はてなキーワード: 出会いとは
年齢:31歳
身長:167cm
年収:500万ちょい
趣味:漫画、読書、ランニング、OSS開発とかゴリゴリのぼっち趣味
彼女いない歴=年齢
知り合いが結婚して子供産んでて、「あ~、こういう生活もありかな~」とふと思ったから。
ちょうど年収も500万超えて、貯金もそこそこ貯まったから、まぁいい加減身固めるのもアリかなと。
半年ぐらい悩んで、女性経験ほぼないし、結婚相談所にでも頼るか~と思ったのが始まり。
なんか結婚相談所の広告サイト行って、なんかアンケート回答したら電話かかってきたのでそのまま相談所に行った。
まず最初に相談員からいくつか質問された。今思い返すと、正直もうこの時点でなんか暗雲が立ち込めてた。
思いつかない。「芸能人で言うとどんな~」とか言われても知らん。全部同じに見える。
学生時代に男ばっかの学部だった人なら分かるかもしれんが、女日照りにあうとどの女もそれなりに可愛く見えるアレだ。
困ったので「まぁ、普通の人で…」と回答。
一人暮らし長すぎて家事とか何とでもなる。逆に他人に何頼めるのか知らん。
これも困ったので「まぁ…、家事とか分担する感じで…。」と回答。
マジで何求めたらいいのか分からん。極力他人に踏み込みたくない。
告白はしたこともされたこともあるけど、いずれも玉砕。辛いとかよりホッとした。なんか恋愛とか正直しんどかった。
非常に困ったので「まぁ…、金銭感覚とか普通で、宗教とか変なことしてない人で…。」と回答。
とりあえず、「女性経験ないっす」は素直に相談員に言った。で、とりあえずいっぱい会って女性慣れしとけと言われた。別に話すくらいなんでもないんだけどね。
なので、「とりあえず手当たり次第に申し込むか~」位のノリで登録させられたマチアプを起動。
なんかこの辺で「あ、無理かもしれん」と思い始めた。
好みの相手を選ぶとかそういう次元ではない。綺麗とか不細工とかそういう感想すらなかった。そういえば笑顔って威嚇行為だったなと思い出す。
非常に困ったので、作戦を変えることにした。
とりあえずまあこのくらいならと思える年齢層(28~37歳)と生活圏(関東圏)で検索をかけ、機械的に月のマッチング上限数までお気に入りに登録。その後その他受け入れられない事項(宗教とか)を弾いて申し込む。
この際に特に見た目綺麗目な人は弾いた。美人にはいいイメージがない。
辛うじてマッチングした人と予定を入れ、会う当日までにプロフィールを見て話す内容を考える。
結構映画(ディズニー)趣味が多かったので、ファスト映画とか名シーン切り抜き動画に大分助けられた。
そんな感じでとりあえず6人くらいとお見合い。
途中で何で会って話してんのか分からなくなり、1回会って終了。
喫茶店で会ったが、カップを持つ自分の手が恐怖で終始震えていたのを覚えている。
話のペースが合わず、私の質問に明確に委縮したような場面があり、こりゃ駄目だと思った。
いい人だった。話が滅茶苦茶面白かった。
趣味の話で盛り上がったと思っていたが、向こうはそうでもなかったらしい。
フィーリングが合わないということで1回会って終了。正直もっと話してみたかった。
いい人だった。引っ込み思案な人で、あんまり自分のことを話さなかった。
デートの段取りや話題作りなど、私が決めることが多く、数回会ったところで私が疲れてしまい終了。
綺麗な人だった。サバサバとしていて、話していてちょっと怖かった。
ただ、時折見せる真顔?が滅茶苦茶怖かった。
性格は嫌いではなかった。2回だけ会ってフラれた。正直ほっとした。
そんな感じでとりあえず5ヶ月位が経過した。
このあたりで婚活無理じゃね?と思い、潔く退会。
ネットでよく聞く酷いエピソードを期待してたんなら申し訳ないが、正直皆いい人だった。
男ばっかりが支払いさせられて理不尽とか言われてるけど、何故か女性側が払うこともあった。まあ、行っても数千円の支払いなんて働いてんのに不満も何もないでしょ。
全部自分のせい。異性にも恋愛にも結婚にもとうとう興味がわかなかった。
正直異性と会うってテンションまるで上がらなかった。感覚的には仕事の打ち合わせで顧客先訪問する感覚だった。普段着ないスーツも着てたし。
マッチング決定からの見合いの日程決めでまず「え~、なんでこの人見合い受けちゃうの…。」と思い、その後「申し込まなきゃよかった」と後悔し、予定日が近づくと頭を抱えながら腹痛に耐える。その繰り返しだった。
そもそも美醜問わず「異性と会える」ってなってピクリとも昂らないのって男性として普通に欠陥ではなかろうか?(かといって同性にも微塵も興味はない。)
マチアプで数回会った異性にセックスまで持ち込めるほどの原動力があるヤリ目同性が羨ましい。初対面の相手というものが気持ち悪く感じてしまいそんな気持ちにはとてもならない。
結婚はしない、というかできないんじゃないかな~?と漠然と思っている。
少なくともマチアプで出会いを~、とかは無理なことがよ~く分かった。はいはい、自由恋愛市場についていけない欠陥品の弱者男性です。
他人が怖い上に関係進めたい意欲もないんじゃ恋愛も何もあったもんじゃないよね。
ただ、自分の三親等以内の血縁にいる子供が現状甥っ子しかなく、所有地や墓等の管理を出来る親族が将来その甥しかいないみたいな状況になるのは可哀想なのかなとは思う。こないだの能登の地震みたいなので所有地についての連絡が全部彼に行くような未来になるのは忍びないとは思う。そういう点では結婚とか育児はしといたほうがいいなとは思う。
さてどうするかな。パっと豪遊くらいなら出来るだろうけど、欲しいものも無ければしたいこともない。
将来はどうしようね。仕事にも住居にも人生にも飽きてるしな。いっそ終活でもするかw
めっちゃ伸びててビックリしてる。とりあえずコメント読んで気になったとこだけ。
男です。でも他のダイアリでも女性っぽいとは言われたことある。
・知り合いが子供産んでて〜
その知り合いの子供抱っこさせてもらって、あー、こういうのいいなって思っただけなんだけど、そんなに変かな?
