか、では早速やって見ようと乗気になる代りに、まず頭の中でその面白さを色々と想像して見るのです。そして、さんざん想像を廻めぐらした結果は、いつも「なあに大したことはない」とみくびって了しまうのです。
そんな風で、一時私は文字通り何もしないで、ただ飯を食ったり、起きたり、寝たりするばかりの日を暮していました。そして、頭の中丈だけで色々な空想を廻らしては、これもつまらない、あれも退屈だと、片端かたはしからけなしつけながら、死ぬよりも辛い、それでいて人目には此上このうえもなく安易な生活を送っていました。
これが、私がその日その日のパンに追われる様な境遇だったら、まだよかったのでしょう。仮令たとえ強いられた労働にしろ、兎に角何かすることがあれば幸福です。それとも又、私が飛切りの大金持ででもあったら、もっとよかったかも知れません。私はきっと、その大金の力で、歴史上の暴君達がやった様なすばらしい贅沢ぜいたくや、血腥ちなまぐさい遊戯や、その他様々の楽しみに耽ふけることが出来たでありましょうが、勿論それもかなわぬ願いだとしますと、私はもう、あのお伽噺とぎばなしにある物臭太郎の様に、一層死んで了った方がましな程、淋しくものういその日その日を、ただじっとして暮す他はないのでした。
こんな風に申上げますと、皆さんはきっと「そうだろう、そうだろう、併し世の中の事柄に退屈し切っている点では我々だって決してお前にひけを取りはしないのだ。だからこんなクラブを作って何とかして異常な興奮を求めようとしているのではないか。お前もよくよく退屈なればこそ、今、我々の仲間へ入って来たのであろう。それはもう、お前の退屈していることは、今更ら聞かなくてもよく分っているのだ」とおっしゃるに相違ありません。ほんとうにそうです。私は何もくどくどと退屈の説明をする必要はないのでした。そして、あなた方が、そんな風に退屈がどんなものだかをよく知っていらっしゃると思えばこそ、私は今夜この席に列して、私の変てこな身の上話をお話しようと決心したのでした。
私はこの階下のレストランへはしょっちゅう出入でいりしていまして、自然ここにいらっしゃる御主人とも御心安く、大分以前からこの「赤い部屋」の会のことを聞知っていたばかりでなく、一再いっさいならず入会することを勧められてさえいました。それにも拘かかわらず、そんな話には一も二もなく飛びつき相そうな退屈屋の私が、今日まで入会しなかったのは、私が、失礼な申分かも知れませんけれど、皆さんなどとは比べものにならぬ程退屈し切っていたからです。退屈し過ぎていたからです。
犯罪と探偵の遊戯ですか、降霊術こうれいじゅつ其他そのたの心霊上の様々の実験ですか、Obscene Picture の活動写真や実演やその他のセンジュアルな遊戯ですか、刑務所や、瘋癲病院や、解剖学教室などの参観ですか、まだそういうものに幾らかでも興味を持ち得うるあなた方は幸福です。私は、皆さんが死刑執行のすき見を企てていられると聞いた時でさえ、少しも驚きはしませんでした。といいますのは、私は御主人からそのお話のあった頃には、もうそういうありふれた刺戟しげきには飽き飽きしていたばかりでなく、ある世にもすばらしい遊戯、といっては少し空恐しい気がしますけれど、私にとっては遊戯といってもよい一つの事柄を発見して、その楽しみに夢中になっていたからです。
