はてなキーワード: 不可能とは
自己啓発本を読んだりセミナーに行っているうちは、自分自身の能力を高めることなんて不可能。
そもそもそういうものに関係を持っている時点で、能力を高めるどころか判断力を低下させているというのが分かる。
それと同じようにひろゆきのような動画を見て、同意や感化を受けているような人も同じ。
結局いつの時代も自身を高めるという言葉を誤った理解して、今まで能力が高い人だったとしても底辺まで下がり
自己啓発というのは、自身を高めるためなのにそこに人の経験談は要らん。
今自分に何が必要か足りてないかなんてのは指摘される程度で十分。
あれこれ勧めていくものを見て自己啓発の糧になると思っている人は、
今すぐ自己啓発本を捨て、セミナーに行くのを止め、くだらない自論をべらべら並べているような動画配信を見るのを止めた方が良い
よっぽどその方が普段の周りを見つめ直せる。
2度のワクチン接種で制限なく飲食できるように 横浜市で実証へ
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20211002/k10013287971000.html
百田尚樹「アホちゃうか!」立憲・自民議員をともにぶった切るも「政治家がアホだということは……」[新書ベストセラー]
https://news.yahoo.co.jp/articles/edd5ee37af308c1e43d59fde2c5f35f367d5f777
1位の『アホか。』は百田尚樹さんがツッコまずにはいられない92のアホな事件を斬りまくったエッセイ集。その刃は国会議員にも及び、与党野党問わずアホな議員は一刀両断。「50歳と14歳の性交同意」発言で物議を醸し、後に議員辞職した立憲民主党の国会議員を「とんだ変態議員」と切り捨てながら、妊婦の日常生活の苦労を知るためと7キロのジャケットを着てアピールした自民党の議員たちに対しても、大切な命を宿したお腹とどこにぶつけても構わないジャケットを同等と考えるとは「妊婦に対して失礼すぎます」「重りを抱いただけで妊婦の気持ちがわかった気になる厚かましさには呆れてしまいます」と厳しい意見を述べている。ただし、あとがきでは《しかしそんな政治家を選んだのは私たちです。つまり政治家がアホだということは、私たちがアホだということなのです》と笑いを交えながらも、主権者である私たちにも反省を促している。
限界事例か何だか知らないが、欧米では通用しない変態理論を平然と垂れ流す立憲の体たらく。
女性固有にして代替不可能な身体性を分かった気になる自民の独りよがり。
一橋大での講演会がキャンセルされ、さすがの百田氏も反省したのか、ここへ来て対立陣営と見なされていたフェミニズム的主張を自身の出版物で展開するに至った。
hdwdgfva そういや、いらすとやって女性は若干茶髪め、服は暖色系、って感じで割と性固定的(だからこそ統一感があるメリットもあるんだけど)なんだけど、批判されることってほとんどないよね。
医療従事者には女性もいるのに、イラストは男性だけ!配慮が足りない!→右側は女性のイラストなんだけど?
https://togetter.com/li/1597602
女性の医療従事者のイラストを女性と判別できなかったため男性しか描かれていないけしからんと難癖
これ女性ですよと指摘されると、これは女性に見えない、いらすとやが決めたら女性なんですか!などと供述し……
嫌な事件がありました
この事件からは、性固定的であると捉えるかどうかは見る側に依存すること、女性男性のイラストを他の性別に使用することも可能であることがわかります
批判者側は、これは女性に見えない女性らしくない、と逆に性規範を押し付けるような言い方をしており
いらすとやに強力な影響を受けて私もいらすとやのように髪に縦メッシュ入れなければならない、と内面化する様子はありませんでした
男性しか描かれていなくてけしからん、という意識で見る人の方が白衣の医療従事者なら男性、ナース服ではないから女性でないという
性固定的な見方で目が曇っていなかったでしょうか
いらすとやが女性として描いたイラストなら女性なのか、という抗弁は非常に見苦しい様でありましたが
女性イラストを異性装の男性として使ったり、中性的な男性として使ったり、またその逆も(いらすとやの規約に反しない限り)
最後にいらすとや本体の絵の固定観念については、次の増田の引用で締めさせていただきます
https://anond.hatelabo.jp/20210930113253
ただしあらゆる表現はそうしたステレオタイプ無しに創る事はほぼ不可能、という原理論を意識出来て居ない点は甘い。
例えばこのページのイラストの人物の性別をあなたは判別できると思うが、それは性別を固定化したステレオタイプのおかげである、
ステレオタイプを完全に抹消すれば、本来どのイラストの性別も判別する事は不可能である筈なのだ。(スカートを履いた髪の長い人物は女性だと思ったかな?何故?)
