はてなキーワード: お笑いブームとは
ようするにあの受け方って笑わせてるというより、笑われてるに近いと俺は思ってる
あのアカデミー賞で、コメディアンのクリスタッカーをビンタしたウィルスミスが叩かれたけど
ウィルスミスがたたかれた理由はいくつもあるんだけど、なんだその理由って思ったのは
コメディアンは地位の低いかわいそうな職業なんだから、俳優でありアーティストのウィルスミスは許さなければいけないのに、怒ってしまったから器が小さいって理由
80年代以前の、お笑いブーム以前の日本もそんな感じだったらしいけどね
世界じゃお笑いって基本笑わせてるというより、笑われてる系だから
ああいうのが受けてもなぁって感じ
屏風から出してきたぞ
@ ywny
これ、わかってない日本人(特に男性)が意外に多くて、見ていてハラハラする。
アメリカ社会の暗黙のルールとして、人の外見に対するネガティブなコメントは基本的に全部アウト。それで笑いをとるのはもってのほか。テレビでもやらない。
しまき🇺🇸
@readeigo
そういえば、日本では誰かのお腹が出てる事とか太ってる事とかネタやイジリとしてまだまだ言える風潮あるかもしれませんが、アメリカでは絶対に!絶対に!禁句です。「体が大きい」みたいなやんわりした表現でもダメ。誰かが「お腹が出てきちゃって」とか言ってもそれはトラップです。踏まないように。
@ha_chu
「肌の色、髪型、体型などについて、他人があれこれ物申すのはハラスメントにあたり、タブー」
小室さんの髪型がどうこうの記事もテレビも完全にいじめでしょ。
小室圭さん報道で考える「人の見た目問題」。日本は真の多様性に向け何が必要か(安部かすみ) - 個人 - Yahoo!ニュース
ニューヨークに暮らす小室圭さんが路上スクープをされた。筆者は当地に長く住んでいる身として、どうしてもニュースフィードに並ぶ「長髪」「ロン毛」「コムロン毛」という言葉が気になってしまった。
午前10:23 · 2021年9月25日·Twitter for iPhone
ttps://twitter.com/ha_chu/status/1441574059762876416
momari💙💛
@momari2
これアメリカ素敵と思うけどアメリカが特別なのではなく大抵の先進民主国家は外見を笑いのネタにするなんてことはしないし、してはいけないと小さい頃からちゃんと教育されているんだよね。日本が遅れてるんですよ。
@My_Liberty_
私受験で20kg体重落ちたんですけど、1番太ってた時の伝説の写真を日本の友達に見せると100%爆笑されるのに、アメリカでネタで見せたら「満面の笑みに太陽が差し込んでて素敵な写真」って真顔で返されて、もはや自分から見せておきながらどう反応したらいいのか分からんかった
午後9:40 · 2021年9月19日·Twitter for Android
ttps://twitter.com/momari2/status/1439570061442748421
@GIN_00001
久々に飲みに出ず家でマッタリの週末。ボーッとさんまのお笑い向上委員会見てたら、ハゲだの、デブだのでゲラゲラと。チビやブスも同様やけど、差別に繋がる容姿いじりを遅れた日本のお笑いはいつまでやるんかな?容姿いじりについては早く欧米の様に大問題になる様に追いついて欲しいね。
午後11:27 · 2021年11月27日·Twitter for Android
ttps://twitter.com/GIN_00001/status/1464601766062739460
@KellySIMONZ
笑いの質もそうだけど欧米のコメディアンは世論や体制を批判したりに噛みつく笑いが多いけど、日本は基本的に弱い者いじめや容姿についてイジル事が主となってしまっているのでこれもまたどうしようもない。僕は大阪人なんで生まれた時から覚悟しているけど、本当は覚悟なんかしない方が良いしね👍
午前10:18 · 2021年8月15日·Twitter Web App
ttps://twitter.com/KellySIMONZ/status/1426714914475843592
春ふわり
@nanafuruuto
欧米では、ウィットに富んだ会話や社会風刺の皮肉で、フフッと笑うジョーク。基本的に誰も傷つかない。対して「イジリ」という名の個人攻撃イジメ。関西の笑いによくある。容姿をネタにしたり、能力の低さを嘲る。他人を見下し、他人を蔑む笑いは、日本のお笑い文化の良くない部分だ。
@satosiTS
返信先: @satosiTSさん, @kugatsu_mainさん
80年代にお笑いブームなるものが始まって、それ以来、自分は彼らの芸を笑えたことがない。
@ssm8882
当たり前になっている、だから
いまオリンピッグなんていう差別語を開会式ヘッドが発言し、責任辞職に
国際基準にならねば
@rkayama
アリアナ・グランデが春菜さんの容姿をイジるネタに笑わず、CMの時間に真剣に春菜さんを励ましたという話、ほんと好き。
春菜「マイケル・ムーア監督じゃねぇよ!」のネタに、アリアナが笑わなかった訳に考えさせられる (2016年8月30日) ttps://excite.co.jp/news/article/Heaaart_186947/ @ExciteJapanから
午後7:39 · 2021年3月18日 東京 町田市から·Twitter for Android
ttps://twitter.com/ssm8882/status/1372497759639465987
@kinacomochiumai
やっぱ日本のお笑いとかアイドルって無理、、芸能界ヤバすぎる。コンプラとか人権意識がマジで欧米の50年前くらい。
japanese芸能界、ホモソ成分&ロリコン許容度高すぎんよー😩
@kinacomochiumai
返信先: @lastbosspandaさん
〜年の差婚の面々〜
トランプ🇺🇸「スターなら女はヤらせる。ぷっシーを掴むんだ‼︎」
午後9:07 · 2020年12月11日·Twitter Web App
ttps://twitter.com/kinacomochiumai/status/1337368454769209346
Tomo-友-
@karisjapan
悲しいかな、それに気づいていない人も多い。
年齢?
