はてなキーワード: エビデンスとは
元増田です。
ブコメなんかを見ると、隠された定義として消費税増税に反対しないとリフレ政策支持とは認められない、ってな雰囲気が漂っているようにしか見えないのですけれども。最初のトラバだと、消費税増税賛成だってリフレ政策支持ならリフレ派なのに、消費税増税反対じゃなきゃリフレ派じゃないという一部の意見をもってリフレ派全体とみなすのはおかしいなんて意見も出てますが、どう見てもその「一部」が「全体」であるようなエビデンスしかないじゃないですか。
消費税増税がデフレ脱却に悪影響をもたらすとの指摘が多くなされていますが、別にそれを否定しているわけではないので、そんなことをおっしゃられても。GDP恒等式でいえば、
のTが増えた分だけGが増えればYは変わらないし、それ以上にGを増やせばYは増えます。にもかかわらず、Tを増やすならGを(同等かそれ以上に)増やせという意見が皆無で、リフレ政策支持である以上はTを増やすなというのが当然の帰結だと言わんばかりの空気がなぜなのかわからないのです。
以下、個別のお尋ねにつきまして。
消費税増税による景気悪化を相殺するだけの金融緩和や財政政策って可能なのかな。
不可能なんですか? 不可能というならば、僕の疑念は解消できるんですが。
デフレ時代の消費税増税はリフレをぶっ壊すんだから反リフレで問題無いだろう。インフレになったら消費税もいいけど。
消費税増税しかしないならぶっ壊れるのでしょうけれど、G増で壊れないようにすべし、という主張への反論にはならないと思います。そもそも、消費税増税はインフレ対策として行われるものでもないですし。
金融緩和+財政政策に対して消費税増税とかブレーキとアクセル同時に踏む愚策なのが分からんのか。
景気に水をかけることを目的として消費税増税を行うならご説のとおりかと存じますが、消費税増税は資源配分の適正化が目的なわけで、その副作用たる景気悪化には景気対策に向いた施策を割り当てるのは、ティンバーゲン的にも望ましいんじゃないですか? 景気対策ならざる消費税に景気対策として増税延期or停止を割り当てるのは、ティンバーゲン的におかしくないですか?
ブレーキ(消費税増税)以上にアクセル(財政・金融緩和)を踏むのは理論上可能だが、そもそもブレーキ踏みたがる人がそれ以上にアクセルを踏むとは思えない・・・
ブレーキを踏みたがる人に対案を出すなら、ブレーキを踏むなというより、ブレーキを踏んでもいいけどそれ以上にアクセルを踏めという方が、実現可能性が高いように思われるのですけれども。少なくともブレーキを踏むという部分は認容するわけですから。
リフレ政策が何をもたらし増税が何をもたらすか理解できていない増田が必死で派閥を区別しようと必死になっているの巻。
上述の通り、リフレ政策は景気対策で、増税は資源配分是正だと認識しておりますが、誤解であるというのでしたらご説をご開陳いただければありがたいです。
本当に消費税の悪影響を相殺できるんなら、なぜ増税後の景気が停滞してるんだ?
追加的金融緩和and/or財政出動をケチったからではないでしょうか。
id:rnaさん
基本に戻って考えましょう。リフレの目的ってデフレ解消だよね。消費税賛成の人をリフレ派って言うのは構わないけどさ、、、続きはこっち
続きも拝見いたしましたが、デフレ脱却は遠い将来でも構わないなどとは申し上げていないのに、藁人形を仕立てて頂いても困惑するばかりです。消費税増税するなら、それでもデフレ脱却が腰折れしないような対策を併せ講じるべき、という主張はリフレ政策支持と両立すると思うのですが、いかがでしょうか、というのがお尋ねの趣旨です。
そもそも消費税増税がデフレ脱却にマイナスの影響を及ぼしているから、リフレ派の多くは更なる増税に反対してるだけなんだけどね。
マイナスの影響を吹き飛ばすだけの追加施策を実施せよ、とどう違うのでしょうか?
賃金上昇が伴っているのなら増税はしてもいい。金融緩和の効果で物価が上がり、賃金の上昇を伴う前に増税すれば酷い結果になるのは当たり前。賃金の上昇、今の状況が改善されていく事を実感させなければ衰退しかない
都会と田舎とか、あちら側とこちら側とか、セックスとか失恋とか。誰もがなんか言えるというのがミソでブクマもコメント付きのものが多くなる。
あと機能不全家族、毒親、病気、家族の死、障害、精神疾患、社会人の愚痴、家庭の不和、うんこあたりも鉄板だが、量も多いので良いエントリを書かないと埋もれる。強烈でかつ人に言いにくい実体験があればそれを素直に平易に淡々と書くのが良い。ただ、あまりにも文章が下手だと変なの呼び込んで自分が傷つくだけなのでやめたほうが良い
増田は夕方以降、どうでもいいものもふくめて流量が多くなるので、良いエントリは流されてしまう。昼間は以外にPVはあるみたいだが流量は少ないので1ページ目に滞留しやすいようだ。しかも1~2ブクマつけばはてブのトップページにも滞留する。ライバルエントリが少なくかつ、PVが多いというのははてブを稼ぐ基本である。しかしけっこう昼間にも会社員がみてんだなー俺もだけど
できなかったら、どっかから借りてきたのとか、流行ってる文句を改編するのとかでもいい。
釣り師がよくやるやつ。
1と4の合わせ技+タイトルが3にあてはまる
もうみんなdisってるようなのをdisるならよっぽど一言でうまくdisらないと駄目。え?それ?みたいなのを狙うのがたぶんよい。
何いってんのかわかんない煽りが来たら即座に「黙れやハゲ」くらいやるといいかもしれない。
穏やかでもっともな内容のTBが来たら、流量が多くなる夜に返事をすると、TBツリーが伸びて多くの人の目に元エントリが触れやすくなる
わかってないひとは「なるほど」となるし、当事者は「そうそう」となるので比較的穏やかに無言はてブが成長する