ステレオタイプは無くしていくべきだが、しかし私たちの認識は多くのステレオタイプの助けを借りても居る、という困難を引き受けない限り、あらゆる思考は表面的で浅薄である。
電機業界で技術屋をしているんだけど、長期的に見て車の電動化が進むのは間違いないと思っている。
そのうえで気になるのは、技術の普及タイミングってそんなに正確に見切れるかなという事。
例えばうちの業界でいうと、有機ELの登場やフィーチャーフォンからスマートフォンへの移行という技術の切り替わりを経験している。
ディスプレイ技術としての有機ELは20年以上前から有望視されていたが、小型ディスプレイとして普及したのは2017年にiPhoneXで大々的に採用されてからである。
製品自体は2000年くらいから世に出ていた(初期型のFOMAに有機ELディスプレイが積まれてたのを覚えているだろうか?)から、かれこれ15年以上たっている。
普及までに長い時間を要しているわけだが、その間研究開発で先行していた企業はどうなったか?
NECはサムスン電子に技術を売り払って撤退、東北パイオニアは資金が続かず、アクティブマトリクス型の開発から撤退しニッチなパッシブマトリクス型の製造にとどまり、世界で初めて有機ELテレビを製造したSONYですら投資余力がなく製造部門を分社化。末裔たるJOLEDは売り上げ100億程度と小規模で事業としての利益は上がっていない。
スマートフォンにしたってそう。みんなタッチパネルで操作できる情報端末の研究開発をしていた。
本家Appleは90年代からNewtonを作っていたし、Sharpはザウルス、SONYはClieといった端末で試行錯誤していた。
みんな将来の方向性は読めていた。だけど、一般人が容易に使えるようになるための要素技術がかけていたからブレイクしなかった。
例えば、狙ったところを操作できるような、タッチパネルの進化。昔のタッチパネルって強く押さないと反応せず、操作しにくくなかっただろうか?あれは抵抗膜方式といわれる方式が使われていたからだが、それが静電気で反応する静電容量式が普及することで一気に操作性が上がった。
後はCPUの処理性能。過去のLinux搭載の携帯端末なんかは処理速度が遅く、ストレスがすごくなかっただろうか?
だけどiPhoneは最初からぬるぬる動いていた。そのレベルでストレスなく動かせるにはCPUの性能が上がる2010年代を待たなければいけなかった。
というように、いくつかの要素技術がそろって初めて、スマートフォンは一般に普及した。
つまり、新しい技術が普及するにはその前提となる要素技術がそろわないといけない。
だけどそのタイミングを読むのは容易じゃない。というか不可能だと思っておいた方がいい。
だから必ずしも将来的にEV100%になるとわかっていても、今全力でそっちに突っ込むのが正解とは限らない。
個人的には後発から巻き返すだけのエンジニアリソースと資金力のあるトヨタが、ガソリンエンジンの延命や水素の開発も含めて全方位戦略を敷いているのはすごく理にかなってると思う。
そういうわけで、変化の大きい電機業界の立場から過去を振り返ってみると、EVを強く押す人は前のめりすぎるかなという印象をうけるのだが、どうだろうか?
電力が逼迫して原発と送電網を増設しなきゃいけないことには目をつぶって、二酸化炭素が目の前の車からでなくなることだけを大事にする人たち。細かい量の話は理解したくないので、火力発電所から二酸化炭素が出てることは気にしない。火力発電所の個々の性能の違いも気にしない。
ディーゼル車推しと同じでEU圏内から日本車を減らそうとしてルールを有利になるよう操作しようとしたら制御不能になって自分たちでも運用不可能なルールになりそうなEUのキレイな表向きだけを真に受けてBEVが人類を救うと信じてる。
つかぬことをきくけど
判別できる絵師が10や100じゃ効かなくなってくるとあの絵もこの絵も考えてみるとおなじパーツで判別してるということがありえそうだ。
たとえばある絵を眉毛が○○のようになってるので分かると単に部位を示すよりはもうちょっと具体的に言語化したとして、別の日にじゃあこの絵はどうやって判別してるのと訊かれて、無自覚に先日と同じ趣旨のことを根拠として言ってしまったとしてそのあたりを「言ってること変わんないじゃん」突っ込まれたら、なんで言語化しようとすると同じような言い方でしか根拠を言えないのに実際には別々の絵師として区別できるのだろうと、言語の次元とは異なる人間の判定能力に脳の神秘を感じてしまうことだろう。
https://anond.hatelabo.jp/20210929165009#
(ツリーも参照)
これも言語の次元と脳の判定能力に隔絶があるみたいな問題じゃなくて文体を学べばちゃんとそれぞれの根拠についてたとえ微妙だとしてもしっかり差異のコントラストを出せるように説明できるようなるものなの?二次元的なことを対象に文章という一次元に置き換えるようなことには原理的な限界と不可能性を帯びていそうなものだけども。
命題風に書けば「(類似するものがどんなに多数あっても)脳で区別をつけられるものであるならば、その根拠を言語によって(その多数全てについて)差異をもたせて説明できるものである」は成り立つか。逆に言えば言語で区別できるようなことを脳は区別しているにすぎないのか。言語で区別されないことも区別されるという神秘性が脳に認められるわけではないのかということ。
増田ではもう多分おなじみで飽きられてる例の話題における「女性の表象」について。
今週いろいろ考えていたことを書いておきたい。
多分この文章は文脈的にも時期的にもアンチフェミだとみなされると思うんだけど、自分j心にはそんなつもりはない。そもそもあの変な議連をフェミだとも思ってないし。
むしろ自分としてはクリエイターとしての違和感と普段の気持ちのメモとして残したい。
文章畑とはいえ自分はクリエイターでいわゆるオタク界隈でくらしていて商業化もコミカライズもしたっていう立場だけど、多分立場そのものとはあんまり関係ない。
はじめに感じたのは「なんか雑だな」という気持ちだった。
「女性の表象」というざっくりした単語の選択と、そこに込められた視線についてだ。
昨今のオタク界隈クリエイターとして女性キャラはいっぱい作ったし書いてきた。ヒロインとしてサブキャラとしてモブとして。それぞれに主入れを持って作り込んできた。それって「女性の表象」なのか? 自分は「女性の表象」を描いてきたか?
