はてなキーワード: 無趣味とは
意識高い系のやつらが「パンティーが趣味」って言いがちな感じがあったよね。
「日々忙しい仕事もパンティーで整えばまた頑張れます」みたいな、なんか「俺忙しい」アピールのやつ。
ブルセラとかじゃなくて昔ながらの銭湯とかの併設サウナとか郊外のスーパー銭湯にわざわざ行って
「俺オシャレだけじゃなくてこういう文化も良いと思っちゃうタイプみたいです」みたいなアピールするやつ。
なんかパンティーでイキタイとかみたいな、気の使ったデザインが多少入ったスキャンティーだのTバックだの履いてきて
あと、なんかTwitter見てたら微インフルエンサー崩れみたいな、
普段は頼まれもしないのにビジネスの心得とか名言とか呟いてる系のビジネスマンが
「パンティーってなんでレースがついてるんですかね?心を鎮めたいのに騒がしいとかありえない」
みたいなこと呟いてお追従リプで「僕もそう思ってました!」とか「ほんとそれです」とかついててさ、、
俺はそこでキレたね。
はあ?ブルセラってのはなあ、元々人生黄昏れてるオッサンの憩いであって
そんな高尚なもんじゃないんだよ。
家庭に給料運ぶ以外特に生きてる価値のない無趣味なオッサンとか、
墓に入るの待ってるなんにもやることないジジイとかのつかの間の憩いなわけ。
金も文化資本も持たないし、運動する体力もない俺らもう終わってるオジサンの
誇ることのできない、きたない汁を出すだけの怠惰な趣味なわけよ。
ブルセラ好きすぎて睾丸に負担かかりまくって結局亡くなってしまった西城秀樹さんのようなさ、
それがさ、ヨッピーとかも悪いんだけどさ、
現代ビジネスマンのセックスワークとかそういう今っぽい感じとかとサウナをくっつけてさ、
なんか一見意識高くない風に「意識高い」文化に持ってこうとしてる感じがマジでむかつくわけ。
一見意識高くない、っていうのが最近のサブカルチャー界隈の小賢しい偽装なんだけどさ。
陰キャだけどインフルエンサーになりたいなら堂々とそう振るまえよ。(これはヨッピーに言っているわけではない)
そういう細かいくだらないこと言い出した大衆文化はみんな衰退してくのよ。敷居が高くなってくからさ。
「パンティーにレースはいらない」とかさ、そりゃおめーの勝手だけど、レースのないパンティー履けよ。
ブルセラってのは、そういう猥雑で、わざわざ趣味とか言い出すような日の当たるものじゃなくて、
パンティー見終わったらビール一気に飲んじゃったりして、健康かどうかすらわからないような、
価値観の判断から離れた、日常生活の隙間に入ってくる、一人のゆたかな時間であるべきなのよ。
マジでむかつくわ。
意識高い系のやつらが「サウナが趣味」って言いがちな感じがあったよね。
「日々忙しい仕事もサウナで整えばまた頑張れます」みたいな、なんか「俺忙しい」アピールのやつ。
テルマー湯とかじゃなくて昔ながらの銭湯とかの併設サウナとか郊外のスーパー銭湯にわざわざ行って
「俺オシャレだけじゃなくてこういう文化も良いと思っちゃうタイプみたいです」みたいなアピールするやつ。
なんかサウナイキタイとかみたいな、気の使ったデザインが多少入ったサイトだのTシャツだのできて
あと、なんかTwitter見てたら微インフルエンサー崩れみたいな、
普段は頼まれもしないのにビジネスの心得とか名言とか呟いてる系のビジネスマンが
「サウナってなんでTVがついてるんですかね?心を鎮めたいのに騒がしいとかありえない」
みたいなこと呟いてお追従リプで「僕もそう思ってました!」とか「ほんとそれです」とかついててさ、、
俺はそこでキレたね。
はあ?サウナってのはなあ、元々人生黄昏れてるオッサンの憩いであって
そんな高尚なもんじゃないんだよ。
家庭に給料運ぶ以外特に生きてる価値のない無趣味なオッサンとか、
墓に入るの待ってるなんにもやることないジジイとかのつかの間の憩いなわけ。
金も文化資本も持たないし、運動する体力もない俺らもう終わってるオジサンの
誇ることのできない、きたない汗を毛穴から出すだけの怠惰な趣味なわけよ。
サウナ好きすぎて血管に負担かかりまくって結局亡くなってしまった西城秀樹さんのようなさ、
それがさ、ヨッピーとかも悪いんだけどさ、
現代ビジネスマンのノマドワークとかそういう今っぽい感じとかとサウナをくっつけてさ、
なんか一見意識高くない風に「意識高い」文化に持ってこうとしてる感じがマジでむかつくわけ。
一見意識高くない、っていうのが最近のサブカルチャー界隈の小賢しい偽装なんだけどさ。
陰キャだけどインフルエンサーになりたいなら堂々とそう振るまえよ。(これはヨッピーに言っているわけではない)
交互浴の正しい手順、とかさ、温度が、、とかさ、
そういう細かいくだらないこと言い出した大衆文化はみんな衰退してくのよ。敷居が高くなってくからさ。
「サウナにTVはいらない」とかさ、そりゃおめーの勝手だけど、TVないサウナいけよ。
サウナってのは、そういう猥雑で、わざわざ趣味とか言い出すような日の当たるものじゃなくて、
サウナ終わったらビール一気に飲んじゃったりして、健康かどうかすらわからないような、
