はてなキーワード: しおりとは
「立憲主義」とは”政府の統治を憲法に基づき行う原理で、政府の権威や合法性が憲法の制限下に置かれていることに依拠するという考え方。”(wikipedia)とある。
では、今回の新型インフルエンザ等対策特措法は立憲主義に即しているだろうか?
答えは、否である。
『報告さえすれば、宣言も延長もし放題。宣言や期間や措置の根拠を正すための市民イベントも開催禁止できる。外出自粛要請も、保育園や老人ホームの使用禁止も指示できる。
これが、国会承認までは不要で国会報告で足りる「抑制的な私権制限」なんですか?私はそう思わない。』
(https://twitter.com/ShioriYamao/status/1236832421967888384)
『しかもこの特措法の発動要件は「新型インフルエンザ等の感染が拡大していると疑うに足りる正当な理由」という極めて解釈の余地が広いものです。
パンデミック抑止のため初動の柔軟性を重視してこの要件を維持するなら、入り口が広い分だけ民主的統制や期間制限が強く要請されるはず。』
(https://twitter.com/ShioriYamao/status/1236832502951510016)
また、山尾氏は私案の骨子として、
① 緊急事態措置を行う期間(現行法は2年)と延長の上限(同1年)を6か月する。
を出している。
(https://twitter.com/ShioriYamao/status/1235845649779707906)
つまりは、政府の行動を監視し、チェックできる機能を強化する方向性だ。
これは、立憲主義的と言える。
山尾氏は問題点をこう指摘する。
『「危機管理法制は法律で十分。憲法の緊急事態条項は不要」野党の多くはそう主張してきた。
その法律が国会統制や説明責任ゆるゆるだったら、説得力なくすでしょう。
昨日枝野代表は、安倍総理に対し国会質疑の確保などを求めたけれど、言質をとるだけじゃ足りないから「法」がある。』
(https://twitter.com/ShioriYamao/status/1235449170598617089)
『ましてや強力な私権の制限を伴う法案。事実上の歯止めでは全く不十分。
民主党政権の法律だって言われたら、だからこそ足りなかった部分が分かると返せばよい。すぐさま具体的な改善策を提示すればよい。そんなに複雑な作業じゃない。
(https://twitter.com/ShioriYamao/status/1235449306477285378)
また、3月11日には「総理が民放に放送内容変更・差し替え可能。」という政府側の答弁が出てきた(3月13日に撤回)。もはや異常である。
解釈次第でテレビ局の放送内容を指示できてしまうようなものを、出来ないよう明記して防ぐべきではないか?政府の解釈がわずか二日でまるっきり変わってしまうような状況。であればこそ、法律内で明文化することが大事であり、それが出来ていない法律は許さない、というのが立憲主義的ではないだろうか。
必要なのは、権力側が”やろうと思えばできてしまう”ものを、明確に禁止出来るようにすることなのだと思う。そのことを山尾しおりさんはずっと訴え続けてきた。枝野代表のツイッターにも間違いがあると指摘し続けてきた。
また、異常だと思うのは、異論を言うのを認めない空気だ。ある野党支持者は山尾氏の行動が「野党がバラバラな印象を与える」などと言っていた。ならば、野党議員は党執行部のゆうことを聞くロボットほうが良いのだろうか?おかしいことを自分の政党がやっているのに、何も言わないことが正しいというのだろうか。問題点の指摘、さらには改正案の私案まで出し、発言を続けてきた人に対して、口を塞ごうとするのは、同調圧力でしかない。
今回の場合、山尾氏の主張自体に反対する意見は少ない。であれば、どうしてこれほどにまで拙速に審議と成立を目指す必要があるのか?政府与党の出した法案に対して、審議を通じて、良くない点を指摘し、改善し、出来る限りの努力を行うことが野党議員の責任ではないだろうか。安倍首相も「今すぐ緊急事態を出す状況ではない」と発言している。審議を伸ばす時間はあったはずだ。
成立した改正法には、付帯決議がつけられたが、付帯決議があったとしても、それは努力義務以上の何の意味も持たない。立憲主義に鑑みれば、明文化して権力を縛るものを法案そのものに書き込むべきではないだろうか。それが出来ないのなら、反対の意思を示すべきだ。
将来、時の政権が解釈を変更し「テレビ局に指示できる」としたらどうするのか。その時「当時の野党は法案に賛成したじゃないか」と言われれば、何も反論できない。法案に反対をすることは、”おかしなことがある”という意思を示すことになる。賛成をすることは、その意思を示すことを放棄している。立憲主義に反する法案に反対せず、事実上の白紙委任に等しい賛成を行うことは、立憲主義を捨てたに等しい。
そんな野党は、”立憲野党”とは言えないし、政府与党の出す法案に白紙委任をする野党は、存在価値のない、それこそ「いても仕方がない」存在でしかない。