その答えは一般的にはYesではあるけれど、自分自身の中ではNoだ。
一般的なボリュームのラノベをささっと書くのに、自分は調子が良ければ大体三週間くらいかかると思う(念の為にこれは完成に要する時間ではない)。もちろん作中ではいろんな事が起きるし、ヒロインやヒロインとの関係は重要ではあるけれどパーツの全てではないので、この時間はそのままヒロインを描くのに使った時間ではないけれど、ひとつの参考としてそれくらいかかる。
そして読むのは早ければ二時間弱とかじゃなかろうか?
つまり作るのにめちゃくちゃ時間がかかってさっくり消費できる。これは文章畑に限らずコンテンツは何でもそうだと思う。むしろ文章畑なんてすごく素早く手軽に作れるジャンルで、映像やゲームは桁違いに時間がかかるだろう。
実際そういう現場に協力することもあるけれど、気が遠くなるくらいの人手と時間と、つまりはリソースが消費される。
それだけの時間を投下して、「女性の表象」をつくって、満足できるかといえば、自分はできない。
嫌われるかもしれない言葉をつかうけれど、正直に言う。
現実の女性の方々に訪ねたいけれど、たとえば大好きな人ができて、そのひとと来週デートするとする。初めてのデートだとする。
胸がはちきれそうなほど嬉しいとともに、膝が震えるほど怖い。なんだか冴えない一日になってしまうのが怖い。がっかりされるのが怖い。思ったよりうまくしゃべれないと思うと怖い。相手の期待ほど可愛くない自分だったらと思うと怖い。
そんなときはないだろうか? そんな時何らかの努力をしないだろうか?
自分の知る限りの知己もいままでめぐりあいのあった女性も、すごい何かをしていた。正直男性である自分からは理解しがたいほどのエネルギーをそこに注ぎ込んでいた。
その日その瞬間を「いい感じ」にするために、髪型や服を整えて、時には体型やら自分の好みまで変えて、とっておきを提供しようとしていた。そういうのを見ると恐れ多いような頭が下がる様な気持ちになったのを覚えている。
デートの時にやってくる「一番好的な彼女」というのは上記のような女性の努力の、つまりはクリエイトの結果だと自分は思っている。
ディズニーのいうありのままの自分がなんだかよくわからないけれど、彼女たちは、確かに自分自身を超えた自分を顕現させようとして、いっときそれに成功する。
自分はそれを偉大だと思う。女性だからとかそういう理由ではなくて、クリエイターとして尊敬する。言語化出来ているかどうかは定かではないけれど、彼女らはなりたい自分をクリエイトして作ったからだ。
創作物には、描きたいものがある。その描きたいものが例えば出会いとか、別れとか、嬉しいとか悲しいとか楽しいとか懐かしいとか、恋とか、そういうものがあって、その過程で必要となってヒロインがいる。
卑俗なところで言えば、可愛いとかもっと見ていたいとか、エッチなことをしたいとかでも良い。とにかくそういうエモーショナルな何かを伝えたくて創作物を作る。
女性のキャラは、例の言葉を借りれば女性の表象は、そのための道具に過ぎない。大事だし思い入れもあるけれど、過程に過ぎない。読者に伝えたいもののために必要であれば何かを盛るし、邪魔であれば削る。
それは現実の女性には不可能だ。だって現実の女性は主人公のために、あるいは読者や視聴者のためにだけは生きられないでしょう? 現実の自分の生活があって、趣味もやるべきこともたくさんあって、理想の魅力的な自分だけでは生きられないでしょう?
