はてなキーワード: 社会的弱者とは
今話題になっている、「米山隆一議員と仁藤夢乃氏と室井佑月氏のアレ」。
選挙後早々にリベラル界隈で内部紛争が勃発、ということで各方面から注目が集まっていますが、これまでも、
といった事例があり、この件に限らず、立憲・共産党とフェミニズム活動家は必ずしも一枚岩でないことがわかります。
そして、こうした話題を見ていて思い起こされるのが、ズバリ「部落解放同盟と、そして日本共産党との対立関係」です。
「社会的弱者や被害者の掘り起こし・組織化に熱心な共産党と、解同の仲が悪い」という事態は、この界隈をよく知らない人間にはなかなかイメージしづらいものがあります。
なので共産党も、あの手の運動には珍しく、真顔でディスっているというわけです。
なお、対立の理由は他にもあり、例えば1965年の「同和対策審議会」答申を巡る評価が解同と共産党で分かれたことも、その一因と言われています。
答申に一枚噛んでいる社会党に近い派閥が答申を評価する一方、共産党や解同共産党派は内閣諮問機関による答申を「毒まんじゅう」、つまり自民党との妥協であると批判。
なんだか「表現の自由」あたりでも散々聞いたような話ですね。
社会運動が自分の支配下である間はとりあえず優しいけど、ヨソが手を伸ばしてこようものなら即手の平返しちゃうと。
しかも、そんなこと言ってた共産党がこないだの選挙では自ら毒まんじゅう食わせる側に回ったのだから、まあなんとも皮肉な話です。
一方、解同側も社会党派を中心に共産党勢力の排除を進めていき、1971年には以下の理論を打ち出します。
その名も「朝田理論」。
半世紀も後のツイフェミの言動までもが全てこれで説明できてしまうなどと、いったいどこの誰が予想したでしょうか。ノストラダムスじゃねーんだぞ
しかし仲の悪い相手にはとことん手厳しい共産党、こちらについても「部落民以外はすべて差別者=部落排外主義」と批判を加えています。
米山先生おっしゃるところの「フェミニストイズム」も、これに当てはまるかもしれません。
それにしても「当事者・活動家至上主義と先鋭化が極まった結果、共産党のオルグすら拒んだ」というのは、いろいろと示唆に富むものがあります。
(まあ、「社会党vs共産党の争いで社会党側が勝った」と言ってしまえばそれまでなのですが)
様々なものを一方的に燃やされてばかりの男オタクの立場からは観測しづらいかもしれませんが、
実はそごうやルミネ、TOKYO女子けんこう部などの事例を振り返ると、むしろ「女性に媚びているはずの広告がなぜか炎上」したケースも結構多いことがわかります。
それも「『けんこう』が平仮名なのは女性をバカにしている!」などと、まさに令和最新版朝田理論の全力ブン回し。
いったい何が差別にあたるのか、もはや当事者と中国王朝の暴君以外に判別がつかないレベルです。
1000のうち1か2でも気に食わないことがあるとすぐ糾弾会をおっぱじめるバーサーカーぶりからは、やはり『血だるま剣法』的な何かを感じずにはいられません。
と、解同に対する批判の多くがなぜか現在のツイフェミにもブッ刺さる、というまことに面白い結果になったわけですが、
私は彼ら彼女らの暴力的な性格、先鋭化や偏狭さはともかく、運動のあり方自体を批判するつもりはありません。
社会運動は特定の党派の持ち物ではないし、自分の要望を実現してくれるなら誰と手を組んでもいい。
むしろ、リベラリズムからアベヤメロまでいちいち全部ワンパッケージにしなければ気が済まない風潮の方が、ぶっちゃけよほど不自然ではないでしょうか。
子供単体では社会的弱者であるが、子供は単体で存在するわけではない。
無敵の人にとって子供とは、憎き社会的勝者が勝ち抜いた末に手に入れた、宝物のように見えているのではないだろうか。
もちろん、これは認知の歪みに過ぎない。
無敵の人の蛮行を止めるには、子供が社会的勝者である親のプライベートな宝物であるという歪んだ認知を正す必要がある。
子供は社会が共有する存在であって、誰が親権を握っているかに関わらず、みんなで直接関与して育てるべき弱者である事実を繰り返し説こう。
