はてなキーワード: 主治医とは
近い人がこんなにいるとは。自分一人だけな気がしてたから励みになります。
多分、その顧客のやりたいことを理解するコミュ力は高いほうだと思う。
折衝に向いてるのかもしれないけど、そういう仕事には就けなかったね…。
3DCGはいいね。私も昔趣味でやってた。仕事にできるものならしたいな。
私はHのつかないADDだと診断されてるよ。
一度そのことを主治医に聞いたら
「なぜそんなことにこだわるのですか?そのこだわりを見るにASD入ってるかもしれませんね」と言われてトートロジーの世界に迷い込んだ気になった。
コンサータは一度飲んでみたんだけど、動悸がするわ指先震えるわ涙出てくるわで大変だった。
勤め先の利用者さんが亡くなった。
先週熱が出て、下がらなくて、5日目の夜救急車で運ばれて、検査の結果は翌日に分かり、2日くらい元気で居たみたいなんだけど、急変しICUに、そこから1日たたずに亡くなった。もともと心臓も弱くて、どんな病気に罹ってもヤバい人だった。もともと余命いくばくと言われたままなんやかんや数年生きて、そこがまた可笑しかった。
施設で生きるちからがめちゃくちゃつよい人だったと思う。人を見るとニコニコして、身体がついていかないのに愛嬌を振りまいて、トイレもお風呂もつきっきりで介助度高いのに疎ましがられることなく、あの人をきらいな職員なんかいなかったと思う。ただそこに居て、その日いちにちを穏やかに終えられればいい、それがその人の役目だった。
きっと、わけが分からないままに苦しいなあと思いながら亡くなったと思う。その人のことが大好きな主治医の先生(その人のおかげでコロナ対応じゃない病院に入れてもらえた)のもとで。
それはやるせないことだ。どんな死だってそうかもしれないけど。
もしかしたら逃げ切れたかもしれない人を、守ってあげられなかった。今必死で逃げているときに、その人を連れて行ってあげられなかった。
病院に行く前に、検査結果が陽性になる前に、もしかしたらできたことがあったかもしれない。
むしろ、我々がそばに居たからこそ、こうなってしまったのかもしれない。
暗く、冷たいやるせなさが、終わったあとに襲ってくる。
コロナはこわい。
感染力が高いというのは、触れたものすべて冒してしまうとかではなく、知らないあいだにウィルスを振りまく宿主の数がとても多いということで、それに改めてぞっとした。
施設という環境で、もうどうしようもないこともたくさんあるのだ。他者が他者に関わらないと、仕事も命も成り立たない人間ならではのシステム。ウィルスはそれをとても効率的な方法で壊しにきたのかもしれない。
今もずっと、元気な職員が働くしかない。他に方法がないんだから。
もう誰も、死んでほしくない。それはただ、無力な祈りだ。
それにすがるしかない、遺された人への救いだ。
よくTwitterで見かける、発達障害、または精神病を患った女性が、生きづらさやそれをどう乗り越えているかを、コミックエッセイ風に綴っているやつ
に、ほぼ必ず、理解がありその女性を支えてくれる男性が登場するやつ
というのを非常によく見かける。揶揄する人の言いたいことはとてもよくわかる。
とっても生きづらいけど、良いパートナーのおかげで生きていけている、というのは、パートナーに恵まれない障害や病気を抱える人々を改めて絶望の淵に突き落とすようなものだ。
非常に一般的な考え方として、例外は必ずあるにしろ、基本的に、女性のほうが男性に比べ、恋愛的なパートナーを得る機会が多いのはおそらく確かだろう。その理由はいくつか挙げられるが、ここでは割愛する。
ゆえに、パートナーに恵まれ日常を送ることができている障碍者/精神疾患持ち女性という存在を見せつけられると、同じような状況にある男性のなかに、『では誰にもかんがみられることなく、パートナーに恵まれない自分たちは、どう生きていけばいいのか』と暗澹たる気持ちが生まれてしまうのは仕方がないのではないだろうか。
私の話をしよう。
私は女性である。そして発達障害者であり、精神疾患を持っている。
具体的に言うと、ASD優位のADHD、かつ、うつ病と解離性同一性障害の診断が下りている。
理系の大学院を卒業後、財閥系企業に勤めていたが、病状の悪化に伴い退職した。
そして離婚歴がある。
私の持つ障害と疾患は、両親からの虐待に由来する可能性が高く、主治医の所見もそのようになっている。私の両親は裕福で社会的地位のある人たちではあったが、あまり子供を育てることは得意ではなかったらしい。成人し、うつを発症し、自殺未遂後、弁護士を通して虐待の事実を認める旨、慰謝料を支払う旨、それができないのであれば縁を切る(ことは非常に難しいのだが)協議書を送り、その段階に至り、はじめて自分たちがしてきたことが客観的に虐待に当たると気づいた、なかなか能天気な人たちでもある。
この虐待由来というところがネックなのか、私の抱える障害と精神疾患は非常に根深いところにあり、もう10年近く投薬を続けているが、治るというよりもただ生きているだけだ。