世の中で言われている萌キャラなんてものは、愛されるために生まれてきたものだと自分は思う。自分が関わった仕事は、全てそのつもりで仕事をしてきた。現実の女性と違って、彼女らはそれに全力投球だ。なぜなら、それが彼女らの存在意義で、全てだからだ。そのために生まれたからだ。
それ以外の私生活なんてものはない。あるように見えたとしたら、それは覗き見される前提で作られた、いわば公開用の私生活だ。飾り気のない普段の姿、という形態の作り込まれた物語にすぎない。
つまり、創作物のキャラは、現実の女性がデートの瞬間ほんの一瞬だけできる「すごい自分」でいるのをフルタイムで続けられる存在だし、それが存在価値だ。何ヶ月も、場合によっては何年もかかって産み出されて、一瞬で消費される。その巨大なコストを代償にして、現実を超えるために産み出されるのが創作物のキャラクターだ。
自分は、「現実を超える」使命を持った創作物が、そのために悩んでカロリーを叩きつけた創作物が、「女性の表象」だなんて、そんなふうに単純化されるのを我慢できない。
たとえば、あるヒロインの不安と絶望を表現するのに、創作者は雨を降らせることができる。人気のないコンビニの駐車場の暗がりを作ることも出来る。つながらないSNSを登場させることも出来る。それらは舞台背景であって舞台背景ではなくて、彼女の内面を表す暗喩だし、読者に感情移入してもらうための動線だ。
そのキャラクターが気高くて必死で尊敬に値すると伝えるために銃弾の降り注ぐ戦場も用意できるし、水晶の花咲く庭園でのダンスシーンも描ける。
彼女の魅力を伝えるためなら、そこまでやる。女性としての魅力を伝えるためにもし必要だと判断するならば、女性の体さえ抹消する。耳やら尻尾やら砲塔やらを生やす程度なら序の口で、人面蛇身にすることもあるし、なんだったらAI宇宙船の金属筒に収められた脳髄だけの少女なんて世界観にすることも出来る。
雨やコンビニや水晶の庭園が女性の表象かといわれれば誰もがNoと言うだろうと思う。でも創作者の中でそれは渾然一体で不可分だ。その時それが必要ならつくるまで。舞台だけじゃなくて、演出も、エピソードも、言葉選びも、同じ語句をひらがなで書くか漢字にするのかさえ、伝えたいものを伝えるための道具であって、ヒロインと等価で同じものだ。
読者や視聴者の人に、紙面やモニターの向こうで、恋をしてもらえるなら、涙してもらえるなら、どれだけカロリーがかかってもそれら全部はやるべきことだ。
つまりやっていることは「女性の表象を作ること」なんかじゃないのだ。青椒肉絲定食を作ってるのに対して「ピーマン切るのは許可されるか」「いやピーマンは不許可だろ」みたいな議論をされてる置いてけぼり感。
こちらはピーマン千切り業者をやってるつもりはないし、ピーマン千切りを提供したつもりもない。もっといっちゃえばお前らがいじくり回してるその皿には、パプリカは入っててもピーマンは入ってないよまである。あるいはししとう叩いて大喜びだな、なんてのも。
以上で率直な感想は終わりだ。フェミがどうこうとか性的搾取とかは、自分にはよくわからない。
でもこっちは現実の女性を周回遅れにする純度のために何かを描いてるので、現実の女性の投影であるとか、模造であるとか、そういう雑な用語選びは好きになれない。という話だと思う。
https://twitter.com/crazyraccoon406/status/1443175558574006278?s=19
見れない→見られない
※「謝罪申し上げる」は「謝罪」単体は動詞ではない上に、「ご報告申し上げる」のように慣用表現ではないため不自然です。原文の内容を伝えたい場合、「ご報告と謝罪を申し上げる」が自然な表現でしょう。
時間がかかった→お待たせした
※駄目という訳ではないですが、「時間がかかった」というのは平仮名も相まって平たい表現に感じさせます。謝罪文である以上はもう少し硬い表現を使ってはどうでしょうか。
※慣用表現と言えなくもないですが、「謝罪させていただきます」は「許可を求める」即ち「相手にの顔色を伺って謝罪する」のようなニュアンスを伝えてしまい、「自身の意志で謝罪する」という意味合いを欠くと捉えられかねない表現です。
※明らかな誤用です。
3ヵ月の活動休止、公式イベントも欠場、VALORANTにて活動していた全アカウントの削除、活動再開後も、作成するアカウントに関して、一年間、調査委員会による管理監視を行う→?
