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はてなキーワード: プロレタリアートとは

2018-12-16

anond:20181216220339

マルクスが思っている以上にブルジョア狡猾だったってことかな

ブルジョアプロレタリアートが反抗せず搾取を最大化する絶妙ラインを攻めてるのね

anond:20181216213149

よく間違った点と言われるのは、「労働」についての分析だな。

マルクスは、労働が集まって価値を作っているから、ブルジョワ労働を集めるしかない、という話をした。

でも労働は常に同じ価値じゃあないし、社会にいる個々人だけのものでもない。現実の俺たちに起こったのは、植民地労働機械化によって労働力が提供されて、プロレタリアートを虐げることなブルジョワが豊かになることだった。

AIによってこれから起こるのも、その発展系だね。

マルクス主義って論破できるの?

資本論読んだらプロレタリアートによる革命必然のように思えてくるんだけど

2018-06-24

anond:20180624191934

同志の言う通り。今こそ純粋マルクス主義に立ち返ろう。ブルジョワジーの完全粉砕こそが真の共産主義者の使命であり、プロレタリアート革命的大団結を妨害する代々木スターリン主義のニセ共産主義者だ。

2018-06-15

今の時代子育てが受け入れられない理由

未婚どころか恋愛経験もない非モテがここまで増えた現代社会では「子ども」ってのは勝ち組の証でありソーシャル資産なんだよね

特にTwitter子育てについて発信するような層なんてブルジョアジーと言っても過言じゃない

金融資産をひけらかす金持ち貧乏人に嫌われるように、到底持ちようのない家庭やら子どもやらを尊重しろなんてのを非モテプロレタリアートが受け入れらるわけないじゃん

2018-06-04

東大を出て大企業」は「負け組」と実感した話

東大卒アラサー業界トップメーカー勤務サラリーマン

学生の頃は東大トップ層ではないが、落ちこぼれでもない程度。

最近仕事プライベートの両面で精神が滅入ることがあり療養中。

先日、妻から宝飾店主催ツアーを勧められ、気分転換も兼ねて参加した。

催事チケットと高級ホテルランチパッケージにしたバスツアーで、有閑マダムを集めて比較的安く開催しているもの

安い代わりに宝飾品のセールスセミナーが組み込まれていて、商品の素晴らしさを解説される。

このネックレスは編んで使っても綺麗ですよとか、色々なお洋服に合いますよとか、はっきり言って自分感覚からすればくだらないとしか思えない内容だった。

それでもマダム達はあら素敵とばかりにセールストークに乗り、俺の月収以上の値段のする商品を大して悩みもせずお買い上げ。

俺がメンタル壊して長時間労働に耐えながら1ヶ月働いてやっと手に入れる額を、たかが綺麗な石ころにホイホイと払う人たちがいる。

どう見ても俺より努力もしていなさそうだし、聞こえてくる会話からもあまり教養を感じない。平日の昼間からこんな時間のかかるツアーに参加しているあたり、仕事もしていそうに見えない。

不労所得階級、恐らくは地主家系、あるいは高給取りの奥様だろう。妻も地主の娘なのでそのあたりはわかる。

自分東大から大企業に入ったものの、所詮時間と体力と精神力を引き換えにすることでしかお金を手に入れられない身分仕事はそれなりにやっているので最近社長役員と関わる機会も増えてきたが、彼らもレベルが違うだけで本質は同じ。

改めて、どう努力しても超えられない壁存在をまざまざと見せつけられた気分だった。

正確に言えば起業なり投資なりの方法階級を超えることは可能かもしれないが、労働者階級にいるものがそこに辿り着くためにはリスクを背負わなければならない。

今までやってきた努力所詮労働者階級内で「使える奴隷」になるための努力に過ぎないのだなと思った。

しかランチの間近くから聞こえてきた会話の内容は、マダム達の熱意もない子女予備校や塾で矯正していい大学に行かせるというもの

階級は超えないとはいえ「勉強」は持たざるものが持てる者に勝つ数少ない手段として導入されたもの(古くは科挙明治維新など)だったはずが、その席すら持てる者がステータス感や見栄え、いわばファッション感覚で持っていってしまっている。

自分は幸い労働者階級のかなり上の方にいられたし、不労所得階級と繋がりも持てた。今の自分境遇が嫌だというつもりはない。お金のある人がお金を使うのは良いことだということも理解している。

辛かったのは「自分努力で」誰にも負けないよう登っていくことは不可能であること、最初から決められてしまっていたんだということを見せつけられたこと。

バスビジネス街を通ったあたりで、窓の外にいる疲れた顔をしたサラリーマン(とは言っても大企業本社が多いエリア、いわゆるエリートサラリーマンであろう)とマダム達の顔を見比べて、涙が出てしまった。

おれたちは勝ち組なんかじゃない。所詮プロレタリアートだ。

2018-01-18

世界史おじさん、おばさん教えて

ヨーロッパとかロシアについてウィキペディアを読んでたんだけど、ざっくりこういう流れでいいのかな?(WW1くらいまで)



王政貴族教会時代

暇だから勉強して、頭良い人があれこれ考え始める(哲学って感じ)

産業革命

労働者階級の不満(もりもり)

ブルジョワジー革命

プロレタリアート革命

2017-04-18

http://anond.hatelabo.jp/20170418122323

仕事が「そういうもの」であったのって、たぶん本来マルクス経済学とかの時代プロレタリアートの「仕事」がそういうものだったんだと思う。

残念ながら現代世界もっと複雑になってしまって、合わせて人々の生活水準も上がってしまっているので、あの時代の考え方で現代生活を支えることはできないと思う。

現代的な文化的生活を諦めて年収200万くらいで良しとするなら「そういう仕事」ができると思う。こんな超長期のデフレが無ければ年収400万くらいまではいけたと思うけど。