言語化するときは出来る限り、カテゴリに分ける、時系列を箇条書きにする、などのライフハックエントリメソッドを活用するとよい。
韓国の話が混じっているとなおよいが、はてなの場合嫌韓はあまり人気がないのであくまでも客観的に事実を書くことが大事。一番大事なのはエビデンス。
語学力があると強い。なお上の二つは相互作用でブクマ数が増えた模様。ココらへんは完全に運。
増田文学といえば文学なのだが、とにかく熱量があるエントリは好まれる。
またファンが書いた熱量のすごいエントリも結構な割合ではてブを稼ぐ。
もうすこしタイトルを工夫すれば200くらいいけたかもしれないが、この人の場合、これでいいんだろうな。
なんか、変に話が大きくなってますが、元SIerとしては単なるあるある系のクソ仕事話の一つって感じの、Excelスクショエビデンスについて話をしておこうと思います。
最初に結論を言っておくと、
「意味があるのは分かっているが、そもそも責任回避のための資料作りなんて出来るだけやりたくないし、そんなのが大量に必要であること自体が気に入らねえ!」
ってことです。
参考:
Excelスクショ問題について周りの方へのお願いと、今職人となっている方への励ましの言葉(元職人より) | 羽根帽子の太公望
まあ、意味があるのは分かる。やってた事もある。
とは言え、何の意味かというと発注元の企業とゴタゴタが起こった時の責任回避の資料作りという意味で。
後になって問題が起きた時に原因究明の資料になるとかいう話もありましたが、それはかなり怪しい。
適切な粒度で切られたテストケースと更新がある度に正確にメンテされ続けるドキュメント管理力が必要ですが、そんな信用度の高い文書あんまり見たことない。
結局、動いてるシステムとソースコード見るしかない。その時の参考資料になるドキュメントは必要だと思いますが、それがExcelスクリーンショットかというと……。
どうしても再現環境を用意できず、机上で推論するしかない場合は役に立つかもしれませんが、そもそもそんな重要なシステムで何でそんなところケチってるのか意味が分かりません。
後、ソースコード読めない上流のSEがバグ原因を推定してお客様に説明する、という不毛な作業をする時にも役に立ちますね。
やはり、責任回避のための言い訳資料を作る、という名目が強いように思えます。
大半の人にとって、そもそもこういう資料作成自体が不毛でやりたくないと思います。
テスト工程とか余計なこと言わずに、訴えられて損害賠償請求されたくねーからやってんだ!と新人に説明すべきだと思う。
(こういう事ネットには色々書いてあるんだけど、会社は教えてくれないんよね、何故か)
大体、なんでこんな事やってるかっていうと発注元の受け入れ作業をベンダーが肩代わりしてるからです。
自分が注文したものがちゃんと動いてるのかの確認までベンダーに投げるので、「やった」「やらない」を過剰に説明する資料が必要になる。
専門知識を持った人材を抱えておくことをコストだと考えてるから、もっと無駄な事が世の中に発生してしまう。
そして、これのせいで付随して更なる問題が発生する。
顧客提出する資料に専門用語を含めた説明文を書くと、言葉が理解できない、という理由でリテイクをくらう場合があります。
説明資料じゃなくて、開発者や運用担当者が参照するための技術資料なのに、技術的に正しい、とかはどうでも良くて顧客が理解できる言葉で書け、ってことですね。
向こうのレベル感を探り探りしつつ文言を選んで説明分を付与する不毛な仕事が求められるのです。
これが顧客に対する誠意だと言うんですからお笑い種なんですが、まあ向こうがそれに金払う、って言ってんだから作るんでしょう。
既に十分不毛なんですが、これに輪をかけるのが体裁というやつです。
スクリーンショットの位置や文頭が微妙にズレてたりすると怒られるやつです。
それが、そんなに重要なのかどうかについては、最後まで分かりませんでした。
項目幅を調整して印刷可能なページに適切に収めるのに消費される時間が辛い。
後、カーソルをA1に戻しとけ、とかも全く意味が分からないし、納品前に数時間かけて印刷して判子を押して回るのも意味が分からない。
こんな単純作業を人間が手動でやっててミスらん訳が無いだろうに。
気を付ける、とか真剣にやる、とかで解消できると思ってるなら、お花畑過ぎるだろと言わざるを得ない。
しかも、自動化するために諸々やってると、最悪サボってると見做されるし、ひどい場合は、作業用PCに使えるソフトが限定されてて、スクショ取るツールさえ入れられない事があるらしい。
そこまで行かなくても、社内プロキシの穴を付いて開発環境を落としてきたりして、最悪セキュリティ担当の人に怒られる場合がありますね。
なんでこんな面倒なことしなきゃならんのだとソウルジェムがガンガン濁っていきます。
(メモ帳でもありゃいいだろ、という話もあるかもしれませんが、俺のような凡人はそれはそれでソウルジェムが濁ります)
まあ、それを回避して何とか自動化して省力化できるようになったら、他の人の作業時間と同じぐらいの見積り出して、本当にサボるんですけどね。
ダラダラと色々書きましたが、まとめるとこういう事です。
企業活動として意味があるのは分かるが、その根本的な目的は誰かが手抜きしたコストを肩代わりしてるだけに思える。
ただ資料を作るだけじゃなくてすげー細かい注意が必要になるのだが、そこに合理的な意味があるのか分からない。
作業自体がめっちゃ面倒くさいのだがその面倒くささを解消する方法に何故か制限がかけられている。
そして、世の中のプログラマーがどうであるかは知らんけど、俺はそんな作業が大嫌いだ。
むしろ、Excelにスクリーンショットを取って張るなんてのはどうにでもなるんだけど、それに付随している業務慣習の大半が意味分からなくてクソ喰らえである。
