はてなキーワード: 自発的とは
どうやって知ったか覚えていないが、インターネットを徘徊するのが好きだったので、もしかしたらこの匿名ダイアリーをきっかけに知ったのかもしれない。
過去の遍歴が興味深いと言ってくださる友人がいたので、久しぶりに投稿してみる。先に言っておくがオチはない。
当時の私は親のDVやモラハラに苦しめられ、学校ではいじめられて孤立。
今ならTikTokでDVやいじめの証拠を上げたら味方になってくれる人が沢山いただろうが、当時はTwitterに画像や動画を載せる公式機能がない時代だった。
今も昔も、相も変わらず悲劇のヒロインだ。
親ガチャは中の下だと思う。
小さい頃から家ではひっくり返った家具が散乱し、壁やドアには穴が空いていた。この惨状を掃除をすると怒られるため、割れたガラスの上を歩いていた。
夜明けまで怒鳴り声が聞こえ、家は度々揺れた。何かが壊れる音は日常茶飯事だったが、そのおかげで電話の着信音や車のクラクションで頭が真っ白になるようになった。
DV被害者の専業主婦の母には、離婚してほしいことや転校したいことを懇願したが、「この家に生まれたからには人生を諦めなさい」と言われ、私は事あるごとに諦めるのが習慣となった。
進路も親の意向が厳しく、父はコミュニケーションも適切にとれない人間だったから、自分が希望する大学の出願書はビリビリに破られた。
質問サイトに経緯を綴って相談したら「学費を払ってもらえるなら我慢して言うことを聞くべき」と言われた。
過保護に育てられた世間知らずな自分が家出をしてお金を稼ぐ勇気もなく、結果的にはその通りの道を歩んだ。
高校ではいじめっ子に盗撮されてネットに悪口付きで晒されるなどの被害を受けたため、受験シーズンでも授業は図書館、カウンセラー室、校長室でサボっていた。
お昼はもちろん便所飯。(便所飯の存在を否定するコメントを目にすると胸が痛くなる)
学校の先生に強制的に診療所に連行されたことがある。その時お医者さんに「一時的な悲しみですね」と言われた。
これが私の最初の診断だった。自分は病気ではなく、これは一般的な苦しみなんだと解釈して絶望した。
それでも、できることは全部したつもりだ。
命の電話に相談、学校の先生に相談、心療内科・精神科に通院。医者が合わなければ他を探し、いろんな薬を試し、カウンセラーも何名かとお話した。
結局のところどれも解決には至らなかった。
それどころか、大学時代には死ぬと思われたのか、とあるカウンセラーには警察に通報されて逮捕されたことがある。それ以来、カウンセラーは一切信用しなくなった。
皆が寝ているであろう深夜に警察に部屋を侵入され、「動くな」と拳銃を所持した警官に言われた。「寮の鍵や財布を持っていって良いですか」と聞いたら「ダメだ、お前はもうここには帰らない」と言われた。
パトカーの光が暗闇で飛び交う中、カウンセラーと寮長が遠くからこちらを見ていた。意味が分からなかった。
牢屋のような個室で凍えながら数時間放置され、検査が終わったら「特に問題ありませんね」と夜明けに病院から追い出された。
面白いことにどう帰宅したか全く覚えていないのだが、気がついたら寮の前にいた。おそらく警察が車で送ってくれたたのだろう。ドアをノックしたら寮長が気づいてくれて鍵は再発行してもらった。
DVといじめの経験があると、友達の作り方が尚更分からず、大学時代は声を発する機会がほとんどなかった。この地獄が終われば親の呪縛から解放されると思った。
親の夢を一通り叶えた時に私は束縛から少し解放された。だがしかし、親の敷いたレールから外れようとした時に精神的な暴力を受けていた人間は、解放されたとて自発的な意欲や判断能力が蘇ることはもうないのだ。
もう遅かったのだ。
当然の如く就活は失敗し、実家でニートをしていた。それでも自分のペースで努力はした。
重い腰を上げて心療内科に通い、ひきこもりの集会に参加し、会話の練習をした。
死ぬ前にもう一度だけ頑張ってみようと思い、ハロワで就職支援を受けた。中小企業になんとか採用してもらえることになった。