山尾氏を批判する、立憲支持者たちにとっては、立憲主義などどうでもいいのだろうか。立憲主義は、”立憲野党”にとって絶対に譲ってはならないものだし、”一度妥協したら死んだも同然”ではないだろうか。
そういうめんどうな質問をしてくるやつに的確な返答が思い浮かばないから簡単な否定文を自己にあてることで反面の質問者と同じ行為をしてる感があるな
次そういう話になったらどう論破してやろうかではなくそういうやつはすぐに縁をきったほうがいい
一緒にいることで何の得もないというかそいつは他人とかかわらないことが最も効率的だと考えているはずだからなにかしてあげるすべてが損になる
自分はこうして人生大成功したのになんでみんなこんな簡単なことしないの?と同じ系統でそんなにラッキーなら目をつぶって横断歩道わたっても大丈夫だろうよ
再利用性や再現性に確度を高めなくてもいつでもそこにあるはずのものがいつまでもそこにあるとか必ずそうなるのは自分以外が手を付けない場所だけ
一般人は
皿は次に使うときにどの皿が何に使えるかという選択選別判断をいちいちしなくていいように洗っておいておくし
タオルを洗って毎回風呂上りが風呂上りであるようにまた風呂に入りなおす羽目になる確率にさいころをふらないし
ファスナーをしめることで予想外の出来事に自分の装備品をまず全部確認するという作業をしなくていいようにするし
除雪することで認識可能範囲での事故の予防や被事故の発見をすることでその手間よりも多い面倒ごとから回避するし
洗濯物をたたむことで時節にあわせた服装ができるようにする程度に再利用スパンが短くないし
しおりを挟むのは知恵がどうのということとは関係なく物理的にページをめくる動作作業を軽減させるものだし
学生時代、消しゴムを机からよく落としていたのだが拾わなかった。
なんでかというと、文字を間違えたら拾えばいいわけで、それまでは消しゴムの出番がないからだ。
もちろん掃除などの時間が迫れば拾うべきだろうが、それまでに誤字は出来するのでそこで拾えばいい。
ところが友人が先に拾ってしまう。申し訳ないのでいつも上記を説明するのだがなかなか難しい問題だ。
皿を洗わない。なんでかというと、もうあと何回かは確実に使えるからだ。
一番洗わないのは茶碗で、ご飯を食べきった後は乾燥しており衛生的にも問題ない。
汁椀も洗わない。乾燥してるなら問題ない。特に箸も洗わない。乾燥しているからだ。
なぜこうなるかというと、皿を洗うのが面倒だからだ。
そして洗剤も節約できるし時間も節約できる。1週間くらい洗わない。
同じ理論はバスタオルにも援用できる。特にバスタオルは問題で、一回だけで洗濯するのは無駄であると考えている。
容量が大きすぎるのだ。だから5回使ってから洗濯する。8回くらいでもいいかもしれないと思っている。
ここでの観点は、乾燥しているか? と不衛生が過ぎ体調を崩さないか? という2点だ。
場合によっては軽く水洗いで済ませて継続して使用する場合もある。
なんでかというと、開けて、物を入れて、閉めて、開けるからだ。
特に、上に向いて開いているバッグやカバンは、重力の関係で内容物が溢れることはない。
ということでファスナーを必要以上に閉めることは時間の無駄であると考えている。
ファスナーを閉めないとなんらかの問題をきたす場合は、ファスナーを閉めるべきだ。
一方で、ズボンのファスナーは閉める。なぜなら見られた場合不快感を与える場合が多いからだ。
比較の問題で、カバンが開いていても不快感は低いが、パンツやズボンから中身が見えていたら不快に思う人は多いだろう。
こうした観点で問題ないと思うもの(判断は30年以上生きていて基準を設けている)は開けたままにしている。
最悪、家の鍵も閉めなくてもいいのではないかと思う。なぜならまた開けるのは確実だからだ。
そして、泥棒がいるとして、私の家がピンポイントで施錠されていないことを認知することが極めて困難だからだ。
そういう人は大抵イルミネーションとかしている。
それはいいとして、雪はやがて解けるのだ。そんなものに過度の労力を割くことはない。
これと関連して、寒冷地であっても手袋を装着しない。帽子も。またすぐ脱ぐからだ。ただし、寒すぎる場合は一考の余地があるだろう。
洗濯はする。衛生的に。ただそれを畳まない。なぜならすぐにまた使うからだ。
晴れ着やおしゃれな服などはしまうけれども、日常で使うものはしまわない。
本にしおりを挟むという営為は、文化的な所作という観点を除けば全く愚かな行為だ。
なぜなら挟んだ後またとるからだ。そしてまた挟む。さらにいうと、読了すると挟まなくなる。
そもそもどこまで読んだか覚えてないのならば、それはそこまでちゃんと本の内容を覚えていないからそうなるわけで、しっかり本の内容を理解しているのであればしおりがなくても続きを読み続けられるはずだ。
ちょっと手前から助走しながら新しい箇所を読み進めることもあるだろう。むしろその方が理解が進むのではないか。
こうした観点から、しおりの弱点はもっと見直されてもいいだろう。
日々階段やエレベーターで移動するのは時間がかかる。その時間に有意なこと、あるいは妄想や休息ができる人であれば問題ないだろう。
