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2022-01-19

anond:20220119104301

宇多田ヒカル(39歳)がフリーだぞ

2002年、19歳の時に紀里谷和明結婚[53][54]、2007年離婚[73][74]。2014年2月イタリア人男性再婚[111]。2015年7月に第1子となる男児出産したことを報告したが[169][112]、2018年4月離婚していたことが明らかになった(公式発表ではない)

2021-12-03

anond:20211202224259

この話題インターネットだと盛り上がるけど、本人はほんとはもっとちゃんと洗いたいのにできなくてしかも雑に洗う人だと思われるのが嫌だったって発言してたのも合わせて取り上げて欲しいなと思う

もともとCOLORS監督が撮るはずだったのが急遽キャンセルになって紀里谷和明監督に据えてお皿洗いでお茶を濁すことになったのよね

2020-07-16

anond:20200716143015

アリーナステージ作ってるからとかバックダンサー雇ってるからファンちゃんとやってるといいたいんだろうけど

宇多田椎名林檎が隊列組んで花道ゆっくり練り歩いたり歌ってる途中でコントみたいな芝居始めたりはさすがにしないだろ?

そして俺はそういうショーアップされたライブが悪きものだと言い切るつもりもない

でもtravelingときの格好して変な仲間と行進している宇多田さんは見てみたい

紀里谷和明存在があるからまずないけど

2017-12-08

CASSHERN』が映画として評価された?

https://cinema.ne.jp/friday/casshern2017050517/

なぜかいさら紀里谷和明監督記事が書かれているが、内容を読むと「当時は評価されなかったけど才能が認められてめでたしめでたし」みたいなことが書かれている。

まったく動向を知らなかった自分は「あの人、今はそんな感じなのか」と思ったのだが、ネットで調べてみるとどうも話が食い違う。

2015年公開のハリウッドデビュー作『ラストナイツ』は日本はいまいちだったわけだが、海外でも惨敗だったらしい。(そもそも情報が少ないのだが)

評論家評価ユーザーレビューも一貫して退屈・ありがちな内容と断じられ興行的にも失敗。

その後はハリウッド監督肩書でのインタビュー記事が何本か見つかったが具体的な仕事不明映画企画を進めているらしいがラストナイツ制作難航と興行成績を見る限り監督業は難しいように思う。

記事の方は

CASSHERN』の国内での批判ものともせず、己の実力を信じ、今やワールドワイド映画制作を成し遂げた紀里谷和明監督。その原点を今こそ見直して再評価してみるべきなのかもしれません。

と締められているが、国内での批判ものともせず海外進出した結果、海外でも批判されまくった現状を理解した上での記事なのだろうか?

CASSHERN評価といい、まるで紀里谷和明監督世界的に名声を手に入れたパラレルワールド舞台にしたSF小説を読んでいるような錯覚におちいった。

CASSHERN』が映画として評価された?

なぜかいさら紀里谷和明監督記事が書かれているが、内容を読むと「当時は評価されなかったけど才能が認められてめでたしめでたし」みたいな内容。

まったく動向を知らなかった自分は「あの人、今はそんな感じなのか」と思ったのだが、ネットで調べてみるとどうも話が食い違う。

2017-08-02

https://anond.hatelabo.jp/20170802190250

黒沢明なら、羅生門も、良いよー。

俺的には、カメラワーク堤幸彦さんが好きなんだよなー。フランス映画みたいで良い。

紀里谷和明も、好きだけどメジャーには成れなさそうな感性だよね、個性的過ぎて商業的に成功出来なさそう。。

2017-05-05

邦画レイシスト達にモノ申したい

 映画好きの女子大生主人公にした、安田剛助先生の『私と彼女のお泊り映画』という漫画があります。僕の大好きな作品です。

 この漫画の最新話の一部が2ちゃんねる抜粋掲載されて、そのスレッドまとめブログにまとめられたことでちょっとした話題になりました。

映画通の男「邦画はクソ。黒澤映画だけは認める」 女さん「はぁー(クソデカイため息) 論破してやるわ」

【映画】なんだよこの漫画www【注意】 : 2chコピペ保存道場

よくいる「ちょっとオタク入ってるめんどくさい大学生」がここまで見事に再現されるとはwwwww : 無題のドキュメント

 この男子大学生が登場する回は実は僕もあまり好きではなくて、というのも、彼のキャラクターが如何にもな“ステレオタイプ自称映画通”すぎるからです。

 主人公小春の最後のセリフあなたが好きなのは映画』じゃなくって『映画が好きな自分』じゃない??」を言わせるためにでっち上げられたキャラクターで、所謂邦画ファン仮想敵でしかありません。

 そういうのを言い負かす啓蒙的な作風はこの漫画に求めるところではありませんでしたし、そもそもこんな事言う自称映画通なんて今どき存在しないだろうと思っていたのですが……

 まとめを見ると男の方に同意している人間が多くて驚きました。

 というか、少し引きました。

8名前名無しさん 2017/04/26(水) 21:36:48.05 ID:M9GbgbRG0

邦画がゴミなのは事実だし

内容空っぽミーハー映画観て面白いだのと

言う女に同意できるわけ無いだろう

別に男が悪いとは思えないのだが

69名前名無しさん 2017/04/26(水) 21:56:57.52 ID:nt7/WWjT0

邦画がクソなのは事実だがあえてリアルで言えばこうなるわなw

265 名前:/名無しさん[1-30].jpg[sage] 投稿日:2017/04/26(水) 22:34:42.86 ID:naDWyRswp

言ってることは間違ってないな

クソみたいな映画を絶賛するアホ女多すぎ

 もちろん、邦画に対して肯定的な意見も多くあるのですが、ネット上とはいえこんなアホみたいな大学生に同調する人間が多くいることに驚きました。

 そしてここからが本題です。

 思えば確かに、ここ最近ネット上での邦画叩きは目に余るものがあるなと感じていました。

 個人的に、その流れは三池崇史監督の『テラフォーマーズ』が公開されてから加速していったように感じられます

 漫画原作映画が増えてきている昨今、『テラフォーマーズ』の出来が芳しくなかったという風説を受けたオタク達が挙って“漫画原作映画は叩いていいモノ”、そこから派生して“邦画は叩いていいモノ”という風潮を作りあげているのではないでしょうか。

 漫画作品映画化されるという報せが届く度に、2ちゃんねるTwitterのようなSNS上で、まるで親の敵に出会ったかのごとく、批判の嵐が巻き起こります。続いてビジュアル予告編が公開されると、その勢いは更に加速していきます。やれ再現度が低いだの、コスプレ大会だの、ダサいだの安っぽいだの。

 批判有りきのバイアスを掛けて見れば、正当な評価などできようはずはありません。公開前の作品に対してそこまで否定的なことを書き続けるのは最早ネガティブキャンペーンの一種でしょう。しかもそこから「だから邦画は糞だ」みたいな論調に持っていくのだからもう目も当てられません。

 そんな差別主義者、邦画レイシスト達に、僕はモノ申したい。観もしない映画を批判するんじゃないと。邦画は、あなた達の批判オナニーのおかずじゃあ無いんだと。


邦画は本当にショボいのか

 はじめにことわっておくと、僕自身別にそれほど邦画が好きというわけでもありません。映画はよく観ますが、圧倒的に洋画のほうが多いです。

 こんな記事を書いておいて何を言うのかと思うかもしれませんが、重要なのは映画のものが好きだということです。日本に住んでいる以上、邦画も映画興行一角です。邦画の衰退は、日本映画興行全体の衰退につながります

 邦画レイシスト達を批判するのは、邦画を擁護したいというよりは、日本映画を取り巻く環境に対する悪影響を危惧してのことです。

 さて、ネット上で同意の声が聞かれる、「お泊り映画」の大学生の主張ですが、彼が邦画をショボいとする根拠として

ケータイ小説のような安直なコンセプトばかりのイメージ

アイドル性重視のキャスティング

の二点をあげています。明らかに、ろくに邦画を見ていない人間らしい的外れな批判ですが、彼はこれが真理だと言っています

 先に言ったように、このキャラクター小春の最後のセリフを引き出すために設定された馬鹿な仮想敵で、そもそも発言に正当性なんてあるはずはありません。しかし、一部の邦画レイシストは彼同様これが真理だと思っているようです。

