はてなキーワード: 創作物とは
例の「妹の姉」への批判的なブコメを見ても「リアルでやられたら許せないゾッとする」みたいなこと大真面目に言ってる人がいて
いやいやゾッとしたのはこっちだよって感じだったんだけど
漫画みたいな創作物を常に「現実のこと」として、あるいは「現実の何かの問題を反映したもの」として受け止めてしまう人間が増えているのでは無いか
http://lty.hatenablog.com/entry/2019/05/02/135439
一言で言えば創作物に対して現実の社会規範をもって批判していること。作品の巧拙にはまったく関係がないし、ポリコレ的にアウトだから「描いて、そのおかしさに気づいてほしかった」「描いて、修正すべき表現を見つけてほしかった」とか言い出すのは表現の自由の侵害につながる。
くだんのブログはよく創作物を批判しているが、そういった規範批評の対象になっているのは性的な要素を含んだ作品だけだ。世には犯罪者を主人公に据えたロマン・ノワールなど現実的には許されない行為を華々しく描くものが存在するものの、そういった作品は批判の対象になっていない。けっきょくのところブログ主が性嫌悪者であり、自分の気に入らないものを叩いて回っているのが実際のところだろう。
最も問題なのは、そういったいわばオナニーにすぎないものを「一人の大人として、社会をより良いものにしていきたい」とか「社会の構成員として子供が安心して安全に暮らせる社会を目指」すことに資すると考えている点にある。
(すでに消されているのでスクショ:https://i.gyazo.com/d67c7963d6021fb51b56279d0aba7b95.png)
この手の自分の嫌いなものをただ叩いているだけにも関わらずそれを正義と思い込んでいる人間がいちばん始末に負えない。
作品の是非を倫理や道徳で問うならブログ主の考える良い社会は他者にとっての地獄になりうる、というモラルぐらい持ってほしい。
なんか上記を「作品批判=表現の自由の侵害! という主張」と誤読してる(あるいはそういう主張をしてるようにしたい?)人がいるんだけどそんなことは一言も書いてないよ。
>ポリコレ的にアウトだから「描いて、そのおかしさに気づいてほしかった」「描いて、修正すべき表現を見つけてほしかった」とか言い出すのは表現の自由の侵害につながる。
って書いてるんだよね(誰かがとった魚拓:https://archive.is/af9dJ)。
元ブログには「ポリコレを目指すことで様々なコンテンツの面白さが損なわれていくとは思ってません」という文章もあって、ポリコレ的にアウトな作品は無くせという主張と地続きになってることを危惧してる。なんか言うなら最低限そこは理解してからにしてくれ。
あと、
書いた人です。好き嫌いの話じゃないんだなー。君は例えばクジラックスの作品がコロコロに載ってても問題ないと思う?抗日ドラマを流す国をどう思う?俺は創作物の「扱われ方」とその社会の在り方に関係があると思っ
http://b.hatena.ne.jp/entry/4668195090215590242/comment/lightly
いやいやいやいやゾーニングの話は全然してなかったよね!?!?!?
ポリコレ的にアウトだからそこ直せって主張だったよね!?!?!?
そこまったく違う話なんだけど自分で何いってるかわからんくなってんの?
ちなみに俺は抗日ドラマを流す国のことはなんとも思わない。フィクションだし。日本で流してもぜんぜんいいと思う。ただ俺は見ないだけ。
クジラックスの作品(ここでは『がいがぁかうんたぁ』を想定)がコロコロ(ここでは『月刊コロコロコミック』を想定)に載るのはまずいでしょ。18禁マークをつけて売り場をわけてる意味とそれによって守られているものはあるわけで、それは支持する派。
女がキャッキャするだけの漫画やアニメを作ってる人達は、実際には女を全く観察出来てなくて、アイドルとかのPVを見て、あれを現実だと錯覚してるんだと思う。— Moritsugu Keiko 森次慶子 (@W_Fei_hung) April 26, 2019
ある種の創作物は私の感性を刺激する。私はその作品で描かれている対象が本当に素晴らしいものだと思うし、もっと触れていたいと思う。
もちろんこの感性は普遍的なものではなく、全く違う意見を表明する人もいる。
そのような人たちの一部は、その創作群を、現実の対応物と対応していないとして批判している。
創作で描かれているものは、必ず現実の中に対応物を持つのだろうか。
あるいは、この創作で描かれているこれは現実世界でのこれに対応しているはず、なんて認定する権利を誰かが持っていたりするのだろうか。まぁ思うことは自由だけれども。
引用したツイートとは関係がないのだが、この創作で描かれているのは私であり、そこでの扱われ方が不当なので、その創作物を追放したいという訴えを発端とする議論は手垢のついた論争である。
そのような議論に私の感性を刺激する創作物も槍玉に上がることがある。その難癖をつけてきた人を存じあげたことなどなく、創作物を消費する上でその人のことを頭に思い浮かべることすらなかったし、逆もそうなのだけれど。
