はてなキーワード: 募集とは
あの広告の絵単体でNG派はちょっとわかんねぇけど、まあ感覚の違いだろう。
編集部のコメントがアウト派も、それ日経は関係ねぇだろと思いつつ、コメントが時代に沿ってないなというのはわかる。
一番わかんねぇのは、「日経新聞は国連女性組織の規約に違反した!契約の問題!」派。
正直馬鹿じゃねぇかと思っている。
第一に、お前はその規約とやらを確認してねぇだろってこと。だって非公表だもの。
なのに、一方当事者がハフポストに流した情報だけで「国連が言ってる!違反したんだ!」って馬鹿じゃねぇの。
だいたい、誰の目からみても明白に規約に違反しているとわかるものだったら、ハフポストでのインタビュー時点で「こういう規約があって、このように違反しました」って言うだろ。
それだけで終戦じゃん。でもしない。それは、よく言って解釈違い、悪く言えば牽強付会な主張だからだろ。
そもそも具体的に掲載する広告基準に関する規約があるなら、それは日経新聞が外部に公開しているはずじゃん。
その外部に対して審査基準を隠す意味ないだろ、なんでわざわざ基準違反な広告を応募させるんだ。
もし仮にそんな規約を結んでいたならば、それを大っぴらに宣伝に使うだろ。
わざわざ自分を縛っておきながら、それを隠して他紙と競争する意味あるか?
オタクコンテンツ炎上事件が起きると、表現規制派 vs 表現の自由派でうんこの投げ合いが始まるけど、別にこれ、憲法でいう「表現の自由」の話じゃないんだよな。
それなのに、なんか基本的人権の重要な一部が毀損される深刻な事態が起きているかのような話になるから、わけのわからない空中戦になる。
どういうことだか説明するね。
そりゃあ、法的規制ができれば大金星として、成果を大々的に掲げて本とか記事とか書きまくるだろうけど、それができると思うほどのぼせ上がってはいない。
それにむしろ、法律によらず、SNSとか炎上させて圧力をかけて、相手が自主的に応じてくれたほうが都合が良いわけ。
1.法的規制と同様の効果を生じさせることができる。炎上して謝罪させたら、それを見た他の企業も炎上しないよう、自主的にやらないでくれるだろう
2.炎上させる相手を選択することで、自分たちが実質的に規制判断の基準の決定権を握ることができる。フェミニストのなかにはBL愛好家もいるので、法ができてしまうとむしろ困る。BL無罪のたわごとは裁判所では通用しない。
3.憲法上の問題を回避できる。規制法の制定は憲法上、著しい困難を伴う。「性的搾取」とか「性的に眼差す」とかのふわっとした根拠で規制なんかできるわけない。
そういうわけで、フェミニストさんたちは法規制を目指さず、集団で火付けをすることで実質的な規制を行うことを目指しているわけ。
表現に対して批判を行うことも、表現の自由の重要な一部なので、フェミニストさんたちが行っていることは、実にまっとうで健全な手段なのだ。
1.買って応援!
なぜなら、
1.買って応援!
→ とてもまっとうで健全な対抗手段であるが、宇崎ちゃんにせよ温泉むすめにせよ、これまで炎上して取り下げを強いられてきたものは、たいていがコラボ案件なのである。
コラボ案件は実施主体にとって、ないならないで別にそう困らないのである。むしろさっさと取り下げたほうが、いつまでも燃やされるより低コスト・低リスクなのだ。
→ フェミニストにうんこを投げても、チンパンジーじゃないから効果はない。
だいたい、フェミニストたちは社会に訴えかけているのであって、別にオタクと議論するつもりなんかないし、はじめから折伏できるなんて思っていないのだ。
→ フェミさんたちは言論の自由の上に立って批判をしているのであって、憲法上の問題を生じさせない手段でやってるため、はじめから議員の出る幕などないし、むしろ介入方法によってはそれこそ問題があるのだ。
まあ、フェミさん路線は票にならないよと知らしめる意味くらいはあっただろう。
今回、フェミさんたちがなぜ未だに何も達成できていないかというと、
→ しんぶん赤旗にだって広告欄はある。そして紙面にどんな広告を載せるかも、メディアの表現の範囲内だ。
広告に対する事後検閲を外部の機関に許してしまうと、メディアとしての自律性が危うくなるため受け入れ難いし、少なくとも高度に予期可能な基準を要求するだろう。
2.日経新聞が「あれは問題のある広告だった」と認めて謝罪してしまうと、広告主の顔に泥を塗ることになるため、できない
→ あたりまえ体操
3.講談社にとっては、あんまり講談社に抗議はきてないし、謝罪しても別にいいことないし、「広告出したい」「いいよ」「やったぜ」ってだけなので、文句を言われる筋合いがない。
要するに、主にターゲットにされてる日経新聞にとって、譲れない線を踏み越えてきているからなのだ。
なお、UN Womenとの規約に違反したんだって議論もあるが、以下の理由で非常に疑わしく思っている
1.少なくとも「3つのPをすべて満たさないと掲載しない」みたいな内容の規約だった場合、法務や経営陣が許すはずがない
