はてなキーワード: 評論とは
というのもネット、SNSの台頭により誰もが気軽に評論を発表することができるようになったからだ。
そうやって誰もが好き勝手な評論を呟けるようになったものの、その評論における正当性は決して担保されてはいない。
当然だろう。大多数の評論は評論と呼ぶには根拠があまりに乏しく、個人の感想を域を出ていないものばかり。しかし、だ。一部では"フォロワーが多いから"や、"インフルエンサーだから"といっただけの理由で、正当な評論家の意見よりも受け入れられるといった現象が生じてしまっているのだ!
増田…俺は悔しいよ。だって、本物の評論家というのは、これまで浮わついたことなんてせずにコツコツこつこつたくさんの書物を読んで、勉強して、白髪をたくさんこしらえて、それでやっと専門性を得て、批評家になれたんだぜ?
なのにひょっとこみたいに急に出てきて「発言力ありまーすw」の一言でその意見が拡散されてさもその意見が全うで、正当性があり、立派な意見だと認められる。
見た目が良ければ言うことは全て正しいのか!!?違うだろ!!!
もしそうなら本なんて読まずに、勉強なんてせずに、整形だけして顔を良くすれば評論家になれるなんて…そんな世界は絶対に間違っている!!
なぁ、そうだろ?
伊科田海『道産子ギャルはなまらめんこい』の無事最終巻が発売されたのを記念して、ネタバレを含む評論をさせていただく。
と言うわけで、ネタバレを含むので、嫌う方は戻ってください。
地方娘とのラブラブ恋愛マンガでなんで最後にワイ向けに致死性の毒を仕込んだの?ねえなんで? あっ、ノットフォーミ-でしたかすいませんごめんなさい。
ワイ、無事死亡したのでこれ書いてる
まぁワイの余談と色々な現実を知ってるからそう思うだけなので「こいつ(ワイのこと)マジ頭おかしいわ」って感じで読んでくださいマジで。
原作が悪いとかじゃなくて、ワイの頭とこの世のパラメータ設定をミスった運営が悪い。
最近の若い子も地元愛はかなりある。毎年継続している調査では、最近は大学を卒業した後地元に戻りたいとする回答が63%以上となっていて、これは地味に伸びている。色々な理由が考えられるが、家族とともに暮らしたいと言ったことが理由に挙げられている。
その他、現実問題として生活費が高く、初任給の伸び以上に生活費が上がっているため、大都市圏での生活が厳しいと言う事情もみられるようだ。
また、行政側の目線で見ると、ここ10年ほどか、色々な地方が地元の事をちゃんと教える教育をやっていると言う事もあるのだと思う。
が、現実問題として、実際に地元で就職するのは4割を切るのが現実である。で、ワイの地元に限ると2割もない。これは
もう現実すぎて死にそう。
こんな現実をなんで見せられなきゃならないのか。
そんなの仕事だけで十分です。。
(なお、実際には30歳超えたぐらいでUターン転職してくる人もかなりいるので、4割しか地元にいないと言う話でも無いです)
最も現実的でクソな話は
「主人公は地方での幸せな思い出を持って東京に帰りました。大卒で大企業に就職しましたが東京では家庭を持つことはできませんでした。
ヒロインは札幌の専門学校を出ましたが、業界体質としてブラックな理容美容関係は薄給すぎて一人では暮らしていくことができなくなり、結局親元に戻りましたが、その時には結婚適齢期を過ぎていて結婚することができませんでしたとさ」
だけど、その次の次ぐらいに来るのがこれ。主人公は小学校教諭という、熱心であればあるほど激務であるほど家庭が犠牲になりがちで、さらに長年その業界にいると世間からドンドンズレてて浮いてしまう状態になり転職も難しくなる職業に就いている。
さらにヒロインはメイクアップアーティストということだが、はっきり言ってこの業界、安定した職業の旦那(敢えてこの書き方してます)がいることが大前提のやりがい搾取業界であり、金になんかならない。最も安定的に稼げるのがブライダル業界と死に化粧という状態であり、これらは休日などを犠牲にして働く必要がある。それ以外は名ばかりメイクアップアーティストといいつつ、化粧品販売のセールスみたいな仕事になる。