 わざわざ間違った発言をあえてしているキャラクターの間違いを指摘するのは野暮というものですが、こちらもあえて、彼が如何に的外れは批判をしているのか示しましょう。

 まずは、ケータイ小説ばかりのイメージ。といっても、『世界の中心で、愛をさけぶ』がケータイ小説原作でないのは言わずもがな今日ケータイ小説なんて名前も聞かなくなった死語同然のワードで、恋空ブームになったのももう随分前です。病気で殺しとけばいいと思っているような邦画といえば、最近だと『バースデーカード』や『四月は君の嘘』、あとは事故死ですが『Orange』あたりもそのイメージでしょうか。なんにせよ、ここ最近ではそれ程多くないように感じられます

 なので、男のイメージを前時代的と断ずることは容易です。ただ、安直なコンセプトという意味では確かに現状邦画の一角を占める存在が有ります

 それはつまり、女子中高年向けの少女漫画原作映画です。

 現在公開中の『PとJK』や『ひるなかの流星』をはじめ、少し遡るだけでも『今日キラくん』や『オオカミ少女と黒王子』や『溺れるナイフ』や『ヒロイン失格』など、枚挙に暇がありません。加えて、『ハルチカ』や『リライフ』や『君と100回目の恋』など、本来少女漫画が原作ではない映画も、そのイメージに取り込まれています

 しかも、このたぐいの映画ヒロインとその相手役に現在売り出し中の俳優/女優を起用して話題作りをしているので、二点目のアイドル性重視のキャスティングにも引っかかってきます。つまりこの一角は、彼の批判を真向から受けるゾーンということになります

 正直に言うと僕自身、この辺りに対しては公開される度に「またか」という気持ちにもなりますし、違いもよくわかっていません。だって観てないから。

 確かに、この一角は邦画の一側面では有りますが、無論これが全体を体現しているわけではありません。マーケティングが大々的だからそのように感じてしまうだけです。

 逆に言うと、観ていないからこそそれらの映画がショボいのかどうか判断はできません。

 例えば『ひるなかの流星』はレビューサイト「KINENOTE」で67人の平均点73.4点との評価がくだされています。鑑賞人数は少ないですが、キネ旬が運営するサイトなのでそれなりの映画ボンクラ達が集まっているはずなので、この評価はなかなかのものだと思われます。どれも同じように見えても中身が違うのは当然で、玉石混交する中にはちゃんと面白い映画があってもおかしくはないのです。

 つまり、コンセプトの安直さがそのまま映画のショボさに繋がるかというとそんなことはないということです。

 この程、マイケル・ベイ監督が『トランスフォーマーシリーズの量産体制に入り、既に14本分もの脚本が仕上がっているという報道がありました。14本って、相当な量ですよ。『トランスフォーマー』は作れば売れるが約束されているからここまで攻撃的な体制が取れるのです。これこそコンセプトの安直さの極みでは無いでしょうか。そして、『トランスフォーマーシリーズ一本一本がショボい映画ではないことは皆さんご存知のはず。

 あとは、マーベルスタジオも自社のコミック原作の映画をどんどん量産していますよね。2020年までの上映計画が既に確立されている。これも当然、作れば売れるが約束されているからです。そして、こちらのクオリティに関しても周知の通り。

 少女漫画原作の邦画群もまた作れば売れるが約束されているコンセプトだから量産されているわけですが、それを以って製作が手抜きだと断ずるのは浅はかにも程が有ります

 実際に観てみると、本当にどれも同じような映画に観えるのかもしれません。しかし観てない以上、その一点で批判するには感情に寄りすぎているのではないでしょうか。

 それに何より、そういった映画群が対象にしているのは女子中高生です。それが邦画全体であろうはずはありません。安直なコンセプトもアイドル性重視のキャスティングも、それが対象にするのが女子中高生だから効果的なのです。邦画を批判して悦に入ってるような、オタク中年男性なんて端から対象にしていません。

 なのにそれを論ってショボいだの言ってるのは大人げないの一言につきます

 ケータイ小説のような、今で言うなら少女漫画原作のような映画けが邦画じゃあありません。そんなことを言っている人は、マスメディア宣伝にしかアンテナを張っていないと自白しているようなものです。映画に対する関心が薄い、芸能ニュースだけをみて映画情報を仕入れている気になっている人間に、邦画全体を批判する権利なんてありません。恥を知ってください。



漫画原作に対する怒りは正当なのか

 先程も言ったとおり、僕自身はそれほど邦画を観るわけではありません。昨今よく漫画実写化失敗例として挙げられる『テラフォーマーズ』も『進撃の巨人』も観ていません。なぜなら興味が無いから。

 両作品とも、アニメは観ていました。特に巨人は、現在放送中の第二期も毎週楽しみにしています。大好きな作品です。しかし映画は、特に興味がわきませんでした。

 そもそも映画は、テレビ番組や雑誌掲載の漫画とは違い、観るかどうかの判断の多くは観る側に委ねられますだって、わざわざ映画館に足を運んで、1800円のチケットを買わないと観れないのだから。

 ザッピングしていて目にとまることも、とりあえずで録画することも、買っている雑誌をパラ見して視界に入ることもないのです。テレビなんか比じゃないほどに「嫌なら見るな」が成立するコンテンツなんです。

 漫画が原作の映画が公開されて、それがひどい出来だったか原作ファンが憤る。これは理解できます。その作品が好きで、その作品の新たな一面が見られるのだと期待に胸を膨らまして劇場に足を運び、目にしたものが原作を踏みにじるような駄作だったなら、それは批判してしかるべきでしょう。また、はじめからバイアスをかけて劇場に臨み、批判箇所をピックアップしながら鑑賞し、帰ってネットにそれを書き連ねる。僕自身はあまり理解できない楽しみ方ですが、それも正当なことでしょう。なぜなら能動的に足を運んでお金を払って鑑賞しているのですから。

 しかし、そうでない人間はなんなのか。ビジュアル予告編が、それどころか実写化の報せが出ただけでクソ認定してメタクソに叩き、果ては邦画の体制までもバッシングする邦画レイシストはなんなのか。原作のファンで、実写化した姿など見たくないというのなら、見なければいい。最初から期待が持てないのなら、無視すればいい。原作が好きだからというペラペラ免罪符を掲げても、その実やりたいことは何かを批判して快感を得ることでしかないのではないでしょうか。確かに上映期間中はテレビでもCMが流れたり芸能ニュースを席捲することもあるでしょう。でもそんなのは、上映期間中のほんの一ヶ月程度と、それ以前の宣伝期間の、正味二ヶ月程度のものです。それさえすぎれば、余程のものでもない限り、もう目にすることはなくなります

 例えば『銀の匙』や『男子高校生の日常』や『ひぐらしのなく頃に』が実写映画化されたことを覚えている人が果たしてどれくらい居るでしょう。どれもアニメ化もされた大人作品ばかりですが、映画の方はまず話題に上がりません。その程度のものなのです。

 無視していればそのうち過ぎ去っていくのをわざわざ叩くのは、原作愛でもなんでもありません。批判して快感を得たいだけのただのオナニーです。漫画原作映画は、邦画は、邦画レイシストのおかずでは決してありません。


邦画レイシストは邦画を観ていない

 『テラフォーマーズ』も『進撃の巨人』も僕は観ていません。なので両作品に対して言及することは出来ません。便乗している人間はともかく、観た上で批判している人たちの意見は正当なんだろうなと思います

 しかし僕も、漫画実写化の中でも悪名高いあの作品は観ました。そうです、『デビルマン』と『キャシャーン』です。

 『デビルマン』は、今でも漫画実写化の際に名前を挙げて「だから実写化は糞だ」という批判につなげる格好の材料となっています2004年の公開にも関わらず未だに話題性を持続している、ある種伝説的な作品です。

 これ一作で邦画批判につなげるのは短絡的に過ぎますが、実際この映画がそびえ立つ糞なのは事実です。僕自身観た作品なので遠慮なく言います。本当に酷いです。苦行かと思えるほどに。評判の悪い映画はあまり積極的に観ようとしない質なので、自分の中ではクソ映画の極北として君臨している作品です。

 しかし『デビルマン』は本当に極端な例です。漫画実写化が全てこのレベルなら邦画批判も已む無しと思いますが、このレベルのクソはなかなかひり出せるものではありません。納豆が臭いからという理由日本料理全体を批判するのはお門違いというものです。というのも、『デビルマン』と同年に公開され、クソ実写化の双璧と並び称される『キャシャーン』が、蓋を開けてみると実はそれほど酷いものでもないからです。

