はてなキーワード: デファクトスタンダードとは
デファクトスタンダードになったデザインを変えるのは難しい。だが増田が安心して老後を過ごせるように現状に楔を打ち込んでいくぞ。
現状ではそう捉えてもらって構いません。
しかしながら開発環境のAndroid StudioはARMアーキテクチャー向け以外にもx86(x86_64)アーキテクチャー向けにもコンパイル&ビルドが可能です。
ゲームなど高度なグラフィックス機能を用いた場合に問題となるのはARMアーキテクチャー固有の機能へ強く依存する設計を行っているアプリですね。
ARMの機能へ強く依存しないように心がけて高度なグラフィックスを実現するとx86アーキテクチャーでも軽快なアプリは実装できます。
Chrome OSデバイスはAndroidスマートフォンと比較して大画面であることが多く、ゲームの需要も比較的高いことが予測されます。
広いプラットフォームへ配信することを考えてもアーキテクチャー固有の機能へ依存しすぎることは開発にとって技術的負債になりかねないので広範な実装をしたほうが良いでしょう。
このあたりは3Dゲームの開発環境ではデファクトスタンダード化しているUnityにも気をつけて貰いたいところです。
良い言語だと思うが、不満がある。
という愚痴がある。他人の書いたものを読む分には良い言語だと思うよ。
型ヒントはコンパイル時のエラーにならないじゃん。だったら、いらなくね?タプルは複数の値を返すときに使うのね。Go みたいだね。または Ruby の Struct みたいな。
あれ嫌いな人おるのか。俺も好きじゃないが。純粋に Haskell と同じ文法だったら良かったのにね。
アレはキモいね。素直に ?! で良いと思う。というか、Python は英語圏の人も納得はできないだろ、っていう文法が多くないか?
というのは同意する。ただ、書くときにそうは思わない。例えば、with 構文は Ruby の方がブロックを抜けたらクローズするという方針のが良いと思う。
中国ってさ、基本的に人権が希薄なんだよね。自分や家族くらいしか見えていない。そしてちょっと前まで路上がトイレだったという文化圏なのかわからないけど、よほどのことがない限りはおおらかに過ごす。例えば列に割り込まれてもそれを許す人も意外と多い。日本だと列に割り込むのはルール違反だと叫ばれるけど、中国なら「まあ、たくさん人がいるし列がどこかもわからないからいいじゃない」という人が結構いる。もちろん怒る人もいるけど、怒られたら別の列に紛れればいい。そんな感じ。ルールを守ることが全てではないというのが中国人。大陸的というか大勢に影響するかどうかが価値基準なんだよね。
中国人はチートが大好き。ルールを守るってのは自分たちの利益を守るよりだいぶ低い位置にある。バレなければ何しても良い、というのは本当なんだ。親しい人も利益の前では単なる壁にしか思っていない。
だからこそ成長できる。多少のルール違反は小石程度に思えるからあまり躊躇がない。躊躇しているうちに追い越されるなら踏み越えたほうが良い。そうやって成長してきたしこれからもそうだろう。
そういう中国人の気風は世界的にデファクトスタンダードになりつつある。他の国はある程度成長しきっていて、今は自分たちが定めたルールに縛られすぎている。日本はもう成長の見込みない。これは絶対だと思う。だから子供が生まれたら中国人との結婚を推すことにする。日本人なんかと結婚したら駄目だ。可能なら俺も中国に行っとけばよかったかもしれないな。
ポケゴーをしているとわかりますが、最近のポケゴーはとにかくイベントを連発して忙しい。毎日のようになにかあるし、だいたいどのイベントも重複している。今はレジェンドシーズンでボル・トル・ランの三種が霊獣フォルムで出現しているし、メガミミロップもでるしサカキとも戦わないといけない。GBLもトレードも日々のタスクも盛りだくさん。やることあるのに重要なポケモン捕まえるにはかなり苦労しないといけない。
それにポケストを撮影しろだとか申請しろだとか、どうでもいいことまで要求してくる。また、フレンド登録枠なるものが増えたが、そんなものより純粋にポケモンを沢山沸かせて欲しいし、イベントごとのバグをマジでなんとかしてください。
そんな自分は複アカをしている。昔は単なる興味本位だったけど、他の人が忙しかったりするときは共有しているし、引退した人のを受け継いでもいる。何よりレイドを効率的にこなさないといけないときには複アカが何より重要だ。ガチの人たちの殆どは複アカや共有をつかっているし、そういう人たちのグループはやはり強くて効率的だ。なにかにつけてお世話になっている。位置偽装も1、2度はしている。