さて、表題の話をしよう。私の人生において、障害や精神疾患を支えてくれるパートナーはいたかという話である。
結論から言うと、いなかった。これからも現れない気がしている。
そもそも、私は強い気分障害を持っているが、精神が不調の際は自ら抗不安剤(軽いものならソラナックス、リボリトール、ひどければヒルナミン)を飲んで、迷惑をかける前に自分をコントロールしていた。これはたぶん、両親による『人に気を遣わせるな』という強い教育が行き届いた結果だと思う。もちろんこの人という言葉には、家族も含まれている。
解離性同一性人格障害というのは、簡単に言うと多重人格のことで、現在この病名が診断されている患者はかなり少ない。最近は発作もあまり怒らないが、解離時、私にはなんの記憶もない。どこで何をしていたのか、ポケットに入ったレシートや、体についた汚れや傷、SUICAの履歴など、いろいろなものからなんとなく推理するしかない。でもそれがとても怖いともあまり思わない。発作が起こるタイミング、シチュエーションは決まっている。そうならないよう、そういった状況に自らを送り込まないよう注意すれば、ある程度制御できる。
私は精神療養手帳も持っているし、飲んでいる薬の数も種類も途方もない数だが、それでいて、一人できちんと精神科に行き、診察を受け、薬を飲んで生活している。もちろん生活も一人だ。親元なんて考えられないし、世間体のためだけにした結婚は、結局相手が何を考えているのかわからないまま、かつ、相手も私がどういった人間なのかわからないまま終わった。
主治医はあまりこの状況をよしとはしていない。つまり、頼れるだれかが近くにいたほうがいいのではないかという話をされることもある。しかし私は、短い結婚生活のことを思い出す。いつも誰かがそばにいるのに、その人がひとつも自分のことをわかっていないという状態は、単純に一人でいるより何倍もつらい。元夫との生活の中で、私は何度も『大丈夫』と言った。ぐうぐう寝息を立てる元夫のとなりで、絶望が押し寄せてきて一晩中声を殺して泣いた。これではいけないと、元夫に私は何度か自分の話をしようとした。それはかなり勇気のいる行為だった。他人の精神がいびつになるに至る理由を、好んで聞きたがる人はいないし、そのあと慰めるのだって面倒だろう。もし、面倒がられたら、聞いてくれなかったら、と思うと、だれにも言えなくなってしまうのだ。
結果から言うと、元夫は私の話を聞いてはくれた。その間ずっとドラゴンボールかなにかのソーシャルゲームをスマホで遊んでいた。
最初から期待していない分、絶望も少なかったが、たとえ結婚していても、他人は他人であり、興味のない話を無理やり聞かせることはできず、自分のことは自分でけりをつけなければいけないのだとわかった。私は、元夫がしてくれる自分の話を聞くのが好きだった。それは元夫に興味があったということだろう。そしてその逆はなかったということだ。
ちなみに離婚の直接の理由となったのは、元夫の暴力的行為により、私が結婚前に拾いともに暮らしていたネコが、ストレス性の病気になってしまったことだ。ネコは家具が破壊される音を聞き、泣き叫ぶ私の声を聴き、壊れた箪笥を見、過度のストレスで過呼吸を起こし、自らのしっぽをかじり始めた。ネコの異状に気づき、獣医でそれがストレス性のもので、環境を変えるか、抗不安剤を投与するかしかないと聞くその瞬間まで、私は無気力のあまり離婚することすら考えていなかった。動物病院を出た私は、その日のうちに離婚届を手に入れ、元夫に書くように強制した。
元夫は渋っていたが、一連の暴力行為を私がICレコーダーに録音していることを知ると、あきらめたようにぐちゃぐちゃと署名をした。
おそらくこれを読んで私に好意的な気持ちを抱く人は少ないと思う。それは私が完全に自己完結しているからだと自分でも思う。私は折り紙付きの障碍者で、精神疾患を抱えているが、誰にも頼りたくないと思っているし、私が求めているものは、他人に求めるにはあまりにも重たいものだという自覚がある。
私はネコと暮らしている。ネコは私がいなくてもおそらく生きていけるだろうが、私はこのネコがいないと生きていけない。ネコは私の話を聞いて頭をなでてくれるわけでも、そっと抱きしめてくれるわけでもないし、「つらかったね」とかそういうことを言ってくれたりもしない。ただ生きていて、日向ぼっこをして、昼寝をして、ノートPCに向かう私の邪魔をチョコチョコとしてくるだけだ。
でもそんな存在を私は心から愛し、どの人間よりも深い信頼を抱いている。
誰にも愛されない、だれも愛すことができないと思い、絶望している、私と似たような境遇の人がいるとしたら、まずネコを拾うことを強くお勧めする。
持病の手術のため、今日から入院する予定だったが、延期になった。コロナの影響だ。