もちろん、売れたらかなりの金になるが、その場合もライフワークバランスをワークに全振りしているような廃人に対して戦う必要がある。
と言う状況で、結婚した勢いで最初に子どもをひとり授かるが、その後2人目以降は作らないという選択肢は、必然であろう。
これ、音大卒がアーティストにも、そして学校教育法第1条に定める学校の教諭にもなれなかった場合になる職業のひとつと言う性質があり、音大卒が大量に余っている中、音大卒でないと就職できない。と言う事は娘は音大を卒業していることは間違い無いと思われるが、私立では900万円ほどかかる。もちろん、札幌教育大学を出ていると言う可能性もあるが。
ちなみに娘の旦那は歯科医だそうです。コンビニより数が多い事でお馴染みの歯科医……。
なんつーかさ。リアリティありすぎ。あえて一人っ子にして、所得水準的に相当な無理をしないと進学できない所に進学させるとか、ワイをころしにきてる
北見市から札幌市。高速道路は繋がっているが、ノンストップで4時間かかる。東京大阪間の新幹線の半分で、時間的距離で見ると東京広島と同じぐらいなのであった。
何か緊急事態が発生したとき、呼んだところで多くの場合手遅れになるし、ちょっと子どもを見ててほしい、と言う程度で呼ぶことはほぼ難しい距離である
実は、地方での現実もこれがある。県内の中核都市から離れた土地の出身者が、地域の中核市に出て家庭を築く、と言うケース、実は公共交通機関がショボいのと、高速道路もそれほど整備されてないために時間的距離がかなり長い事が多いのだ。そうすると、都市部で子育てするときの悪い部分と、地方で子育てする悪い部分の両方を兼ね備えたような状況になってしまうことがある。
こうなると実家が持っているリソースを活用する事ができないために、選択肢が限られてくる。
日本は公共交通が優れていると言われているが、地方都市と地方都市の間を移動しようとするとものすごく手間がかかることが多い。公共交通だと一度東京か大阪どちらかに出てからの方が早いと言うケースが非常に多く、それ以外では車移動になってしまう。
これが地方と地方の間の連携的な動きを結構阻害している所があって、結構苦労している。
なんでこんな苦労を思い出させるような展開にするのか。
作者の先生は北見市出身札幌市在住なので、たぶん自分の周りの人々のリアルな様子をベンチマークして、そこから見える世界で最も幸せなラストを選んだのだと思うので、それは全然問題ない。
ないんだけど、それについて妙な知恵を付けたようなワイのような人からみると、もうなんかね。
現実がクソで、現実を忘れて楽しんでたラブコメの最後で毒ガスが出てきた
そんな気分なのでした。ハハッ。まぁノットフォーミーだったのを今更ながら気付いたんですね。はははのは。
ヒロインは、メイクの先進地、1回プチ留学していた韓国に今度は本格的に留学することにしました。
主人公は色々な事を悩みましたが、東京の大学に進学しました。しかし、韓国への留学プログラムで2年目には留学して二人は韓国で同棲を始めました。
ヒロインは独立を前提に韓国のメイクアップアーティストの会社に就職し、主人公もそれに合わせて韓国の大学に正式に移籍、4年後の修了に合わせてふるさと北見に戻ります。
ヒロインはオンラインをベースにメイクアップ講師の仕事をしながら起業し、主人公は地元北見の企業(貿易商社)に就職して、充実した日々を送っています。
二人とも出張が多い仕事ですが、じいちゃんばあちゃんひいじいちゃん達の援助があるから、家族で子育てです。
家も、大往生でなくなった祖父母の家を受け継ぎ、北見の広い土地でのびのびと4人の子どもを育てました。
その様子が一つのロールモデルとなり、周りの友人知人達にも影響を与え、子ども達にもよきロールモデルとなり、子ども達も恋をして、就職し、結婚して、自分らしく生きています。
妄想だと思うでしょ?
