はてなキーワード: 精神分析とは
もうひとつあるぞ
どうやって食ってくの?昼はTA、夜は最低賃金労働者?ま、そこまでの覚悟があるならいいんじゃない?その代わり、現代の貧困とかは論じて欲しくないね。自分から進んで貧困に身を落としている以上、そんなものを語る資格はない。
主婦になる?君が女性なら現代の日本では主婦になるって選択肢もたしかにまだある。生活のために結婚するって売春婦と大差ない考え方の気もするけどね?そういう人生の送り方がチミのゲンダイシソーやらセーシンブンセキやらの観念と矛盾しないならね?ただ、君の文章から察するに思い込みや過剰な自己防御が伺える。相応の美貌がなければ、主婦としての商品価値は乏しいと思う。もし容姿に自信が持てないなら他の面で補えるよう頑張ってくれたまえ。可能かはしらんが。
大学卒業したら普通に働く?普通のレベルにもよるが、ゲンダイシソーやらセーシンブンセキでどんな能力が得られるんだよ?お前がゲンダイシソーごっこで遊んでいる間、他の学科の同級生は論理の積み重ねに飛躍や矛盾がないか検証する方法や、実際の法律知識、経理の処理方法、科学的実験の考え方と実践、目的と手段を分離して解決方法を考案する訓練、等々等々、現代社会でずっと競争力の高いスキルを磨いている。お前がつけるのはお前の同級生たちのおこぼれだぜ。就活ではコネ?コミュ力?うん、それ大事だよ。でもお前の同級生たちもそれを身につける機会がある。ゲンダイシソーやってなくても。推敲前の落書きを晒して指導を乞うと自分から言っておきながらちょっと思い通りにいかなかっただけで真っ赤になってるような性格なんだぞ、お前。どこにフツウのレベルを置くかは自分で決めればいいが、大学の同級生より少なくとも1ランク2ランク下くらいになるのは覚悟しとけ。今時は東大出てもホームレスってのもいるみたいだしな。
それともキミ、チョーお金持ち?親の遺産がたっぷりあって贅沢をしなければ100年くらい食ってけるとか不動産収入で金が余ってしかたないとかってんだったら文句はないな。結構結構。俺だって古代や中世の奇妙な思想に興味がある。現代の奇妙な思想にだって少しはおもしろい面もあるのだろう。
あなたたち精神分析なり現代思想の講義を本当に受けてよく知った上で言っているの?
そうでないならそういう気がするってだけでそういう事書かないでくれる?
つまらない反応の続きをまた読まなきゃならないでしょ。
どういう人なんだろう、こういう人って。
3、具・体・的・根拠なり論拠なりソースなりを示せといっても示さない。(示せないんでしょうね。どういう人かバレてしまうから)
4、自らが批判する相手に対する具・体・的・言論に内容も根拠もないのに上から目線で威張りたがる。
5、警察か何かの強力な後ろ盾がないと言論人としての自分の立場を維持できない人。また維持するためには警察か何かの強力な力を利用しようとする人。それを恥じない人。
精神分析なり、現代思想とやらの意義を説けばいいだけじゃないの?
そのぐらい、第一回の講座でやってるだろ。できの悪い学生だな。
あなたにそう判断させた根拠となった偉い先生って誰でどの本ですか?
またそこまでトンデモだと思わせた精神分析の本の記述ってどれですか?
具・体・的・に示してくれませんか?
まぁこういう事書いても精神分析、現代思想に詳しい人からも味方として擁護の言葉をかけてくれる人は、私の場合はいるのかな。。
中立公正客観的に正しいと思う事を、敵味方関係なく主張する人なんて、いないんでしょうね。。
しかもなんらかの手段でプライバシー侵害する形で収集した、自分と関係ない事に関する相手の個人情報も守秘義務違反で受け取って、偉そうに広めて相手の信用落として、表現内容のみで対抗させるのを潰そうとする、言論人として半人前でありながら偉そうな態度を示したい人がいるのを、みっともないとも恥とも思わないところがなー。
どういう人なんだろう、そういう人たちって。
2、警察か何かの強力な後ろ盾がないと言論人としての自分の立場を維持できない人。また維持するためには警察か何かの強力な力を利用しようとする人。それを恥じない人。
あっ こういう言及もされていたところを見落としていた。
筆者が現代社会に存在する主体・客体と精神分析の概念を対応付けて、概念間の類似を説こうとしているとみられ、ここから近代社会の合理性が下層階級を抑圧する状況をノイローゼかなんかにたとえ批判を試みようとする筆者の主張が推測できる。
「疎外される存在/連帯する存在」の対立をもとに様々な概念を対応付けて類似性を説こうとしている、なら分かります。
また「下層階級を抑圧する状況をノイローゼかなんかに対応させ」ってどこから読み取ったんですか?