欧米では誰もそんなこと気にしないよ。
僕のスーパーバイザーは78歳の最高に尊敬できるおじいちゃんだったよ。
見た目?
容姿や体型を話や笑いのネタにするような差別的な感性を欧米人は持っていないよ。
午後11:20 · 2020年10月10日·Twitter for iPhone
ttps://twitter.com/karisjapan/status/1314933751944605696
@minotonefinland
欧米圏のコメディや、実際の生活での仲良しの友達との「親愛を込めたdisり」はあっても、顔の作りとか容姿に関する内容はタブーに近いのではないかと思う。それはレイシズムとかセクシズムと同じ扱いで、センシティブな国とそうでない差の違いはあるだろう。でも日本ほど緩い国はなかなかない。
午前0:58 · 2019年1月10日 Porvoo, Suomiから·Twitter for iPhone
ttps://twitter.com/minotonefinland/status/1083030275158884355
私はラジオが好きだ。
特に深夜ラジオが好きで「オールナイトニッポン」も、もうかれこれ10〜15年くらい聴いている。
今でこそ、Twitterとの連動やお笑いブームもあって人気コンテンツになりつつあると感じるが、当時はまだラジオはマイナーな趣味だったと思う。
だがなんとなく聴きはじめてからすっかりハマってしまい、ここ10年くらいは深夜に頑張って起きて聴いたりごくたまにだがメールが読まれたり、いわゆるヘビーリスナーと言ってもいい立場だと思っている。
そんな自分だが、先週配信されたニッポン放送55周年記念「あの夜を覚えてる」にどうしても違和感というか、冷めた気持ちを感じてしまった。
長年好きなコンテンツのはずなのにどうしてそう感じてしまうのか、自分の考えをまとめたい気持ちもあって今これを書いている。
一応書いておきたいのが、ニッポン放送やオールナイトニッポンと分けて考えれば、物語自体はとても面白かった。
例えばこれが普通の映画だったり漫画だったりしたら、とても好きな作品になっていたと思う。
なのになぜモヤモヤしてしまうんだろうかと考えてみて、一番感じたのは「"エモ"は公式から押し付けられると冷める」ということだ。
これはこの作品だけでなく他のコンテンツにも感じたことがあるのだが、私は公式から「エモ狙い」の宣伝や発信をされて冷めてしまうと感じる。
深夜ラジオを長い間聴いていると、いわゆる「神回」に出会うことや、「エモい」というか、テレビや漫画など他のメディアでは味わえないような感動を味わったこともある。
でもそれは、公式から「神回ですよ」「エモいですよ」と言われているのではなく、聴いているリスナー側がそう受け取っただけのことだと思っている。
10年以上続く人気番組「オードリーのオールナイトニッポン」が「部室」と言われているのもそうだが、パーソナリティのトークを、それぞれのリスナーがそれぞれの感覚で受け取る。
それがラジオの好きなところだと、私は思っている。
だから、公式から「あの夜」と言って深夜ラジオというコンテンツのことをドラマチックな「エモい」物として発信されてしまうと、なんだか違うと感じてしまうのだと思った。
また、劇中にいくつもあった普段のリスナーならわかるような「小ネタ」のひとつを、公式Twitterで「元ネタはあのラジオのあの回です」とツイートしていたことも「なんでそんなことをするんだろう」と思って不思議だった。
そういった「小ネタ」は伝わる人にだけ伝わればいいものだと思っていたので、公式から声高に解説されたことに違和感を感じてしまった。
公式Twitterは他の宣伝ツイートも謎のポエム調のツイートばかりで、終始「酔っている感」というか、さきほども書いたが「エモ狙い」をすごく感じてしまうものだった。
長々と不満を書いてしまったが、結局はあくまでも私の一人よがりな「深夜ラジオ」のイメージや今まで約10年間の印象と、今回公式から発信された「深夜ラジオ」に対する価値観が違いすぎて勝手にがっかりしてしまっただけなのだと思う。
また、一リスナーの意見だが、こういった作品を作るような金銭的・人員的余裕があるならば、もっと今放送している番組の企画やイベントに力を入れてほしかったとも思う。
あまりにもネットやTwitterで絶賛の声しかなかったので、「本当にずっと深夜ラジオを聴いてきたような人がみんなそう感じているのだろうか」と思って書き始めてしまった。
タイトルの時点でいないとは思うが、この作品が好きでこれを読んで不快にさせてしまった人がいたらごめんなさい。
やっぱりこんな風に感じたのは自分だけなのかな。
巷では小山田圭吾のイジメ問題で大炎上している。……どんな時代でもイジメはなくならないというが、イジメのスタイルや感性は時代とともに変わってきたようにおもう。
70年代は、ゴリゴリの暴力やカツアゲという"利益目的のイジメ"だった。社会全体が貧しく、不良はイカつげで、弱者や障碍者はカモだった。だが大多数の層は「見て見ぬ振り」か、せめて白い目では見ていた。