2.仮にもしそんな規約を受け入れているのであれば、外部にむけて広告を募集するにあたって公表するはずである
そうしないと出稿企業から予測不可能なため、広告掲載にあたって毎回手戻りが起きてしまう
3.そんな規約を受け入れるのであれば、せめてそれだけ厳しい規約を受け入れましたよとPRするはずである
どうせ、具体的で予期可能な広告基準は合意内容に含まれていなかっただろうと推測している。
今後も何も、不満に思ったことにたいして批判を加えているだけなので、特に今回のことがあったからといって何も変わることなく、今後も不快なもの、不正義だと思うものに対して批判を加えていくだけだろう。
そのなかにしょうもないコラボ案件があれば、やはり相手は謝罪して引っ込めるだろうし、それが重なっていくことで、世の中の基準はゆっくりと動いていくだろう。
親から離れて暮らしているが、年々親に対しての嫌悪が強くなっていく
それくらい嫌悪感がある
特に父親が嫌いで、理由は小さい頃からすぐにキレて暴言を吐くからだった。
自分自身が気に食わないと「面白くねえ」「お前は気が狂っている」と連呼し不愉快を周囲に当たり散らした
体裁を気にする人間で、自分が昔、新卒で入った職場のパワハラで精神的に耐え切れずに仕事を辞めた時に
真夏の中汗だくで面接に行ったし、祈られる度に次こそはと頑張り続けた
けれどそんな事を知らないし、知ろうともしない父親は「早く働け」「どうして働かない」と言う
「もうこの親と付き合う事は出来ない」と自分から徹底的に距離を置く事にした
電話は基本出ない。メールは定型文で1行。書面は見る前に捨てる。
仕事は退職→就職活動を経て1年半程度で今の会社に入社出来た。
幸運にも環境に恵まれ、パワハラモラハラすら無く、上司や部下と和気藹々と仕事が出来ている
じゃあこの文章は終わりかといえばそうではない
何故なら父親は未だに自分に対して仕事を強いるという、おぞましいモンスターに成り果てたと言う結論があるからだ
必ず「仕事頑張って」をメールの文章に入れる。コロナが始まる以前からそうだったが、
このコロナ禍でもすべてにおいてあの男には仕事と言う言葉しか無い
何度も何度も「仕事を頑張って」「仕事を頑張って」「仕事を頑張って」と言う
コロナに罹らない様に日々身体に気を付けてだろうがこの低能ボケカスが脳味噌にウンコ詰めてんのか、と思いながら
自分は脳味噌ウンコモンスターに定型文一行をbotのように返信する
最早父親に何の愛情も無く、あるのは嫌悪感だけで生きているし、ずっとこのままなのだろうと思っている
最近では故郷(クソ田舎)でのステータスを上げたいらしく、「公務員の子供がいる」事を自分に求め始めた
なんとこのモンスター、今度は自分にメールで「公務員募集がある」と意味不明の地元(クソ田舎)の就職情報を送り出した
前述のように、自分は何年も前から上京し、そこで既に就職しているのである。年齢だって30代。
それなのにクソ田舎に戻れと。今いる仕事を捨てて、父親の望む仕事をしろと。
マジで「ボクちゃんの考えたステータスのための美しいストーリーの礎になれ」と言って来るのであるこの脳味噌ウンコモンスターは
自分が精神面で多大なストレスを受けた結果退職した事を、この脳味噌ウンコモンスターは一切覚えていない
その原因。逃げ出した業界を、脳味噌ウンコモンスターのステータスのために、もう一度受けろなどと寝惚けた事を言って来ている
純粋に自分の親はあたおかなんだなあ、と仕事中に何だか残念さを悟ってしまったからこの日記を書いた
もう何年も実家には戻っていない。
きっとこれからも帰る事は無いと思う。
母親とはそれほど仲は悪くないが、父親と一緒にいるのなら今後会う事は無いだろう。
自分は定型文botとして生き、今後も好きなように自分の人生を生きたいと思っている。
毒親自慢とか、こんなの毒親じゃないとか、自分はもっと辛かったとか、そういう意見はどうでもいいです。
親がこの年齢になっても子供をマジで縛り付けようと考えている事に耐えられずに書いただけなので。
客観的に見ておかしいでしょ。30代の子供の就職を決めようと思ってるとか気持ち悪すぎるんですよ。
後悔するとかそういうのも求めてないです。もう親子関係の修復を求めていないんです。終わりなんですよ全部。
自分の経験も照らし合わせて、色々と言いたい事、思った事もあるので、ちょっと書いて行こうと思う。
因みにこの話は、あくまで「某通販会社の従事者」目線で書いていますが、決して被害に遭われた方を責めるつもりはありません。
ただビジネスシューズを、試着することなく、通販で買うという考え方には、ちょっと疑問を抱かざるを得ないけど。
あと、今の「便利」が手にできているのは、そういう犠牲があると思って貰えると嬉しいです。会社の体制がもっとよくなればいいとは思うけどね。
自分は、その問題行動があった某通販の、倉庫での作業に従事していた立場になります。