あなたが意図的に無内容とされているところで別の側面も取り上げてみますね。
・無意識(エス)
≒社会的あるいは象徴的に交換されなかった大文字の他者の語らい
≒自己幻想の世界≒無条件の連帯の肯定も平等も存在しない共同体で自己愛を過剰に傷つけられ自己認識が悪くなった存在=承認の供給不足にある存在
≒権力者側の情報ネットワークからヨソモノとして外されている存在
≒スケープゴート≒異人≒リンチの対象≒排除された後も外での動きも捉えられる存在≒誇大自己を持った者の自尊心の基盤
≒暴言連発したり失礼な言葉を吐いても責任をとらされる事なく看過される対象
≒パノプティコン的な匿名の不可視の視線の下で見世物化された監視付き生活を強制されている存在≒近代社会の合理的理性を自称する存在による抑圧的意志の対象
フロイトの無意識と岸田秀のエスと吉本隆明の自己幻想とルネ・ジラールのスケープゴートと民俗学の異人概念の関係を、まとめて書いた人を見た事がない。
それと仕返しを招くような親密な共同体の絆が欠けている存在に対しては暴言連発したり失礼な言葉を吐いても責任をとらされる事なく看過されがちである事、それらの現実的な現象を具体的事例をあげて(たとえば自らの体験と関連付けて)書いている人も見た事もない。それとフーコーのいうパノプティコン的な見世物化された監視付生活を強制されている存在と警察権力の関係を、はっきり書いている人を見た事もない。そうした待遇を強制されている存在がいる事で象徴秩序が安定するという話を具体的事例と関連付けて明確に書いた人も見た事がない。
だから私は(私のようなパンピーくんの触れれる範囲の情報源では)先例のない事を書こうとしているところがあるという事です。
≒「象徴的他者」の位置より一段下の、原始的な対象の位置(想像的なもの、性的慰安の対象)に留めおこうとされた「想像的他者」。ラカンは「対象a」とよぶ。転移を拒否された患者が、分析家をおく場所も、この「対象a」としての場所である。この関係は、相手に社会的な幻想を抱いていた転移の局面と比べてはるかに不安定で、患者の攻撃性が分析家に向け、容易に発動しやすい状態(これは樫村愛子「ラカン派社会学入門」からのそのままの引用が多くを含まれており、対象aだけ抜き出した部分との関連が付けがうまくできていない。全てをわかり易く統一的に書いている本も読んだ事がない)
≒他者から尊重されたり対等な存在としてメッセージを交換する「人間」の壇上に上げないように弾圧される<生ける死者>といった世界
≒「傷つけられる」という条件により発動した摸倣欲望
また「影」に関しては、村上春樹が小説内で繰り返し出している概念で、「掟の門」はカフカの有名な短編で思想的に言及価値のあるとされるものですが。
それらをまとめて精神分析や現代思想の用語で語っているのなんてどの先生の本でも見た事がないのですが。
他者から尊重され対等な存在としてメッセージを交換する立場になく、非人間的に表現された他者からの暴力誘発性を帯びた存在と、心理的に傷つけられるという条件により発動する模倣欲望の関係を深く語っているのも、日本の学者では私のようなパンピーくんの触れる事ができる可能な範囲ではほとんど見ないのですが。
宮台真司はミメーシスという概念をいつ頃だかか頻繁に使うようになったけど、「心理的に傷つけられた事により生じる模倣欲望」という意味で使っているのは見た事がない。
≒マスコミやカタログ文化でつくり出された美化・理想化された自己イメージ
≒自己の統一を預けることのできるような相手を探してさまよう、鏡像としての他者の中への囚われの関係
≒魅力を持った生に変わらなければならない場であり、魅力による上下関係や差別や排除がある世界
≒魅力の低い者が客観的な理屈として正しいと思って主張した事も認められない世界
≒魅力の高い者が客観的な理屈として間違っている事を主張しても容認される世界
≒目に見えない効力をもつ法としての場の空気や人間関係の網の目に支配された世界
≒労働や勉強で生産的な成果を挙げ社会的に評価される事が美徳であるとされる世界
ここからは美男美女が多い芸能人さんたちやファッション誌を飾るモデルさんの世界も自我理想の範囲に入る対象となる事が分かると思います。
•超自我
≒誇大自己に執着した存在=他者を非人間的に判断したりする存在=モラルのない世界
≒集団の「エス」や「小文字の他者a」の位置にある存在を徹底マークして情報を「大文字の他者A」の位置にある存在に流している存在
≒植民地主義の国家、民族差別を容認する国家、人権侵害を推奨する国家、死刑を支持する国家、同じ国民の中に棄民を作り出す国家
集団の「エス」をリンチする事に日本が国家レベル加担している事を思想書から得た発想で語ろうとしていますが、それを語っている先生の存在も見た事がないです。
•対象a
≒現実の領域は対象aの除去の上になりたっているが、それにもかかわらず対象aが現実の領域を枠どっている
≒リンチのメカニズムにより歪められた表現を被害者よりに修正した回顧的な文章を書く暴力行為を告発する探偵
≒まなざし
これも統一的に語っている日本の先生は見た事のない事を語ろうとしているのが理解できると思います。
なんか思想的に意味のあるところをごっそり切り落として対応せず、自分の立場に都合のいい所だけを提示して、形式と演出だけ知的な雰囲気を醸し出した内容の乏しい書き込みをするのはやめていただきたいですね。
悪いが俺はラカンも精神分析も切り捨てようとはしていない。大学にその講座は不要だと言っているだけ。占星術と同じ。下品な雑誌の片隅の占いコーナーがそれらに相応しい居場所だと言っている。
もったいなくないなら有用性を論証すればいいんだよ~
なんか無駄に知的っぽい形式を使った表現でお返事されているけど、
あなたはその引用したところだけに自分なりの意味を感じて、他の所は切り捨てていいと思ったんですね。
元の表現に対する内容に踏み込んだ具体的言及が欠けていますが?