その遊戯というのは、突然申上げますと、皆さんはびっくりなさるかも知れませんが……、人殺しなんです。ほんとうの殺人なんです。しかも、私はその遊戯を発見してから今日までに百人に近い男や女や子供の命を、ただ退屈をまぎらす目的の為ばかりに、奪って来たのです。あなた方は、では、私が今その恐ろしい罪悪を悔悟かいごして、懺悔ざんげ話をしようとしているかと早合点なさるかも知れませんが、ところが、決してそうではないのです。私は少しも悔悟なぞしてはいません。犯した罪を恐れてもいません。それどころか、ああ何ということでしょう。私は近頃になってその人殺しという血腥い刺戟にすら、もう飽きあきして了ったのです。そして、今度は他人ではなくて自分自身を殺す様な事柄に、あの阿片アヘンの喫煙に耽り始めたのです。流石さすがにこれ丈けは、そんな私にも命は惜しかったと見えまして、我慢に我慢をして来たのですけれど、人殺しさえあきはてては、もう自殺でも目論もくろむ外には、刺戟の求め様がないではありませんか。私はやがて程なく、阿片の毒の為に命をとられて了うでしょう。そう思いますと、せめて筋路の通った話の出来る間に、私は誰れかに私のやって来た事を打開けて置き度いのです。それには、この「赤い部屋」の方々が一番ふさわしくはないでしょうか。
そういう訳で、私は実は皆さんのお仲間入りがし度い為ではなくて、ただ私のこの変な身の上話を聞いて貰い度いばかりに、会員の一人に加えて頂いたのです。そして、幸いにも新入会の者は必ず最初の晩に、何か会の主旨に副そう様なお話をしなければならぬ定きめになっていましたのでこうして今晩その私の望みを果す機会をとらえることが出来た次第なのです。
それは今からざっと三年計ばかり以前のことでした。その頃は今も申上げました様に、あらゆる刺戟に飽きはてて何の生甲斐もなく、丁度一匹の退屈という名前を持った動物ででもある様に、ノラリクラリと日を暮していたのですが、その年の春、といってもまだ寒い時分でしたから多分二月の終りか三月の始め頃だったのでしょう、ある夜、私は一つの妙な出来事にぶつかったのです。私が百人もの命をとる様になったのは、実にその晩の出来事が動機を為なしたのでした。
どこかで夜更しをした私は、もう一時頃でしたろうか。少し酔っぱらっていたと思います。寒い夜なのにブラブラと俥くるまにも乗らないで家路を辿っていました。もう一つ横町を曲ると一町ばかりで私の家だという、その横町を何気なくヒョイと曲りますと、出会頭であいがしらに一人の男が、何か狼狽している様子で慌ててこちらへやって来るのにバッタリぶつかりました。私も驚きましたが男は一層驚いたと見えて暫く黙って衝つっ立っていましたが、おぼろげな街燈の光で私の姿を認めるといきなり「この辺に医者はないか」と尋ねるではありませんか。よく訊きいて見ますと、その男は自動車の運転手で、今そこで一人の老人を(こんな夜中に一人でうろついていた所を見ると多分浮浪の徒だったのでしょう)轢倒ひきたおして大怪我をさせたというのです。なる程見れば、すぐ二三間向うに一台の自動車が停っていて、その側そばに人らしいものが倒れてウーウーと幽かすかにうめいています。交番といっても大分遠方ですし、それに負傷者の苦しみがひどいので、運転手は何はさて置き先ず医者を探そうとしたのに相違ありません。
私はその辺の地理は、自宅の近所のことですから、医院の所在などもよく弁わきまえていましたので早速こう教えてやりました。
「ここを左の方へ二町ばかり行くと左側に赤い軒燈の点ついた家がある。M医院というのだ。そこへ行って叩き起したらいいだろう」
すると運転手はすぐ様助手に手伝わせて、負傷者をそのM医院の方へ運んで行きました。私は彼等の後ろ姿が闇の中に消えるまで、それを見送っていましたが、こんなことに係合っていてもつまらないと思いましたので、やがて家に帰って、――私は独り者なんです。――婆ばあやの敷しいて呉れた床とこへ這入はいって、酔っていたからでしょう、いつになくすぐに眠入ねいって了いました。
実際何でもない事です。若もし私がその儘ままその事件を忘れて了いさえしたら、それっ限きりの話だったのです。ところが、翌日眼を醒さました時、私は前夜の一寸ちょっとした出来事をまだ覚えていました。そしてあの怪我人は助かったかしらなどと、要もないことまで考え始めたものです。すると、私はふと変なことに気がつきました。
「ヤ、俺は大変な間違いをして了ったぞ」
