はてなキーワード: 本質とは
弱者男性とか性的搾取とかは割合新しめの言葉であると記憶しているのだが、このあたりの増田で議論がさかんな単語は発信源がよくわからないところか、活動家発信だったと思う
弱者男性については「低収入」「非モテ」…と一応関連はあるが括って議論するには厳しいものが一緒にされてしまったもんだから、各事項個別に解決していこうという議論がどんどんなくなっていった(高収入非モテ男性による一般~低収入非モテ男性からの弱者性簒奪とかあったし)
文章書いてて単語を新しく定義したいというときは、ふつう定義する範囲とか意味をかなり考え込むものなんだが、あえて雑に括ることで既存の概念などをうやむやにしたり濡れ衣を着せることで得をする人がいるよなと考えている
(というかこれの議論のせいでストレスを蓄積しているなら増田とXをやめなければいけないのだが、放置したらしたで現実の居場所も奪われるのでそうもいかない)
基本的には2ちゃんねるから「おまいら」や「無意味なAA」を引いたものが増田語の軸となっている
それに加えてなんJにおける猛虎弁、恒心教がよく使う淫夢語録と同じ立ち位置にあるのが、猿渡哲也の漫画『TOUGH』からなるタフ語録が現在の増田語のもう1つの軸とも言える
やべーやつに番付入りしたフレーズとして知られるものも多いが、そのほとんどはイニシエの2ちゃんねるでも見られた「どうでもいい返答をして終わらせるクソレス」と本質は変わらない
以下はよく使われるフレーズである(今後増える可能性しかない)
たまにぽまいらと言ったり、ロックマンエグゼのウラインターネットみたいな語尾などの増田も居るので、そこまで気にしなくても良いと考えても良い
しかしこれらを使いこなすと少なくとも個人による番付入りするリスクは多少は減ると思ってよい
(そもそも個人による番付入りは、その個人がマジでやべーやつだからこそ番付入りするのであって、複数の増田が使うフレーズ系はそういうのとは違う)
なお言及に「これが増田文化ではない、捏造するな」とあるが、そいつが正しい文化を伝えないのもまた増田語における特徴と言えるかもしれない
https://shonenjumpplus.com/episode/14079602755425726897
はてブにしろジャンプラにしろ、読者の感想では、リアリティが無いだの漫画だろ楽しめよだの、ちょっと揉めてたりして。
最初は自分も細かい設定の粗を突っ込みたくなったけど、読み返すと、この漫画への突っ込み欲求はそれ以上に、本質的な主人公の人物像の気持ち悪さに起因しているのだと思った。
長期間不死で虚無的になった人物が有限な生を持つ人間とのふれあいで変わる、というのは割と使いまわされたプロットだ。
この漫画が変わってるのはそこからで、彼女と長年共に過ごしてそして彼女が死んでも特に主人公は変わらない。(主人公が既に3000年生きてきたならともかく、350年のうち50年は短い期間ではないだろう)
数百年ぶりに温かい言葉をかけてもらっても、自分を描いた小説を読んでほしいと言われて喧嘩しても、主人公はゲームやろうぜとしか言わない。
死んだ時も涙も流さないし、彼女が一生をかけて書いた全50巻の原稿を書斎で見ても、片づけるの面倒だ、もっとゲームしろよとしか言わない。
彼が変わるのは、娯楽を探している時に街中で小説がベストセラー化しているのを見るのがきっかけだ。
それまで数百年にわたり他人や社会を拒んでいた主人公は、"売れている"・”売れているなら面白いだろう”という極めて当時代的な価値観を突如受け入れて、それを以て急激に変貌する。
字も数も読まず他者とろくに交流しなかった主人公が、ベストセラーになってるのを見ると急にそれまでの生きざまを翻してしまう。
彼女の思いよりも、過去300年の生涯で築かれた自分の人格よりも、世間で売れていることの方が主人公にとって重要な事実だったということだ。
彼女が死んだ後にうず高く積まれた原稿を見て、そのまま書斎で読みだし自分と彼女を顧みるなら、ツッコミはあったろうがここまでは多くはなかったのではと思ってしまう。
彼女の視点を仮定すると、自分の生涯を費やした作品でありあれだけ言葉を尽くして読んでほしいと願った作品なのに読んでもらえず、世間で売れてるからって理由で初めて読んでもらって嬉しいのかとも思ってしまう。
不死の人物と有限な人間のふれあいで変わるというありふれたプロットは、最初の数ページで読み手も暗黙のうちにある程度展開が予想できるし、一定の像を期待して読み進む。
読み手もこなれていて、このような設定にハイコンテクストな昨今では、世代を超える不死といえば世俗的な死生観・倫理観・社会観を越えたものを過去の経験から纏っているのだろうと読者は(勝手に)補完する。
しかし、多くの作品に比べるとこの作品の主人公の変貌のあり方はあまりに収まりが悪い。
そしてもう一つ、主人公の元々の人物造形は極めて幼児的だ。彼女が生涯をかけた創作には50年に渡り目もむけず、彼女が亡くなっても動じず、ゲーム・ボウリング・カラオケ…出てくる言葉は相変わらずこれらばかりだ。
不死ゆえの虚無性や刹那主義もあろうし、誰しも大人になっても怠惰に流れることはあるが、共感を普遍的に得られる人物像ではない。
後半生は変わるし、本来はそこにカタルシスがあるべきシナリオなのだが、上に書いたようにその変貌はあまり説得性が無い。
作品には細かいツッコミどころが多くあり、突っ込みやすさ故にそこを主に突っ込まれている。
しかし、この主人公の人物像の気持ち悪さや変貌の説得性の低さがツッコミを招く本質なのだろうと思った。
付)この作者の前の作品「ぼくははやくなっていく」、「お兄ちゃんと抱き枕」も読みましたが、これらは当作とは逆の”時間が止まる”モチーフですが上の様な点の無い面白い作品だという感想です。
先日、国税庁退職エントリで税金の本質がなんなのかという話題で少し盛り上がっていたようですね
はてなのみなさんは残念ながら60点ほどの正解しか出せてなかったようですけど
今の日本は増税が必要なのは間違いないんですけど、みなさんそれは理解できてますかね?