だが多くの人は、自室と地上との行き来において、活動も休息もできないぶら下がり状態の時間を過ごしているのではなかろうか。
それならば1階に住むべきだ。家賃も数千円安いことが多い。自室との行き来の時間も、数千円安い家賃も、積み重ねが効いてくる。
ただし、治安の問題で2階以上に住みたい人も多いだろう。その場合のこの限りではない。自分で考えて生きればいい。
遊園地は恐ろしい場所だ。かつて施川ユウキが初期の漫画のコラム欄で確か書いていたと記憶しているが、遊園地は出発点とゴールが同じ場所になる遊具が多すぎる。
観覧車、ジェットコースター、メリーゴーランドなど、行って帰ってくる遊具が多く含まれている。
これは問題である。位置が変わらない。初めからそこにいて、ただ佇立して止まっていればいいのだ。時間の無駄である。
ただし、途中の景色や興奮を楽しめるのであれば遊園地は面白い場所だ。この観点で判断するとよい。
全力でゴロゴロしたりオナニーしたり友人や恋人と過ごしたり、論文書いたり講演の準備したり読書したり、元に戻す(元に戻る)必要性のないジャンルのことを優先してやったほうがいい。
思った以上の反応を頂いて驚いてます。
コメントへの返信など、追記しようかと思ったのですが、長くなったので別記事にしました。
興味あったら見てください。
https://anond.hatelabo.jp/20200102201209
釣りっぽく書いたけどほんと。
結構色んな意味で読書や知識というものに関する意識が変わったので、なんかアウトプットしたくなった
なお、名著そのものを知ったことに関する感銘とかは今更私が言うまでもないので省きます。
書きたいのは100分de名著シリーズを対象にした読書を集中して実施したことに関するメタ効果に関して。
スペシャル版とか、ブックス版はもう少し厚いけど。どれも約120ページで、読書慣れしてる人なら2-3時間で読める量だと思う。
いやそれじゃ読んだことにならないだろ原典あたれよ、って思うよね。私もそう思っていた。
だから最初の20冊くらいは解説本を読んで、原典にあたって、と繰り返していたけど、以下の2つのことに気づいて一気に解説本を読む方向に転換した。
勉強とか、何でもそうだと思うんだけど、繰り返し出てくるものって記憶に定着しやすくなる。
さらに、その要素が「影響を与えられた」ものの解説として出てきたり「影響を与えた」ものの解説として出てきたりする。
何でもそうだと思うんだけど、流れというか構造の中にある知識って単発の知識より遥かに定着しやすくなる。
なので、バックナンバーの中で関連のありそうな同時代、同地域、同分野の本をグループ化して間開けずに読んでいくのが効果的に思えた。
まぁ要するに、それを読むだけで半年とかかかりそうなものがチラホラあったということ。
そこに突っかかっているうちに飽きて来ることを懸念した。
実に20年ぶりくらいに読書にエンジンがかかっていることを実感していたので、これに水を指したくなかった。
よく「文系は作者の気持ちでも考えてろ」と言われるけど、「本気で作者の気持ちを考える」ってのは実に尊い活動だと考えられるようになったこと。
今みたいにリアルタイムに意見のやり取りが出来るわけでもないのに、驚くほど人間の考えや意識ってのは「繋がって」いることがわかった。
ある偉い人がいいことを言うに至った過程を忘れてしまうのは人類の損失だなと。というか、理系と一緒なんだよね。
アインシュタインの相対性理論だって、洞窟で暮らしていたアインシュタインがある日突然思いついたわけじゃない。
それに、曖昧さを嫌い、論理にはもととなる論理が明確に存在する理系学問「ですら」そうなんだけれど、
現時点の主流見解は現時点の正解ですらなくて、考え直しが迫られるのはよくある。
そういうとき、どこから間違っていたかどこから考え直すためにも、歴史的な思考の経緯は絶対に失わせてはいけない。
文系の学問の究極の目的は、新しい思考を生み出すことと思っているけど、新しいものを生み出すために今までの流れを知ることも必要だ。
果実を生み出すのがポンと生まれてきた天才的な作家や哲学者だけれど、
天才の誕生を待つ間その過程を丁寧に残すのがむしろ普通の文学者の役割で、
アカデミズムとしての文系学問の真髄はそちらにあるのかもしれないと思った。
これ、理系のブレイクスルーを起こす天才待ちと同じ構図だよね。
(天才、と呼ばれる人間も自身の業績についてちょっと違う視点で物事を捉えただけ、とかちょっと違う組み合わせを思いついただけ、と語るのはよくあることだ。)
「かなりいい勉強になった」
「大学生の頃にこういうことをやっておくべきだった」
「あ、でもこんな事やってたらそれだけで四年間終わっちゃうか?」と。
そこで計算した。
100分deというくらいなので上記解説本一冊は、約100分の映像となる(補足説明踏めると1-2割、解説本のほうが情報量多い気がするけど)。
以下、とても雑な計算だけれど。
100冊なら、約11単位。計算してみて驚いたが、たったそれだけ。
一般的な大学生は1年に20-30単位取得するだろうし、卒業には120単位程度必要だ。
定義上サボり気味の大学生の半期分程度の勉強しかしていないことになる。
嘘でしょ?