価値観の判断から離れた、日常生活の隙間に入ってくる、一人のゆたかな時間であるべきなのよ。
マジでむかつくわ。
私は「軽度」のアルコール依存症です
「軽度」というのは自己診断です
日常生活に大きな支障はないけれど、飲酒をコントロールできず、将来的に日常生活にも支障が出る可能性があると考えてました
同じようにアルコールで悩んでいる人に少しでも役に立てれば、、と思います
先に書いておきますがアルコールで悩んでいる方は、一人で悩まずに病院へ行くことを強くお勧めします
飲酒量がコントロールできないので、缶ビール2本だけのつもりが、買い足して6本~10本に増えるのは日常
5連休なら5日間飲みっぱなし
良いことがあった! → お祝いに飲酒
といった感じで、日常生活の各種イベントが飲酒と結びついてました
こうやって書いてみると、ただの酒好きのおっさんレベルだったな、とも感じます
社会人になってからも、帰宅後に飲むことが習慣として続き、10年弱継続
なので、今も夜中に強い飲酒欲求に駆られて、部屋の中をウロウロしていることがあります
大学生時代はお金がなかったので、人からお金を借りたり、お酒をもらっていました
溜まり場になっている友人の部屋に勝手に入って、酒を持って帰ることもありました
狙い目は、飲み会で余った焼酎のボトルです(手つかずで残っていることが多い)
何もしたいことがないので、休日は一人で酒を飲んで無作為に時間を使う
(でも、これは言い訳だろうな)
若干、躁鬱病(双極性障害)っぽくて、鬱期は酒を飲んで現実逃避したくなる
etc...
なので、家にお酒を置かないようにしてみました
これは数年程度続いて、飲酒量を減らすことはできました
が、衝動的に飲みたくなると近所のコンビニでお酒を買ってしまうんですよね
自分は「軽度」のアルコール依存症だと考えていたので、病院に行く資格はないと考えていました
ですが、自分一人では飲酒をコントロールすることはできないことも事実でした
こんな私の話も病院の先生は真剣に話を聞いてくれて、1年半の間通院を続けています
それだけなのですが、誰かとアルコールの問題について共有して、立ち向かえるのは心強いことです
アルコールの問題は他人に相談しても理解してもらうことが難しいと思います
私がアルコールについて相談できる相手は恥ずかしながら先生だけです
先生が信頼できるような方だったのも、運が良かったかもしれません
アルコール依存所の一般的な治療法は薬物療法ですが、私は副作用で投薬を中止しています
これから治療する方は、薬物療法がお勧めですし、先生からも勧められると思います
主に使われる薬は抗酒剤という、服用することで下戸のようになる薬です
下戸になることだけが目的ではなく、毎日服用を続けることで、断酒への気持ちや意識を高めることもできます
私のアルコール問題の根本原因は、性格や生活習慣にあるとも考えてます
が、この辺りに中々手を付けることができずに、ズルズルと日々を過ごしています
この辺りは少しずつ考えるとして、一日一日、断酒を続けている自分を褒めながら日々を生きていきたいと思います
ギャンブル依存症と向き合えたので書き留めておく
https://anond.hatelabo.jp/20210515153411
また、日々を無作為に過ごしており、何でもよいからアウトプットしてみようと思い、この文章を書きました
普段はメールくらいしか書くことがないので、想像以上に難儀して、書き上げるのに2時間以上、掛かりました
最初はアルコール問題を抱えている『誰か』向けに文章を書くつもりでした
しかし、出来上がったのは自己分析のような、よくわからない駄文でした
どなたか文章の書き方について助言を頂けると、とても嬉しいです
怠けている訳ではないけど、定時内に終わらせなければとか、少しでも前倒しで仕事をやっておこう、みたいな気持ちが微塵もない人。
別に、残業代が主な目当てという訳でもない(それがかなり不可解である)。
総じて言えるのは、家に帰ってもすることがないのだろうなあ、無趣味なのだろうなということ。
こういうタイプがしている仕事は、生産性がめちゃくちゃ悪い。何年経っても効率化する工夫が全く生まれない。毎月毎月、手作業でなんかチマチマやってる。
子育てとか介護とかモンハンとかで、必ずこの時間に帰らなければいけないという強い動機を持った人、時間が有限な人っていうのは、職場にとって実はとても大切。彼らは仕事のペースメーカーになるし、一秒でも早く帰るため、必死でマクロを組んだり、必要ない会議を廃止したり色々する。
友達がいなくて終わってるなと思うこと
・コミュ障、話すことがない
日常的に話す人がいないのでコミュニケーション能力が向上しない。
あれこれ手を出してはみたけど友達がいないと張り合いがなく飽きて辞めてしまう。
うんち「休みの日なにしてたの?」
あたし「寝てました…。」
うんち「そっか。」
・出会いがない
神出鬼没の神ポケモン。
よく「外にでろ」ってゆわれるけど上に書いたようにやる事がない。
デートってどこに行くの?
何時に集合?何時に解散?
どんな事をしたら喜んでもらえるの?
セックスの仕方は?