80年代は、お笑いブームと金余りもはじまり、不良はヤンキー臭があってもお笑いもイケる奴が「モテ」になった。暴力や貧しさという負の側面はイジることで笑い飛ばす風潮になった。ヤクザはヤッちゃんと呼ばれ、貧乏長屋はパロディになり、弱者や障碍者はイジりの対象になった。暴力的な不良でなくとも、弱者のみっともなさや不自然さを笑えば勝ち組に回れる。暴力より笑いのほうが平和じゃん?と。弱者をマジ顔で擁護する正義漢なんてアナクロだしダサい。強きを助け弱きをくじくタケちゃんマンは笑いにくるんだ本音としてウケた。そんなライト感覚で従来の一般層も弱者を笑うほうに回った。
90年代は、社会が隠蔽する負の側面を見世物小屋的に取り上げるサブカル民の一部……つまり従来のモテの条件だった暴力も金も顔も微妙だが面白いことは言えるし弁は立つ……が、80年代モテ系のイジメ作法を真似し始める。知的階級は弱者や障碍者を擁護すべしという戦後リベラル的な不文律を、「だーってそんなんじゃモテないし、助けてもいいことないし、素直に見たら笑えるじゃん?」と開き直った感じでもある。つまりはビザール系な知的興味の"対象物"扱いである。
かくて不良系のみならず知的とされる階層までが、「ジョークだよジョーク」、「悪ふざけが過ぎたけど一緒に遊んでただけ」、「社会参加しさせろというから仲間に入れて遊んでるんじゃん」とうそぶく、そういう笑いにくるんだ「道化イジメ」に精を出す時代ともなった。
小山田圭吾が「俺はアイデア出してただけよ?」と言い募るのは当然だ。彼はサブカル民だから、「あたまのわるい不良みたいに直接暴力に訴えるなんてダサイ真似は、この俺がするわけないよ?」と言いたかったわけだ。
前フリが長かった。
この時代のEテレに、児童向け特別支援教育番組の"グルグルパックン"というものがあった(1994~1999年放送)。かの有名な"ストレッチマン"が最初に登場した番組である。当時の生活リズムとちょうど合う時間に放送されていたのと、自閉症や知的障害の児童たちのゆるさとストレッチマンのハイテンションの不思議な空気感に、何となく習慣的に見るようになっていた。番組内容はゆるくて差別感や悪意も感じず、むしろ怪人に扮した支援学級の先生たちの奮闘や障害児童の頑張らない日常……チャリティ番組的なお涙頂戴ではない……は穏やかでいい感じであった。
ある日、寝ぼけまなこでテレビをつけた時、そこには隅に小さく番組のロゴが映っていた。自分は目を疑った。
https://pbs.twimg.com/media/EubSIAtVIAEI9Rp.jpg
寝ぼけた目に小さなロゴは、"クルクルパークン"……"くるくるパー君"と読み取れたのだ。(画像を縮小して、目を細めてぼやっと見てほしい。) ものすごい悪意を感じて、たじろいだ。
もちろん。「自分の目がボケてた見間違いでしかないじゃん」、「差別意識や被害意識のある奴はどこにでも差別を見出すんだよな」、「障害児童を画面に出すのも微妙なのにそんなヤバいことしないでしょ?」と、矢のような反論が飛んでくるのはわかっている。ただの見間違いから因縁をつけているだけと言われるだろう。ただあの、「弱者や障碍者に親切顔で接近しながら裏では小馬鹿にして嘲笑うことは、知的でイケてる層のウィットに富んだ身振り」とされていた90年代の雰囲気を踏まえると、何とも奥歯に物がはさまったような釈然としない気持ちにもなる。ましてや、「NHKでは知性や学歴を鼻にかける高慢で反抗的な奴はEテレに回される」という風説を耳にしていると、陰でイジメをする優等生が「見間違いで妄想して何を言っているんだ。邪推でみんなの善意と努力を否定する気なのか?」とうそぶくような、抜け道確保済みの確信犯的な振る舞いじゃないかとも思えてくる。いや、出てくるみんないい人だよ。それら全部を身内ごとひっくるめて嘲笑うような"見間違い"だから、知識人特有の底意地の悪い見下しを感じたのだが。
そういえば、このあたりから日本の成長は失われていったな。二枚舌が使えない者が"発達障害者"としてあぶり出されはじめた時期でもあった気もする。
真偽は謎の上に、四半世紀前のことを持ち出して因縁つける気もないが、世間の話題にのっかって「90年代はそういう風潮だった」と確認し、「だれか同じようにロゴに気づいてた人いなかったのかな」と書きおいてみたかっただけだ。読み捨てていただきたい。
ダウンタウン以降のお笑いブーム盛り返しに乗じてジャニーズもコント番組をいくつかもつようになった時代があった。
コント中「オレ、今面白いこと言いました」みたいなドヤ顔をなんども目にすることになるんだけど、そのたびに苦痛で仕方なかった。
ヤスキヨの時代ならネタや脚本は専任の別の人が考えることが普通だったけど、さして笑いの訓練もその世界で上を目指すつもりもない人たちが、片手間でやった他人のネタなんて身が入ってなくて薄味極まりなかった。
あと教養もないのに頭いいフリするのもやめて欲しい。中居くんの寒いコメントに誰も突っ込まないのって老害っぽくて痛々しい。
ジャニーズ、要る…?