 確かに手放しで褒められる作品ではないのですが、少なくとも『デビルマン』に比べると兆倍面白いですし、見応えがあります。PV畑出身の紀里谷和明らしく映像面のこだわりは強く、サイバーパンク的意匠が凝らされたディストピア風美術を日本で展開する舞台は一見の価値が有りますアニメ原作であることを意識して、アニメーションを取り入れた演出がなされていたのも斬新でした。実写用にブラッシュアップされたキャシャーンデザインもかっこ良く、今のアメコミ映画の隆盛に先駆けていたとすら思えますクライマックスで明かされるダークヒーロー然としたキャシャーンの背景も、賛否は別れる気はしますがテーマに重みが出て興味深いです。主演の伊勢谷友介や悪役のブライキング・ボスを演じる唐沢寿明の怪演を始め、キャスト陣も申し分ありません。冗長な展開や説明的且つ啓蒙的すぎるセリフ回しが鼻につくことはあっても、『キャシャーン』は『デビルマン』と並んで語られるような作品では断じてありません。そもそも『キャシャーン』への批判は、設定改変によってキャシャーンヒーロー像を歪められたことに対するファンの憤りからくるもので、映画のものクオリティとは別の由来です。

 しかし、漫画実写化の際に『デビルマン』と『キャシャーン』の名前を挙げて批判している人間が居ます。彼らはまず間違いなく『キャシャーン』を観ていません。邦画レイシスト達の共通理解として“『キャシャーン』は叩いていいモノ”があるからの現状なのです。このことからも、邦画レイシストが如何に短絡的で、感覚的に邦画を批判しているかがわかります。彼らは邦画を観ていません。イメージと伝聞でしかものを語れないのです。

 近年、僕が観た邦画の中で面白かったと感じた作品をいくつかあげます。(一応、アニメは除きます

・『ちはやふる 上の句・下の句』

・『アイアムアヒーロー

・『寄生獣

・『シンゴジラ

・『残穢

・『日本で一番悪い奴ら』

・『SCOOP!

・『クリーピー

 どれも大々的に宣伝された大作映画ばかりで、映画通が好むミニシアター系とかじゃありません。更に上の三つは漫画原作です。どれも実に面白い邦画でした。これらよりつまらない洋画をいくつも挙げることが出来ます

 映画好きな人間であれば、意図的に避けようとしない限り邦画を観ることもあると思います。そのどれもが全く琴線に触れない人間など本当に居るのでしょうか。漫画を原作にしていても面白い作品はたくさんあります。邦画全体となれば尚更です。

 本当に観ていれば、やたらと批判なんて出来ないはずです。それは、自分の感性も批判することになるのですから。実際、邦画それ自体が肌に合わないという人もなかにはいるのでしょう。しかし、SNSで邦画叩きをしている人間が皆そうなのでしょうか。おそらくそんなことはないでしょう。多くは叩きたいから叩く、邦画は叩いていいモノだから叩く、と思考停止している人間なのではないでしょうか。

 自分はモノを見ないで感情的に対象を批判する、欠片の理性も持ち合わせないような人間ですと自白して、恥ずかしくはないのでしょうか。

さいごに

 僕もまたこうして、邦画レイシストなんてアホなネーミングの仮想敵を作って、一方的に批判を飛ばし悦に入っているだけの人間です。さっきも言ったとおり、邦画そのものに対して特別な思い入れはありません。

 しかし、こうして文章にして発信することで、仮想敵だと思われた邦画レイシストが食らいついて、話題になってくれることを密かに望んでいます

 映画は好きです。邦画にも好きな作品がいっぱいあります。『銀魂』や『トーキョーグール』や『鋼の錬金術』等、観に行こうと思っている漫画原作映画もあります。自分の好きなモノを理由もなく批判する人間は当然不愉快です。何よりも僕の映画ライフのために、そんな不快な人間が一人でも考えを改めてくれることを願っています

2017-04-28

GHOST IN THE SHELL (2017) のホワイトウォッシュの話

みてきました。ネタバレ

海外ではホワイトウォッシュ問題が叫ばれる一方で、日本では「ハリウッド版だからスカヨハになるのは別にいいんじゃないの、面白ければ」という空気を感じた。

でも本編をみた人はわかると思うけど、物語としては単に他の作品アジア人だったキャラクター白人が演じているというだけの問題ではないんだと思う。スカヨハの演じるミラは義体白人タイプになっているだけで、中身の草薙素子アジア人であるということが判明するのだから

ざっくりまとめると、テロリスト(あるいはそれ未満の単なる貧困層)であったアジア人草薙素子が、ハンカ社の社長(テロリストアレルギーの人)に恋人や仲間ともども捕えられ、電脳技術によって記憶を消去され白人の見た目の超人ボディのサイボーグに作り変えられ、テロリスト狩りの兵器として利用する計画に巻き込まれるという話だ。仲間たちはみな手術に失敗し、その犠牲のもとで草薙素子はミラとして生まれ変わることに成功公安9課に所属して記憶のないままテロリストを追うことになる。

映画自体はミラが自分出自を明かしていくという構成になっていて、最終的には真実にたどり着いたミラ=草薙素子は(間接的にだが)ハンカの社長を殺す(ここら辺は父殺しの話っぽい。ダーリン博士は明らかに母としての位置をあたえられている。それはともかく)素子という本当の名前を取り戻し、ほんものの母(桃井かおり)との関係を再建したミラは、元恋人である失敗サイボーグと生きる道を選ばずに、「記憶ではなく何をするかによって自分は決まるのだ」と結論づけてスカヨハボディのまま草薙素子として公安9課で生き続ける選択をする。

ホワイトウォッシュ問題と関連するのは、ハンカ社長白人至上主義っぽいキャラクター像と、ミラの出自、そして最後草薙素子選択の部分ではないかと思う。ここらへんが差別的であると早々に結論づけるのは慎重にならざるを得ない部分で、例えば自身草薙素子であると思い出したミラが最終的にアジア人としてのアイデンティティに目覚めた結果、ボディをスカーレット・ヨハンソンタイプからルーシー・リュータイプに変えましたみたいなラストで終わったらそれこそ大炎上していたのではなかろうか。

個人的にはハリウッドヒーローとして見たときのミラはとても魅力的なキャラクターで、続編があったらいいなと思うが、詰めの甘さが目立って平凡な作品になっているのをみると、続編製作は難しいかなという気もする。攻殻機動隊という一連の作品群の中のひとつとしてみると劣ってしまうというのは惜しい。

キャラクター設定のよさや、ビジュアルの素晴らしさ、映画としての表現の甘さなどを総合的にみると、紀里谷和明CASSHERNと似た印象を受ける映画だった。

2016-11-02

レンタルDVDネットフリックスがもたらす映像文化の衰退

未だにレンタルDVD借りてる人ってなんなの

http://anond.hatelabo.jp/20161101215841

レンタルDVDどころか、定期的に中古ビデオ屋に通っている。DVDにすらなっていない映像作品がいっぱいあるからだ。もっとハードコアな人だと、京橋フィルムセンターに通って、ビデオ化されていない映画を見ている。当然のことだが、そういうのはネットフリックスでは配信されていない。

フィルムビデオDVDネットフリックスと、どんどん作品は厳選されていく。そこで選ばれるのは収益が見込まれ大衆的な作品だけだ。少数に深く刺さるマニアックものは捨てられる。たくさんの映画が捨てられてきた。その中には、もし鑑賞していれば、あなた人生を変えるような映画も無数にあったはずだ。父親から手紙が何よりも泣けるように、一人ひとり、深く刺さるものは違う。その可能性が、たくさん捨てられてきた。

おそらく、ネットフリックスの次が出てきたとき映像文化荒野になっているだろう。そこにはディズニー新海誠しかない。宮﨑駿はストーリーが分かりづらいかNGゴジラ男の子しかウケないかNG黒澤明はセリフが聞き取りづらいかNG小津安二郎役者棒読みからNG。そうやって捨てられていって、1億人中1億人が「いいね!」と言うものけが残る。だけど、その「いいね!」はフェイスブックの「いいね!」と一緒で、表面的な共感しかない。深層に突き刺さるものは、少数にしかウケない。みんな感性がバラバラだから

そうやって表面的なものしか残らなくなった地球では、映画に深い感動を覚える人間をいない。1人もいない。誰もが「こんなもんだ」と……「上映時間分楽しめればいいや」と……その程度の感慨しか映画に持っていない。映画を見て人生が変わったり、苦痛から解放されたり、生きるエネルギーをもらったりすることはない。映画にそんな力があるなんて、誰も思っちゃいない。

でも、何かのきっかけで……好奇心旺盛な子どもが、友達たちとゴーストタウン探検しようと……みんなで遠出して「神保町」と呼ばれていた土地に行くかもしれない。そこには廃屋と化した「かつて中古ビデオ屋だったもの」がある。子どもたちはそこにある分厚く不格好な記録媒体に興味を持ち、これが何なのか調べようと、街一番の長老を尋ねる。

長老は「ああ、これはビデオというんだよ」って……ただ一つ残っているビデオデッキに……子どもたちが持ってきたビデオ差し込む。

長老再生ボタンを押すと、静かに映像が流れてきて……そうして、文字が映される……。

紀里谷和明監督作品

CASSHERN

初めて見る大衆的じゃない映像。僕たちが捨ててしまったもの子どもたちは驚くだろう。

2016-10-02

君の名は。MV的って言われて怒る人

よくいるけど、MVとかMV的って言われると貶められた気分になるのかな?