昔と比べ、ポケゴーはとにかく忙しくて生活の合間にちびちびするゲームではなくなってしまいました。ガチになろうとすれば複アカは避けられず、オートキャッチを使わなければ歩きスマホでむしろ危険なくらいだ。だけどこれらって規約違反らしいんだ。昔いたグループではそういうことをいうと注意する人がいた。一度だけ複アカを嫌う人と複垢している人たちでバトルがあったけど、あんなの不毛だよな。だってポケゴーを初期からしている人なら位置偽装も複アカも普通の行為だと思うんだもの。今より忙しくなくてポケモンも少なく、バトルリーグや交換もなかった時期ですら、複アカやボットは当たり前だった。そうした方が楽しいから。このゲームは対戦が主じゃなくて、あくまでも自分のコレクションをするゲーム。いわば歩くことを担保にしたガチャゲー。けれどポケストは偏っているし、いつでも集められるとは限らない。だからみんな位置偽装や複アカをするのは当然だった。
確かに対戦を推している今の環境だと複アカは良くない傾向かもしれない。だけどこう忙しいゲームになるとそんなこと言ってられないんだよ。
そう思っていると最近「ブラック校則」が話題に登っていた。真面目な話、ポケゴーの規約ってブラック校則だなと。なぜなら複アカや共有・位置偽装に関して、なぜそれらが定められているのか一切開示されていない。「現実世界を~」とあるけど、現実世界を複アカで歩くと悪い理由はなんにも書かれていない。位置偽装に至っては、公式が位置偽装ツール販売しているんだから草も生えない。
複アカ批判する人も「規約に書かれているから」以上のことを言わない。理由を聞いてもシドロモドロで意味がないとわかっている。
Nianticはなぜに複アカや共有や位置偽装を禁止しているんだろうか。
【追記】
あほか、と言われたら確かにあほではある。実際に違反をしているのだから。規約だって何らかの理由があってのことだろうし思想や歴史を学べば理解できるのかもしれない。だけど実際問題、ポケGOをしていてもその精神性とか理念とかはあまり感じない。複アカが駄目というのは、校則で言うところのスカートの丈は何センチ等の服装規定に近いと思う。あるいは就活での黒髪・リクルートスーツに近い文化。
それが意味あるならいいけど、そう思わないので破っても構わないんじゃないでしょうか?
それより、そういう規約を注意することがナンセンスかと。だって複アカにしろ位置偽装にしろ、誰にも迷惑かけないんだから。対戦要素においては自粛すればいいだけですし、ジムの蹴り出しは複アカ以前のシステムの欠陥。気をつければ別になんてことないものを、わざわざ注意するところにブラック校則的な要素がある気がします。
【追記2】
ガチ勢の成れの果て。沼に入り込むと視野が狭くなって客観性が失われる典型ですね/ダメな理由は「公平性」。ブラック校則と全く別の話で、それを公認したら全てが成り立たなくなる本質的な話。
ジム蹴り出しにしろ、対戦関連にしろ、複垢の方が不当に有利になっては困るんだよ、運営はそれで金儲けてる。パチンコで2台打ちダメとか腕相撲で両手使うなってのと同じレベルの話だ。2台持つ代わりに課金しろ
みなさんこういうのですが、有利不利を決定づけるのはゲーム性そのもの。位置偽装はある程度の知識や技術に依存しチートという認識は強いけど、複アカ程度で揺らぐならおかしいですよね。
本家のポケモンだって1人1ソフトなんて縛りをしたら売れなくなる。
そもそもブラック校則は「校則の成り立ちや存在意義が不透明であり、現実にそぐわない」ものを意味すると思います。はっきりいえば今のポケGOは複アカが基本です。少なくともガチでやってる人でそうじゃない人はまずいない。今の世の中で、黒髪ではないことがいけないことという認識はありませんよね。子供でも染めているのですから。
黒髪じゃないといやという人は存在するけど、他人の髪にまで文句付ける必要性を感じない。学校という閉鎖的な環境であっても、平等の精神からか髪染めを辞めさせたりするのはナンセンスだと思いませんか?複アカも一緒です。
過度に平等・公平な精神を保とうとして、意味の無い規約で縛る理由がありません。もしも縛りたいのであればシステム的にそうできないようにしないと。でもいくつもアカウント作れていくつも端末持てるようにしているのなら、最初から守られせる気持ちがないってことでしょ?