・精神年齢が低い
友達がいる普通の人なら経験してきたを事を何も経験してないから精神年齢が低い。
経験値がとにかく足りない。
・卑屈になる
終わってるよね
https://ta-nishi.hatenablog.com/entry/2021/05/05/155031
読んだ。
非モテからの脱却に成功した私だったが、私の中には違和感が残った。「脱オタ」を達成するために私は興味も無いファッションや流行の遊びを勉強して大金をつぎ込み、夜の盛り場に繰り出しては女性に声をかけ、明るく陽気に振舞い女性たちを楽しませた。いかにも自分が「リア充」であり魅力的な男性であるかのように本来の「非モテ」な自分を偽り、女性たちを「騙した」のだ。
私にとっての「脱オタ」は、喩えるなら就活のようなものだった。就活では誰も「ありのままの自分」で勝負などしようとはしない。経歴を盛れるだけ盛り、時には詐称までし、自分がいかに企業にとって魅力的な「商品」なのか「偽りの自分」を作り出してアピールする。潔癖な人間ほどこの行為を「悪」と感じるだろう。くだらない茶番であり、騙し合いだと感じるだろう。しかしこの「悪」に染まらなくては、就活という戦争を勝ち抜くことはできないのだ。
正直ここに関しては、筆者と同じオタク男性の私としてやや違和感を覚える。
無趣味の一般人男性であれば、上記のような「偽りの自分」を演じて女性の興味を惹く必要があるが、オタク男性であれば、一般人男性が持ってない「自分がオタク趣味として専攻する分野の知識・スキル」を女性の興味を惹くことに充分活用できるからだ。
そのおかげで、オタク男性は一般人男性と比べれば「偽りの自分」を作る割合はかなりの程度軽減される。いわゆる「オタク婚」と言われるようなものも、それを充分活かした結果得られる果実と言えるだろう。
私の場合、現在の彼女は、twitterでの相互フォローを通した同人イベントでの出会いをきっかけとして交際がスタートしたので、「オタク婚」の範疇に当たるだろう。(結婚にはまだ至っていないので厳密にはオタク「婚」ではないが)
私は現在の彼女と交際関係に至る道程で、「偽りの自分」を作り演じたようなことはほぼしていない。素の自分、ありのままの自分で女性と接して彼女を作れたことになる。
私と彼女は、「同じ作品を愛する同志」「同じキャラを推す同志」「推しキャラの理想の姿を描き同人誌として発表する同志」という強い紐帯で結ばれており、異性としての関係以前に「同じオタクとしての戦友」という意識が強かったことが、性差を乗り越えた信頼関係構築に一気に至り、後にそれが互いを良い異性として捉える契機へと繋がったのだと思う。
私と彼女の繋がりに「イケてるファッション」や「流行の夜の遊び」というような「偽りの自分」的要素は一切含まれない。我々の間にあるのは、「推しのために共に戦えるオタク」という強い信頼感だけだ。そこに自分を偽る余地はなく、むしろ素の自分をさらけ出した方がより推しキャラについて熱く語れる・描けるという意味で、オタク活動を通して彼女を作るのならば自分を偽るのは不利にすらなると言える。
自らが弱者男性であるという自覚のあるオタク男性は、自分に不向きの脱オタ活動を経て無理に一般女性の彼女を作るのではなく、自分が現在取り組んでいるオタク趣味を通して出会える女性を彼女として迎えることができるよう活動してみてはどうだろうか。
子供を産む/産まないで長年付き合った恋人と別れた、産みたくない方の話。
結論、マッチングアプリで良い相手は見つかりそうにない。なぜ無理なのかという話。
女性/ 29/ 首都圏在住/ 在宅勤務/ 年収600万/ 外見は武器にも足枷にもならない程度(だと思いたい)
「本と映画が好きです」系インドア無趣味。子供を望まない人にはなにかしら変わったところがあると思っていて、私のそれは多分欲求のなさ。
むかし書いた「無趣味」というエントリ(https://anond.hatelabo.jp/20180704200955#tb)を見返して、ああ無理だと思った。
...この条件を満たす人はPairs上に70人。アクティブじゃない人(プロフに休会中と書いている人やほとんど何も書いていない人)を除き、自分が相手の好みでなさそうなケース(私はお酒が飲めない、食べ物とスポーツに興味がない、旅行が苦手)を除き、理解できない自意識を持つ人(気取りすぎ/気にしなさすぎの写真とか、文字での表現の仕方とか)を除き、気づく、ああ私別に、この残った人たちの誰のことも好きじゃない。彼らだって別に私のこと好きじゃない。話して、共通点を見つけて、沈黙を分け合えるように支えあえるようになるかもしれないけど、そこにはなにもないなと。無理だ。
作品を公開したらちょっと有名になり、いくつかのゲーム企業からウチに来ないかとオファーも貰った。
でも結局それらは全部断って、全然関係のない業界に俺は就職した。
俺が作りたいのは「自分の作品」であって、自分の作りたいものと異なるゲームを仕事で作るのは耐え難いと思ったからだ。
今なら起業して作るという選択肢もあるかもしれないが、当時はちょっとそれは考えられなかった。
だから俺は、ゲーム作りは今後も趣味として続けることにして、仕事は余暇時間重視で選んだ。
そして20年近くが過ぎた。
働きながらも10年以上はゲーム作りに情熱を燃やしていたが、様々なことに忙殺されて、今やその情熱は枯れ果てた。
他に大した趣味もなかった俺は、ただの無趣味の人間になってしまった。
ふと、あの時オファーを断っていなかったらどういう人生になっただろうかと思うことはある。
生活保護に関する訴訟がTwitterトレンド入りして気付いたことを共有する。