どうしてだろう。

宇多田元旦那紀里谷和明MV出身で、キャシャーンで笑い者にされたからかな?

からMV映画より格下と思ってる人が多いのかな?

でも、別にMV的」とか言う人がいても、貶してるとは限らないだろう。

事実として映画の印象的なシーンで同じバンド新曲が4曲も流れるんだからしかアニメの動きと曲はピッタリ連動する。

監督はできた曲を聞いて、作品をいろいろいじったとも聞くし、曲主体映像作品MV的なアニメと十分言えるし、むしろ褒め言葉だろう。

しろ近年、ドラマ仕立てのMVが量産されてYouTubeを通じてどんどん若い子に視聴されている。

若者映画よりもMV視聴時間のほうが高いんじゃないか

からこそMV的に作られた『君の名は。』が大受けして何度視聴しても飽きない、リピーター大勢出現したんだろう。

これからどんどん同じタイプMVアニメ映画をつくるべきだよ。

日本コンテンツは、超長連載の漫画や、最低でも1クール仕立てのアニメばかりで映画は弱かった。

これらの長い物語映画化しようとすると、どうしても端折る部分が大きくなり、説明不足になりファンは納得しなかった。

でも、『君の名は。』の場合、端折ってるストーリーはたくさんあるが、そこを全てRADWIMPSの歌に合わせてダイジェストで流すことに成功した。

歌と音楽で観客への説明不足を圧倒して、なんとなく理解したつもりになって次の場面に行くことができる。

歌と音楽で圧倒するといえばミュージカルだが、ミュージカル日本人ディズニー映画しか受け付けない。

けどMV映画なら受け付けられるのだ。

2015-08-27

9月11月にかけて公開されるアクション洋画レビューまとめ

映画批評サイトRotten Tomato」からまとめてみました。


アントマン(ペイトン・リード監督9月公開)

批評家支持率:79%

観客支持率 :90%

批評家まとめ:ポール・ラッドチャーミングな演技のおかげで、『アントマン』はその小さなスケールにふさわしい形でマーベルスリルを観客に与えてくれる。もっとも、マーベルとしては最高クラスの傑作というわけではないが。

コメントピックアップ

褒「『アントマン』は面白い。なぜなら、大作映画的なトリックを大作映画的な誇張表現なしに実現しているからだ」――メル・キャンベル(「ジャンキー」)

貶「害虫ってスタート地点がスーパーヒーローとしてキワモノだな、って以外になにかあるの?」――リチャード・ローパー(「シカゴ・サン-タイムズ」)


キングスマンマシュー・ヴォーン監督9月公開)

批評家支持率:75%

観客支持率 :85%

批評家まとめ:スタイリッシュで、ロックで、なにより楽しいマシュー・ヴォーン監督ははしゃぎまくりの放埒さでもってスパイ映画打ち上げ成功した。

コメントピックアップ

褒「『キングスマン』は紳士にはオススメできない。この作品は、お下劣で血に飢えている俺らのための映画だ。遺漏なく完璧に練られた技巧で、邪悪オタクたちを爆笑させてくれる」――ビルゲ・エビリ(「ニューヨークマガジン/ヴァルチャ」)

貶「ヴォーン御大問題は、映画技術としてのバイオレンス描写に一切興味を持っていないところだ。彼はバイオレンス描写を使っているのではなく、浪費している」――マノーラ・ダージス(「ニューヨーク・タイムズ」)


ラストナイツ紀里谷和明監督11月公開)

批評家支持率: 16%

観客支持率 : 45%

批評まとめ: 面白みのないタイトルが中身の独創性のなさをよく表している。『ラストナイツ』は手垢のついたファンタジーによる比喩表現の寄せ集めだ。ジャンル的な目新しさ、面白みもない。

コメントピックアップ

褒「往時の作り手たちはラグジュアリーな息吹をジャンル映画に吹き込むすべを心得ていたものだ。もはやそんな大作はあまり観られなくなってしまったがね。私はこの作品が大好きだよ……欠点も含めて」――ジョン・ダーニエル(「スレート」)

貶「『ラストナイツ』はこの上ないほど完全な駄作だ。とにかくダルくてからっぽで、disる気力さえ沸かない」――クリスティ・ラミーア(「ロジャー・イーバートドットコム」)


ピクセルズ』クリス・コロンバス監督9月公開)

批評家支持率:16%

観客支持率:55%

批評まとめ: 懐かしのクソゲーのようだ。『ピクセルズ』は「やりなおし」のコインを追加する価値もないし、そもそも25セントに値するかも疑わしい。

コメントピックアップ

褒「まあ、80年代ネタてんこもりの内容は子どもにはウケないだろうけれど、それなりに面白いよ」――レイファー・グズマン(「ニュースデイ」)

貶「『ピクセル』にはウィットもなければジョークもない。よって言うべきことも何もない。ゲロだけはたっぷりあるけどな」――ジョン・セムレイ(「グローブ・アンド・メール」)


ファンタスティック・フォージョシュ・トランク監督10月公開)

批評家支持率:8%

観客支持率:21%

批評家まとめ:かったるい上にテンションも低い。『ファンタスティック・フォー』は必要ユーモアや喜びや色とりどりのスリルを欠いた状態で古典コミック現代的に翻訳するという、あまりに痛々しい過ちを犯している。

コメントピックアップ

褒「主演の四人――マイルズ・テラーケイト・マーラマイケル・B・ジョーダンジェイミー・ベル――は良いキャスティングだ。彼らのギーク理想主義ジョシュ・トランク監督の広い視野によく合っている」――ベン・サックス(「シカゴリーダー」)

貶「笑えるほどチープ。頭の悪さでは『未来惑星ザルドス』に迫るレベル」――クリスティ・ラミーア(「クリスティ・ラミーア・ドットコム」)


ジョン・ウィックチャド・スタエルスキ+デヴィッド・リーチ監督、10月公開)

批評家支持率:85%

観客支持率 :80%

批評家まとめ:スタイリッシュスリリング、めまぐるしいアクション。『ジョン・ウィック』はキアヌ・リーブスアクション映画へのカムバック作として満足な出来だ。今後のシリーズ展開が期待される。

コメントピックアップ

褒「完璧はいえない。だが、(特にハリウッド製中規模アクションドラマとして)際立っている。先週の金曜のレイトショーを観てからずっと私の心に固く刺さりつづけている作品だ」――デヴィッド・シムズ(「ジ・アトランティック」)

貶「スタイリッシュ暴力映画、ってだけ」――ブルースディオンズ(「ニューヨーカー」)


コードネーム U.N.C.L.E.ガイ・リッチー監督11月公開)

批評家支持率:67%

観客支持率 :80%

批評家まとめ:『コードネーム U.N.C.L.E.』は面白げな仕掛けとスター俳優でなんとか平凡なストーリーごまかそうとがんばった結果、全体としては本質のなさをギリギリ露呈せずにすんだデコボコアクションスリラー、といった趣に仕上がっている。

コメントピックアップ

褒「ここまで誰得?って作品もそうそうないと思うけど、だからこそ、この映画が上手にリンボーダンス踊れていることにビックリした」――ウェズリー・モリス(「グランランド」)

貶「見た目はいい(ガイ・リッチーはいだって巧妙な映像作家だ)ものの、古いドラマリメイクとしては圧倒的に受け身すぎ」――アダム・グラハム(「デトロイトニュース」)

