自分は運動音痴だ。だから運動を楽しいと思えたことは皆無に等しい。健康のために運動をしなくてはいけないのだろうが自発的にやることが困難でやったとしても「やらされ感」が付き纏う。
事の発端は小学生の頃にまで遡る。自分が通っていた小学校は「体力作り」をスローガンに挙げていた狂っていた学校だった。朝学校に着くやいなや体操服に着替えさせられ「朝のかけ足」と称して全校生徒全員が運動場を走らされた(※そしてその後の授業も体育以外でも体操服で受けさせられた)絶対義務でなかったのは不幸中の幸いだったが「冬でも半袖裸足が良い」みたいなのが暗黙の了解としてあって靴を履くのが気まずかった記憶がある。他にも朝のかけ足とは別に持久走とか縄跳び大会だとか様々な体育系のの行事があって拷問だった。まるで野生児でも育てているかのような感覚だった
あと、嫌だったのが競争ベースだった。朝のかけ足にしても専用の用紙に運動場を何周したかマスを塗るというのがあって「どれだけ多くマスを塗ったか」で否が応でもカーストみたいなものができていた。別に朝のかけ足でなくてもそういう競争ベースが体育会系の根性論と合わさって体育はさながら使役と公開処刑のようなものだった
そんな母校の小学校も今では運動場は土から人工芝に変わり、朝のかけ足なんてものはなくなり、小学生は冬になったらジャージを履いて昼休みは遊んでいる
せめて体育の授業が「がっつりやるコース」と「ほどほどにやるコース」みたいなものに分かれていたらよかったのかも知れないがそんなことを日本がやってくれるわけはこれからもない、もしくはあったとしても非常に限られた話だろう
話は逸れるが「運動音痴だけどスポーツを見るのは嫌いじゃない、でも運動しないけど見るのが好きなのは恥ずかしい」と思うことがある。落とし方がわからなくなったのでここらで終わる
大人になってわかったが教師は同世代でも平均以下のクソ人間がやる仕事
そりゃまあ「でもしか教員」って言われるくらいだし
特に体育教師はぶっちゃけ境界知能だろうなって感じの人がいたなあ。障害者雇用に近い側面がありそう。