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2024-04-25

帰蝶呼びは知識マウント」ってマジ!?

信長を気にかける貴重な資料” 義父 斎藤道三書状発見 | NHK

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www3.nhk.or.jp/news/html/20240424/k10014431231000.html

ブコメに「なんじゃこりゃ?」ってレベルの言い掛かりがあったので

   

      

migurin 「帰蝶と書きなおした!知識マウント欲が溢れ出ていていとおかし!」

migurin

素直にすごい。どうでもいいけどブコメ記事に「濃姫」と記載があるのにわざわざ

帰蝶」と書き直してくるあたり知識マウント欲が溢れでていていとおかし/悪くない。いとおかし、です。

2024/04/24

まったく意味わからん

ちなみに言及先と思われるブコメはこれ。

mouseion それにしても信長帰蝶との間に子供が出来なかったのが悔やまれる。

義龍との溝は土岐氏だけでなく姻戚関係の維持も理由だったんだろうなと。

血縁者があれば人質になったし案外上手く行けたかも知れない。

2024/04/24

え?帰蝶が??

     

 

帰蝶は”通”好みの呼び方

要するにmigurin の主張は

濃姫のことを帰蝶と書くのは知識マウントであるということだが

これは全く当たらない。

 

何故かといえば

帰蝶の方が人口膾炙した根拠の怪しい呼び名で 

濃姫の方が事実らしさがまだ高い方の呼び名からだ。

   

別の有名どころに置き換えるなら

幸村=帰蝶

信繁=濃姫

関係

 

瀬名帰蝶

築山殿=濃姫

関係

  

後世のお話本で「面白味のあるキャラ名」としてあてがわれたのが幸村であり、瀬名であり、帰蝶であって、

もうちょいマシな根拠で「面白味はないけどより正確性高い呼び名」とされるのが信繁であり、築山殿であり、濃姫だ。

要するに帰蝶の方がミーハー呼び方なんだよな。

 

 

濃姫とはどういう呼び名

そもそも女の名前は確定しにくいなか

帰蝶はまともな出典は無く胡蝶の誤記説も根強い。

歴史知識というよりキャラとしての「信長の嫁」を扱うための便宜的な名前だ。

 

一方で濃姫は「美濃から嫁いだ姫」ってだけの意味

まあそう呼ばれてた可能性は高いよねということでしかない名前

こちらの方が保守的であり歴史的正確性に意識の向いた呼び名なのだ

キャラ性皆無でつまらない名前でもある。

 

まり

もしも「私は歴史知識に造詣深いですよ」とか「歴史知識に正確性を求めてますよ」的なアピールがしたいなら

帰蝶濃姫と言い直すことはあってもその逆はあり得ない。

   

migurinは一体何を言ってるのかさっぱりわからないということだ。

 

  

コンテンツでは「帰蝶

まり濃姫帰蝶と呼ぶ人は意識高い歴史オタクなどではない。

高い確率で単に「そっちの方が親しみがある」っつーだけだ。

近年のコンテンツでも「濃姫」じゃ面白くないから「帰蝶採用率が高い。

名作信長協奏曲でも「帰蝶」だ。

メジャー庶民向けなのは帰蝶」だ。

帰蝶はややダサいが、世間で人気なのは帰蝶だ。  

    

ちなみに濃姫よりマシな推測の呼び方鷺山殿だ。

美濃から嫁いできた」しか情報がない濃姫と違って

「道三の隠居城の鷺山から嫁いできた」というより細かい知識が盛り込まれている。

濃姫?ああ鷺山殿ね!」なら歴史オタク知識マウントっぽい。

 

先述の通りバシッとした出典のものはないから決着などないが

かっこつけたいなら鷺山殿だ。

 

まとめ

そもそも大した確証もなく人の発言マウント扱いすべきではないが、

このmigurinにいたっては「何がマウントに当たるか」を判断するていどの歴史知識があるようにも見えない。

から見た感想としても「こいつ何言ってんの?」の一語である

知識マウント欲が溢れでていていとおかし/悪くない。いとおかし、です。

怖さとキモさのブレンド濃いめだ。

 

このレベル歴史知識がないのに人の発言知識マウントに感じるのは、単に闇雲なコンプレックスのようにも見える。

歴史ネタ以外でも被マウント感を覚えることはあるか、日頃どんなときマウントされたと感じるか、等々を記録してみるのもよいと思う。 

  

  

(念のため書いておくけど

俺が主張してるのはこのmouseionてやつはマウントしてないだろって話で

俺がマウントしてるという指摘なら受け入れるぞ

 全然歴史オタクってほどのレベルの話はしてないけど)

  

  

追記

昔の女性名前特定されにくいのって、何で?女性文書名前が書かれることがないから?