というわけで、意味があるとかそういう主張はどうでも良くて、そんな仕事やりたくない。
まあ、それしか金を得る方法が無いんだったら、嫌々でもやりますが……。
しかし、そもそもの話、実際冒頭で挙げた参考エントリの人も心病んでるし、他にも病院送りにされてる例が多数あるわけで、
仮にこれが本当に必要だと認めるにしても、人間の心をすり潰してまでやらなきゃならないような工程が、
当然のものだと受け入れられてる業界は最悪じゃねえのかと思う。
従業員の精神を壊してまでやらなきゃいけないような事なのか、これは。
必要とか必要でないとか以前に、こういう事やると人間の心が病むんだよ。そんなものが仕事なんだったら、そりゃ人間働かなくなるだろうよ。
そんなすぐに世の中変えようもないしどうしても作らなきゃいけないんだ、という場合は、せめて自動化に対する障壁を外して欲しい。
見た目の凝り具合とかは本当に必要な最小限度の体裁にして欲しい。
Excelスクショが生産的じゃないのなんて誰だってわかるだろうし
それに対しての批判を自分の所属してる組織であることのSIerの批判と勘違いし、
ひいては自分自身への批判と勘違いして「SIer叩いてるやつはシステム無しで生活してみろ」とか言ってる人なんなの。
その上でタンポポワークみたいなのを叩いてるだけだろ。
一周回ってSIerに所属してる人ってやっぱり(察し)ってなりそう
そのやり方がつらいならそのつらさの原点にどんな問題があるかって議論をしろよ
仕方ないんだよ!つらいけど必要なんだよ!って叫ぶんじゃなくて。
人材流動性の欠如だよ残念ながら大手SIerは簡単に人切れないところ多いし
単純作業に関しては単純作業しか出来ない人に仕事を与えるために
(勿論一旦大量のドキュメントを納品するその枠組みをつくってしまうと合理的な組織に対する競争力になりうる。
例えばある公的機関の納品においては某拝承社のドキュメントをもとに基準が出来上がっていて
それをもとに某拝承社から出向してきた職員が別の会社の納品物をチクチク叩くっていうのが常態化している為、
Excelスクショを作れるような企業じゃないと新規参入が困難になっている。
公的機関だから一般競争入札にも関わらず目に見えない障壁になっている。)
顧客が求める場合もあるけど、その顧客もバカじゃないし個人の背負える以上の責務
が発生しない場合は作り手に非合理な作業やってもらう必要はないだろう。
(そういう意味では、顧客の側も大企業的組織である事も問題。)
画面系のテストは例えばSeleniumとかで自動化し、顧客にも
Excelスクショのエビデンスじゃなくて自動化されたテストコードの方を納品すべき
納得・理解出来ない顧客はシステム発注する資格が無いという雰囲気を醸成すべき
Excelスクショを肯定する輩はExcelスクショしか出来ないからポジショントークしているんだ。という雰囲気を醸成していくべき。
自動化出来るほどの単純作業しか出来ない人は仕事がなくなるかも知れないけど、
でもそれ、単にペーパーテストでバカ度を図るのと何も変わらないよね?
んで、診断したところでどうにもならんよね?
エビデンスの意味ワカって使ってる?なんで「エビデンス」なの?日本語でおk,なんだけど。
そもそも医師の所に来る時点でかなりバイアスかかった集団だわね?
それが現在医療の現場での「ベストストラテジー」って誰が決めたの?
病気の説明をすることは医者としての大きな役割の1つだと思うが。
精神病患者はバカだからはなししても無駄、と決めつけているというならあれだが。
理系では当たり前のことが文系では当たり前じゃない。最近はエビデンスベーストとかビックデータとかなんとか、要するに統計を用いて科学的に意思決定を行うといったことが流行っているが、理系の研究等では別に何も新しくないしむしろそれを斬新と思う人たちはヤバい。
米国で流行ったサービスを日本になる早で輸入する時間差ビジネスというのがあるが、文系へ理系の技法を持ち込むのというのは何かこれに通ずるものがある。
論理的思考(笑)とかも、何かとても大事なことのように言われるが、そもそも当たり前に持っていなければならないものだ。言葉としてよく出るということは、文系の人たちに論理的思考が足りていないということなんだよな。
http://anond.hatelabo.jp/20140713221124
これ書いた増田です。初めて書いた記事なのに結構な人数に見ていただいたようでびっくりしました。
もちろん人それぞれの方法論があると思うので、参考になる部分だけでもかいつまんでもらえればいいと思います。
もうちょっと考えてることを書いておきたいと思ったので、補足します。
コメント見てて多かったのは「そんな食生活じゃ人生楽しくない」というご意見ですかね。
そりゃそうだ!と私も思います。実際私もちょいちょいラーメンとか唐揚げとか食べますよ。
ただ、そういうハイカロリー飯は必ず昼にもってきて、夜は必ず泳いでいましたが。
私はもともと太りやすいですが、誰しもが加齢と共に代謝が低下していきます。
それでも太らないでいようと思ったら、いずれは「楽しみとしての食」を取捨選択していかねばなりません。
私の場合はそれをちょっと早めに始めただけ、という風に考えています。
美味しいものはたまーに食べるから美味しいんだ、とも思いますし。
あと、私がうまい具合に食事制限ができはじめたのは、「炭水化物が人類を滅ぼす」という本を読んでからです。
この本、父親にあげてしまったので今見返すことができないんですが、結構極端な論調で糖質制限をオススメしている本です。
「最終的には炭水化物を完全に抜く」みたいなことも書いてありましたがさすがにそれはできませんでした。
でも、かいつまんで参考にできたところもあります。うろ覚えですが、こんな感じだったかな?