自分の感性を刺激する創作物が現実の中のものと似通っていて、その似通ったものに迷惑がかかっているらしい。
心底どうでもいい。
縁あって「恋は光」という漫画を読みました。感受性の乏しい自分の心が大きく揺さぶられ、ぽつりぽつりと考え事をしたので日記に残したいと思います。彼らの交換日記のやり取りを見ていたら、連休の夜にしみじみとその日の考えを日記にしたためるのがとても魅力的に思えてしまったのです。
私は創作物の感情表現を読み取るのが好きではありません。多少の正解不正解はあるものの明確な真実はなく、その割に読み取った内容に優劣がつく、息の詰まる行為だと思います。ですから、創作物の好みは大味のエンタメ作品に寄りがちです。そういった作品では、無理に登場人物の気持ちを読み取らなくても、その作品を体験している間の自分の心の動きでもって、その作品を十分に楽しんだということに自信を持てる気がするのです。近年だと、「君の名は。」「グレイテスト・ショーマン」などが象徴的です。いずれも、登場人物の心の機微によって深い余韻を残すというよりは、圧倒的な映像と音楽で瞬間的な感動を作り出す類の創作物だったと思います。
「恋は光」は、恋愛に係る感情表現を主とするにも関わらず、その感情表現によって心揺さぶられたと確信が持てる、とても珍しい作品でした。自分にとって「恋は光」が特別な点は、感情表現の具体性と一意性にあると感じています。例えば、登場人物が悲しければ、どういった理由でどのように悲しいのか心の声でつぶさに語らせます。そこに独自の解釈を持ち込むことはおそらく難しいでしょう。作者が表現したい論理の構造が、一切の誤解なく、充分な情報量を伴って伝わるように漫画が作られていると感じます。これが「恋は光」の優れた点だとは思いません。論理構造が感情表現に昇華されていないといった否定的な見方もできる側面だと思います。ただ、私に適した感情表現の手法が取られていて、その手法を通して届けられた、自分にとっては珍しい豊富な情報量を伴った感情表現に心を揺さぶられたということです。
感情表現を読み取りたくない自分、という認知は時に苦痛を伴います。巡り巡って思慮の浅さや希薄な好奇心が白日のもとに曝露されるような思いを味わいます。頭を使って感情表現に向き合っている人たちの方が世間体は良いでしょうし、こちらは泣き寝入りするしかありません。創作物くらい好きなように楽しめばいいのでしょうが、感情表現に向き合っている人はその苦労に見合う喜びを確かに得ていて、羨ましいやら情けないやら、創作物を楽しむどころではないのです。しかし「恋は光」という作品は、ジメジメした乏しい感受性をものともせず、私に感情表現を楽しむ喜びを届けてくれました。そういう作品に出会えたことが嬉しく、「恋は光」は私にとって特別な作品なのだと思います。
最近のネット上のフェミ達(てか実質ミサンドリー集団 )は創作物に向かってやれ女性蔑視だの、性的搾取だのと声を荒げているが
https://matomedane.jp/page/28029
Twitterを見ていると、
「ただのファンアートじゃん」とか「何が問題かわからない、ただのいちゃもん」とか、
あげくのはてには「外圧勢の攻撃だろ」とか言ってる人が思いのほか多くて驚いている。
今回、サテー氏は絶対にやってはならないことをし、燃えるべくして燃えた。
なのにこの「この人のやったことは明らかにアカンことなんだ」ってのが、いまいちわかっていない人が多い。
わかってない人が多いせいで、信者VS外圧の問題にすり替わりつつさえある。
というかそもそも肝心のサテー氏が自分のしたことのなにが悪いのかをわかっていなかった。それは炎上後の対応のまずさにも見て取れる。
なので、なにがいけないのかを解説しようと思う。
・今までのサテー氏の漫画
これまでサテー氏は「1コマFGO」と題して、FGOのファンアートを定期的に描いてきた。
ゲーム内の印象的なシーン、または界隈で起きた印象的な出来事。それを抜き出して「ダイジェスト」にする、というもの。
サテー氏の個性の一つに、このダイジェストを少ない枚数の中に極端に高密度に詰め込むという独特な手法がある。
彼が今の人気を築いたのは高い画力もさることながら、この独特な手法があったからこそと言っても過言ではないだろう。
ただ一方で、最近の「1コマFGO」は、1シーンだけを抜き出してイラストにすることも増えてきていた。
というよりも、彼の「1コマFGO」は、以前と比べて、「ページ数が増え」かつ「ダイジェストのシーンが減って」きていた。
この変化が実は、まずもっての発端である。
・直近のサテー氏の漫画
炎上した件の漫画の一つ前に描かれたものは、ある種の分水嶺として捉えることができる。
これ。
https://twitter.com/syatey_12/status/1119573130098331648
(余談だが、この漫画のことを炎上した原因だと勘違いしている人が一定数いるけど違うよ!)