2017-04-16

二十一世紀の退化現象 経済暴力により貴族が復活 

法学者らは法曹暴力により消えてゆき 経済こそ社会であるといわれた

人権がお嫌いな貴族らはプロレタリアート集団自殺の惹起を企てる

汚金溜まりに住み着いた貴族には足を洗っていただきたく存じあげる

2017-01-30

シン・えんとつ町のプペル

『同志アレクサンドロヴナ。革命家必要資質は何か?』

『同志ウリヤノフ。思想意思、自制、魅力、統率、扇動であります。』

『90点だ。同志アレクサンドロヴナ。』

『………。』

『私にはあと10点が足りなかった。私が革命をついに為し遂げられなかったならば、残り10点の欠落によるだろう。』

『………その10点とは何でありますか。同志ウリヤノフ。』

『同志アレクサンドロヴナ。その10点とは、、、

 

――同志アレクサンドロヴナ。風船を用いた飛行船によってルビッチとプペルが煙に突入。全て計画通りに進行中。

鼓膜を擦するような雑音混じりの伝令通信により、アレクサンドロヴナは甘い微睡から目覚めた。

即座に胸まで浸かりかけた追懐を殺す。感傷を潰す。

――同志アレクサンドロヴナ。

素早く一つ、いや二つ深呼吸する。

了解正念である。身命惜しま監視を続けよ。」

――了解

 

憲兵もの銃弾にこめかみを貫かれた同志ウリヤノフの胸をナイフで引き裂き、大動脈と大静脈を引きちぎって心臓を掻き抱きながら敗走したあの日から、私は私ではない。

埋葬もなく、墓標もなく、告別すらなく憲兵もの放った犬の餌になり果てた同志ウリヤノフの手足であり、声であり、遺志だ。

故に自身に宿った同志の一粒種にも、父親役を演じる部下を通して同志の言葉を贈り続けた。

 

「信じぬくんだ。たとえひとりになっても。」

 

残党になり下がり、地下に潜った革命軍に残された希望は、少年に育った一粒種ルビッチと同志ウリヤノフの心臓、それのみであったが、心臓所在が遂に憲兵どもに摑まれた。

危機はしかし、好機だった。

当局がまだその存在を把握していないルビッチアレクサンドロヴナが、同志ウリヤノフの心臓父親役の部下が、それぞれ抱えて逃走した。

部下は心臓を8つ複製し、それぞれを異なる配達屋に預けたうえ、町の果てまで追走してきた憲兵もの目の前で自刃した。見事な最期だったという。

何も知らぬ配達屋たちは全員、我々が仕組んだとおりに配達途中で心臓を取り落とした。

手間と賃金を換算し、配達屋たちは目論見通り誰一人捜索に一切着手せず、何事もなかったかのように配達業務に戻った。

憲兵どもに拉致された彼らは尋問され、拷問されながら、自分が何故かような仕置きを受けているのか全く理解きぬまま死ぬことになるだろう。彼らの屍を捧げることで、同志ウリヤノフの心臓痕跡を消し去ることができる。危機はしかし、好機だったのだ。

私は私ではない。アレクサンドロヴナは繰り返す。

私は私ではない。同志ウリヤノフの遺志を継ぐ道具。機械

故に死後、地獄に落ちることも厭わない。

 

憲兵どもが配達屋たちを責めている間に同志の本物の心臓を回収し、ルビッチが父のものだと頑に信じている銀のペンダント、それは事実同志ウリヤノフ所有のペンダントで昔日に私に贈られたものだ、を脳核としてヒトガタを造る。

資本家どもが排泄したゴミでできた、哀れな人形だ。

この町の99%を占める最底辺プロレタリアートのものである

脳核たるペンダントから父親役だった部下の写真を取り出し、代わりにプログラムを埋め込む。

プログラム。即ち同志ウリヤノフの遺志である

半年か、一年か。人形が起動するまでに暫しの時間必要だ。

ビッチには、父親は漁のさなかに波にのまれて死んだと伝えた。

止むことなく流れる涙を見ながら、脳髄に刻むように言い聞かせる。

私は私ではない。私は同志ウリヤノフの遺志を継ぐ道具。機械。私は私ではない。私は私では、、、

 

――同志アレクサンドロヴナ!ルビッチとプペルが煙を突破しました! その先の何か、その先にある何か偉大なものに邂逅した模様!

この国では労働者搾取され続け、資本家どもは肥え太り続ける。

労働者は朝も晩も、資本家もの富の代償である煙に包まれ、煙によって目が冒され、肺が冒され、脳が冒され、死ぬ

平均寿命は50に満たない。まっとうな状態でいられるのはせいぜい40までだ。残りの10年は苦しみしかない。

煙は資本家もの贅肉そのものであり、この国を閉塞する蓋であり、持つものと持たざるものを隔てるイェリコの壁である

しかし今宵、角笛は吹かれた。

壁が崩れる時が来た。

持たざるものが、煙を超えたのだ。

諸君! 私は確信する! 遠くない未来、我々の矜持を、尊厳を、希望を、光を奪い続けた煙が晴れることを!」

万歳万歳万歳!」

革命の父イリヤ・ウリヤノフの息子ルビッチ! ルビッチ・ウリヤノフ! それが煙に突撃し、煙を払う者の名である!」

「同志ルビッチ・ウリヤノフ!万歳! 同志ルビッチ・ウリヤノフ!万歳! 」

「今宵この日は! お金奴隷解放宣言が叶った日として永劫記憶されるだろう!」

「ギブ&ギブ! ギブ&ギブ! ギブ&ギブ!」

 

 

『その10点とは、、、「伝説」だ。』

伝説…』

『どれだけ資質を備えていても、どれほど有能であったとしても、人は不完全だ。しか民衆指導者に完全を求める。残念ながら人は人ゆえに、完全には成り得ない。ではどうする?』