驚いたついでにもっと攻めた想定をしてみる。
こんなことを意識している大学生はほとんどいないと思うけど、15時間の講義には、30時間の事前学習と30時間の事後学習が想定されているらしい。
http://www.ohshiro.tuis.ac.jp/~ohshiro/univlaw.html
原典には上記したとおり全16巻あるものもあれば、100ページもないものもあるから、慣らすとだいたいそれで読めてしまうとする。
「最も頭の冴えた4年間に」「専門家が選んだ良質なテキストを」「専門家の解説付きで、必要なら質問し放題の環境で」「1200-1300冊読んで理解する」
場所だ、ということだ。
ああ、確かにそれをこなせば立派な「学士様」になれたろうと思う。
私は修士を持っているが、この10分の1も学士になれた気はしない。俺はなぜあんな無駄な時間を、、、
可能なら、放送大学なりでもう一度大学生をやってみたいと思う。
なんというか、これから実施していきたい諸種のおもーい本を含む読書に挑む筋トレというかジョギングと言うか、基礎体力を作ってくれた感ある。
活字を追う体力、意味を捉え続ける体力みたいなのがないと、ほんとうの意味で読書を趣味にすることは出来ないと思った。
ていうか、楽しむ余裕がない。
スポーツと一緒で、やる気と勢いだけでやっても続かないと言うか。
この1年やってきたことは運動部の1年生が実施するような、練習をするための練習。これがまず必要だったとろこで、その役割を果たしてくれたと思う。
練習のための練習として、この「解説書読破」が有用だったと思う理由は以下の2つ
週末、朝と夕方に一時間読む気でいればその日のうちに「また1冊読めた」と思って寝れる。
平日でも、風呂に入ってる30分で読めば25%終わり、はっきりと進んだ位置にしおりを挟んで寝ることが出来る。
進捗が目に見え、さらにすぐ終わりが見えるというのは精神的に楽だ。
価値が保証されている書物を、その書物についての深い理解があることが保証されている著者が解説する本であるということは、
読んでいた時間が無駄になることはない(たとえ激烈につまらなくても3時間で終わるし、つまらなければ原典を読む必要はないという判断ができるということだ。)
という確信を持って取り組めるということだから、これも精神的に楽だった。
つらいだけのうさぎ跳びとかしたくないのよ。
いろいろな本の中で語られていたことだが、
日々「モヤッと」してることはたいてい昔の人も同じこと感じていることがわかった。
下手の考え休むに似たりではないが、自分程度が疑問に思ったことはきっと昔の頭の良い人が一生かけて考え抜いているので
自分の中で結論出そうとするより同じ疑問を持っているであろう偉人の著書にあたったほうが
考えを前進させる上でコスパが遥かに良いことが芯から理解できた。
実はこれが一番の収穫だと思っている。
というわけで、これから年末にかけていよいよ原典にあたっていこうと思う。
の前に
解説本読破の中で出てきたいろいろな付随知識、これがまとまりそうで纏まらなかった。
これをまとめてからの方が、今後の知識吸収速度が格段に上がりそうな気がすると思って、適切な本を暫く求めていたが結論はまさかの高校教科書だった。
今読むととんでもなく面白い本だ。まさに私の求めていたものだった。無論完璧じゃないが、知識の統合がすすむすすむ。
なぜ俺はあんな無駄な時間を、、、と思うけど、おそらく解説本読破と順番が逆じゃだめだったろう、OKOK。
さて、年末に山川をやっつけたあと、原典の中で特に気になっていたものを30冊ほど買った。解説本で実施した筋トレ効果で読むスピードが上がっているが、
途中で気になった関連書籍とかその年気になった本とかをはさみつつ、100冊(巻数でいうと200近い)読み終わるのは3年後くらいの想定だ。
来年もシリーズは続いていくので、積ん読もどんどん増えるだろう。
⻑い⻑い文になってしまった。
と文に続いて画像が送られてくる。
だいぶ彼も慌てていたのだろう。
ブラウザのタブに、xvideoの名が残っているのに気づかずに私に送ってきたのが微笑ましい。
Facebookの投稿は、もう1年近く会っていない私の友人、しおり(仮名)のものだった。
そして、墓参りなどは心遣いのみで良いこと。
LINEに「Facebook見てなかったから気づかなかった」と返信をした。
とはいえ、彼女のフォ ローをやめていた私はFacebookを見たとしても気づけなかっただろう。
彼の重い声色と対比するように、私の声はうわずって震えていた。
その震えが、まるで泣きそうな声であるかのように演じながら私は密かに、笑みを浮かべてい た。