あなた自身が「流行遅れ」「迷信の類と大同小異」という程よく知っているはずの精神分析や、他に出てきている現代思想や文学などに関する知識をたっぷりと使った言及を見てみたいんですが。
でもできないんでしょ?
どうせ「精神分析に別れを告げよう」とか「フロイト先生のウソ」とか「「知」の欺瞞」とか心理学の入門書の類を読んだだけで
「≒」を用いて、推移的な類似性を説いているとみられるが推論過程の妥当性をいちいち検証したところで大した意味はなく、最終的に導出された観念のみが筆者の主張せんとするところに過ぎない。
したがって本論の内容は以下の対応関係に帰着させるのみで十分であり、これ以外の部分は無駄である。
無意識(エス) ⇔ 一般市民より下の階層の者として認識され、愚か者の範疇に入っており、隠している愚かな事物を暴いても重大視されていない
理想自我 ⇔ 理想化された鏡像として他者の表現の複製を取りこみ、融合しつづける動き
自我理想 ⇔ 共同体(言語的に構造化されている共同主観的な世界)
超自我 ⇔ 近代社会の合理的理性を自称する存在(非理性的な「エス」とした存在を抑圧的制裁の対象としていいとしてもいいとする存在)
筆者が現代社会に存在する主体・客体と精神分析の概念を対応付けて、概念間の類似を説こうとしているとみられ、ここから近代社会の合理性が下層階級を抑圧する状況をノイローゼかなんかにたとえ批判を試みようとする筆者の主張が推測できる。
しかし、そもそも精神分析は占星術の理論体系と大同小異の迷信でありその種の迷信を今でも奉ずるもの(知的弱者)以外には無意味・無内容。
PDについてはこちらを参照:http://www.mhlw.go.jp/kokoro/know/disease_personality.html
有名なのは境界性人格障害や自己愛性人格障害、いわゆるサイコパスといわれる反社会性人格障害あたりだが、ある程度は治療と投薬によって行動や認識の歪みが改善されるといわれている。
最初は,問題が患者自身にあるということをわからせるよう努力すべきある。もう1つの原則として,人格障害の治療には長い時間がかかるということが挙げられる。通常,長期の精神療法または同じような人々とのエンカウンターによって繰り返し直面化を行うことで,自身の防衛,信念,および不適応的な行動パターンを本人に気づかせることが必要である。
(中略)
対人関係上の問題,すなわち依存性,不信感,傲慢,操作的態度などを変えるには通常1年以上を要する。対人関係の変化をもたらすかなめは個人精神療法で,これは患者が自身の対人関係における問題の原因を理解するのに役立つ。セラピストは患者の思考と行動パターンの望ましくない結果を繰り返し指摘する必要があり,ときには患者の行動に制限を設ける必要がある。このような療法は演技性,依存性,受動-攻撃性人格障害の患者にとって不可欠である。一部の人格障害(例,自己愛性や強迫性のタイプ)では,態度,予想,信念が精神的にどのように体系化されているかということが関係しており,このような患者に対しては,通常3年以上の精神分析が勧められる。
引用:http://merckmanual.jp/mmpej/sec15/ch201/ch201a.html
要は彼らの出してくるストロークに反応せず、犬や猫をしつけるように「だめ」「よくない」と突っぱねることが大事だ。もともと対人関係のコントロールは下手でないはずなので、ある程度行動が矯正され、認識の歪みが是正されれば彼らはさして害のある人ではない。メンヘラには絶対接触するなみたいなことがネットではよくいわれているが、そういう分断処理をするくらいならおかしいことにはNGと出していったほうがよほど建設的だ。そしてそういうことをする人がいないまま年月ばかり重ねると、ますますパターンが硬直化するので手が付けられなくなる。
なのだが、PDの人々だってもちろん人間だし、目の前の箱だって使えるので、人の同情を引く方法については常に研究を重ねている。彼らにとって今一番「アツい」ツールはモラルハラスメントに被害者という立場らしい。
本当のモラルハラスメントの被害者とモラルハラスメント被害者を装う人格障害者の違いは
というあたりで判別が付けられる。
例としてこれを見ることにする。
http://anond.hatelabo.jp/20150527070630
魚拓はこちら:http://megalodon.jp/2015-0527-1210-33/anond.hatelabo.jp/20150527070630
話の内容をまとめると
SAS(無呼吸症候群)は寝ている本人はわからないので基本的に家族やパートナーに対しても問診をおこなって、疑いがある場合は検査をする。ただし検査は自宅で寝ている時に呼吸などのチェックを行うものであり、この増田が言うとおりいびきの音が録音されていて無呼吸と思われるなら、入院して同じように睡眠時のデータを取る。問診で録音があるにも関わらずSASではないといわれたなら単にいびきがうるさいだけ。いびき改善にマウスピースを使用することはあるが、別にデータの改竄をする必要はない。また他の病院でマウスピースを作らせるというのも意味不明。おそらくこれはなにかを隠したいための嘘と思われる
メンタルがやばいのに同棲は開始し、しかも自分は仕事をやめたが、安定していないので同棲は解消できないというのはおかしい。自分勝手な理論である。