親の所得の高低を問わず、そして一般に既婚者の方が未婚者よりも経済的に恵まれているにも関わらず、なぜ公明党が子供に限定して支援金の一律給付をしようとしているのかも、合わせて考えたい。
京王線の犯人は交友関係があまりなく大人しい感じの人間であったという報道がありその特徴に共感する人をSNS等で多々見かけた。
思えばこの社会はそんな人を見えないところに追いやって成り立っているのではないだろうか。
受験や就活などのフェーズは「まともな人」を選別するためのふるいだろう。
公立中学に通っていた人は分かるだろうがガリ勉みたいな見た目なのに勉強もできないコミュ障で孤立している人間というのがひとりはいた。
次に勉強はそこそこできるが社交性や積極性に欠ける人間が就活でふるい落とされる。
だからその壁を突破してそこそこ以上の企業に入った人間はふと気づくだろう。学生時代にひとりはいた大人しい奴らを見かけなくなったと。
彼らは死んだわけではない。死んでしまった者もいるだろうが大部分は社会の片隅に追いやられひっそりと生きている。
男にとって社会的地位とは命の価値と等しい。社会的地位が低く金も無い男は尊厳すら与えられない。
どんな理由であれ一度この社会からドロップアウトしてしまえば落伍者として扱われる。
この手の犯行が男性によるものが多いのもそこが関係していると思う。
女性にも同じような環境に身を置いている人はいるだろう。だが女性の場合社会的弱者として扱われる。
一方男性の弱者は出来損ないと認定され本人の自業自得として無視されてしまう。
そうして社会から蔑まれ無視された人間が他人に優しくする道理は無い。
ふとしたきっかけで「プッツン」しあのような犯行に及んでしまう。
自分は別に犯人を擁護するつもりは無い。しかし加害者の彼のような人間は沢山潜んでいて、これからも似たような事は起こるかもしれない。
社会復帰のハードルを下げることか、コミュニティへの参加を促すべきか、解決策は見えないがそもそも彼らの抱える問題を分析しその問題の解消を目指すことは
https://www.news-postseven.com/archives/20211005_1696272.html/2
三浦:小室さんは、お母さんから「あなたは大した人物になるのよ」と言われ続けて、素直に信じて育った。それって、ゆとり世代が受けた教育そのままです。
実際にいまの30歳前後の人たちは私たちと全然感覚が違って、のほほんと余裕がたっぷりだし、いきなり仕事を辞めたりしますから。
山口:確かにあの自己肯定感は母親の影響でしょうね。「あなたは特別、あなたは特別」とシャワーのように浴びせられ続けてきたんだと思う。私はコンプレックスの塊なので羨ましくて仕方ない。
倉田:『だめんず・うぉ~か~』を描いた時に学んだけど、「俺はすごい」と本気で思っている男は、結構周りを巻き込むんです。自分を疑わない男の傍にいると、「実はこの人、ほんとにすごいのかも」って思えてくるの。そんなに多くには伝播しないけど、近くにいる人にはそう伝わってしまう。
三浦:40代になるとその人の本当の力が見えてくるけど、小室さんの年齢だったら、まだまだへこんでいなくて当然なのですから。
倉田:だから私は二人の結婚には大賛成だけど、小室さんには「ああこの人、いいじゃん」というところをまだ見せていただいていない(苦笑)。そこは「頼むよ、小室さん!」という気持ち。
え、米国の司法試験を受けて、現地の法律事務所に職を得た小室さんに対して
小室さんには「ああこの人、いいじゃん」というところをまだ見せていただいていない
ってなにこれ。
倉田真由子さんって人は、30代の時にどんだけすごいことを成し遂げた人なの!!??
「実際にいまの30歳前後の人たちは私たちと全然感覚が違って、のほほんと余裕がたっぷりだし、いきなり仕事を辞めたりしますから」
ってなんやねん。
三浦さん、あなた42歳だよね。就職氷河期まっしぐらの時期を体験してるのに、会社側には一切問題なくて、やめる若者が軟弱って考え方か。
3週間放置で逮捕という例も早いと思ったが4日放置で逮捕というのを見つけた。早すぎないか?