本当は大笑いしたかったのだ。
私と亡くなった彼女と、そして連絡をとった彼が出会ったのは、数年前のことだった。
当時私たちは二十歳を過ぎたばかりの頃合いで、バイト仲間として付き合ううちに3人でつる むことが多くなっていた。
そして若かったから、それが恋愛感情を伴う三角関係に移ろうのも自然な流れだった。
彼に片思いをする私たちと、その間でのらりくらりと気付いてるのか気付いてないのか分から ないようなふりで友人関係を保とうとする彼。
そういう微妙なバランスで成り立つ私たちは、バイト先の閉店と共に徐々に疎遠になった。
そしてそこから二年越しで私たちはまた出会う。バイト先の同窓会だ。
まるで三人で喋っているかのような雰囲気で、私は彼女へ話を振っているのに、自然な流れで 私は彼女から完璧に無視されていた。
理系の大学に入り直すの、と彼女が言った時だけ私のことを見てニヤッと笑ったのを覚えてい る。
大学を中退した私への、当て付けであるのは確かだった。(それにダメージを受けるかはとも かくとして)
ただの恋敵から、マウンティングまで始めた彼女を見て、私は小さく、死ねばいいのにと呟い た。
その願いは数年後に叶うとも知らずに。
その同窓会から私と彼はまたつるむようになり、彼から、彼女の近況を時折聞くような日々が続いた。
大学へ入るまでにメンタル的に崩してしまい、入学後もそれを引きずったままであること。
そういう、彼女が不幸な話を聞くたびに、心の中で喝采をあげたいような朗らかな気持ちと、 悲劇のシンデレラを演じて興味を引こうとする彼女のやり口の汚さに辟易する気持ちの二つが 入り混じる。
私はこのまま拒食症になり骨だけの姿になってしまえと思っていた。 もちろんこれも今は叶っている。
彼女の肉は燃え、今は墓の下で骨だけになり壺に押し込められている。
そうして、今回の訃報に至る。
彼は、ここまで来てもずっと私たち三人は良い友達関係であると信じ、私だけに電話をして、 私だけに彼女の死への思いを吐露してきたのだ。
勝った、と思った。
私の心は汚いな、と諫める自分もいたがそれ以上に、祝祭の最中のように心躍る自分の方が強 かった。
後日、私たちは二人だけで、彼女の家へ向かった。 彼が遺族と連絡をとり、仏壇に線香をあげさせてもらうことになったのだ。
多分私は、あの日の、駅から彼女の家までの会話と景色を一生忘れない。 その日は雲が多いけれど晴れていた。 雲の中で光が複雑に揺らめいていて、それはまるで世界の全てが、私の仄暗い歓びを肯定する かのように綺麗だった。
駅から離れた彼女の家まで歩く最中、彼は謝りながら、隠し事を打ち明けてきた。
バイト先が閉店した頃、三人で会うことがほぼ無かったあの時期、実は三ヶ月だけ、あいつと付き合ってたんだよね、と。
彼女が生きてたら、私はその場で自殺したくなるほどの衝撃を受けていただろう。
けれど、今の私には、むしろファンファーレのような爽やかさを伴う言葉に聞こえた。
穏やかな顔で私は嘘をついた。
割とあの子悩んでたよー?なんて、軽口を装い私は更に話を聞き出そうとする。
何だ知ってたのか、とホッとする彼は気を緩めて色々と話してくれた。
どうしても彼女を恋愛対象として見れず、ぎこちない付き合いだったこと。
そのどれもが、私にとっては甘美な言葉たちだった。
これで彼女が生きてたら、この過去の付き合いが再度交際に至る伏線として機能してしまうこ とに怯えていただろう。
そして彼女への殺意が行き場をなくして私の中でいつまでも燻っていたのだと思う。
けれど、彼女は死んでいる。
だからこそ私は安心して、彼女が、彼からきちんとお前は付き合うに値しない存在であると言 い渡され死んでいった事実を喜ぶことができる。
そして、その喜びを表すかのように、世界は輝いているように見えた。
草木はいつもよりもその葉の濃さを増し、空は雲を煌めかせているのだった。
それが私の、高揚感を煽る一番のポイントだった。
あんなに学歴や彼との距離感でマウントをとっていた彼女が、今やただの骨となったことに私 は今までの人生で得たことのない種類の喜びを得ていた。
もう彼女には何もない。
入った大学のキャリアを活かした輝かしい未来なんてもう彼女にはない。
そして、彼のこれから先の人生を眺めることも、彼女にはもう出来ない。
何よりもそれが嬉しい。
彼女の家は、ドラマに出てくるような、「いいところ」の家だった。
リビングには薔薇のドライフラワーが飾られ、テーブルにはレースのクロスが敷かれていた。
演技で涙も出るもんだな、と私は仏壇に手を合わせながら自分自身に感心した。
くっ、くっ、と声が出るのは、昂るからだ。