でもこう言う人実際に結構いるんですよね。地元で楽しく暮らしている人、都会に行って微妙に失敗する人よりはたぶん多いです。可視化されにくいけど。例えばヒロインの育った家とかはまさにそれなのよ。
でも、マンガにすると、特にこのマンガの読者層に対してリアリティがなくなってしまってだめなのかなあとか、思ってしまいました。
ごめんなさい。
https://note.com/p_and_w_books/n/neee921ea91a9
https://note.com/p_and_w_books/n/nf373db52eab9
・そうですか、といったところ。
■鯨井氏のジャッジ
・まえがきでは個人的な狂気を重要視するというようなことを言っている。要するに、ユニークでぶっ飛んだものを読みたいということ。そういう欲求をカッコつきとはいえ「狂気」という言葉に託したのはよくなかったとおもう。「おまえら創作者はみんな創作に情熱を燃やしてそれに狂ってるはずだろ!なあ!」というのはいかにも一昔前のフィクションに出てくる「天才」像で、古臭くて偏狭ではないか。
・それでいて、最後に他者への回路としての「コミュニケーション希求力」を評価基準に置くのがよくわからない。いや、わかりはする。閉じているように見えつつもその暗闇のなかで他者を求めもがくのが人間の普遍的なあり方であり、そうした情熱を持っているように見える作品に惹かれてしまう。その気持ちはわかるが、この文章内にかぎればあんまり文脈的につながってないのでは、と感じる。
・「コミュニケーション」を謳うのなら作者の側から歩み寄りばかりでなく、評者からの歩み寄りもすべきだった。というか、それが評論行為であるように思う。最終的に「これは自分の感情です」というような文言で閉じたのはよくなかったというか、開かれた場のコンテストでは落とされてもしょうがない。
・固有名詞問題。固有名詞の持つ読者との「共犯性」を指摘し、作品内で用いられている下北沢」「フィッシュマンズ」「クリムト展」といったワードの「共犯性」が東京中心主義につながっているのではないか、といったようなことを言っている。
・固有名詞の「共犯性」についてはそのとおりだが、基本的にはその固有名詞を使うことでどういった層と共犯関係になれるかという戦略の問題でしかないとおもう。それが気に食わなさにつながるんならそうですね、あなたは不快なんですね、としか言いようがない。
・「「下北沢」「フィッシュマンズ」「クリムト展」を使って真にその意図が伝わるのは、それを知る都会の人びと、「カルチャー」の民のみである。」→これはそうは思わない。下北沢はぼざろなどを例に出すまでもなく東京以外のひとびとにもある一定のイメージを形成しているし、フィッシュマンズやクリムトに至っては別に東京固有でもなんでもない。
たしかに並べられると東京中心的な貴族性⋯⋯というかヴィレヴァン的なサブカルクソ野郎っぽさが鼻につくところはある。
しかし、それが「カルチャー」を愛する人びと特有の一段上から世を眺める視点、優越性」に直結するかは微妙なところで、それこそ共犯者に選ばれなかった疎外感といえばそれまで。そして、そこから地方差別へとつなげるのはちょっと無理筋だと思う。
・関西弁を含めたトータルのパッケージに差別性を覚えたという感じだとおもう。作者の意図しないチャンネル(固有名詞)でヘイトが溜まっていったところで関西弁の歌が出てきて「怒り」が爆発したというところか。
・全体的には論点の設定の仕方があまり開かれていない。差別性を感じるというのであればもう少し広くわかりすい議論を行うか、あるいは関西人であるという当事者性を突き詰めるべきだったと思う。現状の文章としては後者よりなのだが、あまりに「関西人である自分」が自明のものとして最初から展開されているので、読者には「で、関西人であるあなたがなぜそこまで怒ってるんですか?」がわかりにくい。
・いろんなところで中途半端な評だと思う。
・「『見下し』ではなく関西弁の語りのある種の味わい(「特権性」という雑な表現をしてなぜか自分を「関西」に対して下位に置こうとしていたが)に対する憧憬なので『見下し』じゃないんだよ」という言い分はそうなのだろうが、それをただしくオリエンタリズムと呼ぶのだよな。
・中盤の「ここまで説明をしたうえで、「本気で思っていたらこんな書き方はできないだろう」と思われるでしょうか。」に至るまでの説得のロジックがよくわかんない。
冒頭で「なるべく感情的にならないように書く」と宣言しているのに「ここまで説明〜」までは、基本的に「自分はこうおもってこう書きました(あんたや読者の気持ちなど知らん)」と自分の感情や行為しか書いてない。
本当は全部関西弁にしたかったけど、自分の技術じゃ無理→すげえわかる。
(なんか「一首だけにしといてやった」が非関西人としての譲歩だった、とも読める。マジでこれは意味がわからない。)
・「関西の人の反応を探るために歌会に出した」パート。実際に当事者から方言に関して否定的な反応が返ってきた、と自分で言ってる。
それを「連作という文脈で解消できるのではないか」と考えたらしい。なんで読者がああいう作品の連続性を確認しにくい場で連作であることを前提に読まなきゃいけないのか意味がわからない(鯨井さんはジャッジだからそこらへんい対してはある程度の義務はあるとは思う)というのはまあ置いといこう。
で、「連作という文脈」がなんなのかというと、「作品の主体(視点人物)が東北人の上京者」であること。
「主体も東京出身の人間ではないということを明示することで「標準語/方言」の権力構造をとっぱらえないかと画策しました」
というのがほんとうにわからない。視点人物が東北出身だと関西弁に対するオリエンタリズムが解消されるの? 標準語と方言の権力関係が無効化されるの?? なんで???