どういう成り行きで同棲することになったかは知らないが、ただでなくても面倒な引っ越し以外のもろもろ(特に同棲の場合は契約も面倒だし)を丸投げされたら普通は嫌になる。そこでやっぱり同棲はやめましょうと本来相手はいうべきだが…
また夜勤明けの休みの日にわざわざ引っ越し日を設定すればそれは機嫌が悪くなるだろう。夜勤がある仕事なら日中いない日もあるわけだが増田がわざわざそれを選ばずに最悪な日を選択したのは、他者が感情を持っていることを理解できていないためだと思われる。面接の準備もして実家に帰っているのでさして緊急事態ではないようだから、二時過ぎに親の家に帰るというのはわりと非常識である。親子だから許されるというのもあるが…
また、
自分の母親は最近再婚して、同棲前に顔合わせしたんだけど、その時も借りてきた猫のように相手がおとなしく、相手の紹介や両親との会話にまったく積極性が感じられなかった。
出会って一ヶ月の彼女の母親の再婚相手に対して積極的に行く理由は特にない。
またこの他全体を通して、「母親に対していい顔をしたい」「自分が怖いのでやりたくない」「相手が可哀想=自分に迷惑をかけられたくない」「迷惑をかけそう=自分が恥をかきそう」と言い換えられるところを見ても、この人の世界には自分と母親しかいないと思われる。
相手がどんな調子で詰ったのかはわからないし、実際怖かったのかもしれないが、増田も怒鳴り返しているようだし、電話したり翌日の準備をして出る程度の余裕はあるらしい。とはいえここは相手の様子がなんとも言えないので実際にかなり恐ろしかった可能性はある。が、その後のストーカー化して殺人事件に発展しそうというのは飛躍である。
全体を読めばわかるが、引っ越しの丸投げ、夜勤明け日を知っていながらの引っ越し、同棲するにもかかわらず勝手に仕事をやめ解消には応じない、自分は病院に行かないが相手のいびきに関しては病院に行く、夜中に蹴飛ばす(これはわりとお互いさま)、などなど散々相手を煽っていくスタイルである。適当なところで手を切らない相手も相手だが、過労寝不足の状態で声を荒らげずにいられたら、相当の聖人である。
この増田の場合、妙に母親の顔色を伺うところがあるのでおそらく母子の問題があるのだろうが、それはそれとしてこれのブコメのようにモラハラ被害者かわいそうというスタンスをとると、この手の増田は増長してますます人格障害がひどくなる。たとえブコメであっても、むしろネットだからこそ、しっかりと矛盾点を指摘していったほうが、同情を寄せるより本人のためだと思う。
→の記事なんだけどかなり醜い状況になってる。 http://d.hatena.ne.jp/font-da/20150526/1432612495
当事者である弱者男性不在でフェミがいつもの手口で中傷的な人物像を作り問題を書き換えて、しかもフェミ仲間がケアとか処方とか言ってホルホルしとる。
あのなあ、お前らのやってることはカルト宗教が救済と言って信仰を押して付けるのと変わらんからな。
いや、カルト宗教を悪く言いすぎか。救済を目的とした宗教なら少なくともネット上で見えない相手を糾弾するようなことはしない。リアルに会って悩みを聞いたりする。
そもそも弱者男性がはてなにいる可能性は低いだろうに、そこで論じても被疑者不在で魔女裁判してるという状況にしかならない。
それから、間違ってほしくないんで言うけど、フェミは弱者男性を救えると思わない方が良い。
フェミは女性の救済のために男性社会と戦う教義とか理論武装を磨いてきたんだから、それに侵された頭で弱者男性の問題を扱えばどうなることか。
弱者像がフェミの教義によって陳腐化されたり別の物へすり替えられたり存在しないことにされる。フェミ脳では弱者男性を救えない。
そして今回のように無自覚に傲慢な正義を振り回して反感を買う。
差別問題界隈にも言えることなんだけど、自分たちの教義を振りかざして精神分析まがいのことまでして対象を裁いても意味ないどころか逆効果だと思うよ。
ファンには痛快だと喜ばれるだろうが、同時に醜いリンチを見せられた多くの人の信頼を失うことになる。
それとジェンダーフリーの理想に共感してフェミを応援してきた男は可哀想だけど残念ながら騙されたいうことで、他の方法を考えるしかないね。
反論の機会のためのコール→元記事著者id:font-da 、ケアの人id:c_shiika 、処方の人id:sofa220
この記事の存在を教えたものの、自分は文章書くのが苦手だし根比べをする気もないんで、反論書かれてもよほどのことじゃない限り放置すると思ってほしい。
これまで見たアニメ一覧を記録しておこうと思ったので。
忘れそうなのでメモ。
順番は思い出した順で、大体見た順になっているはず。
機動戦艦ナデシコ: 人型ロボットは嫌いなので、ロボットバトルシーンは飛ばして見ていた。これが時代を席巻した電子の妖精かと感動
スターシップオペレーターズ: ちゃんと海戦ぽいことをやって楽しませてくれていたのに、打ち切りと聞いて残念だった
化物語: ヒロインの精神疾患を主人公が(フロイト的な)精神分析で治療していくアニメだった
ソ・ラ・ノ・ヲ・ト: 田舎の要塞という雰囲気感が楽しかったが、ストーリーはあまり覚えていない。
STEINS;GATE: 俺も学生生活がんばんなきゃなあと思わされたアニメ。本当に次の話が見たくなっていた
ラストエグザイル: 続編が発表されて、絶対見たい!と思うくらいにはおもしろいと思っていたのだが、内容が思い出せない
ラストエグザイル-銀翼のファム-: 主人公が戦場に似つかわしくないほど能天気ということだけ覚えているが、最後まで楽しくみれた