2015-08-06

「作った経験のない人の批判批評は、説得力がありません」

批評ばっかりのはてな人間全員涙目www

映画監督紀里谷和明映画コメンテーター有村昆フルボッコwww ネット上で絶賛の嵐

 → http://news.aol.jp/2015/08/03/kiriyakazuaki/

批判をすることよりも作ることの方が100億倍難しい」この言葉が出ると、その評論家は押し黙るしかありません。

紀里谷氏も実際に、まだミュージックビデオしか撮っていない頃に「日本映画界はおかしい」ということをインタビュー発言して、総スカンを食ってました。でも、紀里谷氏に説得力があるのは、そこからきちんと映画自分で撮っており、きちんと実績を作っていることです。さらに、その回には生徒役の一人として元プロ野球選手長嶋一茂氏もいたのですが、長島一茂氏も実は映画製作総指揮を経験しており、実際に映画を作った経験を持っているから、評論家よりも話に説得力がありました。


作った経験のない人の批判批評は、説得力がありません。「じゃあ、あなたやってみたら?どういうものが正解か、見せてよ」と言われても、見せるものがないのです。逆に、説得力のある意見を出したければ、自分で作ってみればいいのです。失敗作でもいい、大したことがなくてもいいから、一度最後まで作ってみることで、批判批評にスジが通ってくるのです。一度作る経験をして、世間評価さらされる経験を持つと、何が大変なことなのか、何が凄いことなのか、それが語れるようになるからです。

そして、常にモノを作り続けようとする人は、自分に降りかかってくる批判批評を、スジが通っているものと通っていないものにきちんと振り分けているため、スジが通っていないものスルーします。つまり、スジの通っていない批判批評は、全く誰のためにもなっていない、ほとんど存在価値のないものなのです。


批判批評をするのはいいですが、そんな存在価値のない批判批評をしていないか、きちんと意識しなければなりません。

そう、私が作っている『○○○○○○』にいちいち「今日の内容は微妙でした」「今日はあまり面白くありませんでした」と批判批評を送ってきて下さるあなた。じゃあ微妙ではない、面白いものを、今そこで書いてみてくれませんか?それがたとえ微妙面白くなかったとしても、最後まできちんと書いた人の批評ならば、甘んじて受けます批判批評は、どんなものでもいいからまず一度、最後までそれをやり遂げてみてから。そんな習慣をつけてみたいですね。



文句言うならお前が作ってからしろwww

俺の文句言うなら俺のリングに上がってこいやバーカwww

お前が何のプロだかしらねーけど、俺の分野においては素人だろwww素人は黙って俺のいうことに従ってればいいんだよwww

2015-07-27

ぶっちゃけ言えば

紀里谷和明CASSHERNはカッコ良かったし面白かったよね?

「本当にダメ作品」と「原作厨から罵倒されている作品」は分けるべきだよ。

2015-06-21

はいはい青二才信者くんに説明するね!

http://anond.hatelabo.jp/20150621170925

青二才くんがどうして今回炎上したのかわかりやすーく説明するね!

青二才くんなぜか自分無職デブのくせに”ブスの女は自分より可哀想存在”と設定し

「緊張しないから君らにも存在意義はあるんだよ!」と謎の励まし。

ここが重要青二才くんは今回ブスを励ますためにあの論理を振りかざしたんだ。

無職の分際でこの上から目線っぷりが火種なんだよね!

この上から目線っぷり

青木大和紀里谷和明SEKAI NO OWARIにそっくりだわーっておじさん爆笑しちゃったよ

2012-10-20

サブカル好きは日本の敵だ! ぶぶぶぶぶっ殺したくなる!!!!!

ある日、ぼくが行きつけのバーに足を踏み入れると、こんな会話がなされていた。

「わたしって○○が好きなんだよね」

「ああ、××ってやつですね」

「おー、わかっているじゃん!(握手を求める)」

バーのカウンターには5、6人の客がいたと思う。その店は小さくてカウンターしかなく、みんなで話題を共有するところだった。それにも関わらず、二人は二人だけに通じる言葉で盛り上がっていたのだ。

ぼくはすぐさま映画婚前特急』のあるシーンを思い起こした。

池下チエの元カレである田無タクミに、新しい彼女ができた。チエはその手助けをしてくれたため、タクミはお礼がしたいと食事に誘い、タクミ彼女とチエの彼氏西尾みのるも含めて4人でご飯を食べることになる。

みのるとタクミは初対面。なおかつチエと肉体関係がある同士ということで微妙な間柄なのだが、会話をしていくうちにお互い百人一首が好きだということがわかってくる。そして、二人で相手が口にした上の句を聞いて、下の句が当てられるかというゲームをしだすのだ。

チエは百人一首がわからない。そのうえ、タクミの新しい彼女まで、このゲームに参加しだしてしまう。

一人取り残されたチエは……怒って部屋を出ていってしまうのだ。

婚前特急』と冒頭のバーの会話に共通しているのは、「限られた人間で知識の確認をしあう」というのと、それによって「阻害」が生まれているということだ。

ぼくはこの手の会話は世界で一番醜いと思っているし、参加しないようにしている。なんの発展性もなく、周囲を排除するような排外的な会話になんか加わりたくない。

そうして、ぼくはバーで一言も口を開かず、朝までずっといた。

こうした会話はサブカル好きのあいだで頻繁に行われている。彼らの会話は本当に幼稚で、頭がくらくらしてくる。ずっと「知識の確認」に終始しているのだ。

A「○○って知ってる?」

B「知ってるよ」

A「すごい! ××は?」

B「知ってるよ」

A「すごい!」

そんな会話を横で聴きながら、ぼくはどうやったら世界平和になるかについて考えていた。結論だけ言えば、サブカル好きを文化シーンから早急に退場させるしかない。

2010年芥川賞を受賞した小説苦役列車』はこんな話だった。

中卒で家を飛び出し、日雇い肉体労働で生計を立てている貫多には、長らく同年代の友人がいなかった。稼いだお金ソープで使い潰すような毎日を送っていた貫多だったが、仕事現場専門学校生日下部が働きに来るようになる。二人は年齢が近いこともあり、現場終わりに飲みに行くような仲になっていくのである

貫多にとっては久々にできた友人だったが、二人の関係は突然終わってしまう。日下部が貫多との飲みに女友達を連れてきたのが原因だ。

その女友達サブカル好きの文化系女子だったのだ。

二人は貫多を置いてきぼりにし、二人だけで趣味の話題に盛り上がってしまう。

一人取り残された貫多は……怒って店を出ていってしまうのだ。

サブカルの醜さを浮き彫りにしたこの小説は、見事日本文学トップの称号を得た。なんていったって石原慎太郎が認めたのだ。

サブカルとは要するに安易な優越感を売る「ファストフード」でしかない。

町山智浩吉田豪菊地成孔などをフォローし、発言を真似すれば、自分も「わかっている」側にいられると考える浅ましさ。実際は、自分で何の価値判断もせずに、彼らの美学フリーライド(タダ乗り)しているに過ぎない。ファストフードを貪り食い、自分は「グルメ」なんだとドヤ顔をしている。結局は、他人の真似事でしかないのに。

たまに「大槻ケンヂが好き」と公言するアイドルが出てきたりして、何がメインなのかさっぱりわからない中途半端雑誌で対談したりしている。そんな人間ははっきり言って「信用できない」。

なぜなら「オーケン」が取り上げられるのが、必ず「主流とはちょっとズレたものが好きな私」という文脈だからだ。

大槻ケンヂなんて、メジャー中のメジャーだ。「サブカル」でのなかで一番目立つものを手にとっておきながら、「一般的な女の子とはちょっと違ってマイナー趣味嗜好を持つ私」というブランディングを展開している。

安易そのものじゃないか。本当に自分だけの美学を持っていて、それに合致するマイナーものが好きなんだったら、大槻ケンヂなんか手に取るはずがない。ネットの片隅にしかないような、誰に言ってもわからないもの偏愛しているはずだ。

大槻ケンヂ」に手を出す時点で、安易なエゴイズムが芽を出している。

雑誌『TokyoGraffiti』を開いてごらんよ。「消費」を、あたかも「経験値アップ」だと思っている連中が大集合している。彼らはサブカル文化人サブカル雑誌が誉めそやしたものをコレクションすれば、自分の「レベル」(「ステージ」と言い換えてもいい)が上がっていくと思っている。

実際は自意識肥大させ、排外的な思想を強化しているだけだ。

ドラゴンクエスト6には「かっこよさ」というパラメータがあったが、すぐに次作で消えている。堀井雄二はわかったんだ。「センス」だとか「オシャレさ」だとかいうのは、決して数値化できないし、競うことでもないってことを。

美学」っていうのは外にあるものじゃない。自分の内側にしかないのだ。ぼくらはそれを孤独と向き合いながら、井戸を掘るようにして、少しずつ深めていくしかない。美学っていうのは他人の真似事で生まれるようなものじゃない。

他人の美学に安易に乗っかって、得意顔をするのは、結局のところ、滑稽でしかない。

じゃあ、この現状を打破するにはどうすればいいのだろうか?