もうね、哀れでしかない。誰が迷惑被っていてとか、誰のために裁いてるのかという意義を感じない。
警察検察その他司法に携わる者の仕事増やしてる点で迷惑かけてるだって?じゃあ法律なくせば解決だね。
年金の不正受給など疑われて詐欺罪が適用できるならそうすればいいだけじゃん。たった6日放置してる段階でそれ疑うのはまず無理だろうけどな。
そういう別件の罪状が適用できず単に死体遺棄でしか裁けないようなのを裁くって単に検察とかの実績稼ぎにしかなってないんじゃないの。
どうでもいい仕事させるのは税金の無駄でもあるから死体遺棄罪は5080問題の現状に適応できるように例外認めて改正するかすっかり無くすかどっちかにしろよ。
身内が死んで精神的に弱ってるはずなうえに知的障害とか背負ってることもあって紛うことなき社会的弱者なのに、(軽度程度なら平然と)実名報道(こんなのでもデジタルタトゥーの元)+(多くは執行猶予一時的だとしても)身柄の拘束という、追い打ちかけすぎのコンボなんだよね。
https://bunshun.jp/articles/-/44299
https://news.yahoo.co.jp/articles/73b433a8d7f6930849ddc915c5e73dab28ad8a45
フェミは男性差別問題を「他人事」「私はママじゃない」扱いしているが視野が狭すぎる。
女性差別と男性差別は表裏一体、車輪の両輪の関係だから女性差別だけを無くそうとしてもダメだから。
女性差別は女性の権利を制限しているが、男性差別は男性側に過度に負担を課しているという違いがある。
女性差別を無くすということは、男性側が負っている負担を女性にも分担してもらうということ。
徴兵の義務を男性側だけに負わせる代わりに、その代償として男性を「社会的強者」として優遇する。
徴兵義務を男性側に押し付けている状況が変わらない限り、女性は「社会的弱者」として冷遇され続ける。
女性たちも徴兵の義務を分担することによって、社会的弱者として見なされなくなる。
女性の社会進出によって総合職として働く女性が増えてきたが、これも今まで男性側に押し付けられてきた長時間労働の総合職の仕事の負担を分担している。
それによって過労死する女性も増えるかもしれないが、社会的弱者として免除されてきた負担を背負うことのリスクと考えれば、それでいいのだろう。
まとめてみると、女性差別の解消とは何かを突き詰めて考えてみると「男性側の負担をどれだけ軽減できるか」どうかに掛かっているのだ。
やまなみ工房という障碍者福祉施設があってそこに通う人がリハビリがてらに描いた文字を羅列しただけの絵に100万だかの値がついてる。
割と時間をかけた力作もあるがそれでも300万とか400万とかいう値がつくのは行き過ぎではないか。
他にもNFTだかいう技術の波に乗って小学生がWindowsのペイントで描いたようなクオリティの絵が万単位で売れていく。
その小学生は数か月で300云十万稼いでいる。どうにも海外の有名人の目に留まりSNSのアイコンに作品の一つが使われたことによって価値が爆上がりしたらしい。
俺はなんでも鑑定団をよく見るがあの番組では芸術に文字通り生涯を捧げた人達が紹介される。
画材などに財を全てなげうって、食べるものも切り詰める清貧の生活の中で芸術家として大成していく様が伝えられる。
そんな人が描いた絵なのに、たとえ本物でも「150万円」という鑑定額だったりする。
前はそれを安いとか思ったことはなかったが今の風潮に照らし合わせると過小評価な気がする。
あるいは逆か。障害者の描いた絵が数多の芸術家達の歴史を踏まえず評価されすぎているきらいがあるように思える。
なんで芸術家と比べてしまえば本気度が低いに決まってる人たちが悠々自適に描いた絵に悠々と大金をかっさらっていくのか。これでは芸術家が報われないのではないか。
別に「障害者が作り出すものは劣っている」とか言いたいわけじゃない。障害者どころか健常者の平均的な画家と比べても、なんでも鑑定団で特集される芸術家の芸術に捧げる熱量は、比較にもならないだろうが。
まあ作品が一品物だからということもあるわけで、たまたま金持ちがその障害者の絵を気に入ってそういう金額が買い取ったというだけの話かもしれない。
つまりそういう金額は一個人にとっての価値であるだけで、客観的な価値を反映したものではないのかもしれないというわけだ。
「客観的」という言葉を途端に胡散臭く感じるだろう?「『客観的な価値』ってなんだよ」と言いたくなるだろう?