『………。』

『諦めだよ。同志アレクサンドロヴナ。諦めだ。』

理解に至りません。同志ウリヤノフ。』

『彼は選ばれた者なのだ。だから盲信するしかない。そんな諦めだ。

自身比較し秀でているから信じるのではない。自身比較できないから信じられるのだ。』

『………。』

『たとえばこの煙。どこまで続くか誰も知らぬこ絶望の煙を超えて、その先にあるものにまみえた。そんな、常人では発想することすら笑い話になるような伝説だ。』

『煙の、その先…』

『たとえばの話だがね。…しかし、見てみたいものだな。その先にあるものを。…きみとともに。』

10年に渡る激しい革命闘争の果てに「煙突のルビッチ」を最高指導者に戴く政治結社「赤い星」は、ついに世界史上初めての社会主義革命成就させる。

ビッチは言う。

『他の誰も見ていなくてもいい。

 

黒い煙のその先に、お前が光を見たのなら、

 

行動しろ。思いしれ。そして、常識に屈するな。

 

お前がその目で見たもの真実だ。

 

あの日、あの時、あの光を見た自分信じろ

 

信じぬくんだ。たとえ一人になっても。

 

キドキしてる?』

 

2017-01-26

http://anond.hatelabo.jp/20170126140200

何の努力もせずに、格差はあるぞ俺が下に居るからな、と言うのは楽でいいね

格差があることに不満なご様子なのに、プロレタリアート自覚もなく金持ちには阿るのがほんと分かんない

2016-08-11

http://anond.hatelabo.jp/20160811030939

ネットで多数の選択肢が用意され、競争が起こり、選択と集中が起きるのは自然な成り行きだと思うけど。

リクルートがそれをしただけでしょ?

ネットで安売りする大手企業のせいで個人の電器屋は壊滅です」と似たようなイメージなんだけど、どこで買っても同じ家電よりもサービス差別化できる分美容室の方がまだマシじゃんとしか

個人の家電屋ですら必死地元に密着して様々なサービスをすることで高い家電買ってもらって生き残ってる。美容室も同じように地域で固定客を捕まえるサービス必死ですればいいだけなのに、何で美容室に対してこうも擁護の声があがるのかね。

いや、美容室擁護の声が上がってんじゃなくて、全ての仲介業者は何であろうがはてなプロレタリアート)の敵だから批判対象になってるって形なのかな。

2016-07-31

http://anond.hatelabo.jp/20160731102923

共産主義思想リベラルといえなくもないですよ。

資本主義社会(少数派ブルジョワジー階級多数派プロレタリアート階級を分断・抑圧・搾取する体制

革命階級の力関係の逆転)

社会主義社会共産主義の第一段階/プロレタリア独裁国家多数派プロレタリアートが少数派ブルジョワジーを抑圧する体制

階級および国家階級暴力装置)の揚棄

共産主義社会(無階級社会人類解放

という流れがマルクス系の共産主義思想の概ねの公式なので、歴史の発展にともなって人類総体自由は増大するはずなのです。

資本主義より不自由社会主義社会があれば、それは社会主義ではないはずなのです。

2016-05-15

共産音楽趣味者としての共産主義の魅力

私は共産趣味者だ。歳は20代共産主義シンパではあるし、社会主義者ではあるかも知れないが、共産主義者ではないと自己規定している。

共産趣味にもいろいろある。私はソ連音楽が好きだが、映画ポスタースローガンに惹かれる人もいるし、ミリタリー方面が中心の人もいる。地域についても、東ドイツはじめ東欧諸国ユーゴスラビア東南アジア南米などの東側諸国だけではなく、日本西欧などの西側諸国で見られた共産主義の関わる文化活動に惹かれる人など様々だ。

ソ連音楽社会主義者音楽の何が私を惹きつけるのだろうか、と思ったので書いてみる。多少ガチ共産主義者っぽい部分もあるかも知れないし、不勉強なので思想の細かいところは間違っているかも。

こっち側にとって史上最大の敵対相手であったこと

世界の半分で、少なくともその当初は熱狂的に支持された思想であり、いくつかの分野では一時とはい西側を圧倒する成果を生み出しもした。つまり強かった。

その思想

ブルジョアの打倒、プロレタリアートによる平等平和建設!惹かれないわけがない。

対する資本主義陣営自由民主主義を掲げて戦ったし、これも強力な思想だが、その登場はあくま共産主義に対するカウンターしかなかった。資本主義陣営の根幹にある思想あくま資本主義の維持だったからだ。戦う相手社会主義陣営というよりは資本主義陣営労働者階級だった。社会主義陣営が実際に自由民主主義を侵していたからこそ、この主張には効果があった。

感情を揺さぶるように作られたプロパガンダ

プロパガンダ的な作品には共産主義社会への魅力が詰め込まれているのだ。私はプロパガンダに乗せられていると言っても良い。乗せられやす性格なのだ

ソ連中央テレビジョンソ連国歌と一緒に流れるビデオ (https://www.youtube.com/watch?v=rHomETco0MI) なんかは最高で、労働者たる人民労働の喜びに溢れている様子が流れ、十月革命労働者の怒り、ブルジョワジーの打倒の精神が示され、人民の力で支える連邦の強大さが示され、レーニンの党と人民の力が我々を共産主義へと導く!という具合でひょいひょいと感情を揺すられてしまう。

お馴染みのインターナショナル (Интернационал, The Internationale, https://www.youtube.com/watch?v=t8EMx7Y16Vo)、国際学連の歌 (日本語https://www.youtube.com/watch?v=SCdlGH6RhBw) なんかは私の中ではこういう類の歌だ。

こういうこと言うとクラシック畑の人には笑われそうだが、ショスタコーヴィチの5番や11番も大好きだ。

音楽ではないし、およそ普通意味ではプロパガンダでもないが、ソウル五輪体操女子団体メダル授与式 (https://www.youtube.com/watch?v=l7lAZ89Pu_c) がもう最高である彼女らがステートアマ国家に大変な恩義があるというのは確かであるにしても、私の目に映る、エレーナ・シュシュノヴァ選手赤旗を見上げながら国歌の「我らを共産主義への勝利へと導く」という歌詞を口ずさんでいる姿は、紛れもなく共産主義への希望と勝利への確信に溢れたソビエト連邦人民の姿なわけですよ。こんなに晴れ晴れとしたことはないじゃないですか