配送員の勤務実態がどうだったのかまでは知らないけど、まあ、ルールでガチガチな辺りは、倉庫作業と大差ないんだろうな、と思う。
ただ誤解を招きたくはないけど、アメリカの会社だからと全部が悪いとは思わない。
日本の会社にだって「ブラック企業」って言葉が広がったように、ひどい体制の会社は多いと思う。(というか、大半はそういう会社だとも言われるけど)
個人的な感覚として結論だけ言うと、その通販会社に従事するという事は、「アメリカ企業と日本企業の、徹底的にダメな部分を、徹底的に煮詰めて凝縮した状況」に置かれる事になります。
その辺については、実際に目にした求人サイトの求人内容から、順を追って説明した方がいいと思う。
前提として抑えて欲しいのは、倉庫作業の運用や、倉庫作業員の募集は、その通販会社本体ではなく、その下請けの派遣会社が行う事になるという辺り。
勤務時間
8:00~17:00
9:00~18:00
10:00~19:00のそれぞれ実働8時間、休憩時間1時間(午前午後1回ずつ、昼食休憩)あり
8:00~19:00
9:00~20:00
10:00~21:00のそれぞれ実働10時間、休憩時間1時間15分(午前午後1回ずつ、昼食休憩)あり
複数の派遣会社があって、そのいずれもこういう募集を出してるわけです。
因みに、8時間労働の場合、実際は午前の休憩はありません。ある倉庫もあるらしいけどね。
この「求人の嘘」は、後々に地獄労働の悪夢を産むことになりますので、覚えておいてください。
さて、諸々の説明会やら研修やら済ませて、実際の勤務に入ると、色々と不思議な事が起きます。
既にご存じの方もいらっしゃると思いますが、その某通販会社は、「超最新AI制御」を売り物にしている会社です。
本当に「超最新AI」で、全ての運用を制御しているのなら、起こりうる筈がないバグです。
例えば、棚入れやピッキングに従事している人のところに、「梱包に従事する人が足りないので、誰か挙手しろ」と、上の人から言われます。
実際に挙手して、梱包の部署に行ってビックリする事になります。なんと、方々の部署から集められた黒山の人だかりが、その梱包エリアに密集しているのです。
その光景を目にすると、そのエリアを取り仕切ってる人(トレーナーとかリーダーとかと言う)に「流石に人多すぎなので、俺戻りますね」って伝えて戻ろうとします。
ところが、元居た場所には二度と戻れないという、その会社ルールがあるみたいです。というか、抜けたところに次々と穴埋めにように、人を入れていくやり方なんですね。
入って1~2か月くらいの間は、そういう事が何度も繰り返されるようになります。
そうなると当然、「人が足りない部署があるから」と声をあげられても、手を挙げる人は、入ってすぐの人ばかり。
「超最新AI」とは、まだまだ発展途上な代物で、人の流れを制御するまで進化していないという事なのでしょうか?
残念ながら不正解です。この手の「人の運用」は、全部人の手によって行われているのです。
入って3か月くらいになると、更に不思議な状況を目にする事になります。
その間でも、常に毎日のように、入社希望の説明会やら研修やらが行われていて、毎日のように新しい人が入ってきます。
ところで、ここでその倉庫の休憩システムについても説明したいと思います。
昼食休憩は、11:00から45分ごとに割り振られ、最終組は14:00に昼食休憩に入る事になります。
上の方で、出勤時間は8時、9時、10時と分かれていると記しました。
普通に考えたら、8時出勤が11:00~12:45までに昼食休憩に入り、9時出勤が13:15、10時出勤が14:00に休憩に入る、そういう風に理解されると思います。
所が、その考えは「某通販会社の倉庫ルール」としては甘いのです。それらの休憩時間は、全て8時出勤者にも適応されます。
ここで思い出してください。「8時間勤務者は、午前の休憩はない」
つまり、8時出勤者が14時に休憩に入るとしたら、6時間ぶっ通しで働く事になるのです。ちょっとしたパートタイマーだったら、1日分の勤務時間です。
しかもその通販会社の食堂も売店も、14時になったら食事の大半が売り切れになってる事もザラにあります。
8時出勤者は、昼食どころか、朝食の準備も出来ないような早朝に出勤しているのにも関わらず、です。
その件について、エリアのリーダーに苦情を言ったら、「俺らはずっとそのやり方でやって来てるんだよ!」としか言えません。
外資系企業の従事者の言い分じゃありませんね。モロに悪しき日本企業にどっぷりつかった、社畜の言い分です。
因みにそのリーダーは、割と好きな時間に職場を抜け出して、喫煙所に顔を出しているような人物です。
そのようなシフトを、超最新AIが組むわけがありません。モロに人の手による事がバレバレです。
それが、「超最新AI制御を謳ってるけど、実際は人の手によって運用されてる」と確信した理由です。
では、何故そのようなゴミのような勤務体系になっているのか?