中途入社の社員が一ヶ月で退職することが珍しくなく、3年で社員がほぼ全員入れ替わるような会社だった。同僚が突然音信不通のまま出勤しなくなったり、新卒が鬱病で休職したのちに退職した。
転職にも挑戦してなんとか成功したのだが、入社して半年で部署の上司が全員退職した。
会社のシステムがボロボロなことに気づき、どうにか変えられないかと偉い人に提案を試みたものの、最終的には「お前は前の上司に洗脳されている。俺には弁護士がいる。過去に社員を訴えようと思ったことがある。口コミサイトにたとえ事実だけ書いても被害は発生するから損害賠償を請求する。」と脅された。(本人は誹謗中傷や脅迫の自覚は一切ないようだった。)
仕事に向いていないことに気づいたので定職についている時に婚活にも勤しんだ。
大学院卒で大企業勤務、趣味も同じという人と奇跡的に出会ったが、交際後に相手が少しモラハラ気質であることが発覚した。
身だしなみに興味がない相手に鼻毛や眉毛を整える提案(よければ私がやる)、美容院の選定、洋服のコーデを一緒に選び、「興味がなければ私が払う!」と言ってみたものの彼は嫌がった。その否定の仕方はどれも心無いものだった。
他にもエピソードは沢山あるが、頑なに別れの相談に応じなかったところでブロックした。
ここで、最低限の清潔感もない男性は外見や内面をアップデートする努力を拒否する可能性が高い種族だと学んだ。(一緒くたにするのは良くないが、個人的にはもうこりごり)
その後、またニートに戻ったのが今。
運や環境が悪かったのもあるし、会社や人を見極めるのが下手な自分も悪かった。努力の方向が間違っていると指摘する人もいるだろう。
10年前もある種無敵な人だった。死にたかったし、誰かを巻き添えにしたって構わなかった。友人がなんとかできた今でさえ薄らそう思う。
でもどうすれば救いがあったのか?
今でも疑問に思う。
当時、子供なら誰か助けてくれると思っていたが、実際には学校もカウンセラーも命の電話もできることに限界があった。
若い女性は男性より支援を受けやすい聞くが、あまり性差はなかったように思う。(特権に気づいていないだけかもしれないが)
お前がブサイクなだけだからでは?と思うかもしれないが、ファッションやメイクの流行を追うのは好きだし、軽い美容整形にも投資しているので、表向きはむしろ幸せそうな人間に見えていると思う。
なら風俗やキャバクラで頑張ればいいじゃんと言われるが、TikTokでキャバ嬢、メンエス嬢、風俗嬢の日常を見る限り、彼女らはとてつもない努力と精神力で今の地位を得ている。
どれもリスクが高い仕事だし、メンタルが弱く話術がない自分には不向きだ。
こんなパッと見普通の女性の苦労話をもっと可視化して発信すれば、幸せそうな女性に対する偏見が少し収まるのかなとも思うが、嘘松認定されたらそれで終わるので難しいところである。
希死念慮を抱えていた人間が「いつか絶対に報われる」と言われ続けて10年生きてみた人の感想。
時間が経ったからか、トラウマは笑いながら話せるくらいには乗り越えたし、鬱状態の自分を静観?できるようになり、ゲームをする元気も出るようにはなった。親も歳をとり、物をひっくり返したり家が揺れることも減った。また、親の夢を叶えたことに免じて、ニート状態も許してもらっている。
挑戦することから逃げなかったという意味では、小さな前進は継続的にできていた人生だったと思う。
しかしながら、お金を稼ぐための力や社会の厳しさに耐えられるメンタルがないと分かった今、正直当時自殺しても良かったんじゃないかとも思う。
今後何しようかというと、死ぬ前に同人エロゲでも作ろうかなーと思ってる。
絵も描けるし動画も作れるしゲーム開発経験もあるから。今は3Dモデリング勉強中。
それとも自分の境遇をブログでコミックエッセイのように発信しようかなとか。
でもただの悲劇のヒロインエピソードだし、オチもないし、批判や個人特定が怖いしなーと公表することに悩み中。
でもなんでもやってみることが大事だよね。
10年以上はてなにいる皆さんはどのように暮らしが変わりましたか?
人生に悩んでいる後輩がこれを読んでいるとしたら、参考にならなくてごめんね。
先輩は何か知恵があったら教えてね!