2024/04/25

せやで

同じ理屈漢字の読み仮名わからん

曽我部がちょうそかべなのかちょうそがべなのかも確定しない

ちゃんかめ説もある

   

最上義光は昔は「もがみよしてる」だと思われてたけど

妹(伊達政宗母)と仲良しで手紙がたくさん残ってて

妹の手紙に「よしあきおにいさま」と書いてあったか名前の読み方がわかった

女の手紙ひらがなから

2023-06-14

邪馬台国 畿内説vs九州

吉野ヶ里発掘のニュースで、自分の中の邪馬台国畿内説vs九州説へのロマンが盛り上がったので書く

まず自分古代日本史考古学の全くの素人であることをお断りしておく。

古事記日本書紀伝説として好きで子どものころから繰返し現代語訳で読んでいた。

学生時代九州旅行で記紀地名が出てくる場所を訪れロマンを掻き立てられたこともあり、自分は昔から九州説派である

奈良県がまとめている古事記ゆかりマップは全国のゆかり地がマッピングされていて親切だ。

古事記ゆかり地マップ

だが、ここ5年ぐらいで専門家の間では畿内説がほぼ鉄板となったという話は何度も聞いていた。

専門家意見一定価値を置く自分としては寂しさを感じつつ受け入れていたが、今回のニュースで改めてググってみると、やはり改めて九州説を自分は強く推したいと思う。

(因みにネット上の情報は圧倒的に九州説が多いので、ネット情報を中心に接種すると九州説派になる模様。)

畿内説の論拠

自分理解では畿内説の論拠は、纏向遺跡がすごい遺跡から

こう書くとバカみたいだが、

纏向遺跡前と後で時代が大きく変わったことが分かる

 ⇒ 埋葬されている王は歴史に残る大王であったと考えるのが普通

・纏向にあったのは日本四国方面関東方面支配下に置いていたことが推察される、当時の日本では他にない規模の大国だった

 ⇒ 中国との交易品を考えると邪馬台国大国であったはず。纏向にあったのが邪馬台国でないなら、中国地方小国交易していたことになり不自然

卑弥呼時代と大体年代が合っている
魏志倭人伝にある卑弥呼の墓の大きさ「径百余歩」に匹敵する数少ない古墳

ということなので、考古学証拠から邪馬台国大和国で、纏向に首都があったと考えるのは納得できる。

自分が今回目を通したソース

Wiki邪馬台国畿内

新版 古代史の基礎知識 (角川選書)の前半(倭の五王まで)

自分が感じる畿内説への違和感

まず邪馬台国大和国自分同意。「たい」なんて音は日本語の発音になじまない。

違和感1:贈答品の確認を伊都国でしている

そのうえで、自分はこのYoutube関川尚功氏が指摘している「女王の住居が奈良なら、伊都国(大宰府周辺と推定されている)で女王への贈答品の確認はしないだろう」という意見に強く賛成する。

https://www.youtube.com/watch?v=dA3e14517Ek

現代にも通じる物流常識感で、中国から奈良まで水路でこの後運ぶ荷物確認は、一旦寄港した福岡でなく最終水揚港の大阪付近になるはずだろう。

伊都国で贈答品の確認をしたという魏志倭人伝記載はこのリンクでも紹介されている。

http://www7b.biglobe.ne.jp/~smkodai/25route.html

違和感2:箸墓伝説

記紀ではうっかりか意図的にかの違いはあれ、三輪山の神に去られた百襲姫が女性器を箸でついて死んだとある。これはどう見ても性交または出産に関したトラブルで死んだように読める。

また、その墓は夜は神が昼は人が作ったとある。この表現は緊張関係にある2つの部族彼女のために距離を置きつつも協力して墓を作ったように読める。

卑弥呼が何歳で他界たかはわからないが、魏志倭人伝から長い治世だったと考えると性交出産トラブル死ぬような年齢だったのか疑問がある。

次に、魏志倭人伝卑弥呼が死んですぐまた国が乱れ台与を女王にたてたとあるので、争いあう二つの部族卑弥呼の墓を一定期間協力して作ったというのが想像しにくい。

自分が考える邪馬台国

自分纏向遺跡卑弥呼の跡を継いだ台与の墓だと考える。

九州大和国卑弥呼女王に立て勢力を伸ばし、彼女の在位中に近畿に東征し、奈良三輪山周辺に拠点を持っていた大物主一族姻戚関係を結びながら(神武天皇皇后大物主の姫)、最終的には大物主一族も亡ぼしたのではないかと思う。それが記紀神武東征伝説として書かれた内容だろう。