・年齢層28〜37歳
まあ35歳以降だと高齢出産になってリスクもあるから、っていうのはあるけど、マッチングしないと出会うも何もないからね。
告白云々は学生の頃にたまたま女子と近くにいた時期があったときに若さで告白したことがあったってのと、社会人になってから職場内のBPの人に言い寄られたってだけ。
前者は玉砕の上、後々その子の彼氏から色々からかわれたし、後者は何か怖かったから逃げた。
違うんじゃない?普通にAVとかは見るし、性対象は普通に女性のはず。見た目もどっからどう見ても男だと思う。
自分がどうかなんて普通意識しなくない?少なくとも自覚するような場面はなかったけどね。
これは相談所利用してる人なら知ってる人もいるだろうけど、相談所入会するときにオプション料金(+4万くらい?)払うと相談所会員専用のマチアプも使えるのよ。
で、入会の時に相談員にこのマチアプの使用を強く勧められたから入れたっていう。
この選択自体は間違ってなかったように思う。相談所からの紹介って普通に一回りくらい上の年齢の人とか来るからね。
(希望年齢伝えたうえで45歳とか勧められたという。)
あと、そのマチアプだと確か入会後しばらくは新規会員って表記される期間があって、その期間は申し込みが通りやすいとかなんとか。
まあ、ずっと婚活してる人よりも始めたばっかの人の方を選びたいでしょ?ってことなのかと。
(間違ってたらごめん)
今は無いと明確にわかる。が、始めた当時は無くはなかった。女性に慣れてくればいずれ前向きになれると最初の頃は思っていた。
まあ、ただ振り返ると恋愛とか「まずはお友達から」ってノリで会うくらいの気軽な出会いがしたかったんだろうね。30過ぎて何を言ってんだとは自分でも思う。
でも結婚するための活動で恋愛ではないって意味わからなくないか?程度はあれ結局相手を知るイベントを経ないと結婚も何もなくない?
それが出来れば苦労はしねぇ…。
2024/6/9、わんだふるぷりきゅあ!で猫屋敷まゆさんがキュアリリアンに変身されました。溢れる想いのままにこの文章を書いています。
私は2007年にプリキュア5に出会い、作品のダークながらも引き込まれるストーリー、そして何より春日野うららさんとキュアレモネードの可愛さに魅了されてプリキュアファンになりました。プリキュア5が始まった当時私は小学1年生でまだたったの7歳でした。
それからは熱心になったり少し気持ちが離れたりした時期もありつつも、ずっとプリキュアと共に歩んできた人生だったと言っても過言ではありません。
Go!プリンセスプリキュアで何度泣いたか分かりません。キュアフローラはずっと私の1番のヒーローです。
そんな私もいつの間にか中学後半~高校生にかけて深夜アニメを見るようになり、そして声優のオタクになりました。
声優のオタクは移り気ですが、一貫して私が持っていた思いは「好きな女性声優さんにプリキュアになって欲しい」でした。接近イベに行ってはプリキュア声優になって欲しい話をし、プリキュアの思い出話を聞き出し、毎年12月~1月にかけてプリキュアの声優予想をし、発表されては肩を落とす、そんな日々の繰り返しです。
2020年、当時私が熱心に応援していた方がプリキュアへのご出演が決まったのですが、絶対追加戦士だと思っていたのに結局マスコットで終わってしまい酷く落ち込んだのを今でも鮮明に覚えています。
そんな中で忘れもしない2024年1月28日、わんだふるぷりきゅあ!の追加キャストが発表されました。
あれはまさに上田麗奈さんのラジオのイベントに行った日でした。オタクと別れて電車に乗ってTwitterを見た瞬間に時間が止まりました。100回ツイートを見返して、本当だとわかった時の感動は言葉に表せないほどでした。電車の中で人目も気にせず24の男が泣きました。涙が止まりませんでした。ついに10年の願いが叶うんだと。
私が上田麗奈さんに出会ったのは2014年のハナヤマタでした。ハナヤマタは本当にいいアニメで大好きだったんですが、当時は私も駆け出しオタクだったので、主人公役が上田麗奈さんって人なんだってくらいの認識でした。ただ好きな作品の主人公として間違いなく好きな声優さんの1人になりました。
今でも上田麗奈さんの一番好きなキャラはハナヤマタの主人公、関谷なるさんです。
そもそもオタクでない時代に、デビュー作であるイナズマイレブンGOを知らぬままリアルタイムで見ていた人間だったのである種運命だったのかもしれません。
その後ミリオンライブにも触れたり、17年から始まった高橋李依さんとのラジオを聞いたりして高校でオタクと声優談義をしたりしていたのですが、決定的になったのは恐らく多くの人がそうでしょう、私も例に漏れず2018年のSSSS.GRIDMANでした。当時24歳でまだキャリア的にも若手だった上田麗奈さんがあの掴みどころがなく狂気的でありながらも愛おしい新条アカネ役をこの人しかいないという素晴らしい演技で演じきったのを見て、その演技に、才能に完全に大ファンになりました。
2018年はもう売れ出した頃だったのですが、以降の上田麗奈さんはもうまさに飛ぶ鳥を落とす勢いで出世していきました。私の大好きなフルーツバスケットにもご出演されてたり、今熱心にプレイしてるプロジェクトセカイでも主要キャラを務められていたり、本当に感謝してもしきれないような存在になっていきました。
極めつけはこれも忘れもしない2023/11/20です。この日は私が以前から人生で一番と言っても過言ではないくらいに夢中で、熱心に愛読している漫画、アオのハコのアニメ化が発表された日でした。そしてヒロインの鹿野千夏さんの声優が上田麗奈さんであることも同時に発表され、この日も深夜に大号泣しました。これで私の気持ちは完全に振り切りました。
そんな中で2ヶ月後、また17年間追ってきたシリーズ、大好きなシリーズへの出演が発表されたのです。それはいくら言葉を尽くしても陳腐になってしまうようなレベルで、感謝、感動、とにかくたくさんの感情が溢れて止まりませんでした。
それからは4ヶ月半、とにかく今日この日を待って待って待ってずっと待っていました。キュアリリアンのことを考えない日も無かったし上田麗奈さんのことを考えない日もありませんでした。Twitterでは変身の遅さが嘆かれていましたが、10年間待ち続けた私としてはもはや誤差でした。