多くの人はこちらのWikipediaの記事を参照していると思われる。
この記事も踏まえた上で、実際に主だった芸人を「活動開始時期」や「人気が出た過程」で並べ、あらためて世代分けを考えてみたい。
まず画期としては1953年のテレビ放送の開始が挙げられる。この時期に人気があったのは落語家や喜劇俳優であり、またコミックバンドも人気があった。上の表で言えばいとこい・ダイラケあたりが該当する。いわば「第0世代」であろうか。
次にやってくるのが「演芸ブーム」で、1963年開始のテレビ番組『大正テレビ寄席』を中心に数々の演芸番組が放送され、その勢いが1970年ごろまで続いた。一般にこの時期に人気が出た芸人が「第一世代」と呼ばれる。「寄席」をテレビでやるので落語・漫談・漫才・コント・コミックバンドなど幅広い芸人が登場した。てんぷくトリオを筆頭に三人組が多かったので「トリオ・ブーム」とも呼ばれた。1970年代はドリフと萩本欽一のコント番組が人気を二分した。やすきよもこの世代に含まれる。
続いて、1980年に放送された『花王名人劇場 激突!漫才新幹線』『お笑いスター誕生!!』『THE MANZAI』などが立て続けに高視聴率を取り「漫才ブーム」となった。このブーム自体は二年ほどで終息するが、若手漫才師がアイドル的な人気を得て「漫才」のイメージを変えたり、吉本興業が東京に進出したりするきっかけとなった。1981年から1989年まで続いた『オレたちひょうきん族』が『8時だョ!全員集合』の視聴率を超え、出演していたビートたけし・明石家さんま・山田邦子らは一躍スターとなった。たけし・さんまにタモリを加えた「BIG3」を中心に、漫才ブームやひょうきん族から出てきた芸人を「第二世代」とみなすべきだろう。
その次が「第三世代」と呼ばれる芸人たちで、お笑い養成所出身の若手が、小劇場のライブで腕を磨き、夕方番組や深夜番組をきっかけに人気を得て、ゴールデン帯で「バラエティ番組」を持つ、といったキャリアを踏むのが特徴である。とんねるず・ダウンタウン・ウッチャンナンチャンがこの世代の代表格となる。一般に「第三世代」は80年代デビュー組で区切るようだが、個人的には似たようなキャリアから早めにブレイクしたナイナイやロンブーあたりも含めるべきではないかと思う。
次に来るのが「ボキャブラ世代」である。1992年から1999年まで続いた『タモリのボキャブラ天国』は、当初は視聴者投稿型の番組だったが、徐々に芸人のネタ見せ番組に移行。この番組を登竜門に「キャブラー」と呼ばれる芸人が続々と登場した。吉本興業が首を突っ込みそこねたらしく非・吉本芸人が多い。またボキャブラ終了とともに一時的に低迷した芸人が、2000年代に復活するあたりも共通している。先述したとおり、ナイナイ・ロンブーなどを第三世代に含めるとすれば、この「第四世代」は爆笑問題・くりぃむしちゅー・ネプチューンあたりが代表格となる。
2000年代に入って「M-1グランプリ」が始まったことで「お笑いブーム」が醸成された。また同時期に『爆笑オンエアバトル』『エンタの神様』『笑いの金メダル』『爆笑レッドカーペット』などのネタ見せ番組がスタートしてお笑い人気に拍車をかけた。賞レースを目指してストイックに芸を磨く若手芸人と、多数のネタ見せ番組により短期的な人気を得た「一発屋」が混在し、芸人のレベルは底上げされたものの、数としては飽和した感がある。2010年にM-1グランプリが終了するとブームも終息し、多数の「ひな壇芸人」を出演させてトーク中心に作られる低予算の番組が増加した。(2010年までの)M-1でブレイクした芸人と「ネタ見せ番組」によって登場した芸人が「第五世代」といえるだろう。
2010年代になると、第二世代・第三世代がフェードアウトし、第四世代と第五世代がバラエティの「司会」の座を奪い合う群雄割拠の時代に入った。第五世代は図抜けた存在はいないものの層が厚いので、2000年代デビュー組の多くがつかえて中堅に留まっているように思える。そんな中で、霜降り明星および彼らが「第七世代」と称する2010年代デビュー組が既に台頭してきている。この場合は2000年代デビュー組が「第六世代」とされるわけだが、2000年代デビュー組は遅咲きになりそうなので、おそらく2000年代デビュー組と2010年代デビュー組をあわせて「第六世代」と呼ぶようになるのではないか。2020年現在、芸人の主戦場はYouTubeになりつつある。後世から振り返れば「第六世代」は「YouTube世代」と括られるのかもしれない。
いまから十数年前、高校生の頃に「M-1甲子園」というイベントに出た。
よしもとが主催、イオンが協賛の高校生の漫才コンテストであり、吉本が素人の高校生の中から未来のスター発掘するという意図がある大会なのだが、いろいろ不可解な思いをしたので書こうとずっと思っていて、昨年末のとろサーモン久保田の上沼恵美子への暴言、立川志らくのM-1での審査を評したブログがホッテントリになったタイミングで書きたかったが師走の忙しさで書く時間がなく無下にしてしまった。