https://twitter.com/YOL_national/status/1376407559347789828
この読売のツイートへの生活保護バッシング(現金給付やめろ、強制労働させろ、収容所に隔離しろ、といったもの)をしているアカウントを見て、ざっと見た印象を記号化してみた。
ソシャゲオタ
さらに、とても鬱屈している、怒っている、攻撃的、といった傾向があるアカウントがほとんどだった。
「生活保護バッシングを行っている層」は確実にある。けれどもそこには大きな偏りがあるといえる。もちろん見ている場所にもよるけど。(Twitterは偏っている。)
日本人全体がこう思っているわけではないはず。もしそう見えたなら、声の大きいところに引っ張られて同調しているだけかもしれない。
障害があったり何らかの事情で働けないから生活保護を受けている人へ。
あなたたちに支給され使っているであろうお金は確実に政府のよくわからない政策よりは社会を回している。生きていていい。それが権利として保障されているのだ。可能なら社会復帰すればいい。できることからやっていけばいい。社会復帰は義務ではないと個人的に思う。とても生きづらい時代だから。
無趣味であること、自尊心の低さ、依存しやすさがあるのではないか。自分をあきらめないでほしい。人間は何歳になっても成長できるはずだ。
一番仲良しな親友(だと私は思ってる)が、ジャニーズのとあるグループにはまっている
昔からジャニオタではあったけど、今回のは完全に沼って感じ、ガチだなと思う
前は私も布教されて一緒になってとあるグループにはまってたこともあったんだけど、私はどうもジャニーズにそこまでのめり込めなくて、今回は友達もガチなので本当についていけなくなってしまって、向こうも察したのかあまりその話を振ってこなくなって、ちょっとさみしい
まあでもその友達に関して仲良しだし大好きなのは変わらないからそこはいいんだけど、
私はジャニーズに限らず、アイドル/バンド/アニメなどなにかの追っかけ・オタクになれないたちで、最近そのことに割と本気で悩んでる
これから大人になってったら学生みたいにプライベートな話をなんでもかんでも共有するってわけにいかないだろうし、やっぱり趣味の話が合う友達の方が居心地がいいんじゃないかと思う
狭いコミュニティ内で自分にその気のない相手から好意をもらうのも面倒だし、逆に自分が誰かにそういう余計な面倒を与えるのも申し訳ないし。
誰かと両想いになれて上がりになる結婚最高。そこで子供ができるとまたいろいろ大変ではあるんだけど、無趣味なので子供ができたことも本当によかった。親にならなければ何のために生きているのかわからない状態になっていただろう。
結婚指輪って最近は買わない人もいるみたいよね。時計を贈り合うとか。
「俺は既婚者だからそういう目で見んなよ!」っていう証になるじゃん。
君に優しくするのに別に下心はないのよだって既婚者だから、っていうのを示せるし、逆に優しくされても変な期待も持たないし。
人間関係が素晴らしく円滑になる。
挑発的ってのは「性的に誘ってる」って意味じゃなくて「ガキの喧嘩みたいなノリで煽ってくる」「ウザ絡みしてくる」って意味な。ポスターの台詞も「注射が怖いんすか~?」だったけど、どう考えても性的な意味での挑発ではないよね。あれを性的な意味での挑発だと読解する人は認知が歪みすぎてるだろ。
2020-02-04
■オタクは自称オタクに迷惑してます↓
2019-11-03
↓
2019-11-03
下手につつくと厄介だからと遠巻きにされてる感じ
2019-11-03
やれ反対運動しようとか言い出してるオタクがネット上に沢山いたんだけど
2ch同人板に「非実在青少年で騒いでいるオタクがウザい」的な愚痴スレが出来て
「オタク友人がそれに被れて騒ぎ出して付き合うのが辛い」「オタク友人に反対運動の署名しろとか言われた、勘弁してくれ」
「自サイトの掲示板にあの手のまとめとか貼り付ける奴が出たから削除してアク禁したわ」とか
そういう書き込みが沢山あったのを思い出した
実際普段からまともで落ち着いている人ほど、そういうのとは一切関わってなかったしな
勿論直接の知り合いも皆そう
↓
2019-11-03
マジでこいつらなんなのかって思うけど
帰属意識が欲しいんだろうな
こんな厄介なの受け入れる先はないと思うけど
↓
2019-11-03
元々おかしくて他人と付き合えない人が「オタク」と言う看板を手に入れて帰属意識持てた気がしてるだけなんだよな
なお煽り顔について
何度も書いとるけどウザ可愛いのジャンルの筆頭キャラやぞ>宇崎ちゃん
全部有名ジャンルですやん、わかっててやってそうだけど
特定カルチャーの中でよく使われる公的な場に相応しくない言い方をすれば、
メスガキとオスガキをわからせですね
けっこう楽しそうだなと思うけど無趣味だたのかな。
そろそろオタク歴6年になる。入学当初は、まさか自分がオタクになるとは思っていなかった。
中学高校時代は無趣味に近く、周りが「これ面白いよー」というものを
漫画、ドラマ、映画にかかわらずつまんでそれなりにハマっていたくらいだった。
今思い返せば周りにかなりの数の腐女子や二次オタがおり、近しい友人もオタクだった。常に布教されているような環境だったが、
彼女たちのすすめるものがいまいち私の好みに合わず、深夜アニメって独特だなくらいにしか思わなかった。
今思えば、オタクになったきっかけは、大学受験に失敗して、長年入学したかった大学に入れなかったことだった。
私の家は厳しく、中学に入学するまでは夜8時以降のテレビは禁止、中高時代はネットにもアクセスできなかった。
それが当たり前だったのであまり辛いと思ったことはなかったが、本当に世間知らずのまま育っていたことは確かだ。