正直私はかなり危ないと思う。実際に共産主義に走った連中もこんな奴らだったのかも知れない。この先本当に扇情的プロパガンダが私に向けられたときに私は正気で居られるだろうか。

もっとプロパガンダが全てではない。90年代ロシアポップスには体制の変革と自由を喜ぶような歌も多く、味わい深い。こちらは「作り物」ではなく本物だと思う。Комбинация の American Boy (https://www.youtube.com/watch?v=W7hAo28NCXc) とか Наташа Королева の Жёлтые тюльпаны (黄色チューリップhttps://www.youtube.com/watch?v=E57T8XYa7OM) とか。

基層にある、主にロシア文化ウクライナ文化

理想的にはこれを一番の理由に挙げるべきだと思う。ロシア旋律情緒があっていい。アコーディオンバラライカ音色ロシア語自体の響きによく合う。

ウクライナの Розпрягайте коней, хлопці (若者よ馬の軛を外せ、https://www.youtube.com/watch?v=MCuqR4Jz9DU) なんかは民族的でよい。

蛇足: 私が生まれときには共産主義は死んだ思想として扱われており、残虐行為ナチスのそれほど宣伝されないので、擦り込まれ忌避感がない。

ただしそれでも一切忌避しないと言うわけにはいかない。まさに現代冷戦構造がそのままここにあって、新左翼の連中が日本革命を起こそうとしていたら(しているが)、私は反対する。マルクスの主張するように暴力革命によって社会を変革するべきだとは、革命権を行使すべき状況にならない限りは思わない。共産主義建設の名のもとに数千万の命が失われたことは紛れもない事実だし、少なくとも過去ソ連社会主義国家の遺産を消費して楽しむ上でここを批判せずにいることは危険すぎる。

蛇足: それでもまだ共産主義を含む社会主義思想は負けていない。

東側陣営はなぜ冷戦に敗北したか計画経済市場経済に比べ資源配分効率が悪かったので人民生活を維持しつつ経済の発展を続けることができなかったからだ。

西側陣営の掲げた自由民主主義は本当に勝利したのか?東側陣営との対決のために自らもまた市民自由制限し、アメリカドミノ理論を振りかざして世界中開発独裁政権を打ち立て、現地の市民を抑圧した。21世紀紛争の種を撒いたのは紛れもない事実だ。結局のところ西側陣営が実際に対抗勢力に対して振るった武器自由民主主義ではなく資本主義だった。

共産主義にしても、本来人民を抑圧し民主主義否定する思想ではない。

これをもって社会主義喧嘩に負けて勝負に勝ったのだなどと言うつもりはないが、思想的に決着が付いたとは言えないと思う。競争相手がいなくなったか勝敗という言葉が使えなくなっただけで、今我々のいる陣営もまた行き詰まってしまったというのは確かなことではないか

2016-04-18

春になったがとてもじゃないが仕事を続けられる気がしない。

去年転勤になり、東京からわけのわからんところにぶっ飛ばされたのが憂鬱の原因だろうか。

場所がどうこうというよりは(もともと東京は人が多くて嫌だった、特に新宿人間の数って多すぎるよね。半分で十分。)、地方拠点ならではの狭っ苦しいオフィスが嫌だ。

1日1回は罵声が聞こえてくる。逃げ場が殆ど無い。タバコは吸わないからタバコ部屋にも行けない。

最近職場に行くと動悸と吐き気が酷い。日曜日なんか朝から翌日の会社憂鬱だ。サザエさん症候群どころの騒ぎではない。

仕事内容もこっちに来てからクソつまらん。ブルーカラーしかない。

ジョニイジョースターのように、ひたすらマイナスゼロまで戻そうと必死こいている。そんなお仕事

大学時代に比べて思考力が落ちてきた。言語能力も落ちてきている。普段仕事でほぼ自分意見発言する機会が無いので、おおよそ創造的な能力が落ちてきている。

この間久々に大学時代の友人と会ったが、驚くほど上手く話せなかった。自分はこんなにつまらないことしか言えないのかと戦いた。けど過去を美化しているだけかな。

とにかく動悸と吐き気には困った。あと体重の増減。1ヶ月で平気で5キロ程度体重が変動する。死んじゃうよ俺。

俺を救うのはコミックレンタルだけだ。最近4月は君の嘘と、あと何かを借りた。忘れた。東京グールだったか

ともかく会社行きたくない。つまらない。つまらくない仕事なんて無いとは思うのだけど、それにしたってつまらないよ。人世ってなんだろうとありがちだけど考えてしまう。

俺の生きている意義ってなんなんだろう。俺俺俺。

ホモ・ルーデンスだっけか。人間ってそういうもんじゃないのかい。生きるために生きてるなんて動物じゃないか。

真の文化奴隷制のうえでしか成り立たないのか。高等遊民になりてえ。

憂鬱だ。とかく憂鬱だ。昔はよかったという思いしか無い。いつだってはいものなのだろうけど。

ただ昔は今よりは笑ってた気がする。近所の保育園の周りを歩くと、子どもたちが笑うこと笑うこと。

ふと小学生時代、文集の特集ページで「明るい人」ランキング第2位に選ばれたことを思い出した。なんでこんな暗くなってしまったのだろう。

最近職場にいるときはいつも下を向いている。携帯電話振動することに怯えている。心ないメールに怯えている。何もしたくない。何も言われたくないから何もしないのだ。

オフィス内でずっとイスに座っていると、顔が火照ってくる。頭がぼんやりしてくる。ただ、眠くはない。不安でとてもじゃないが眠れない。

気分が落ち着かないから仕事も手に付かない。メーラーの受信ボタンを連打する。いつメールが来るか。いつ携帯振動するか。

もう寝るか。寝よう。そして明日だ。仕事だ。哀れなプロレタリアート。非ホモ・ルーデンス

2016-03-07

キモオタによるフェミニズム概論

フェミニストからキモオタ死ねと言われ、私はもちろんキモオタであるから激昂してクソフェミ死ねと言い返しかけて、そこでふと気がついて困惑した。

フェミニズムとは何だろうか。

私はフェミニズム名前ぐらいしか知らない。しかし知らないものを知らないままにしておくことは、少なくとも私にとってキモオタしからぬ行為である。私は自分に自信をもってキモオタでありたい。クソフェミ死ねと罵られるキモオタであることに誇りを持ちたい。ならばフェミニズムについて知らなければならない。