延期といっても今度いつ入院できるのかはまだわからない。入院予定の1時間前に病院から電話が入り、近隣のコロナ患者の受入拡大のため急遽入院は延期したい、今後の予定はおって連絡すると伝えられたのみだ。入院が伸びたので手術も未定だ。
直前の直前になっての延期に困惑したが、すぐに理解した。当該病院のすぐ近くにある別の病院で、コロナの集団感染したというニュースを目にしたからだ。噂が事実なら、病院スタッフの感染が判明してからも外来診療を続けていたという。当該病院としては、新規受け入れを一旦止めるのも仕方ないことだろう。
持病は基本的に、すぐに死に直結するものではない。ただし視力が徐々に失われていく特徴がある。手術さえすれば回復するが、放っておけば失われたままだ。手術が遅れればそれだけ失明するリスクは高まる。
嫌な予感が的中してしまった。手術が決まったのは一ヶ月前だったが、それからずっと、自身や主治医がコロナに感染したり、院内感染が発生したりして、手術ができなくなるのでは、と考えていた。あと一日、いやあと一時間ちがっていたら入院できていたのに。入院してしまえば、手術もできたかもしれないのに。
胸部レントゲンをとられたところはないな
っていうかたぶん総合内科みたいなものを期待してるんだろうけど
高齢化社会では総合内科にしろ朝から晩まで今すぐ死んじゃうと訴える老人でいっぱいだろ
総合病院もたらいまわしだ、当然どこを受けるかは自己判断だし1日に1科だけ
2科まわれたら御の字だから体調の悪さの正体を(体調が悪いうちに)捕まえることは
それだけヤイヤイ電話をかけて
最初になかったコロナウィルスをPCR検査場で自分でもらいにいくことになったらこまるからじっとしとくよ
37.5度の熱が(ずっとは)でてない基礎疾患持ちは
これも基礎疾患だとおもいこんだままアナグマしておくにかぎるよ
Aはタクシーの運転手をしながら独り暮らしをしていたのだが、2006年10月に肝障害や糖尿病などで働けなくなってしまった。
2006年12月に生活保護を受け始め、仕事を探して自立するように指導も受けていた。
2007年1月の段階で、福祉事務所のケースワーカーが仕事をして自立するよう2度にわたって指導。
2月の段階でも、ケースワーカーが主治医から普通に働けると事情を聴きとり、
さらに福祉事務所の嘱託医も同様のことを言ったため、ケースワーカーはAに働きなさいと指導。保護打ち切りもちらつかされた。
だが、主治医は後日の検証で、Aは確かに内臓方面は治りつつあったが、酷い鬱状態になっており、
せいぜいデスクワークがちょっと可能な程度で、普通に働けるなどとは言っていないと反論している。
実際、死後に見つかったAの日記には生活保護を受けている間から
「亡くなった父や弟の所に行きたい」「なかなか人間って死ねないものだ」
と、素人が見てもわかるレベルの自殺願望が表れており、当時の彼が精神的に危険な鬱状態であったことは間違いないとされている。
ところが、働けると認定されたためか、Aに対する「就職しろ」という圧力は非常に厳しくなっていった。
3月も終わりになると、福祉事務所はAを6か月以内に仕事を見つけさせて生活保護を打ち切るために重点的に指導することにした。
4月2日、生活保護費を受け取ろうと思って福祉事務所に赴いたAに対し、ケースワーカーはまたしても働けとせっついた。
だが、当のケースワーカーもたった数日前にAの精神状態がおかしいのではないかと疑い、精神科への受診を勧めている状態であった。
鬱状態の人間に「もっと頑張れ」とせっつくなどは論外の禁句である。
そしてこの日、Aは生活保護の辞退届を出した。
しかし、辞退するにあたって、福祉事務所は就職先がどこか、収入の見込みはどれくらいなのかなどを全く確認していなかった。
おりしも、生活保護を切るにあたっては就労先や収入見込みについて確認すべしという判決が、前年に出たばかりであったが、全く無視されていた。
日記では、担当者に生活保護を打ち切られたかのような記述もあり、
辞退届を無理矢理書かされたか、働けという指導に精神的に耐えかねて辞退届を書いたのではないか、とも言われている。*1
少なくとも、Aが働こうにも働ける状態ではなかったことは間違いないだろう。
しかも、その時点でもガスと水道は止まってしまっていた上、住居地はボロボロであった。
そして、福祉事務所は保護を打ち切った後、Aの安否については何の連絡も取ることはなかった。
Aが死んでいるのが見つかったのは、たまたま彼の友人が家に訪ねてきて異変に気付いた7月10日のことであった。
残されていた日記には
感染患者を運ぶ救急車がない https://toyokeizai.net/articles/-/342132?page=2
男性の陽性結果が出たのは18日。翌19日、病院は閉鎖された。新規患者の外来や救急の受け入れは中止された。受診予約をしていた約500人の患者に電話し、すべての診療を断った。