それでも、行きたい大学があったから我慢できていたのだと思う。
しかし高校卒業後、家の事情で浪人が出来ず、かなりの年月あこがれてきた大学に届かなかったことで気持ちが完全に切れてしまい、
特にやりたいこともなかったので、抜け殻のような生活になってしまった。鬱の一歩手前の状態だった。
分不相応な私立に中学から入ってしまい、必死の競争に疲れ切っていたことも理由の一つだったように思う。
本当は新歓に出席してコミュニティーを広げたりバイトを始めたりしなくてはならないと思ってはいたが、
人と話すのも面倒になるほど気力がなくなってしまい、
何とか授業にだけは出席し、帰宅する日々が続いた。
大学後期になるとさらに授業が少なくなり、完全に廃人となった。
このころになるとさすがに勉強だけはする気力が湧いてきたので
空き時間は英語検定の勉強をして過ごしていたが、それでもかなり暇だった。
ほぼ見る専用に作っていたツイッターのフォロワーのアイコンが突然、とあるアニメ作品のイラストに変化していたのに気づいた。
調べてみると最近爆発的に人気となった作品のようで、ネットで落ちていた動画を拾ってみたところかなり面白かった。
いつの間にか放送分すべて視聴していて、あたりは真っ暗になっていた。
分割2クールだったので、年明け後からすべてリアルタイムで視聴した。
ツイッターはそれ専用のアカウントになり、気づけば連日連夜解釈をつぶやきまくるヤバいオタクになっていた。
初めてイベントに行き、フォロワーに会い、グッツを集め、痛バを作った。
交換や整理券取得のため、寒空の下を何時間も待ったこともあった。
今思えば、私は長年の目標が消えたことで、すべてに対してどうでもよいという気持ちが先行していた。
けれど、その気持ちと同じくらい、何かにハマりたい、熱くなれるものが欲しいという思いはどこかにあったのだ。
それともう一つ、作品の名前を出すつもりはないが、私はあの作品にとても救われた。
今まで、良い大学に行くことだけがすべてだと思っていた私にとって、
卑屈な心を救い上げてシュールな笑いに変えてくれるあの作品は見ていてとても気持ちが楽になった。
高校時代の友人から進学先をバカにされた辛さや、何も気力が湧かなくなった自分を何とか奮い立たせようと頑張っていた気持ちが、いい意味で切れたのだ。
私はその時、少し休みたいという自分の心にようやく向き合うことが出来た。
勿論、キャンパスを歩いていて一発でオタクだと思われる女子学生はいなかった。
在学中の4年間でたくさんの沼にハマりつつ、ぼっちで淡々と単位と専門系の資格を取り、卒業した。
ぼっちの弊害はやはりあり、新卒でブラック企業に入ってしまったのでかなり神経をやられた。
◎前置き
X日後に死ぬことが分かっているとしたら、僕は残された日々をどう過ごすだろうか。
いくつかの仮定を置いたうえで思いついたことを書き連ねてみる。
・X日後に死ぬことは確実であり、僕はその事実を受け入れている
この前提がなければ、僕は何とか生き延びる手段を探すだけで、残りの時間を使い切ってしまうかもしれない。
何か災害や天変地異で多くの人が死ぬわけではないということだ。僕以外の人々や環境は、僕の死以外は何一つ変わらず日々が続く。そのため、他の人を救うために時間を費やす必要もない。
この2つの前提を置くことで、僕は残りの時間を純粋に自分が満足するためだけに使うと想定する。
◎1日後に死ぬ僕
平日なら、仕事を休まなくてはならない。仮に大事な仕事があったとしても、何かと理由をつけて休むだろう。残念ながら、僕にとって今の仕事は、24時間しか残されていない状況で時間を割くには及ばない。事情を説明して別れを惜しむほど、会社の面々とは親しくない。みな僕の死を知ったら驚くだろうと思いながら、事務的に部長に有休申請を行うまでだ。
明日死ぬと思って毎日を生きよう、そんな格言を聞いたことがある。そう思うことで、本当に望むことに取り組むことができるという意味だそうだ。しかし、本当に1日しか残っていないとしたら?できることはあまりに少ない。選択肢はとてつもなく刹那的になってしまいそうだ。僕には好きな友人や家族はいるが、特別日々を一緒に過ごす類のパートナーはいない。仮に恋人や妻がいれば、最後の1日を普通に過ごして見送ってもらうだけで終わるかもしれない。だが、そんな相手はいない以上、個人的に満足に過ごす方法を考える必要がある。
僕はきっと24時間を一人で過ごすだろう。もうすぐ死ぬことが分かったうえで、友人を呼びつけて一緒に過ごしてもらう気まずさには耐えられそうにない。両親との関係は悪くないが、この状況では会うには気が引ける。そんなことができる距離感の相手なんて、それこそ恋人か妻か子供ぐらいしかいないのではないか。残念ながらそんな相手はいない。誰かに電話くらいはするかもしれない。でも、友人には普段電話などしないので、何か問題ごとでもあるのかと勘繰られてしまいそうだ。何かの用事にかこつけて、母親の声でも聞ければそれで十分だろう。
最後の1日を刹那的な快楽のために使うか、何か意味のあることに使うか、悩むところだ。刹那的な快楽を得るならば、とにかく美味しいものを食べるとか、綺麗な景色を見るとか、性欲を満たすとか、そんな過ごし方になるだろう。できるなら最後の食事は美味しいものが食べたい、でも一人で食べるなら何でも一緒に感じてしまう気もする。そもそも残り時間を考えれば、栄養にもならない食事に時間と労力を割くのはもったいない。食事に限らず、もう何も思い残すことがないと思えるほどの快楽なんてあるのだろうか?どんなに刹那的な快楽を満たしたとしても、最期の1分1秒には、どこか虚しい気持ちになってしまうのでは?