あの日みた花の名前: 懐かしい感を楽しむアニメ。昔の仲間に会いたい!と思わされた
ヨルムンガンド: 銃撃戦大好き。武器商人というマニアックな存在を扱っていたので、新鮮な気持ちで楽しんでみれた。
黄昏乙女×アムネジア: 夕子さんの姫カットを楽しむアニメ。幽霊より怖いのは人間、というエピソードが好き
ダンタリアンの書架: キャラデザの可愛さと沢城みゆきボイスを楽しむアニメだった。
モーレツ宇宙海賊: SF設定にテンションが上がった。電子戦や艦隊戦っぽいやつとかヤッパリ好きだなと思った
東のエデン: ストーリーは「次、どうなるの?」と、毎回ワクワクして見れた。主人公の声優が能登麻美子だと思っていた
四畳半神話大系: 大学生活は自由で、大学時代の自由は正義である。大学生活は何度でも繰りかえしたい
キルミーベイベー: 作業しながらアニメを見れると教えてくれた
フラクタル: 見たことすら忘れていた。ハナカナボイスが印象的だった
てーきゅう: テンポがよく、時間が短すぎると感じるほど楽しめるアニメだった
プラスチック姉さん: 片足のニーソが脱げたまま、ふて腐れているシーンが扇情的で印象的だった
みなみけ2期: ネット上の評判は良くないが、個人的には好きな話もあった。普段反目している次女と三女が長女のイヤリングを壊してしまって、それを取り繕うために東奔西走するエピソードがお気に入り。
みなみけ3期: 作画監督によって艶かしくなったらり、あっさりしたりすることを教えてくれた
みなみけ4期: 佐藤利奈の演技がこんなにも癒しになるのだと教えてくれた
のんのんびより: 田舎アニメというよりは、箱庭アニメ、単純に女の子が可愛いを濃縮すると、こうなるのかと思った
ミス・モノクローム -The Animation-: 色白で感情の起伏に乏しいキャラと堀江由衣が好き
アウトブレイク・カンパニー: お姫様とメイドのキャラデザに引っかかった。内容の文化的侵略というネタは興味深いと思ったが、もっと掘り下げたストーリーを見たかった
ひつぎのチャイカ: メチャクチャにハマった。これは後日、項を改めて感想を書こう
スクラップド・プリンセス: 榊一郎作品つながりで見た。榊一朗作品は、登場人物に原理とか思想信条みたいなものがちゃんと有って、見応えがある。最後は急展開で説明不足もある、と言う感じだったけど、天空が三角に分割され、外の世界に切り替わっていくシーンが好き。やはり今見るとキャラデザが古い(というかモグい)
おわり
愚行権の定義だとか、公共の福祉に抵触しない程度に個人の欲望は優先されるとか、自然状態の人間が社会と契約することで社会が成立するだとか
そういう理由でそれに意見することはできるけど、俺が描いていたのは、そういう文脈じゃないんだよ
出発点は「碇シンジがどうしてアスカの首を絞めたのか」「碇シンジの結末はあれで良かったのか?」と言う所
「Air/まごころを、君に(以下、旧劇)」での2回の首絞めはどのような経緯だったのかと言うのが不思議だった
そして、どこか自分自身でもその行動に共感する所があったから、色々と調べて、他のエントリでも記述していた
結論から言えば、「碇シンジの首絞め行動には共感する部分があるが、それは余りにも典型化され過ぎていて、それが故に劇的で。劇的であるがゆえに、(アニメだからというのがわかっていつつも)その描写に”気持ち悪さ”を覚える人もいると言う気持ちが分かる」と言う感触だった
人間と言う存在を1列にした時に、その端っこの部分にいるような感触がした
もちろん、アニメというのは個性も能力も可愛さも格好よさも病理も苦悩も、極端化するものだから仕方ないし当たり前だ
人は典型化されるから、分かりやすく特徴が表現される劇的な描写っだからこそ共感する
だからこそ、本来であれば碇シンジの個人の人生で賄われるべき事柄に、アニメ的描写の必要性で以って全人類を巻き込んだ所に気持ち悪さが感じるという意見にも共感すべき所があるという感触だ
さて、細かい経緯を描き並べる
適当に拾い読みしてくれれば良い
碇シンジは父親に捨てられたという体験がもとになり、いわゆるヤマアラシのジレンマになっている状態だ
「自分には価値がないから捨てられる」「捨てられるのは嫌だ、だから最初から関わらない」「人と関わりたいが、捨てられるならこちらから捨てる」という心情である
精神分析で言うなら、自体愛・自己愛の所で止まり、対象愛、つまり他者を他者として認め愛そうとはできない部分だ
(つまり、自分を愛していて、安定しているから他者を愛することで自分も満ちるようにできる、共生的な状態にないと言う事)
描写としては「碇シンジが他者の存在を必要とし、全人類との一体化を否定してアスカと2人きりになった」という所だろう
すべてを一つにしてしまう混沌を母的な存在とするなら、自己と他者を切り分けて境界線を引くのは父的な存在である
父的側面の足りない碇シンジが自分とい他者を切り分けられたのは、極端な自己愛から脱却しつつあることを意味する
(なお、旧劇の該当シーンで地球が細胞分裂のようになるのは、人が”切り分ける”事を通して分離個体化する事のメタファーとして効果的だったという感想を自分は持っている)
ATフィールドの訳語が絶対恐怖領域である事を待たずとも、当たり前のことである
人は他人を受け入れたりもするが、受け入れなかったりもすると言う話に過ぎない
しかし、碇シンジはそうした絶対恐怖領域に耐えられるのだろうか?