※伝えたいことは単語から分かりますが、主述関係が全く掴めません。
知識不足でしたら申し訳ないのですが、「全アカウントの削除」まで名詞を並べているだけになってしまい、文になっていないようにしか読めません。語順や句読点の打ち方が英語のようになってしまっていますが、どのような事情があるのでしょうね。
再発防止のため、及び、今後のチームひいては→再発防止のため、及び今後のチーム、ひいては
※「ひいては」の前に読点を打たないのは不自然です。「及び」の後の読点は必須ではないので、こちらを削って「ひいては」の前に補うのが良いと思います。
起訴状などによりますと、北九州市八幡西区の元会社員・岡村佳澄被告(33)は、今年4月、自宅マンションの寝室で、妻の静さん(当時32)の首を文化包丁で刺して、殺害した罪に問われています。
28日、福岡地裁小倉支部で開かれた裁判員裁判の初公判で、岡村被告は、「間違いありません」と起訴内容を認めました。
検察側は、冒頭陳述で岡村被告が結婚前から携帯ゲームの課金や電子書籍の購入などを繰り返し、400万円以上の借金があったと指摘。
動機については「妻にばれると離婚され、子どもと離れるかもしれないと考えていた」「期限までに返済不可能で、借金の存在を知られることが明らかになり、殺そうとした」としました。
https://news.yahoo.co.jp/articles/d67372eeabd865380c4209b094a9007268c36aa8
https://twitter.com/KenAkamatsu/status/1442848717707661325
赤松健のこのツィートが叩かれてる。
”女性キャラを描くときは「人格を持った多様な姿で描くように」など。いや無理だから!”
これについてバッシングされている。
無理だよね。
人格を描写できるのは、発言と行動であり、外見ではないからだ。
もしも外見やポスターに写った姿だけで、人格を判断するとなったら、それこそステレオタイプによって他者の人格を判断するという差別を犯すことになるので、この件については本末転倒である。
と言ってるわけで、まあそりゃ「不可能です」と言わざるを得ない。
そもそもが、画像として切り取られると、そこに人格まで投影させることは無理なのだ。
見かけと人格を乖離させるというのは、よくある手法である。キャラは行動とセリフで描写するのだ。
ごつい外見が、実は内気で、とか、そういうテンプレの例を引くまでもなく。
マンガのキャラも、「外見だけでキャラの人格は描けない」のだ。
で、ポスターの話に戻るわけだが、ポスターに人格まで描写はできない。
なぜなら「映らないから」だ。
人格をポスターに描写しろと言われても「無理です」と答えるのは当然だ。
外見で人格が描写できないということは創作してる人間ならわかると思う。
表情で描けるのは感情までで、邪悪な顔をしてるから人格まで邪悪だというわけにはいかないだろう。
竈門炭治郎を例にあげよう。
例えば、竈門炭治郎がババーンと防犯広告に使われたとしましょう。
でも人格までは描けない。当然だ。
竈門炭治郎が優しさや勇敢さは外見に由来していない。
でも、それだと竈門炭治郎がニッコリ笑って、手を降ってる画像は大阪府のガイドラインに引っかかってしまうのだ(男性も含めてと書かれているので)。
どうしても書くとしたら、「この竈門炭治郎さんは、とっても明るい性格で、社交性があって、弱い人を見ると助けずにはいられないが、悪に対して怒る正義の心を持っている、しかし微妙に場の空気の読めない頑張り屋さんです」と一枚絵のポスターに書き込むしかない。
そんなポスター観たくない。
芸能人にしてもそうだ。映るのは外面まで。
人格までは映らないのだ。
なのに一枚絵のポスターに対して「人格を持った多様な姿で描くように」とか、「無理に決まってんだろ」としか言えない。
アホか。
逆に言うと、萌キャラを出してきて、「人格を持った多様な姿で描くように」というのは、「普通のキャラには人格が外見で描写されているが、萌キャラには人格がない、そもそも描写されていない」という前提があるのかもしれない。
まあ、こんなアホなガイドラインよくぞ作ったと思う。
ルールそれ自体によるアップデート機能を含んだ最適で属人性を排した統治ルール、
この2つが完成するまでお試しの一歩すら踏み出す事ができないのでは?