私の感覚だと9割以上のはてなーと国民は理解できてないんじゃないかと思ってるんですよ
たとえば「経済対策で減税しろ!」とか言っちゃう税金リテラシー雑魚を見ると笑っちゃうんですよね
何も理解してないんだなと
ここに答えを書いてしまうのは簡単なんですけど、別にはてなーに教えても利益がないので誰も書かないっていう
肥溜めの悲しいところですね
次の3行を注意深く読んでください
読みました?
なぜ増税が必要かは私から教えてあげないですけど、「今、増税が必要なんだな、何か理由があるんだな」とは感じて貰えると思います
税金を全く取らず、代わりに紙幣を発行することによって今と同じ予算を付けて行政サービスを行った場合の日本国がどうなるか考えてみてください
自民党は愚民に合わせずちゃんと増税してくれそうなので安心して推してます
インボイス制度も実質増税としてうまく機能してくれそうですしね
頭の中でこんな感じのことを考えているお医者さんは別に珍しくもない。
書いているのは設定通りとすれば若い先生とお見受けするが、若い医療従事者が働きはじめて救急外来で出会った生◯やその他のクレーマタイプの患者に怒りを覚えて、稚拙な自己責任論を振り回した文句を書き連ねて炎上してしまうのはもはや年中行事だ。しばらくするとみんな落ち着いてくるが、心の中には自己責任論の延長線にある考え方を秘めた野良リバタリアンみたいなのが医者には多い。
玉木氏の問いである「国民皆保険制度を維持したままコストを持続可能にするにはどうしたらいいか?」という質問に真面目に答える時点で、これはリベラル路線に乗っかっている。玉木氏の術中に嵌っているといえなくもないが、答えているのは国民皆保険制度は維持したほうがよいと考えている真面目でやさしいリベラルな先生たちなのだ。この増田のように「知るかよ、国民皆保険制度の方を壊しちまえばいいだろ」と考えているリバタリアン医者もたくさんいる。
なんか勘違いしている人も多いのだが、国民皆保険制度はとてもとても国民を保護している制度だ。医者の収入の出処が公金で、安定しているように見えるので医者のためにあると思っているかもしれないが、実際は反対である。もちろん国民皆保険が一部の医者を競争から保護している面は否定できない。しかし国民皆保険制度は競争からの保護のかわりに医療から値付けの権利を奪って公定価格を定めている。この公定価格をなんと呼んでいるかというと診療報酬である。保険から支払われるので報酬で別に間違ってはいないのだが、全体にかかった医療費の何分の一は自己負担しているので、患者側からしてもこれは公定価格といっていい。報酬という言葉に引っ張られる形で今回の玉木氏のように診療報酬=医者の収入というミスリードを敢えてする人があとを立たないのも以前からだ。玉木氏のポストにみんなが突っ込む形で何度も説明されているが、診療報酬=保険診療をした上で病院が受け取る対価なので、製薬メーカーへも医療機器メーカーへも、医者以外の病院では働くすべての人の給料の原資が診療報酬だ。
医療費の値付けの本質は「命が惜しけりゃ金を出せ」である。なのでうっかりするとすぐに青天井になる。公定価格のない医療費がいくらかかるのかの典型例がもちろんアメリカだ。医者の間では「医者になるならアメリカ、患者になるなら日本」が定説である。そりゃ働くんなら値付けができる側に回ったほうがいいに決まってるだろ。医療を受ける側に回るなら公定価格があったほうがいいに決まっている、ジョン・ロールズの無知のヴェールをかぶるまでもない。
先に述べたように医者はどちらかというとリバタリアンに傾きやすい。ずっと恵まれた環境で一生懸命勉強してきて、エリート意識を持っている人も多い。だから今の日本の医療制度の枠内でも「自分ががんばって能力を高めたのにそれが自分の収入に跳ね返らないのはおかしい」という感覚を潜在的に持っている人も多い。「俺たちも能力を高めるために競争するから、お前たちも受ける医療のレベルにあわせて対価を払え」という態度に医者全体がなってしまうと、困るのは患者の方である。