この作品は、見ればわかるが、イベント「極東魔神戦線1945」のストーリーの、クライマックス部分をほぼそのままダイジェストにしたものだ。
この漫画は大勢の人に絶賛され、受け入れられた。経験値氏本人もRTしている。
・「ダイジェスト」のさじ加減の話
……なのだ、つまるところ。
従来の、というより初期のサテー氏の「1コマFGO」は、たとえば1ヶ月とか3ヶ月の間にあった出来事、いうなれば「1000の中から印象的だった10を選び取りダイジェストにした」ものだった。
それは、時間とともに少しずつ変化していく。
有り体に言うと、投稿スパンが短くなり、絵の密度が下がり、選ぶシーンのネタバレ度が強くなった。
「1000の中から"印象的だった"10を選び取る」が「500の中から"めちゃくちゃ印象的だった"10を選び取る」となり、
やがてそれは、この「絶剱」と題された漫画のような「100の中から"重要な"10を抜き出す」ものになっていく。
サテー氏がこの手法に疲れてきたのか、承認欲求のためにイラストの投稿回数を増やしたかったのか、原因は定かではない。
ただこのさじ加減が間違ってきていることに、きっと彼自身は気付かなかったのだろう。
勘の良い方ならもうおわかりかもしれない。
「絶剱」の後に投稿された、炎上した”幕末昔噺「龍が如く」"は、
「100の中から80を抜き出す」どころか「100の中から重要でない20を削ぎ落とす」ほどの、「ダイジェスト」を超えた「リライト」になってしまっていたのだ。
プロの創作物は「成果物」と呼ばれる。仕事の結果であり、作品であり、同時に商品でもある。
いみじくもプロのクリエイターであるならば、同じ立場にある「プロ」の作った成果物について、敬意を払わなければならない。
この経緯とは何か。それは「製作者のコアの部分には立ち入らないこと」だ。
たとえばブーディカは蒼月タカオ氏のデザインしたキャラクターだが、たくさんの人によってファンアートが描かれている。
そこにはプロとして活動している人も多くいて、中には蒼月タカオ氏よりも上手い(上手い下手の定義はいろいろあるが本記事では置いておく。「経験値氏よりサテー氏の方が絵が上手い」程度の意味合いとして捉えて欲しい)人もたくさんいる。
だが、彼らプロ作家のファンアートに「ブーディカのカードの構図やポーズ、背景をなにからなにまで真似た『俺の描いたブーディカさんのカード』」なんてものがあるだろうか。
断言してもいいが、絶対にない。あったとしてもそれはセミプロ、もしくはアマチュアの手によるものである。
何故なら、それは「製作者のコアの部分に土足で立ち入ること」だからだ。
「製作者がその仕事によって得た社会的評価までもを己の創作に取り込んでしまう行為」……と言い換えたらわかりやすいだろうか。
それはひいては、製作者に成り代わろうとする行為であるとも言える。
好きだからこそとか。良かれと思ってとか。宣伝のためだったとか。
いかなる理由であれ、結果がどうであれ、線を超えたのなら戦争なのだ。
好意による領分の侵犯という意味で、フラゲした雑誌のキャプチャーでアニメ化情報を拡散するとか、違法アップロードされた動画を使って紹介するとか、そういうのと本質は変わらない。
サテー氏の件の龍馬とおりょうさんの漫画を、コミカライズ、と形容している人がいた。
奇しくも言い得て妙だと思う。
コミカライズだとかノベライズとかいうのは、作品を作った人間、原作者の成果物のコアの部分に踏み込む行為である。
だからこそ「公式」なのだ。公式に版元がプロに依頼し、原作者がそれを承諾し、コアの部分に入ってくることを許可した上で描かれるのだ。
作品の成果を、その作品によって得られる社会的評価を、原作者と分かち合う行為なのだ。
彼は無断でコミカライズをした。それも「漫画をコミカライズする」という、よりコアな部分に踏み込む方法で。
経験値氏が得るはずだった感動の声を、賞賛を、サテー氏は横から割って入ってきて、不当に食い漁った。
公式のメディアミックスをクリエイター同士のセックスとするなら、これは強姦に等しい。
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結局のところ今回の問題の原因は、
「サテー氏にプロ意識がなかった」
これに尽きる。
前段のことは、プロであるなら誰しも肌感覚でわかっているはずのことで、一方でプロのクリエイターとして活動していない人には今ひとつピンとこないことであろう。
サテー氏はピンとこなかった。「ファンアート」と「侵害」の境目がまったく理解できていなかった。
その後の謝罪を見るに、たぶん今でもよくわかっていないと思う。
>「幕末昔ばなし」はもっと詳細が描かれてて細かい事情がわかるのでですね…ぜひお手にとってもらえると
ショートケーキのイチゴとクリームを先に食べさせておいて「スポンジも美味しいので残り物を買ってね」とはまったく恐れ入る。
これをきっかけに経験値氏の原作を知った人たちが不憫でならない。彼らは本来なら経験値氏へ向けるはずの感動や興奮をサテー氏に向けた。
いみじくもプロならば、経験値氏が「原作」で描いていない寺田屋騒動あたりのことを「想像して」「創造する」とかにするべきだった。
どうか経験値氏の「ぐだぐだエース」を購入して、騒ぎの元になった「マンガ幕末昔ばなし」を読んで欲しい。
あの独特なデフォルメ絵に手書き文字を、真っ白のスカスカ漫画と思う人もいるだろうし、下手だと思う人もいるだろう。
「キモくて金のないおっさん」と「活気ある街作り」の関係性について考えてみる。
KKOにはくたびれた感がある。
となるだろう。
「家に帰ってもなにもやる気が起きない」
「容姿に優れない」「経済的に優れない」「中年男性」という3条件を満たしていても「KKOらしさ」のない人間もいる。
例えば「見た目のよくない売れない中年芸人」などがそれである。
「見た目のよくない売れない中年芸人」は「キモくて金のないおっさん」という条件を満たしながら「応援」されて成功する場合がある。