脱線するがアレイスタークロウリーなる魔術師を自称した実在の人物は法の書という出版物のなかで「真の意志」という概念について説いている。
「真」という言葉も、客観性と同じようなうさん臭さを持っていると思う。
たとえば惰性で好き勝手に振る舞うことを真の意志とは異なるというようなことが書かれている。でも見方によっては、好き勝手に振る舞うとは何かしら律するものの影響下にないということで、そこで発現されている行動はありのままの意志の反映なのではないのか。
ありのままを「真」という言葉で言い替えれるとするなら結局それはそのまま真の意志という概念に対する反論になる。
それを退けるためにはこのような「ありのまま」が真というものに対する言い替えとはならないわけとともに、では真という言葉は具体的にどのような性状を指しているのかを説明する必要がある。
真とか客観とかいう言葉を使う人たちは往々にしてそこらへんを「当たり前のもの」として、分かっているものとして論を進めてしまうから胡散臭いのだと思う。
とはいえ、こうも当たり前のように客観とかいう言葉が飛び交っていると、その中身は素人にはブラックボックスながらも客観というもの自体は幻想ではなく確かに存在すると思うことこそが妥当で健全な生き方なのかなとも思えてきてしまう(こういやって長いものに巻かれる感じで客観や真などのような概念の存在を信じることにしたのは俺だけだろうか?)
俺は気象学が好きでその勉強をしているなかで「予報精度はモデル計算の不確実性に依存する」という文言が出てきたのだが、まあ不確実性って言葉もまた客観とか真という言葉と同等なあいまいさ、抽象性を帯びているったらない。
そりゃ人間が作ったモデルは現実の物理法則に完全に依拠したものではないだろうことはわかるが、不確実性って単語一つで言いくるめられてもしっくりこないわけよ。それでもまあ「モデル計算の不確実性」が在るものとして、そらんじれるぐらいに自分にとって真実になるように努力するわけ。科学的な文脈で語られていることまでいちいち無いものとして疑ってかかるよりも、とりあえず丸呑みにする方が妥当な態度な気がするから。学術的な文脈でも「客観」という言葉をよく見るから、とりあえず客観というものは存在するものとして妥協しておくというのと同じ。
話を戻すが、たとえば俺がモナリザとかひまわりを価値ないといったところで、それらの絵画の価値には微塵も傷がつかないだろう。
そう言うときの価値が客観的な価値だ。逆に言えば、一人の人間がいくら熱狂的に特定の絵を愛して大枚を叩いたところで、ただちにその絵の客観的な価値がそれに相当する客観的価値をもつものとして裏付けられるわけではない。個人の好き嫌いと客観的価値はいうまでもなく独立したものであるはずである。
ダヴィンチとかピカソみたいな大芸術家、あるいはバンクシーも含めてああいう人たちに作品の絵の価値は客観的価値を反映しているといえる。
それは同じ絵が(何度も)オークションにかけられるという過程を経てその経済的価値が民主主義的に固まっていっているからだ。これを実勢価格ともいう。
一方で障害者の絵に対するにわか景気はある個人にとっての価値の反映でしかない。それを指標としても客観的価値は見えてこない。
だからまあ結局、このような状況は五体不満足な障害者にせめて富がもたらされる機会が作り出されているだけであって、芸術家より評価されているというわけではないから、まあ誰も(故人も含めて)実体的そして精神的な被害者はいないからこのままでいいかなと思う。
『公助は削って、福祉は家族による相互扶助を基本とする』に対して、そんなことしたら社会が貧困化するよという主張が感想レベルだからダメですかそうですか。そもそも自助や互助で貧困は防ぎきれず、その貧困への対策が共助、公助なわけなんだけども。こんなことは常識の範疇と思っていたよ。
この自助・共助・公助という3分論は、自民党の綱領(平成22(2010)年)で政策の基本的な考え方として採用されている。「自助自立する個人を尊重し、その条件を整えるとともに、共助・公助する仕組みを充実する」とある。菅氏の発言は自民党員として、党の綱領に忠実であったともいえる。また、社会保障制度改革推進法の第2条には、「社会保障制度改革は、次に掲げる事項を基本として行われるものとする。一 自助、共助及び公助が最も適切に組み合わされるよう留意しつつ、国民が自立した生活を営むことができるよう、家族相互及び国民相互の助け合いの仕組みを通じてその実現を支援していくこと。」とあり、法律の文言にもなっている。