そうだとしたら、死ぬ瞬間に満たされた気分になる1日の使い方とはなんだろうか。やはり「善いことをした」「この世界に良い影響を残した」と思うことで、自らの人生を肯定できるようになることではないか。残念ながら、僕が仮にこの文章を書いている今この瞬間に死ぬとして、僕は何かこの世界のために役に立ったのかと問われると、自信をもってイエスとは言えない。たいして他人に迷惑をかけずに生きているという自負はある。しかし、周囲との干渉が少ない故、特別人助けをしているわけでもない。仕事だって、給料に見合う働きを提供するだけの等価交換で、社会に対してプラスを与えている気はしない。そんな認識を塗り替えるようなことが、24時間で成し遂げられるだろうか?
一つ、すぐに取り組めそうで最も「自分が」やる意義がありそうなことは、近しい友人たちに手紙を書くことだ。僕は29歳で、同年代の友人たちの多くは、若くして死ぬということに実感がないと思う。僕自身もそんな実感はない。そんな友人たちに向けて、身近にいる人間として、心を込めたメッセージを残せば、きっと彼らは限られた生を実感して、より有意義に過ごしてくれるのではないか。そう思いながら昇天するのは悪くない気がする。
一応、死因は自殺ではないことが皆に分かるように手配しておきたい。僕の世代の死因に占める割合は自殺が多いはずなので、事情を知らない人には勘違いされる可能性もある。僕自身はこの際どう思われても構わないが、勘違いのせいで周りの人が嫌な思いをしてしまう事態は避けたい。
◎1か月後に死ぬ僕
1か月は新しいことを始めるには短いが、1か月はちょっと長い。休まず有意義に使い切ろうとしたら息が詰まりそうだ。それでも、1日でも労働に費やすのは惜しいと思ってしまう。やっぱり仕事は無理やり辞めるしかない。お金が必要でないのなら、働かないに越したことはない。そもそも現状で何故僕は、嫌だと感じている労働に多くの時間を割いているのだろうか。
別に誰かに命令されるわけでもなく、僕は自分の意志で一挙一動を選択してきたはずだ。その積み重ねで生きてきたはずなのに、何故不本意な結果となっているのだろうか。僕は必要に駆られて働いているのであって、労働から精神的な充実を得られると期待するのが筋違いなのかもしれない。とはいえ、身の回りを見渡してみれば、仕事を楽しんでいる人はそれなりにいる。今の職場に就職した理由に思いをはせると、僕は仕事の内容や会社の状況について多くの誤解をしていた。さらに言えば、自らが求めているものもよく理解できていなかった。分からないものが多すぎたので、正しい選択ができていなかったのだ。そして、今も自分が求めているものはよくわからない。
1か月もあるのなら、できるだけ面倒を残さないように、いろいろな手続きを済ませておきたい。仕事を辞めて、部屋を片付けて、もろもろのサービスを解約しておけば、あとに残された人も困らない。ついでに恥ずかしい日記を処分しておこう。あと、年に1度ぐらいしか帰省はしていなかったが、顔ぐらいは見せておこうと思う。
口座に200万円はある。これを一体何に使えばいいだろう?1週間で使い切るとすれば、なかなかの贅沢ができる。どうせならぱーっと使ってしまいたい。僕の貯金は社会に影響を与えるには雀の涙すぎるし、このお金を寄付するほどの聖人ではない。それに、個人的に残してあげたい相手がいるわけでもない。しいて言えば、会社勤めをしながらイラストレーターの夢を追う弟にはちょっと残してあげてもいいだろう。全部残すと重たいし、あぶく銭は彼のためにもならないかもしれない。残高を気にせずに、旅行したり、いいものを食べたりして、残った分は弟に渡すくらいでちょうどいいかもしれない。
僕はかねてから死ぬ前に一度バンジージャンプに挑戦してみたいと思っていたが、1か月のうちの半日ほどを費やすに値するほどではなさそうだ。リストに入れるべき項目は、手紙を書くよりは重要でなくて、バンジージャンプよりは重要なことにしよう。残り1か月があるなら、無理を言ってでも友人たちに会って、直接思うことを伝えることができる。
そういえば、残り24時間しかない場合を考えているときは、お金のことには思い至らなかった。僕にとってお金は最優先事項ではないのかもしれない。ある程度長い期間生きるとして、なくてはならないものであって、それ以上のものではないのだろう。少なくとも、残されたお金の使い道を考えながら死にたくないとは思う。
◎1年後に死ぬ僕