彼らに間違いを気づかせ、正しい道(自分だけの美学を磨く旅)に向かわせるにはどうしたらいいだろう?

ぼくは『小説の読み方の教科書』(岩崎夏海)を読むことでしか解決できないと思っている。

この本は「本当の読書」とは何かを教えてくれる。ぼくらはあまりにも汚染されてしまった。誰よりも詳しくなきゃいけないだとか、センス重要なんだとか、これを理解できるのは頭がいいからなんだろう、とか。

岩崎夏海はそんな現状を正しく認識し、解毒剤を処方してくれる。

誰かを仮想敵とするような読書はやめなさい、と。「本を読む」っていうのは孤独な作業であり、作者の「問い」と「自己」を真摯に向き合わせることなんだ、と。

これはすべての消費行為に言えることだと思う。「誰かに勝つための消費」をサブカルはしてしまっている。

そして、それはすべて他人の価値観に基づいているのだから、始末におえない。「あの人が褒めていたから、これを見れば周りに勝てる」って具合にね。

もっとみんな自分だけの哲学を、美学を信じればいいのに。

誰かの価値観依存して、他者を阻害して、そうやって得意顔になっているエゴイストたち。

こんな人間蔓延っているようでは、日本の文化は早晩終わってしまうだろう。そうなる前に、彼らの目を覚ましてあげなきゃいけない。ぼくはそのために生きるよ。

それぞれが、それぞれの美学を成長させ、それに乗っ取って生きていけば、ぼくは世界もっと楽しくなるに違いないと、信じている。中沢健の美しさを、ぼくらは見習わなきゃいけない。

人類歴史を紐解けばわかるように、自分だけの美学を磨いた人間けが世界を驚かし、未来に名を残すことができるんだ。

そう、紀里谷和明のようにね。

2011-12-25

今すぐ消えろ!日本カルチャーシーンを「残念」にした戦犯タイプ

ハロー

聖おにいさんオサレというのよりサブカル臭。それも悪いタイプの。

http://anond.hatelabo.jp/20081210172325

とても根が深いサブカルミーハー問題。『このマンガがすごい2010』を読んで。

http://anond.hatelabo.jp/20091216230059

このマンガがすごい!」は罪深い延命装置。もう犠牲者を増やすな!!

http://anond.hatelabo.jp/20111224192828

を書いたぼくだよ。みなさん自意識丸出しでごちゃごちゃ言ってくるんで、胸焼けするぐらい非常に切ない気持ちになりました。なんというかもう……。

「かわいそうだね?」

って言葉しかでてきません(おっと、つい芥川賞受賞作家ネタが飛び出しちゃったよ。やべー、まさかここで芸術に携われる人間だったら絶対にチェックしておくべき、芸術を理解できないやつは興味ないふりして精神防衛していることでお馴染みの芥川賞ネタが飛び出すとは、俺のセンスパねえ)。

はてなブックマーク、およびツイッターの皆様がたは心のホメオスタシス機能をフル稼働させて自分の殻に閉じこもっちゃっていますね。みなさん図星を突かれたことを必死に隠そうとしていますけど、何で等身大自分直視できないのかねえ。

「格好をつけないことで、格好をつけている」

「「ホメればセンスいいと思われる記号」を批判すればセンスいいと見られると思ってる人の典型的批判」

やれやれ。春の熊に全員屠殺してもらいたいよ(センスある村上春樹ネタ)。

ぼくはきみたちの断末魔叫びで心が汚れちゃったんで、ストラヴィンスキーを聞いて洗い流していました。グッドなアートエバーグリーンな輝きでディ・モールト・ベネだね。

ということで、本題。反応を見ていると、ぼくが批判したい対象がイマイチ伝わっていないようなんで、ここでまとめて表明してみようと思う。

これ以上、この惨状を放置しているとホント取り返しのつかないことになるからね。砂漠に水を与えるようなものだけど、何もやらないよりはマシ、かな……。

きみらの軽い脳みそでも理解できるように4つに大別してあげているから熟読してほしい。2010年代はこういう奴らをいかカルチャーシーンから排除するかにかかっているので、宇野常寛さん、荻上チキさん辺りは参考にしてほしいね東浩紀さんは河原で石でも積んでてください。

では、いきますよー。

映画秘宝

ボンクラ」なんていう安っぽい価値観連帯して、「中学生マインド」なんていう恥ずかしい心性を至上価値にしちゃっている一派。やっていることはひよこのオスメスの仕分けみたいなもん。ライムスター宇多丸町山智浩辺りが「いい」といったものを「味方」と見なして手放しで褒め称えて、けなしたものを一緒になって叩けば、「センスあるポジション」にいられると思っている。

「売れてる邦画はテキトーに叩いておけばおk」みたいな頭からっぽな行動も平気でしちゃう。そんで周りも見てもいないのに賛同しだすから目も当てられない。

中身をまともに分析しないで「大沢たかおが出演しているから、これはクソ映画だ」みたいな論理で動いていて、そんで「バカな大衆」と「審美眼のあるセンス抜群の俺」という謎の対比をしだすんだよね。「なぜこういう内容の邦画がいま売れるのか」なんていう深遠なトピックに触れることは一切ないし、考える頭もない。

自分の物の見方だとか価値観だとかが一切抜け落ちた、ゾンビみたいな奴ら。サブカル年長者の金魚フンをやることに、羞恥心の欠片もない。「独自な物の見方をする人間」についていけば、「独自な物の見方をする個性的なわたし」が出来上がると思っている。

彼らの反応は非常にわかりやすい。ちょっと宇多丸ラジオを聞いただけで、習性がまるわかりで、「ああ、この映画はこいつら叩くだろうな」ってことがすぐに判別可能になる。その分かりやすさが蔓延の原因だといえよう。映画リテラシーがないのに、センスいいと思われたいやつらの格好の逃げ場になっている。

そんで、こういう奴って美意識がないから恥ずかしげもなく部屋に映画ポスターをべたべた貼って、ダサいバンドTシャツを着ていたりするんだよね。それでいて、オシャレに過剰なコンプレックスを抱いているから、「無理してオシャレしているやつは上辺だけの中身のない単なるカッコつけで、ちょっとダサいくらいの自分が本当は一番センスいいんだ病」にかかっていて非常に厄介。自分のダサさまで理論武装しなきゃ生きていけないなんて、ほんとに可哀想だ。

この病気を完治させるには映画について語りだすたびに「それ、ウィークエンドシャッフル宇多丸が言っていたことだね」って言い続けるしかないと思う。「あ、その映画町山智浩キラキラで紹介してたやつか」、「昔、みうらじゅんがその映画ネタにしているのを見たことあるよ」でも可。

伊集院光

人生大切なことは、すべて伊集院光ラジオから教わった」とか真顔で言っちゃう恥ずかしいやつら。

映画秘宝系との違いは、映画を見たりする気力も何もなくて、横になってラジオを聞くぐらいの体力しか残されていないのに、自分が第一線にいることを疑わずに最新のカルチャー必死に否定してくる。「最近アニメって萌えばっかりで中身がないよね」って見もしないくせにしたり顔で口を挟んでくるのがこいつら。

自分中年化し、ついていけないことを認めることができなくて、漫画アニメ伊集院が褒めるものけが絶対だと思っている。『わたしは真悟』だとか『アストロ球団』だとかね。

映画秘宝系はまだ自分の足で作品を鑑賞しようっていう根性があるけど、こういう奴らにはそれすらない。平気でCMカットMP3音源違法ダウンロードして、「やっぱり伊集院さんって聡明だよなあ」なんてアホ面下げてる。その続きはもちろん「本当に頭が良い人って伊集院さんのことを言うんだよな。やっぱり人は学歴職業じゃなくて、物の見方で頭の良さが決まるんだよな~」なんて考えいて、「ダメ自分は本当は感性が鋭くて、周りのくだらない奴らよりもずっとずっと頭がいいんだ!」って泣きながら自己肯定をしている。