悲しみにではなく、喜びに、であることは隠せたと思う。
仏壇に手を合わせる彼の面持ちは神妙そうで、私が感情を露わにしているからこそ自分は我慢 しよう、という気概を感じ取れた。
男子だからこそ、気を張らねばという彼のいじらしさがどうにも可愛くて、ああ、やはり私は 彼のことが好きなんだな、と改めて思ってしまった。
リビングへと移り彼女の母と思い出話などをしながらふわりと伺う。
「本当に明るくて(空気が読めないだけ)楽しそうに笑顔を(彼にだけ)見せる子で...だからこそ急な話で驚いてしまって...病気とのことでしたが...」
彼女の母と、私は目で訴え合う。
それを聞くのか?という母親の目と、
死因を教えて楽しませろという私の目。
たった一秒にも満たない僅かな時間で、私はやはりこの女はあいつの親なのだと感じてしまっ た。
あの、喰えない女を産んだ女だ。
「...脳浮腫、でして。...だから、本当に急な死で私も、本当にショックでした」
脳浮腫、というワード以外は一切出さないという意思を読み取り私は、彼と共にいるこの瞬間 を汚さぬように詮索をやめた。
ハッキリとしない死因で、私を楽しませるにはパンチが足りなかった。
けれどその最後は安ら かなものでは無かったであろうことを窺えたことは一つの収穫だ。
彼女の家を早々にお暇し、私たちはまたひたすらに駅を目指し歩く。
話すことも尽きたような振りで彼の話を空返事で返しながら私はGoogle検索で脳浮腫を延々と 調べていた。
脳浮腫。とっさに、本来の死因を隠すために出たワードにしては具体的であり、嘘のようにも思えなかった。
けれども、脳浮腫は医学知識のない私が検索で調べた結果を読解する限り、直接的な死因であるようにも思えない。
脳浮腫とは脳に水分が溜まり脳が圧迫されている状態を指す言葉である。
それを死因として挙げるのは、やや話が飛んでいるように見える。
たとえば、交通事故で全身強打し、内臓破裂で死亡した、というのを、内臓破裂で死んだ、と 表現するような感覚である。
そう、私には、母親はとっさに嘘をつけなかったため、「脳浮腫に至るきっかけ」を伏せると いう形で娘を守ったのではないかと、そう感じた。
まだ何も知らない、違和感に気付いてもいない彼の横顔を見ながら、私は、彼女の今際の際に 想いを馳せて、うっとりとするのであった。
脳浮腫に至るきっかけでありなおかつFacebookの文や母の言葉にあるように急死に繋がるよう な死因はくも膜下出血などが挙げられる。
けれども、そうだとしたら、母親は病名を伏せる必要があるのだろうか? くも膜下出血で亡くなった、という話なら、伏せる必要なんて何もない。
だから、私は、もう一つの、限りなく低い可能性の方に賭けている。
脳浮腫は、多くは脳出血が原因で起きるものである。くも膜下出血などのように身体の内部か ら急にエラーを起こし脳浮腫に至る場合もある。だが外傷により脳出血が起きた結果でも脳浮腫はできる。
そして、私はふと思い出すのだ。
彼女は大学入学前からメンタルが不調になり、夏頃にはアルバイトすらもやめてしまうほどに 追い詰められていたということを。
そして、親が必死で隠す死因と言ったら、一つだろう。
もちろん七割は、私の願望なのであるが。
帰り道は雲も晴れ、傾いた日差しが強く、どこまでも世界は煌めいているような気になってし まうほどだった。
その煌めきの中に、彼も共にいる。
その事実もまた、光の儚さを強調するように感じられてまた私の中で歓びが増えていく。
だから、いいのだ。
彼の口から、今の彼女との結婚のプランの話が出てきたとしても。
彼女が白無垢を着たがって、お金がかかりそう、なんてのろけをされたって。
この世界の美しさの中では、何もかもが許せそうな、そんな気がしたのだ。
だから、その今の彼女の名前を、今回死んだ彼女の仮名に使うくらいのお茶目さは、私だって 許してくれてもいいだろう。
来年の今頃、彼は式を挙げる。
彼の姿が和服になるのかタキシードになるのかは知らないが、彼の最高の笑顔を私は目に焼き 付けることになるんだろう。
それは、恐ろしく悲しく、残酷なことのように思える。けれども私は耐えられる。あの女が、 もうこの世に居なく、そしてあの子は、幸せそうな彼の姿をもう見ることなんてできないのだ と、そう思うだけで痛みに耐えることができるような気がする。
そして、もうひとつ、彼女の死の瞬間を想像するだけで、心が昂り、苦を感じなくなるように 思えた。
彼女は、どのように死んだのだろう。
微妙な高さからコンクリートに叩きつけられるも、脳をぶちまけることなく、脳浮腫という形 で苦しんで死んだのだろうか?