もうタイミングを逃したのだが、今年のM-1まで取っておいても書くのを忘れてしまいそうなので、今このタイミングで書かせてもらう。
俺が高校生だった十数年前、地元のイオンでM-1甲子園なるイベントの予選があるので出場しようと友人から誘われた。
俺は中学の文化祭で、生徒が体育館でステージで催し物を披露するコーナーで中2から2年連続漫才をし、2年連続投票の結果優勝した。それまでギター覚えたてのヤンキーが稚拙な演奏を披露しイキがる場でしかなく、ヤンキー以外の出場は暗黙の了解で禁忌とされていた雰囲気の中において、ヤンキーの許可なくそこに割って入った俺の漫才が優勝したのだ。
中1の頃はオタク扱いされスクールカースト最底辺だった俺が、中2の文化祭からは学校の人気者となれたのだ。その年頃の女子というのはスポットライトを浴びた男だったら誰でも良いようで、それまで俺のことをゴミのような目で睨みつけ忌み嫌っていた女子どもが急に俺のことをチヤホヤしていたが、俺は奴らのことを恨んでいたので硬派気取ってまるで無視していた。今考えたらやれたかもしれない。
高校生になってから文化祭の時の相方とは違う高校に進んでしまい、相手も部活に勉学に励みたいとのことで漫才は続けられなかったところ、別の漫才をやりたかったという友人が俺をM-1甲子園に誘ってくれた訳だ。
予選通過したら東京で決勝があり、優勝したら賞金20万円貰えるらしいのだが、まあ、中学の時の相方は笑いのセンスもよく、俺の書いたネタに文句も言わずそのまま受け入れてくれ、相性もよかったので満足いくネタが披露でき爆笑をかっさらうことができたのだが、M-1甲子園に誘ってきた奴は笑いのセンスがまるで無いどころか俺の作ったネタにいちいち文句を出し、その割に自分でネタは書かず俺のネタをベースにまったくつまらない方向に改変を要求し、お笑いをやるっつってんのに道化を演じるのが嫌なようでかっこつける言動ばかり取りたがり、人を笑わせたいというよりスポットライトを浴びてただ女子にモテたいだけという性欲しか感じられない奴で、ああこりゃあクソ滑りするなあ予選絶対通過しねえなという未来しか見えなかったが既にM-1甲子園にエントリーしてしまったので後の祭りだった。
俺は学生ながらに雑誌の読者投稿コーナーや深夜ラジオでネタが採用され、ネット大喜利で優勝を経験している職人だったので、ネタ作りに関しては自信があったのにも関わらず俺の意図した笑いどころが全却下された挙句ただ男子高校生ふたりつまらない立ち話をするだけの漫才とは言えない地獄のような内容しか用意できずM-1甲子園の予選の日はやってきた。今もその日を鮮明に記憶している。
当日、そいつは気になっている女子をつれてきて、もうすぐ始まるつってんのに、つまらない内容だがネタ合わせだけはしておきたい俺を尻目に女子と2人でイチャイチャとイオンのゲームコーナーでずっと太鼓の達人をしていた。
高校生なので楽屋などなく、これから始まるショッピングモールの広場に用意された舞台周辺に出場するっぽい高校生がぞろぞろ現れ始めた。俺も1人そこで待っていると、出場するっぽい奴が近づいてきて「あれ?見ない顔ですね?普段どこでやってるんですか?」と声をかけられた。
見ない顔?普段どこで?純粋な素人の高校生が集まっていると思っていたのだが、こいつら普段どっかの舞台出てんのか?
質問の意味がわからないので「人前で漫才やるのはこれが初めてですね〜」と答えると、「あっ…」といった顔をしてそいつは離れていった。
通りすがりの子連れ家族の父ちゃんに「これから漫才やるんですか〜?誰が出るんですか〜?」と聞かれ「高校生の漫才コンテストです」と答えると、「なんだ〜素人か〜絶対つまんねえな〜誰が見るんだそんなの」と吐き捨てられた。俺がこれから出るんだよ!という不快になる一幕もあった。
するとイオンのイベント担当みたいな人が出てきて「これから始めます」と胸につける番号札みたいなのを配りだしたので、急いでゲームコーナーから相方を引っ張り込んできた。
審査員は吉本芸人だ。各地方に吉本の事務所があり、うちの地元の吉本芸人が審査員として招かれており、イベント開始直前に腰を低くしたイオンのスタッフに先導されながら会場へとやってきた。
すると、それまで会場でそれぞれバラけてダラダラしていた、これから出場する高校生達が一斉に一列に並び、もう夕方なのに「おはようございます!」と業界丸出しの挨拶で綺麗にお辞儀をした。
それに対し審査員の吉本芸人は「おう、頑張れよ」と一言いうと審査員席に着座した。
そんなん知らん俺はもちろん並ばず業界の挨拶もせず、ポカーンですよ。こいつら、全員吉本の息かかってるやんけ!