「人見知りなのは感性が鋭いからだ!」

バイト面接で受からないのは、感性が鋭いからだ!」

住民税を滞納しているのは、感性が鋭いからだ!」

もうなんでもあり。

こういう奴らのためにはっきり言ってあげるけど、「感性」っていうのは行動で示さなきゃ形にならない。布団のなかで自分を慰めるための感性だなんて、ありゃしないよ。ゴミクズよ、もうよせ、こんな不毛自己肯定は。

ビレバン

ある意味一番病気かもしれない。

「センスがいい」というタグを貼られた商品を必死に買い集めて、なんにもない空っぽ自分必死デコレートしようと頑張っている。ビレバン下駄を履かせてもらわなきゃ、外を歩くことすらできない可哀想な人。自分ビレバンから与えられる餌を食べているだけの家畜だってことに気づけない。

こういう奴がセンスいいと思われたい一心カルチャーシーンを引っ掻き回して、むちゃくちゃにしていく。「このマンガがすごい!」で上位に入る漫画悲惨犠牲者なのは、前の記事に書いた通り。

なんにも作り出せない、作ろうともしないくせに、必死に消費物で「ぼくちゃん、クリエイティブなんだじょ!」とアッピールしたい厚かましい愚鈍マリオネットたち。

こういう奴には「お前、ひょっとして浅野いにお漫画の登場人物を気取ってない?」って聞いてみよう。ズレてない眼鏡を何度も押し上げながら、「き、きみぃ、いにお漫画はね、単なるセンチメンタルじゃなくて実験的な手法にも取り組んでいて云々」って聞いてもいない作品論を震えながら語りだすぞ。

さらに「そのボブ、もしかしてつぶやきシローリスペクトしているの?」って言ったら卒倒しちゃうので注意。

もし友人にこの手合いがいたら適度に自意識を潰してあげて、「やっぱビートルズが一番だよな」ぐらいのレベルに留めさせてあげるのが吉。弾けもしないのに部屋に置いてあるギターは、親切心で河原で燃やそう。

つぶやき批評家

そう、お前らだよ。お・ま・え・ら☆

はてブツイッターなどの安全からお手軽に一言批判して、「ふふ~ん、ぼくちゃん、こいつらよりも頭がいいもんね~。見てみて! ぼくこの人否定しているよ!! こいつより頭いいんだよ!! ほら、見ろよ、もっと! 見ろっ、見ろぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!!!!!!!!」と汚い欲望を身体中の穴から漏らしている。

文字数制限を盾にして根拠もなにも示さずに、自分の頭で否定できる一文をなんとか見つけ出して、「やれやれ。きみはなんにもわかってないね」とただ否定するだけ。熟議に何の貢献もしない、耳を汚すだけのノイズ

大抵のバカなネットユーザーは脳の大部分が「最新情報の暴飲暴食」でスカスカになっているため(俗に言う「グルーポンおせち状態」)、比較検証なんていう基本的なこともできない(本人は「できない」とすら気づいていない。そこを突かれると「時間がないから」「忙しいから」と言い訳して、何も届いていないメールボックスをチェックしだす)。だから、「最後勝利宣言をした人間」に説得力があると思っちゃう。

このような「つぶやき批評家(気取り)」と「情報ジャンキー」はまとめてネット中毒矯正院にぶち込むべきですね! そこで『アルプスの少女ハイジ』でも見せて、少ない情報いかに咀嚼するかを学ばせたほうがいい。こいつら、醜く太っていることが勲章だと思っているからさ。

以上、今すぐカルチャーシーンから撤退すべき害毒な消費者タイプでした。こういう奴らが蔓延っちゃったのは「個性大事」という間違った教育と、「作品の解釈受け手が決める」なんていう甘やかしの成果だと思う。

確かにある程度の解釈は読者に任されるだろうけど、それを理由に笑っても怒っても何しても構わないなんてことはない。それだとスタンリー・キューブリックの『博士の異常な愛情』を見て、原子力礼賛だと思っちゃうようなことを許してしまう。

ぼくのような高い視座に立てているクリエイターって本当に少ない。名前を挙げるとしたら、映画監督紀里谷和明か、小説家岩崎夏海くらいか

特に岩崎夏海の『「小説の読み方」の教科書』は上記であげた連帯のためだけや、センスいいと思われたいだけに消費する行為の解毒剤として最適なので、みんな読みなさい。早く読まないと、時代に取り残されちゃうよ。2010年代クリエイターズバイブルだね、この本は。

みんなもうさ、中身のない自分を無理やり肯定するためにアートを利用するのはやめようよ。空っぽ自分直視して、中身ある人間になるために努力するべきじゃない? ソクラテスプラトンも、みんなそうやって大きくなっていったんだよ。

2010-08-15

CASSHERN~なぜキャシャーンは人を激怒させるのか?

 なぜキャシャーンは人を激怒させるのか?

 単に、紀里谷和明監督への嫉妬か、妬み・嫉み・恨みなのか。

 しかし、例えば僕などは日記をみてもらえれば判るようにキリキリ監督尋常ではないレベルの妬み・嫉み・恨みを抱いているが、それとこれとは別で、「CASSHERN」という映画じたいは素晴らしく面白い!と手放しで絶賛してるし、一発目でいきなりこんな凄い映画を作れてしまう紀里谷監督リアルに天才なのでこれからも凄い映画を作り続けてほしいです!と応援してしまうのである。

 つまり嫉妬の要素というのは、この際、さほど重要ではない。

  CASSHERNは、人間感情の、何かこうクリティカルな部分を直撃する映画なのだ。それゆえに、そのクリティカル・ヒットを受容できる人はハマるし、受容できない人は切れるのだろう。(受容はできるけど、もうこの手の話は飽きた、という人もいるだろう。しかしそのような人は、呆れ果てることはあっても、切れたりはしない)

 CASSHERNクリティカルさというのは、そう、ブライセリフに集約されている。

「つまり、憎しみとは、人間也!」

 さらに、キャシャーンキャシャーンで、「人間が生きていることじたいが、人を傷つけることになる」という意味モノローグを語っている。

人間の性は、悪だ(人間性悪説

人間は、生きていることそれじたいが罪悪だ(原罪論)

 これはキリスト教的な「罪」の論理であり、無神論が主流の日本では受け入れられる余地の少ないテーマといえる。性善説ベースとなっている日本でいきなり「お前の存在じたいが罪だ」といわれれば、切れる人が多いのも当然だろう。しかもこれ、漫画映画である。「敦煌」とか「砂の器」じゃないのである。アニメだよ、キャシャーンだよ。なんで漫画映画で、そんな説教されんといかんねん!という人もたくさんいるはずだ。

 しかも、紀里谷は、これらの作品のテーマを、役者にセリフとして語らせてしまうのである。これがまた、この類のテーマを受容したくない人にとっては、許しがたい行為なのである。セリフで語りさえしなければ、スルーできたはずだからだ。人間は、自分の見たいものしか認識しない。従って、通常、映画を観ていても自我を脅かすようなテーマが提出されても、その部分を認識せずにフィルターをかけて消してしまうことができる。しかし、「言葉」で投げつけられてしまうと、そうはいかない。紀里谷は確信犯的にこの映画を観た全ての人間

「憎しみとは、人間也!」

 というテーマを強制的に植えつけることによって、この映画テーマを曲解される可能性をふさいでいるわけだ。

 このテーマを容認できない人にとっては、監督独善、ということになるのだろう。

 

 さて、この映画は、キリスト教的な救世主の受難を描いている。

 伊勢谷友介が演じる東鉄也は、一度死ぬが、LCLのようでもあり命のワインのようでもある赤いプールに肉体を沈められることにより、再び復活する。この赤いプールの中で行われる復活劇は、あたかもパプテスマのヨハネによる洗礼儀式のようでもある。この復活により、鉄也は自らを救世主キャシャーンと名乗ることになる。もちろん、上月博士三橋達也演じる老医師、鉄也の母みどりの幻影などが、復活した鉄也に「君の復活には、何か意味があるはずだ」「この街を守れるのか」「人々の争いを止めるのです」と、鉄也を救世主の道へと導こうとアシストするわけである。

 しかし、鉄也は救世主キャシャーンとなっても、奇跡を起こすことはできず、人々はみな挫折して死ぬ。そして鉄也自身も傷つき、血まみれとなっていく。鋼鉄の扉の隙間からバラシンに刀で心臓あたりを抉られるシーンは、あたかも十字架にかけられたイエスのごとくだ。