逆にKKOの条件を満たしていなくても「くたびれた感」があると忌避される。
金を持っていても「くたびれた感」があれば周囲からは嫌煙される。
(KKOは「おばさん」も含む場合がある。性別も重要ではない)
すなわちKKOを構成する3条件とは、根本的なポイントではない。
3条件を満たしていても「くたびれた感」がなければKKOらしいとは思われない。
くたびれた感の反対を考えてみると「活気」ということになる。
となるだろう。
個人レベルでKKOを脱却したいのなら「くたびれた感」を消して「活気」を出さなければならない。
よく「見た目には清潔感が大切」と言われるが、それは本質的ではない。重要なのは「活気」である。
「KKOは自業自得」という言説も「活気」を出せば解決できるという理屈に基づくのだろう。
世間にとって「活気がない」=「悪」というのはあえて言うまでもない自明の理なのである。
だから、そこはわざわざ語られない。だが、心当たりはあるだろう。
シャキッとしなさい。元気を出しなさい。背筋を伸ばしなさい。笑顔を絶やしてはいけません。
ただしKKOもなにも好き好んでくたびれているわけではないのかもしれない。
強いられている「低賃金長時間労働」が原因と考えることもできる。
KKOと低賃金長時間労働については鶏と卵の関係なのかもしれない(その辺は後述)。
本邦では「活気ある街作り」が試みられている。
いったいなぜ「活気ある街作り」を目指しているのか明確なところはわからない。
しかし大衆に「活気ある街作り」=「善」と認識されていることは確かだろう。
元気のある街。笑顔のある街。24時間営業。バーゲンセール。ケバケバしい看板。
「活気ある街作り」とは、こういう方向性だ。
「活気ある街作り」という大きな流れの中にあるもののひとつが「弱者救済」である。
「子供の声は騒音ではない」という言説が一定の支持を得るほどだ。
「ゲームばかりやってないで外で遊びなさい」という理屈も「活気ある街作り」という文脈に繋がる。
「元気に走り回る子供」の姿は活気を感じさせる。
老人はそれ単体では活気ではない。
しかし老人が出歩くことは「年齢というハンデに負けずアグレッシブに活動」という意味を持つ。
また老人が存在することで「助け合い」という「活気」を演出するイベントが発生する。
例えば「若者が老人に電車で席を譲る」という行為は「活気」のあるシーンである。
創作物の中でも「大きな荷物を持った老人が横断歩道を渡るのを助ける」シーンを幾度となく目にしてきたはずだ。
「ハンデをものともせずアグレッシブに活動する」ことは「活気ある街作り」という方向性である。
また「車椅子に乗った人を手伝う」のは活気を演出する「助け合い」イベントである。
一方で精神障碍者は身体障碍者ほど受け入れられてはいないのが実情だろう。
それは「助け合い」という活気を印象付けるイベントとあまり関係がないからではあるまいか?
女性の存在は「女性が一人で出歩けるほど治安が良い」という意味合いで活気の演出となる。
また「女子高生」などは「活気」のシンボル・アイコンとして用いられがちだ。
権利を求める一部女性の「活動」は良く言えば「アグレッシブ」、悪く言えば「狂犬」だ。
だが、それでも「元気があってよろしい」ということなのだろう。
くたびれた感よりも「攻撃的で噛み付く」くらいの方が好感をもたらす。
ところで、すべての女性が弱者として救済されているかというと、そうでもない。
さて、ここまで読んできたら恐らく気づいただろうが「KKO」=「くたびれた人間」は「活気ある街作り」という方向性には合致しない。
くたびれた人間の周囲では「助け合い」イベントが発生しないのだ。
(なお「仕事に疲れてくたびれた人間」が助けられるシーンは活気とは言えない)
くたびれた人間の中には「仕事で疲れているのだから暇な老人に席を譲る必要はない」と公言するものさえいる。
もしも、くたびれた人間に金を与えたらどうなるか?
「つらい、しんどい、疲れた」と言いたがるタイプが街に出歩くことになる。
よくよく考えてみると、日本の街には「休憩する場所」があまりないように思える。
「休憩」は活気ある街づくりからは遠ざかる方向性であるためだろうか?
疲れやすいタイプの人間を出歩かせないために、どうすればいい?
金を与えてはならない。暇を与えてはならない。
くたびれたタイプには出来るだけ出歩いてもらいたくないからだ。
さて「くたびれた感」は低賃金長時間労働によってもたらされるのか?
世間は恐らく「くたびれた感」を生まれ持った気質と判断しているのだろう。
非KKOは「KKOに金と暇を与えても活気ある街作りには繋がらない」と認識しているはずだ。
現状を踏まえて待遇改善を要求するなら「金と暇があれば活気ある街作りに協力する」という姿勢を示すのが有効だろう。
まずは応援したいと思わせなければ、助けてはもらえない。
近年では工業立国の先行き不安とともに観光立国を目指すべきであるとの声が出つつある。
「美しい国」。国全体がそういう世界観のアミューズメントパークを目指している。
ヒントはいくつかある。アニメで言うなら「クールジャパン」「聖地巡礼」もその一環だろう。
「活気ある街作り」の集積によって美しい国が実現される。
観光立国を目指した都市景観を考えると「くたびれた人間」は存在してはならない。
活気ある街作りとは矛盾が生じるから「くたびれて帰宅する人」の姿を目にしたくない。
くたびれた人間を隠したい気持ちは特に「観光」を意識する人種ほど強いだろう。
観光に携わる人間ほど「景観に害を与える」くたびれた人間を敵視しているはずだ。
さらに政治家や資産家などの決定権を持つ人間も観光を強く意識しているだろう。
そのような人間が決定を下すからKKOはいつまでも救済されない。
根本的には、そろそろ「活気ある街作り」という方向性自体を見直すべき時期であるように思う。
他国の観光立国を見ても必ずしも活気ある街作りを目指す必要はないように思える。
観光には活気どころか「ゆったり感」「のんびり感」の方が求められているのではあるまいか?