そんなものをなぜ規約に明記する必要があるのか。百歩譲って書いてあっても、それを周りが咎めたり注意する理由が不明です。
みなさん「位置ゲーで複アカは駄目だろう」といいますね。ではなぜ駄目なのか、はっきり言える人っていますか?例えばテクテクライフ(https://www.tekutekulife.com/terms)では規約に複アカは特に明記されていない。つまり「位置ゲーでは複アカはアカン」という話は成立しない。ポケGOに対戦要素があるからといっても、実際にはジム戦自体をしない人もいるくらいだから、対戦より歩いてポケモンゲットするゲームという認識の方がより強いわけです。コレクションゲーで複アカをどうして規制する必要がある?単にGPSでキャラを動かすだけしか他のガチャゲーと違わない。
それともポケGOには位置ゲーとして何か知られていない要素が存在する?
正直、このあたりをいうと罵倒をする人はいても理由を言える人はいないんですよ。ゲームとしての公平性とか運営が儲からないとか、そういうのは聞き飽きた。「位置ゲーで複アカは駄目でしょう。公平性を欠く」という理由を持っている人がいたら教えて欲しい
今ある多くのコメントは「校則を守らないと不平等になるだろ」「おまえが守らないと運営が大変なんだよ」くらいしか言ってない。それは染めている人を黒髪にしようとしたり、下着を取り替えさせようとするのに近い。黒髪じゃないと駄目な理由くらい言って欲しい。
【追記3】
複アカが基本は言い過ぎですね。確かにサイレントマジョリティはそういう不正をしない人です。王道は規約に沿って遊ぶことでしょう。
ただし、デファクトスタンダードは既に複アカや位置偽装です。そうしないと駄目な環境というのが正しい。王道と基本が一致していないのは残念ではあります。
「まずは客観的に進んだ大学と遅れた大学をランキングで把握しましょうねって位置付けの指標なんじゃないの?」
という質問ですね。
まず、進んだ大学と遅れた大学を把握するのにランキング形式で発表する必要はありません。
後述しますが、センセーショナルに報じられてしまうのは、背景などが無視される傾向にあり、もはやデメリットの方が大きいのではないでしょうか。
そして、わざわざ日本版と世界版で調査内容に差をつけて調査する必要がありません。
タイムズ・ハイアー・エジュケーションが世界版と同じ調査を「客観的な第三者機関」に依頼すればよいだけです。
なぜ利害関係にあるベネッセと共同企画しかつ、実施させたのでしょうか。
投稿もとに示したように、ベネッセが客観的に大学を評価できる団体かどうかにまず疑問があります。
ここで問題になるのは、「何をもって・どういった団体が」「進んだ大学」とするのかという点でしょう。
実際、10年程前に日本は「世界の大学ランキング100位以内に10校」という目標を掲げていました。
世界の大学ランキングが日本の教育政策に影響を与えていたのです。
これについては、文科省の平成30年(2018年)5月の第18回「将来構想部会」で議論されています。
この会議での東北大学の米澤教授の意見が非常に多くのことを示唆しておりますので、抜粋して紹介します。
ここ15年ぐらいの間に我々にとってかなり深刻なのは,世界大学ランキングが普及してきたことです。
その中で特にトップ大学が大学の在り方というものを世界大学ランキングの中で考えるようになってきているということがあります。
また、この会議の米澤教授の資料3で大学ランキングについて以下の点について問題視しています。
これは投稿もとの日経SRが調査を22万で大学に販売しているという問題にも関連しているでしょう。
新興国・先進国の間での国家間競争 のKPIに→介入・資源競争の激化」
https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo4/042/gijiroku/1407457.htm
https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo4/042/siryo/1405128.htm
私が危惧しているのはまさにこの傾向です。
「大学ランキング」を通して民間企業が大学の運営方針に影響を与えることができるようになってしまっているのです。
そしてその方針の判断材料として、「大学ランキング」に関連する調査を販売しています。
こういった傾向は就活業界の企業と大学の関係でも起こっているように思います。
そうしてみると、メディアが報道するのは良いとして、「THE大学ランキング日本版」の結果を大学が公式サイトに載せるべきではないでしょう。
ランキング形式にするほどの調査をしているのか疑問のある「THE大学ランキング日本版」がデファクトスタンダードになる恐れに大学が加担しているのです。
https://www.osaka-u.ac.jp/ja/news/topics/2021/3/20210326004
https://www.tohoku.ac.jp/japanese/2021/03/news20210325-02.html
繰り返しますが、大学の多様な在り方を画一的な指標によってランキング形式で発表するのは問題があります。
留学生が多い大学グループ、少ない大学グループなどを段階的に分けて発表すればいいだけです。
LINEがコミュニケーションアプリのデファクトスタンダードになってしまった現状
使わざるを得ないよねって話
仮に韓国にデータ置かれて何かしら見られてるとしても、見られてもしょうもない会話くらいしかしてないよ
クレカ番号とか銀行口座とか暗証番号とか書いて送ったりはしないしね
ここ最近でメールでのコミュニケーションした経験は企業に問い合わせたりソシャゲにバグ報告した覚えしかないよ
LINE使ってない人は、人とのコミュニケーションがメールで事足りてるの?