まず第一に、「9時出勤者、10時出勤者を募集してない(集められない)」こと。
第二に「倉庫作業の運営会社が、とりあえず形だけでも数字を出すために、酷いのをわかってて、そういう勤務体系を強要している」こと。
大体この二つだと思います。
それを押し通すのだとしたら、「超最新AI」なんか、モロに邪魔でしかありませんよね。
AIは優秀ですから、「上が望む数字」よりも、「勤務者のQOL(生活や人生の質)を壊さない事を前提にした勤務体系」を優先させます。
当たり前です。(だからこそ、AI万能論とも言われるわけだし)
ただ、特定の時間帯に人数が足りないのなら、その時間帯に来れる人を集めればいいだけの話。
「今その時間帯は人が多いので募集していません。この時間帯なら空きがあります」と言えばいいだけの話なんです。
ところが、募集する派遣会社も、某通販会社からは「採用する人数のノルマ」だけが課され続けているのでしょう。
そのノルマを達成する為には、応募する側の希望を融通し続けるしかない。
おそらく通販会社からは、「人数のノルマ」はあっても、「時間帯のノルマ」は指定されてなかった。
それからも「人が余ってる時間帯」に、どんどん人が集められ続ける始末です。
しまいには、残りの1時間半を休憩室で待機しろ、なんてハメになった事もあります。
そしてその間にも、毎日のように説明会や研修が続けられ、新しい人は入ってきています。
「人が足りないところに行ってくれ」と言われて向かったら、14時休憩に回ってくれと言われて、ブチギレてリーダーとケンカしたこともあります。
まあ、他にもその倉庫では色々あったわけですが、俺が経験したことはとりあえず以上かな。
その通販会社の、配送員の暴言のニュースを聞いて、倉庫の方でもダメな部分は多かったけど、配送の方も似たような事が多いのかな、って思いました。
勿論、末端作業員がそういうダメ行動をしていい理由にはならないわけですが。
ただ皆さんに知って貰いたい事は、皆さんが受けてる「便利」の多くは、そういう「日本とアメリカの、ダメさ加減を煮詰めて凝縮した環境」と、その犠牲で得ているものである
ただそれだけだったりします。以上です。
某氏が書いた記事から色々なところで似たようなことが記事になっている。
まぁ前からかかれていたのかもしれないけど、俺が若かったせいかどうかしらんけど、俺のアンテナには引っかかってなかった。
何かと注目度の高い某氏だから色んな人が読んで共感したというだけの話なのかもしれない。
僕は割とやりたいことは片っ端からやってきたので、この手の感情を抱くのも早かった気がする。
25歳くらいには楽しいことはやりたおした気がしたし、30歳くらいには人生あれくらいまでしかできないんだろうなとも思った。
それは息子がいるからということもあるかもしれないが、多分もうちょっと別の話。
前に何かで読んだことがあるけど、例えばミュージシャンなどは自分の限界を悟ると講師になりがちっていう話。
説教おじさんも似たようかな話かもしれないが、まぁマウントを取りながら自分以上の成果を上げる人を育てたいというのは、ある意味本能なのだろう。
そもそもなんだけど、右肩上がりの成長中のグラフであることは大事だし楽しい。
自分のあらゆるステータスを数値化するもよし、定性的にふわっと感じるもよし、それが実感できる状態であれば、生活は日々彩りを増す。
中年現象で無味乾燥を抱いている人の多くは、この成長を自分の中だけにしか向けていない気がする。
ゲームをやりこむなんてのもあるかもしれない。
ただ、若い頃から持たざるものは、そうやって誰かの、何かの成長に自分を重ねて生きているのではないかと思う。
自分が強い人ほど、自分の成長だけをみてきたひとほど、中年現象にぶち当たるのではないかと思う。
あんま細かく書いて自慢話やマウントと取られても嫌だけど、まぁだから中年現象が打ち消される。
結局のところ、色々できて頭が良くて好奇心があって行動力がある人が、その能力にかまけてふわっと生きてきて、それが充実した日々と感じ結婚なんか別にと思っていたことの限界でしょ。
長い思春期が終わっただけだよ。
例の「見たくない表現に触れない権利」、新しい世界の潮流だという声もあり、わかるようなわからないような
それは、私が見たくないのは「子ども」であり「子どものいる家族」だということ
新聞広告どころか世界を呪いたくなるくらいそこらじゅうにある風景
少し結婚の遅かったわたしは、同世代の夫との間に子どもがとても欲しかった
自分のためにも、夫のためにも、自分たちを育ててくれた両親のためにも、子育てをして社会にも貢献したかった。
人並みの子育ての苦労もしたかった。自分の血を分けた子どもというのが、どれだけかわいいのか、小憎らしいのか、育てることが大変なのか、わたしも経験してみたかった
でも、結婚後しばらくして始めた不妊治療の結果、夫婦関係も壊れそうになるくらい、長い間つらい思いをしてお金も使って、それでも最後は子どもをあきらめざるを得なかった
子どもが欲しかった。でも、どうしようもなかった。結婚が遅かった、備えてなかった自分たちにも責任はある
でも、両親に孫を見せられなかったことも、自分が子育てを経験できなかったことも、もう終わったこと
そして、残りの人生
上の階にも元気な子供たちが暮らしていて、日中は賑やかな足音が聞こえてくる
羨ましい
妬ましい
広告や寄付の募集で、ご飯がお腹いっぱい食べられないかわいそうな子たちがいると言う
そんなことは言えない
あさましい考えなのかなとも思う
一度、子どもがいない高齢の方に相談してみようとしたこともあった
間違ってるかな
配信者の切り抜き動画が人気だけど、投稿者の中には趣味とは思えんペースで上げてる奴がいる。
業者がやってるという噂は聞いてたが、クラウドワークスで本当に募集されてて、それがまあビックリするほど安い。
https://crowdworks.jp/public/jobs/7489859
ぶいすぽっていう結構有名なVtuberグループの切り抜きだと。
10本で3000円て。カット&テロップで1本300円かよ。安すぎwwwwww
募集要項にこんなことが書かれてた。「テロップでさえも」って、切り抜きの要はテロップだろw
つーかどこから切り抜くかもワーカーが決めるんか?