まじでこれ
システムがあればリバタニアニズムでも共産主義でもどっちでも成功しうるし、現状の人治システムで達成することは不可能なのは明らか
共産主義はだめでリバタニアニズムが優れてるかどうかなんて、実質的に運用可能な人間によらない統治システムで試すまではどちらも机上の空論でしかない
横
つまり、技術によって絶対誤らないサイボーグかAIのような理想的リーダー像を創造できる、ということなら、確かにリバタリアニズムの終着点と外見上は同じかもしれない。
けれど、共産主義の土壌からそういうものが作り出せるとは俺は思わない。指導者というアイドル像を掲げている時点で、人間がそれに勝手な期待を寄せて勝手な解釈をしてしまうからだ。人間性はシステム上のノイズだ。
国家が直面するあらゆる経済的・社会的局面に対応する、AIが導いたかのような万能の虎の巻、という万国の宝となるルールブックが作れるとして、そのページを着実に増やしていけるのは、自由主義経済下の国々だけだろう。
その虎の巻をオープンソースにしていくことが世界の均衡のためには重要になるが、そういうことをできるのもリバタリアニズム精神が混じっていないと不可能だ。
逆に男への適合手術を受けてる人って膣が完全にふさがってるというけどこれって可逆的だよね?二枚の粘土を押し当てるだけでもくっつくがよくこねない限りは一体化しないのと同じで、もともと筒状であってくっついてなかった部分の壁を完全にくっつけるのは不可能だと思うんだ。膣の入り口を縫った糸も溶けてなくなるんだろうけどそのもともと膣があったところのおそらくは筋状になってる跡のところにちんこ押し当てればベリベリベリって感じで元そうだった状態に壁がまた露出するんじゃないか。まあ紙にガムテープを貼ってはがすと一部の紙がくっついてしまうのと同じように一方の膣壁に他方の膣壁の一部が癒着しちゃった状態ではがれる可能性があるけど、それでももともとあった膣壁がまた見える状態にはもっていけるのかなって。一度男性の身体になったやつの股の穴をこじあけて雌落ちさせるシチュが実際にあったら面白いじゃんてきな。
個人という単位で見ると、たとえば、安倍晋三は元内閣総理大臣であり衆議院議員であり有力な政治家という強者の側面と、同時に潰瘍性大腸炎の患者であり子供がいないという弱者の側面がある。
集団という単位で見ると、たとえば、男性の外国人は、男性と言うマジョリティという側面と、同時に外国人であるというマイノリティの側面がある。
表象という単位で見ると、たとえば、7枝の燭台は、パレスチナを強権的に支配するユダヤの象徴と言う側面と、同時にヨーロッパの反ユダヤ主義に迫害されたユダヤの象徴という側面がある。
今話題の大阪府のガイドラインについて考えた時に、問題になるのは、このインターセクショナリティである。
萌えキャラという表象は、文化的なマイノリティであるオタクの象徴という側面と、同時に女性のステロタイプ表現という側面があり、これが一体不可分であるがゆえに、これほど問題になるのである。
もともと、漫画やイラストの表現、あるいは萌え表現と言うのは、記号的な表現であり、記号とはステロタイプ表現である以上、イラストや萌え表現はステロタイプ的な要素を無くすことは不可能である。また、一枚のイラストで多様な人格を描くこともほぼ不可能だろう。仮に、裏で設定したところで、そんなのはぱっと見どうでもいい話である。
id:tikani_nemuru_M 公共広告は好き嫌いのわかれる演出をしちゃあかんだろ。公共性の高い情報伝達というものは、原則的に全員にとって必要な情報であり、つまりはnot for meが許されない世界なんだから。
軋轢を生まないために、"not for meが許されない"ということになると、サントリーが水原希子を起用したことに、ネトウヨが激怒した件を批判できなくなる。
水原希子は人であって、表現様式やキャラクターではないというならば、チマチョゴリのような民族衣装だったらどうだろうか。民族の表象を好まない人がいるからと言って予め排除することができないならば、同じように文化集団の表象も好まない人がいるからといって予め排除することは妥当ではないということになるだろう。
フェミニズムとか、オタクとか、ポリコレとか、オタク差別と萌え絵とか、そういう論点だけではくくれない。
あまりにも雑すぎる。
これ、あらゆる広告を99%引っかけることが可能な激ヤバガイドラインである。
女性に限らず男性もアウトと言うかなりヤバいものである。一番近いのは中国の表現規制である。
中国の知り合いが、「とりあえず全て引っかかる網をかけて、いいものと悪いものを勝手に決める。それが規制のやり方」
と言ってたがまさにそれ。
「男性らしさ、女性らしさと呼ばれるもの」が含まれるととりあえずアウトというかなりやばめのガイドライン集である。
しかし、「男性らしい男性広告」や「女性らしい女性広告」はあってもいいのである。
男性格闘家が戦うシーンは男性らしさに抵触するから使えない、女性のアスリートの演技は女性らしさが高確率で入るが、そのシーンもアウトである。
「女性が家事をする広告だけ」になったらそりゃ問題だろうが、女性が家事をする広告がアウトになったらアホか? って思うでしょ。
女性らしい女性、男性らしい男性は使えなくなるのである。すごい困る。
女性スポーツ選手、男性スポーツ選手、男性格闘家や女性アイドルはとりあえず使えなくなる。これは困る。
どうも、多様性を叫ぶ人の中には、「女性らしい女性」「男性らしい男性」を排除するきらいがある。それも多様性の一つであるという概念が抜けている。