むしろ、この作品の場合は主体が標準語の権力性に乗っかって(実際、歌の大半が標準語で書かれている)、方言を搾取してますって構造に見えませんか???
さらに問題なのは「今回の文化盗用かどうか、わたしには判別できませんでした。」とか言っているところで、いやわかってないって自覚あるなら「連作で解消できてるとおもう!」とか言うなよ。
「関西弁をマイノリティといってしまっていいのか〜」のあたりはなにがいいたいのか不明瞭だけど、つまり「東北弁は関西弁に比べてよりマイノリティ性が高いから、俺には関西弁をいじる権利がある」って言いたいの? なにそれ?
・そのあとの文章はぐだぐだしてるけれど要約すれば「憧れだから差別じゃないんです」というようなこと。サイードを読め。平凡社ライブラリにある。
・「そこに「無意識的な共犯性」「優越性」があると断罪できる根拠がどこにあるのかよくわからない」はクリティカルな反駁だとおもう。そこらへんは前述のとおり。このへんの反論内容もいちいち書き出さないがリーズナブルだと思う。
ヤンサンだけは、当時欠かさず購読していた俺が書かないと、という義務感から書いた。
異論は受け付ける。順不同。
この作品を世に遺せたことだけでも、ヤングサンデーという雑誌が存在した価値がある。世界規模で暴力と正義を等価値に描いた、怪作にして超名作。マクロな視点のテーマ性や劇的なストーリー展開と、市井の人々のエゴをディテールたっぷりに描いたミクロな視点の描き込みの両立が天才的。「宮本から君へ」はモーニング連載だが、この作者で一作だけ選ぶならこれだと思う。
「のぞき屋」の頃から片鱗が見えてはいたが、変態的なキャラクター造形と淡々とした描写が素晴らしい。そして前作からの画力の進化にも驚く。海外でも評価が高い。この作風はスピリッツ連載の次の怪作「ホムンクルス」へと繋がっていく。
ヤンサンは、山田玲司を育てた雑誌でもある。個人的には『アガペイズ』の方が圧倒的に好きだが(最高傑作だと思う)、知名度や重要作品としてはこっち。オタクがモテ男に変身していくHowToマンガの側面もありつつ、純愛を志向することでバブル期の軽薄な恋愛観へのアンチテーゼになっているメタ的な作品。ちなみに作者はヤンサン廃刊後、「山田玲司のヤングサンデー」という人気のYouTubeチャンネルを運営していて(後から出版社公認に)、マンガ評論がかなり面白い。
共著の「サルまん」を除けば、これが相原コージの最高傑作だと思う。白土三平的な王道忍者マンガと、「勝手にシロクマ」「コージ苑」的な不条理ギャグと、「サルまん」的な実験的アプローチとを高度に融合して、両立どころか鼎立させた奇跡的な作品。
遊人は、青年誌エロマンガにおいて未到達だった性表現の境地を切り拓いたので、漫画史的にも取り上げる必要がある。散漫なストーリーはともかく、今見ても女の子の絵が抜群に上手いし、性的描写のお下劣さが限界突破している。新宿の風俗店にイラストが無許可で使われ続けてて可哀想。
最初はベスト10作品にしようかとも思ったが、逆に絞るのが難しかった。
冬物語、シーソーゲーム、SOMEDAYなど。ヤンサンの看板作家だとは思うが、これといった新規性は感じられない。
どれも安定した名作揃いで、ほぼ外さないのが凄いのだが、逆に言うとヤンサン時代には、まだ突出した作品がない。
他誌で『ブラックジャックによろしく」があるからなー。名作だが、ドラマ化されるまでは割と知られていなかった。
アオイホノオ、おやすみプンプン、Dr.コトー診療所、クロサギ、イキガミ、土竜の唄などの名作・人気作が、廃刊と同時に他誌へと移転している。本当に、こんな良い作品が集まってた雑誌を廃刊にするとか、何考えてんだよ……。
よくある不条理ギャグと思わせつつ、後半からの哲学的なヤバい展開。しりあがり寿の弥次喜多に通じるところがある。
長尾謙一郎の作風は、ヤンサン以降の「ギャラクシー銀座」などで完成されたので入れなかった。
ちなみに作者は、最新作ではギャグを完全封印して、爽やかな青春空手マンガ「三日月のドラゴン」を書いていて、これもめっちゃ面白い。