違ったらごめんなさい。
・食後眠くなるのは満腹だからではなく炭水化物の摂取によって血糖値が上がるからである
・「血糖値が上がること=食で満たされること」と思い込んでいるパターンが多い。
・糖分換算でご飯一杯=角砂糖14個分だが、角砂糖はそんなに食えないのにご飯は食べられる。それが炭水化物の落とし穴。
別に私はこの本を全部信じ込んでいるわけではありませんが、とにかくこの本の中では炭水化物disの嵐。
さすがに「う〜ん・・・そこまで言うならちょっと炭水化物減らしてみるか・・・」という気分にはなりました。
完全にゼロにはしませんでしたが、多少へらしました。例えば吉野家では小盛り、やよい軒ではおかわり抜き(これは私も辛い・・・笑)など。
すると、午後からの仕事で全然眠くならないし、お腹がすく時間も満腹まで食べたときとそこまで大差がない。
ここで「ああ、自分はそこまで食べなくても大丈夫な人だったんだなぁ」と思えるようになりました。
今では超少ないOL飯(サラダ+春雨スープとか)でも全然いけます。逆に高くつくので結局定食屋いきますけど。
要は自分が耐えられる(仕事などに支障がない)ミニマムの食事量を知ることが大事なんだと思います。
巷のダイエット論はそれぞれ千差万別すぎるので、もはや何が正しくて何が間違ってるか私には分かりません。
でも一つ言えることは試してみないと結果も出ないということです。
とりあえず何か一つ自分に合いそうな物を、妄信的に信じ込んでやってみるしかないのでは。
本買うだけなら安いもんですし。
増田なんかで、科学的にスタンダードになっている考え方を示しても(教科書載ってて誰が見ても了解できる内容)、まったく通じない奴がかなり居る。
科学的な世界でアカデミックに過ごしてるから当たり前に自分は分かることでも。それ以外解釈のしようがない事実に対しても、噛み付いてくる人が居る。
これは別に俺がどうとか、相手がどうとかで変わる話ではないのに、なぜか自分の結論が間違っていたり事実に反しているという理解にはならないらしい。
もっといえば、「重力は下向きに働いてます」というなんの疑問も無いレベルの話をふって、「いや俺はジェットコースターに乗って上への加速度を感じた、、、」等々とまったく論点がかみ合わない。
なぜこんなことが起こるのか最初は疑問だったが、本当に、「勉強していないことは根本的に論理的に考えることができない人もいる」んだなあと気づいた。
論理的に考える以外の思考方法なんてのがあるもんだなとビックリした。
でも考えてみれば当たり前で。俺だって完全に酔っ払ったら「酔ってないです」っていいながらおかしい行動するもん。
人間、まともだと思っていてもまともな行動できないことはある。
それが、常にそうだっていう人も多分いるんだろうなあと思う。
おそろしや。。。
周りへのカミングアウト。
俺は出来ないんだからそれ理解しろ。お前らがカバーしろ、ってか?
片付け面倒だから金で解決するわ、ってか?
予定は1冊の手帳にまとめて色分けする。
えーと、人と話すのにリラックス出来ないなら話すの辞めれば?
普通の人でもイライラしてる時にどうしても話さなきゃ行けない時はそのようにしますが?
こういうのがたくさんある。 こういうのを知るのが大事な理由は、「これをやったら高確率で効果がある」と示されているから。やる価値のある努力が分かる。かりに普通の努力に見えても、普通の人がやるより遥かにこうかあるし普通の人は当たり前すぎてどりょくすらしないこと。だから。
そうじゃなくて、普通の人は社会を小中高と学校やいろいろな場所で学んでいく時に身につけていくの。
「当たり前すぎて努力しない」のではなくて、当たり前のように努力して身につけてきた、の。
逆に、お前は皆が努力している時に甘えてただけ、でしょ?
薬だけど、意味があるんんだけど。もちろん同じダイエット法でもきく人ときかないひとがいるのと同じで、薬も合う人あわない人がいる。だからそれは熟達の医者が患者さんの様子見ながらある程度のエビデンスを元にやっていくしかない。
そのエビデンスがさ、合うか合わないか、っていうのが全く条件が不明な場合、
別に薬が無くても同じ結果になるわけで、余りに不定性が大きすぎる。
臨床実験に頼るんだけど、例が少なすぎて統計的に有意な事言えてない部分が殆どで。
周りへのカミングアウト。 片付けられない症候群はダスキンにたのむ。 予定は1冊の手帳にまとめて色分けする。 話す前にため息やあくびをしてリラックスしてから話す。 等々。
こういうのがたくさんある。 こういうのを知るのが大事な理由は、「これをやったら高確率で効果がある」と示されているから。やる価値のある努力が分かる。かりに普通の努力に見えても、普通の人がやるより遥かにこうかあるし普通の人は当たり前すぎてどりょくすらしないこと。だから。
薬だけど、意味があるんんだけど。もちろん同じダイエット法でもきく人ときかないひとがいるのと同じで、薬も合う人あわない人がいる。だからそれは熟達の医者が患者さんの様子見ながらある程度のエビデンスを元にやっていくしかない。
辞めて他の会社でやるだけの市場価値が自分にあればいいんだけどね。orz
作業エビデンス残して、エビデンスを上司がチェックするルールができたから前回と違う条件だよ。
ただ、「なんで早くできないんだ、納期間に合わんだろ!チェックする工程ができたから時間がかかる?そんなのお前がミスするからだろ」と文句言われるだけだと思うけど
単純ミスで怒られまくっている。
個人的には「仕組み化し作業部分を減らす」(テンプレの活用、自動入力ツール、自動チェックツールの活用などコンピュータに押し付ける)&「十分な作業時間が取れるよう交渉する」が再発防止策の基本方針なんだが、
コミュニケーション能力低く交渉失敗してボロボロ。
「お前のせいで再発防止策で余分な作業やらされる&作業マニュアルが分厚くなる」とボロボロの怒られ方をしてる。
私からしてみれば要求納期に対してリードタイムが長いから、無理やり納期に間に合わせようとしてミスしてるのに、
「再発防止策でエビデンス残して、エビデンスを上司がチェックします」みたいな作業を増やす再発防止策しか
受け入れてもらえない。
再発対策で必要なのは作業を増やして罰を与えることではなくて、原因を排除して問題解決することだよね。。。
「作業手順増やすのは本当に再発防止策なのか?」
みたいなこと上司にいうと「顧客に説明できない」とか「反省していない」と言われてしまう。
「顧客に説明できない」はまだわかるが、反省していないとなるのってどうなのよ?
力関係ひっくり返すこともできないし交渉することとテンパらないことをどうするか考えた方がいいんだろうな。
ADD傾向あるのに、こんな作業は無理だよ。
http://b.hatena.ne.jp/entry/bylines.news.yahoo.co.jp/ogawatamaka/20140618-00036476/
昭和の時代からあったようなカビが生えまくった超絶定番話題が400ブクマ越え(今現在)と言う辺りはてなも進化しないなと思ったけど
(同じようなネタの都議会セクハラ記事のブクマを超えた辺り定番の強さすごい。あちらは記事が複数ある分ブクマが割れているってのもあるけど)
一昔前のこの手の話題のブコメと言えば
「働くママ差別キーっ!子供はそんな事考えてないのよあんたが気に食わないだけでしょ老害氏ね!
えっ自分は子供の頃母親いなくて寂しかったって?そんな訳ないでしょ嘘付くな!だってうちの子は保育園の方が楽しいって言ってるもの!
そもそも保育園の方が子供にとっても良いのよ大勢の人と関わって社会性付くのよ!エビデンス?そんなもん無いけどとにかくそうなのよ!!