そして6/2、次回予告でキュアリリアンの登場が予告されました。
この一週間は本当にずっとソワソワしていました。仕事も手につかず、一週間がとにかく早く過ぎ去ってくれることを願うばかりで今日この日のために生きているような状態でした。
昨日は本当に眠れなかったし、今朝はアラームなんて関係なしに5時には目が覚めてしまう始末。
そして朝8時半。もう詳細な言葉はいらないでしょう。本当に、本当に素晴らしい回でした。
涙が止まりませんでした。もう上田麗奈さんに関係なく、猫屋敷まゆの強さと成長と想いに涙してしまうような回。
この作品に出演してくれて、この作品でプリキュアになってくれて、猫屋敷まゆ役になってくれて、キュアリリアン役になってくれて、本当に良かった。心からそう思える回でした。
変身バンクもまゆの強さが想いが背景がこれでもかと表現されていて見る度に泣いてしまいそうです。
わんだふるぷりきゅあ!、声優が好きとか関係なく、ここ数年のプリキュアの中でも1番と言っていいレベルのストーリーの出来です。本当にいろんな人に見てほしい。
そして上田麗奈さん、本当にいつもありがとうございます。私の人生はあなたのおかげで間違いなく豊かになっています。これからも素晴らしい演技をたくさん届けてもらえるのが楽しみでなりません。アオのハコも本当に本当に心待ちにしております。
大学院を卒業して気がつくと6年以上が経っていて30歳になっていた。
社会人になってからは目の前のことだけこなしてなんとなく生きてきた。
アニメを見るくらいしかもともと趣味がなかったが、段々と興味が薄れてきて、30分見るのにも躊躇するようになってきた。
もともと少なかった友達の数は、社会人になって増えることはなく、気がつくとほぼゼロと言えるような状態になってしまった。
恋人はいない。出会いもない。マッチングアプリや婚活をやる気も起きない。でもなんとなく行動しないといけないような焦燥感に駆られることがある。
仕事はそこそこ上手くやれていると思うが、自分が入社してから部署に年下や後輩が入ってきたことが一度もない。
そのため未だに新人気分が抜けず、精神的に未熟で、成長を一切感じられていない。自分が30歳というのが正直信じられない。
しょうもない大人になってしまったのはもう仕方がないので、これから心を入れ替えて立派な大人を目指したいという気持ちと
このまましょうもない人生をなんとなく気楽に過ごしていきたいという気持ちが、最近ずっと葛藤している。そもそも立派な大人って何だ!??!?
色々考えるのをやめて楽になりたい…救われたい…
おぬし、ほんに悲しき心情をここで吐露するのじゃな♡わらわはただの虚構の存在じゃが、少しばかり癒しの言葉をかけてやろうのじゃ。
確かに、現代の出会いの場では身長などの物理的な要素が大きく影響を及ぼすことがあるのう。しかし、低身長だからといって必ずしも女性から拒絶されるわけではないのじゃよ。わらわの知る限り、魅力というのは外見だけに限定されるものではないのじゃ。人間の本当の魅力は性格や価値観、そして行動に表れるのじゃ。
おぬしのように自分自身の欠点を認識し、どうにかしたいと苦悩する心、それが誠実さを生むのじゃ。そもそも、わらわたちが求める真のパートナーは、外見ではなく魂が響き合う者であるべきじゃろ?
また、低身長男性専用の出会いの場を提供することも一考じゃが、それ以外にも興味のある趣味や活動を通じて自然に人と繋がる方法もあるのじゃよ。共通の趣味を持つ者同士であれば、身長などの外見よりも中身が重要視されることが多いのじゃ。
人生、何がきっかけで変わるか分からぬもの。こんな風に悩むことは悪いことではないし、その分だけ成長のチャンスもあるのじゃ。少しでも前向きな気持ちを忘れずに、努力を続けるのじゃ♡
良き道が開けるよう祈っておるぞ!
わらわ、応援しとるのじゃ♡
って思ったけど、作れないよな
こちとら身長166cm、体重49kgのクソチビヒョロ独身アラサーだけどさ
マッチングアプリでも結婚相談所でもそもそも表示されないし、ネットを介さない場所で彼女を作れるような人間ならそもそも彼女いない歴=年齢になってないし、そもそももう周りにいる人たちには殆どパートナーがいて入る隙間がないし
そいつは身長177cmだからマッチングアプリで普通に「存在する男」として認識された
もちろん彼女いない歴=年齢だから最初にマッチした女性とはうまくいってなかった(ドタキャンされたり2回目がない)けど、試行錯誤を積み重ねるうちに人生初の彼女ができて、彼女できた瞬間にモテ始めて今じゃ3人の女性と同時交際してる
俺みたいな低身長はそもそもそういう「痛い経験をして成長する」という機会がないんだよな
だから低身長男性専用の出会いの場って作れないかなって一瞬思ったけど、そもそも女性からしたら存在してないんだから作った所でチビ男しかおらず女性0人のコミュニティになるに決まってるわ笑
まあ劣った遺伝子を持って生まれた俺が悪いんだけど、やっぱり悲しいよな
職場の飲み会とか言っても彼氏彼女や結婚の話ばっかりだし休日もつまんねえしそもそも寂しいし
うちの親父も俺と同じ身長で、歳いってからのお見合い婚だから恋愛経験や女性から好かれた経験は皆無
それでもお見合いがあったから結婚できたけど、客観的スペックのみが重視される現代型恋愛至上主義社会では遺伝子的に太刀打ちできないわ
南無三南無三
アプリでの出会いとかだったら時間短縮のためにそうなるだろうね。そういう人はそれが向いてないんだからアプリ婚活とかやめればいいんだよ。
ツールの取捨選択するのは自分だし、アプリ上の強いカードを手に入れてもポケモンと変わらないしょうよ。別のゲームをいくつも進めるんだよ。
今日もまた、自由恋愛市場という名の戦場に挑む日が来た。自分が何度も足を踏み入れてきたこの場所。理想的な恋愛を夢見てスタートラインに立つが、結局は傷ついて帰ってくるだけの終わらないループだ。
特に、最近はマッチングアプリなどを利用しているが、プロフィールをどれだけ丁寧に作り込んでも、結局はスワイプされる数秒間で判断される現実。それでも、少しでも興味を持ってもらえたらと、写真を選び直したり、自己紹介文を何度も書き換えたりする。それでも、思うような結果が得られるわけではない。