それは、「もしアスカが起きたらまた自分は拒絶される、だから拒絶=殺害したい。でも世界にはアスカしかいない、拒絶したら、もう2度と他者と触れ合えない。でも、でも、でも」と葛藤している所を表している
だから、アスカが「大丈夫、怯えなくてもいいよ」と頬を撫でると力が緩み、涙を流した
ここでアスカが言った「気持ち悪い」の意味に関しては、本筋とは関係ない上にまだ把握できていないので割愛する
さて、旧劇における首絞めの理由に共感できる部分があると思った自分は、その過程(人類補完)と結末(アスカへの首絞め)が碇シンジにとって救いとなっているのか、新劇場版(以下、新劇)が作られたと言う事は、同じ結論にはならないのではないかと思った
(例として、新劇・破における碇シンジが自分個人の理由から綾波を救出し、周りの意見を聞かなかった結果、Qにて自分の言葉が届かなくなってしまったなど、旧劇とはまた違う結末になりそうという所だったり)
そして、もし結論が違うのであれば、旧劇の過程や結論は間違いだったのかと思った
シンジのデストルドーはどのように救われれば良いのか、分からなくなった
そこで、エヴァに関しての考察は停止して、救いとは何かについて別の視点から記述した
結論から言えば、人は完璧な世界(他者が居らず、自己愛だけが満たされ、幼児的万能感の世界で神になる、自分が傷付かない世界)を目指そうとすれば死ぬしか無くなり、生きることは苦しんで研鑽したり、自己に閉じこもり堕落する事を繰り返し葛藤しながら何とかやっていくことに過ぎないということだ
坂口安吾が「生きよ堕ちよ、その正当な手順の外に、真に人間を救い得る便利な近道が有りうるだろうか」と言いつつも「だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう」と言った事と同じである
生きると言うことは決して楽なことではなく、むしろ葛藤を抱え、時に逃避したり自責感に自殺を選びたくなっても、ともかく自分なりの現実を作り生き続ける事に他ならない
そこまで考え、旧劇における結論は他者の存在がまだまだ希薄だが救いがあると思った
碇シンジは他者を認めつつあり、自分の葛藤を自分なりに処理していくことができるようになるだおる
碇シンジは、生きるか死ぬかの所で他の他者すべてを巻き込んでしまった
あの世界では、もう生きようと思っても生きられない
さらに言えば、その過程で碇シンジと同じように葛藤を抱えて生きようとした全世界の人間の救いを奪ってしまった
そうした自分勝手な行動によって他者の救いを奪ってしまった事、そしてやっと他者を認めつつあるのに、アスカ以外の人間を復活できなかった事から生じる生きられなさ
そういう結論から、碇シンジの内面が何の関係もない他者の人生や世界の命運と”繋がってしまう”というエヴァンゲリオンに「だから、エヴァンゲリオンを見た時の気持ち悪さはそこにあるんだと思う」という感触があることに否定が出来ない
いわゆるセカイ系の気持ち悪さと言い換えても良い
現実世界において、どれだけ葛藤を抱えても世界や他者が壊れないのと別に
セカイ系においてはそうした葛藤と世界・他者が結ぶつきやすく、すぐに取り返しのない事に合ってしまう
恋愛工学批判が最近盛り上がってる。でも正直、ほとんどのマニュアルはそんなに害がないと思う。あれで非モテが非モテを克服できればいいんじゃないの?
でもセックスにまつわる部分は「さすがにそれはどうなんだ?」と思うところが多い。たぶん所長は半分冗談で書いてるだろうとも思うんだけど。非モテが忠実に信じて実行に移したらと思うとちょっと不安。
たとえば
・昔付き合ってた彼氏に無理やりヤられそうになり、それが原因で生理的に嫌いになった(セックストリガー失敗)。
・それが今もトラウマで人を本気に好きになる気持ちわからない。
・その後も付き合う人がいたが、セックスが怖くてした事がない。相手には悪いと思ったけど。
(と言ってる女に対して)
(1) 食いつきがイマイチ足らないのは、Aフェーズ、Cフェーズ、愛情のワクチン(又はそれ以外?)何の不足なのでしょうか?
(2) セックスのトラウマある(と言ってる)人への崩し方は普段と同じでよろしいでしょうか?
(という質問への回答が)
話は変わるんですけど、僕はこの「トラウマ」という言葉はいつもうさんくさいものだと思っています。
インチキ精神分析でも、たとえば成金を幼少期の劣等感がトラウマになって努力する強迫観念を持つようになったとか言えば何でも説明できるような気がしますし、サスペンス小説でも犯人が狂気に走り出すときの便利なワードとして登場人物の昔のトラウマが出てくるんですよね。
学者でも作家でも文章で情報を売るのが仕事だったら、このトラウマというのは「心の闇」とか「社会の歪」みたいなダメな表現だと思いますね。
だったり(これ、マジでトラウマだったら女が死ぬんじゃないか?)