2つ目は、受け入れ病院への搬送だ。患者を感染症の指定病院へ移さなければならなかったが、どこへ搬送したらよいかわからない。杉並区の保健所に相談すると、候補となる病院を複数教えてくれたが、受け入れの交渉は病院がする必要があった。
やっと決まった受け入れ先が、文京区にある都立駒込病院だった。しかし、患者を病院まで運ぶ手段がない。「感染患者を搬送するために救急車を出すことが認められなかった。わらにもすがる思いで近くにある消防署にかけ合ったが断られ、民間の救急サービスに電話してもだめだった」(高橋副院長)
助け船を出したのは、病院長と親交があった民間病院の荻窪病院(杉並区)だった。同院から借りた救急車を総務課長が運転し、主治医と看護師が同乗して男性患者を駒込病院まで搬送した。女性患者も陽性が判明した後日、駒込病院へ搬送された。
しかし、第3の苦闘が待ちかまえていた。
3年前に亡くなったある方のことが忘れられないでいます。私は彼女の顔も名前も忘れられずにいます。遺影に映る彼女の笑顔が、何かをしているときにふと、私の脳裏をのぎります。
私は3年前、あるニュースを見ました。それは世界中にあふれる悲しいニュースのひとつにすぎなかったはずなのです。彼女のことは何も知らなかったのですから。それはとても痛ましい事故でした。その事故について思い出すことは私を絶望の底に落とします。いまでも彼女のことを思うと涙が出てきます。心の奥が激しく痛み、ただ息をすることだけでも苦しくなるのです。
彼女は苦しんで亡くなりました。その瞬間、暗く狭い場所で彼女が何を思っていたのか、私は知ることはないでしょう。彼女が自分はもうすぐ死に、ここから出られることはないと悟ったときの苦しみは、どれだけ大きなものだったのでしょう!私はそれを想像するだけで、私の一部も死んでいくように思います。
私はこの事故について、ほとんど誰にも話していません。親しくしている友人のうち数人と、愛する家族は、私がその事故のことを知って悲しんでいると知っています。ただ、それは事故の数か月後のこと。今でも私がそれを思い出し、泣いていることなど、彼らは知りません。そもそも私が言っていないのですから、知るはずもないのです。
彼女が亡くなってから、私は学校に通えなくなりました。一日中寝ていることしかできない日も、泣き明かした夜も、たくさんありました。何度か私は命を絶とうとしたこともあります。高い橋の上で(ご存知のとおり、ゴールデンゲートブリッジは有名な自殺の名所です)私は失望し、泣くことすらできずに、そこにいました。警察が私を助けたので、幸い、私はいまもなんとか生きています。
こんな状況が続いた、1年半が経ったある日、私は家族の勧めで精神科に行きました。精神科で処方された薬を規則正しく服用していましたが、症状はあまり改善しませんでした。最初は主治医に対し、ただ症状だけを言っていました。気分が落ち込むことがあるとか、眠れない日があるとか、そうかと思えば寝ていることしかできない日があるとか…。主治医は黙って私の話を聞いてくれました。いくつかの抗うつ薬や抗不安薬を服用していましたが、症状がいっこうに改善しないため、私はついにその痛ましい事故のことを打ち明けました。
事故のことを打ち明けたところ、私はPTSD(Post-Traumatic Stress Disorderの略。日本語では心的外傷後ストレス障害と略されます)と診断されました。現在も私はこの病気で闘病しています。
私の国では、この病気に対する認知は進んでいます。帰還兵たちのための相談ダイヤルもあります。私は、日本では地震をきっかけに認知されていると聞きました。ただ、私の1番大事な友達が住んでいるイタリアでは、残念ながらそうではありません。イタリア人の多くは、心的外傷後ストレス障害というものが何なのかも知らないようで、うつ病や不安障害の下位分類とみなされることもあるようです。
この文章は、私の経験です。彼女が亡くなった事故も、私の闘病も、実際にあることなのです。
私は独学した日本語でこの文章を書きました。私の文章はあまり上手ではないと思います:/
私はこの病気で非常に苦しみました。私は日本やイタリアでも、私の国のように理解が進むことを心から願っています。
そして、この瞬間もトラウマと戦っているあなたの未来に、少しでも素敵なことや素晴らしいことがあるように、心から祈っています。抱擁とキス
精神障害の手帳持ちでもう十五年くらい無職ひきこもりなんだけども、障害年金を申請したいのよ。
主治医に話したら「通るかはわからんけど申請してみるなら書類は書きますよ」って言われて、病院常駐のケースワーカーにも相談してどういう手続きしたらいいか教えてもらった。
そしたらもう、その手続きが大変すぎてできる気がしないんだが?
なんかどっかの役所に行って用紙をもらって、初診の病院にいって十五年前の主治医に書類書いてもらって、今の病院にいって、役所に行って云々。
いや、ひきこもりにはできる気しないが……?