あとはLINE使わない人ってLINE使ってない人同士でメールとかしてるのかな?
それともやり取りしてる人は基本LINE使ってるけど、使ってない人に向けて仕方なくメールしてくれる役を被ってくれる人なのかな?
異性愛をスタンダード(標準)とすることは微妙になってきていると感じる。
ただ、異性愛の結果、子孫繁栄につながるかもしれないし、今まで異性愛者の生殖によって生命が繋がれてきている以上、今までの社会では異性愛がデファクトスタンダード(事実上の標準)だったと言ってもいいだろう。
「標準」に上という概念はないが、標準を定めると無意識にそれ以外を気持ち悪いと感じたり、距離を置きたいと思ってしまう層は存在する。
昨今、この無意識の差別をどうにかしようと、LGBTQ+の存在を知ってもらう活動が活発になってきた。
彼、彼女ら(この言い方もどうにかならんかな)もまた「日常」にいるのだ、性自認や性的志向が異なるだけで普通の人間だから、「標準」「普通」の中にいれてほしいのだ、と。
ただ、Twitterで他者の作品を無責任に貶してマウントとるのはそういう活動とは異なる性質のものだ。
実現したい未来のビジョンがあり、それに向けた活動としての批判でなければただのお気持ち表明でしかない。
承認欲求を満たすためや、ストレスの捌け口として言うのはただの悪口と何ら変わらない。
それでいて自分は筆舌鋭い批判家で、鋭すぎるぎ故にトラブルになることもある、誰も自分を認めてくれない、でも戦う、これが自分の存在価値だったんだ!なんて自己認識の人もいる。
正直、精神衛生上、そんな人は見ないのが互いにとって1番だと思っているが、そういう憐れな人をを見て安心したい人もいるのでそこは増田が選択すべきことだな。
現実にいない神とか仏をデファクトスタンダード化して勝手に絵画とか演劇とかのモチーフにして劣化コピー量産してた時代と一緒じゃん
プログラミングで主にやる事は下記の2つ。
①IFでAかBを選択させてどっちかの設定を実行
②Whileで決められた回数分繰り返す
とてつもなく複雑で冗長な処理によって実行されている。
わかりやすいので画像処理でいうと、数十万から数百万の画素(RGBAの24bitで表される数値)を小さなブロックに分解し、数学的に周波数の重なりとして計算して変換、含まれる頻出パターンをテーブルにして圧縮伸張を行なう。みたいなことが瞬間的に行われている。
「まさかそんな事できるわけないだろ」というレベルの処理が実際に行われており、これまた直感的でない。
だからそれをどう書くんだよ。という答えはコレ。有名なjpegの実装だ。
libjpeg というライブラリを書くことはできるだろうか?画像の圧縮の理論から考え始めることはできるか?
正直無理だ。自分はプログラマだがそんなに数学が得意ではなく、頑張ったとしても下手するとコレを作るのがライフワークになってしまい、他のことができなくなる。
例えばブラウザを0から作るとして、jpegの処理以外にも画像だけでpngとかgifとかwebpとか、その他もろもろとてつもない作業が必要になる。
「とてつもなくて想像もできないので流石に無理だろう?」
いや、でも、実際動いてるのよ。ここ何十年、コツコツと積み重ねて実現している。
「積み重ね」とはライブラリであったりフレームワークであったりOSであったりする。
「どういう風になっているのか」
外部に向けたインターフェイスがどうなっているのかは理解する必要がある。「使う」ために必要だからだ。
この2つは分けて考えなければならない。
ちなみに、たとえばChromeのコアであるChromiumはのコードはコレだ。
つまり言いたいことは、実際に動くアプリケーションというのを作りたいのにも関わらず
プログラミング入門書は、これで判定と繰り返しという基礎ができますと言うだけ。
これがもう滅茶苦茶イライラする。
「これで判定と繰り返しという基礎ができます」というのが基本的な理論(定理的なもの)で、その他に必然的だが唯一無二ではないベストプラクティスというものがある(法則的なもの)。
後者をうまく説明する入門書に出会っていないんだろうな。という印象。イライラはやめよう。つかれる。
ベストプラクティスはいろいろあるのだが「層の構造にする・レイヤーに分ける」というのは重要なアイデアだ。
libjpegというのはjpegの処理を行う「ライブラリ」だ。他のアプリケーション...たとえばブラウザはこのライブラリを「使う」。
ブラウザではjpeg画像の圧縮展開というとてつもなく難しい処理を「libjpegの使い方」の理解までで済ませ、過去の蓄積であるlibjpegのコードを利用することで真の意味で0から実装しないようにしている。
この場合、libjpegが「低レベル・低レイヤー」の存在であり、中身については「使い方」つまり「仕様」の理解までしか行わないことで、実際に作りたいものを作れるようにしているわけだ。
完成しているプログラムは二例ほど挙げたがどうですかね?