私はびっくりしました。いくら酒に酔っていたとは云いえ、決して正気を失っていた訳ではないのに、私としたことが、何と思ってあの怪我人をM医院などへ担ぎ込ませたのでしょう。
「ここを左の方へ二町ばかり行くと左側に赤い軒燈の点いた家がある……」
「ここを右の方へ一町ばかり行くとK病院という外科専門の医者がある」
と云わなかったのでしょう。私の教えたMというのは評判の藪やぶ医者で、しかも外科の方は出来るかどうかさえ疑わしかった程なのです。ところがMとは反対の方角でMよりはもっと近い所に、立派に設備の整ったKという外科病院があるではありませんか。無論私はそれをよく知っていた筈はずなのです。知っていたのに何故間違ったことを教えたか。その時の不思議な心理状態は、今になってもまだよく分りませんが、恐らく胴忘どうわすれとでも云うのでしょうか。
私は少し気懸りになって来たものですから、婆やにそれとなく近所の噂などを探らせて見ますと、どうやら怪我人はM医院の診察室で死んだ鹽梅あんばいなのです。どこの医者でもそんな怪我人なんか担ぎ込まれるのは厭いやがるものです。まして夜半の一時というのですから、無理もありませんがM医院ではいくら戸を叩いても、何のかんのと云って却々なかなか開けて呉れなかったらしいのです。さんざん暇ひまどらせた挙句やっと怪我人を担ぎ込んだ時分には、もう余程手遅れになっていたに相違ありません。でも、その時若しM医院の主が「私は専門医でないから、近所のK病院の方へつれて行け」とでも、指図をしたなら、或あるいは怪我人は助っていたのかも知れませんが、何という無茶なことでしょう。彼は自からその難しい患者を処理しようとしたらしいのです。そしてしくじったのです、何んでも噂によりますとM氏はうろたえて了って、不当に長い間怪我人をいじくりまわしていたとかいうことです。
私はそれを聞いて、何だかこう変な気持になって了いました。
この場合可哀相な老人を殺したものは果して何人なんぴとでしょうか。自動車の運転手とM医師ともに、夫々それぞれ責任のあることは云うまでもありません。そしてそこに法律上の処罰があるとすれば、それは恐らく運転手の過失に対して行われるのでしょうが、事実上最も重大な責任者はこの私だったのではありますまいか。若しその際私がM医院でなくてK病院を教えてやったとすれば、少しのへまもなく怪我人は助かったのかも知れないのです。運転手は単に怪我をさせたばかりです。殺した訳ではないのです。M医師は医術上の技倆が劣っていた為にしくじったのですから、これもあながち咎とがめる所はありません。よし又彼に責を負うべき点があったとしても、その元はと云えば私が不適当なM医院を教えたのが悪いのです。つまり、その時の私の指図次第によって、老人を生かすことも殺すことも出来た訳なのです。それは怪我をさせたのは如何にも運転手でしょう。けれど殺したのはこの私だったのではありますまいか。
これは私の指図が全く偶然の過失だったと考えた場合ですが、若しそれが過失ではなくて、その老人を殺してやろうという私の故意から出たものだったとしたら、一体どういうことになるのでしょう。いうまでもありません。私は事実上殺人罪を犯したものではありませんか。併しかし法律は仮令運転手を罰することはあっても、事実上の殺人者である私というものに対しては、恐らく疑いをかけさえしないでしょう。なぜといって、私と死んだ老人とはまるきり関係のない事がよく分っているのですから。そして仮令疑いをかけられたとしても、私はただ外科医院のあることなど忘れていたと答えさえすればよいではありませんか。それは全然心の中の問題なのです。
皆さん。皆さんは嘗かつてこういう殺人法について考えられたことがおありでしょうか。私はこの自動車事件で始めてそこへ気がついたのですが、考えて見ますと、この世の中は何という険難至極けんのんしごくな場所なのでしょう。いつ私の様な男が、何の理由もなく故意に間違った医者を教えたりして、そうでなければ取止めることが出来た命を、不当に失って了う様な目に合うか分ったものではないのです。