専業主婦なんてどうせ密室育児でストレスで子供虐待してるんでしょそうよそうに決まってる、それよりずっと良いでしょそれとも虐待されてる方が良いって言うの!?」
の嵐だったけど、上を見るとこの手の短絡的かつやたら攻撃的かつどっかに落ちてたテンプレそのまま書いてるだけだろという人も相変わらず居るが
もう少し冷静な人や、どっかで読んだテンプレではない自分の意見を書いている人もいる。
出産後も働く女性が珍しくなくなり、やたらと美化しつつ他を攻撃して貶めたがる風潮が薄れたのか。
はてなの平均年齢が上がって、実際は子供なんて(周囲も含めて)いないのにイメージだけで語る若者が減り子育ての現実が見えている人が増えたのか。
表題の通り。
とある専門機関を中心に「放射能はセックスレスを加速させる」という仮説が叫ばれ始めている。
http://anond.hatelabo.jp/20140513163404
まだ仮説段階のようだが、非常に有力でありエビデンスの公開も間もなくなのではないだろうか。
この日本から少しでも放射能の被害を減らすべく、我が家の現状を例にこの場を借りて皆様にお知らせしたい。
まず我が家は、あの3.11以降完全セックスレスに陥っている。
3.11前は数か月に一度のペースながらもセックスをしていた。
以下、嫁の主張である。
体がだるく性欲が全く無い。
恐らくこれは、放射能が少なからず影響していて、あなたには悪いと思っているが、私にはどうしようもない。
放射能の影響が小さくなれば、性欲も戻ってくる。
だからそれまで待ってほしい。
ご覧いただいたように我が家のセックスレスは全ては放射能が原因なのだ。
皆さんお気をつけて
★ブックオフのビジネスモデルは、一定スペックの古本なら買い取り価格も売り出し価格も均一化したこと。
細かく言えば、古本に多少の価格差がつく筈だが、査定要員の人件費をカットしたのがミソ。
宅急便も、サイズ毎に価格均一化して、料金計測要員人件費をカットしたのがブレークのきっかけ、と聞いている。
★この「一定スペックを満たしていれば、均一価格」というビジネスモデル、不動産に応用できないか?
「100坪以上なら、面積に関係なく、場所に関係なく、古家付きか否かに関係なく、日当たりに関係なく、
「俺の土地はそんなに田舎じゃない、もっと高く売れる筈」という人は、そのサービスを利用しなければいい
★例えば「50万円均一不動産サイト」を国土交通省が立ち上げる。
田舎の土地を売り出したい人は、そのサイトに土地情報をアップする。
田舎の土地を50万円で買いたい人は、そのサイトを閲覧し、1000件近い物件掲載から、お目当ての土地を入手する
50万円程度の土地なので、仲介手数料の法定上限額が少額で、不動産業者を介在させられない(不動産業者の人件費倒れ)、
という事情もある。
個人間取引なので、価格交渉トラブルは避けたい。だから50万円均一にして、トラブルを避ける。
★想定売り主は、「タダでもいいから、親の遺産の土地を早く手放したい」的な人。
「自分は都会住まいなので、田舎への交通費や、権利書類の用意だけで数万円かかる、だからタダでも手放したい」という人。
★逆に想定買い主は、「なんでもいいから、田舎に土地が欲しい」という人。
以前北海道で、荒野を1万円でセールスしたら、購入希望が殺到したらしい。
ヤフオクで「なんでこんなガラクタに?」という高値が付いたりする。
ただ、「ガラクタマニアが小遣いで出せる額」のアッパーは数十万円じゃないか、と。
(100万円だと、心理的抵抗感がある)
だから50万円均一にしておく。
★厳密に言えば、
「100坪50万円なら、150坪は75万円に、200坪は100万円にならなければオカシイ」。
しかし、いちいち土地を実測するのは、土地家屋調査士の人件費が無駄。
「100坪以上あるかどうか?」のエビデンスは、グーグルアースで代用すればいい。
★「別にタダにしてもいいのでは?」との意見もあるが、50万円程度の対価がないと、
(つまり、売り出そう、というインセンティブを喪失してしまう)
一方、買い主側にもある程度の対価を要求した方がいい。タダだとイタズラ目当てが横行する
素人にはわからないので、理研側も早大も実態について説明すべきだ。(報道されたが俺が見てないだけかもしれないが)
大学で研究職についてた知人に聞いたが今回の話はぶったまげて笑うことさえ出来なかったという風だった。
ミスで違う画像を載せたり、記事を転用したりということが出来てしまうということが驚き以上愕然としかできない。
研究職の方にとって論文は走り書きのメモ帳のいう認識しかないのか?と思ってしまう。一般民間企業ならエビデンスも納品物の1つだ。違った画像を出したものなら下手すれば信用問題。払ってもらえるものも頂けないことになる。
チーム組んでやるなら仲間にチェックしてもらう、レビューしてもらうということはやらないのか?と思う。
六法全書のような厚みなら一気読みはできないだろうが、少し厚い文庫本を読む程度なら頼み込んででもチェックしてもらうべきではないのか?と思う。
http://anond.hatelabo.jp/20140221132243
元増田は釣りのつもりで書いたのだろうが、俺はかつての自分のことを言われたようで痛々かった。
ただ、最近は元増田のように「自分に自惚れて、周りが許せなくなる」とは思わなくなった。
いくら知識が身についても、プレゼン力が身についても、俺が他人に披露しているのは本からの借り物にすぎない。
それも本を読むことだけに必死になって本の中にある論理的関係を把握しないまま中途半端に用語や言い回しを覚えてしまうので、
気づけば自分の考えのなにもかもが論理関係がまったくない、エビデンスの剥がれ落ちた上澄みのパッチワークにしか思えなくなる。
それでもある程度、会話とプレゼンの練習をすると他人は俺のことを頭のいいやつだと扱ってくれる。
勿論お世辞もあるのでそういうところは差し引いても、俺は自分の頭のなかがパッチワークだとわかっているので過大評価だとどうしても感じる。