「なぜ人を殺してはいけないのか?」に対するニーチェの答えが「すごい」と騒がれているが、実はもっとぶっ飛んですごい
https://note.com/fromdusktildawn/n/n0781ea1ca467
なる記事を読んで少し思うところがあったので、メモしておこうと思う。
大学時代、もう10年以上前になるが、幼児教育で修士号を取得し、保育園で働くという異彩を放つ友人と二人で酒を飲んだことがある。
なんの話をしていたか忘れたが、その際、その友人が「なぜ人を殺してはいけないのか、子供たちに説明ができないじゃないか。」と言ったことを覚えている。
とかく人は「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いに対して、道徳だとか、哲学だとかに答えを求めがちだが、少し現実をみて、「人を殺しても良い世界」を想像してみたらどうだろうか。
罪なくそのようなことが許される世界であったなら、私は家の扉の外には出ないし、家族も作らないだろう。
自分に少しでも不都合であったり、不愉快である人間は、殺してしまえば全て問題が解決してしまう。
そんな世界に一歩でも足を踏み出すと、いつもふとしたことで殺されるリスクがあるからだ。
そう、「人を殺してはいけない」は社会、いや、主観的な判断では”SOCIETY”が最も意味としては近いと感じる、を成立させるのに”必要条件”なのだ。
ユヴァル・ノア・ハラリの著書によると、人類発展の大きな理由の一つがこの”SOCIETY”の形成だったと書いている。
とかく利口と言われるチンパンジーにおいても、そのグループ構成は多くて100頭程度。他の動物も同程度だろう。グループ間のコミュニケーションネットワークも限られている。
一方、人類は国家でいうと10億人規模のコミュティ形成。会社においても数万規模のコミュニティが形成でき、そのネットワークはチンパンジーのようなアフリカの一地域限定ではなく、世界中、いや、宇宙にまで広がっている。
言わずもがな、コミュニティはコミュニケーションによって成立し、相互の信頼も必要となってくる。「嘘をつかない」、「話や言語が通じる」、「互いの利益を考える」等、信頼を獲得するのに必要な条件は多くあるが、最低条件が「私を殺さない」ではないだろうか。
だから、もし「なぜ人を殺してはいけないのか。」と人に聞かれることがあれば、私は即座に、「社会が成立しなくなるからだよ。」と答えるだろう。
ついで聞かれる質問はおそらく「社会に必要ない人は殺してもいいのでは?」であったり、「死刑はいいの?」とかだろう。
結論から言うと、私は「社会に必要ない人と判断された人」=「死刑となった人」と考えている。
「社会に必要ない人は殺してもいいのでは?」と言う問いに対しては、「そうだろう。だが、殺していい人は厳密に決める必要がある。」と考える。
誰もが主観で「社会に必要ない人だから殺そう」と実行していては、客観的にみて誤った判断による殺人が発生し、やはりコミュニティ形成に問題が発生する。
ルールが必要だ。人間のコミュニティはその規模が大きくなるにつれ、約束事から掟、そして法律とルールを形成していった。
「社会に必要ない人は殺してもいいのでは?」という判断をするのが、日本で言うところの刑法なのだろう。
もっとグループが小さい、例えば国家形成前のTRIBEであったり、VILLAGE規模であれば、殺人については知見者(長老とか?)の判断により、その殺人の是非が決められただろう。だがそれは各々がお互いをよく知っているような小規模集団だから成立していたものであって、国家規模の、知らない人間が大多数のグループでは成立しない。
そう考えると自然と「人を殺してはいけない」ことがわかってくる。
一部、「特権階級は人を殺しても良い」という社会。例えば現状のタリバン政権等が挙げられるが、いずれも後進国であり、そのルールによって、社会の発展を妨げ、結果、国の発展が滞っている。
「人を殺してはいけない」はSOCIETY(家族、親戚、集団、会社、社会、政府、国等)の発展には基本的に必要不可欠な、最低限の決まりごとなのだ。
友人に対しては、酒を飲みながら、上記のようなことを滔々と語った記憶がある(無論、その頃ユヴァル・ノア・ハラリは本を書いていなかっただろうが)。その時の友人の反応をあまり覚えていないが、この答えに対する反論はなかったと記憶している。
あの友人は今、子供の人格形成に大きな影響をもたらすであろう、幼稚園教育に力を注いでいると思う。
どんな教育をしているのか、今度聞いてみよう。
足りない頭でつらつらと書いた本投稿に、いろいろとコメントを書いてくれた人たちにまずはお礼と感謝を。
まず、最初に。小生、正直哲学は全然履修していないし、もうちょっと言うとニーチェなんててんで興味がない。
最初にニーチェの記事を引用したのは「なぜ人を殺してはいけないのか」というテーマを聞いて本稿に書いた友人との問答を思い出したためである(友人はニーチェとか好きそうだけど)。
哲学は…なんというか主観的なんだよね。「まあ、そう言う解釈もあるよね」で終わってしまいそうな問答がいつも並べられている印象。
コメントとかで気になった内容については以下に私見を書いていく。
まず、”社会”より”SOCIETY”が感覚的に近く感じた理由は
一方で
”社会”はもっと大多数の人間で構成されるイメージがあるから。とっても主観的だから、以下は”社会”でまとめる。
君が住んでいる家、来ている服、食べている食べ物は全て”社会”の産物である。
「社会を必要としない人」なんてものが存在するのであれば、どこか孤島で、自給自足で孤独に生きる人になるだろうから、自然と殺人は発生しないかも。
哲学を語っていたわけではなく、社会の必然性を語っていたつもり。