その瞬間、この大会の意図を把握した。これは、吉本の息がかかっている、将来吉本所属が決まっている高校生を集めて、あくまで素人として吉本が世間に紹介するイベントなんだと。
予選出場の高校生コンビは全部で10組、俺の他にポカーンとしていたのは1組だけだったので、確実に素人と言えるのは俺とその1組のみで、残り8組は吉本の息がかかってる連中なのだ。
じゃあ、どう転んだって完全な素人は絶対に予選通過しねえじゃねえか。これから俺が滑るのはわかりきっているとはいえ、一気に冷めてしまった。
いざ漫才が始まると、さすが審査員の芸人におはようございますと礼する連中だけあって普段から仕込まれているのだろう、みんなしっかりとしたネタをして、横で観ている俺は笑ってしまった。
けど、他の吉本の息がかかってると思われるコンビは、他のコンビのネタには一切笑わず鬼のような目で睨みつけていた。怖っ。
で、いざ俺の出番がきたが、ボケもなく笑いどころのないネタがウケるはずもなく、少数集まった観客が舞台に目を向けず全員が手元の携帯を見ているという、生きた心地のしない地獄のような時間だった。死ぬかと思った。
漫才が終わり、審査員が苦笑いをしながら「独特な世界観ですね」とだけ言った。
その後の出番だった「おはようございます」を言わなかったコンビもやっぱり面白くなかった。
もちろん吉本高校生の中から東京行きが決まり、もうこいつとは二度と漫才しねえと決めて、素人であるはずの高校生たちの不可解な行動に疑問を持って帰った。
次の日エゴサーチをしてみると、2ちゃんねるの芸人板で俺がクソつまんねえとボロクソに叩かれていた。死ぬかと思った。
その数週間後。
深夜に何気なくテレビをつけていると、地元ローカル番組で吉本若手芸人のネタを見て笑ったら罰ゲームというコーナーが始まった。
ローカルタレントがニヤニヤしながら口に牛乳を含み、そこに出てきたのはイオンで漫才をやった高校生たちだった。
えー!?もう「吉本若手芸人」って言い切っちゃってるじゃん!!じゃあもうこいつら素人じゃないじゃん!!
高校生という紹介もなく、あの日イオンで見た連中全員がその番組で「吉本芸人」としてネタを披露していた。
息かかってるどころか、地元ローカル局とはいえテレビの仕事受けちゃってる時点でプロだよね!俺の予想は正解に近かったのだ。
ええ、こいつらプロじゃんと思った俺は地元吉本の所属芸人一覧をネットで確認したが、あの高校生達は誰も所属芸人に名を連ねていない。
なんなの?やっぱり素人なの?どっちなの?謎は深まるばかりである。
その数日後、この連中は「素人なのかプロなのか」の事実が判明する。
学校から帰ってきてバイトに行く準備をしながら夕方のローカルワイドショーを見ていると、地元の芸人を夢見る高校生に密着した特集がはじまった。
そこで特集されている高校生は漫才コンビではなくピンなのだが、ただつまらないダジャレやギャグをするのみで舞台では滑り続け、ライブで勝ち上がれなく悩んでいるという。
仕組みはこうだ。吉本の事務所には芸人を夢見る高校生が次々駆け込んできており、ライブで勝ち上がれば晴れてプロとして吉本に所属できる仕組みで、そのピン高校生はプロを目指しているがライブで滑り続けてなかなか勝ち上がれないのだという。
吉本の稽古場みたいなところでネタ見せをして、社員なんだか作家なんだかわからないがその様子を見ていた大人からつまらない、それじゃ勝ち上がれないぞと叱責されそのピン高校生は悔し涙を流していた。
そのシーンで、あのイオンで見た高校生たちも映り込んでいた。特集は「頑張れ○○くん!未来のスターとして応援します!」と締めくくられた。
つまり、吉本所属のプロとは言い切れないが、「吉本預かり」として普段から吉本の舞台に出演していて、稽古場では吉本の人間からも指導されている。それで、たまにテレビにも「吉本芸人」として出演しちゃう。
もうこれは素人とはいえないのではないか。完全に吉本の息かかっちゃってるんだもん。
その当時、M-1甲子園で決勝を勝ち進んだコンビが実は松竹芸能所属(事務所ページにもプロフィールが記載されていた)だとわかり、M-1甲子園の「プロは出場不可」というルールを破っているのではないかとお笑いファンの掲示板で炎上していたのだが、それ言ったら出場している高校生の大半が半分プロみたいなもんじゃねえかと思った。
やっぱり、この大会は「素人の高校生の中から未来のスターを発掘」なんて意図じゃなくて、「吉本預かりの芸人を世間に認知してもらう」大会でしかなかったのだ。
その頃は世間で圧倒的な若手お笑いブームだったこともあり、素人の大会と銘打ったM-1甲子園ですらネットではちょっとした話題になっていたのだが
俺が高校を卒業する頃には審査内容の不透明性などが指摘され盛り下がる一方で、ネットで話題になることが全くなくなってしまった。
高校を卒業したら芸人になりたいと漠然と思っていたが、こんな経験をしたので絶対に吉本に入ることだけはないなと考えていた。