総理大臣になった菅氏が、この社会像としての3分論を具体的な政策の中でどのように生かしていくのかは分からないが、これまで、介護保険制度の創設と運用にかかわり、自助・互助・共助・公助という4分論を唱えてきた筆者としては、共助の主体に地域とともに家族が含まれていることと、地域以外に共助の主体が想定されていないことに若干のコメントをしておきたい。
われわれは、人生の途中で、老化に伴う日常生活上の困難や思いがけない病気、事故、災害など、さまざまなリスクに直面する。このように何か問題が生じて解決を迫られたときに、まず、本人が自助努力で対処する。しかし、それでは無理なときは、本人の身近にいる家族・友人・隣人などが手を差し伸べる。これがインフォーマルな支援、すなわち互助である。自助と互助ではカバーしきれない場合にはシステム化された地域・職域の自治組織が支援する(共助)。この共助システムではなお解決しえない場合に行政が支援する(公助)。この4分論も、いわゆる補完性の原則に基づく社会形成の考え方であるが、自助と共助の間に互助を考え、共助としては地域以外にも社会保険を想定している。
個人が直面するリスクを、その本人の自助努力だけで克服せよというのは無理な話で、社会は、何らかの形で共同してリスクを分担する仕組みを備えていなければならない。自助から出発するにしても、自助の次に互助を想定せず、家族の支えを「共助」に包摂してしまうと、例えば、いつまでたっても家族を老親介護の責任から解放できないのではないか。家族は大事だが、それに頼りすぎては家族が参ってしまう。
互助は、自発性とゆとりと思いやりに基づく支え合い活動であって、その活動範囲も支援能力も限定的である。それは、家族・友人・隣人が無償で行う支援活動であるからである。しかし、自助のすぐそばに、この互助が息づいていることが自助の励みになるのである。老いて心身が弱っても、自分の生活に関することは自分で判断し、できるだけ自分で行おうとする個人の自助努力を尊重し励まし支援する、それが互助の意義である。自然災害のときにも、真っ先に頼りになるのは自助と互助の結びつきである。新型コロナ禍の困難の中でも自助に寄り添う家族・友人・隣人の親身な支援こそが大事である。
わが国にはシステム化された地域の自治組織として、自治会・町内会があり、近年は地域運営組織が台頭し、これらは市区町村行政と相互関係をもって活動している。この地域が共助の主体として期待されている。ただし、同じ共助のなかに、リスクを共有するもの同士で助け合う社会保険制度が存在し、国と自治体の行政(公助)が関わっているから、共助の主体は地域だけではない。共助システムである医療や介護の社会保険制度は、経費の約半分を国と自治体の公費(租税)で賄っているし、介護保険では保険者を市区町村にしているから、この共助システムは共助と公助の混合型といえる。それだけに、公費負担をしている国から、システム運用を通ずる効率化圧力が絶えず加えられる結果、公助から共助へ、共助から自助へとリスク負担を逆流させようとする動きが出てきやすい。要注意である。
共助、公助の成り立ちと役割については、このリンク先の厚生労働省白書に良くまとまっている。https://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/kousei/12/dl/1-01.pdf
(工業化に伴う人々の労働者化により、血縁や地縁の機能は希薄化した)
産業資本主義の社会では、企業が潰れたり、解雇されれば失業してしまい、また、けがや病気などで働けなくなった場合、労働者は所得を得られなくなる。その一方で、労働者が血縁や地縁の関係から一定程度独立した結果、それら血縁や地縁で結ばれた人間関係を基礎とする支え合いの機能は、近代以前の社会と比べて希薄化しているため、個人にとって、生活が立ちゆかなくなってしまうリスクは大きなものとなる面があった。また、産業資本主義の社会では、労働力の商品化の結果、モノやサービスの生産が「使用者-労働者」の関係を軸に展開するようになる。近代以前の社会と異なり、労働者は自己の労働力以外に機械や原材料などの生産手段を持たない。生産手段は使用者(資本)によって所有され、労働者はそれを借用しながら自己の労働力を提供する。この関係の下では、自ずと労使の力の差が生じる。使用者に比べて力の弱い労働者は、低賃金、長時間労働という劣悪な労働条件を強いられ、解雇のリスクにさらされるようになる。過酷で貧困な生活を送る労働者は増え、労働問題が大きな社会問題になっていった。労働者たちは、同業者の間で相互扶助的組織を設けるなどして生活上のリスクに対応してきたが、これらの組織に加入できたのは、経済的に多少の余裕のある熟練労働者などに限られ、多数の非熟練労働者などは、それらの組織に加入することができなかった。