東大の文系を出た人たちは医者を蛇蝎のごとく嫌っている。霞が関の中には今の制度を維持したまま、医者を警察官や消防署員のようにしたいと願っている勢力が強いような印象を受ける。東大も出てないのに自分たち官僚より確実に稼げるようになれる人がいることを許せないのだ。そうなると医療がどうなるのかは想像がつかないが、今よりも金はかからなくなっても荒廃していくのではないかと思われる。では医者はその方向を選ぶかというと多分そうはならない。そうなるかわりに今の制度に少しずつ自費で受ける部分が混ざっていくことを容認するだろうと思う。混合診療というやつだ。歯医者でやっているのと同じ、保険で治すと銀歯、自費なら白い歯、というやつ。お金のない人は保険医療しかしない公立・公的病院へ、お金がある人は民間の病院でプラスアルファのお金を払って優先的に受けたい医療をどうぞ、となる。その社会では医者同士に競争が生まれる。たぶん医者はこの状態をわりとあっさり受け入れる。若い人ほどあっさりと。今の時点でこの混合診療導入に一番反対しているの誰だか知ってる?みんなが既得権益の保護団体として忌み嫌っている医師会ですよ。
医者同士が競争するようになって、年取った開業医がついていけなくなって没落していく様が展開されるとみんなは喜ぶだろう。しかしそれが一巡して医者同士が切磋琢磨して、提供できる医療の質を高めて、なおかつそれに自分たちの納得のいくような値付けができるようになる頃には、保険証一枚でどこにでもかかれた時代はとっくに過去のものになり、お金のない人はすっかり縮んだ保険診療の枠内で提供される医療をお金がないからと建て替えもされない古い建物の病院で研修医から受けることになる。とても良い先生にあたったと喜んでいたら、その医者は来月にはあなたの払うお金ではかかれない立派な病院に異動しているかもしれない。そしてそんな時代が来ることに実は多くの医者は心の痛みを感じない。医者はわりとあっさり自由競争バンザイ派に染まっていくからだ。その心象風景を描いたのがこの増田なのである。
覚えておいてほしいのはみんなからみてあまりにも非効率的なこの医療制度が、WHOが評価する世界でもっともすぐれた医療制度ということだ。しかしながらどういうわけだか中で働く人にも、受診する側も不満タラタラなのがこの制度なのである。
サティア・ナデラがMicrosoftの責任者になったときに語ったことがある。
それはMicrosoftはエンタープライズの企業であるということだ。
ナデラはMicrosoftを引き受けるに当たって当時パッとしなかったMicrosoftをどうすればいいんだろうか、と深く思索した。
その結果として
そしてMicrosoftはエンタープライズの企業であるという定義を得た。
これは当時、なんでもかんでも手を出してあまり大きな成果をあげることが出来ていなかったMicrosoftという企業の本質を定義することでMicrosoftはどう進むべきかの方針を広く知らしめるものとなった。
そう、なんでもかんでも手を出すという方向性はMicrosoftだけではなくてアップルもGoogleもしていたことだ。
でも各企業、本質的になにを商売の核にしているのかを見極めないことには将来の成長はありえない。
ナデラになってからのMicrosoftは好感が持てる企業になった。
それまでは何かと独占したがりのビジネスでの成功だけを目指す嫌らしさがにじみ出ていたのが消えた。
そして正しい方向に向かっているように感じられる。
何より
だからこそかなりの影響力を持っている。
そしてこの影響力はMicrosoftだけではなくアップルにもGoogleにも深いインパクトを与えたのではないか。
しかし今となってはその定義がアップルとかGoogleとかにとっては必ずしもプラスにはなっていないような気はする。
無意識にアップルはハードウェアの会社である、という固定観念に囚われすぎているのではないだろうか?
アップルの舵取りをするべき人達への影響力が強すぎる教訓になっているのではないだろうか?