高校卒業後、イオンで見た彼らのコンビ名でググって現状を調べてみたのだが、そこから吉本に所属することなく芸人の道を諦めそれぞれ大学に進学したり就職したりしているようだった(そいつらのブログを見つけたのだが解散報告などをしていた)
そんな俺も相性の良い面白い相方を見つけることもできず、ピンでやる度胸もなく、そのまま普通にサラリーマンとなった。
その後M-1甲子園は「ハイスクールマンザイ」というダサいイベント名に改名し、一時はその様子が全国放送などされていたようだが全く話題になることがないのでもうとっくに終わったイベントかと思っていたら、今調べたら去年もやってたみたいだ。
https://twitter.com/tm2501/status/687660497869508609
お笑いブームが定期的に来るのは腐女子的に「(特にイケメンでもない奴でもいいから)男同士で絡んでるのが好き」なタイプのスイーツがわっしょいするからなんだけど…そういう人らって下ネタも、自分らへのセクハラにもめっぽう繊細な人らやからなぁ…。面食いはむしろイケメンにセクハラされたがるが
男好きな女性にはさっくり言ってイケメンじゃなくても複数でホモ・ソーシャルしてるのが好きな人と、イケメンならなんでもいいぐらいの人の二種類だと思ってます。テレビの視聴に一番発言持ってるのは前者だと思います。後者は一人のタレントが好きで…というタイプだから
まじかよ腐女子最強だな。
そしておれは腐女子だったのか。
・サブカルチャー展中止は上客からの苦言ってオチじゃなかったっけ? その後別の展開あったの?
・試験監督は監視のプロがやってるわけでもなければプロの仕事を期待されてるわけでもないので、少なくとも大学がとがめるわけがない
・要因となる背景を自主規制していると指摘してるけど、その「報道が自主規制されている、要因となる背景」は何? 分かっていないと指摘できないはずだけど
・つーかお笑いって下火になりつつあるような
【疑問点】
・カンニング者は精神を病んでいた事実の隠蔽(当人の質問履歴参照)
・何かが起こるときには、その背景に要因となるものが存在するが、その点について報道を自己規制している点
【この現象への推測】
・メディアが彼を予備校生、浪人生と呼ぶことで国民の皆様は自分からある種のイメージを連想してくれます。報道側・国家(体制)の側にとって都合の良いイメージを。(国家・体制に疑問を持ちやすい人格で排除すべき対象者)
・反体制抑圧政策の一環(エジプト革命の無報道・サブカルチャー展抗議団体の要求で中止・NHKの行ったニコニコ生放送を独り飲み会と称して陰鬱さを強調したイメージダウンと孤独死との関連づけ・ニュースといえば犯罪報道となっている日本の現状…)
こうしていくら述べても、暖簾に腕押しなので国民の皆様は何も述べなくなります。
そうしてお笑いを見て笑わされることで、気を紛らわせているのでしょう。
野球少年にとってプロ野球選手というのは神なのである。野球界には、たとえば「守護神」という言葉がある。「代打の神様」という言葉も。古くは、「神様、仏様、稲尾様」というのもあった。
今日は日本シリーズの第1戦だった。ふとつけたテレビのスポーツニュースで、ひどく悲しい場面を見た。
番組で、ロッテの成瀬のメールを紹介していた。インタビュー収録ではなくメールの紹介という時点で本当にプロ野球まわりは不景気なのだなぁと感じたのだけれど、あろうことか、成瀬のメールの最後にこんな文章があった。
「(番組の司会だったくりぃむしちゅーの)上田さん、ホームランを打たれない方法を教えてください」
最悪だと思った。日本シリーズの第1戦に出てくるピッチャーということは、日本最強を争うチームのエースということだ。そのエースが、芸人風情に「ホームランを打たれない方法」を伝授してもらおうというのである。
私は大人だから、それが番組を盛り上げるためのひとつのギミックであることは理解できる(それにしても面白くもなんともないが)。だが、野球少年たちはどうだろう。あれを見て、明日もキャッチボールの練習をしようと思うだろうか。子どもはそのまま受け取るよ。「上田は成瀬より野球がうまいのか、へんなの」と、そう受け取るよ。
この国のスポーツマスコミは、いつからプロ野球選手を尊敬しなくなったのだろう。スポーツの感動というやつを、そのまま伝えることをやめてしまったのだろう。試合やイベントににぎやかしでタレントを呼ぶのはいい。だが、冗談でも言っていいことと悪いことがあるはずだ。
成瀬は、全国の野球少年の夢を背負ったエースとして、この依頼を断らなければならなかった。テレビスタッフの依頼に対して、激怒しなければならなかった。プロ野球選手として飯を食っている限り、その場所には、真剣に練習をして、真剣に試合に臨んで、勝ち続けなければたどり着けないのだということを、明確に示すべきだと思う。