じゃあ、例えば、女性芸能人とかスポーツ選手を、一枚絵のポスターに使用しようとするじゃないか。
まあ、大坂なおみを例にあげよう。
「登場人物回数が男女いずれかに偏っていませんか?」→大坂なおみの他に男性も一緒に使いましょう。
「年齢や職業など多様な男女が描かれていますか?」→大坂なおみ以外の男性、それも大坂なおみは高給取りの若い女性だから、貧乏人な年寄りのホームレスを使ってバランスを取りましょう。
「服、・持ち物の色、服のデザインが性別によって固定化されていませんか?」→大坂なおみのテニスコートウェアは女性のものだからズボン姿でないとNG。
「男性、女性で役割を決めつけていませんか? 家事・育児・介護・看護をしているのは女性だけになっていませんか?」→大坂なおみを、ピンで家事育児介護看護の広告には使えないのである。男性がやる、又は男性も入れる必要があるのだ。大坂なおみと一緒に家事ができる人って誰? それぐらいの釣り合いの取れるスポーツ選手といえば、大谷翔平ぐらいしかいないわけである。そうなると、今度は、年齢と職業が多様性を失うわけである。大坂なおみと一緒に使えるのは、年老いた貧困男性しかこのガイドラインによるとダメなのだ。
「興味を引くためだけに、外見(若さや性的側面などを)強調する表現にしていませんか?」もう、大坂なおみが使えないのである。若いスポーツ選手がスポーツしている姿、全てが使えん。テニスウェアも引っかかる。男性も含まれるという時点で、どうしていいのかわからない。ボクサーや力士なんかもアウトである。
ガイドラインというのは基本的に「そこまでバカな運用をされるはずがないだろ」と言われるのだが、だいたい逆で、そこまでバカな運用をされるのである。
「興味を引くためだけに、女性を使っていませんか?」
広告のアイキャッチに選ばれるのは、当たり前だが興味を引くためだけなので、全ての広告に女性、男性、キャラクターが使えなくなる。(”男性の起用に関しても同じことが言えます”とガイドライン中に書かれており、全て引っかかってしまうのだ)
萌え絵狙い撃ちの規定もあるわけだが、あまりにも広く網をかけた結果、萌え絵だけではなくあらゆるものがだめになっている。
萌え絵だけがヤバいのかと思ったら、大体の広告が引っかかるゲキヤバガイドラインだった。
「人格を持った多様な姿を描くようにしましょう」これ。アイキャッチに使うとなると、ほぼすべての表現が死ぬ。当然、実写も含めて。
しかも、人格のないアイキャッチと言えば、思いつくのはいらすとやである。しかし、皆使っている。となるとどうなるのか?
泣いたリ叫んだり笑ったり喜んでる絵か、もしくは何かアクションをしていればいいのか? さっぱりわからない。
つまり、どうとでも捉えられる99%、あるいは100%引っかかる謎の規定である。
昔、はじめの一歩が社会を明るくする運動で「まじめの一歩」というタイトルとともに、鴨川ジム総出のアイキャッチ広告があったのだが、このガイドラインだと、厳密に適応すると、それも引っかかるのである。
もしも上司に、こんなガイドラインを作りましたと言ったら、「ファジーで広すぎるガイドラインを作るな。バカ」と突っ返されると思う。
萌え絵だけがヤバいと思われているが、規定そのものがフワフワした観念的なものになっており、あらゆる広告を引っかけようとすると引っかかる。正直これやばくね? という感じである。
すごい。アホか。
なんかもう絵に描いたようなフルボッコですよね、ラーメン評論家。
そして、いわゆるラヲタと呼ばれる人々もキモいウザいと散々な叩かれようですけど、ラーメン業界に少々関わっていて一般人が知らないような話も多少は耳にしている私のような人間からすると、今のラーメン評論家やラヲタの叩かれ方や、梅澤愛優香という人物の言動や擁護のされ方が、どうもしっくりいかないところがあってこの文章を書いています。
私は批評されるのが嫌なのではなく
皮肉、嫌味、難癖、茶化しなどのパワハラとなるマウンティングや言葉や行動を含むセクハラが嫌なので壁を作りたかったんです。
確かに、一部ラーメン評論家・ラヲタの彼女に対する態度・言動は、はたから見ると彼女が主張するとおりに見られても仕方ないところはあったんだとは思うんですけど、それは彼女が若い女だからとか、アイドルがラーメンを作ってるとか、そういうところからくる分かりやすいマウンティングをしたわけじゃないんですよ。
まず事の発端というのは、梅澤氏自身が自分の経営するラーメン店について、「誰の力も借りずに一人で起ち上げた」と吹聴したところにあるんです。
もちろん彼女がラーメン店開店にあたって相当の苦労や努力をしたであろうことを否定するつもりはありません。
でも、それまでこれといった飲食業経験を積んでいなかった人が、ごくごく短期間に、誰の力も借りずにあのレベルの味を作り出して、あのレベルの造作の店舗を次々と開店させるというのは、普通に考えてありえないんですよ。
梅澤氏には技術的なサポート、金銭的なサポートをしている人間が裏に存在する。
このことは、ちょっと飲食系の食べ歩きをしている者ならばすぐに分かる話でした。
実際、あそこが関わっていそうだという話も耳にするようになる。
でも梅澤氏は、そのことを認めない。
認めないもなにも、そういった意見はまるで存在しないかのように無視する。
親切心から、そんなつまらない嘘はつかないほうがいいと忠告しても、無視する。
そしてまた、偽りの成功譚を吹聴する。
さて、ここでラーメン評論家にご登場願いましょう。
今回の騒動で、ラーメン評論家不要論が沸き上がっていますが、本当に不要なんでしょうか?