これはその後私が実際やって見て成功したことなのですが、田舎のお婆さんが電車線路を横切ろうと、まさに線路に片足をかけた時に、無論そこには電車ばかりでなく自動車や自転車や馬車や人力車などが織る様に行違っているのですから、そのお婆さんの頭は十分混乱しているに相違ありません。その片足をかけた刹那に、急行電車か何かが疾風しっぷうの様にやって来てお婆さんから二三間の所まで迫ったと仮定します。その際、お婆さんがそれに気附かないでそのまま線路を横切って了えば何のことはないのですが、誰かが大きな声で「お婆さん危いッ」と怒鳴りでもしようものなら、忽たちまち慌てて了って、そのままつき切ろうか、一度後へ引返そうかと、暫しばらくまごつくに相違ありません。そして、若しその電車が、余り間近い為に急停車も出来なかったとしますと、「お婆さん危いッ」というたった一言が、そのお婆さんに大怪我をさせ、悪くすれば命までも取って了わないとは限りません。先きも申上げました通り、私はある時この方法で一人の田舎者をまんまと殺して了ったことがありますよ。
(T氏はここで一寸言葉を切って、気味悪く笑った)
この場合「危いッ」と声をかけた私は明かに殺人者です。併し誰が私の殺意を疑いましょう。何の恨うらみもない見ず知らずの人間を、ただ殺人の興味の為ばかりに、殺そうとしている男があろうなどと想像する人がありましょうか。それに「危いッ」という注意の言葉は、どんな風に解釈して見たって、好意から出たものとしか考えられないのです。表面上では、死者から感謝されこそすれ決して恨まれる理由がないのです。皆さん、何と安全至極な殺人法ではありませんか。
世の中の人は、悪事は必ず法律に触れ相当の処罰を受けるものだと信じて、愚にも安心し切っています。誰にしたって法律が人殺しを見逃そうなどとは想像もしないのです。ところがどうでしょう。今申上げました二つの実例から類推出来る様な少しも法律に触れる気遣いのない殺人法が考えて見ればいくらもあるではありませんか。私はこの事に気附いた時、世の中というものの恐ろしさに戦慄するよりも、そういう罪悪の余地を残して置いて呉れた造物主の余裕を此上もなく愉快に思いました。ほんとうに私はこの発見に狂喜しました。何とすばらしいではありませんか。この方法によりさえすれば、大正の聖代せいだいにこの私丈けは、謂わば斬捨て御免ごめんも同様なのです。
そこで私はこの種の人殺しによって、あの死に相な退屈をまぎらすことを思いつきました。絶対に法律に触れない人殺し、どんなシャーロック・ホームズだって見破ることの出来ない人殺し、ああ何という申分のない眠け醒しでしょう。以来私は三年の間というもの、人を殺す楽しみに耽って、いつの間にかさしもの退屈をすっかり忘れはてていました。皆さん笑ってはいけません。私は戦国時代の豪傑の様に、あの百人斬りを、無論文字通り斬る訳ではありませんけれど、百人の命をとるまでは決して中途でこの殺人を止めないことを、私自身に誓ったのです。
今から三月ばかり前です、私は丁度九十九人だけ済ませました。そして、あと一人になった時先にも申上げました通り私はその人殺しにも、もう飽きあきしてしまったのですが、それは兎も角、ではその九十九人をどんな風にして殺したか。勿論九十九人のどの人にも少しだって恨みがあった訳ではなく、ただ人知れぬ方法とその結果に興味を持ってやった仕事ですから、私は一度も同じやり方を繰返す様なことはしませんでした。一人殺したあとでは、今度はどんな新工夫でやっつけようかと、それを考えるのが又一つの楽しみだったのです。