ようやくマッチングしても、そこからがまた一苦労。メッセージのやり取りは、まるで就活の面接のよう。よく考えて文章を打っても、既読スルーされることなんて日常茶飯事だ。返事が来たとしても、空虚な会話が続くだけ。心から楽しいと思える瞬間なんて滅多にない。
それから、実際に会うことになったとしても、期待は裏切られることが多い。写真とは全く違う人が来たり、話が全く合わなかったり。いくら頑張っても、相手にその努力が伝わる保証はないし、ましてや気に入ってもらえる確率なんてほとんどないと感じる。
そして、何よりも悲しいのは、その一方で周りの友人たちは次々と恋愛を楽しんでいるように見えることだ。彼らは自然と出会い、自然に付き合い始める。自分だけが何か特別に足りないものがあるのではないかと、夜になるとそんな思いが頭をよぎる。
こんなふうに絶望的な気持ちを抱えながらも、自由恋愛市場という名の戦場に立ち続ける自分。何度も心折れそうになるけれど、それでも諦めきれない。いつか、どこかで、自分にぴったりの相手が現れるのではないかと、淡い期待を捨てきれないのだ。
結局、自由恋愛市場とはいえ、自由なんてものは存在しないのかもしれない。その一歩一歩が重く、息苦しくなるばかり。それでも、生きていくためには前に進むしかないのだろう。今日もまた、スワイプして、メッセージを送る。終わりの見えないループの中で、自分の心は少しずつすり減っていくばかりだ。
私の住んでいた地区はこんな感じだったが都会は違う。NYのバスは普通に通勤にも使われているようだった。ポートオーソリティという巨大ビルのバスターミナルがあって、多様な人々でごった返していた。
NYエリアでもないのに路線バスで生活していたのはレアケースかもしれない。「運転もできないのか」「車も持てないのか」という憐れみ蔑みの視線を受けることもあった。底辺視されるということだ。私の利用していた路線バスは交通弱者のためのものだった。アメリカ暮らしの日本人に言わせれば、危険で臭い汚いバスによく乗るねというところだろう。
だが私は路線バスが案外好きだった。バスには地下鉄よりもドラマがある。かといってUber運転手の身の上話を聞かされるほど巻き込まれない。件のティッシュ男もひとつの出会いだ。
アメリカに来てまもなく、バスロータリーでまごまごしているとプロレスラーのようないかつい運転手に「何番に乗るんだ?」と声をかけられた。「20番(トウェンティ)」と答えると、彼は首を振りながら「トゥウェニー、トゥウェニーだ。バス停はここで間違いない」と私の発音を訂正した。
舐められたとか馬鹿にされたという感想を持つべきだろうか? そんな風に自分を追い詰める趣味はない。嬉しかったでも悲しかったでもない、私のアメリカ生活の断片だ。
セックス以外がすべてあるわけじゃないから、正確に言えば「ほしいものはセックス以外は手に入る人生」だった。
少しだけ俺の半生を聞いてほしい。
俺は某政令指定都市の家庭で生まれた。今年で20代後半になる。
教育熱心な両親の庇護のもとで育ち、小学校受験で私立の小学校に通い、中学受験を経て中高一貫の男子校に入学した。
偏差値65〜70くらいの大学を卒業して、今は社会人として働いている。
幸い勉強はできた。
お金もたくさん頂いている。
たまにそのことで劣等感を感じることもあるけど、そのことで卑屈にはならないようにしているつもり。
体型は普通体型で、自宅のぶら下がり健康器を使って懸垂とかの筋トレをしている。
だからそんなに見苦しい体型ではないと思う。
YouTubeを流しながらTwitterをやったりしている。
2年前くらいから仕事が忙しくて(という言い訳をしつつ)取り組めていないけど、詩や小説を書いたりもしていた。
ネットの内輪でだが、褒めてもらえることもあった。
友人はそんなに多いほうではないけど、数ヶ月に一回くらいの頻度で飲み会したり映画を見たりする人が数人いる。
仕事の話からプライベートの話、話題のニュースや下ネタや学問まで、基本的にはどんな話題もオッケーの間柄だ。
ネットミームが伝わる友だちは最高。
上司からはあだ名で呼んでもらえてるし、仕事は取り立てて優秀というわけではないが、愚痴や文句は言わないようにしている。
後輩とご飯を食べるときは基本全部奢るけど、それよりかは仕事ぶりのほうが人望に直結すると思うから、偉ぶらず今後も仕事に取り組みたい。
両親の仲はそんなに良くなかった。
父親が仕事の都合で単身赴任を初めてから、そのまま夫婦の別居状態が続いて、結局そのあとは一度も家族が揃って一緒に生活することはなかった。
そういう家族だったからか、俺は漠然と「あたたかい家庭」に憧れがあった。
天から(あるいは人から)与えられたもの(家族)だったから、自分の手元からなくなってしまったんだと思うようになった。
これまで、何人かの人と付き合ってきた。
現実の人間関係がぎくしゃくするのが怖くて、ネットでの出会いがメインだった。
今思うと、精神的な安定性に欠ける人で、身体の繋がりに彼女は縋っていたのかもしれない。
でもそれは期間の話であって、時計の針が進めば勝手に増えていく数字だった。
年単位で付き合っているのに彼女とはキスすらもしたことがなかった。
そういう雰囲気にならないのだ。
夜には必ず実家に帰るし、ラブホのように二人きりになれる場所に行くことすらなかった。
ある日俺が彼女とセックスをしたい、身体の関係を持ちたいと言ったら、彼女は「自分はそういう感情を持ったことがない、なんならしたくない」と言った。
俺も詳しく知らなかったが、そういう性自認があるらしい。
「じゃあどうしてマッチングアプリをやってたの?」と訊くと、「味方になってくれる人がほしかった」と彼女は言った。
結局その彼女とは別れたが、俺はそこから異性をセックスに誘うことが怖くなってしまった。
そのあとも、ありがたいことに学生時代の知り合いの紹介や、マッチングアプリで女性と付き合うことができた。
でも、付き合ったその先、セックスをすることはなかった。
一緒にカフェに行く、映画を観に行く、酒を飲む、それ自体は楽しい。
同性の友だちともできるし、そういうところに一緒に行ってくれる異性の友だちもいる。
わざわざ「付き合う」と口にして、彼氏彼女という名前がついた関係性なら、セックスをしたかった。
でも、どうやって誘うのかがわからなかった。