上田は、「とんでもない、冗談じゃない、あなたに教えることなどあるわけがない」と、真剣に否定しなければならなかったと思う。狼狽さえしなければならなかったと思う。スポーツマスコミとして飯を食っている限り、プロ野球選手の価値を貶めるような言動や態度は、意識的に排除していかなければならないと思う。スポーツが死ねばスポーツマスコミも死ぬ。それは上田自身の食い扶持を減らすことでもあるのだから。
テレビのスポーツマスコミはもうダメになる寸前だ。今日、はっきりとそう思った。現場がスポーツに尊敬を持っていないのだから、それを伝えられた視聴者がスポーツを尊敬できるわけがない。何もかも、バラエティに侵食されて、成瀬がどれだけすごい訓練と技術を持っているのか、誰も理解できなくなってしまっている。
だけど思うんだ。もしスポーツマスコミに復興があるとすれば、そのヒントはきっと、テレビバラエティの中にあるんじゃないかと。
ここ10年、バラエティ番組は字幕テロップに頼ってきた。「めちゃイケ」も「エンタ」も「ロンハー」も、面白いところを全部字幕で流す。視聴者にわかりやすさを提供し、より広い層にアピールする努力を重ねてきた。昨今のお笑いブームを牽引したのは、まちがいなくこの字幕テロップという工夫だったはずだ。
バラエティにはバラエティの、スポーツにはスポーツの面白さがある。だったらスポーツだって、その面白さをそのままわかりやすく伝える努力をすればいい。成瀬と上田の軽薄なカラミなんかより、もっと面白いことが野球の試合のなかで起こっていることは、現場だってわかってるはずだ。
各局のバラエティ班は、バラエティの面白さを伝えるために血の汗をかいて字幕テロップという武器を手に入れた。それにより、バラエティは隆盛した。現在のテレビのスポーツマスコミは、そのバラエティ班の努力によって知名度を得たタレントや芸人におんぶにだっこで、本来、自分たちが伝えなければいけないスポーツの魅力を表現する努力を怠っている。
かつて、日本シリーズやプロボクシング、プロレスは国民的関心事だった。それは、スポーツにしかない感動がそのまま伝えられていたからだ。スポーツマスコミが、「こいつらはすげえんだ」と言い続けていたからだ。今だって、オリンピックやワールドカップになれば、スポーツマスコミは節度と敬意を取り戻すことができる。確かに野球の人気は下がっているだろう。だけど、せめてスポーツマスコミの現場だけでも、「プロ野球の日本シリーズは神々の戦いなのだ」という主張を怠ってはいけない。建前でもいいから、それを怠ってほしくない。野球少年から、夢を奪ってほしくない。それは、夢を与える仕事や、夢を伝える仕事に就いた者たちの責務だと思う。
今日の現場スタッフは、想像してみてほしい。ワールドカップのあの試合の直後に駒野がくりぃむしちゅー上田に「PKを外さない方法を教えてください」と言ったら、どんなことが起こったか。
笑いたくて野球を見ている者はいない。野球にはみんな、別の感動を求めているはずだ。もう一度、自分たちの仕事が何を扱っているのか、見つめなおしてほしい。
なぜお笑いブームは続くのか?
ttp://meinesache.seesaa.net/article/137310976.html
かつてのテレビ界には合い言葉がありました。「視聴者を巻き込め」というやつです。企画会議で必ず聞かされた言葉です。視聴者を、ただ受動的に番組を見る存在にしておかず、積極的な関与者にしろ(そう思わせろ)ということです。視聴者参加はその古典的な手法で、「電波少年」系の企画などは、その進化した姿です。送り手と受け手の間にあるテレビ画面という枠をいかに破壊するかということで、これは要するに、双方向性への希求です。テレビマンの腕の見せ所は、本質的に一方通行なテレビというメディアにおいて、それをどこまで擬似的に実現できるかにあり、テレビの進歩のエネルギーは、そこから生まれていたのです。
しかし、ウェブの登場ですべては変わりました。「視聴者を巻き込め」と、知恵の限りを尽くしてテレビが越えようとしていた壁の向こうに、きょとんとした顔でウェブがいる!そして勝手気ままに振る舞っている!この期に及んで壁を越えようとするのは、滑稽なばかりかテレビの存在意義を低下させるばかりです。そこで00年代中期からさかんにこう叫ばれ始めました。「テレビにしかできないこと」を探せ。
テレビ以上のものになろうとするのを止めて、テレビであることそれ自体の中に価値を見つけようというわけです。しかし、テレビにしかできないことは実はそんなにありません。なるほど局にはコンテンツ制作のノウハウはありますが、そこは何もテレビというメディアに縛られる必要はありません。テレビにしかないものを突き詰めれば、結局のところ過去へのノスタルジーと、華やかな芸能界と、大衆動員力に尽きるのです。
あなたはいくつ賛同できるかな? ID:toroneiがtwitterで繰り広げている「お笑い及びお笑いファンとはこういうものである」まとめ。
(註。ちょっと何言ってるかわからないところが随所にありますが、本文の問題です。)