併し、この席で、私のやった九十九の異った殺人法を悉ことごとく御話する暇もありませんし、それに、今夜私がここへ参りましたのは、そんな個々の殺人方法を告白する為ではなくて、そうした極悪非道の罪悪を犯してまで、退屈を免れ様とした、そして又、遂にはその罪悪にすら飽きはてて、今度はこの私自身を亡ぼそうとしている、世の常ならぬ私の心持をお話して皆さんの御判断を仰ぎたい為なのですから、その殺人方以については、ほんの二三の実例を申上げるに止めて置き度いと存じます。
この方法を発見して間もなくのことでしたが、こんなこともありました。私の近所に一人の按摩あんまがいまして、それが不具などによくあるひどい強情者でした。他人が深切しんせつから色々注意などしてやりますと、却ってそれを逆にとって、目が見えないと思って人を馬鹿にするなそれ位のことはちゃんと俺にだって分っているわいという調子で、必ず相手の言葉にさからったことをやるのです。どうして並み並みの強情さではないのです。
ある日のことでした。私がある大通りを歩いていますと、向うからその強情者の按摩がやって来るのに出逢いました。彼は生意気にも、杖つえを肩に担いで鼻唄を歌いながらヒョッコリヒョッコリと歩いています。丁度その町には昨日から下水の工事が始まっていて、往来の片側には深い穴が掘ってありましたが、彼は盲人のことで片側往来止めの立札など見えませんから、何の気もつかず、その穴のすぐ側を呑気そうに歩いているのです。
それを見ますと、私はふと一つの妙案を思いつきました。そこで、
「やあN君」と按摩の名を呼びかけ、(よく療治を頼んでお互に知り合っていたのです)
「ソラ危いぞ、左へ寄った、左へ寄った」
と怒鳴りました。それを態わざと少し冗談らしい調子でやったのです。というのは、こういえば、彼は日頃の性質から、きっとからかわれたのだと邪推して、左へはよらないで態と右へ寄るに相違ないと考えたからです。案あんの定じょう彼は、
「エヘヘヘ……。御冗談ばっかり」
などと声色こわいろめいた口返答をしながら、矢庭やにわに反対の右の方へ二足三足寄ったものですから、忽ち下水工事の穴の中へ片足を踏み込んで、アッという間に一丈もあるその底へと落ち込んで了いました。私はさも驚いた風を装うて穴の縁へ駈けより、
「うまく行ったかしら」と覗いて見ましたが彼はうち所でも悪かったのか、穴の底にぐったりと横よこたわって、穴のまわりに突出ている鋭い石でついたのでしょう。一分刈りの頭に、赤黒い血がタラタラと流れているのです。それから、舌でも噛切ったと見えて、口や鼻からも同じ様に出血しています。顔色はもう蒼白で、唸り声を出す元気さえありません。
こうして、この按摩は、でもそれから一週間ばかりは虫の息で生きていましたが、遂に絶命して了ったのです。私の計画は見事に成功しました。誰が私を疑いましょう。私はこの按摩を日頃贔屓ひいきにしてよく呼んでいた位で、決して殺人の動機になる様な恨みがあった訳ではなく、それに、表面上は右に陥穽おとしあなのあるのを避けさせようとして、「左へよれ、左へよれ」と教えてやった訳なのですから、私の好意を認める人はあっても、その親切らしい言葉の裏に恐るべき殺意がこめられていたと想像する人があろう筈はないのです。
ああ、何という恐しくも楽しい遊戯だったのでしょう。巧妙なトリックを考え出した時の、恐らく芸術家のそれにも匹敵する、歓喜、そのトリックを実行する時のワクワクした緊張、そして、目的を果した時の云い知れぬ満足、それに又、私の犠牲になった男や女が、殺人者が目の前にいるとも知らず血みどろになって狂い廻る断末魔だんまつまの光景ありさま、最初の間、それらが、どんなにまあ私を有頂天にして呉れたことでしょう。