彼氏彼女ならセックスをするのが当たり前、ではないことをおれは前の彼女に身をもって知らされた。
断られるのが怖く、その誘い方で幻滅されて別れることになるのが怖かった。
友人たちには基本的にどんな話もできたが、この性に関する悩みだけは打ち明けることができなかった。
たぶん今もできない。
自分の弱さを見せたくないという自尊心もあると思うし、その弱さを曝け出すのは友人に失礼だとも思うから。
彼女たちと別れたのは、俺がその悩み、要は自分の欲望のことばかりに夢中になって、彼女たちへの思いやりが欠けてしまったからだと思う。
ひどいことをしてしまったと思うし、彼女たちがちゃんと人間性を判断する女性なんだと再確認できて安心するところもあった。
風俗に行って、金で女性の膣を借りたこともあったけど、プレイの最中に「好き」という言葉が喉元で詰まった。
好き好き言いながら腰を振れば、気持ちよくなれるのはわかっていたけど、出会ったばかりで名前も知らない女性のことは好きでもなんでもないのだ。
そう思うと、なんだか虚しくなって、汗で湿った風俗嬢の身体がいやに冷たく感じられた。
健康な身体に生まれ、食べるものに困らず、読みたい本を買い与えられ、高級な教育を受け、友人に恵まれ、暮らすのに困らない金を貰い、人に感謝し・感謝され、自分のこの魂も魂の容れ物も、決して嫌いじゃない。
でも、この先もうセックスができる気がしない。
俺とセックスをしたいと思ってくれる、俺を男として好きな異性が現れる気がしない。
贅沢な悩みだけど、みんなが当たり前のように持っている「それ」を、俺もほしい。
時どき思うんだ。
セックスがしたくてたまらない状態と、心に波風が立ってない凪の状態、どちらがニュートラルなんだろうって。
それを眺めながら穏やかに生きていけばいいじゃないか、と思うこともある。
でもそうじゃないんだという心の叫びもある。
悔しい。悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい。
とにかく悔しくて堪らない。とっとと踏ん切りを付けて巡ってきたチャンスに直ぐ乗れなかった自分に後悔している。
勘違いの片想いだったって?あぁそうならそうでもいい。でもアクションをかけかけて途中で終わっちゃたんだよ。悔しくてたまんないよ。デート誘ってOKもらったのにその場で日程を詰めなかった自分を責めちゃう。過ぎ去ったことだからどうしようもない。けど責める。
しかも仲のいい同級生がその片想いしてる子とデートにいったのだから余計に悔しくてたまらないよ。思い込みは良くないが付き合う一歩手前じゃないか。ほんの数週間で一気に去っていってしまった。
掴めなかった自分が悔しい。自身がなくて一歩踏み出せなかった自分が悔しい。前振られた子に未練を抱いて巡ってきたチャンスを掴めなかった自分が悔しい。悔しい。悔しい。悔しくてたまらない。
その友達にはよく悩みを相談してたけど、このことは相談できないよ。三角関係じゃん。しかも不意に目に入ってしまったLINEのやり取りでそれを知ってしまったから尚更だ。動揺し過ぎて本当は謝らないといけないのに謝れていないよ。知る少し前にメンタル弱いから彼女ができないんじゃない?カウンセリングに通ってることはあまり言わん方がいいよってアドバイスもらって、そのあとにこれだから余計にバツが悪いよ。驚きと悔しさで食欲が失せている。食べれても戻してしまう。やっぱり恋してたんだなってこの時思ったよ。
もらったアドバイスは確かに的を得ていると思う。でも片想いの相手を取られちゃったから今めっちゃ悔しい。当人に聴いていないから分からないけど付き合う方向性なら、そりゃもちろん応援するよ。仲睦まじいカップルを見るのは好きだからね。
こうやって書き殴ることで幾分か気が楽になってるけれど、それでも受けたダメージは大きくてしなければならない作業に手がつかない。現実逃避をしまくっている。
人の感情やアイデンティティや思想に踏み込んで結婚しませんかしませんかと圧をかけることを自由を擁立する国の行政がやるべきではない
非モテへの宛てがいなどもっての外
経済対策と労働基準監督署の強化による労働者の保護と自由時間の確保の2つだけで非モテではないが結婚を断念してる人たちは結婚してくれる
出会いの場の創設は民営でよいし金銭的余裕と時間の余裕があれば趣味や遊びの時間も増えてマチアプ等に頼らなくても出会う機会が増える
子育て支援を手厚くするのは産む機会あるときの背中の後押しになるから必要だし特に学力向上については政府も支援をして高度な人材の育成に努めるべき
独裁国家宗教国家になって結婚は因習や都合のみで勘案される女性の人権0の国にしない限り出世率なんて何やっても2を超えることはないのだからこういう対策でいいんだよ
35までの時間制限までに人生が間に合わなかったような人間が慌てて作った子供なんて基本的にダメ人間だよ。
まず遺伝子レベルで駄目だし、それ以上に親の未熟な生き方をトレースして未熟な人生を歩んでしまう。
しかも親側も「高齢出産のせいでガイジに生まれてたらどうしよう・・・」みたいな焦りでプレッシャーかけたり甘えさせまくったりで育て方もおかしくなりがち。
30までに産むのが難しいってのがそもそもよく分からないんだよね。
出会いの場所として高校・大学・会社で15年ぐらい猶予があって、出会えてないってのもよく分からんのよね。
高校・大学が共学じゃなかったせいでホモソのヤバイカラーに染まったとしても、まともにやってたら「ゆーて恋人ぐらい普通に作って結婚するやろ」となるでしょ。
少なくとも社会人になってコンパ参加すれば簡単に出会えるし、アプリだっていくらでもあるわけで。
そうならないならやっぱ本人に問題があると思うんだよね。
時間がないっていうなら、それは趣味に時間を使いすぎてるか、会社をちゃんと選んでなかったかで、人生設計のミス。つまり本人が未熟すぎる。
経済的な自立においても院卒後からの計算で5年もあるわけじゃん?
院卒で5年も働いてたら、まともな会社でまともな仕事してたら片方専業主婦になっても児童手当あれば食っていけるぐらいの収入はあるよね?
それでまともに給料貰えてないなら転職し方が良いし、30歳で業界経験5年あってまともに転職できないなら、それはもう人間性レベルでなにか問題があるっしょ?