さらに少子高齢化の加速する日本において今後も「活気」という方向性で勝負するのは厳しいだろう。
「都市景観を守るためにKKOを隠す」方向性が無理となれば「KKOの存在にあわせた都市景観」を考えなければならない。
「活気ある街作り」という映像のリアリティをなくしてしまえばいい。
例えばキャラクターがタバコのポイ捨てをした時に、マナーという点からキレるような
不思議なことに、マナーに対してキレる人が、凶悪犯罪を犯した犯人のキャラクターに対しては冷静だったりする
創作物だからそこでキレる必要はないんだが、これでは整合性が取れない
結局の所、キレる因子というのはどれだけ身近な出来事で、想像できるかどうかにかかっている
事象と人の距離によって反応が変わる。「感情の距離依存」とでも言おうか
この現象は色んな所で見かける
例えば、犯人と被害者が居た時に、被害者側の危機管理を叩くという不思議なケースが存在する
これも、叩いている人にとっては被害者側の方が距離が近いから起きることだ
犯人は遠いから、その人がどれだけ凶悪犯でも「怖い」とは思っても「叩く」に至りにくい
何かの事件(例えば人が死ぬような)が、知人に起きた場合、日本で起きた場合、海外で起きた場合をイメージして欲しい
海外で起きた殺人事件に対して、若干茶化したところで炎上はしないが、国内だと炎上してしまう
ある人にとって遠い出来事を適当に茶化したら、近い人がキレるという現象もある
変な話、好きな創作物の中の出来事と、海外の出来事だと、創作物の中のほうがより「現実」であったりする
だとすれば、無自覚に距離感のみによって感情を動かされている人と言うのは現実と創作の境い目が曖昧なのかもしれない
まあ、インターネットニュースで起きてることなんて、ほとんどの人にとっては創作のようなものだ
しかしそれによって、身近な人を傷つけている可能性があるというのも事実だと思う
あと、キレている対象、炎上している対象が一番悪いものかと言えばそれはNOだと言える
その出来事は大衆が「より身近に感じられる」からキレているわけで、だとしたらもっと闇が深いものは別に存在するだろう
荒れてるからと言って悪い状態とは限らない、ただし感情的な人にとっては由々しき出来事なのだろう
私は、名もなき1人のオタクである。最近ある悩みで苦しんでいるので、整理するためにここへ記そうと思う。長いぞ。
私は普段、アニメ、イラスト、漫画、ノベル、ゲーム、音楽、動画、等など様々なオタク的コンテンツを楽しんでいる。が、それらを自分で作ることが出来ないのだ。当たり前のことのように思うかもしれないが、私はそこに強いコンプレックスを感じている。
コンテンツには絶対に作り手がいる。そりゃそうだ。作る人がいなければ、何も生まれない。
さらに、オタクの世界には「ファンアート(二次創作)」という文化がある。自分はこれが好きですよ、とハマっている作品のキャラクターを描いたり、そのキャラの登場する小説を書いたり、動画を作ったりすることだ。オタクをしていると、それらを目にする機会がとても多い。上手い下手はともかく、全てのオタクが何らかの創作活動をしているのではないかと思ってしまう程度には多い。オタクは、オタクが生み出したものを目にする機会が途轍もなく多いのだ。
だが私は、絵も満足に描けなければ、小説も書けないし、音楽が作れるわけでもないし、何も生み出せない生産性のないオタクだ。
自分なりに考えてみた。
魅力的なコンテンツがあって、それを好きなオタクのコミュニティがあって、そのコミュニティは大抵絵や小説が描/書ける人間で構成されていた。少なくとも私の周りではそうだった。(オタク友達を求めて入った部活が美術部や文芸部だったからね)
生産が出来なければ、オタクの輪にはまず入れない。友達ができない。
私もオタクであるはずなのに、何一つ生み出すことが出来ない。ただ消費するだけの存在。世の人々(私の目に映るオタクたち)が当たり前のようにやっていること(創作活動)が、私にはできない。技術力も、才能もない。今更頑張る勇気もない。
素晴らしいものを見て、聴いて、私も同じことが出来たらどんなに素敵だろうかと夢想するだけの日々だ。
絵を描いたり、小説を書いたり、音楽を作れたり、動画を作れたり、立体物を作れたり、作品の考察を発表したり、そういう生産者側への憧れが非常に強く、消費するだけのオタクに価値はないと本気で考えているのに、どこまで行っても結局消費者でしかない不甲斐ない自分。
最近ではどんなに良い創作物を見ても、罪悪感と劣等感ばかりが己の中に積もり、楽しめない。
コンテンツに深くハマっていくほどその裏にある作者の存在を意識せざるを得なくなる。生産者の才能への嫉妬、生産の努力すらしようとしない自分への苛立ち。
だんだんと、オタクコンテンツを見ること自体がしんどくなる。しかし私の趣味はそれしかない。
幼い頃からパンピの持て囃す流行のアーティスト、アイドル、ドラマ、スポーツetc…には唾を吐いて生きてきたのだ。今更手のひらを返して推すことはできない。
こんな私だが、創作的な活動をしてみたいと手を出したことはある。
漫画を初めて読んだ小学3年生の頃から絵は描き続けているし、ライトノベルにハマった高学年の頃から数年間小説の執筆にトライもした。
ボカロが流行っていた中学時代、楽曲制作に憧れてギターやピアノを始めた。DTMの勉強もそれなりにした。
MMD等のCG動画にハマった頃は動画も作ってみたし、3Dキャラクターのモデリングにも挑戦した。
拙いシステムとクソみたいなシナリオとゴミのような立ち絵で、自作のゲームを作ったことだってあるのだ。
しかし何一つ、満足に完成させることはできなかった。自分で納得のできるものは作れなかった。納得ができるクオリティになるまで粘り強く努力をするだけの忍耐力もなかった。