俺レベルになると普通に通院するのもキツくって、本来一月に一回通院のはずが二ヶ月とか三ヶ月間を空けちゃうわけ。
精神の手帳の取得も、普段の通院の際に診断書もらって、役所に行って窓口でお願いしますという、と比較的シンプルなのにめちゃくちゃ大変だった。
無事手続き終わったから手渡しのためもっぺん役所に来てと言われてから、実際取りに行く気合を持つのに半年くらいかかって、いや一年毎更新なのに既に期間の半分を手元に置かずに終わらせちゃったじゃんって自分で笑ったよね。
それがもーっと面倒なあれこれしなきゃないって、とてもできる気しない。
精神疾患をもつ父親に友だちができ、家族一同毎日小躍りしている。うれしくてたまらない。
還暦を過ぎたいい大人の人間に友達が一人できたぐらいで何を大げさな、と思う御仁もあるかもしれないが、
今回ばかりは許してほしい。何せ父に友だちができたのだ。それもまともな友だちが!
父は30年以上前に統合失調症と診断され、以来入退院を繰り返している。精神疾患を抱えながらも、私達子供を食わすために
無理に働きに出てはクビになり、体調を崩して入院するという生活が10年近く続いた。そのたびに父は激しい劣等感と自尊感情の低下に
苛まれ、ことあるごとに私たち家族に「ごめんなあ、ごめんなあ」と言っていた。
私の記憶の中の父は、いつも縁側でタバコを吸いながら力なくうなだれていた。
父はとても優しく、人のことを悪く言わないという美点がいくつもある反面、口下手で気が弱かった。
そのため、精神病院の少々ガラ悪めの人々にしょっちゅう金銭とタバコをせびられていたらしい。
今思い出しても腹が立つのだが、父の退院初日の夜中にヤ〇ザみたいなおっさんから電話がかかってきて
「〇〇(父)はいるかぁ?代われ」と言ってきたので、「いません」と答えると舌打ちののちにガチャ切りしやがった。
おそらく患者仲間から退院の一報を聞いてこれ幸いとばかりに金をせびろうと考えたのだろう。
深夜に電話をかけてくる非常識さより、退院日に唯一かかってきた父の知り合いからの電話がそれか、
と情けなく悔しい気持ちになったのを覚えている。
そんなわけで、家族としても心配なので何度も転院を薦めたのだが、父は「慣れている場所がいい」といってこれを固辞した。
主治医からも不慣れな場所に移ると却って精神的に不安定になるので、本人の希望に添ったほうがいいと言われたため、
そんな中、私の兄が自死した。
突然だった。兄は父の病に一番理解を示し、毎日父に電話したり父を外に連れ出してくれていた。
私も大好きだった。兄がいたから家族が維持できていたといっても過言ではなかった。
その時の家族の、とくに父の憔悴ぶりといったらひどいもんで、ほぼ一日中どこかの部屋から誰かしらのすすり泣きが聞こえてくるような有様だった。
そんな一家総ゾンビ状態の我が家はド田舎の集落で一躍有名になり、近所のスーパーに行くとレジのオバちゃん連中から好奇と憐憫の眼差しを
一身に浴びさせられて精神的にだいぶ消耗したりした。
てなわけで私は「こんなクソみたいな場所にいられるか!俺は出ていくぜ!」とばかりにサスペンス映画だったら最初に殺されそうなセリフを吐いて
家族を残し、早々に都会に越したわけである。薄情かもしれないが、こうでもしないと家族相倒れは免れないと思ったからだ。
当然といえば当然だが、息子と娘が一気に巣立ってしまった(?)父は荒れに荒れたらしい。
勝手に怠薬する、作業所(さまざまな疾病を抱える人が社会復帰の名目でやる時給100円とかのバイト)を無断欠勤する、親戚に電話をかけまくる、
朝からパチスロに行って小遣いを全額スッてくる、母の財布から金を抜く…などなど。それはひどいもんだったらしい。
そんな調子だからすぐに体調を崩してまた精神病院に入院と相成ってしまった。
私は遠方に住んでいたため見舞いにはなかなか行けず、退院時に久々に父と対面したのだが、
半年以上入院していた父は髪もボサボサだわ歯もかけてるわで、一気に20歳くらい老けたような印象を受けた。
そんな浦島太郎ばりの体験をした父が、最近なんだかとてもうれしそうなのである。そしてたのしそうなのである。
いわゆる躁的な状態ではなく、声と態度に落ち着きがみられるのだ。以前は相手の機嫌をうかがうようなトーンで他者と話していたのだが、
最近はあきらかに雰囲気が異なる。よく笑うし、おどけるし、何より相手の調子に合わせる「余裕」があるのだ。
その原因がこの間ついに判明した。なんと父に友だちが出来たのである!!!!!!
ついでに言うと、父が自分から他者を「友だち」と呼ぶのはこの人が初めてなんである!!!!!!!