そこに権力が集中している場所(権限が大きい?)はあるかもしれないけれど、それも社会の構成要素の一つ。
だから、「社会を維持するために社会の権力に逆らってはいけない」とか、強制されて行うものではなく自発的に「社会を維持するために人を殺してはいけない」と考えるべきではないかと思う。
また、社会を維持したり、大きくすることは、その社会を存続させることに必要不可欠なことで、いわゆる生物が子孫を残すことと同様なのではないだろうか。
「なぜ人が殺し合わないように進化・発展してきたか」と「なぜ人を殺してはいけないか」は別の話ではないような。
「人が殺しあわないように進化・発展してきた」(すくなくとも自然淘汰されない程度に)からこそ、現在の社会があり、その社会の維持のために「人を殺してはいけない」というルールが維持されていると考えている。
「なぜ社会を成立させなくてはいけないのか」は別に当為の話ではないと思う。
「社会を成立させ続ける」という社会目的があって、初めて社会は存続してる。それがなくては社会は成立し続けない。だから「社会を成立させ続ける」は我々人間が営みを続ける上で、必要条件なのかと。
そう考えると、「人を殺してはいけない」は社会存続のための必須ミームなのかもしれない。
「人を殺してはいけない」という基本概念は「社会の維持」にとっては必須であり、いうなれば、生きる上で必須の事項なんじゃないかな?
ここまで書いて、ふと、確かに死にたい人間や、破滅を望む人間には「人を殺してはいけない」なんて概念は通用しないと感じちゃった。
そういう人は社会性の欠如から考えると、普通の人より、もっと野蛮で野生的…?、粗野な人種なのかな。
顔合わせる関係なのにやり返すのやべーな。直接言うなら、親御さんだけでももう少し足音に気をつけていただけると、とか言いたい。子供のすることだからとかしょうがないでしょとか思ってそう。思ってもみないこと言われてカーッとなって目ひんむいてきそう。想像しただけでげんなりしてきた。
逆ギレって防御反応だから、自発的な攻撃よりもなりふり構わず全力で反射的になんかしてくるんだよなあ。危ないし管理会社が入ってるなら通した方がいいよ。騒音トラブルの対応ノウハウは豊富だろうし。
キライなヤツにはそれなりの塩対応で適当にスルーして済ませるのが、自分にとって最もストレスが少ないように思う。
相手が私を嫌うかどうかは相手が決める問題であって、私がコントロールできるものではないので、キライなヤツに対しては可能な限り自分から近づかない・関わらないという選択を取るくらいしかできないのも実情だ。
そして大抵の場合において、相手もなんとなく(根拠や身に覚えはなくとも)そういう(塩対応だなーっていう)空気を察するので、いわゆる「大人の対応」で必要な情報共有や共働はできるからさほど困ることはない。
ところが中には自分の思い通りの反応を返さないことがどうしてもおもしろくない・気に入らないのか、何とかして思い通りの反応をさせようとあの手この手で絡んでくるヤツがいる。
自信がなかったり、自己肯定感が低かったり、器が小さかったりする人に多いように思う。
確かに話しかけたのに塩対応で返されたらいい気分はしないし、上述のようなタイプの人は「自分を否定された」と捉えがちのようで、それもいい気分はしないものではある。
しかし話しかけた目的はあくまで必要な情報共有や共働をすることであって、相手を自分の思い通りに支配コントロールすることではないはずなので、塩対応だったらだったで目的を果たすためにできることは他にないか、別手段を検討して実行したほうがよほど建設的ではないかと思う。
また、キライな相手であったとしてもいかにして必要な助力を得て目的を達するために立ち回れるか、ということも重要なスキルの1つであろう。
いずれにしても、どうしても私に執着しなければならない理由は特にないはずであるし、私は常に相手の気に入る行動しかしてはいけないなどと制限されるいわれもない。
しかしそれでもなお、"相手のほうから自発的に"絡んでこられるのは、もはや迷惑でしかない。
(言うまでもなくそういう「迷惑だ」といった否定的態度を示そうものなら、ふりだしに戻ってそれが「おもしろくない」となり、以下無限ループ)
はっきりいってかなり参っている。
多数を無言フォローしてた。大ジャンルは転出者含め200人くらいフォロー(雑食なので)。うちCPまで合ってる小ジャンルの同志さんはリストに入れて重点チェックしてた。あと転出ジャンルが好みじゃない場合はワードミュートで足りてた。みんな毎日元気にツイートしててよろしいなぁ~。
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急に絵師、しかも大ジャンルの古参だったらしきAさん(たまにまだアンソロに寄稿してるけど自発的にはもうこのジャンルは描かないらしい)にフォローバックされた。
けどまあお互い無言フォローだしエアリプでありがとっていう程度でいいか、2万くらいフォロワーのいる絵師にいちいちかまちょする文書きってウザイよな。とほぼ無視。
私のほうはオープン垢なのでリストにいれられてる気配はもっといっぱいあるけどフォローバックしてくれる人なんて50人もいないやで。奇特な絵師さんもいたものだ。
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急にAさんが「前にいた「小ジ●ンル」は態度がクソな人がいたのでジャンルから転出してよかった」とツイートしてるのみちゃった。典型的な後ろ足で砂かけですね。
↓
私は重点チェックじゃないリストにいれてフォロー解除しました。ブロ解まではしなかった。あと精神的に負担なのでそういう愚痴をいうひとはフォロー解除と一言かいといた。
えっクソって私のことですか???まだなにもしてませんが?