それとも、首に索条痕を残し、その細い骨をパキャリと砕いて亡くなったのだろうか。
ただの私の願望である、 「自殺の上で付随して脳浮腫が出来た」という死因を想像しては、愉快な気持ちが止まらずに 居られない。
けれど、メンタルが追い詰められていた人が亡くなり、その死因を遺族がぼかすとしたら、自 殺しかないんじゃないだろうか。
首吊りや飛び降りなどの脳への外傷が出来そうな死に方をした上でなら、脳浮腫も出来るだろ う。
ああ、彼女は、世界に絶望しながら自分の手で命を落としていて欲しいな、と心からそう思 う。
今までの努力が全て無駄になった上、 彼からは彼女として見れないという烙印を押されたまま、絶望の最中で彼女には死んでいってもらえたらどんなに愉快だろう。
そんな想像をしては、私は笑みを浮かべる。
駅に着き、ひとしきりのろけを聴き終わったところで私たちは別れることにした。 白無垢のために頑張ってお金貯めなよ、なんて笑ってあげた。
「式の時は、俺の白ネクタイ貸してやるよ」と。
来年の今ごろ、私は、礼服姿に、彼が過去に使ったネクタイを纏い彼の人生最高の瞬間を見届 けることになりそうだ。
そう言い聞かせながらも、私は、結婚という幸せな人生を歩んでいく彼の姿を見なくて済む、 死んだあの子を少しだけ羨ましく思う。
死んだら死んだで、それもまた幸せなのかもしれないな、という感情も湧きでてしまい、私は 慌ててその思考に蓋をする。
やっぱりこの世は美しいが、生き地獄だ。
その生き地獄よりも下層の、死の世界へと消えていった彼女を蔑むことでしか、今の私は心を保てない。
この歓びや哀しみやそのほかの色々なものがないまぜになった心持ちに、何かの決着がつくの はまだまだ当分先のことなのだとは思う。
こんな恋愛、二度とできないし、もうしたくない。
図書館で調べ物をするのはいいんだけど、まとめるのが面倒くさい。
パソコンを持ち込むとキーを打つ音が周りに迷惑になってないかとか、席を立つたびにパソコンを持ち歩くとか、ちょっとしたことだが面倒に感じる。
打ち込みをすると時間もかかるので、気になる箇所に付箋やしおりをいれて、何冊か借りて家でまとめるといったのが現実的。
買うと高いし大きすぎておけないので図書館にあるのはありがたいのだが、全文検索ができないので索引で探しきれない時は結構辛い。
某小学校でこんな話が来て、校長・副校長が頭を抱えているそうだ。いちおう「小学生にめったに見られない一流選手のスポーツを見せる」という大義名分のようだが、要するに満席にならない不人気競技の空席が目立たないように動員していかにも観客が集まっているように見せるためだろう。いちおう区市町村単位で拒否するかどうかの決定権はあったようだが、そこの教育委員会では話を受けてしまったらしい。
しかも「飲み物や弁当は持参するな」「公共交通機関を使うな(あるいは一駅前から下りて歩け)」「貸し切りバスも禁止」というむちゃくちゃな条件らしい。「飲み物や食べ物は現地で買え」「出場選手やスタッフの移動の邪魔にならないように動け」という理由だろうが、真夏に小学生にそんなことをやらせたらどれだけ恐ろしいことが起こるのか大会組織委員会は考えていないんだろうか。
たかだか徒歩数十分の公園でも校外実習や遠足となれば、教員が事前に実踏に出かけ、保護者にはうるさいぐらい「水筒やプラスアルファの飲み物を持たせてください」としおりなどで注意を促す。それでも行った先で気分を悪くする子や怪我をする子は絶対に出るのだ。それが小学生という生き物なのだよ。
それが真夏の炎天下で水分も食べ物も持たせずに同じことをやったらどうなることやら。「どんな不人気競技でも満席にしよう」と無理な目標を掲げ、「そうだ、都内の小・中学生を動員すればいい」と決めた大会組織委員会の連中は、子ども達に何か起こったら責任を取れるのか。どうせ事故があったときの矛先は学校と教育委員会に向かうぞ。
一時期Twitterで同様の噂が流れ、都の担当者が「そんなことはない」と否定したようだが、やっぱり本当じゃないか。結局組織委員会やIOCの偉い人のメンツをつぶさないことと、電通やスポンサー企業の利益しか考えてないんだろう。オリンピック何様だよ。これで犠牲者が出たら大会組織委員会の担当者も切腹しろよ。別に首つりでも都庁から飛び降りても手段は自由だけどな。
最近はオシャレにデザインしてるノベルティも多いけれど、いらない。
ゴミです。
布製品やらプラスチック製品やら缶バッチやら、ゴミに出す際に分別するのが面倒すぎる。
メモとかしおりとかの紙製品はまぁ分別しなくていいからありがたいけどどうせゴミ。
持ち帰る時じゃまだから全体的にいらない。
ノベルティいらないと言いたいけれど、コミュ障だし、ていうかいらないと言う前に用意されてるし。
ノベルティに金かけるんだったら、装丁に金かけてくれ。もしくは頒布価格を下げろと思う。
ノベルティのせいで赤字になるんじゃねーの?とも思うこともあるし。
と、ここまで書いて個人誌もノベルティ付けてるサークルは沢山あるけど、個人誌についてはいらないと思った事は無いのに気づいた。
なんでだろう
それにあなたの名前は真綾であって、しおりではないでしょ! 嘘つきなのはあなたの方じゃないか!