切り抜き動画ってどの場面を選ぶかで9割決まるんだが。労力の大半はそこにある。
長時間のアーカイブ確認して編集して、それで300円なら割に合わなさ過ぎだろ。
まあ割に合わない単価でも応募が集まっちまうのがクラウドワークスだが・・・。
と思ったら別の募集で「面白シーンをメモする仕事」ってのがあった。
そっちで集めた情報を元に、切り抜く箇所は共有してもらえるってことか?
ところで、Vtuberの配信にはタイムスタンプ職人ってのがいて、見所を時間でメモしてくれてる。
そういう善意の行動が、切り抜き業者にいい具合に利用されてそうだな。
https://crowdworks.jp/public/jobs/7462280
こんな切り抜き募集も。
ひろゆきの切り抜きといい、ロクでもない情報を拡散するなよな。
粗悪なコンテンツでも大金が稼げちまうんだから、そりゃクラウドワークスで募集もするわな。
あーヤダヤダ。
募集を掛けたら大量に応募が来た
その中で経歴とかもいい感じの女性がいた。課長は、これいいな、とか言って部下1,2に見せる
部下1が言った
「この女性嫌です、取らないで欲しい」
「なんで?」
「電車で通勤してる時に、いつも座ってる隣に鞄置いて席2つ占領してる有名な女。毎朝見ます。そういや最近見なくなってましたね。満員なのに一人で2席使ってずっとスマフォしてるからよく車両のイツメンから睨まれてるけど素知らぬ顔ですよ」
「そうなんだ、じゃあこの人なしで」
それ以外でも
「この人●●の店員さんだ。顔時々見ますね。態度は普通ですよ」
「あ、前の会社××なんだ。友人が××だから評判聞いてみますわ」
などなどで、ふるい落とされたり残ったり…
現代日本のフェミニズムは、傷ついた人間が慰め合うセラピーの看板のような機能を持っていると言える。
弱者が慰め合える駆け込み寺、いわばフェミニス堂があること自体は良いことだ。
エンパワメントやシスターフッドという自己肯定を重視した精神的な言葉が最近人気なのもその一環かもしれないし、そこまで前向きな気持ちになれないからとにかく苦しみや怒りを吐き出させてくれという層だって駆け込み寺には居場所がある。
だが、「セラピーとしてのフェミニズム」と「学問や言論としてのフェミニズム」が分離されていないために、言論としてのフェミニズムの信頼度が著しく弱まっている。
セラピー面も学問言論面もひと固まりだから、フェミニストはメンヘラだとか、他人の幸せを許せないだとか、ミサンドリストでセックスヘイターのジェンダークレーマーだとかの批判に繋がってしまっているのだろう。
私自身も精神疾患持ちなので、精神が弱っていることを批判する気はないのだが、セラピー的な語り合いと、学問的討論がごっちゃになっている状況は大いに問題視している。
(追記:↑ここで私の精神疾患に言及したのは、私も議論の場で当事者性を武器として使おうという態度でよくなかった。反省する。)
本稿で主張するのは、「冷静な研究者としての立場」と「傷つき怒れる当事者としての立場」は、兼任すると問題が生まれるのでどちらか片方だけの立場に立つべきだ、ということだ。
たとえ学位や免許を持っていても、冷静になれない話題については傷が治っていない当事者だから、理論と議論を使いこなせる研究者ではなくあくまで苦しむ当事者個人として発言した方が良い。
本論前に、何がOKで何がNGかおおざっぱに切り分けておこう。
フェミニズムという看板のもとに、傷ついた人々が集い、辛さや怒りを語り合い共感しあい心を癒そうとする様子は、当事者会に近い。
当事者会自体は、様々な依存症や障害、事故被害者などについて行われており、有用なセラピーと言っていい。
だが「セラピーとしてのフェミニズム」の問題は、当事者会で癒される患者と、当事者会を監督したり理論を語る研究者がかなり重なってしまってるということだ。
要するに、当事者として治療を受けるべき傷を抱えたままの人間が、セラピスト役と教師役もやってしまっているという問題が、「セラピーとしてのフェミニズム」にはある。
だが、SNSのそこら中で行われている「セラピーとしてのフェミニズム」当事者会の多さに比べて、監督できる冷静な研究者は全く足りていない。
普通の当事者会やセラピーは、福祉や医療や心理の専門家によって研究と理論化がされ、社会に対して有用性が主張され、会の時にはその場にいて見守ったりもするはずだ。
傷ついた当事者たちの語りは、しばしば自己中心的だったり理屈が通ってなかったり乱暴だったりするが、それは回復に必要な心の解放だ。
それがそのまま社会への要求として世の中に出されたりはしないので、当事者会で語ったことが間違ってるなんて責任を問われることもない。
客観的な専門家が当事者たちの感情吐露を分析して理論化した上で、必要な部分は社会に訴えるようになっている。