プフーw うちほんと弱小だからw 新刊アンケート1桁だからw 大絵師さま気にすんなよ~。
家のドライヤーが俺の使用中に壊れてしまったので、急遽夜のうちに買ったのだ。
そのことを今朝妻に伝えたところ、ヒステリーを起こしてしまった。
不快な顔をしている俺を見て「あーあへそ曲げちゃったね」の小言ジャブから始まり最終的には
「全部私が悪いんでしょ?全部全部全部全部…!!!」と続く。この手のヒステリーが週1で起きる。
こうも言われた。
「私と全く同じ考えで全く同じように育児してほしい」
俺が考え方や立場も違うので全く同じは難しいよ伝えたらやっぱりヒステリー。
しかしながら君は0歳の子供を寝かしつけてから寝ていたじゃないか。
起こすのは忍びないので相談はできなかった。
そして妻が困らないようにとの配慮から夜のうちに購入したのだった。
言い返したが最後、ただただ否定され続け、今日ついに限界が来たのか不意に気づくと涙がこぼれていた。
その様子を見た途端、今度は自責モードに切り替わる。「私が何も言わなきゃいいんだね」「全部我慢する」
「私は駄目だ」「幸せになっちゃいけなかった」子供には「駄目なお母さんでごめんね」
「この子は愛されているから私がいなくなっても平気だよね」と続く。
俺には「悲しんでいるの?」と見りゃわかる事を聞かれ、バカにされる。
途中息を吐くように「ごめんね」と言われるが、その中身のないごめんねはもう耳には届かない。
思えば子供が生まれるまでは仲が良かった。意見がすれ違えばまだ話し合いで解決できた。
多分彼女には福祉が必要だ。眠らない日や体調が優れない日が増え、いつもイライラしている。
土日は俺が料理を作り、妻に要求されたら一緒に出かけ、家を建て暮らし、地方情シスのワープアだが、
身を粉にして働いてきた。
おむつ交換もやり、ミルクも与え、寝かしつけもしている。自発的に。
休日は妻の一人きりの時間を作り、週1回はお出かけ中の妻に代わり子供を見ていた。
虚しいな。どこで間違ったのだろう?もう戻れないかな。
こんなつもりじゃなかったな。
自分は運動音痴だ。だから運動を楽しいと思えたことは皆無に等しい。健康のために運動をしなくてはいけないのだろうが自発的にやることが困難でやったとしても「やらされ感」が付き纏う。
事の発端は小学生の頃にまで遡る。自分が通っていた小学校は「体力作り」をスローガンに挙げていた狂っていた学校だった。朝学校に着くやいなや体操服に着替えさせられ「朝のかけ足」と称して全校生徒全員が運動場を走らされた(※そしてその後の授業も体育以外でも体操服で受けさせられた)絶対義務でなかったのは不幸中の幸いだったが「冬でも半袖裸足が良い」みたいなのが暗黙の了解としてあって靴を履くのが気まずかった記憶がある。他にも朝のかけ足とは別に持久走とか縄跳び大会だとか様々な体育系のの行事があって拷問だった。まるで野生児でも育てているかのような感覚だった
あと、嫌だったのが競争ベースだった。朝のかけ足にしても専用の用紙に運動場を何周したかマスを塗るというのがあって「どれだけ多くマスを塗ったか」で否が応でもカーストみたいなものができていた。別に朝のかけ足でなくてもそういう競争ベースが体育会系の根性論と合わさって体育はさながら使役と公開処刑のようなものだった