今までのヤ〇ザみたいなおっさんだったりとか、父につけ込むガラの悪い連中は全員「知り合い」と言っていただけに衝撃だった。
しかし、油断はできないのである。何せ今まで父の周囲にいた連中がロクな連中じゃなかっただけに、家族は警戒していた。
何よりこんな田舎町で「のけ者」によくしてくれる善良な人間なんかいないだろう、いたとしてもなんか道徳とか宗教とか倫理とかやってる人、
あるいは福祉関係の人で、ボランティア精神で父によくしてくれるんだろうと思っていた。ありがたいがなんだか申し訳ない気持ちが勝った。
しかし、その友だち(仮にYさんとする)はそのいずれでもないらしいのだ。日中は畑をやり、夕方に犬の散歩がてら父の家に酔って縁側で茶をすすってひとしきり世間話をしてから
家に帰っていくらしい。たまにとれたての野菜なんかをもってきては美味い食べ方をアレコレ指導していくらしい。所謂「マジで普通のおじさん」である。
マジで普通だが、思えば父の周囲にはその「マジで普通のおじさん」がぜんぜんいなかった。二言目には金かしてくれ、タバコくれと言ってくるような人ばかりであった。
父に近づく人間に警戒するクセがついてしまっている私は、失礼にあたるのでは、と思いつつも金銭のやりとりはあるのかとうかがったところ、
「全くない。逆に向こうの家に呼ばれてごちそうになる」という答えが返ってきたので仰天した。
さらにどういう話をするの、と聞いたら「コロナとか…飼い犬(老犬)の足が弱ってきたとか…」といったマジで普通の答えが返ってきた。
その普通さに、思わず私は胸が震えた。と同時に、私が父や周囲の人に無意識に抱いていたスティグマを痛感させられた。
私は「どうして誰も父のいいところに目を向けてくれないんだろう、病気という色眼鏡でしか見てくれないんだろう」と言いつつも、
心の中では「どうせ父に近寄って来る人間は下心があるに違いない」という思い込みにとらわれていたのである。猛省しなくてはならない。
田舎にはプライバシーという概念がないも同然なので、Yさんは当然父の疾患や家族の不幸なんかの情報も耳に入っているだろう。
知ったうえで父と付き合ってくれているのだ。父の様子からすると、同情などではないのだろう。深くかかわった人ならわかるが、何しろ父は性根がすごく優しいのだ。
家族以外に父のよさに気づいてくれる人がいてくれてうれしい!!!!!!だからしあわせ!!!!!
今度帰省したら縁側でおしゃべりする父とYさんにお茶を出そうと思う。そして少しばかり世間話に混ぜてもらおうと思う。
追伸
看護学校の社会人入試に合格したので、春から看護学生になります!!!!精神科の看護師目指してがんばるぞ!
ちょいとコメ返:
①どうやって暮らしてたの?→母が医療系の専門職だったおかげで家族が食っていけました。やったね!
②苦しい気持ちで読んだ。ガラの悪い人は"おそらく"精神科の知り合いで"まともな友達"ではないと言う増田が、精神科看護師を目指すのか→配慮を欠いた書き方をしてしまったことをお詫びします。父の入院先の病院では、少々暴力的な方々が医療者の見えないところで他の患者を恐喝するといった小さな事件が相次いでいたのでナーバスになっていました。
ご指摘の通り、その方々も治療の対象者であることに変わりはありません。そういった問題行動をとる方々ばかりが入院されているわけでは決してないことを強調しておくべきでした。
また、退院後の父に連絡してくる方々が高圧的な印象が強すぎたためそこだけフォーカスしてしまいました。申し訳ありません。猛省・精進します!
正確には軽度のアスペにADHDが混入しており、いわば心のなかで「自閉の弟を多動の兄が連れ回している」状態。
診断受けたときにやった知能テストでは、アスペが強いとされる部分は天才的に凄いと言われた反面、弱い部分は境界知能クラスと言われた。
今までの人生を振り返ると、結局の所、自分の一番弱い部分が事あるごとに足を引っ張ってきたと言っていい。
だから、「長所を伸ばすことが生存戦略として適っている」という、よくある言説は一切信用していない。
むしろ弱い部分を底上げするほうが確実にQOLは上がるだろうと思っている。まあ言うは易く…ってやつなんだが。
あと、障害特性が「軽度」で「混ざっている」というコウモリ野郎なため、普通の人からのみならずガチアスペっぽい人からもADHDっぽい人からも「変人キャラ」扱いされるのが地味に辛い。
さて、長い前置きはこれくらいにして、今まで使っていなかったストラテラを使うことになった。
薬については自分の場合、二次障害に対処するリスパダールとかリボトリールとかは使ったことあるけど、障害の根本部分にコミットする薬は使ってこなかった。
今まで比較的自分に向いていた部署にいたのが、配置転換により、全く向いていないどころか事故多発→クビ路線が確実視される現場に行くことになったから。
正社員につきものの話なのか、はたまた会社が自分を追い出したいからなのかは知らないが。
それで、とにかくなりふりかまっていられない。薬でもなんでも、合法的に使えるものは何でも試してやれと決心。