前身の「少年ビッグコミック」からの移籍だし、代表作は他誌で『あずみ』があるからなー。
ここは、かなり迷ったが、入れなかった。作者で入るとしたら、「へうげもの」「望郷太郎」かな。しかし、とんでもない傑作SFになる可能性を秘めていた度胸星を未完結で打ち切った当時の編集部の罪は重い。
喜国雅彦は独特すぎて扱いづらい……。「月光の囁き」はシリアス路線で作家史的には価値があるが、基本的にギャグ漫画。どうなんだろう。
忘却のサチコでブレイクした阿部潤、帝一の國などで知られる古屋兎丸、さそうあきらなども、漫画家としての初期は、この雑誌で育てられたという印象が強い。
と思うんだよね。
出版区の企画でヴィレッジヴァンガードに永野が行く回のコメント欄見たら「浅い」とか「ニワカ」とか言ってるやついたけど、サブカルってそういうもんじゃん?
流れを上っ面だけなぞってコンテンツのビーチで水の掛け合いをするのがサブカルでしょ。
そっからディグって深めていくのはオタク仕草だよ。適当に腐して適当言う態度悪い眼鏡のヒョロみたいなのがサブカル住人じゃん。
こういうナンセンスで眉を顰めるような仕草こそ古典的「粋」こそが東京サブカルであって、サブカル内の評論駄サイクルの足元も見えずにライブハウスや小劇場の駄サイクルを貶すんだよ。
賢しいふりをしたがる現代人にはウケが悪そう。
前クールの放送前、『しかのこのこのここしたんたん』の公式MAD(?)が大バズりしていたのを覚えている人は多いと思う。
「(電通)マーケティングの巧みさ」が賞賛されていたように記憶している。
が、俺は懐疑的だった。
「本当にこの勢いに見合うアニメなのか?」と。
また、「ボーボボの再来」とも言われていたように覚えているけど、あれは常人が描ける漫画ではない。本当にそんなことが可能なのか?と。
それが放送を見るうちたちまち夢中に……とはならなかった。
「やっぱり俺の言ったとおりじゃないか!」と思った。顔芸にしろスローモーションにしろ率直にいえばスベッていて、これで1クール持たせるつもりだとは到底思えなかった。
2話を見る。スベってる。3話を見る。スベってる。……と見ていくうち、しかしこの作品は何ごとかではある、と思うようになった(5話は普通にちょっと面白かった)。
愛すべきスベりっぷり? それはある。しかし確実に「愛せない」スベりっぷりもこの作品には刻み込まれている。
その両者を浴びていくうち……なんだかシビれてくるものがあるのだ。
作者や製作陣に敬意を表すると、意欲作ではある。
キャラクターがいわゆる「百合媚び」をしないからこそのキャラの可愛さがある。
これ見よがしに「関係性の進展」を描かないところも個人的な好みだ(終盤にばしゃめとあんこに関しては描かれたが)。
のこたんが消えると言う「フリ」があった。
なのでこしたんが奮闘し、色々あった末に魔法が起きてのこたんが帰ってくるみたいな話なのかな……と思っていたら消えるのは「ウソ」で、のこたんがせんとくんとの試合で爆弾を落としまくると言うエンド(?)。
あれは痺れた。日常系では「魔法」が問題を解決するわけだが、『しかのこ』では「爆弾」が問題を解決するのだなと。
ここでの本題ではないので省略するが、他にも「日常系との違い」が強く意識された作品ではあった。
話を戻そう。
この『しかのこ』のくだらなさ、そして見続けていると痺れてくる感じ……これは貴重な体験のようにも思うのだ。
だって考えてみてほしい。タルコフスキーの映画だってカフカの小説だって基本的には退屈だ。
ただそれを味わっていくうちにビリビリくるものがある……と言うものではなかったか?(個人の感想です)
少なくともこうは言えるだろう。「つまらない」は「贅沢」なのだと。
アニメに限らず、今の世の中(主語がデカすぎるが、続ける)、面白いもので溢れかえっていると思う。
寸分も目を離さないように設計されているもの、気が利いているもの、巧みな工夫が施されたものetc.