(近代的な社会保障制度の創設はドイツから始まり、欧州各国に広がっていった)
近代的な社会保障制度が世界で最初に創設されたのは、大陸ヨーロッパのドイツであった。ドイツでは、19世紀終盤に、帝国宰相の地位にあったビスマルク(Otto von
Bismarck, 1815-98)により、法律上の制度として世界で始めての社会保険制度(疾病保険法(1883年)、労災保険法(1884年)、老齢・障害保険法(1889年))が制定された*3。社会保険制度は、事業主の負担と併せて被保険者(労働者等)自ら保険料を負担(拠出)することにより給付の権利を獲得するという関係があるため市場整合的であるとして、多くの工業国で社会保障の手法として第一義的に選好される傾向が強いものとなっていった。そして社会保険による給付は、市場経済的な権利関係の裏付けを欠くために、社会の負担、あるいは自助能力を欠く者との差別や偏見から逃れられず、受給にスティグマ(汚名)が伴っていた恩恵的・救済的福祉の給付とは異なっていた*4。また、あらかじめ生活リスクに備える点で、それまでヨーロッパ各国で主流であった事後的な「救貧」施策から事前の「防貧」施策への第一歩を踏み出した点でも大きく評価された。
(略)
(社会保障は、個人の生活上のリスクに社会的に対応する仕組みとして求められるようになり、産業資本主義の社会と国民国家の発展を支えていった)
このように、産業資本主義が発展する中で、血縁、地縁がそれまで果たしてきた人々の生活を保障する機能は限定的なものとなっていった。それらの機能を代替するため、傷病、老齢、失業などのリスクに公助又は共助という形で社会的に対応する仕組みが必要となり、現在に通じるような社会保障制度が求められるようになったといえる。
そして、社会保障が血縁や地縁の機能を代替*8することにより、人々は経済活動に注力することができるようになったという意味で、社会保障は産業資本主義の社会、国民国家の発展を支えていったともいえる。
(世界恐慌から第二次世界大戦までの間に、戦後社会保障の構想が練られていった)
1929年には、アメリカのニューヨーク証券取引所での株価の大暴落をきっかけに世界恐慌が発生した。その影響は大変大きなもので、1930年代には各国で多くの企業が倒産し、街は大量の失業者で溢れ、社会不安はますます増大した。
(略)
ケインズの理論によって完全雇用に近づければ、失業給付を激減させ、なお残る失業者に手厚い給付ができ、また、社会保障によって全国民に最低限度の生活を保障すれば、有効需要が増え、さらに失業者が減る。このように、ベヴァリッジとケインズの考えは互いに補強しあう関係にあった。これは「ケインズ・ベヴァリッジ主義(体制)」、「福祉国家の合意」などと呼ばれる。その後、ベヴァリッジは、第2次世界大戦中の1942年に、いわゆるベヴァリッジ報告(『社会保険および関連サービス』)を英国政府に提出し、「ゆりかごから墓場まで(Fromthe Cradle to the Grave)」のスローガンの下、新しい生活保障の体系*10を打ち立てた。このベヴァリッジ報告の影響を大きく受け、第二次世界大戦後には世界の多くの資本主義諸国で、経済の安定成長と完全雇用*11、国民福祉の充実を目指す「福祉国家」の潮流が広がっていった*12。
(戦後、どの先進諸国にとっても社会保障は不可欠なものになった)
(1970年代―オイルショック後の経済成長の鈍化等により、社会保障・福祉国家批判は大きな潮流になった)
(1980年代―新自由主義的な政策が採用され、社会保障・福祉国家の「見直し」が行われた)
(新自由主義的な政策は、経済のグローバル化の趨勢とも親和的だった)
(社会保障・福祉国家の「見直し」がもたらした弊害は大きなものだった)
(当初の「見直し」という目的が実際に達成されたかについても、見方は分かれる)
(1990年代以降、社会保障の重要性が再認識され、過去に指摘された問題点に応える努力をしながら、社会保障・福祉国家を再編成する時期に入っている)
(今日では、社会保障は様々な機能を持っており、私たちの経済社会に欠かせない重要な仕組みである)
今日では社会保障は、個人の視点からみれば、傷病、失業、高齢など自活するための前提が損なわれたときに生活の安定を図り、安心をもたらすことを目的とした「社会的セーフティネット(社会的安全装置)」という機能を果たしている。また、それを社会全体としてみれば、所得を個人や世帯の間で移転させることにより貧富の格差を縮小したり、低所得者の生活の安定を図る「所得再分配」や、「自立した個人」の力のみでは対応できない事態に社会全体で備える「リスク分散」という機能を果たしているといえる。