しかフェミニズムについて知りたかったら何を読めばいいのか。これが意外と分からない。ロールズやセンを読めというのを見つけたので読んでみたが、やはりフェミニズムが分かった気になれない。

そこで手当たり次第に適当にフェミニズム書籍を読んでまとめみることにした結果が本稿である。決して十全ではないが、私同様、フェミニズムをよく知らないオタク諸姉諸兄にとって、フェミニズム理解の取っ掛かりになれば幸いである。

フェミニズムとは

フェミニズムは大きく三種類ある。ラディカル・フェミニズム(以下ラディフェミ)、リベラルフェミニズム(以下リベフェミ)、そしてマルクス主義フェミニズム(以下マルフェミ)であり、それぞれ理論の組み立ては全く異なる。以下順に見ていこう。

ラディカル・フェミニズム

現在のラディフェミ理論的支柱はキャサリン・マッキノンと言っていいだろう。「性の不平等の源はミソジニー(女嫌い)」であり、「ミソジニーの源は性的サディズムにある」(C.マッキノン,"フェミニズム表現の自由",1987,*1)。そして社会に溢れるポルノグラフィ(以下ポルノ)こそが「性差別主義者社会秩序の精髄であり、その本質をなす社会的行為」(*1)に他ならないと喝破する。この諸悪の根源ポルノであるという揺るぎない確信からポルノ法規制を推進する。

ポルノ性犯罪を誘発するという統計的証拠はあるのか。この批判に、しかしマッキノンは自覚的である。誘発するという調査もあり、無いという調査もあると率直に認める。従って彼女が起草した反ポルノ法は「被害をもたらすことが証明されうる物だけが告発できる」(C.マッキノン&A.ドウォーキン,"ポルノグラフィ性差別",1997,*2)。「証明されるべき被害は、強制行為、暴行脅迫、名誉毀損、性にもとづいて従属させる物の取引といった被害でなければなら」(*2)ず、不快に感じた、宗教上の信念を侵しているといった被害は認められない。被害者ではない第三者告発することも認められない。

ポルノには、ホモレズ二次元も、古典文学から芸術作品まで被害をもたらすことが証明される限り全て含まれる。自分が叩きやすゲームマンガだけを槍玉にあげて、自分が叩かれやすい文学や芸術から目を背けるチキンではない。殴るからには全て殴る。それがマッキノである

なお、田嶋陽子はラディフェミを名乗りドウォーキンへの共感を示しているが、ポルノ諸悪の根源とはせず、現実的政策としてはリベフェミに近い内容を述べているため注意されたい("愛という名の支配",1992)。

リベラルフェミニズム

J.ロールズの「公正としての正義」やA.センの「不平等の再検討」をその理論的土台とし、リベフェミは次の点を問題視する。「ジェンダーシステムは、その根を家族における性別役割にもち、事実上わたしたちの生活の隅々まで枝葉をはびこらせた、社会の基礎的構造のひとつ」(S.オーキン,"正義ジェンダー家族",1989,*3)であり、「女性男性重要差異が、家族内で現在おこなわれている性別分業によって作られる」(*3)。

夫婦がともに働いている姿を子供に見せることが教育上望ましいと考え、そして共働きにおいて妻にだけ家事育児押し付けられることは不平等であり、二人で平等に分担するべきであるとする。もし専業主婦なら、夫の稼ぎは夫婦二人で稼いだものとして両者で均等に等分すべきだとオーキンは言う。

このように家庭内賃金労働の不平等の解消によって性差別の無い社会が構築されるとする考えから、リベフェミ女性社会進出を推奨し、出産休暇や託児所の拡充、男性育児休暇取得を推進する。また「子どもたちがなりたい人間になる機会」(*3)を拡大するため――その機会を無知ゆえに狭めないために、性教育重要性を訴える。

なお、「男性を敵視し憎む分派は消滅するだろう」(B.フリーダン,"新しい女性創造",1965)が示すように、フェミニズム男性女性権力闘争化することに否定的立場をとる。

マルクス主義フェミニズム

出産を含む女性の家事育児は明白な労働行為である。にも関わらず男性社会はそれに一切の支払いをしてこなかった。ゆえに女性とは搾取されるプロレタリアートであり、その意味で男性とはブルジョワジーである女性の抑圧は、資本制と家父長制の構造上必然的に生じたものであると喝破し、資本制・家父長制の打倒を訴え、そしてこれが日本の伝統フェミニズムである

女性社会進出に関してはリベフェミの主張とほぼ同一だが、フェミニズムの主要な敵は男性であると断じ、マルフェミでは家事育児という労働に対する賃金の支払いを請求する(上野千鶴子,"家父長制と資本マルクス主義フェミニズムの地平",1990,*4)点で異なる。ただし誰に請求しているのか、また家父長制を崩壊させるために「資本制との新しい調停」を、というが、それが共産制かというとそれも曖昧で判然としない。

日本ではさらにそこに独自思想が入り交ざる。例えば男女混合名簿の推進は「日の丸君が代シンボルとする儀式を撃ちくずす」(河合真由美,"「男が先」を否定することでみえてくるもの――学校の中での性差別男女混合名簿",1991)から良いのだ等、目的が何なのか、いささか混沌としている向きも見受けられる。