同じ部屋のベッドで横になっている時点で、カラダはOKなんです。
しかし様々な要因が作用し、女性は「さぁ、しましょ。」とは口に出しません。
必ず「今日はやめましょ。」「寝ようよ。」「まだ出会ったばかりじゃない。」という言葉を口にします。
しかし、カラダはOKなんです。
密室のベッドに二人きりという時点で。
けど、ムリヤリするのは言葉に失礼だし、下手したら犯罪になってしまいます。
(に対して)
ざっと読んだ感じだと、その同僚さんは増田とそこそこ仲良くしたいけれど、うかつなことを言って増田に嫌われたくないという気持ちの方が強いのかな。対応を誤ったなと思ったら、傷口が広がらないようにそれ以上キャッチボールを続けない。なんというか防御力の低い防御タイプ。
こういう人は相手の言動をネガティブに受け取ることが多いので、
「謝らなくてもいいよ、私がすごい怖い人みたいじゃん」
これなんてのは、普通の人なら「私はそのくらいで怒るような怖い人ではないので、謝らなくていいよ」と受け取るが、
たぶんその人は「なんで謝るの? 私がすごく怖い人だと思っているの?」といった風に受け取ってしまう。
でもそれ、単にペーパーテストでバカ度を図るのと何も変わらないよね?
んで、診断したところでどうにもならんよね?
エビデンスの意味ワカって使ってる?なんで「エビデンス」なの?日本語でおk,なんだけど。
そもそも医師の所に来る時点でかなりバイアスかかった集団だわね?
それが現在医療の現場での「ベストストラテジー」って誰が決めたの?
病気の説明をすることは医者としての大きな役割の1つだと思うが。
精神病患者はバカだからはなししても無駄、と決めつけているというならあれだが。
http://www.asahi.com/articles/DA3S11251769.html
ワールドカップはおろか、サッカーに関する記事のなかでこれほどまでに無知蒙昧、盲目、的外れのくせに上から目線な記事は初めて読んだ。
全文を読む為には登録しなきゃいけないところをみると炎上商法か?
以下、興味ある方向けに全文をコピペします。こんなクソ記事読むために登録なんて誰がするか、誰がさせるかクソ朝日。
=====
サッカーのワールドカップ(W杯)ブラジル大会が終了した。熱戦続きだったが、「なぜ、開催国ブラジルはドイツに7点も奪われたのか」「なぜ、日本代表はまったく精彩を欠いていたのか」など、さまざまな謎も残った。映画評論と共に、斬新な視点からのスポーツ評論でも知られる蓮實重彦さんに、謎解きをお願いした。
――今回のW杯、特に決勝トーナメントに入ってからは、一部の試合を除き、なかなか点の入らない展開が目立ちました。素人が見てもワクワクするような試合をもっとやって欲しかった、という思いもあります。
「国民や国の期待を背負うと、どれほどスポーツがスポーツ以外のものに変化していくか。それを見せつけられた何とも陰惨なW杯でした。サッカーとは本来『ゲーム』であり、運動することの爽快感や驚きが原点のはずですが、W杯は命懸けの『真剣勝負』に見えてしまう。お互いもう少しリラックスしなければ、やっている選手もおもしろいはずがないし、見ている側も楽しめない」
「『ゲーム』ではなくなるからです。ましてや負けないための真剣勝負など、見ていて興奮するはずもない。前回2010年の南アフリカW杯で、日本代表の岡田武史監督は大会直前、徹底的に防御を重視した『負けないサッカー』へと泥縄的に方針転換しました。確かにそれで1次リーグは突破できましたが、『1点でも奪おう』というサッカー本来の精神からは、ほど遠いコンセプトだった。今回3位になったオランダ代表は、まあ前線にファンペルシーやロッベンがいるからでしょうが、5バックというさらに防御重視の戦術で、まるで『岡田ジャパンのなれの果て』のようにさえ見えました」
「勝ち上がるのを最優先すれば、どうしても『岡田化』が進む。今後はさらに防御重視の傾向が強まるでしょう。しかし、サッカーはどちらかが防御に徹すると、ゲーム自体が成立しなくなる。日本―ギリシャ戦はその典型です。運動の快さを放棄してまで、国が期待する勝利にこだわる。そんな『スポーツの死』には付き合いたくない。W杯はそろそろ限界だ、とつくづく思いました」
「国を背負うとどこか血生臭さも出てきます。その一例が、コロンビアの選手がブラジルのネイマールの背中にひざを入れ、骨折させた場面です。故意かどうかという問題ではなく、国のために死にものぐるいでプレーすると、ああいうことが起きてしまう。他にもずいぶん負傷して血を流している選手がいました。観客の皆さんは、あの血生臭さにもう慣れてしまったのでしょうが」
「ザッケローニ監督は、日本のサッカーのためにある程度までうまくやったと思います。岡田監督とは違い、前々代表監督のイビチャ・オシムが作った流れを壊さなかった。私はオシムが率いていた時代のジェフ市原(現・千葉)の、攻守にわたり選手たちがダイナミックに動くプレーを見て、日本でもサッカーが見られるんだという喜びを感じました。ザッケローニにも『みんなが走り、気持ちよくサッカーをしないと意味がない』という姿勢があった」