 しかもキャシャーン抽象的に人類の業を贖罪するという存在ではない。鉄也自身が生前、殺人という罪悪を犯しているのだ。「反戦映画」ともうけとられがちなこ映画は、実は、戦争だけに反対している映画ではない。「人間存在そのものが罪だ」というテーマをもっとも端的に表現できる場こそが戦争という極限状態なので、戦場における戦闘の結果としての殺人という光景が何度も繰り返されるのだ。

 最後に鉄也は戦場で犯した自らの罪業を認識して、懺悔する。

 が、この映画の恐ろしいというか念入りなところは、懺悔したはずの鉄也がさらにダメ押しともいうべき父殺しという罪を背負うことである。母親を寝取り、父を殺すというのは、いうまでもなくエディプス・コンプレックスなのだが、鉄也は最終的に父殺しを達成することによって、人類の原罪をことごとく背負って自殺することになる。

 では、鉄也の懺悔無駄だったのか? そう、無駄だったのだ。この映画テーマは「憎しみとは、人間也!」なのだから。従って、鉄也は、キリストの如く原罪を背負って血に塗れ、死んでいくしかないのだ。キリストと違う点は、人類の原罪を肩代わりしたのではなく、自ら原罪を犯して死んでいくという点だけだろう。もちろん鉄也は単なる殺人犯というわけではなく、「戦争」や「愛する人を殺した殺人犯への復讐」といったどうしようもない事情がある。決して、悪意で殺人を犯したわけではない。人間存在そのものが悪なのだから、生きる限り、どうにもならない、どうしようもないのだ…したがって、救世主になるべくして復活させられた鉄也の地獄巡りは、ドアーズ「The End」の如く、母を寝取り、父を殺して完結する。「地獄の黙示録」を参照するまでもなく、フロイトの絶対的な影響下にある現代のキリストは、エディプス・コンプレックスの持ち主でなければならない。フロイトによれば、エディプス・コンプレックスこそが、人類の原罪意識の大本にあるのだから。

 さらに、鉄也の父親・東博士が下層階級の出身であったことも最後に明らかになる。東博士は下層階級出身でありながら、政府側について少数民族を抑圧する側にまわり、最終的には鉄也の最大の敵となる。このあたりも、なにやらイエスキリスト物語を髣髴とさせる。

 だから、キリスト教圏では、この映画日本からやってきた現代の救世主譚として評価されるかもしれない。

 過去に、日本アニメ映画では似たようなテーマが何度も描かれている。いうまでもなく「イデオン」と「エヴァ」がそれだが、エヴァでは、主人公のシンジ救世主となるべく人類の原罪を背負う……という流れの物語だったはずが、最後にシンジ人類の原罪を背負わずに話が途切れてしまった。「エヴァ」は、「人間の性は、悪だ」という自らのテーマに向き合うことができなかったのである。キャシャーンは、エヴァと非常に似た構造映画であるが、主人公の手を父親の血に染めさせることによって、エヴァが途中で放棄したテーマを完結させた作品であるといえる。

 もう一つ、近作で似たような映画がある。それは「マトリックス」だ。この作品は3部作だが、それぞれ救世主ネオ誕生・生・そして死を描いている。ネオもまたキリストの如く、一度死んで復活する。だが、最後には人類の原罪を背負って死ぬ道を選ぶのだ。終盤、ネオは目を焼かれて失明し、エディプス王の如く盲目となる。機械触手に支えられて死んでゆくシーンは、やはり十字架にかけられたイエスを髣髴とさせる。

 ただ、マトリックスは「何も語らない」「観客に考えさせる」というスタイルを貫いたのに対して、キャシャーンは「全てをセリフで語りつくす」「観客に議論の余地を与えない」というまったく逆のスタイルで作られている。このスタイルこそが、一種の押し付けがましさ・説教臭さ・青臭さ・傲慢さと受け取られ、反発される一因になっているのだろうと思う。だが、この説教臭さ、愚直なまでの必死さこそが、かつての邦画ひとつの魅力だったのではないだろうか。邦画黄金時代には、説教映画が多数製作されていた。「新幹線大爆破」の宇津井健のウェットな説教や、「ノストラダムスの大予言」や「人間革命」で丹波哲郎が繰り出す強引極まりないオレ流説教。かつて、日本人はこれらの説教映画で感動して泣いていたはずである。みんな、かつては馬鹿だったのだ。

 80年代以後、邦画から泥臭さが消えていくとともに、邦画の魅力は失われていった。特に、角川春樹逮捕ホイチョイ・プロダクション的なテレビ局誘導の企画映画のブーム化以後は、有能な監督には集客力が無く、大作はどれも質を伴わない、という状況が長らく続いていた。例えば、世界レベルで評価されている黒澤清三池崇史が、「デビルマン」を監督させてもらえないのである。宇多田ヒカルの夫であるということ以外、ほとんど映画界では実績が無く、世間にもあまり知られていなかったPV監督が従来の邦画システムとはまったく無関係なところで突然作り出した「CASSHERN」は、そういう硬直した邦画とりまく閉塞構造をいきなり破壊した作品といえるのだ。

 無論、システムの面だけではなく、愚直なまでに真剣かつ本気というそ姿勢もまた、古くて新しいスタイルではないかと思われる。むしろこちら(熱さ)のほうが重要で、80年代から長らく続いていたシラケ世代は2001年あたりを境に終息しつつあり、70年代を最後に滅んでいたはずの愚直な熱さが求められる時代が復活しているのだ。アントニオ猪木が「馬鹿になれ」というフレーズカリスマ化したのも単にジャイアント馬場がいなくなったからというだけではない(主にプロレスと関係ない人たちに猪木が評価されているのだから。むしろ保守的プロレスファンは旧来のプロレスシステム破壊する存在である猪木を嫌っている。このあたり、CASSHERNの評価とも重なってみえる)。「馬鹿になれ」という熱くて愚かで泥臭い姿勢こそが、閉塞しつつあった日本の気分にマッチしていたのではないか。

 従来なら「大人げのない幼稚な愚直さ」と嘲笑のネタにされるような熱いキャラクターカリスマ化していく作品としては、「最強伝説黒沢」というコミックもある。この漫画の主人公の黒沢は、中学生と本気で決闘するようなどうしようもない中年なのだが、その必死さ、熱さが、周囲の人間(主に、シラケきった若者世代)の心をわしづかみにしていく、というストーリーのようだ。

 すでに我々には、冷笑や嘲笑で生きていけるほどの余裕が無いのだろう。すべてから距離を置き、自我を脅かすものすべてを嘲笑して生きていくライフスタイルは、「勝ち組」「負け組」が明確化されてしまった現代日本ではもう限界なのだ。そうなれば、道は二つ。「感動など、無い」「自分には何の値打ちもない」という悲惨な現状に気づいて、馬鹿になり、泥にまみれて足掻く道。もう一つは、「自分がこうなったのは、すべて、外部に責任がある」と犯人探しの旅に出る道だ。

 僕がCASSHERNを支持するのは、紀里谷監督製作姿勢そのものが、前者の道を示しているからだ。紀里谷の才能を持ってすれば、もっとソツなく、映像美とアクションに徹した娯楽映画を作ることだって可能だったはずだ。だが、あえてこんな熱くて泥臭くて人に嫌がられる映画を作ってしまった。というより、作らざるを得なかったのだろう。その過剰ともいえる熱さが、CASSHERN賛否両論喧々諤々と騒がれる原動力となっていることは疑いない。こんな熱い邦画は、しばらく見なかった。いったい、いつ以来なのだろうか。

 そしてこの映画テーマもまた、後者の道…「犯人探しの旅に出る道」を遮断するべくして設定されている。そして紀里谷は、それでも「犯人探しの旅に出る道」への抜け道を探そうとする人間に、抜け道すら与えない。テーマをそのままセリフとして喋らせることによって。つまり紀里谷にとっては、作品の映画としての完成度よりも、テーマを訴えることのほうが重要だったわけで、紀里谷はここでも熱い。

 このCASSHERNがどうしようもなく発散させている愚直さ、熱さこそが、実は人々に求めらていたのではないか、と思われるのだ。この映画は、冷笑させることを観た人間に許さない出鱈目な熱さを持っている。いやまあ突っ込みどころはあまりにも満載なんですが…あちこち破綻しまくってるし。だが、それだけでは絶対に済まされない映画なのだ。だからこそ、嘲笑で片付けられる人間よりもマジ切れする人間のほうが圧倒的に多いわけなのだ。僕は紀里谷監督に、もっともっと熱い映画を作り倒してもらいたい。僕自身は、熱さは持っていても、作品を作る社会的能力が皆無なので……。

(04/5/1 本田

 
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