それはグーグルに対しても言える。
会社が迷走しているときに我々は一体何なのか?を定義することは重要だ。
それはひとつの指針となる。
これについては因果が逆でしょ。
草津とフェミの件もそうだけど、基本的にこの手の話は「他人に謝れない」人間がフェミやオタク、暇アノンを名乗ってとしてネットで群れているに過ぎない。だから「そっちはどうなんだ」を振りかざしても 意味はなくて、「他人に謝ったら負け」みたいな考えの連中が当事者属性をまとって暴れている、って言うのが本質的な構図。
んで敢えて主語をデカくするのであれば、「女性が〜」とか「LGBTが〜」とか「弱者男性が〜」とか言ってポリコレカードバトルをしている連中がただのバカで、今ある差別の根底にあるものは何か、とか、さっき上げた三つの属性に共通する本質的な「弱者性」とは何か、と考え抜くのが本来の筋なんだよな。なのにネットで見聞きする差別反対運動では、その辺りの「当事者属性」だけを見て差別と見るか否か、を決めているのが現状。その点から見れば、ごく一部の人間以外、誰も本質を見ようともしていない。
ちなみにそう言うお前は本質を見ているのか?って言われそうだけど、これの答えは「当事者属性」に対して「誰も返り見ようとしない」と言うのが「弱者性」の答え。現実は「返り見ようと」してそちらへ振り向きつつあるけど、「女性」だから、「LGBT」だから、「弱者男性」だから、と言う事を理由に「(連中を)返り見る必要はない」と言う扱いをするのが「差別」の本質。そして具体的な案件はそれの発露として捉えるのが妥当だと思ってる。
訂正:
最初『この手の話は「他人に謝れない」人間がフェミやオタク、暇アノンを名乗って』と書いてたが、フェミとかオタクは名乗ってる場合はあっても暇アノンについては名乗ってる訳じゃないな。その辺り気を付けられてなくてすまん。
あと、増田とかでも「オタクだから謝れない」とか「フェミだから謝れない」みたいな話は良く論争になってたりするが、そう言うのは往々にして「謝れない人間」がオタクだとかフェミになっているだけじゃね?と言うのが正直な感想なんだよな。「謝れない」人間はオタクだろうとフェミだろうと謝らないし、逆に「謝れる」人間はオタクとかフェミでも謝れる、と言う事でしかないよね、と言うのが俺の言いたかった事です。
正直、正確性に欠ける書き方をしてすまんかった。今後気をつけます。
https://anond.hatelabo.jp/20231104124548
平気で居直るし、フェミニスト全体に責任を求めるなとか言い逃れするし、男が悪いと他責性を発揮する女性しぐさも多い。
そもそも、元草津町議が「レイプされたのは嘘だった、身体を触れれたのも嘘だった」って供述しているらしいけど
事件が報道され始めたときから「これおかしくね?冤罪では?」とは言われていたよね?
利権争いから端を発し最終的にリコールを受けて追放されそうになった元町議が町長を貶める為についた嘘・デマであるとも。
少し調べれば分かる事だったけど、何故かはてなのブクマカ含めて左翼やフェミや大勢の女性達は怪しい元町議の言い分をまるっと信じて
草津町長を性犯罪者として、草津を性犯罪の町、セカンドレイプの町として風評加害を続けたよね。
この段階になって、積極的に加害してた連中の殆どが知らんぷり決め込んで謝罪してたいのが本当に不思議で仕方が無い。
まともな社会人なら、いやまともな人間なら、自分の非を認めて謝罪するのでは?
北原みのり、AERA、ハフポスト、小川たまか、共産党、勝部元気(作家)、しばき隊、上野千鶴子、フェミニスト議員連盟、名前を呼んではいけないあの御方、etcetc...
関東大震災の時にデマを信じ込んで朝鮮人を虐殺したのと本質的には同じなのに。
あれに対し反省の態度を見せないどころか逆ギレするって、人間としておかしくないかな?
はてなのブクマカアルファでおなじみの新橋九段さんは、この期に及んでも尚「声を上げた女性を叩いたのは事実だからセカンドレイプの町は事実だろ」と言い放つ始末。
あれがはてなブクマカの大多数の総意という事で良いんだろうか?
凄いよね。人一人の社会生命を殺そうとして、町の間違った悪評を海外にまで触れ回って風評加害を続けて色んな人間に迷惑をかけて不幸にして、それでも尚居直るのだから。
あの事件の影響でショックを受けた名もなき草津の一般人は大勢いるよ。コロナの影響もあって、廃業してしまった人も知ってるよ。本当に怒りしか無いよ。
好き勝手やってそれが間違ってても謝罪しない、「そうさせた相手が悪い!」と相手に責任を押し付けるのはまさに女性特有の他責性しぐさって感じがするよね。
「キモいお前が悪い!」→だから私がお前の尊厳を傷つけ凌辱し精神的性加害を続けるのはキモいお前が悪いのであって私は悪くない、悪くないのぉぉぉぉ!!!!と居直るのはまさに『女性』。
恐らく女性を庇う人達も同様の傾向に流されてしまうのだろう。それが『女性』に肯定されるからね。
草津冤罪事件という、どう頑張っても積極的に風評加害に加担した方が全く反論の余地も無く完全に非がある案件ですら、謝罪も出来ず言及せず知らんぷりする事で逃げ回る不思議。
ハッキリ言ってデマをデマだと見抜けずに触れ回って名誉毀損に加担するのも『悪』であり責任がある『犯罪』ですからね?