軽率に何かに挑戦し、すぐに諦めるダメな自分。結局無産な凡人のまま。
才能のある人が羨ましいと喚きながら、努力をしない自分から目を背け続けている。
オタクとして生きていくのがつらい。でもオタク以外の生き方を知らない。オタクっぽくない話はできない。
絵描きは絵描きしか相手にしないという話が一時期Twitterで話題になったように、生産者でなければオタク友達はできないように思う。(大抵のオタクは創作活動をしているという前提)(その前提が間違っている可能性には気がつかないふりをしている)
この状況を打開できる策はまだ思いついていない。
なにもかも諦めて消費者として一生を終えるしかないんだろうか?
どうなんだろうね。
ちなみに今私はバーチャルYouTuberにハマっている。
好きになったものに軽々しく手を出す癖だけは治らないので、自分で描いた立ち絵を動かして、ボイチェンを使って美少女ライバーごっこをしようとしている。
DRAFT Guidelines on the implementation of the Optional Protocol to the Convention on the Rights of the Child on the sale of children, child prostitution and child pornography
https://www.ohchr.org/EN/HRBodies/CRC/Pages/DraftGuidelinesOPs.aspx
パブコメ総数300程度だったらしい。
どうやらツイッターで騒いでいる人間の大半はやはり本当にただ騒いでいただけの様だ。
…ある意味では予想通りとは言え、本当に呆れ果てる。
本当にこいつら人にはあれするなとかこれをしろとか偉そうに言う癖に実際には動かないのが大半なんだと言う事を今回も再認識させられた。
普通に英語できなくても短い単語程度ならgoogleなりの翻訳使えばいけるものなのにな。
こいつらはいつもそうだ。
土壇場になったり、手遅れになってから急に焦り出し動き始めたりするのが大半。
この構図にも本当うんざりしている。
昨今では著作権の時もそうだったしな。
本当、例のあいつらなんて選挙の得票目的の為でしかオタクを利用していないしな。
本気で呆れ果てる。
ただ流石に今回は日本だと日本マンガ学会はちゃんと提出をしていてまともな団体だなと個人的には思ったりしたけどね。
https://www.jsscc.net/info/130534
それだけにあの手のツイッターの連中は本当に騒いでいるだけの奴らだったんだなと余計に再認識させられるよ。
後、Prostasiaの署名の方は17620集まったらしい。
つーか、こっちの署名の方だけで満足した人も多そうな気もする。
そして国としてはやはり日本は相変わらず弱腰な態度が見え、オーストリアは明確に第61段落を問題視して、ドローイングや漫画は児童ポルノとして扱うべきではないと言う反対意見を出してる。
団体も今回はやはり61段落から63段落(漫画を児童ポルノに含めようとする段落ね)を問題視している所も多く、賛同している所よりも問題視している所の方が多い。
後、そもそもその他の団体はこの段落自体を触れている所が少ない。
(つーか、あのエクパットスウェーデンがOPSC、2cを予約とかで創作物規制であるこの段落にコメントしないとわざわざ公言しているのは表向きに名指しされたのも関係ありそうだなと個人的に思ったりもした。)
個人についても200以上が61段落から63及び64段落に触れている人が大半なんだと。
そもそも一般人所か団体ですら創作物まで含んだら実在児童の保護と言う観点から各国の児童ポルノ禁止法の定義自体がおかしくなる点は今回も普通に突っ込まれていたからな。
後は43段落(ブロッキング)や68段落(単純所持規制)辺りが突っ込みを受けたようだ。
また50程度のパブコメが文章自体一緒だったから一つに纏めたんだと。
しかし以下に他の条文が良い代物だとしてもこのような逆に自らの思想の為だけにある種児童の権利を悪用した創作物規制と言う文章を入れるだけで、他の国連の会議のメンバーも同罪だと言う事を判っているのかねえ?と思う。
これメンバー自身が問題点を判っていながら反対せずに盛り込んだならより悪質だよ。
つーか、場合によってはこんな事ばかりしていたらそれこそ国連と言う団体や自身の元々所属している団体自体の品位や信頼自体を失う事になると思うんだがな。
以下に児童と言う弱者の権利を盾にして、一般人は反論しにくい話題であったとしても余りに理不尽かつ、現在では冤罪等が起き、裁判で否定されたり、法律で児童ポルノではないと明確に定義されているにも関わらず、国連と言う権力を使い、児童ポルノに創作物を含めようとする行為自体、逆に実在児童保護の観点から定義の混乱を招き、その児童と言う弱者の権利を貶める事にもなるんだし、その権利自体を侵害するような事ばかりしていたら、今度はその規制を自身の思惑の為だけに推進する奴等の立場自体が、逆に不味い事にもなりかねないと思うんだがな。
ある意味では今回国連側が児童の権利を悪用して規制を強要しようとしているとも言えるのだから。
今回の件に関しては、過去海外で冤罪が発生した上で、尚且つ各国で実在児童の法律として運用されている時に国連はこんな逆に法律の定義自体を混乱させかねない事を言い出したんだから、普通に創作物規制抜きにしても児童保護の観点からみても今回の国連のガイドライン自体が問題としか言いようがないんだわ。
普通に私も児童の権利に国連が寄生して、こんな創作物規制をするよりも普通に児童保護施設に予算を組む等の方にリソースを回せってコメントを普通にしたよ。
多分これは私だけじゃなく、まともな人間や団体ならば普通に思うはずの事だぜ?