ある時はこんな事もありました。それは夏のどんよりと曇った日のことでしたが、私はある郊外の文化村とでもいうのでしょう。十軒余りの西洋館がまばらに立並んだ所を歩いていました。そして、丁度その中でも一番立派なコンクリート造りの西洋館の裏手を通りかかった時です。ふと妙なものが私の目に止りました。といいますのは、その時私の鼻先をかすめて勢よく飛んで行った一匹の雀が、その家の屋根から地面へ引張ってあった太い針金に一寸とまると、いきなりはね返された様に下へ落ちて来て、そのまま死んで了ったのです。
変なこともあるものだと思ってよく見ますと、その針金というのは、西洋館の尖った Permalink | 記事への反応(0) | 22:33
その下心を「ジャッジ」するのが女性なのがキモなんじゃないかなーって思った。
王子様でスマートなアプローチは是であるのに対して、お気持ち悪い童貞の言い寄りは理性のある動物として罪であり、女性はハラスメントとして訴えかけることができる。
一方で恋愛至上主義を掲げる市場やら女性陣やら諸々に加えて、内的に湧き上がる性的な欲求はこらえがたく、したがって男性は女性的の求める価値観に迎合せざるを得ない。
そこに無理が生じるわけだ。
つまり、いくら増田が下心を肯定しようと、相手の女性に肯定されなきゃ何の意味もないんだよ。元記事の増田も懺悔してるのはアプローチ先の女性だしね。
その意味で、多分スムーズに合意を得られたであろう元記事の増田は、ストレスなく進んだという部分で自信を許すことにもつながって、この告解に至ったんじゃない?うらやましい限りだ。
首無しエヴァの群れやアヤナミ神が視聴者さまファンさまのありようでしたって言われたら目線的にそんなに没入できないかな
ガンダムがウルトラマンだったらってやつ作ってみよといわれて、カラータイマーきれたらマジ地球外生命体にもどっちゃうところからのやっぱイデみたいに魂に帰依しようぜってなって懺悔こそ真ってしたけどヲタク諸兄が共感して痛いっていうのやばいから人造人間でぜんぶ解決だってところで、二重らせんで自分の人生観のせちゃおこれなんか半生記みたいじゃんってなって槍ってカタチの科学の力で世界を変える希望の治療がうちら夫婦には尽きたけどやりたいことと経済活動の二本柱で世界ってひらけるんだぜむかし仕事上で言い寄った女も直接的なファンの支えも届いてないけど私は元気ですって共感できるのだいぶ観客目線から離れてるよね
懺悔したいことがある。
私はもうすぐ今の部署を去るので、これをきっかけに書いておきたい。
ターゲット二名はどちらも妻子持ちだが、とにかくイケメンで高身長、そしてかなり仲が良い。
お互いがお互いをリスペクトしていて、ライバルだが助け合うような関係性だ。
とあることをきっかけに、この二人をモデルにBL小説を書いたら面白いのではないかと思い、毎日ではないが仕事の行き帰りにスマホで書き始めた。
ネタは社内に行けば転がってはいるのだが、一人は基本内勤、一人は外回りが中心なので
きつい残業をしていても、素敵な会話や小ネタを拾えたときは本当に幸せだった。
本当に、自分は何て気持ち悪い人間なのだろうという自覚はあるが、あれほど素晴らしいナマモノに出会えることは今後ないだろうと思うと少し寂しくもある。
最初に言っとくけど、今からご飯を食べようとか、なんなら今まさにこれからエッチしようとかしてる男性の方とかはこの下は読まないほうがいいかもしれない。女性の汚れものの話なので(知っていて損ではないとおもうけれどね)。
少なくとも一部の女性(私だよ)の自己肯定感をブチ上げてる、日陰物の話をさせてほしい。
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簡単に言うと、ぱんつのクロッチのオプションとして使う当て布・当て紙である。
極々小さくて薄い生理用ナプキンみたいな形状をしていて、ナプキン同様にぱんつのクロッチ部分に貼りつけて使用する。
バラとかのいい香りがするやつもあるし、無香料のものもある。天然コットンを売りにしてるやつも、人工素材だけど機能的なやつだってある。