1年残っているなら、少しはきれいに仕事を辞めてもいいかもしれない。2週間ぐらいは引き継ぎに費やしてもいいし、そのほうが残りの1年間をすっきりした気持ちで過ごせるだろう。残りの期間で仕事の関係者に出くわす可能性が上がるので、あまり気まずい思いをせずに済ませたい。これくらいの長さがあると、「将来のために今は多少我慢をする」といった発想が生じてくる。
きっと、仕事を辞めた理由を誰もに聞かれるに違いない。親しい人たちには正直に話すほうが良さそうだ。残り1週間ならともかく、1年間あれば段階的に別れを受け入れることができる。何度か会ったとしても、そう重苦しい雰囲気にならずに済みそうだ。でも、どうやって伝えたらいいのか分からないし、伝える瞬間の気まずさに耐えられなさそうだ。Twitterにでも書き込もうか。
貯金を取り崩すだけでも、何とかやりくりして生きていけるだろう。まず、会社に行かなくていいなら、家賃はできる限り節約しよう。決して余裕があるわけではないので、計画を立てて、慎重にお金を使っていくことになるだろう。食事だってそんなに贅沢はできない。それでも、僕にとってはお金よりも時間のほうが大切であって、贅沢をするためにより長く働こうという発想にはならない。
1年もあるならば、全く新しいことを始めたとしても、何かを成し遂げられる気がする。果たして僕は特別に何か成し遂げたいことがあるのか?と考え始める。そして、今までの日常の延長線上でしか考えられないことに気づく。思うに僕は無趣味なのだ、無趣味な故、急に働かなくてよくなったら、何をして過ごしたらいいのかわからなくなる。働きながらだって休みはあったけれども、寝て体力を回復したり、家事をしたり、友達と遊んだり、ランニングしたり、漫画やアニメをダラダラと見たりしていたらあっという間に時が過ぎた。漫画やアニメを見るのは好きだが、あと1年で死ぬとしてずっとそれに時間を費やしたいとはあまり思いつかない。それはリラックスを兼ねた娯楽であり、積極的に取り組んでいるというよりは、消去法的な時間の過ごし方だった。
もともと、人生を捧げられるような対象が欲しいと思っていた。しかし、そんなものは見つからず、とにかく生活のために労働し、疲労と惰性で考え事をするのもままならず、暇な時間ができたら途方に暮れる有り様だ。そんな対象がなくても、愛すべき人がいて、その人と過ごすだけで楽しく満ち足りた日々になるなら、それまた幸福だ。しかし、1年しか残されていないのが分かっていながら、新しく親密な関係の相手を探すのは残酷めいている。残される相手のことを考えると、残り1年で愛すべきことを見つけるなんてハナから期待すべきでない。
愛する人もいないし、やりたいこともない。そんな自分の現状は不甲斐ないが、ないものはないので仕方ない。とにかく何がしたいのか考えてみよう。かといって急に机に向かって考え始めたからといって、何か思いつくわけではない。12か月もあるのだから、1か月ぐらいは思い切って、考えるために時間を使ったっていいではないか。いったん、何もかも放り出して、どこか海沿いの旅館にでもこもって何をしたらいいか考えることにしよう。それ以上のことは今は思いつかない。
10年間生きるならば、すぐに仕事を辞めるわけにはいかない。自分がやりたいこととは別に、生活費を稼いでいくということを主軸に据える必要がある。仕事をどうすべきか、という問題に正面から向き合わなくてはならない。この問題については、大きく二つの方向性を考えることができる。一つは、多忙でもハードでも、とにかく給料の高い仕事に転職してお金を稼いで、一日でも早く仕事を辞めようとすること。もう一つは、仕事をしている時間を無駄と感じずに済むくらい、意義のあるものにすることだ。残念ながら、現状の仕事はどちらにも当てはまらず、ただ金を稼ぐため、辞めて履歴書に傷をつけないために惰性でぶら下がっている状態だ。よって、残り10年間を前提とするならば、すぐにでも転職活動をして、より有意義な時間を過ごせるようにしたい。
例えばかなり無理をして、3-5年間ハードな場所で働いて、残りは働かずに暮らせるのなら、悪くはない。この選択肢は、どう転んでも仕事をすることは苦痛なので、とにかく短期間で済ませるという考え方に基づく。貴重な10年間のうち多くの時間を割くに値するような労働はあるのだろうか?そんなものが見つかりさえするのなら、すぐにでも飛びつきたい。そもそも、そんな仕事があれば、残り10年とか関係なくやってみるべきなのではないか。
10年あれば、適当な理由をつけて別れることを前提に、恋人を作ってもそこまで罪深くはないだろう。すべてを語るような深い関係にはならないかもしれないが、一人で過ごすよりは日々に彩りが生まれそうだ。それとも、ふとした瞬間に虚しい気持ちになるだろうか?