つーか、保護団体はパブコメでも予算回せって書いていたぞ、普通にな。
本当国連と言うある意味では一国より重い、システムを構築してしまう代物をその人選自体、ローテーション形式でたった18人の人間に決めさせると言う方式自体まず間違いだと思うわ。
こんなシステムだからこそあのふざけた団体も国連で大暴れするようになってしまうんだろうさ。
つーか、これ初めから英語、スペイン語、フランス語であり、余り表向きに宣伝せずにパブコメ募集しだした時点であからさまな日本潰しだと言われていたもんな。
しかし本当いつもながら手口が汚いと思う。
ただ少年漫画は少年漫画で、「男の子」「女の子「大人の男性」「大人の女性」の描き方は結構テンプレ化されてること多いよねー
キャラに影響される子ばかりではないと思うけど、影響される子がゼロなわけでもなくて
今はジェンダーバイアスの話が花盛りだけど、ガイドラインを設けるべきみたいなそんなガチガチの話じゃなく、たとえばの話、普通に少女漫画の主人公の担任の男性教師のパートナーが同性とか、そういう世界があってもいいのになーと思う
(ただそうなると一部の腐女子が鼻息荒く群がってきそうなのが問題だけど……)
そういう意味では今期ドラマ化されてる「きのう何食べた?」の主人公の男性弁護士とかは、もし別の作品に脇役として出てたら面白いし革新的だなって感じる(実際は彼が主人公なんだけどw
ちょっとわからないんだが、なぜ物語やキャラクターの造形からジェンダーバイアスを排除しないといけないという話が出たんだ??
ジェンダーバイアスというのは「一般的な心理に根付いている」から是非を問われているのであって、つまり現代を舞台にした創作物ではバイアスがかかった状態が基本なのではないの?そこからそれぞれのキャラクタに特徴づけをするのではないの?
そんな、いくら望ましくないからって現実に存在する現代人のバイアスを取り去って、モブから主役まで偏見なくふるまうような物語は、逆に世界の不完全さを見て見ぬふりするだけで不健全に思える。
マフィアの話を描こうというのに全員優しくて法も犯さず暴力にも頼らず仲良くダイエットコーラを飲んで禁煙パイプ吸ってるようなものじゃないか?
全体的に「鍵をかけなくて良いのでは」という論調にまとめてしまったけれど、自分はツイッターは鍵をかけているし、検索避け済みパスワード指定の出来るSNSでしか現在は作ったものをあげていない。
青い鳥のSNSで半生の二次創作は役者さんに迷惑がかかるから鍵をかけろという話が回ってきたので今度はなんの炎上話かと調べた上で、そう言えばなんで鍵をかけているのだろうと自分でもよくわからなくなってきたので考えをまとめたくなった。
よく言われるが、御本人そのものを題材とした生とは違い、演じているだけの半生でそこまで嫌がるものなのだろうか。
これは嫌がらないから表に出せといいたいわけではなく、実際にそう言われている役者さんの発言を自分が見たことがないから不思議になったが故に思った。
むしろ生で、なおかつ二次創作ではないガチのファンのかたの性的な妄想のほうがきついときもある。
こういった人たちは鍵をかけるということをしない。知らない。
某アイドル系の人が主演のドラマが面白かったので御本人のお名前で検索したところ、性的な意味合いのとてもきつい発言が多数引っかかってげんなりしたことがあった。
実際に発言主がそういうことを某アイドル系の人にやられているという趣旨の内容の発言もあった。当然妄想だろうが。
というか、生はセクハラにも当たるんじゃないのかな。正直にいうとドン引きした。勝手に自分から見に行っておいてごめんね。
年齢層も若い子だけかと思いきや全然そんなこともなく幅広かった。
また、二次創作イラストを御本人が集めている写真がブログやSNSに上がっていたり、役者さんが同人イベント会場に来ていたりという件もある。
こういった役者さんが演じている場合は上記の理由は当てはめられない。
よく聞くけどこれ普通の漫画や小説、アニメも一緒だと思うのだけれどどうだろう。
読み終えた漫画の感想を青い鳥のSNSで検索したところ、上の方に二次創作でBLカップリングのイラストが出てきたことがある。普通に感想が見たかったので驚いた。
また、別の視聴層には子供が多そうなアニメのキャラクター名を青い鳥のSNSで検索したときに、二次創作のイラストが出てきたことがある。
わかるよ、一般書店の端っこの方に何故か置いてあった海賊同人誌でそういう印象を持ってしまった漫画やそういう印象を持ってしまったキャラクターがいるからね。
それが理由だったら普通の漫画やアニメ、小説などにもそういった印象がついてしまうので是非とも鍵をかけてほしい。これは若干本気だ。
ついでにいうと、イメージがつくのは役者さんではなくキャラクターにではないだろうか。