そんな母校の小学校も今では運動場は土から人工芝に変わり、朝のかけ足なんてものはなくなり、小学生は冬になったらジャージを履いて昼休みは遊んでいる
せめて体育の授業が「がっつりやるコース」と「ほどほどにやるコース」みたいなものに分かれていたらよかったのかも知れないがそんなことを日本がやってくれるわけはこれからもない、もしくはあったとしても非常に限られた話だろう
話は逸れるが「運動音痴だけどスポーツを見るのは嫌いじゃない、でも運動しないけど見るのが好きなのは恥ずかしい」と思うことがある。落とし方がわからなくなったのでここらで終わる
これもまたかなり的を外している。
ポリティカル・コレクトネスは単純な市場多数決ではない。
ポリティカル・コレクトネスの描像では、そもそも大衆は、「政治的正しさ」への賛否以前に、正しいか、正しくないかを判定できないのだ。
民主主義においては大衆は主権の行使者であり、社会の運営者だ。
単純な政治行為だけでなく、市場を介しては意思決定を消費選好によって、また言論市場に対しては言明を直接反映できるはずである。
それなのに、女性差別はなぜ蔓延っているのか。女性を含めた人類は生まれつき、女性差別者ばかりだからか。
もしそうだとしたら未来永劫女性差別はなくならないことになる。
そもそも一般に差別が存在するのは、大衆がそれを少なくとも黙認しているからではないか。
そうではなく、そもそも大衆は何が差別かを判定できないのがすべての原因である、と考える。
差別とはなにか、何が「善」で何が「悪」かすら理解できていない。その訓練を受けていないからだ。
教育にも限界がある。そもそも大衆は自発的にそういった訓練を受けない。現状変更の見込みはない。
そこで、メディア、芸術、その他の様々な、大衆が日々目にする言説を直接変更するべきである。
よって変更の仕方を、「善」と「悪」の基準を理解できない大衆にも直感的に判定できるようにする必要がある。
美的感覚、物語上の扱いの良し悪し、その他、すべて非言語的に、複雑な論理構造抜きに理解できる水準が望ましい。
呉座勇一氏の騒動について、彼の雇用がどうなったかについて誤解があるようなのではてブに突っ込んでみます。
日文研の元助教に懲戒処分 長期にわたりSNSで不適切発言繰り返す|社会|地域のニュース|京都新聞
[B! 炎上] 日文研の元助教に懲戒処分 長期にわたりSNSで不適切発言繰り返す|社会|地域のニュース|京都新聞
shigak19 「10月から日文研の非常勤の機関研究員となっている」非常勤とはいえ雇用継続か/しかしここのコメントにもひどい二次加害のコメントが。一方的な誹謗中傷を受けても「被害者」じゃないのか
differential 少なくとも北村氏は明確に中傷の被害者だったよね…/研究者のポストは残ってよかった。己の中の黒い感情の手懐け方を身につけて、悪いおトモダチとネットで遊ぶのはほどほどにして笑、研究に邁進して欲しい
こういうのを「雇用継続」とか「ポストは残った」とは(言っちゃ駄目とは言わないけど)普通は言いません!
正社員の地位を解かれパートになるのを「雇用継続」とか「ポストは残った」って言います?