複雑なことをする、特に低レイヤーのコードはとてつもなく難しい。
でも、とりあえずこんな感じのコードなら解るよね?
こういうレベルから理解して、ちょっとずつ難しい処理を学んでいくしかない。
ハードルは高いんですよ。実際。
なので、木材からだと難しいからプレハブのキット的なものを探すとか、ログハウスのカタログを読むとか、あるいは100人乗れる物置を買うのがいいかもしれない。そういうところから始める。
それらがフレームワークであったりライブラリであったりする。目的に合うものを探して、自分がやりたいことをどう実現するかとにかく考える。
「テキシコー」https://www.nhk.or.jp/school/sougou/texico/ で言われる通り、「小さく分けて考える」「手順の組み合わせを考える」「パターンを見つける」「大事なものだけ抜き出して考える」「頭の中で手順をたどる」をひたすら実行する。
unityはコードが公開されているので、本当に読みたいなら。。
オブジェクト指向は一旦忘れよう。
オブジェクト指向の「隠蔽」というのは層の構造が持っている重要な要素ではあるけど、「低いレイヤーについて考えない」のが基本的な作戦だという理解の方が重要だ。
前述の通り「できる限り作らない」んですよ。「使う」だけ。知るべきことを最小化する。
そして本当に作るべきものに関しては、利用する下のレイヤーのライブラリなりを探して・仕様を理解して、どう組み合わせてfor, if, あるいは計算させれば実現できるのかをひたすら考える。
単に翻訳がしたいのか?表示に割り込む方法を知りたい?日本語に翻訳するのは実行時なのか開発時なのか?
要求される表示エリアが言語によって異なるために、デザイン調整が必要になる問題をどうするか?
分解が甘いので何をしたらいいか調べることができないんだと思う。
ちなみに、アプリ内の文言というのはアプリの外部から変更できないように実装されている事が多いので、利用者が上書きする仕組みはかなり難しい。
AndroidなりiOSの仕様にもそのへんに割り込める機能はないはずなので、OSの開発に入っていく必要がある。結構大変だとおもう。
アプリの開発者が、そういう機能を備えた多言語化のためのライブラリを使うようになれば実現可能ではあるので、そっちの方向で頑張るのがおすすめだが、英語圏の開発者には多言語化のモチベーションが低いという基本的な問題はあるのよね。
この辺の「できる・できない・むずかしい」の判断は、いろいろな勉強をすると常識としてある程度みえてくる...気がする。
ついでに。ウェブサイトやウェブサービスの翻訳だとこういうサービスがあったりする。
ブラウザはページの描画処理のなかに割り込む余地が大きく取ってあるので、ブラウザのExtensionとかならできることがいくらかあるかもしれない。
個人的に気に入らない話はOSのアップデートは使いやすくなるからとてもいい事だからすぐにやった方がいいと宣伝されている事。
まあ、半分は嘘だよね。古いものが残っていると先に進めないんだよ...。
現在のクライアントOSは、巨大なプラットフォームのパーツの一部として理解したほうが正しくて、古いパーツが残っているとツライんですよ。
そして「サービスを受けるための道具であって、あなたが何でも好きにできる機械ではないです」みたいな世界になりつつあって、ちょっと問題と言われてもいる。
これはかなり困った傾向なんだけど、全体としての流れはあんまり変わりそうにない。
オブジェクト指向好きですな...。ここではオブジェクト指向は特に気にしなくていいですよ。
とてつもなく複雑なことをやっているために、すべてのバグを潰すことはコストが高すぎてできないんですよね。