何度か都市伝説的に聞いたことがあるが、実は実際にこういうことだったと聞いたことが無い。
自分が知っている公式に言われて消えた同人は、現在○関係で漫画を描いている漫画家がサイトに載せていた△関係の漫画を下げた件だ(当時のブログの表現的に公式にやめろと言われたと読めたのでそう表記したけれども、実際は違うなどありましたら申し訳ありません)。
結局同人誌として復活した作品だが、あれは前述の理由に当てはまるとは思えない。
また、アイコンが青っぽいイラスト等SNSと同じところがやっている創作物総合マーケットでは、日曜朝に放送されている子供向け番組のガワを使った同人グッズが販売中止した。
ちなみに変身前のものは消されず、変身後のものなどは消された。
立体物の版権はガワのほうが強いのかもしれない。
他にもあのジャンルであった、このジャンルであったという噂位は青い鳥のSNSなどで何度か散見したが、実際それについて詳細に書かれたページが見つからなかった。しかも大半が生であって半生ではない。
某アイドル事務所物で活動していた人が土下座したなんて話は十年以上前から耳にするが、詳細はほとんど出てこない(もしソースとなる詳しい事件を知っている方は教えていただければ幸いです)。
なんで半生はこんなに危険だと言われているのか、誰が嫌で隠されているのか、なんで二次元ジャンルは隠れずにあんなに堂々としているのか。
個人的には、性的な内容の含まれるイラストなどはセンシティブなものとして設定してもらえると有り難いが、これは自分が行うわけじゃないし他人に強要もしたくない。
前に公式の名称で検索して眺めていたら、公式で結婚した男女二人組の性的な行為の最中のイラストが出てきた事があった。できれば見たくなかった。
できれば公式より踏み込んだ物に対しては、青い鳥のSNSよりはワンクッションある場所に置いてほしいと思った。
現在は青っぽいアイコンのイラスト等SNSや、青い鳥のSNS連携のイラストや文章をあげられる場所などがいくつもある。そういった場所にあると突如被弾することは減る。
他人を変えるのは難しいし、それぐらいなら自分が何かするほうが楽だ。
自分は、なにかあったときに同意をした人にだけ見せていたとせめて言えるように、古の同人サイトが如くパスワードをつけられる検索避け済みSNSなどを利用する。
最悪の時の免罪符になる。
ところで、今までは無いからといって今後は無いとは限らない。
一般人の目に止まったから騒ぎになるのが確率的に高いのではないかと自分は考えている。
体感的に一般人の多さは青い鳥のSNS>青いアイコンのイラスト等SNS>その他個人サイトやgoogle検索避け済みパスワード付きSNSだ。
なので、一般人が多い場所が焼かれているうちに、もっと奥地に潜んだ自分はケツまくって逃げる予定だ。
こういったときにオンラインだから晒されるんだ、オフラインで同人誌を出せば良いという発言が流れうことがある。
同人誌をプレボに入れるなどの都市伝説は置いとくとしても、とある中古同人ショップは買い取った本のジャンル名やタイトル、カップリング、サークル名を丁寧に書き出してネット上に載せている。なんなら表紙も上がっている。
ところでアレはどこから情報持ってきてるんだろう。検索避け済SNSのパスワード付きの場所でしか発行を告知しておらずなおかつ頒布部数が両手足の指の数しかない本もデータベースに入ってたんだが売った人がいるんだろうか。
役者さんが唐突に「友達からもらった」と書いてブログにあげた画像が、青いアイコンのイラスト等投稿SNSにしかあげられていないものだったりする。
これはナマモノだが、検索避け済みSNSのパスワード付きのイラストを、腐女子ではない一般のファンと名乗るアカウントが転載したこともある。
いくらどれだけやっても見つかるときは見つかるし、晒されるときは晒される。
考えていてもわからなくなった。
一応書いておくと、もともとは公式がやっている場所までと思っていた。
公式と青いアイコンのイラスト等SNSがコラボしたためにおそらくは公式が投稿されたイラストや小説を見ているだろうとあるジャンルは、公式でキスシーンがあったがそこまではファンアートとして青いアイコンのSNSにあげてもセーフなのだろうか。
日曜朝に放送されていた子供向け番組のネット配信では男性同士のベッドシーンがあったが、これはファンアートとしてそこまで描いてあげてもセーフなのだろうか。
また、原作がドラマのジャンルのコミカライズで何かを描く場合は、コミカライズ準拠ならば二次元ジャンルがそうであるように隠れずに公開しても良いのだろうか。
外見はドラマのコミカライズなためにほとんど役者と同じだが、それでもコミカライズの設定ならば良いのか。コミカライズが原作とほぼ同じものでしかない場合はどうなる。
ここまで書いてみて、やはりどこからが危険でどこからがセーフなのかわからない。