研究者の世界には「テニュアトラック」という制度があります。簡単に説明すると、「数年間は任期付の正社員として雇用し、その数年間の業績を評価して終身雇用の正社員にするかどうか決める」という制度です。
多くの場合、テニュアトラック期間中は「助教」という職位(assistant professorの訳)で、テニュア審査に通ると「准教授」という職位(associate professorの訳)になります(もちろん例外は多々あります)。
これはもともとアメリカの大学で採用されていた制度ですが、現在は日本でも一般的です。とはいえお国柄による違いというものはあり、アメリカではけっこうな割合でテニュア審査に落ちる(つまり終身雇用への移行が拒否される)ことがあるそうなのですが、日本でテニュア審査に落ちたという話はあまり聞きません。採用人事大変だし、数年間も一緒に仕事してるわけだから勝手もわかってるし、何より日本には定年制がありますからね。
(アメリカでは定年制は年齢差別となり違法なので、一度テニュアを手に入れたら死ぬか自発的に辞めるかしない限りは職に留まれます。一方、日本の大学には基本的に定年があるので、どんな偉い学者でも定年を迎えれば退職です。これを利用して、定年を迎えたノーベル賞級の偉い学者を教授として迎え入れ、受賞者が出たら「うちの先生がノーベル賞を獲りました!」と大々的に宣伝している私立大学というのもあります。選球眼がすごすぎる)
呉座さんはこのテニュアトラック枠で2016年秋に採用されていました。任期は5年だったので、何も問題がなければ今年の秋にテニュア審査を受けて助教から准教授になれた、すなわち国際日本文化研究センターに定年まで留まることができるようになっていたはずでした。
しかし、現在の彼の職位は非常勤の機関研究員。これは世間一般で言うところの「パート」「バイト」の身分です。ほぼフルタイムで勤務している場合もありますが、それは長時間パート勤務をしているというだけで、正社員という待遇ではありません。
つまり彼の地位は「数年間という期限つきの正社員」から「バイト」にまで落ちたということになります。
呉座さんの場合、博士号もあり、学術的・啓蒙的な著書を何冊も出しているので、今回の騒動がなければ准教授になれていた、つまり定年まで組織にいられる正社員としての身分を手に入れられていた可能性は非常に高いでしょう。逆に言うと絶妙のタイミングで告発が出てきたということで、人の恨みを買うのが一番怖いという話ですね(本人も「もうちょいで准教授になれるぜヒャッホウ!」と思っていたんだろうなぁ)。
10月付で肩書きが助教でなく研究員になってる模様( https://research.nichibun.ac.jp/sp1/ja/researcher/staff/s377/ )。謝罪もしたし処分も受けたという理解。 この件 https://b.hatena.ne.jp/entry/4699963914661886050/comment/Fuggi
10月付けで肩書が助教じゃなくなるのは上で書いたように既定路線でした。ただ変わった肩書が予想外すぎたという話で。
賃金は出てると思います。というのは、上で書いたように呉座さんは今後も日文研で仕事を続けることが見込まれていたので、10月以降も呉座さんがするはずだった仕事が残ってた可能性があるんですよね。ひょっとしたら外部の研究費を取ってきてたかもしれないし。仮にそれを処理するために非常勤で雇用されてるとすると、当然(具体的に「これこれこういう仕事をしろ」と指揮命令を受けているわけだから)賃金は払う必要があるはず。
なお、賃金が出ない研究員というのもたまにありますが、それは「就職先が見つからない院卒者に○○大学所属という肩書と学内施設へのアクセス権を与える」ための措置なので、具体的にどんな仕事をしろとか命じることはないです。
大学教授に他の大学に所属している研究者の雇用をどうこうするような権力はないです。処遇を決めたのはあくまでも日文研で、北村さんにはその決定に関わるなんの権限もないはず。
ただ、北村さんが一般向けの媒体とかにも寄稿している有名人だったからこそここまで問題になったというのはあると思います。無名の研究者にハラスメントしてたら雇用先に気づかれず逃げ切っていた可能性もある。とはいえ無名の研究者だったらここまでタゲられてなかった(有名だったからこそ粘着された)でしょうから、無意味な仮定ですが。
KKElichika 勤務時間外=使用者の管理外⇒本来懲戒処分権の範囲外&ほぼ業務とは無関係の行為ってこと考えると、結果的に法人の評価を貶めたとみても、停職1か月は相場より重い。訴えられたら負けそう。訴えないだろうけど。
これ、研究者の間では「SNSでの誹謗中傷」というよりも「アカハラ案件」だとみなされているんですよ。歴史学者が出した声明とかもその線に沿ってるので。それでハラスメント案件として重めの処分になっているんじゃないですかね。完全に憶測ですけど。
ただ、これどう考えてもアカハラじゃないんですよね。北村さんは呉座さんと面識がなく、タレコミがあるまで誹謗中傷のことも認識してなかった(それまでは彼女の研究活動その他に影響を与えてなかった)わけで、アカデミックな場で行われるハラスメントとは言いづらいものがあるというか。所属機関も所属学会も専門分野も違っていて、なおかつ面識がない相手に行われるアカハラって聞いたことあります?(同じ会社に勤めているわけでも取引先というわけでも同業他社ですらなく一度も会ったことない相手へのパワハラ、とか、私は聞いたことない……)ていうかそもそも、川上未映子さんや三浦義隆弁護士の悪口まで言ってたんでしょ。アカデミック関係なくない?