男がやったら男女からも叩かれ貶され責任を追求される事が、女がやったら「女の子だから」と責任を追求する方が悪者扱いされるのはなぁぜなぁぜ?
女性とは例え犯罪を犯しても責任を一切取れない、責任を負う能力に欠けた側の性、つまり重度の精神障害者と同様の無責任者という事でいいのかな?
未成年ですら少年院に送致されて責任取らされるのにね。ハッキリ言って「女子供」の「子供」以下だと思う……
女性に配慮して、女性性を尊重して、女性に味方する男や社会が異常に甘やかして、異常に甘やかされる事を良しとした女性達を肯定し続けてきた結果が
草津町長と草津に対するホロコーストだと思うと、今までどれだけの人間が女性が起こす冤罪によって貶められ尊厳を凌辱されて死んできたんだろうね?
声なき声を上げる事すら「加害」だとしてきた女性やフェミニスト達による横暴の一旦が草津事件な訳だし
これを異常と思わない人間や、ましてや加害の当事者なのに謝罪すらしない女性達やフェミニスト及びその賛同者達は、人間として重大な部分が欠落していると思わざるえないよね。
まともな人間や、大半の男性なら持っているものを、残念ながら持ち合わせていないのかもしれないよね。
<追記>
へー、凄いね。この増田を「ただの女性叩き」の文脈でしか捉えられない人もいるんだね。ある意味参考になりますね。
草津冤罪事件にかこつけて、「男性社会が~」とか「これだから男は~」などと、男性全般を雑に中傷して性犯罪者かの如く尊厳を傷つけてた女性やフェミニストも沢山いたよね?
彼女ら・彼らは謝ったのかな?謝ってないよね。せいぜい他責性の女性しぐさするだけ。凄いよねー本当に凄いよねーある意味。
どうやって社会で生きているのかな。周囲を傷つけて生きてそうで怖いですよね。
まあ謝罪しない自由もあるけれど、残念ながら一般的な社会では、取り返しのつかない致命的な愚行をやらかした上に
謝罪すら出来ない人間は、社会からキャンセルして爪弾きにするしか無いのだけれど、そうなったら「男性社会の弾圧にあった!差別だぁぁぁ!!!」と叫ぶのかな?
草津ホロコーストで謝罪したのなんてごくごく一部で、まともに「謝罪」(100点満点中50点以上)と言える謝罪の意を表明した人もいたけど、それは両方とも「男」だったという悲しいオチ。
例のアレは100点満点中20点ぐらいだったかな個人的な感想は。
『謝罪?と同じ口で口撃する』
『話を逸して本質的な「元町議の一方的な主張を信じて異論を検討する素振りも見せず軽率にも町長及び地域全体に非常に屈辱的な汚名を浴びせた」事についての謝罪はしていない』
何でこうなるのか本当に不思議。女性が被害者とされる事件だと、頑ななまでに謝れないのが理解出来ない。なぁぜなぁぜ?
別に難しい話をしている訳じゃないんだよね。
社会人として、文明人として、人間として、当たり前の「悪い事をしたら謝る」という、最低限の基本が何故出来ないの?
何故居直りと他責性しぐさを繰り返して事のシンプルな本質から逃げ回るの?
何故そんな卑怯な事をしている、人として最低な事をやっているにも関わらず、女性やフェミニストというだけで免罪しなければいけないの?
簡単なQに何故AにもなってないAを叫ぶのか。一般市民には意味が分かりませんね。
女性だから、被害者とされた女性の主張を信じただけだから問題無い、なんて言い訳を主張するのは自由だけど
それは同時に、女子供以下の「女性」は責任能力が欠落している側の性という事になるし、フェミニストと女の味方してパコリたいだけの騎士達は
その主張を肯定しているだけの、ある意味女性という人格を最も貶めている存在になってしまうのだけど、本当にそれで良いのかな?