その他のフェミニズムと補足

レズビアンフェミニズムブラックフェミニズムエコロジカルフェミニズムポストモダンフェミニズムなど多岐にわたる。マルクス主義フェミニズムの派生であるサイボーグフェミニズム(D.ハラウェイ,"サイボーグ宣言",1985)は読むとつまらないがネタとしては面白い。あとキワモノで言えばスピリチュアルフェミニズムとか。

補足1:クィア理論

同性愛者とフェミニスト関係は、従来男性権力社会に対する「敵の敵は味方」関係に過ぎなかった。そこで登場したのが「フェミニズムと、ジェンダーに関するゲイレズビアンの視点と、ポスト構造主義理論を、政治的ひとつに纏め」(J.バトラー,"ジェンダートラブル",1990)たクィア理論である。これにより統一戦線理論的に張ることが出来るようになった。

補足2:男性差別

リベフェミは広範な男性差別否定するが、アファーマティブ・アクションでの男性差別肯定する。ラディフェミ男性敵視の姿勢を持つが、しかしマッキノンは男性けが徴兵されることは男性差別だとして否定する。「平等とは、ジェンダーの違いではなく、ジェンダーヒエラルキーを問題にし、その根絶をめざすものである」(*1)からである。マルフェミはよくわからなかった。女性兵士に反対しているので、男性差別肯定されるのかもしれない。

フェミニズムが扱う問題

セクハラ家庭内暴力中絶女性兵士等色々あるが、本稿ではオタク、わけてもアニメオタク関係の深い「性の商品化」について取り上げる。

「性の商品化」の法規制

マッキノンは、猥褻として過去に規制された、まさに「性の商品化であるユリシーズ(J.ジョイス,1922)について「ポルノではない」と述べる(*2)。現実の被害が証明されていないからである。「性の商品化」は法規制の理由にならない。

リベフェミであるN.ストロッセンは「子供や妻への虐待強姦日常的な女性への屈辱行為などを正当化する内容が詳細に述べられている」書籍として聖書をあげ、「禁止されない安全思想などほとんど存在しない」("ポルノグラフィ防衛論",2000)とする。そして性教育がかつて猥褻として政府に規制された例を上げ、ポルノ禁止法は政府検閲に利用されると強く批判する。

一方、上野は「性の商品化」だとしてミスコン廃止を訴えるフェミニストについて、彼女らは「法的取り締まりを要求したわけではなく、受け手として「不愉快」だという意思表示権利行使であると言う。そして「性の商品化」は「メディアのなかでも、なんらかの基準がつくられる必要がある("「セクシュアリティ」の近代を超えて",新編日本フェミニズム6,2009)」とする。

ここから見えてくる点として、女性が「不愉快であることが問題なのだということが分かる。「性の商品化」とは何か、それに実害があるかは、おそらく最終的にはどうでもいいのである。さらに求めているのは自主規制であって法規制ではない。自主規制によって発言者は自ら口をつぐむのだから表現の自由は全く関係のない話である

不愉快」による法規制正統性

リベフェミであるマーサヌスバウム嫌悪感を根拠とした法規制を徹底して批判し、ゾーニング妥当性を論じるが("感情と法",2004)、マルフェミである永田えり子は「ポルノ市場が成立すれば、必然的ポルノ市場の外部に流出する。そして流出すると不快に感じる人がいる」("道徳フェミニスト宣言",1997)としてゾーニング効果がないと批判する。

ポルノは「人々に広く不快を甘受させているかもしれない。そして事実不快だという人がいる。ならば、それは公害である」。「性の商品化は多くの人々に対して、確実に何らかの不快や怒りを与えるはず」であるがゆえに規制されるべきだと主張する。

そのような不快感を根拠とした規制は恣意的運用がなされるという批判は当たらない。曖昧な法は他にもあるが、現に警察と司法は正しく運用しているかである。性道徳に根拠が無いという批判も当たらない。「根拠がないということがすなわち不当であるわけではな」く、それは「正しいから正しい」のである

なお、福島瑞穂非実在児童ポルノ規制は法的安定性が保証されないとして反対しており、この永田見解がマルフェミ共通見解でないことは述べておく。が、例えば児童ポルノ法規制に対して日本ユニセフ協会広報室長の中井裕真から司法は正しく運用してくれる旨の見解が述べられており(永山薫昼間たかし,"マンガ論争勃発2",2009)、これがフェミニストの通説でないことは明らかだが、一定存在する見解であるように思われる。

日本草の根フェミニズム

初期の日本フェミニズムには「反主知性主義」があり、「女性であれば(女性としての経験をもってさえいれば)誰でも女性学担い手になれること、専門的なジャーゴンや注の使用を避け」、「プロアマ距離をできるだけ近づけること」が目指されたと上野は述べている("女性学の制度化をめぐって",2001)。

こうした取り組みで女性が声をあげられる空気を作り出すことに成功したが、結果としてフェミニズムは「一人一派」と化した。筆者の私見に過ぎないが、これは同時にフェミニズムと「私」の区別を曖昧なままにしたのではないか。

「私」とフェミニズムが一体化しているとすれば、「私」が不愉快ならフェミニズム上も不公正に決まっている。それが従来のフェミニズム理論と矛盾していたり整合性が取れなくとも関係ない。「「オンナ対オトコ!」なんて言ってるフェミなんて、いないのになぁ」(北原みのり,"フェミの嫌われ方",2000)が示す通り、従来の理論について知識も興味もないフェミニストは珍しくない。知らなければ(当人の中で)矛盾はしない。

理論を欠いた思想は、しばしば信念や信仰へと還元されてしまいがちである」(*4)と上野は言う。そのような啓蒙主義者にとって「真理はつねに単純である。(中略)真理を受け容れることのできない人々は(中略)真理の力で救済することができなければ、力の論理で封じるほかはない」。そうして治安警察国家を招き寄せる人々は「反主知主義の闇の中に閉ざされる」。