違いとしては、ナプキンよりずいぶん薄くて小さく、ナプキンに必需品であるポリマーの水分吸収体も大抵入っていない点が挙げられる(一部入っているのもある。ちょっと高い)。
何より主な出番が「生理じゃない日」というのが大きな違いである。
ところでなぜこのような当てが、しかも出血のない普通の日に必要になるのか。
おりものは子宮や膣から出る液状の分泌物である。健康であればふつう酸性の液性をしており、膣に入りがちな大腸菌などのバイ菌を殺菌したり、子宮内部の老廃物を排出したり、また潤滑液としての働きをしたりもする。
おりものがないと膣内部はゴミだらけのバイ菌だらけになってしまう。また完全に乾いたお股では摩擦で痛くておよそ歩けたもんではない。
人によって、また日によっても出る量や色、粘り気やにおいなどは様々であるが、大抵の女性のお股は常にしっとりしているのである。毎日である。生理がない日もである。女性の下半身は偉大なるおりものに守られているのである。
さて、そんな殺菌と洗浄と老廃物の運搬を担う偉すぎるおりものであるが、ひとつ問題がある。体内に溜めておく場所がなく、排出に際してコントロールも効かないのである。
おしっこであれば膀胱があるし、緊急事態ならお股を押さえておけばなんとか決壊を防ぐことができる(ような気がする)。大の方は……3日分くらい体内に留まるのは普通だし、緩い時だってストッパとかお薬がある。
おりものにはこれがないのである。垂れ流しである。行き着く先はクロッチである。
同じ垂れ流しの経血とは色も量も起きうる惨事の規模も違うが、クロッチが湿ったぱんつなんてのは穿けたものではない。
ズボンに染みないか、においが漏れないか気になって仕方ない。椅子に座るたびにお股がヒヤッとするし、毛についてぱんつと固まったりすると、トイレで脱いだ時に毛がブチブチ抜けて痛い。奮発して買ったお気に入りのぱんつだって汚れてすぐにいたむし、濡れていることに対して怒りさえ感じることもある。
クロッチが濡れて気持ち悪いのに、ニコニコして人当たりよく仕事や勉強をするなんて、どうしても私には無理である。
洗い立てのぱんつに装着して履いておく。体内から出たおりものはライナーがしっかりキャッチしてくれる。トイレに行ったときに汚れているようなら、すかさず新しいライナーに替えられる。そうすればそのぱんつのクロッチはもう洗い立てのそれと同じである。
個人的には多い日では1日に3回か4回くらい変えることがある。これが他の女性と比べて多いのか少ないのかわからないけれど、3回も4回もスッキリした気持ちになれる。「からりと乾いていて、汚れていないクロッチ」これがなかなか自己肯定感をぶち上げてくれるのである。
強気にもなれる。優しくもなれる。頑張ってもいいかなと思える。
「私もなかなかやるじゃん、ぱんつも濡れてないし」QoLが爆上げした瞬間である。
避難所で生理用ナプキンが猥褻物として扱われてしまうとか、今日もルナルナの件で炎上してたりとか、血が出る「生理」は印象として派手なので話題にものぼりやすいし、議論にもなるし、とりあえずの理解もされやすかろう。
そんな中で日常の生活を支えてくれるパンティライナーは完全に日陰者である。地味だし。話題にされているのを寡聞にして聞かない。
それでも濡れていないぱんつ、あたらしいクロッチをいつでも提供してくれるパンティライナーは、私の気持ちを人並みに人間にしてくれる救世主である。
とまあこう、人に知られざるパンティライナーを称え増田をしたためた訳だが、正直に言うと今日は完全にうっかりしていた。
毎日カバンには替えをいくつか持っているし、会社のロッカーにもストックがあるんだけど、今日はどちらも切らしていて一日中湿ったぱんつで仕事をする羽目になってしまった。
結果は散々である。
半身浴しながらポチポチ書いてたんだけど、そろそろのぼせちゃいそうだからお風呂出るね。読んでくれてありがとう。