ラーメン評論家の最も大事な役目は、ラーメンに関する情報の確かさを担保すること、かもしれません。
テレビや新聞雑誌でラーメン特集を組む場合、実際に画面や紙面に出ていなくても、そこには必ずといっていいほどラーメン評論家が介在しています。
なぜなら、メディアが情報を発信するにあたっては、その情報の正確さに責任を負う必要があるからです。
ラーメン評論家が自らの膨大な知識を用いて発信すべき情報を吟味し、その確かさを担保することによって、メディアは責任をもってその情報を発信できるのです。
もちろん、ネット上に溢れるラーメンの情報は、そんな責任など負ってはいないですし、そこにラーメン評論家など介在していないものがほとんどですが、それらの情報にどれだけの品質と信ぴょう性があるか。
それはそれとして、情報の確かさを担保する立場のラーメン評論家にとって、ラーメン店主が発するいい加減な発言というのは、なかなかに面倒くさいものだったりします。
年配の店主が昔のことをけむに巻く、なんていうのは冗談としてありでしょうが、いかにも真実のような顔をして大マジで嘘つかれたら、本当に困りますよ。
間違いなく裏に援助者がいる店なのに、店主がそう言っているからと「店主の梅澤愛優香さんは、この店を自分だけの力で起ち上げた。本当に凄いですね!」なんて、言えないじゃないですか。
なので手を変え品を変え、梅澤氏に確認すると、無視されたり次第に嫌がられたり。
つまり彼女は、ラヲタや評論家連中にとって「自分を現実よりも大きく見せようとして、つかなくてもいい嘘をつき、不確かな情報を流布させている、かなり面倒くさくて残念な人」だったわけです。
彼女がツイートで「皮肉、嫌味、難癖、茶化しなど」と言っているものも、実際は彼女のそういった姿勢に対するリアクションなのです。
ただし、彼女にそういう残念なところがあったからといって、何を言っても、どんな態度をとってもいいというわけではないし、人として問題のある言動・行動をとった人も少なからずいるのは確かでしょう。
そういう人は正しく糾弾されるべきだと思いますが、ただ、このような経緯があった上での梅澤氏とラヲタ・評論家との関係性を知らないまま、この後の騒動について「ラヲタも評論家も最低、まゆかちゃんかわいそう」と憤るのは、ちょっと安直すぎるのではないかと思うわけです。
そんなこんなでラヲタ界隈が梅澤氏に辟易している状況下に、ついにあのバカラヲタが登場します。
なにをとち狂ったか、梅澤氏が反社と関わっていると言い出し、営業を妨害。
彼女が関わっているラーメン関係の業者の中には、多少ガラの悪い人もいるでしょう。
そんな人のことを冗談半分に反社などと言っていたのを真に受けたんでしょうかねえ。
この件については、バカラヲタに100%非があり、別に擁護する気もありません。
ただ、この騒動によって梅澤氏が自分の嘘をうやむやにする絶好のチャンスを得たのは間違いのないところです。
バカラヲタの100%アウトな行動をあげつらいながら、これまでもラヲタ連中にはひどい目に遭わされてきたきたと訴えれば、何も知らない人はころりと騙されますよ。
そうやって自分に都合の良い空気を作り上げたところで、ラーメン評論家出入り禁止を発表。
もちろんセクハラもアウトですよ。
でもこの一連の動きによって、ラヲタやラーメン評論家が梅澤氏に向かって、彼女に都合の悪い話を振ることは、ほぼ不可能になってしまいました。
梅澤氏が一人で店を起ち上げた疑惑は、こうして闇に葬られたのです。
私は別に、ラヲタやラーメン評論家は悪くないなんて思ってないです。
これまで関わってきた人の中には、人間的に残念な人もかなり多いです。
でも、今回の件について、ラヲタやラーメン評論家がここまで一方的にボッコボコにされるような話ではないと思っているし、梅澤氏にもそれなりに非があるとは思っているので、拙い文章をまとめてみました。
まともな内容なんてなくて、ほとんど学校と部活の愚痴みたいなもので
それでも日本のどこか知らないところにいるの同じ部活の先輩、同級生たちと
そのあとも何度かブログを書こうとしたけど続かなかった。
今で考えれば堅苦しくて仕方ないはずのあのブログがどうしてあそこまで続いたんだろう。
あるいは実際にはそこまで続いていなかったのかもしれないけど。
あの2年に満たなかったであろう時間は私の中でとても大きなものになっている。
あの時、交流のあった先輩や同級生たちは何をしているんだろう。
LINEの友だち一覧にいる人もいるけれど、メッセージを送る勇気がない。
あの頃と同じようなブログが書けるかと言われたら、それは不可能だ。
中身のない記事を一晩かけて書いたり、
コメントの送信者とまるで顔を合わせて話し込んでいるかのように
文字だけの会話を楽しんだり
…かもしれない。
このような文体で自分を批評していることさえ十分に苦笑モノなのだけれども。
そこの虚しさに出会う前に気付いて手を引っ込める。