そうしているうちに気づくのは、他人は俺のことを評価しているんじゃなくて、俺の背後におぼろげながら見える本の内容を評価しているんだということ。
結局俺が読書して身につけたのは活字を右から左へ流すパイプ管になるスキルなんだなと思うようになる。
それよりかは自分の生活の中で得た知識でなんとか考えようとする他人のいかに偉大なことか。
俺はかつて読んだ本を引用せずには考えを進めることはもうできないんだ。
今、俺はこんなパイプ管になるのを止めるにはどうすればいいかを考えている。
おそらく、本を読むのをやめたって悩みは解決しない。
なぜなら、俺がかつて本から受け取った様々な衝撃は、もう俺の自我に埋め込まれてしまっているから、回復するものではないからだ。
本を書いてまで必死に自分の考えを赤の他人に伝えようとした偉大な人々――作家たちと何らかの繋がりを持ちたいと思うからだ。
時間、空間、人種、身分を超えて偉大な人々に出会えることが読書の最大の意義ではなかろうか。
俺はその偉大さに出会いながら、どうやって俺もそんな人間になれるのだろうかと思う。
そう、ここまで書いてみてはじめて気がついたよ。
読書の本当の弊害ってのは、
「ASD診断基準変更、の報に、これからアスペルガー症候群じゃなくなりそうな一自閉症者が思うこと」(ここまでタイトル)
DSM改定で「アスペルガー症候群」の診断名がなくなったらしい。「社会コミュニケーションの障害」「限定した興味や反復行動」に絞った結果、有病率は1/4程度に減ることが見込まれるとか。自分は大学時代に診断を受けた「アスペルガー症候群」の人間になるのだけれど、まっさきに思ったことは、「なんだかなあ」だった。Twitterで呟こうと思ったらひどく長くなってしまったので、匿名ダイアリに投稿してみることにした。昨今いわれる「一記事800字ルール」から大きく逸脱していて読みにくいと思うのだけれど、勘弁願いたい。
アスペの本質は「心の理論」の障害じゃなくて、感覚の取得機能の異常(異常というか、「社会適応に必要な情報だけを拾えない)だ、という風に、(旧診断基準では「アスペルガー症候群」と診断されていた)自分は考えている。考えている、だけだとアレなので、一応つけくわえると、以前、お世話になった先生に確認したところ、「その考えは間違っていない」というような事を言われたので、おそらく間違えてはいない(一応、そんなような研究結果もあったと記憶している。まあ、私は学究者ではなく一当事者なので、エビデンスが若干いいかげんなのは許してもらいたいのだけれど。
人間の感覚には、いまどきのカメラのように「オートフォーカス」機能がついている。それも、大変高性能な。これが、オートマじゃなくってすべてマニュアルなのが自閉症(=アスペルガースペクトラムだ。たとえば、誰かが「それ」と言って何かを指差したとする。定形発達の子供は、「指示の対象に目線を向け、そ話者が何かしらの指示または主張を行うに備える」という一連の処理を、ごく自然に身につける。しかし、自閉症者の視界は、蟻の視界だ。「特定の範囲の、限られた情報」だけを拾うことができない。まず、「人間の輪郭」を意識するのが難しい。うごき、を俯瞰してみることができない。そして、「手振りの意味」を理解するのには、もっと時間がかかる。
指差した先を意識すればよい、と学んだとしても、その後がまた大変だ。自閉症者のせまい視界は、「それ」として指し示された物体「以外のもの」を意識できない。あたかも同化するように自閉症者の意識は「それ」とひとつになってしまう。指示、という行為の先にある意図へ辿り着けない。本人の記憶にも残らないような小さい自分に、こんな小さな「ロス」をくりかえして、自閉症者の社会能力は定形発達者のそれからどんどん遅れてゆく。
自閉症者は往々にして、「世界と自分とのあいだに、一方通行の分厚い硝子の壁がある」という表現をする。入ってくるものは、ときに自分たちに害を与えるけれど、こちらがわから触れることはできない。氾濫した感覚世界に、ドナ・ウィリアムズが自著のタイトルとして記したように、「何者でもなく。どこでもいない」自分だけが残される。興味が限定されるのは、何かしらア・プリオリな原因があるわけではない。単純に、あまりに「細かすぎ、多すぎる」情報の波に晒されていることの裏返しだ。自閉症者は、その複雑すぎる世界を規則化するために自らひねりだしたルールにより所を求める。あるいは、数字や言葉などの「より強固で、確実な」曖昧さの無い世界に逃避し、没入していく。
さて、ここで重要なことがある。成長が遅い、ということは、「いずれ追いつく可能性がある」ということだ。IQが高い場合は年齢が上がればコミュニケーション能力は(或る程度は)向上する。限られた環境であれば適応できるようにもなる。IQが低いと、成長速度が社会が要求する適応レベルに追いつかないので、わかりやすい「知恵遅れ」になる。旧DSM水準においては、診断の多軸性、「コミュニケーション能力の障害」以外の細かい部分こそに、自閉性の障害の本質があったように思う。高機能な自閉症者(これまでの診断基準でいう「アスペルガー症候群」、言語機能に遅れがあるものは「高機能自閉症」)は、往々にして、その能力と努力によってコミュニケーション能力が向上させ、また、社会の中で自分が受容されるポジションを獲得し、
あたかも「社会に適応した」かのように振舞うことができるようになることもある。けれど、知覚過敏や感覚から来る負担の大きさ、ある種のデリケートさ(適応しても処理量は変わらないせいで疲れやすい)、過集中傾向、カクテルパーティ効果への適応不可能などは歳を重ねてもあまり改善しない。二次障害との複合で、ひどくなる場合もある。そして二次障害。我らが最大の敵である二次障害だ。慢性的に感覚的に、また社会的にストレスを受ける環境による鬱や神経症、PTSD様の症状(瑣細な感覚刺激からフラッシュバックを起こし、日常生活に支障が出る)なども、かなり改善させづらい。というより、社会に出ている多くの自閉症者は、コミュニケーション能力の障害以上にこれらに苦しめられることとなる。これらの人間に、「アスペルガースペクトラム」の診断基準から外れたとき、医学はどのように対応するのだろうか?