さらに社会保障は、必ずしも恵まれない人たちにも社会の一員としての帰属意識を共有してもらうことで社会的な統合を促進させる。また、消費性向が高い低所得の人たちに所得移転し購買力を高めることで個人消費を促進したり、医療、介護、保育などの社会保障関連産業における雇用の創出を通じて経済成長にも寄与する。こうした「社会の安定及び経済の安定と成長」といった機能も果たしている*20。
このように、社会保障は私たちの経済社会にとって欠かせない重要な仕組みとなっている。だからこそ、支え手である現役世代(働く世代)の人口が減る少子高齢社会において、どのようにして持続可能な制度を構築していくか、若年者等の失業問題や社会的弱者が孤立を深める状況(社会的排除)を改善するためにどのように社会保障制度を機能させていくべきか、経済のグローバル化に伴う国際競争の激化が雇用の柔軟性や流動性を要求する状況など社会保障が前提としてきた雇用基盤の変化や経済の低成長が続く中で、どのような所得再分配や雇用政策が適切なのかといった点は、先進諸国にとって、重要な政策課題となっている。
社会は貧困化するの件が感想でしかないので、感想に対する反論などありません残念でした
人生に遅いということはないよ
最近の「マイノリティ」って言えば何でも許されるみたいな風潮が嫌い。私は20代だから、LGBTとかいわゆるマイノリティって言われる人に対する今の40代50代みたいな気持ちはない。でも、最近の「社会的弱者」って立場から声を上げる人にうんざりしてる。
私が見聞きした人だけの話になってしまうけど、「私はマイノリティです」って言ってる人ほどマイノリティじゃないと思う。実際にどうかはわからないけど。
もちろんだけど、その人たちは「私はLGBTです」とか言ってるわけじゃない。そこらへんがあるなら私も考えを改める必要がある。でも少なくともそういうことは一言も言ってないし、あれば言ってくる子たちだと思う。でもそんな様子は普段からは見えない。でも少なくとも、それがあったら納得できるような浅い溝なら、こんな日記は書いてない。
私の知り合いの自称「マイノリティ」はただ常識がなってないとか、自分の行動に責任を持てない人が多い。自分の非が認められないとか、自分のことしか考えてないとか。
常識がなってなくて、周りの人に迷惑かけて、それで揉めたら「私はマイノリティだから理解してくれない」って言う。私はその人と共通した友達とか知り合いがいるから、揉め事を起こさないために当たり障りないこと言う。そうすると「私を理解してくれた!受け入れてくれた!」ってまた無遠慮になる。負のスパイラル。
そういう人みんな「私を理解してくれない」って言うけど、実際理解できる人の方が少ないと思う。
「私が傷付いたのは他人の無理解。私は被害者」「海外なら認められてるけど日本の価値観では認められない、だから海外に行きたい」
全部自分の問題他人に擦り付けてるだけじゃん。自分が悪いと思いたくないから人のせいにして、自分は間違ってないって思いたいだけ。
じゃあ早く海外行けよって思う。海外の方が色々大変だと思うし、言ってて海外行った人もいないけど。
実際私自身、多分マイノリティに分類されると思う。先天性の障害があって見ただけでわかる。進行もしないし、健康に問題があるわけでもないけどわかる。
でも私は自分が「マイノリティ」だと思って生きてこなかったし、これからも思いたくない。私の悪いところを障害に押し付けたくないし、その障害も含めて私だから。
だからってわけじゃないけど最近増えてきた「問題ごとにしないでほしい」「放っておいてほしい」みたいな人の気持ちがわからなくはないなと思う。
単純に「そうだと知られて揉め事を起こす人だと思われたくない」とか「そもそもそういう括りで見られたくない」とか。
私は腫物みたいに触られるのが嫌だし特別扱いされたくないから、マイノリティって言われたくない。みんなと同じように扱ってほしいし、そこにただ少し見た目の障害があるだけで「あなたはみんなとは違う」ってされたくない。自分が生まれ持った、変えようのないものを「あなたは周りと違う」ってわざわざレッテル貼りされて、それを喜べる人間じゃない。だから余計に「マイノリティって言い訳をもって我儘を許してほしいだけじゃん」って思う。
本当にマイノリティに問題意識を持って声を上げる人は素晴らしいと思う。パートナーシップ制とか、考えて実際に行動して、結果として状況が改善したこと。本当にすごいと思う。
現状に問題意識をもって、明確な目標に向かって行動できるのは、本気で問題について考えて、本気で向き合ってるからだと思う。
でも、それに乗っかってSNSで色々噛みついて大声をあげてるの、そうやって本当の意味で「具体的にこう改善してほしい」って考えてる人なの?