卑弥呼自分兄弟である神武(または崇神)(※二人とも「はつくにしらすすめらみこと」)と共に近畿に移動したかからないが、中年女は引越しを嫌うので九州に残ったかもしれない。

だが、ある程度近畿大和国勢力を持ってから即位しただろう台与は近畿生活していただろう。

彼女が死んだとき大物主一族大和国の間は既に緊張がありつつ協力して墓を作るぐらいの関係性はあったのではないか

その後、大和が謀略か戦争かで大物主一族を滅亡させたため、その祟りを恐れ、記紀にあるように一緒に祀っていた大物主と天照(卑弥呼か?)を分けて、それぞれ三輪山伊勢神宮に祀ったのではないか

吉野ヶ里で今発掘中の貴人の墓は、卑弥呼の墓として魏志倭人伝に書かれている径百余歩の大きさに到底及ばない規模らしい。自分吉野ヶ里卑弥呼の墓ではないだろうと思う。

卑弥呼の墓はまだ発見されておらず、台与の墓は先代と同じ規模にということで箸墓が径百余歩の大きさなのではないか

魏志倭人伝にある邪馬台国場所説明は、神武東征が始まる前、または、まだ卑弥呼九州に残っている時のものなのではないか

2022-11-18

anond:20221118121344

戦国時代において、家臣が当主とは別人(兄弟や子息)を擁立し、当主追放する例は少なからずあった。家中における家臣団の意向なりは、かなり尊重されたのだ。一般的に、新しい当主を定めるときは、家臣の合意必要で、家臣の意見に反して、違う当主擁立されると、家中が二分し対立することも珍しくなかった。

 当時、信虎は拡大策を採用しており、国人たちは従軍余儀なくされた。その軍事的負担は、当然国人肩に重くのしかかってくる。同時に、信虎による棟別銭(家屋にかかる税金)の賦課なども、国人にとって不満の種だった。

 そう考えると、信玄が単に「父憎し」という思いか単独で行動を起こすことは考えにくい。いかに義元と姻戚関係にあるとはいえ、結託するのも現実的ではないであろう。信虎追放は、信玄の一存では決めかねる重大な問題だった。

 やはり、信虎に不満を持つ国人・家臣らの突き上げにより、信玄が父を追放せざるを得なかったというのが実情ではなかったか。実際には、信玄国人・家臣に推戴され、父を今川家に追いやったといえよう。信虎を追放することによって、武田家中はいっそう連帯感を強め、さらに発展を遂げたのであるhttps://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon/20211120-00268201

2019-06-22

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ヒルビリー・エレジー~アメリカの繁栄から取り残された白人たち~

ハマータウンの野郎ども

裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち

ヤンキーと地元

社会関係資本

孤独なボウリング―米国コミュニティの崩壊と再生

われらの子ども:米国における機会格差の拡大

ロバート・パットナム - Wikipedia

アメリカにおける共同体の衰退を論じた Bowling Alone. は大きな反響を巻き起こした。ソーシャル・キャピタル概念提唱者でもある。

日本売上高トップ50社に主要銀行商社を加えた75社の取締役血縁を調べると、その7割以上が親戚・姻戚関係にあり、更にその周りに無数の系列企業が連なって壮大な閥族支配の網を形成し…」

ttps://twitter.com/akaikebasutei/status/1435087315957784577

私物国家日本黒幕系図

ttps://www.amazon.co.jp/dp/4334971539

すげえ 「私物国家日本黒幕系図

ttps://takapapa.hatenablog.com/entry/19980121/p1



文化資本

私にブルデューを教えてくれた女性は「大衆は愚かで無力」と語った - はてな村定点観測所

その投稿に対して、「両親の年収よりも両親の学歴教養の方が子供学歴を決定する影響が大きいですよ」というレスを書いてきた人がいた。

ttps://b.hatena.ne.jp/entry?url=http%3A%2F%2Fcyberglass.hatenablog.com%2Fentry%2F2015%2F11%2F13%2F042324

 
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