そしてこのサブスク化によって、私たちは時間さえあれば無限に面白いものに触れられるようになった。『Rate your music』など、最近はレビューサイトも充実してきている。
もちろん、それは良いことだ。クソアニメばかり掴まされてきた若い頃と比べると、良い時代になったなと思う。
でも裏面では、面白いものに内心うんざりもしているんじゃないか?
大げさにいえば、「面白さというエコノミー」にナッジされ搾取されている私たち……ということだと思う。
ただ具体的に、「面白くない作品、感動させられない作品、心を揺さぶられない作品」があってもいいと思うのだ。
(これはいわゆる"クソアニメを面白がる"態度と近い。俺はそれを認めた上で、ズレる面があると言いたいのだが、ここでの本題ではないので置いておこう)
そして勘違いしないで欲しいのは、俺の『しかのこ』への想いは決して"いわゆる"作品愛ではないことだ。
上に書いたとおり、ギャグはかなり滑ってると思った。またそのゆるさ・たわいのなさを愛でるにしても「愛せない」と感じる側面がある。
しかし、一見矛盾しているように感じるかもしれないが、この愛せる部分と愛せない部分の共存、それこそが真の「愛」じゃないか? と感じるようにもなった。
俺が講釈を垂れるまでもなく、今は「いいね!」が氾濫する時代である。「推し」も然りだ。
またアニメ評論に関していえば、一見客観的・中立的な技術的分析が背後に大きな「好き!」を隠し持っているというケースは多々ある(そういう世界なんです)。
それらを否定する気は全くない。
自分はどちらかといえば「批評(批判)」には懐疑的な立場だ。作品のポテンシャルを引き出すよりも削いでしまっている、あるいは作品を読めてないだけ、ということの方が多くないか? と思う。
何より、好きな作品の批判を見るのは嫌なものだ。それから推しのVtuberもいる(複数)。
国語教育における小説の文章では直接的な表現ではなく暗喩で表現することが美徳とされている節がある。
評論の文章なんかでも直接的な説明ではなく例えや遠回しな表現が何を指しているのか説明させるような問題が出される。
つまり国語教育では直接表現を避けレトリックな言い回しや少し考えさせるような暗喩的な表現を教え込まれる。
極論的に言うと日本の国語教育で養われるのは「察してちゃん」能力だ。
しかし実際の社会で好まれるのは直接的な文章だし、結論を先に出したり箇条書きにするなどでとにかく見やすくわかりやすい文章を求められる。察してちゃんは門前払いだ。
少なくとも義務教育の9年間で結論を先に述べる文章箇条書きで読み手にわかりやすい文章データや出典を適切に補った信憑性の高い文章という書き方は教わった記憶はない。
端から見ると同じに見えるかも知れないけど、実は今までに築かれてきた「黙認できるライン」をだいぶ踏み越える行為をやっちゃってるので、詳しい人は呆れ混じりに「いわんこっちゃない」と言っているんだと思う。
ブコメはあんまりキレてるとも読めなかったけどまぁそれは感じ方。
ハイキューの話ではなくて、一般論としてこんな風に整理出来る。もちろん黙認出来るラインはそれぞれ違うのは前提として、
これはやっちゃうと確実にまずいと言うのはこんな感じ。
大手出版社だったら、作者の意向がどうであっても容認出来ないんじゃないかな。
と言うところで、今回の件は、記法では2,3,4にひっかかってる。1は分からんけどロゴの警告が出てるのでもしかしたら。5番目はアウトに見えるけど、今回警告で住んでるのは商用ビジネスと見做してなくて、過失だとして対処しているからじゃないかなー。