私事になるけれど、自分は二次障害への対応に、かなり苦労した。「病気になる原因」というのが感覚的な特性と、それによって経てきた生育環境に大きく拠っているために、一般的な治療方針やアドヴァイスがあまり役に立たないためだ。普通の人間は、ごくふつうの家庭で(母親は多少厳しくて神経質だったけれど)そこそこ健康に育ったにも関わらず、重篤なフラッシュバック症状(いわゆる「自閉症パニック」の主原因になるもの)を抱えたりしない。精神科、に行って自分が求めた治療を受けられたケースはとても稀だった。最初の二件くらいは適当に薬を出されて、経済的に継続困難なカウンセリングを勧められて終わり。結局、これではらちがあかない、と感じて(また、「はっきりさせるために」)実家に帰って診断を受けてきた、知的障害者向けの施設の外来の先生、そして、某k橋先生(統合失調の大家である)との出会いが、自分にとっては得がたかったけれど、必要な治療を受けられないままの人は未だ多いと思う。数年前にアルバイトを探していたとき、2ヶ月ほど支援センターにお世話になる機会があった。自分の大学時代と比べてこの数年、随分とサポート体制が整ったのだな、と感じて感心した(そして、その実現に走り回ったであろう人々に敬意を覚えた)、それからしばらくしての今回の報だった。
未だに「心の理論」ありきの「アスペルガー症候群とは」みたいな文章はよく見る。精神医学の世界って当事者も臨床も置いてけぼりなんだな、遅れてんなあ、というのはずっと思っていたけれど、今回の改編でよりその印象は強くなった。二次障害が軽くなって、今の生活が忙しくなるにつれ、自閉症を取り巻くもろもろの社会的状況に興味を向ける機会が減ってしまったので、偉そうに論じる権利は無いのだけれど、「まだこんなに遅れているの?」と、失望にも似た気持ちになったことは否めない。
私は診断をうけたとき、その時点で、もともと積極奇異タイプだったこともあり、社会能力自体はかなり改善していた。コミュニケーション能力に重きを置く診断基準だと、今はそのように診断されるかかなり怪しい。当時は、二次障害が今より重かったのに加えて、義務教育期間を終えたことで、それまでの細かな「不便(大学でお世話になった先生曰く『目に見えない腕の欠如』」がいちどに明らかになり、社会的な困難が顕著になっていた時期だったため、「診断が下っている」ことに、自分は自己分析の面で、そしてひとから助けを得る上で、随分と助けられた。この障害がときに致命的なのは、コミュニケーションの障害よりもっと前のステップ、感覚すること、世界に。社会に働きかけること、「関わる」ことそのものに困難を抱えるからだ。「コミュニケーション能力」だけに重きをおいて、障害の本質をばっさり切ってしまった新基準に、本来の意味で自閉性の障害を抱えた人間たち(ここ数年で顕著になったように、世間においてけして少なくない)を、フォローできるとは思えない。
自由業で不安定な生活なので、定期的に、「障碍者手帳を得るべきか」に迷うのだけれど、この機会に行動すべきかなあ、と、また、少しだけ迷っている。職種的に実感する機会は少ないのだけれど、「診断を持っている」というのは、「障碍者の枠に入れられる」ということであると同時、「自分の特異性がア・プリオリなものとして理解され、社会的に許される」手続きでもある。<そして、負担の多い日常に対してシステム的なバックアップを受けられる、というのはとんでもなく大きい。
以前は、手帳を取るなんて甘えだ、と思っていた。実際、生活しはじめると、やるべきことをやるために、使えるものを使わないことこそ甘えなのではないか、と思う。今のうちに診断書もう一回出してもらって、支援センターに相談に行くべきかなあ。けれど、ここまで「診断されない人間が出る」ことに異を唱えておきながら、自分はいつも立ち止まってしまうのだ。生きることに混乱を抱えるのが、自閉症者特有の事象であるはずはない。そんなことは重々承知していて、その上で、おそらく定形発達であれば経験しなかったであろう経験を、自分は重ねてきている。そして、思ってしまうのだ。自分のこれは、この、抱えた差異と、それによって生じる無数の困難は、自分が経験し・乗り越えてきた沢山のことは、果たして「障害」なのだろうか、と。無論、この逡巡が、社会的に「障害」とみなされるか、サポートを必要とし、サポートを得ることで社会の構成員としての生活を送ることへの困難が軽減される人間が存在するか(そして、自分がそのサポートを必要としているか)、という観点とは、デリケートながら別の問題だ、ということも重々承知しているのだけれど。
以前、自分は海外の会社に勤めていた。ネット経由で仕事するという、最近良くあるスタイルの会社で、今まで二社経験がある(クラウドソーシングとかじゃなくて、れっきとした専属の社員です)。
その二社目にいる時に、日本人の別のソフトウェア技術者が入社したのだけど、その人は半年でクビになってしまった。自分はマーケティング系職務だったので、クビになった技術者が何をしていたのかは知らなかったが、その一ヶ月後に日本の大手IT系企業に入って、その後長くやっているので、技術に問題があった訳じゃないだろう。
自分は二社とも日本人一人の状態で参加していて、そもそも語学は大して上手くない人間なので、「うかうかしてると振り落とされる!」という強迫観念もあり、言われないことでも積極的に提案したりモデルを作ったりして、それなりに評価されていた。なので、会社との合意でない限りやめることはなかった。じゃあ、クビになった人は何が出来なかったか。
ひとつは、先に日本人がいたことで、甘えがあっただろう。要するに、仲良くしていれば自分の立場を守ってくれるという認識がどこかにあったんじゃないだろうか。実際に接していてそう言う印象は受けた。でも、ネット経由で仕事する限りは、そんなものは通じない。ましてや、相手は異国人。そういう人に、期待しても仕方ない。
もう一つは、(結局同じことだけど)自分から積極的に成果をプッシュすることが出来なかったのだろう。別段優れた成果である必要はなくて、ソフトウェアの簡単なバグを直したり、速度の遅い所を改善したり、そんなものでまずは良かったはずだ。だけど彼は、浮かれていてふわふわした印象も受けた。だから、最低限の成果を出すことが出来ず、結局クビになってしまったのだろう。
最近はグローバル人材とかいって海外とコミュニケーション出来る人材がもてはやされるし、ネット経由での仕事も多くなってきた。一方で昔ながらの「外国でビジネスしても上手くいかない」「外国人が思った通り動いてくれない」という嘆きも耐えない。だけど、そんな話を聞くたびに「日本人とコミュニケーションするのと同じルールで接していても上手くいく訳ないじゃん」と感じている。逆に日本人と接していると、「なんでコミュニケーションがそんなに適当なんだ」と思ったりもする。
仕事上で外国人と接する際のポイントは(自分の場合は、いわゆるアメリカ型で、アジア、アフリカ方面は知らないけど)