「問題はそれを十分に実現できなかった選手の方です。私は前回の日本代表について、岡田監督の急な戦術変更にもかかわらず、選手たちの『運動する知性』が想像以上に高かった、と評しました。選手たちが無言のうちに素晴らしい連係を達成したり、味方をも欺くようなはっとさせる動きを発想したりする知性のことです。前回は、松井大輔からそういうトリッキーな動き方を感じたのですが、今回はみんながまじめすぎた。少なくとも大久保は、もっと不まじめでもよかったのではないか。市原でオシムに鍛えられた前代表・阿部勇樹のように、『失点のリスクをつぶす責任はオレが負うから、君たちは好きにやれ』という人もいなかった。知的な面では退化していた、と言わざるを得ない。それでも、岡田サッカーで勝つよりも、ああいう負け方の方が日本の未来にはよいことだと思います」
――本田の「目標は優勝」という言葉とは、かけ離れた結果でした。
「本田の発言の真意は分かりませんが、多分『そうでも言わなければやってられない』という思いがあったのではないか。『オレたちはどこまで伸びられるのか』ということを意識的に試そうとしている選手が、彼以外にはあまり見あたらなかった。そんな仲間たちを鼓舞しなくてはいけない、と思ったのでしょう。ただ、本田自身も、勝利へのこだわりが動きの柔軟さを奪っていたような気がします。それでも1点を取り、1点をアシストした。彼が日本代表の最低限の名誉を守りました」
――誰もが国を背負い、勝利にこだわりすぎたW杯だった、と。
「サッカーの魅力は『うそのように思いがけないことが、ピッチで起こる瞬間を目撃すること』ですが、今回それを味わわせてくれたのは、オランダ―スペイン戦におけるファンペルシーのヘディングシュートだけでした。決勝戦でのドイツ・ゲッツェのシュートは確かにみごとでしたが、ああいう場面で輝くのは真のスターでなくてはならず、まだスター予備軍のゲッツェが決めても、私たちを驚かせることはできません」
「1カ月も大会を続けていれば、その間に必ず愉快でおちゃめな選手が出てくるものですが、今回はそれも不在でした。唯一、相手選手にかみついたウルグアイのスアレスには一種のかわいげを感じましたが、おちゃめと言えるかどうか。02年の日韓W杯で、ブラジルのロナウドが前髪だけ三角形にそり残した奇抜な髪形でプレーし、優勝トロフィーをさらってしまった。そういう『変な人がおちゃめをしながら勝つ』という楽しさもなく、みんなが必要以上に本気になってしまった」
「一方で『見たことを一刻も早く忘れたい』という瞬間が多すぎました。世界最高GKの1人、スペインのカシリャスはオランダ戦で5失点した。彼があんなによれよれで崩れてしまう、という場面は決して見たくなかった。ポルトガルの対ドイツ戦での惨敗にも目を背けたくなりましたが、極め付きはやはり準決勝のドイツ―ブラジル戦です」
――ブラジルが7失点。目を疑いました。
「あれはもうサッカーではない。ドイツが7点も取ってしまったことは、果たして成功なのか。もちろん、勝利したという点では成功なのですが、『サッカーをサッカーではないものにしてしまった』という点においては、醜い失敗だったとしか思えません。誰かがドイツ代表の精神分析をやらなくてはいけない。どこまで点が取れるのか、面白いからやってみよう、というぐらいの気持ちになっていたと思うのですが、どう見ても7点も取ってはいけない。何かが壊れるし、人の道から外れているとしか思えない」
「サッカーから運動の喜びを奪うW杯という枠組みが、選手たちの精神とゲームそのものを、いかに異様なものにしてしまっているか。それを象徴する試合でした。サッカーは死んだ、と思いました。前回のW杯でも、国を背負うことの問題は至る所に現れていましたが、それでも決勝、準決勝は緊張感のあるいい試合でした。それが今回のW杯では、なくなった。次回のW杯まで私が生きているかどうか分かりませんが、確実なのは『もう、徹夜をしてまでは絶対に見ない』ということです」
■ ■
「実は今回のW杯では、二十数年ぶりに心から応援するチームがありました。ボスニア・ヘルツェゴビナ代表です。1914年に同国の首都サラエボで起きたオーストリア皇太子暗殺事件が、第1次世界大戦の引き金になった。それから100年。20年近く前まで殺し合っていた三つの民族が、オシムの尽力で一つのチームを作り、W杯に参加した。これはもう、応援するしかない」
「最初の対アルゼンチン戦で、敗れはしましたが、イビシェビッチがチーム初得点を決めた時には、わがことのように泣きましたね。最後のイラン戦で初勝利した時にはまさに『オシム流サッカー』という感じの躍動感にあふれた闘いぶりで、その華々しさにまたも涙しました。この年になって真夜中に何をやっているんだろう、とも思いましたが」
――蓮實さんは、スポーツの世界に、スポーツ外の浪花節的な物語を持ち込むことを嫌っていたのではなかったですか。
「いや、これは私個人ではなく、人類の問題なのです。サラエボ事件100年ですよ! そこから来ている代表が民族対立を乗り越え、W杯で初勝利した。その奇跡を、日本と関係の深いオシムが実現させたことを、心から祝福するべきなのです。そしてボスニア・ヘルツェゴビナがオシム流のサッカーをさらに継承し、将来のW杯で魅力あふれる運動感をピッチに行き渡らせる。これは私のロマンチックな願望です。そうなれば、W杯をまた熱心に見ることになるかもしれませんね」
(聞き手・太田啓之、金重秀幸)
*
はすみしげひこ 1936年生まれ。東京大教授、教養学部長、総長を歴任。著書「『ボヴァリー夫人』論」「表層批評宣言」「スポーツ批評宣言」など多数。