中学生の頃、というか、昔から変わったことと言えば外見だけだと思っていて、それでも、周りには中身も変わったなんて言われたりする。
丸くなっただとか、話しやすくなっただとか…。
けれど、自分はそう思ってなんてなくて、これからどこに進むのかわからない、秋の入口。
夜空を見上げると、夏の星座はとっくに姿を消していて、こうやって季節は巡るのかと実感させられていく。
焦りもありつつ、でもどこか変わることを恐れて、踏み出せないままじたばたと足踏みをしている。
私の季節は、まだ夏の中だ。
夜の秋の風は、確かに私を包んでいく。
少し遠くに聞こえる電車の音は季節が変わっても相変わらずで、少しホッとする。あの電車の向かう先は何となく分かっているけれど、私は分からないふりをしている。
ぼうっと、温かなオレンジ色に変えられたデスクライトに照らされる白い壁は時間を忘れさせる雰囲気を持っている。この時間がこのまま続けば、迷うことも悩むことも落ち込むことも、いつまでも立ち止まっていることさえも、罪悪感に苛まれることなんてないのに。
そんな淡い願いを、携帯や録画機の時計表示が消し去っていく。今日ももうこんな時間で、そろそろ大半の人がまた明日のために眠りにつく時間。そんな時間にも関わらず、毎日毎日寝るわけでもなく、私はネットの海を徘徊していく。
…別に、こんなこと、心の底から楽しいと思ってやっているわけではない。
真夏に比べて涼しくなった外の空気を開けた窓から吸い込みながら、遠くで聞こえるパトカーのサイレンに耳を傾ける。
私がこうやって、なんの生産性もない時間を進めている最中でも、世界では生産的な行動を繰り返す人々で溢れている。この、私がどうしようもない時間を生きている間にも、ああやって仕事をして世界を回す人達がいる。
かつては、私もあちら側の人間だったかのように思う。少なくとも、高校を卒業するまでは勉学とアルバイトの両立でまあまあ忙しく、今より人間らしい生活をしていたように思う。
私は、今でも私自身に少しというか、かなり期待をしている。
もしかしたら、何かのきっかけがあれば、その過去の私よりも輝けるようになるのではないか…とか。
私はあまり好きなものを作れない。何にもハマれない事が多い。ハマったとしてもまあ、1年、2年くらいですぐに投げ出してしまう。だから何かを好きだと思っても、それは一時の感情にすぎないのだと思う。
でも、そんなことを言うと、私の周りの人は決まって言うことがある。
『でも、絵を描いているじゃない』
…絵なんて、ただ物心付いた頃から知らず知らずに描いていた、ただの習慣に過ぎない。別に暇だったら描くし、やれと言われればやるものだ。
働くことや勉強することと、絵を比べたら、絵のほうが百万倍マシだと私は思っている。
まあ確かに、働くことも勉強することも大切だし、それによって自分の視野が広がるなんて、ありきたりだがままあることだ。
だからといってそれを進んでやるのかと言われればまたそれは違う。
第一、私は自分が絵が得意だとか思ってもいないし、こうして文章を頭のなかで組み立てるのも人より長けているかと問われればそれはまた違うと思っている。上には上がいるのが世の中だ。
その世の中で戦おうなんて考えるほど、私は野蛮な人間ではない。競争社会なんて、生きづらくて息が詰まる。まるで、水の中というか、宇宙空間に何も装備せずに放り出された気分だ。宇宙なんて行ったことあるわけないけど。
普段の私が、何をして過ごしているかなんて結構たかが知れていて、午前中に起床することは最近はほぼないに等しい。気づいたらもう夕方に差し掛かる15時っていうパターンが多い。
起床してからPCに向かうか、スマホを覗き込んでいつも通りソーシャルネットの海に飛び込むか、そんなもんだ。
PCを起動させてからは、当たり前のようにここでもネットを開き、アニメを見るか、ある言語を勉強する。それか、絵描きソフトを立ち上げる。そして時々、PCのメモ帳を立ち上げて物語を文字に起こす。
そんなことをしながら過ごしているとあっという間に夜に差し掛かる。
ほとんど外に出ることのない私は、実は夜や夜中、散歩がてら涼しくなった外を歩くことが好きだ。しかし、最近はそんなことをしていない。心配性の人が心配してしまうから。
別に心配されることをウザイだとか、面倒だとかは特に思わない。むしろ母親にそんな感情を向けられたことがないに等しい私はそれが心地よかったりもする。
世界中の人が表面上、幸せに暮らしているように思わせていても、その中には必ず陰があると私は思っている。
道行く、笑いあっている家族や友人同士、夫婦、カップルでさえも、自分の人生全てを相手に伝えることは困難だろうし、自分がこんなことで辛かったことがあるだとか、今こんなことで少し悩んでるんだ、なんて素直に言えるのはきっとごく僅かだから。
陰が強ければ強いほど、光はその分、陰からは眩しく見える。
本当はわかっていることだ。内に篭っているばかりではなく、何らかの形で外に出る勇気を持つことだとか、人と心の底から笑い合うだとか…。
普通はみんな、そんなこととうの昔にやっていて、子供の頃になんの違和感もなくやっていて、私はそれに遅れているだけ。
別に恨んだりはしていない。今は。そりゃ昔は誰に対してかもわからない怒りを持つことは多かったと思う。それでもなかなか表立って何かアクションを起こすこともなかったかのように思う。
世の中には、こんな空っぽの私を素敵だと言ってくれる人もいる。その全てがお世辞だと分かっていながらも、私はちゃんと笑顔でありがとうを伝える。このやり取りに一体どんな生産性があるのだろうとか考えながら。
私は生産性というものにこだわりを持ちすぎているようにも思う。それは多分確信だ。思い過ごしなんかじゃない。
消費するだけの人間はいつか必ず淘汰される。この世から淘汰されることを望みながら、なのにその淘汰を恐れているのが紛れもなく私なのだ。
私は決して頭がいい方でもないし、かといってスポーツ万能ってわけでも、芸術に特化しているわけでもない。
平凡から外れた単なる落ちこぼれだと思っている。こんなことを言っていても、周りはやっぱり、そんなことないよ、と笑う。私はまたそれに、そうかな。ありがとう。と笑う。また、これに意味があるのかと考えながら。
ふと、頭のなかで文章が浮かんでくる瞬間がある。なんとなくスマホのメモ帳に書き留めて、それをどこに発表するでもなく、結局はメモ帳を埋めていくだけのただの文字列と化す。
勿体無い。
そんな言葉が頭の端っこで揺れながら、同じように何にも代わり栄えしない、消費しかしない日々を過ごす。
いっその事、みんな私のことをこの能無しだとか、ゴミだとか、罵ってくれたら楽なんじゃないかとも考える。それでも、実際にそんな場面になったらと思うと、また怖くなってそういった淘汰を恐れる。
結局のところ、私は何になりたいのかわからずに蹲ったまま、また今日を迎える。
何者にもなれない私は、何者かになれている人々を羨むだけなのだ。