それよりバグは未来を先取りするコストと考えて、本質的に価値のある機能を増やしていくというのが基本的な方向になっている。
だからパソコンはたまに不具合を引き起こすんです。しゃーない。
しかし中途半端に理解している老人などは、そんなことじゃ分からん。自分に分かるように説明しろと言い出す。
説明は出来る。しかし相手はイライラするし理解されない。よって説明をしてはいけないという状況に追い込まれる。
ここでどうすればいいのだと理解不能に陥る。
まあ、説明って得てして難しいよ。しゃーない。
そのとおりです。
オープンソースのプロダクトなら原理的には調べられるけどね。Androidとかはオープンになってる。
それを許容することで先に進んできているという事実は受け入れたほうがいいと思う。
「把握・理解可能な範囲」に留めていたら、数十年前のコンピュータの世界から抜け出せなかった。
deep learningの世界ではそれがより一層進むかも。この辺は詳しくないけど。
ここでの「理解」についてはそのとおり。これはもう諦めるしかない。
これが常にある。IT関連は常に新しい情報が出てくるのでそれに送れると無知になってしまう。
なんでこんなことも分からないんだとか言われ放題で、IT系の企業に努めている人は常に新しい知識を入れられる
面倒くさがらない人が向いている。
「面倒くさがり」の方が問題に気づいて「頑張って面倒じゃなくする」ことができるので、プログラマにとっては美徳なんて言われますけどね。
同時にくじけないとか諦めない、しつこいみたいな素養は必要かも。
応用まではとろうな。がんばれ。
このへん自分も知らんですよ。べつに全部知っている必要はない。
(追記: はてな記法の引用すらもさっきまで知らなかったしな!そんなもん)
層の構造をとっているということと関係があるんですが、仕様が変わると、その上に乗っているものを全部なおさないといけないんですよね。
でも革新のために互換性を捨てなければいけないケースも多い。このへんはハードでもソフトでも同じ。
そして、メンテのコストが上がっても使い続けたほうがトータルで安上がりという場合は、古いものが残ってしまう。
あるいは「(多少の問題はあっても)動いているものは変えるな」という経験則から意図的に残す場合もある。
西暦2020年にもなって、プログラミングが簡単には出来ないし、ハードウェアの規格も完全に統一はされていない。
というかプログラミング言語自体多すぎる。ソフトウェアはデファクトスタンダードのモノ程度は知っているが、
ぜんぜん完成していない荒っぽいものを目にしているのだと理解したほうが的確。
それなのに毎日理解のできないパソコンやスマートフォンを使っている。
オブジェクト指向のおかげ様だがオブジェクト指向に対して無性に腹が立つ。
自分の全く知らない場所でいけしゃあしゃあと演算を行い、そして結果を出す。それも大半が正しい結果で
利便性が抜群だ。些細なミス(バグなど)はあるが圧倒的に利便性が勝っている。
そんな道具に踊らされている自分が滑稽だ。理解できない愚かな自分は正に機械の奴隷のようだ。
本当に理解できない。辛い。
勘違いしてはいけないのは、それらはすべて先人の努力の蓄積によって成り立っているということ。
「よくわからないけど存在している道具」ではなくて、信じられないほど複雑だけど、多くの人々の行動によってなんとかかんとか実現した道具なんですよ。
「オブジェクト指向のおかげ様」じゃないんです。(もちろんオブジェクト指向というのも大きな発明の一つですが)
そしてブラックボックスとして使うのは多くの場合正しいです。そこは諦めましょう。
でもエンジニアとしての立場からは、その裏に隠れているとてつもない技術や思考の蓄積に感動してほしいなと思う。
人類がこんなもん作れたのって、かなりすごいよ?