とはいえアスペに効く薬はないから諦めるとして、せめてADHDの特性だけでも軽減させないと…ということで主治医に相談したところ
「増田さんにどこまで効くかはわからないけど、最小量の25mgから試してみようか」
ということになった。
これが10日くらい前。
その効果だけど、「おお!こういう効き方するのか」と結構納得できる手応えだった。
初日から、仕掛中のタスクもさっくり切り上げて他のタスクに切り替われるようになり、更に集中と俯瞰の切り替えがベストタイミングで発動する感覚を味わった。
翌日には、相手の話を最後まで聞いて話すのがデフォルトになった。
翌々日には、話す前に一呼吸置いて話すようになった。
一週間後には、怒りも悲しみも不安も全て「冷静さを失わず」感じられるようになり、逆に今まで自分の心がいかにざわついていたかを実感した。
そしてここが重要なのだが、薬が効いているときに経験した言動は知らず知らずのうちに脳に記憶されるようで、効き目が切れ始めても、前述の記憶で言動が自然矯正されるのだ。
即ち一度薬を摂取したが最後、摂る前の自分には二度と戻れなくなると。
しかもたった25mgで、前頭葉にしか作用しない、精神系のお薬としては「見劣りする切れ味」と言われているものでも、この効果である。
こりゃ、麻薬や覚醒剤を売るなんて人殺しと一緒だよなと、心の底から思わされた。
というわけで、本格的に新しい部署に赴任するのは来年度で、今は移行期間なのだが、今の所大事故は起きていない。
それでもつまらないミスや必要以上にビビるケースは無くなっていないので、薬の増量を試すのもありかと思っている。
ただそれで治るのは多動のみであり、自身の問題のもうひとつの根幹である、自閉の部分は未だ手つかずである。
よって、話を端的にまとめるとか、相手に合わせて話す内容やアプローチを変えるとか、そういう他者への強い興味とそれに伴う情動がなければ身につかない部分は、多分今後も生きる上の厄介事でありつづけるだろう。
てかMDMAみたいな、情動を喚起する系の薬が早く実用化されて欲しいんだよね。
そんな感じ。
元々糖尿のケがあった父が単身赴任先で悪化させて(部屋から大量のマクドナルドの袋がでてきたから適当なもの食ってたんだろう)足を化膿させて近くの病院に入院した。皮膚科。
糖尿病の専門病院に移ったほうがいいのではないかと言う家族に対し、意固地になって「この病院に居続ける」と言う父親。主治医は若くて綺麗な女性医師だったので、ぜったいに彼女目当てだ、と思う家族一同。
結果として片足を切断、単身赴任は継続できず実家から両手で杖をついて会社に通うことに。
それからしばらくして、元々いびつな父親の歩き方が更におかしくなったことに母が気づき、病院に行くべきだと伝えた。大丈夫だと主張する父。数週間後痛みに耐えきれず結局病院に行くと、残った方の足が骨折していた。手術して残った方の足は人工関節に。
それからまたしばらくして(略)大丈夫だと主張(略)結局病院に行くと、残った方の足が化膿していた。今度は切断まではいかないけど、足を遣うのはよくないということで現在車椅子生活。
こういうアホさは、両脚切断するまで、いや死ぬまで一生直らないんだろうか……。
しない方がいいと思われる理由
した方がいいと思われる理由
俺は精子の運動率が低いとかで薬を飲み続け(後で調べたらビタミン剤と申し訳程度の漢方だった)
妻は多嚢胞性卵巣症候群とのことでやはり薬と定期的な通院、内診を行っていた
夫婦で別の医者にかかっていたが、妻の方の主治医によれば「不妊治療の段階を上げたほうが良いかも」との話もあった
が、通院しはじめて(つまりタイミング法を始めて)3ヶ月後にあっさり妊娠
翌年、若干早産ではあったが無事に娘を授かった
妊娠を伝えた際、妻の不妊の主治医は「へぇ~、よくこれで自然妊娠したねえ」と負け惜しみのようなコメントしたそうだ
我々が「めちゃめちゃ運が良かった」のかもしれない
でも「あの先生方、たまたま子供ができでてなかった夫婦に画一的な対応して不妊治療のフィールドに引き込んでただけなんじゃないか」とも思えてしまう
生理前でもないのに不安とイライラと情緒不安定がおさまらないとき、ああ私は本当にメンタル(あるいは脳の機能)がブッ壊れてるんだなと思って悲しくなる。思春期のころからずっとそうだった気がする。なんで産まれてきちゃったんだろう。私なんかいないほうが良かった。私はメンタルがブッ壊れてるわりに自傷も他害もしない。家に引きこもって独りで布団の中でグッと耐えてる。だから具合が悪くても放置されやすい。自傷なり他害なり、何かしか問題を起こす人はだいたい精神科入院歴がある。私は入院歴は一度もない。強いて言うならばこうやって部屋にずっと引きこもっていることが「入院的な環境」と言えるかもしれないが。もしインターネットがなかったら、私はもっともっと孤独で、それに耐えられなかっただろう。昔から孤独なときは常にネットにいた。別にそれで気持ちが救われるわけでもないのに。ただ時間潰しにしかならないのに。私はリアルでは他人を求めていないが、心の何処かで他人を求めてしまっているんだと思う。無意識に他人を求めてしまう気持ちをゼロにしたい。そうすればきっと楽になる。私はもう誰も見たくないし誰とも関わり合いたくない。こんなことを増田に書いて誰かに読んでもらおうとしてる時点で矛盾してる。