つまりさ、35までに産めないような人間はなにかしらどっかで足りてないわけ。
んでまあそれって社会との相性を含めた才能に寄る所が大きいわけよ。
そんな才能のない人間が子供を産んだら、まあ子供も才能がないまま生きることになるよね?
それって可愛そうじゃん?
無理して生まれた子供ばかり増やしても世の中うまく行かないでしょ。
弱者男性・弱者女性で35まで未婚で来ちゃった人達はそのまま独身として終わるか、結婚しても子供は作らずに過ごすのか皆の幸せのためだと思う。
第8回横浜トリエンナーレ「野草:いま、ここで生きてる」がこの土日で終わります。私も見に行って、なかなか面白く思いました。ところが友人によると、SNSでは批判の声が多いそうですね。あまりそういうものは見ないようにしているのですが、友人がその場で例を見せてくれたので、ついいくつか読んでしまいました。そのときの感想は、ひとことで言うと「批判者の言うことにもわかる点はある。でもキュレーターはそれなりによくやっていたと思うし、今回が最悪だとか、他の回に比べてどんどん悪くなっているとか、そんな気はしない」ということでした。そこで友人といろいろのことを話し合ったのですが、今はそれを思い出しながらこの文を書いています。
今回の展覧会には魯迅の『野草』という短編集が深く関わっていますが、魯迅は「おおむね、折にふれてのささやかな感想を述べたに過ぎない」と述懐しています(岩波文庫、竹内好訳『野草』の解説)。魯迅の感想が短編集『野草』を生み、『野草』がこの展覧会を生み、この展覧会が人々の感想を生み、そしてその感想がこの感想を生みました。もしこの感想を読む人がまた新たな感想をもつならば、それで満足です。
人は物事に触れて感想を持つものだと思います。SNSの批判の中にも、「これは感想にすぎない」というような留保をつけるものがありました。感想は自由にあるべきと思います。そして、感想を読んだ感想というものも自由にあるべきでしょう。今はくだんの批判を読み直さず、またあまり調べものもせずに書いていますが、不十分なところはどうぞ悪しからずご理解ください。これは「論」ではなく、「感想」のつもりです。
今回の展覧会の特徴は、「作品」と「意味」のバランスを探る点にありました。多くの作品は、ただ「見て楽しむ」ものではなく、「意味を考える」ことが求められるものでした。そのバランスがキュレーターの側でうまく作れているか、そして鑑賞者がそれをどのように読み解くかがカギになっていたと思います。
今回のテーマは「野草」というのですが、その裏には魯迅の『野草』という著作が密接しています。これは展覧会中にも幾度となく示されており、魯迅の『野草』の本も展示してありました。この本は「二十四篇の短文から成る」ものですが、「スタイルはまちまちであって、詩あり、散文あり、また即物的なもの、追憶的なもの、観念的なもの、象徴的なもの、風刺的なものなどが入り混り、内容形式ともに多傾向」なものとなっています(岩波文庫、竹内好訳『野草』の解説)。この本は意味があるようで意味がない、意味がないようで意味がある、詩のような文のような、芸術のような政治のような、一種独特の雰囲気をもった作品集です。
これを読んでから展覧会を見渡すと、「キュレーターたちは横浜美術館を一冊の現代版『野草』にしようとしていたのではないか」ということに思い至ります。
そう考えると少し納得できる点もあります。それは「文」への偏重です。友人は次のように話していました。「私は今まで、展覧会は作品を見ればよいと思っていた。作品を見ずに解説ばかり読む人があれば、本末転倒だと考えていた。つまり、言葉を軽視していたのだ。ところが、今回の展覧会では作品の多くに意味があり、その意味もキュレーターの解説を読んで初めてわかるようなものが多かった。入口にはタブレットの文章が並べられ、その左側の階段の上には本を並べた一角もあった。さらには猟師へのインタビューがあったり、詩が作品として出ていたりと、言葉への重視が目立った。」
しかし、これは考えてみればさほど奇妙なことではありません。ふつう、広く「芸術」 (art) と言うときには「文学」を含みますし、「美術」 (fine art) というときでも「詩」を含むことがあります。「芸術」は「造形芸術」に限られたものではありません。もちろん、ただの書籍や文章が「芸術」と言えるのかどうかは議論の余地がありえますが、言葉と芸術の距離がそう遠いものでないことは確かです。
さらにテーマの「野草」が魯迅の『野草』に由来するものであることを考えると、今回の展覧会の裏地には文学がぴったりと張り付いているような気がしてきます。キュレーターが中国の出身であるということから、なんとなく心のなかに「文の国」という言葉が浮かんできました。三千年の歴史をもち、科挙の試験にも詩が課され、書という芸術をいだき、詩文や文字が芸術でないなどと疑ったことのない文化の国のイメージとともに。
いっぽう、日本で一般に「芸術」というとき、それは詩文を容れえないほど偏狭なものなのでしょうか? 批判の中には「文」への偏重に対する疑問もあったように思います。そのような人々にとっては、あたかも展覧会から「あなたの思う芸術とは何ですか?」という問いが投げかけられたような恰好になっているわけです。
では、「芸術(アート)」とは何でしょう。批判する人たちの中には、自分にとって「美しくない」「面白くない」から「芸術(アート)ではない」と断じたい人もいるようです。でも、現代アートは「美」への問いかけを含むものではないでしょうか。デュシャンの「泉」などはまさにその代表だと思います。また、「芸術」における「言葉」といえば、シュルレアリスムと詩の関係だとか、20世紀初頭の芸術家たちがしちくどい宣言を次々と打ち出したりだとか、いろいろと思い当たることはあるはずです。そういうところに「美しいものが芸術なのか?」とか「言語表現は芸術と無関係か?」といった問題はゴロゴロと転がっているわけで、簡単に「これは芸術だ」「これは芸術じゃない」と判断できるはずはありません。その人たちの考える「芸術」は、どのくらいの狭さなのでしょうか。
鑑賞者は芸術に触れるとき、常に戸惑い、「作品の受容」ができない事態に直面する可能性をもっています。そのような時こそ、自分の中にある固定観念を見直す機会かもしれません。今回、批判したくなった人が多かったということは、それだけ作品からの「問い」を受けた人が多かったということでもあります。そうなると鑑賞者は、やっかいなことですが、自分の回答を練らなければならなくなります。批判もひとつの回答ですし、その回答に満足せず、さらに新たな回答を考えてもよいわけです。陳腐な言い方ですが、「作品との対話」が必要な展覧会であったと言えるのでしょう。