2番については、最近は制作委員会の中で幹事会社に一任する形で広く戦略的に黙認するケースも多いから一概には言えないけど、ハイキューのケースは映画会社とかアニメと文化が違う人たちの権利が絡んできてるから、容認したい人たちが説得しきれなかった可能性があると思う。
それから、これが重要なんだけど、創作など、クリエイティブな行為が絡まない奴は厳しく当たるケースが多いね。
一般論なので例外はいくらでもあるよ。これは概ね作者がファンアート・同人活動に友好的な場合だよ。
↑↑↑許可・黙認される↑↑↑
↓↓↓ヤバイ・怒られる↓↓↓
https://anond.hatelabo.jp/20240910133623
こっちに書いた。
世の中はオマエのパパやママじゃねぇんだから、決めるのはオマエだよ。
オマエのパパやママでさえ、こんなに大きくなってからそんなつまんねーことを口に出す子供を承認するとは思えないけどね。
要するにそんなことばかり口にしているはてなーやツイッタラー(笑)共は「ガキ」ってことだ。
とっとと何かに逃げ道を作れば良い。それが金や地位を産まなくても、それこそ「趣味」なんだから。
言っておくが!純粋消費行動(アニメ見るだけ、ゲームやるだけ、音楽聞くだけ、映画見るだけなどなど)で「承認」取り付けようとするから「趣味が地獄」になってるだけ。
純粋消費行動で承認が取れるものなんかねぇよ、バカかテメェら。
あとそれらに基づく「評論」とかいうのは、創作活動でもなんでもねぇぞネットのバカ共。
"
小谷はSFとファンタジーをフェミニズム的観点で論じている[1][9][10]。山田和子などの先駆はあるが、日本のSF・ファンタジー評論に、初めて本格的にフェミニズム的観点を導入した[要出典]。
1997年のメディアワークス発売の『オルタカルチャー―日本版』内のコラムにおいて、評論家の山形浩生から、小谷の著作はパートナーの巽孝之が代筆している(ほどそっくりである)と揶揄されたとして、全国紙での謝罪広告と3300万円の損害賠償を求めて小谷は東京地方裁判所に訴えた[11][12]。東京地裁は2001年の判決でメディアワークスと山形にホームページでの謝罪と330万円の賠償を命じた[11][12]。
"
例えば金を払ってチケットを買った演劇は基本的に私的な撮影不可だし、コンサートも原則そう。
野球だって現地民は有料チケットを持って見に来るわけだし、中継配信だって地上波が無ければ配信サービスにお金を払って見るしかない。
そんななかで、私的に撮影されたプレー中の動画をインターネット上に無料で見られるよう閲覧可能な状態に置くことが正当である、とする根拠がよく分からない。
ファンを増やすためって言ったってSNSに流れてくる素人が撮った切り取り的なよく分からない短い動画だけ見てファンになる人なんてほとんど居ないだろうし(プロが撮って編集したパテレ動画なら分かる。)、審判のジャッジの再検証のためとか言われても観客はただのシロートだし試合中に高性能カメラでちゃんとプレー撮ってるし、観客が撮ることになんの正当性があるか分からん(それこそ、「評論のため」とか言って観客が劇団四季のミュージカルを公演中に撮影するようなものじゃ?)
結局自分たちで撮って仲間内で共有して私的に盛り上がりたいってだけじゃないかと思うし、そういう主張をする方がまだ筋が通ってると思う。
あとこれは個人的に、選手がシャツをたくしあげてお腹が出ているような写真を好んで撮ってる人がたまに見受けられるが、それこそ少し前に女子バレー等で話題になった性的撮影と一緒な気がして好きでは無い。