パソコンもスマートフォンも普段使っていて別段困る事はない。しかしながら戦術の通りプログラミングやソフトウェア、
そして最新のハードウェア等になるとまるっきりついていけない。ハードウェアはUSB-TypeCにも種類があるとか理解できない。
俺もコネクタなんて種類が多くてもう分かんないw
こういうのも技術的な意味合いのものと、商業的な大人の事情によるものが混在しているわけで
メンテナンスできないものを使い続けるというのはあんまりないはず
印刷の現場でClassic Macを使っていたり、工場でPC-9801を使っている現場は今でもあるにはあるけど、
日常でClassic MacやPC-9801を頻繁に見ることはないはず
西暦2020年にもなって、プログラミングが簡単には出来ないし、ハードウェアの規格も完全に統一はされていない。
というかプログラミング言語自体多すぎる。ソフトウェアはデファクトスタンダードのモノ程度は知っているが、
例えば、Windowsのゲームを開発するときDirectXを使うと思うのだけど、なんでマイクロソフトがわざわざDirectX作ったかというと、
商業的側面は、OpenGLとかはJISのような規格なので、マイクロソフトは口出しできない、主導権が握れない、
技術的側面は、規格の策定はビジネスのスピードより遅く、グラフィクスカードの進歩に追いつかない、OpenGLよりも先んじて先進的な技術をユーザーに提供したい、
みたいな思惑があるわけだ
この選択は正しかったと思われる、それがXBoxの開発にもつながるし、Windowsデスクトップの表現力にもつながった
言語が多くなるのは近年のCPUなどのアーキテクチャに則した言語を作りたい、
折角作り直すんだったら文法なども変えたい、みたいな考えがあると思う
フロッピーディスクなんてもう終わったのだからいい加減AドライブをSSDまたはHDDにするべきじゃないのかとすら思う。
だけどずっとCのままだ。
古いプログラムの中には「C」と決め打ちで書かれてしまっているため、Cドライブという概念をなくすとこれまでの資産が全部動かなくなる
そうすると、Windowsのような最初のHDDをCドライブと決めているOSは誰も使わなくなってしまう
俺も役所への手続きだの、これを知っているのが大人の常識だの、みんなクソ喰らえだと思っているけど、
そうしないと駄目みたいな世間の空気があるので、嫌々ググって調べたり、お役所ルールバカすぎるだろwと思ったりするけど、
ただ、コンピュータを製造するのは企業だし、そこにはビジネス的な大人の事情とか思惑が介入するわけで、
そうなると純粋な情報処理という学問を阻害されることは容易に起こるわけである
だって、自分でゼロからコンピュータやOSを作るわけにはいかないし
かと言って、企業もまったく情報処理学や数学を無視したものを製造できるはずもないわけで、
これって流行り廃れる技術なのか、少なくとも死ぬまで廃れることのない技術なのか、みたいな選定の目につながる気がする
言語も、まあ色々だけど、とりあえずCのような言語がちゃんとできればコンピュータの中が分かってないと書けないところがあるからCをやる意味はある
Linuxカーネルの一部にRustを実験的に持ち込んだりしてるみたいだけど、Cがなくなることはまだまだない、というかこれからもずっと続くと思う
なんだかんだCはRustより書きやすいと思うし、書きやすいからこそRustよりデンジャラスなのだ
Cドライブ云々は、例えばLinuxではCドライブという概念がないが、
同じコードをWindowsとLinuxで動かすなら、まずOSの種類を判定するコードを書いて、そこからパスの生成を分岐させればいい
結局、各学校が採用した端末というか、OSのシェアに関するデータはあるんだっけ?
国の補助金を使って、学校を舞台にこれまでと同様の大手ベンダー同士のシェア争いが展開されたようにしか見えなかったのだが、その後どうなったのだろうか。勝者はいたのだろうか。
GIGAスクールの話が始まったときから気になっていたのは、一人1台の端末が生徒のITリテラシーを高めると同時に、結局特定ベンダーのプロプライエタリな技術に依存してしまうベンダーロックインを国ぐるみで(国の金を使って)強化しているだけではないのか?ということだった。
Windows端末を全校で導入するにせよ、iPadを与えるにせよ、Chromebookにするにせよ、一私企業が作って所有している技術(知的財産)を使って何かをやることを子供に教え込むわけで。
iPadを与えられた中学生がいかに上手に、クリエイティブに使いこなしているか、みたいな話ばかりが話題になっていた記憶があるけれど、それって結局、iPad OSを使って何かをやるという考え方を教え込んでいるわけで。大人になるにつれてそこから離れることをかえって難しくしてはいないか。
つまり、特定の技術を使って客を囲い込んでいる私企業にたいして、今後どんなことがあってもお金や自分のデータを渡すことを疑問に思わない人間を育てているのではないかということ。
Wordが使えなければ仕事にならないから、デファクトスタンダードの技術を使いこなせるよう教え込むことが結局、子供のためになるのだという議論も成り立つように見えるが、問題の本質は同じだろう。
文書作成にWord「しか」使えない人間、そのことを疑問に思わない人間を増やす、つまりマイクロソフトの固定客を増やすだけではないのかということ。
台湾のオードリー・タン氏がタッチスクリーン式にしない電話をわざと使っているという話を最近読んで、特定のテクノロジーに依存しない、ベンダーに支配されない生き方とか考え方みたいなものを子供に早くから教えないと、今後大変なことになるんじゃないかと思った。
テクノロジーに依存しすぎず、一定の距離を保つ方法を学校ではどう教えているのだろうか、そもそも教えようとしているのだろうか。
自分も含めてだけれど、電車やバスの中でずーっとスマートフォンをいじっている人ばかりだということに気づくと、テクノロジーに依存しているということは無自覚、無防備で、ようするに教育を受けていないっていうことなんだよなと最近思う。
10年くらい前に「TV見ない」とかいうと、顔真っ赤にして怒り出しす人多かった。本当は必要がないことを本能が理解しているものの、自分の生活の一部となりアイデンティティになっているので、否定されると自分が攻撃されていると勘違いして激怒するのがその特徴です。
「Googleとかなくても調べ物できる」
なんて発言があるとして。この言葉にはほとんどの人は「へーそういう人も居るかもね。おれは使うけど」
「スマホは必須だろ!どうやってYoutubeもGoogleもない生活をするんだ!そんな原始人みたいな生活をするだなんてお前はよっぽどの貧乏人で暇が有り余ってるんだなwwwwww」
とかいうキレ方する奴見たこともないし、ちょっとこんなテンションの人が出てくるの想像しづらいです。
まぁPCけなしたら怒る人は若干いそうだけど
ところが次の斜陽テクノロジーとかに使うとブチ切れる人は出てくるのでは
零細企業や業界によってはFAXがデファクトスタンダードなの知らないの?