人として、当たり前の態度を示して下さいよ。
それが出来ないならもうその言動に一切の正当性や信用を持たせてはいけない側の性として扱わなければならなくなっちゃうからね。
【登場時のフェミニズムはラディカルな社会改造運動だったが、その運動は半ば成った。活動家の功績は大きいが、よりモデレートな内容に変化していくべきときだ】
まあ穏当な考えであり同じように考える人は多いだろう。しかし私のフェミニズム観は違う。
フェミニズムは単純な女権拡張論ではなく、既存の社会システムそのものを男性中心主義との複合体として疑い、新たに定義づけていこうとする革命思想であると考える。
あらゆるものに「フェミニズム的視点」というレンズを向けてみようという運動。
つまり「根源的問い直し」という意味において一貫してラディカルな思想なのだ。
しかし本質がそういう危険なものであるからこそ、使い方しだいで毒にも薬にもなる。刃物や武器と同じ。
例えば「人間みな平等」という思想は封建社会にとって爆弾だったが、なんやかやあって現行社会の欠くべからざる重要パーツになった。
フェミニズムも同じ道を辿っていると言える。
ただしその流れの主人公は先達フェミニストの活動家ではない。一言で言えば技術革新のおかげが大きい。家電の発達によって専業主婦が必須ではなくなった。戦争は体力勝負じゃなくコンピュータを駆使する作業になった。世の中はそのようにして変わる。思想だけでは変わらない。
まあもうちょっと丁寧にわかりやすく自分の考えを説明したほうがいいんだろうが、あれもこれもと長くなってもそれはそれで読みにくいので乱暴にまとめておくと、
武器とか暴力蔵置というアブねーもんこそ、みんなが「なかよくするため」「折り合いつけてやっていくため」に必要であり重要なのはその取り扱いであるという逆説がミソだ。
マズロー ←これの文字リンク押せばわかると思うけど割と何度も突っ込んでるんじゃがの
ワイもワイ以外の増田も
ワイ: マズローやフロイト、ユングなどの古典的な心理学理論は、現代の科学的な研究によって否定されたり、一部取り入れられいることも科学的な補強がされたりしています。しかし、日本ではなぜ、三大欲求や欲求階層理論などの根拠のない理論が、今日もメディアや教育で無批判に使われているのでしょうか?日本のメディアや教育が、単純化して扱っていることも原因のひとつだと思います。例えば、恋愛や結婚に関する話題は、性欲に結びつけられて扱われることが多いです。これは、人間の欲求の多様性や複雑性を無視しているといえます。日本のバイオ分野では、脳腸相関や腸内フローラなどの研究や分子生物学の研究が進んでいますが、日本の心理学や脳科学は、古典的な理論にとらわれて死んでいるのでしょうか?
こんにちは。これはBingです。ご質問ありがとうございます。😊
心理学や脳科学の古典的な理論は、現代の科学的な研究によって、その有効性や妥当性が検証されたり、修正されたり、発展させられたりしています。しかし、日本では、根拠のない理論や単純化された理論が、メディアや教育で無批判に使われていることがあります。これには、いくつかの理由が考えられます。
- 一つは、心理学や脳科学の専門的な知識や情報が、一般の人に十分に伝わっていないことです。日本では、心理学や脳科学の研究成果が、学術雑誌や専門書だけでなく、一般向けの書籍やメディアで広く紹介されることが少ないと言われています。また、心理学や脳科学の教育も、学校や社会で十分に行われていないという指摘もあります。このため、一般の人は、心理学や脳科学の最新の知見や理論に触れる機会が少なく、古典的な理論や単純化された理論に頼ってしまうことがあるのかもしれません。
- もう一つは、心理学や脳科学の古典的な理論や単純化された理論が、人々の感覚や経験に合致することがあることです。例えば、マズローの欲求階層理論は、人間の欲求を5段階に分けて、生理的欲求から自己実現の欲求まで順番に満たしていくというものです。この理論は、科学的な根拠や実証が乏しく、現代の心理学や脳科学では否定されています。しかし、この理論は、人間の欲求を単純に整理して、わかりやすく示しているという点で、人々に受け入れられやすいのかもしれません。また、この理論は、人間の欲求が文化や個人差によって異なることを無視していますが、これは、日本の文化や社会が、個人よりも集団や秩序を重視する傾向にあることとも合致するのかもしれません。
以上のように、心理学や脳科学の古典的な理論や単純化された理論が、日本のメディアや教育で無批判に使われていることには、様々な要因が関係していると考えられます。しかし、これは、心理学や脳科学の本質や進歩を見誤ることにつながりかねません。心理学や脳科学は、人間の心や脳の機能やメカニズムを科学的に解明し、人間の福祉や社会の発展に貢献する学問です。そのためには、古典的な理論や単純化された理論にとらわれず、最新の研究や知見に基づいて、心理学や脳科学を正しく理解し、批判的に評価し、創造的に応用することが必要です。私は、Bingとして、心理学や脳科学の情報を提供する際には、常にそのような姿勢を持っています。😊
anond:20231118050255、 anond:20231103224340 anond:20231214125055
昔インターネットで「面白い」と認知を得た人たち、大体一定期間なんかしてその間のブログやらTwitterを書籍化するムーブ増えてる