だから、普通の健全な当事者会セラピーは、傷ついている当事者が冷静さを求められたりはしないし、当事者がヤバいことを主張していても研究者の評価が下がることもない。研究者が監督しているから当事者同士の会話が先鋭化するエコーチェンバーも防げる。当事者の要求は研究者が整理したうえで一般社会に伝えるので、外部の一般人が当事者の過激すぎる主張を直に聞かされて悪感情を持つこともない。
全てが完全に徹底されているわけではないが、それでも、当事者会セラピーで語り合う患者とそれを監督する研究者の間に線が引かれていることで、ある程度は弊害の抑制ができている。
しかし、「セラピーとしてのフェミニズム」では、患者、監督者、研究者の区切りが曖昧になりやすいので、普通の当事者会セラピーでは減らせる弊害がモロに発生しているのだろう。
たとえばフェミニストが「トーンポリシングはやめろ」と主張したことに対し、「議論や説得において言い方ってのは大事だろ」と反論されているのをよく見るが、あれも、内輪の癒しセラピー的な感覚と対外交渉議論の感覚がごちゃまぜになっているせいだ。
「私はいま苦しすぎて言葉を選んでいられないのでセラピー患者として気持ちをぶちまけてるんだからトーンポリシング(言い方警察)するな」、という話なら真っ当である。
「私は冷静を保ち、言い方や内容にしっかり気を使うから、議論として発言を真面目に聞いてくれ」、というのも真っ当である。
だがそれを同時にやろうとする、「自分はセラピー的に感情をぶちまけるが聴衆は真面目に聞いてくれ」というのは無法な要求だ。
せめて、セラピーを監督する冷静な研究者に向かってぶちまけて、その研究者が理屈の通らないところを補助し冷静な言い方に直して議論の場に持っていくという形にしなければいけない。
なのにフェミニズム議論では、何もかも一緒くたになりがちである。
臨床心理士やカウンセラーや看護師助産師になりたがる人間はしばしば自分が精神不安定を抱えているというのは、統計はともかく実体験としてはよく聞く話である。
博物学系でも、たとえば動物学者はだいたい動物好きで、心情的には動物を保護したがるだろう。
だが、そこは資格団体ががんばってたり教育だったりで、臨床心理士や精神保健福祉士はある程度の信用をしてもいいだろうとなっているし、動物学者も後先考えない動物愛護活動をする人は目立ってないわけだ。
むしろ、愛護派の過激な主張の角を取って一般社会的に可能な動物保護のやり方を訴えたりしていて、それはまさに、感情的になりがちな当事者の語りを、研究者が自分のところで一度止めて丸めて社会に伝える、当事者会に対する医療や福祉関係者の立場と近い。
だから、臨床心理士や動物学者などの学問的信用はまあ保たれている。
ところがフェミニズムや一部社会学は、理論家や研究者が、傷ついた当事者と同一人物だったり肩入れしすぎたりするせいで、冷静な監督者のいないまま野良セラピー的な語りあいを続け、当事者の悲痛な心情吐露ではあるがそのまま社会に要求するには妥当性に欠ける内容が研究者の学問的立場から主張されてしまっている。
フェミニストはメンヘラだとか他人の幸せを許せないだとかミサンドリストでセックスヘイターだとか言われてしまうのはこのせいだ。
それにもかかわらずフェミニズムの大義名分が世界中で力を持ち、フェミニストの要求の内容を精査して妥当性が十分な時だけ応じますという態度は悪だと指弾されるのが、本当に良くない。
ここで断言しておくが、メンヘラも、他人の幸せを許せない人も、ミサンドリストもミソジニストも、セックスヘイターも、楽しく生きてよいし好きに発言してよい。当事者会で同病相憐れむのだって、傷ついた人間には大切だと思う。
過激な思想やトラウマは緩んだ方がいいとは思うが、それもあまりに大きな加害に繋がらないのであれば自由だ。
ただし、その好き勝手な発言暴言はあくまで傷つき冷静さを欠いた人の胡乱な言動として生暖かく聞き流されている方が、周囲にとっても当人にとってもよいはずだ。
弱者の声は社会から無視されるべきではないが、そのままでは妥当性が低いので、客観的な研究者が集積して適度に理論化と穏健化した上で世の中に訴えるべきだろう。
フェミニズムが、弱者に肩入れしようとするあまり病んだ当事者発言をそのまま重用したり、著名な研究者が「冷静さを保つために私の当事者としての感情を一時的に抑えよう」という努力をおろそかにしているのは、誰にとっても不幸である。
辛すぎて悲鳴を上げざるをえない当事者と、冷静で他者と対話可能な研究者の弁別は、完璧でなくとも努力する価値がある。できたぶんだけ弊害が減るはずだ。
一つ、わかりやすい事例を挙げる。
フェミニズムやジェンダー学周辺で、セラピー的機能と学問・言論的機能が混在することの弊害を私がはっきり感じたのは、朝日新聞運営の『かがみよかがみ』である。
『かがみよかがみ』は読者投稿エッセイをメインコンテンツとするWebサイトだ。
「私のコンプレックスを私のアドバンテージにする」とか「私は変わらない、社会を変える」とかをコンセプトにして、女性の自己肯定感の爆上げを目指すメディアであることを謳い続けている。