ペット飼わないの?ペットのかご抱えて動物病院まで歩いていくのwwwww
じゃあ勝手に草だけ食ってろ
かわいそうに本当に美味しいお肉を食べたことが無いんだ
このての怒ってる人って自分がなんで怒ってるのか理解できてない感じする
そこが悲しいよね
世におっぱいの揺れる擬音は数あれどどれが好きかと問われればそれは…
取り敢えず思い付くままに挙げていくから選んでね!
・ぷるん
すべての基本とも言える擬音。柔らかさと弾力とを兼ね備えた、正にオールマイティかつ定番。
・ぶるん
『ぷるん』と比べ、よりダイナミックに揺れてる様を想起させる。暴れおっぱい界のデファクトスタンダードと言えるだろう。
・ばるん
基本的に二回反復で使われることも多いおっぱい擬音の世界で、こちらは単発での使用が多いように思える。継続的な揺れというよりは、服や下着から勢いよくこぼれ出た瞬間を切り取った擬音と言えるか。
・ぶりん
こちらは柔らかさや弾力より、その重さを主眼に置いた擬音。おっぱいって重いのだ。
・ふるふる
その場に佇んでいるだけでも微かに主張してくるかの様な擬音。それはゼリーの口溶け。
最初の閃乱カグラの詠ちゃんのおっぱいが正にこんな感じだったなあ。
・たぷん
表面の波打つ様を表現している。『たっぷん』と間に促音を挟んで二度美味しい。
・どたぷん
『たぷん』に『ど』を付けることで破壊力を大幅強化。超弩級な大艦巨砲主義おっぱいである。
・たゆん
『たぷん』の派生型だが、柔らかさに全振りした擬音。濁音や半濁音に頼らないおっぱい揺れ擬音の第一人者だろう。
・ぱゆん
・ぼよん
多分、『ぼよよ~ん』とかの活用形で使用されることが多いと思われる。ダッダーン!
・ぽよん
・ボイン
揺れ擬音に留まらず、大きなおっぱいの代名詞と言っても過言ではない。
細かい派生も含めれば切りがないけど、大枠ではこんなところだろうか。
書き出してみて思ったけど、基本型は意外にバリエーションが少ないなと思った。まあ揺れるおっぱいという限られた事象を表現するんだからそんなものかもね。
既存のOSSに面倒なところを任せて自分たちのやりたいことをする、よくあるいつものパターンである。
しかし、行き詰まった。
どのOSSのexampleもさらっと10行程度で済まされている。しかもコメントもない。どう考えても、初見の人間の助けにはならないだろう。
StackOverflowの「こう書いたけどエラーが出ました、どうすればいいですか?」という質問のほうが動かし方のサンプルとして充実している有様だ。
これが1つのOSSだけなら、そんなこともあるよな、で済ませられるが、自分が目を通したOSSのすべてがそのような状態だった。
デファクトスタンダードとして利用者数も多いOSSもそうだったので、おそらく、これがC++の一般的なOSSの姿なのだろう。
他言語だともう少し充実しているのが当然だったので、自分には衝撃だった。
数多いる利用者たちはどうやって使い方を体得しているのか。
書く側にも読む側にも無意味なexampleは何に対するエクスキューズなのか。
Bjarne Stroustrup インタビューは実は本物だったのでは?