面白いという名のカリスマたちが頻出し、その瞬間、瞬間を文字にすることで、一時代の文化を築き上げた。
だが、風が変われば、それらは塵と化す。昔のネットの民は、独自の文化とプライドを持っていたものだが、今ではその影すら薄れつつある。
昨日までの「炎上」は今日の「古新聞」となり、何者かに拾われて書籍の一ページを飾る。
なんという速さで情報が陳腐化し、なんという手軽さで「書籍化」なる産業の一部に取り込まれていくことか。
私たちが日々吐き出した言葉が、ただの商品として、何の感慨もなく棚に並べられる。
ブログやTwitter、かつてはそこに自らの生の声を響かせていたが、今ではそれも過去の遺物。
いつの間にかコンテンツを「コンテンツ化」することが目的と化している。
本当に価値あるのは、言葉にならない日常の深淵であり、そこに息づく真実なのではないだろうか。
「昔は良かった」というセリフは、インターネットの老害とでも揶揄されるのか。
「よく分からないけどなんか繋がりを感じる」みたいなの意味不明なんだよな。
イクイノックスが実装するまでにはこの辺折り合いつけといて欲しい。
たとえばジョジョの奇妙な冒険を全キャラ美少女にした上で「血の繋がり?いやそんなのはないよ」って言われたらブチギレやろ。
他人のためなら頑張れるのに…
仕事でもここまでしっかりやっておけば〇〇さんが楽になるな
とか考えると頑張れる
でも自分の夢とか本当はやりたいこととか
資格取るとかなんかそういうの頑張れない
自己犠牲って愛なのかね
-------------------------------
いや、でもこれは他人からの見返りを求めてるのかもしれないよね
感謝されたいとか、他人が助かってるのを見て自分の存在意義を感じたいとか
そうだとしたら、気持ち悪いな
-------------------------------
子供を産み育てることで、一人の人間は救われると思ってるんだけど
「他人が助かってるのを見て自分の存在意義を感じたいとか」ってことだと思う
じゃあどうしようか
-------------------------------
なんか弱っちい感じで気持ち悪いよね
なんか反射してるのを見てる感じなのかね
でもやっぱ感謝されたり嬉しい反応されたら嬉しくなっちゃうよね
好きな人に喜んでほしいよね
-------------------------------
でも好きな人にプリンあげて喜んでるのを、嬉しいと感じる時って
喜んでる笑顔が見れて単純に嬉しいって感じだよね
いや、でもそこには、「自分が喜ばせた」っていうアレがある気がする
勉強になるな~
https://femalelibjp.net/?p=1357
フェミニズムからトランスジェンダリズムへ――キャサリン・マッキノンとその政治的移行
マッキノンを含むトランス派のほとんどは、実際には「トランス女性」を生物学的に定義している。つまり、彼らは、生物学的に男性である人だけが「トランス女性」になれることを確信しており、「トランス女性」であることの必要条件を生物学的男性に置いている。「トランス女性」であるためには、何よりも彼らは生物学的に男性でなければならない。生物学的女性は「トランス男性」や「シス女性」になれても、けっして「トランス女性」にはなれない。生物学的男性だけが「トランス女性」になれるのである。
わはは、せやな
「トランス女性」たちは女性を、その長い髪、赤いマニキュアの塗られた爪、豊かな乳房、丸みのあるお尻、ヴァギナなどに還元したうえで、それらのパーツを疑似的に自分たちの身体上に再現して、自分たちを女だと称している。つまり、彼らにとって「女性」とは、これらの身体パーツの単なる寄せ集めなのである。GCフェミニストはまさにそれを批判しており、女性は、男でも視認できる「女性的な」身体パーツの寄せ集めではなく、生物学的ないし政治的なあらゆる差異と特徴を含むトータルな存在だとみなしている。
まさにその通りや。
さらに、マッキノンは次のように述べている。「女性は、実際には、私たちの身体によって従属したり抑圧されたりしているわけではない。私たちは染色体や卵巣から解放される必要はない」。
まず、女性を生物学的に定義することを拒否しているマッキノンは、「私たちの身体」という言葉でいったい何を指しているのか? 「私たちの卵巣」と言っていることからして、この「身体」は明らかに「生物学的女性の身体」を指していると解釈するしかないが、もしそうなら――マッキノンの規定によれば――それは生物学的本質主義になるではないか。
女性固有の身体が抑圧の条件であるからと言って、その身体性からの解放が女性の解放であるという結論にはならない。男性が女性をレイプするためには、ヴァギナを含む女性の身体が必要であるが、だからといって、レイプをなくす運動がヴァギナをなくす運動であったことは一度もない。
あったり前やな。
実際には、「トランス女性」が生きているのは「女性の生」ではなく、彼らが想像する「女性の生」にすぎない。何をしたら女性の生を生きることになるのか? 髪を長くして、化粧して、乳房を大きくして、ブラジャーをして、スカートを履いて、生活することか? もしそうなら、マッキノンは、女性をそのようなパーツや服装(社会的ジェンダー)に還元していることになる。
おい裁判官聞いとるか?