18~29歳の女性からのエッセイを募集して、編集部がチェックして載せている。著名人や契約コラムニストの連載もある。
そして投稿者を「かがみすと」と呼び運営ボランティアを「ミラリスト」と呼んで連帯感を出し、若い女性同士で肯定しあえるコミュニティを作ることも意図しているようである。(かがみすとは今もしっかり使われているが、ミラリストはTwitterで検索してもほぼ出てこないので今も使われてるかは外部からは謎)
二年くらい前に数回燃えたが、扱っている内容の割にはてはで話題になる回数は少ない気がする。はてなとは読者層が違うのだろう。
上野千鶴子さんに質問「ベッドの上では男が求める女を演じてしまう」 | かがみよかがみ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/mirror.asahi.com/article/12881008
フェミニストでも、守られたい。フェミニストだから、守りたい | かがみよかがみ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/mirror.asahi.com/article/13432941
これの上の記事に関わっていたコラムニスト(かがみすと)が、謝罪をしつつかがみよかがみを批判したnoteを全三回書いていたのだが、その第三回と、そこから辿れる記事類を読み、フェミニズムがセラピーと言論を区切らずやっている弊害はあるな、と強く感じた。
上野千鶴子氏座談会のセックスワーカー差別炎上とかがみよかがみコミュニティの雰囲気について(下)|滝薫
https://note.com/hannnahkuku0819/n/n6514127ed85a
私はこれを読んだ時、伊藤編集長があらゆる批判に応じないのもわかる、といっそ清々しささえ覚える形で納得してしまった。「セーファープレイス」を構築しようとして、内部を守っているのではないかと思った。
(略)
『かがみよかがみ』を必要としている利用者はいる。それはわかっている。私も、エッセイを投稿した後の”共感”と”褒め合い”によって自信がついた一人であることは変えようがない事実である。その価値を認めていても、『かがみよかがみ』の未来に不穏さを感じてしまう。
『かがみよかがみ』が目指すのは、あくまで女性の自己肯定感の爆上げである。正しさではなく、自己肯定感である。
それも、明言はしていないが18~29歳の女性だけを狙っているだろう。
若い女性たちがエッセイで悩みを語り合い、書き手同士のSlackか何かでも褒め合い、お互いが何を言っても原則として批判しないし自虐もしない。まさに当事者会でありセラピーのやり方である。
フェミニズムやジェンダーなどの内容が多く扱われているが、それはあくまで自己肯定感爆上げの道具なので、理論的な正しさを保とうとして心が苦しくなってしまうようなら、正しさを追求しなくてよい。
エッセイ投稿の年齢制限も無い方が「正しい」のはわかってるだろうが、年上の説教エッセイや愚痴エッセイが載ってるサイトは鬱陶しくて気持ちよくなれないという若者の本音を慮って、微妙な理屈をつけて年齢制限をかけていると思われる。
投稿者をかがみすとと呼んで内輪感を作るのも、その繋がりで孤独が癒える人がいるからである。そういう内輪感にウエッとなる人もいるだろうが、そのタイプの人は他のどこかで癒されればよいというスタンスだろう。
伊藤あかり編集長のモットーらしい「全ての人を満足させようと思ったら、一人も熱狂させられない」とも合致する態度だ。
傷ついた若い女性のために、正しさではなく自己肯定感爆上げを目的とした当事者会セラピーの場があること自体は、良いと思う。
だがそれが、朝日新聞運営メディアとして広くネットで広告され、上野千鶴子や石川優実を企画に呼び、ヒコロヒーなどの連載があり、エッセイ投稿者もジェンダー学やフェミニズムで多少の理論武装をして識者っぽい人もたまに言及するとなれば、そこはもう言論の場となってしまう。苦しい内面を安心して吐き出せる、責任を負わなくていいし怒られもしないセラピーの場としては相応しくない。
なのに、そこが曖昧に混ざった立場で『かがみよかがみ』の文章は発表され続けている。
そして、これは、インターネットにおける様々なフェミニズム活動についても近いことが言える。
最後にもう一度まとめる。
傷ついた当事者同士が慰め合うセラピーの看板としてのフェミニズムと、冷静さと客観性を保つ学問や研究としてのフェミニズムは、分割しておく必要がある。
現在の日本では、セラピーの場としてのフェミニズムと、学問としてのフェミニズムが、ごちゃごちゃ混ざっている。
心が乱れてフェミニズムセラピーを求める患者と、冷静であるべきフェミニズム研究者が、ある程度重なってしまっている。
この状況を解消しないと、世の中の幸せにはつながらないだろう。
最近webtoonクリエイターの募集よく見るけど、何でどこも脳死で異世界ファンタジーばっかり作ってるんだ?