私はなんでメンタルブッ壊れ人間としての人生を歩むことになったのかな。
なりたくてなったわけじゃない。それが悲しい。
いつか主治医が言っていた「人生は楽しんだもの勝ち」という言葉は数ヶ月間ほど私に力を与えてくれていたが、今はそうじゃない。
楽しもうと思っても色々障害があって楽しめない。
障害というのは、自分の精神状態の不安定さだったり、外出しようと思ってもできない無気力状態だったりする。
躁状態になりたい、と懲りずに思う。うつ状態というのは端的に言って生き地獄だから。人生楽しんだもの勝ちと言うなら、私が躁状態で楽しくアクティブに生きてるときに静止しないでほしい。私が楽しんで生きていられるときって大体は躁状態のときなんだから。私は楽しみたいし、楽しまなきゃ生きてる意味はもはやない。子どもを産み育てるつもりも異性と付き合うつもりも仕事をする気すらない。自分独りで生きていく。
どうか壊れた人間に何か生産的なことを期待しないでほしい。それから…しょうもないことで褒めないでほしい。
私は私がなりたい人間にはなれなかった。最低限ここまでの基準には到達したいと思う基準にすら到達できなかった。だから自分のことが好きになれない。頑張りたかった。努力して実力不足を超えたかった。たしかにそう願って努力した時期があった。他の人たちがそうしているように。
私はこれからも行動化を起こさず目立たず社会の最下層にて独りで静かに暮らす。上にいる人たちが眩しいと同時に憎い。特にインテリの家に生まれ裕福に産まれ育ち心身ともに健康で努力できる人が憎い。それは全て私がほしくて手に入らなかったものだからだ。
巻頭カラー6ページにわたっての特集は「しっかり手洗い慣行」よ!
だから今朝はもうしっかり手洗いしちゃったわよ。
この今の時期な雰囲気で。
あの徹底した二の腕まで洗う手洗いは業界屈指のキレイキレイだわ。
そんなことよりさ、
薬で抑えてるから治ってるこの瞬間命を燃やせ!って行こうと思っても、
なんだか薬の効き目が切れたら恐怖だわ。
いっそのことカーンと熱上げちゃった方がお熱のがお好きなんじゃない?
何言ってるかよく分からないけど、
いっそのこと38℃ぐらいの体温のキープして体内のウイルスというかそういうのを
そうそうあの
北斗の拳みたいな漫画の肩にトゲトゲの肩パットを装備してる敵の人が消毒だー!って火炎放射器で焼き払おうってしてるシーンの
中で一所懸命頑張ってくれた方が
私は熱上がってしんどいけど、
身体の中でのいい免疫システムの人がそれやってくれる感じをイメージしてくれたらいいんだけど、
だってじゃないとさ、
完治させないと銭湯も行けないし、
っていっそのことサウナの110℃ぐらいのカーンとした熱でって
バカな私でもさすがにそれはバカな作戦だわって思うので辞めようと思うわ。
元気があれば何でも出来るー!って主治医のアントニオ猪木さんの横にいる看護師の蝶野正洋さんが最後バシーンってビンタ処方してくれた方がまだしもだわ、
処方してくれるのはアントニオさんじゃないのね!アントニオさんじゃ!って
ほっぺたの痛さの方が勝って治った気がするわってなると思うの。
って言う夢を見ました!
って言うのはウソで、
のど自慢のゲストが中条きよしさんだったときで最後に歌を歌われたとき、
ウソだったんかーい!ってちょっとずっこけそうになって笑っちゃったわ。
にしても小田切アナこのクダリ何回するのよ!っても思っちゃったわ。
ということで、
ちゃんとしなくちゃね!
うふふ。
それが美しくてメインの具は玉子なんだけど、
サンドイッチの断面に現れるほんの1ミリぐらいのレタスのグリーンとハムのピンクのラインに感動したわ!
なんかそんな酔狂なことをしちゃうこだわりがあるんだなーって関心したわ。
味もとても美味しいからまたリピする!
今度そのことをそのパン屋さんの大将に伝えなきゃって思った次第よ。
何故かというと、
最近どうも全快ではないので
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
10代後半〜20代前半……全ての辛さを抗うつ薬と抗不安薬を投与量MAX服用しながら名ばかり正社員として手取り12万円ほどで働いた。夜勤は週2回ほどあった。
その後、メンタルが完全に壊れる。うつ病と言っていた主治医が実は境界性パーソナリティ障害という診断名を私につけており、障害年金の対象外となることを、その10数年後に知るのであった。
とかくこの世は私にとって辛かったが、この世に生きているみんなが辛いわけではなく、やることなすこと上手くいく優秀な人間もいて、バリバリ仕事して勉強して遊んで趣味ですら結果を出していることも知っている。
この世はそういう人たちのためだけにあるんだと私は思っている。