私には特別扱いされたいとか、マイノリティって言うことで得をする人とか、そういう人が多い印象を受ける。
多様性とかマイノリティとか、良い言い訳ができたって感じでここぞとばかりに使いだす人もういい加減にしろよって思う。無自覚だろうけど。
ハイパーハードボイルドグルメリポートで触れられた、ゴミの処分地に住んでる14歳の子供を見て、俺はどんな気持ちで対峙すればいいのかわからなくなった。
資本主義にいくら中指を立てていても、こういう状況に対して自分ができることはゼロだ。募金なりなんなりあるだろうと思うかもしれないが、そんなことはまったく関係ないし、なんなら無駄だ。できることはゼロだ。そこに立たないとそもそもスタートすらできない。
俺はただの人間で生活者で自分の生活を成り立たせていくことで精一杯だ。世界にある矛盾をずっと甘んじて受けながらも自分の快楽を追い求めてる。たまに贖罪されたくって、赦してほしくってそれらしいことを話したりするけど、お前なあ、そんなことで何かが変わるだなんて一瞬でも思うなよ。ずっとずっと違和感だけが俺のありもしない尻尾を引っ張る。つれえなあ。
俺の生活は俺だけの責任で行きたいんだけど、まあ、みんなも知ってる通り「生きる」ってことに他者が関わらないことは一切ない。これはまじでそうだ。仕事をする、飯を食う、歩く、何かを見る、お店で話をする、風邪にかかる、なんでもいいんだけど、世捨て人はいないってことだけは言い切れる。他者ってのをあなたが人間に固定していない限りは。
俺は人が好きだ。人と関わることが大好きで、延々くだらない話をお酒飲みながら(最近はハイボール、前までは発泡酒)ずーっとどうでもいいこと話していたいし、仕事でも私事でも相手の好きなところをずっと話していたい。もちろん、一乗寺の疎水が実はサイホン式じゃなくなったのけっこう前なんすよとかそういうなんの役にも立たないことも。
役にたつって死ぬほどくだらねえなって思い始めたのはいつくらいからだったんだろう。そもそも役に立つってなんなんだろうか。我らは、どういう家庭状況かに関わらず、今、楽しいかそうでないかに関わらずおしなべてすべて、「生まれてきたくて生まれたんじゃねえ」ということはもちろんそうだと思っていて、ここに反論ある人はいないと思ってるんだけれど、それはあってるかな?生まれてきたくて生まれて来た人いるなら、連絡くれる?
前提だけが先行していて、その中でじゃあ、選べって言われて、そんなのまじで無理ゲーだと思ってるのが40年近く生きてきた俺の結論だ。
いや、不惑とかそういうことついつい自分も言いたくなるけど、その不惑は諦めって言葉と何が違うのかな。俺にはまったくわからんよ。書き出しから全然話が変わってしまっている。申し訳ない。何を言いたいのかは俺も全然わからない。これから生きていく意味なんてみんな持たなくていいと思う。でももっと考えたい。どうしたら自分が心地よくなるのかとかを。
で、その前提になってしまっている、なぜかこの土地に生まれてしまったことよる、いや、土地もそうだし、どういう家庭環境に生まれてしまったかによってそもそも多くのことが決まってしまうのに、それに対して俺らが生きてる社会はあまりにも無慈悲じゃないか?働かざるもの食うべからず以前の話をしないとどうにもできないじゃない。
俺らは搾取されている。それは、国家というものがあるからだ。でも、国家を完全に否定できないのは、それがあることで社会的弱者(弱者という言葉はひどい差別用語なのでなるべくなら使いたくない、が、意味合い的にもそうだし通りやすさもあるので今は使う)を救えている側面もある。でもそれができないならそもそも国家なんて必要なくないか。今、それができているか?不勉強ですまないが、西欧国家が作り出しただろう、民主主義、資本主義が世界に行きわたった結果どうなってる?それが今目の前に広がっている景色なんじゃないのか?
答えはない。ごめん。でも、一番最初に持ち出した少年の覇気のない目のことを私は忘れられない。し、私は彼のことを助けられないし、助ける気もない。私はわたしのことで精一杯だ。
なんだよこの世界とずっと思うけど、何もできない自分の状況に反吐をもらしながらでも忘れねえとしか言えない。大きいことは言えないし、何もできることはない。
でも。忘れることは一番の悪だ。それ以上に悪なのは、善意のふりをしてこの世界中のことをつなげてしまったインターネットだ。知っちゃったら、無関係でいられないじゃないか。