これは実は上野によるリベフェミへの批判なのだが、筆者にはリベフェミではないところに突き刺さっているように思えてならない。

おわりに

このようにフェミニズム一言で言い表せるような概念ではもはやない。日本の初期フェミニズムはマルフェミが中心であったが、現代日本フェミニストは必ずしもそうではないだろう(例えば堀田碧は"「男女共同参画」と「日の丸フェミニズムの危うい関係"で一部の若いフェミニスト愛国心に苦言を呈している)。

最後になるが、フェミニズムはクソだという見解に私は全く同意しない。職場上司女性社員の尻を撫でることは強制わいせつ以外の何物でもないし、家庭内暴力夫婦喧嘩ではなく傷害である。どれだけ成果を上げようが性別を理由に賃金を低く抑え、出世コースから排除するといった制度の是正フェミニズムが尽力したことを、私は決してクソだとは思わない。

私がクソだと思うのは、……まぁ、書かなくても察してもらえるかと思う。

いささか長い増田になった。この程度の調査力でキモオタとかw という批判は甘んじて受けるしか無いが、とはいえもし誰かの理解の役に立ったのならそれに勝るものはない。

2016-02-27

日本人は夢破れた民族だと思う

かっては皆で頑張れば皆が幸せになれる少なくとも頑張った人間幸せになれると思われていた。

だけど蓋を開けてみたらその頑張りを吸い上げる立場にいるブルジョアジーが他のプロレタリアートをダシにするだけの状態は一向に変わらず相変わらず頑張ってきているのに多くの人は報われない。

そしてそれがいつまで経っても続き遂に死ぬような所まで来てもブルジョア自分のことばかり優先し続けそしてそれが当たり前だと思い込んだまま。

そうして日本人の夢は崩壊した。

正当に皆のために努力すれば報われるなんてことはなくて他人を利用することばかり考えて我田引水のための努力ばかり続けた奴だけが得をするという事実再検証されすぎた。

自分の事しか考えられない老人があまりにも沢山いるのは彼らが裏切られ続けたからだ。

若者はまだ他人を信じる気持ちを失いきってはいない。

多分40ぐらいまでは修正が効く。

そこに行くまでの間に結局ブルジョア自分たちを利用しているだけなんだなこの国はと確信したままで終わったらもう自分のことしか考えられなくなる。

そうしてモラル崩壊した老人になる。

2014-10-09

共産趣味者ってのはさあ!

共産趣味者ってのはさあ、なんつーかさ、思想的に非常に悪い意味ステイブルニュートラルだよな。

すげえ自分安全なところから左翼的な部分に言及する。思想的に安全なところからさ!

「私はノンポリでぇ~す!!左翼的ものとは元来は関係ありまっせーーんッ!」って。臆面なく言えちゃう。だから共産趣味者を標榜できる。

思想というものを求められないからこうなる。

自分ブルジョワジーなのか、プロレタリアートなのか。

そんなものを一切考えなくてもいい。21世紀現代はな。そんなものを考えなくても生きていける。

もちろん、貧困格差はある。だがそれをブルジョア的、プロレタリアート的、あるいは階級闘争と引きつけて考えなくなっている。

からこそ、ふわりと共産趣味者が現れる。ブルかプロか? の埒外からの「観察者」が現れる。

共産趣味者でも、こうした構造自覚的な者はまだわかる。というか趣味者を生産的にこなせている。

しかしこうした構造にあまり無頓着共産趣味者を標榜する人間、すなわに勉強全然してない表面的な語彙的面白さで趣味者をやっている人間が多すぎる。

そうした姿勢は、趣味者として、左翼的ものに近いようで、最もかけ離れた姿勢なのだ

2014-07-01

嫌悪」の政治家 石原慎太郎橋下徹

まず、冒頭に述べると、私は石原慎太郎橋下徹という政治家は嫌いではない。

特に橋下氏には大阪府民ではないが彼らの行動力や構想力、討論力そして徹底的に民主主義者たる有り様に好感をもつ。

少なくとも「ハシズム批判をしている自称・識者よりははるか社会にいい影響を与えていると思っている。

その橋下氏が先日の「たかじんのそこまで言って委員会」に出演されて熱い議論をされているのを見てある小説の一節を思い出した。

その小説とは、石原慎太郎氏の「嫌悪の狙撃者」である

なぜ、いまさら袂を分かった石原氏の小説を持ち出すのか、と訝しむ声もあるだろうがまずはその一節を引用したい。

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嫌悪」こそが今日人間が生きるための情念である。「嫌悪」だけが、自らを正しく見出し、己の生を生きるための情熱を与え得る唯一の術だ。「嫌悪」の遂行こそが現代における真の行為なのだ。それが遂行される時にのみ、真実破壊があり、革命があり、創造があり得る。「嫌悪」に発する、精神的に凶悪な思考だけが真に知的ものであり得る、等々、私は私なりにその主題を発展させていったのだが。(石原慎太郎・「嫌悪の狙撃者」より)

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嫌悪の狙撃者のあらすじ等は他におまかせするとして、嫌悪の狙撃者において石原慎太郎氏が述べようとしたのは「嫌悪」という感情純粋性と創造性であった。

そして嫌悪けが真の感情だという。

その石原慎太郎氏が嫌悪を向けた対象は①左翼リベラル主義者中華人民共和国アメリカ日本支配④硬直した日本官僚制、の大きく分けて4点であった。(その昔は田中角栄による金権政治にたいする嫌悪も強かったといえるだろう)

石原慎太郎氏を「右翼」とみる向きがあるがそれは違う。

右翼」とは日本の古くから伝統重要視し、「保守」し、必要に応じてそれを改革していく思想である

そして、日本の古くから伝統というのは皇室であり、戦前に「國體」とよばれたもののことである

まり右翼」ならば皇室に対する強い尊崇と、それを維持しつつ日本改革を進めていく姿勢必要なのである

しかし、石原慎太郎氏は日の丸については並々ならぬ思い入れを語る一方で、ご皇室に対しては「皇室日本の役に立たない」「皇居お辞儀するのはバカ」(http://biz-journal.jp/2014/03/post_4279.html)と語る。また、君が代についても斉唱する際は冒頭の部分を「わが日の本は」と替え歌して歌う旨をのべている。