「アンチフェミ・アンチリベラルのツイ廃がフェミ・リベラル界隈の有名言論人の悪口言いまくってたら、たまたまどっちも博士号持ちの研究者だった」というのがことの本質だと思うので、「男性研究者が女性研究者にハラスメントしてた」というフレームは違う気がするんですよね。銀行員が帰宅途中の路上で強盗に襲われたのを銀行強盗と呼んでるみたいな感じ。もちろん強盗はよくないことだし罰せられるべきだけど、それを「銀行強盗」と呼んだり「銀行強盗をどう防ぐか」みたいな話に繋げたりするのはなんか違うというか……
新人バイトの人と初めてシフトが被った。新人さんはまだ高校一年生の女の子だ。私とは親子ほどの歳の差!
女子フリーターバイトさんのテンションが高かった。妹分ができて楽しいらしい。普段は年上にばかり囲まれて低姿勢の女子フリーターバイトさんは、新人女子高生さんにめちゃめちゃ姐御風を吹かしていた。パワハラにならない程度でお願いします……。
新人女子高生さんは、客足が途絶える度にレジカウンターにばったりと突っ伏していた。お疲れの模様。
三人も一緒にシフトに入っているとさすがに暇になるので、女子フリーターバイトさんにカフェマシンの掃除を頼んだら、その前に煙草の値札の付け替え作業をしたいというので、してもらう。煙草の値札は今月の始めに付け替えたばかり(値上げ前と値上げ後の値段が併記されてるやつ)だったのだが、新しい値札は値上げ後の値段のみが書かれたものだった。
「なんかこの名札、ずっと机の上に置いてあって誰も替えないから、しょうがないウチがやろうと思ってやってるんです」
と愚痴っていった。え、オーナーに頼まれてやってるんじゃないんだ? オーナー、従業員が自発的に仕事をやって喜ぶ人じゃないんだけど、大丈夫なのかな。てか、値札って事務所の机に無造作に置いてあるからって今すぐ付け替えていいとは限らないんだけど……本当にやって大丈夫なの? と聞いたら女子フリーターバイトさんはいいんですと言うので、まあいいかと思い、放置。
「こんな面倒臭いこと、夜勤がやればいいんですよ、どうせ暇なんだから!」
これにはさすがに、
と私は答えた。当店は夜間の営業をしていないので、閉店後一時間くらいでダッシュで片付けをしなければならないし。
「でも夜勤の人達って、サボってばかりで全然仕事しないんですよね?」
と女子フリーターバイトさん。いやまあ、事実、当店がまだ24時間営業だった頃にいた夜勤の若者たちはそれはそれは怠惰な人達ばかりで、マジで仕事をしなかったらしいけど、今はそこまでのサボり魔はいないんだけど……。確かにAさんはけっこうサボるし、面倒臭いことを昼勤のパートさんに押し付けもするんだけど。
女子フリーターバイトさんは夜勤の人達と仕事をすることはあまり多くない。実際見たこともないのに自分も被害者であるかのように夜勤への恨み節を述べていたが、これって昼勤のパートさん達からの受け売り以外の何物でもないよなぁ。昼勤のパートさん達、いまだに夜勤のこと、そんな風に言ってるんだぁ……。
ついでに、女子フリーターバイトさんがAさんのことを「A君」と呼んでいることを知る。全く絡みのない年上の同僚男性を君付け呼び!?
「共産党は非実在児童は悪影響があると断定していて、その後の規制のレベルを議論しようと言っている。」
https://anond.hatelabo.jp/20211019094224
どこにそんなこと書いてるのだろうか?
「幅広い関係者で大いに議論し、子どもを性虐待・性的搾取の対象とすることを許さないための社会的な合意をつくっていくことを呼びかけたものです。」
https://www.jcp.or.jp/jcp_with_you/2021/10/post-49.html
がそういう理解になるのかな?
俺の理解では
「法的規制」=個人的には規制に反対でも、多数決で決まったことに従う
「社会的な合意をつくっていく」=規制反対自体を無くす そのような表現は許さないと自発的に考えるように思考を議論によって改造する
めんどくさいことはギリギリまで後回しにしてしまう俺でもさすがにそろそろかなと重い腰を上げてワクチン接種の手続きをしてみたら、接種日も時間も選び放題だし、会場もガラガラ
たぶん、射つ意思がある人はとっくに接種してるんだろう
だとすると、俺みたいな接種するつもりはあるんだけど怠惰な性格でなかなか予約手続きする気にならんみたいな人の接種率を上げるために予約不要の飛び込みで接種できるように出来んもんだろうか
こういう、怠惰なひとは自発的に日時と会場を予約してくださいよりも、ある程度限定された日付に指定された場所に予約せずに行くだけで接種できる。みたいなほうが腰が上がりやすい気がする