◎30年後に死ぬ僕
10年ではなしえず、30年かけてしかできないものというのはそう多くはないはずだ。仮に僕が職人か何かで、同じことを一筋やり続けるのであれば、その時間の差は歴然となって現れるのだろうか。そんなことを考えると、今すぐ何かの道に入門して、極めてみたいものだという気持ちが湧くが、僕は飽きやすい人間であることをすぐに思い出す。僕はタイムマシンがあればすぐに30年後に行って、知識と経験の蓄積による果実を得たいと思う怠惰な人間だ。その蓄積の過程自体を楽しみ、こなしていくことができるなら、とっくに僕は何かを身に着けているはずなのだ。
残念ながら職人道を極めることはできなさそうだが、それでも少なくとも2つほどは新たな可能性が思いつく。まず、結婚して子どもを育てることが選択肢に入る、30年あれば、子どもが成人するまで面倒をみることができる。そして、家を買うかどうかも真剣に検討する必要がある。
僕は子どもが欲しいのだろうか?正直、残りの人生の期間について考えなければ、そんなことをまじめに自分に問う機会もなかった気がする。具体的に結婚するような相手ができて初めて、欲しいかどうかを考えればよいと思ったのだ。しかし、成人するまでは面倒を見ておきたいという条件を付ければ、残された時間は結構短い。相手ができたとして、すぐに子どもができるかどうかだってわからないのだから、30年のうちの最初の5年くらいで、一連の仕込みを済ませておく必要があるだろう。そのような前提を置くと、恋愛や結婚は残り時間から逆算したうえで、極めて計画的で無駄のないプロセスで行う必要がある。そう考えると窮屈に思えてきたが、女性であれば出産できる年齢が限られている故、同じような考えを持つのだろうか。一通り考えを巡らせたところで、そもそも子どもが欲しいかどうかすら分からないことに気づく。別に、残りの30年を考えたうえでそれが最優先事項というわけでは無ければ、窮屈な思いをしてまで計画的に「仕込み」を行っていく理由もない。
30年もあると考えると、途端に今すぐには現状を変えなくても良いかという思いが芽生えてくる。僕は現状の生活に満足しているわけではない。それなのに、変えなくてよいと思うのはなぜだろうか?変化にはきっかけとエネルギーが必要なのかもしれない。そこそこのストレスや孤独があるにせよ、安定しており、ある種の均衡状態となっている僕の生活を変えるには、何らかの外的なショックが必要なのだろう。
◎53年後に死ぬ僕
今29歳の僕は、52年後に日本人の平均余命といわれる81歳になる。すなわち、52年後くらいに死ぬという前提は蓋然性が高く、それをもとに人生の計画を立てることはひとつ筋が通っている。しかし、正直なところ、年老いた自分がどう過ごすかなんて、今から計画を立てるのは馬鹿げている。そこに至るまでの不確定要素が多すぎる。
とはいえ、一つ考えるに値することは、日本にずっと住み続ける前提で人生を考えるか?ということだ。何せ、この時期までに日本の人口は2-3割くらい減る推計になっている。今だって、社会保険料と所得税と消費税が大きな負担になっているが、今後ますますその負担が増えることは間違いない。5-10年先の未来だけ気にすればよいのなら、別に自分にとっての影響は大きくない。でも、より長い期間を考えると、例えばまともに医療が受けられなくなったり、預金が没収されたりするリスクだってあるかもしれない。少なくとも、今現在の高齢者が受け取っているのと同等の価値の年金をもらうことは全く期待できない。
僕は家族や友人たちがたくさん住んでいて、最高のアニメや漫画を生み出す日本が大好きなので、できることなら日本に住み続けたい。しかし、生活があまりに苦しくなるようなら、泣く泣く国を離れるというのは、世界中のどこにでもある話だ。かといって今すぐに海外に移住することが賢明というわけではない。とにかく英語くらいはできるようになっておき、いざとなればよその国でも食べていけるような能力は身に着けておく、それくらいの「投資」は残り53年くらい生きるなら、多少今を犠牲にしてでもやっておいたら老後の安心に繋がるかと思う。
◎あとがき
現在僕は、感染症が広がり外に出られない状況で、友人と会う機会も減り、社会とのつながりが徐々に切れていく感覚を味わっている。もともと、仕事に追われて、生活のために生きているような感覚を覚えていたが、そこから抜け出すことを難しく感じていた。一日中家で仕事をして、終わっても何もしたいと思えることがない。あまりに空虚な自分の生活に一種の絶望を感じている。
そんな中いつものようにTwitterを目的もなく眺めて時間をつぶしていると、「友人は少なくていい、3か月後に死ぬとしたら一緒に過ごしたいと思えるような相手さえいれば十分」というような記事にたどり着いた。そこから着想を得てふと自分の生活を振り返ってみると、3か月後に自分が死ぬのならやらないであろうことであふれていた。短い間に自分が死ぬことを考え出すと、僕は気が楽になった。これは僕自身にとってのセラピーになった。ある種のミニマリズムや断捨離に近い感覚で、「3か月後に死ぬのであれば不要」と思えることを生活から切り捨ててみる。例えば僕はいつか読んでおこうと思っていた大量の本をその基準に従って捨てた。すると、僕の人生は前よりも少し方向性が定まったように感じたのだ。
とはいえ、それと同時に、自分の空虚さを改めて実感するきっかけにもなった。自分の寿命の想定をどんどん伸ばしていくほどに、可能性は広がっていくはずなのにやってみたいと思うことが思いつかないのだ。まるで、遠方ほど霧が濃くなっていくような感覚だ。この問題は僕が、「いつかは役に立つだろう」と思われる仕事や資格の勉強に時間を費やしがちだったことと関係があるかもしれない。その時々に自らの欲求に耳を研ぎ澄ませてこないできたら、欲求をとらえることができなくなってしまっていた。
平均寿命から想定して、老後の安心や家庭を持つ可能性なども考慮した貯金やらライフプランとやらをある程度は考えなくてはならない。それでも、僕のようなタイプの人間は、3か月後に死ぬというぐらい過激な想定をしてでも、素直に最もやりたいと思えるようなことを考えていくべきでは、というのが今のところの結論だ。
僕の文章は思いつきを並べただけでまとまりのないものになってしまったが、もっと多くの人にこの思考実験をやってもらって、その結果を読んでみたいと思う。ぜひこれを読んだあなたも試しに3か月後に死ぬとしたら何をするか考えて、記事を上げてみてほしい。