この姿は日本右翼の姿とはかけ離れている。石原氏自身も自分のことを「真ん中よりちょっと左」とかんがえているようだ。

それでは、なぜ石原慎太郎氏は「右翼」と勘違いされるのだろうか。それは、上記①②への並々ならぬ「嫌悪からである国民の印象の中には石原氏が①②へ強いレトリックを用いて批判するのを見て石原氏は「左翼」の逆、つまり右翼」と勘違いしているのである

石原氏を知るには右左の切り口ではなく、「嫌悪」という切り口で考えなければその本質は見えてこないのである

そして、同じ構図は橋下徹氏にも当てはまる。

橋下氏は「たかじん…」において、自分保守だとかリベラルだとかの「思想がない」と批判されることを歓迎している。

そのおかげで「必要とき必要政策うつことができる」からだという。

しかし、その「必要」か否かを判断することに「思想」が必要なのであって、無思想というのはありえない。

橋下氏の「思想」は石原氏と同じ「嫌悪」なのである

橋下徹嫌悪するものは①左翼リベラル主義者②硬直した中央官僚制メディア王手から週刊誌まで)の3点あった。

橋下氏はこれらの人々にたいして徹底した論戦を挑む。論戦において彼らを叩きのめすことで嫌悪のはけ口とする。

彼を右左という切り口でみることもまた、本質を見失うことになる。

石原慎太郎橋下徹には上記のような共通性がある。橋下徹石原慎太郎の二人をつなぐものは「嫌悪」という感情以外の何物でもないのである

まり、この二人は「嫌悪政治家」といえる。

最後に忘れずに申し上げたいのは、「嫌悪政治家」というとなにかとても悪いものに聞こえるが、私はそうは思わないということである

フランス革命を成し遂げたのはプロレタリアートによるブルジョアに対する「嫌悪」以外の何物でもない。嫌悪があったからこそマリー・アントワネットを断頭台に導いたのである

しかし、その結果として「創造」されたのはフランス人権宣言という人類の宝であった。この例からも「嫌悪」によって創造されるものが悪とは決して言えない。

また、仮に「平和政治家」や「思いやりの政治家」と呼べる人がいたからといって、彼らの生み出すもの日本世界にとって素晴らしい物になるとも限らないのは日本過去政治家を見ればわかる。

しかし、我々有権者が、彼らが「嫌悪政治家であるということを理解し、その観点から政治活動を見守るのは意味があると思う。

以上

2014-06-30

魔術の福音

民俗学の先輩が言うには魔術や呪術の類いは人の願望の産物なのだという。どうしても欲しいけど手に入れられないものがある時、

人は魔法でも使えたらと独り言ちる。中には本当に禁断の書物を繙いて(ひもといて)しまう人もいるのだから驚きである

日本では言霊という概念があるね。これは西洋には全く見られない独自の思想というふうに言われるけど、根っこは一緒なの。

どうしても呪いたい人がいる時オンソワカ~フンヌラバ~と呪い言葉を繰り返していると相手にダメージが与えられないかなと願うわけ。

そういう血なまぐさい思想技法体系は何も陰陽師さんに限ったことではなくどこの国にもある。シャーマンだってそうだ。


ただまあ現代ではそういうのは流行らない。原初的人間文化形態ではあるが、成熟した文化は魔術性を封印していく傾向にある。

いわゆる土俗的な文化であれその例外ではないのだよ。原住民というといつまでも魔術とかまじないとか信じてると思ったら大間違い。


なぜ流行らなくなるかという時に科学進歩するから胡散臭い文化排除されるというふうに説明する人がいるね。これも矛盾した説明なんですわ。

最初に言ったでしょう。人の願望の産物だと。願望がある限り魔術は生き続ける余地がある。けれどもその願望というもの自体流行らなくなったら?

そういうことを考えてみたことはあるかね?文化成熟して利便性が向上することで泥臭い願望というもの自体流行らなくなる。そういう話なんですわ。


魔術と混同されがちなのがスピリチュアリズムである。これは似て非なる代物と言って良い。魔術は欲望モロ出しのおっぴろげなのに対して

スピリチュアリズムは着衣エロティシズム略して着エロでね。着メロじゃないぞ。表向きは隠すの。つまり魔術が人の願望が生み出したモンスターだとすれば、

スピリチュアリズムというのは願望をうまく手なずけ善い生き方をしようという思想(これもまた願望ともいえるのだが)が生み出したモンスターといえる。

しばしば現代スピリチュアリズム元ネタとして言及されるのが19C前後西洋神秘思想(occultism)であるが、なるほどそこまで遡ると

確かに多分に中世からの魔術思想に源流が認められるところはある。まあ似てるんだけど、そもそもの発想が違う。

魔術は願望の成就を目指すのに対してスピリチュアリズムと来たらどうだ、願望のコントロールを目指すのだ。スピリチュアルやね。


で、権威的な話をすると魔術とスピリチュアリズム関係は、支配者と奴隷関係に似ている。魔術のほうが支配者ね。魔術を使って支配するのではない。

魔術っぽさがここでは肝心なのね。何も魔術なんか実在しなくたっていい。それっぽさに一部の人々はカリスマ性を感じるわけ。ここに芸術の魔術性がある。

時代音楽家たちに影響を与えた書物、ピーターバスティアンの『音楽霊性』に書かれていたことも結局はそういうことだった。

支配と芸術関係性を理解しているかどうかは重要よ。支配者は魔術師でありながら奴隷たちには魔術ではなくスピリチュアリズムを勧めるの。

結局これって権力というもの普遍的に語る1つのフレームワークだと思うんだけど。プロレタリアートブルジョワジー関係だってそう。

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