確かに嘘つきのキツツキもいるかもしれませんが、全てのキツツキが嘘つきのわけがありません。
そもそも、動物を動物という種でくくること自体、差別的な表現なのです。
そこで、たった一人にのみ該当する小さい主語を使った「キツツキは嘘つきだから気をつけて」に変わる新しい歌詞を考えてみました。
「庵野秀明がヤマトの模型を自身のアナルにぶち込むくだりがあった気がしたけど何度SHIROBAKOを見返してもそんなシーンはないから気をつけて」
「榎本温子がBe My Angelを歌ったのは21歳のときだから気をつけて
昨今話題の教員のブラック労働について「さもありなん」と思う部分と「お前らわざわざ余計な仕事作ってないか?」と思う部分と両方あるので書いてみる。あくまでも個人的見解だけど。
1. ムダな「○○だより」が多すぎる。
「学校だより」を月一回ぐらい出すのはまぁいいとして、他にわざわざ「学年だより」を作っているのを見ると「お前らアホか」と思う。まぁ 学年によって読める文章のレベルが違うと言われればそうなんだけど、ほぼ保護者のために作ってるようなもんなんだから同じ学校に何人も子どもを通わせている保護者からすればただの迷惑ではないかと思う。運動会直前の号なんか「いよいよ運動会」とかいって6学年ほとんど同じ内容だ。バカげてないか。しかも全部紙ベース。
なるべくまとめられるものは学校だよりに凝縮して、遠足とか社会科見学とか学年によって内容が違うものだけ「しおり」とかで内容を周知すればいいだろうと思うんだが。
たぶん「保護者に学校での子どもたちの姿を見てもらう」のが目的なんだと思うけど、頻度が高すぎる。保護者が土・日休みとは限らないし、そんなに頻繁に学校に来られるほど暇な人ばかりではない。当然教員の業務も増える。いちおうその分代休が取れる仕組みになってはいるのだが、一週間あたりの勤務時間が労基法の規定を越えるし、教員以外の職種だと「半日だけ働いてその分を他の日に振り替える」制度自体がないから、出勤したら他の平日に代休を取ることになる。が、そう簡単には休めない。完全になくせとは言わないけど、せいぜい一学期に一回ぐらいで良いんじゃないかと思う。
入学式、卒業式などが控えているとやたらと校内の飾り付けに力を入れる。が、来賓や保護者の受付やスムーズな誘導など、イベント運営の基本的なところをあまり考えていない。
いちおうイベント終了後に職員に反省点を紙に書かせて集めたりするんだけど、その反省点が翌年に生かされない。卒業生や新入生の通路をきれいに紙テープとか紙の花とかで飾るのはほどほどで良いから、スムーズに人を誘導して然るべき場所に然るべき人が座れるようにしようよ。
教員というのは学校を異動することはあっても、だいたい毎年同じようなイベントをやって生きていく人種のはずなんだが、そのわりに学習能力がなさすぎないか。「あんたたちアホなの?よくそれで子どもに勉強なんか教えられるね?」と思う。
なお、入学式のときは「○○ちゃん、入学おめでとう。先生たちはあなたと会うのを楽しみにしていました」みたいなメッセージカードが新入生一人一人に用意される。細やかといえば細やかだが、それを転入してきた教員やその他の職員(当然大人)に対してやるのは小さな親切大きなお世話というものだ。そんなものよりイベントをスムーズに運営することの方が重要だろうと思う。
その他にも「6年生を送る会」を3部に分けて卒業式以上の時間をかけてやるとか馬鹿馬鹿しいところを数えあげればキリがないんだけど、長くなってしまったのでこのへんにしておく。昔より保護者の目が厳しくなり、学校に期待されることが増えて教員の仕事が大変になったのは分かるんだけど、上記のような現象を見ていると「あんたら自分で自分の首絞めてるんじゃない?」と冷たい目付きで見てしまう。