まあ、要するに、日本人同士なら「それは言い過ぎ」「きっとわかっているはず」と思っていることもしっかり表現しましょうということだ。ただ、これって、普段使わない思考能力を使うために、結構大変。予想よりも訓練が必要。自分の意識下に眠っているものを一生懸命掘り出していく必要がある。例えば、ソフトウェアを作成する際に「この仕様書通り作成して」と伝えると、その仕様書に書いてないことは、ほぼ達成されない。「数字は通常通り桁を合わせる」とか「エラーの出力は普段通り」と思っていても、はっきり書かないと応じてくれない。子供と接するくらいの気持ちの方が却って良いです。日本人だとバカにされてると感じるくらい。
日本人だとNoというと非協力的だと思われがちだけど、海外のきちんとした会社であれば、適切なエビデンスとともにNoということは、「問題を改善する積極性がある」と評価される。
その上で、
http://ayato.hateblo.jp/entry/20140129/1391004860
を読むと、「まあ、相手も悪いけど、この人も説得力のない資料を作ったんだろうな」と思っちゃう。伝えきれなかった方が負けって感じで。さすがにそれは言い過ぎかもしれないけど。
Wall Street Journalの記事を読んで(正確にはタイトルを見た瞬間から)、首をかしげた。
http://jp.wsj.com/article/SB10001424052702304299204579282771952593860.html
[26日の安倍晋三首相の靖国神社参拝で、日韓関係が近い将来に改善するとの期待は消えた。靖国神社参拝は、日韓関係改善に行動を起こすのを断固として拒否してきた、韓国の朴槿恵大統領の姿勢を鮮明に正当化するものだ。]
日本語記事の翻訳に問題があるのかと思い、原文を探したところ下記のようだ。
http://blogs.wsj.com/korearealtime/2013/12/26/abe-provides-a-lifeline-for-president-park/
原文を読むと、どうやら日本語訳の問題ではなく、元々論理の飛躍で始まっているようである。
[Any hopes of South Korea-Japan relations improving in the foreseeable future were dashed by Japanese Prime Minister Shinzo Abe’s visit to the Yasukuni Shrine on Thursday. The visit clearly vindicates South Korean President Park Geun-hye’s refusal to take measures to improve Korea-Japan relations.]
どうでもいいですが、安倍さんはそのままAbeで、朴さんはPark表記になるんですね。
vindicateというのは私には見慣れない単語なのですが、"vindicate hoge"で"hogeの正当性を証明する"的な意味のようです。
原文と日本語版の各パラグラフ構成も同じ様なので、著者が偏向している方なのかしら?
と疑問を持ったので、少し調べてみる。
[(筆者のカール・フリートホーフ氏は、峨山政策研究院・世論調査研究センターのプログラムオフィサー兼マンスフィールド財団米韓ネクサス研究者)]
同様に、英語版記事では、
[The author is a Program Officer in the Public Opinion Studies Center at the Asan Institute for Policy Studies and a Mansfield Foundation U.S.-Korea Nexus Scholar. Views expressed here are his own.]
失礼ながら私は聞いたことが無い団体に所属されている方のようである。
Karl Friedhoff氏の名前でGoogle検索してみると、氏のアカウントと思われるTwitterアカウントが一番上に表示される。
当該アカウントのプロフィールも上記団体となっているので同氏のもので間違いないのであろう。
ちなみにプロフィールによると場所がSeoulと記されている。
英語に混じってハングルのTweetがTimelineに載っている。
ご尊顔を見る限りでは欧米系の方のようですが、在韓でお仕事されているようですね。
こちらもGoogle検索してみると、
asaninst.org
whoisで調べてみると、
Domain Name:ASANINST.ORG
Created On:15-Jan-2008 08:35:29 UTC
Sponsoring Registrar:Megazone Corp., dba HOSTING.KR (R1832-LROR)
Registrant Name:The Asan Institute
Registrant Organization:The Asan Institute
Registrant City:Seoul
Registrant State/Province:Jongno-gu
Registrant Country:KR
Admin Name:The Asan Institute
Admin Organization:The Asan Institute
Admin City:Seoul
Admin State/Province:Jongno-gu
Admin Country:KR
韓国は韓国に都合よく(程度の差はあれど、時として日本は日本に都合よく)物事を論評する傾向があると常々感じています。
元のWSJ記事を見て米国が韓国側に近いことを言い出したのか!?、と思いましたがどうやらそうではないと。
韓国の団体に所属する人間が、韓国目線で好き勝手に書いていますと。
WSJの英語版記事のコメントを見ると、韓国系と思われる名称のユーザによるAnti-Japanな書き込みが見られます。
また、実情を知らないと思われる一般人も日本Disに加担しているようです。
逆に日本人と思われる名称のユーザが日本の立場を書いていたりしますが、少数ですね。
アーリントン墓地に行くのは問題なくて、靖国神社の何が問題なのかと。
いわゆるA級戦犯とされた人々がまずいんでしょうか。
というか、そんなにコメント盛り上がってないようなので、そんなに注目されていない記事なのでしょう。
ちなみに私個人は、靖国参拝について他国から文句を言われる筋合いは無いと思っています。
ですが、そう思うと共に韓国人を敵視/蔑視しているわけでもありません。
むしろ、同僚として働いたことがある個々人としてはスキルフルで勤勉だったりでネガティブな印象は持っていません。
が、韓国政府やその主張を妄信している一部民衆の言動については辟易しています。
靖国についての韓国(或いは中国)からの批判で、唯一合理的で考慮したほうが良いかもしれないと思えるのはA級戦犯とされた人々の取り扱いについてだと思っています。
しかしA級=極悪人という単純な分類でも無いですし、恣意的に侵略を扇動した人間を識別することが可能であるのなら靖国から分祀するのは理にかなっていると思います。
私は理系の人間で、歴史は義務教育レベル故無知な面も多々ありますが、客観的なエビデンスベースで合理的な批判以外は耳を傾ける必要は無いと思っています。