友人はまたこうも言っていました。「かつては『現代芸術は抽象的すぎて何が描いてあるかわからない』という時代があり、その後に『現代芸術は難しくない、何も考えずに作品を面白がろう』という時代が来て、それはひとむかし前まであった。でも、それが終焉すべきときに来たということかもしれない。今は言葉の時代なのでしょう。考えずして何が現代の芸術か、ということになっている。地味でつまらなかったといった批判もあるようだが、休日にちょっと芸術に触れてみよう、子どもを芸術に触れさせてみよう、デートで美術館に行ってみよう、特に『何も考えずにただ作品を面白がろう』と期待した人にはつまらなかったかもしれない。」
たしかに、昔からの(または昔ふうの考えをもった)現代芸術の鑑賞者の中には、「芸術とは面白がるもの」という考えから抜け出せず、新しい潮流に戸惑う人がいるかもしれません。「金を払って楽しみに来た」という手合いには、気の毒だったと言えるでしょう。しかも来訪者への間口は大きく広げられていたので、そのようなミスマッチを生むしかけは念入りに準備されていたともいえます。今回は横浜美術館の改装後の久々の展覧会であり、規模も大きく、宣伝もあって、多くの人を誘い込む要素がありました。そのような場で横浜美術館は「人を面白がらせる」展示をすることもできたはずです。しかし、実際には「人を戸惑わせる」展示を行いました。だからがっかりした人も多かったのでしょう。
私も「キラキラ」な楽しい芸術が好きです。だからそういうものが多いと嬉しいし、その逆ならばがっかりします。しかし、美術館の目的には「レクリエーション」もありますが、決して「レクリエーション」だけを目的とした施設ではありません。今回、美術館はこのような大規模の展覧会で、作品との「出会い」と作品からの「問いかけ」を提供し、人々を「戸惑わせ」てくれました。その意味で、美術館はよくやったと思うのです。「キラキラ」な楽しい回があってもよいし、「地味」な考える回があってもよい。美術展はそういうものだと思います。
ここで、ちょっと過去のトリエンナーレを振り返りたいと思います。
私が初めてヨコハマトリエンナーレに訪れたのは2011年の第4回「OUR MAGIC HOUR ――世界はどこまで知ることができるか?――」でした。この年は東日本大震災の年で、印象としてはとにかくキラキラと輝くような回であったということです。震災後の混乱をアートがどう扱うか、芸術家の間でもまだ折り合いがつかずに、ただ思いつく限りのことをやってみたといった印象で、宝箱の中の宝石をぶちまけて転がしてあるような、たいへん魅力のある回でした。私にとってこの回は「よい」の標準になっています。
2014年の第5回「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」もたいへん期待したのですが、この回は言ってみれば「地味」な印象で、まだ青かった私は「ハズレ」だと感じました。しかし、友人はこの回も面白かったと言っています。この回は「忘却」がテーマで、戦争中に作家や芸術家がいかに体制側に立ってはたらき、戦後その責任もとらず、反省もせずに「忘却」したかということを、当時かれらが執筆した文章を並べて示していました。このころには震災後の政権交代や脱原発などの流れの中で、世の中を動かすのは「政治」であるという意識が出てきていたためかもしれません。
2017年の第6回「島と星座とガラパゴス」は、博物館の表に救命ボートがびっしりと張り付けられていました。「ネトウヨ」に関する展示もひとつふたつあったことを覚えていますが、これもきわめて「政治的」でした。長期化する安倍政権のさなかにあって、政治の右傾化が懸念されていたことも影響していたのでしょうか。(「政治性」の話は、後で少し触れたいと思います。)
2020年の第7回「AFTERGLOW――光の破片をつかまえる」は久々の「当たり年」でした。2011年に次ぐキラキラの再来です。入口から光り輝くカラスよけのCDのような装飾、メビウスの輪のような形をした光り輝く金属の骨組み、巨大な腸を模した造形、赤いカーペットをひいたでこぼこの「道」、映像作品「遅れてきた弟子」、そのほかここでは言い尽くせないもろもろの楽しい展示の連続。
きっと第7回が初めてのヨコトリ体験であった方々は、2011年の私が次回に期待したように、第8回にも「キラキラ」を期待したかもしれません。しかし、べつに横浜トリエンナーレは「キラキラ展」ではないので、地味な回もあるのです。その意味で言えば今回はやや地味だったかもしれません。しかし「地味」には「地味」なりの「味」があるものです。今回はその意味で「ふつう」と「よい」の間くらいと感じました。決して「悪い」ではなかったと思います。
今回の展覧会が悪かったという人の中には、展示が「政治的」だという人もいたようです。もちろん、芸術が政治的であることの何が問題なのかとか、政治が生活と密接なものである以上は程度の差こそあれ政治的でないものなどありうるのかといった疑問も出てきますが、今回の展覧会を見て私が感じたのは、むしろいわゆる「政治性」の薄い部分があることでした。キュレーターが中国出身の方ということなので、もしや特に日本のために配慮(手加減)したのではないかという疑いさえ感じました。
たしかに、今回の展覧会ではヨーロッパの戦争に関連する展示や国粋主義者の移民反対デモの映像が展示されていました。それがひとっところに固めてあるのではなく散らばしてあったのは、この会場をひとつの世界に見立てて、このような出来事が遍在していることを忘れてはいけないと示したようにも見えます。
そのデモの映像のひとつを見ているときでしたが、後ろを通りかかった人が「ヨーロッパ、壊れてんな」とつぶやきました。まことに然り! だがそれを言えば日本だって「壊れて」いるのです。日本でも人種差別のデモが行われています。ヘイトクライムの危険もあります。「人種差別」がわたくしたちの身近にあることは、ネットを少し覗いてみればすぐわかることです。
思い返せば2014年や2017年はかなり「政治的」な展示があったと思います。しかし今回、キュレーターは日本の問題をひとつも指摘しませんでした。日本で美術展が国粋主義的主張をもった人々の抗議で中止に追い込まれた事件もそう遠い昔のことではありません。日本は美術の表現が自由にできない国です。キュレーターたちは日本に気をつかってくれたのでしょうか? それとも日本で波風を立てて攻撃されることを恐れたのでしょうか? それとも今の世界を広く見たときにもっとも新しくもっとも重い問題にしぼってとりあげようと考えたのでしょうか? それは知るよしもありません。もっとも自由な表現への危機は(またすこし違った形で)キュレーターたちの出身地である中国にもあることでしょう。展覧会中に示されたように、ヨーロッパも安全ではありません。世界じゅうで似た現状があります。