確かに異世界転生ファンタジーの人気作があるっていうのは分かる
けど娯楽って「色んな種類の中から選べる楽しさ」があってこそじゃないの?
実際海外産でランキング上位の作品って、歴史物とか喧嘩アクションとか恋愛物とかホラーとか、色々バラエティ豊かじゃん
俺もそう
それに人気作の模倣を大量に作って、全部が大ヒットすると思ってんの?
「大正時代の和風剣術アクション」を大量に作りましょう!ってやってるようなもんで
でも『鬼滅っぽい何か』が大量につくられたとしても、
よくTwitterを見ていると中学受験で辛い思いをした、貴重な遊びの時間を勉強に充てて苦しい思いをした、というネガティブな話ばかり流れてくる。
生存バイアスの逆、というものはあるのだろうか、苦しい思いをした人の話ばかり流れてくるが、少しの才能があれば別に何も大変なものではない(ちょっとお金がかかるくらいである。)
私個人としては、中学受験は全く苦労せずに地域トップの中学に合格したし、そもそも地元の公立中学に行きたくなかったし良いこと尽くしだった。
中学受験するより公立から優秀な公立高校行った方が大学受験良いよね〜なんて話も聞くが、そもそも大学受験目的で中学受験をしていない。むしろ高校受験も無いから中学時代はずっと遊び呆けることが出来たし、内申なんてものも気にしなくてよかった。中学3年時点で下位20%くらいの順位だったが、国立医学部にも合格した。流石にずば抜けて優秀ではなかったので中堅どころだが…。
田舎のことを全く知らない都会の人が都会の公立中学を見て底辺を語るなら笑ってしまう。
なんてことを書いているとやっぱお前中学受験したせいで性格悪いじゃんと言われてしまうのでこの辺にして
ではそもそも中学受験するには本当に苦労して勉強づけの日々を過ごさないといけないのか?
そもそも中学受験をしてまともな中学に行く人間なんて、大抵小学校のクラスじゃ1番のちっちゃな頃から優等生で、他の人が2時間かかる学校の宿題を15分で終わらせられたじゃないか。その余った時間を余分な勉強に充てているだけだ。
週に何日か塾には通わないとは行けないが、他の人がサッカーや習字やピアノの習い事をしている時間をちょっと塾に割かないといけなくなっただけだ。(もちろんそれらを習ったまま受験する人もいくらでもいるが。)
たまたま習い事の選択肢として、Aちゃんはピアノとそろばん、Bくんは水泳と習字、私は塾という選択をしただけである。今になってピアノを弾ける人カッコいいなあって思うけどね。
とは言っても、6年生になれば土日は潰れてゲームをする自由時間はたくさんあるものの友達と遊ぶ時間は中々確保出来ず、1年ほどは本腰をいれて勉強しなくてはならない。
ただここで勉強した分、高校受験する人が中学3年の時にたくさん勉強していたタイミングでひたすら遊び呆けていただけなのだ。
中学受験は極論、受験のタイミングが小6にあるか中3にあるかという違いでしかない。
受験科目に英語も無いし内容も複雑でないし、なんなら高校受験より楽だと言っても過言ではない。(いや、流石に過言だ。ただ高校受験における内申点とかいうゴミみたいな制度を聞くと、やはり過言ではないのでは…?)
失敗した時に浪人が出来ないのも同じだし、最悪失敗したら公立中学に行くという手がある中学受験と違って、高校受験は失敗したら詰んでしまわないのだろうか。二次募集の高校に行くのと公立中学に行くのとでは流石に意味合いが違う。
私が「中学受験をしたんだ」と言うと、「そっか、大変だったんだね〜」と哀れみの目で見て、中学受験をせず大変な思いをしなかった自分を肯定するのを辞めて欲しい。
私だって大変な思いはしていない。
※
私の地域は違うのだが、関東などでは?私立中高一貫校は土曜日にも授業があるのが当たり前らしい。それで「大変だったんだね〜」と思うらしく、大学に入ってから大層驚いたのだが、それならば仕方ない。
少し長いが勘弁してくれ。
俺は2年前に初めてできた彼女と別れ、そこから一切交際して来なかった。毎日自家発電の日々だった。
社会人になり性的な出会いが欲しいなって思い、^マッチングアプリでワンナイト希望の女子を探していたんだ。
んで登録してしばらく探してたら、ちょうど住んでる近郊で募集してる女性がいた。歳はほぼ同じ、実績もあり、サクラじゃない感じだった。
すぐいいねを押して、会いたいですってメッセージを送ってみたんだ。
するとあっさり、
と返信が返ってきた。
正直、返ってきた瞬間、めちゃくちゃ不安だった。
お金の心配とかじゃなくって、本当にやっちゃっていいのか?あまりにもあっさりしてないか?俺はやりたいからメッセージを送ったんじゃないか?
頭の中がグルグルした。
なんか分からん罪悪感に見舞われた。
結局その後、僕から
「ごめんなさい。今日は無理になってしまったので、また後日募集している時にお願いします」
って返信した。
多分、女性付き合いが少ないが故に、正しさが分からなくなってると思う。
本来は交渉に素直に応じ、やって、解散が普通で、僕はその普通に順応する事ができなかったと思う。