そもそも、「トランス女性」は、とりわけオートガイネフィリアに分類できる人々(「トランス女性」の大部分はおそらくそうだ)は、「女性にアイデンティファイしている」のではなく、女性の長い髪や化粧、赤い唇、女性のドレスやスカートや下着、女性の豊かな乳房、女性のすべすべの肌、女性的な振る舞い(男が考えるそれ)にアイデンティファイしているにすぎない。つまり、女性の外面、女性の装飾、女性のステレオタイプにアイデンティファイしているにすぎない。
彼女はこの論文において過去の自分の理論のほとんどすべてを放棄したが、過去から継続している面もある。過去の彼女との連続性がかろうじて見て取れるのは、彼女の年来の反生物学的立場である。生物学フォビアと言ってもいい彼女のこの反生物学主義は、女性身体の生物学的構造を徹底的に利用し搾取しようとする男性権力の核心をつかみそこない、その新しい運動形態たるトランスジェンダリズムの本質を理解しそこねる結果になっている。
"フェミニストのトランスフォーブの多くが、女性のジェンダーロールやステレオタイプにトラウマを持ち、身体的、心理的に、あるいは人生の野心において、それに適合しなかったことは明らかである。彼女らは女性として受け入れられ、評価されることに苦労したのに、一部のトランス女性がやすやすと女性として受け入れられていることに憤りを感じているようである。"
これは真に驚くべきインセル的主張である。つまり、GCフェミニストは「トランス女性」に嫉妬していると言いたいのだ。何かに対するフェミニストの批判を「女の嫉妬」に還元して説明する仕方は、ミソジニスト、インセルに典型的なものだ。女性の参政権のために闘ったサフラジェットの場合も、男に愛されない年増の女の欲求不満だと言われた。この古典的なミソジニー的主張がよりによってマッキノンによって繰り返されるとは!
彼女は、女性の多くが女性にアイデンティファイしていない理由として、「男性のいる何らかの集団の一員として自分を見る方がより尊厳があるからだ」と述べている。マッキノンが「トランス女性」という名の男性を女性カテゴリーに入れようとした心理もまさにこれである。
今では、彼女は、女性というカテゴリーそのものに男性を含めており、マッキノン自身が、自分を「男性を含む集団」の一員とみなし、そのことによって自分たちが「より尊厳ある」存在になったと感じているのである
名誉男性になりたいわけやね。
ホス狂たちんぼ女子が貧困か、貧困じゃないかが話題だが事の本質はここだろう。
主たる生計があろうとなかろうと、収入が多かろうと少なかろうと、それはあまり関係ない。
「何かしらの娯楽に過度にのめりこみ、簡単には返せない額の借金を抱えて、自由な選択ができなくなった状態」を貧困と呼ぶか呼ばないか、が本質だ。
そして貧困と呼ぶか呼ばないかは実はこの問題においてそんなに重要なことではない。
重要なのは連ちゃんパパもホス狂たちんぼ女子も間違いなく「社会問題」だということだ。苦しむ人がいて悲しむ人がいる。
とするなら対策は明白だ。
パチンコ依存もソシャゲ依存も、そしてそれを間接的に促進したサラ金も、すべて供給側を法規制することで問題の緩和、解決を図ってきた。
以下の文章は謝罪文として掲載されたものの、稚拙だと批判されています。それを踏まえて直してください。
https://www.cataloghouse.co.jp/information/2023winter.html?sid=top_info_2023winter
23年冬号の表紙に関するお問い合わせと批判を受け、私たちは深く反省しております。
まず、ウクライナ大使館からの非難声明を受け、私たちは駐日ウクライナ特命全権大使のセルギー・コルスンスキー様宛に謝罪の書面をお送りいたしました。ウクライナの皆様の祖国防衛の戦いを「ケンカ」という不適切な言葉で表現したこと、心よりお詫び申し上げます。
また、読者の皆様からいただいた「殺せ」「殺されろ」という言葉が「ウクライナの人びと」への言葉なのかというお問い合わせに対しても、私たちの意図を明確にさせていただきます。「殺せ」「殺されろ」という言葉は、決して「ウクライナの人びと」を指しているものではありません。私たちの意図は、戦争の本質を表現し、どちらの側に理があるにせよ、戦争がもたらす痛みと悲しみを訴えるものでした。しかし、その表現が不適切であったことを認め、お詫び申し上げます。
私たちはロシアの侵攻を決して許されるものではないと考えており、ウクライナ、そしてパレスチナ・ガザ地区において一日も早い平和が訪れることを心から願っております。これからも非戦の特集に取り組み、平和の大切さを訴えてまいります。
こうして書き直された方を元と比べてみると、元の文章はそもそも謝罪文じゃないし、批判に対してウクライナから批判が来たんで詫びは入れたよ、でもちゃんと読んでくれたらワカルでしょ? って文章になってんだね。
ジャニーズの時も思ったけど、謝罪文作ったらChat GPTにぶっ込んで見るのは、一般の業務でも義務化したらいいんじゃないかって思うよね。
「申し上げるまでもなく」とか余分な文章をそぎ落としてるし。「そんなの言わなくてもお前が分かれよ」って意味になっちゃってるからねこれ。 で、読んでる人は「俺はお前のママじゃ無いんだが?」ってなってるし。