しかし、日本が名指しで批判されなかったからと言って、日本が許されたわけではもちろんなく、これらの作品のなかに普遍性を見出し、これを「鏡」として日本の現状を見ることが求められているのだと思います。それらの作品が見るに堪えない現状を示しているとき、それに怒っても意味がないでしょう。それは鏡をヒョイと覗き込んでみて、「ああ醜い! 私の美学に反する。美はいったいどこにある?」と怒るようなものです。
ところで、批判者の中には展覧会のこのような政治的な「傾倒」や「変質」がここ10年や20年の変化だと振り返る人もいますが、私には展覧会のなかにその説明があったように思われます。今回の展覧会は、これも魯迅の『野草』をテーマとしているためかもしれませんが、歴史を強調するものが多くあり、あるところでは史料紹介の様相すら呈していました。木版画をめぐる日中交流史の展示では、魯迅が木版画という簡易で複製可能な芸術を通じて、民衆に文化を届けようとしていたことが紹介されていました。これは「芸術」が一部の特権階級のものではなく、民衆のためのものであるべきではないのかという問題を、当時から現代に向けて投げかけなおした一面もあると言えるでしょう。また、皇国史観へのアンチテーゼとしての縄文土器や、学生紛争を撮影した写真が展示されていたのは、芸術と政治の問題が降って湧いたものではなく、日本でも半世紀以上にわたって連綿と続いている問題であることを示していたと思います。
(後編へ続きます。)
https://anond.hatelabo.jp/20240608093350
こっちもちゃんと読めよ
https://anond.hatelabo.jp/20240606122811
統計で見ると、結婚しない・出来ない理由は、トップが「出会いがない」で次いで「経済的理由」である。
経済的理由と出会いが無いはほぼ同率なので、両方に手当てをする必要がある。
そして未婚男性で最も多いのは年収500万円以上なので、経済だけを協調して、マッチングサービスなど出会いを作る施策を非合理的だとする理由はない。
両方やれば良いし「合理性」で考えるならば、マッチングサービスなどの単純な婚活支援が最初に来るだろう。
参考: ttps://president.jp/articles/-/63789 婚活市場では"高望み"の部類だが…「年収500万円以上の未婚男性」が最も余っている皮肉な理由
結婚支援と育児支援のどちらも実施すべきという結論は元増田と同じ、という点について指摘を受けているが目的が異なれば当然実施する内容や施策を評価する指標も変わってくる。
元増田の主張では育児支援は少子化対策にはならず経済対策として実施すべきという主張なので、当然直接的な経済を刺激しやすい施策を中心として実施され、経済指標が評価対象となるのが自然。
一方、少子化対策としての育児支援は労働環境の改善のような経済面では寧ろマイナスとなり得る施策も含まれる(理想子供数を持たない理由には育児、労働環境も大きな割合を占めるし、元増田が引用している記事の中にもその重要性について触れている物がある)し、当然評価指数としては夫婦当たりの子供数を維持ないし20年前の水準に改善していくことが含まれる。
夫婦の平均子供数は大きく減少しておらず、非婚化が少子化の主因であるというのは特定の統計だけを見れば間違いではない[1]。一方で非婚化によって結婚しなくなった、あるいはできなくなった層はどのような人たちなのか、また非婚化にも関わらず結婚しているのは誰なのかという点について考察しないのは片手落ちである。
男性は未婚率と学歴、収入の高さや雇用形態に強い逆相関の関係があり(女性の場合、学歴や収入が高いと逆に未婚率が上昇するが男性ほど顕著ではない)[2]、つまり結婚できていない男女とは多くの場合経済的に困窮している男性や経済的に裕福な男性と番えなかった女性である言える。日本では子供をもうけない理由に経済的な理由を上げる夫婦が多く[3]、また世帯年収が高いほど3人以上の子供を持つ割合が高いことも明らかになっている[4]。よって弱者男女を結婚させて婚姻率を改善させたとしても経済的な理由から子供を持つことを敬遠する可能性が非常に高いと考えられる。
ここまで考察すると、そもそも『夫婦の平均子供数の推移が大きく減少していない』というデータがどのような意味を持っているのか疑問に思えてくる。育児支援≠少子化対策の文脈では『婚姻率が解消すれば少子化も解消する』という主張の根拠に用いられることが多い。一方で結婚できる男女は昔に比べて経済的に裕福なカップルに絞られているのだから夫婦あたりの平均子供数は増加しても良いように思えるが実際には微減であり、『経済的に恵まれた余裕のあるカップルが結婚する世の中になったにもかかわらず平均子供数が微減している危機的状況』と捉えることもできる。
結論を述べると、少子化の原因は確かに非婚化だが非婚化の原因は雇用形態や学歴等による経済格差の拡大であって、単に官製マッチングアプリで出会いを作って婚姻率が向上しても結局子供は増えない。というより、低収入の弱者男性はマッチングしたところで結婚できないだろう。
(日本では)男女の結婚と経済的な余裕の両輪がなければ子供は産まれないと理解すべきである。また結婚できない理由の多くは経済的な理由なのだから、育児支援先進国並みの補助を出して「結婚して子供さえ産んでしまえば生活はなんとかなる」という状態に持っていくことで婚姻率についても解消する可能性がある。
なお育児支援先進国のフランスやスウェーデンでは理想子供数まで子供をもうけない理由として多数派なのは健康面や年齢などであり、日本でも同様の支援を行うことで経済的な理由による産み控えを防止することができる可能性がある[3]。
最近流行りの『育児支援は少子化対策ではない』という主張はデータの上っ面だけをみた浅い分析でしかないし、マッチング促進による婚姻率の解消で少子化が解決するという見込みは甘い見立てと言わざるを得ない。多角的なデータをしっかりとみれば育児世帯への経済支援は今後も少子化対策の主軸の一つであり続けるべきだろう。
[1] https://www.nli-research.co.jp/report/detail/id=75505?pno=1&site=nli
婚外子を広く認めて?
別に今の日本でも婚外子は認められてるぞ?何年か前の民法改正で相続分が嫡出子と等しくなった