はてなキーワード: 一方通行とは
2Dアクションゲームの要素で自身の気になるものをピックアップ。
現実に落とし込み、それが「あったら欲しいか」、「どれくらい良いか、悪いか」を考える。
これは自身の視界、知覚できる景色の範囲内と考えるなら、元からある概念なため有り難みは薄い。
ただ、俯瞰視点の能力は、外的要因を把握しやすいという点で便利なのは間違いない。
厄介なのは、スクロールが一方通行だったり、スクロールの際に読み込みが入るタイプだ。
ボタンの強弱で高さを調整する能力は、持ち合わせているため除外。
ここでは、ジャンプ中に方向キー入力で距離を調整できる能力について考える。
マリオのようなジャンプが重要なアクションゲームでは、皆無で操作の快適さが大きく変わってくる大事な要素といえる。
オプションで2段ジャンプや、壁を利用した三角飛びなどもある。
アクションゲームでは大事な要素だが、いざ現実になると日常生活では使う場面がほぼない宝の持ち腐れ。
仮にあるとして、現実の人間のジャンプ力では、使う場面があっても有効活用できない。
実際、ゲームでもジャンプ制御がないものは多く、この場合はレベルデザインの方で調整して支障が出ないようにする。
つまり、私たちの住む町などは、ジャンプしなくても進められる世界ということになる。
ライフ制のアクションゲームでは、無敵時間を設けないとヤバいことになる。
例えば接触ダメージは、すぐさまその場を離れないとライフがどんどん減っていく。
これは、能動的な要素ではないが、現実にあればかなり有り難い。
「泣きっ面に蜂」という諺はこの世からなくなるかもしれない。
ただ、このテのアクションゲームには、無敵時間を利用したゴリ押しを防ぐために「怯み」や「ノックバック」という要素がセットでつくことがある。
これが原因で、落ちたら即死の穴に吸い込まれる事例が多発した功罪がある。
日常生活では、ノックバックや怯みが原因で落ちるような場所はほぼなく、無敵時間を享受できると推測できる。
ただ、煩わしく感じることは多いかもしれない。
道中に回復アイテムや、パワーアップアイテムなど、進行を助ける要素。
まず回復アイテムだが、食べ物や医療キット、ゲーム独自の不思議なエネルギーなどがポピュラー。
例えば悪魔城では、壁の中などに回復アイテムの肉が埋まっていることがある。
しかし、現実でそれは衛星面で大きな不安があり、保存状態にも疑問が残る。
私たち人間の胃袋がどこまで丈夫かは個人差があるが、それを考慮しても道端の食べ物を拾い食いするのは抵抗がある。
なので、ここでは回復キットと仮定する。
ライフを失う場面が現実で頻出はしないが、危険に溢れているのは確かなので、緊急時を考えるなら回復キットの存在は有り難いか。
しかし、私たちの体はそこまで単純に出来ていないため、よほど万能でもない限り回復効果はそこまで期待できないかもしれない。
アクションゲームのパワーアップアイテムは、単純な運動能力アップ、攻撃判定の強化、サブウェポンの追加、一定時間無敵化...まあ色々。
現実でアクションゲームのようなパワーアップをしたとしても、日常生活では活かせない。
強力で欲しいと思えるものは制限があり、大事な場面で役に立たないということも推測できる。
スポーツのときには有り難いが、ドーピングに含まれるかどうかまで考慮しないと駄目だろうか。
一回死んだら終わり、ということがなくなる。
そのため、残機があるアクションゲームは、相応の難易度なことが多い。
そんな殺伐とした世界でなくとも、「何回かは死んでもいい」というのは強力。
残機を考慮して、相応の無茶ができるともいえるので、立ち回りが良くも悪くも変わってきそうだ。
ただ、死んだらその場で復活するパターンならともかく、チェックポイント系の場合は若干面倒か。
というより、恐らく私は同じ場面で死んで、最終的には残機を0にするだろう。
20代の頃から落ち着きたくて仕方がないアラフォーのオッサンが女関連でしくじった、そんなつまらない話。
見た目だけは雰囲気イケメンと言われるが中身はコミュ障、「誠実」といえば聞こえはいいが実態はいい歳こいて未だに直球勝負しか取り柄のない、馬鹿正直でしかない。
そんな俺がこのGW、またしてもコクって断られたと。
相手はちょい年下。
数年前に趣味の集まりで出会い、以来時々2人で遊んだり、最近はLINEで楽しく盛り上がっていたのだが・・・
結婚を前提にと俺が切り出した次の瞬間、彼女から言われた言葉を、俺は一生忘れないだろう。
「えっ!?来ると思わなかった」
明らかにここから逃げ出したいオーラ全開のまま、更に彼女の言葉は続く。
「増田さんとは何回か2人で遊んだけど、別にそれだけで、単なる友達だと思ってたし・・・」
「私も家で親から色々言われるし、だから増田さんが結婚焦るのも分かるよ」
ここまで聞いて「そんな事当たり前じゃないか!」と言ってやりたくなったけど、グッとこらえて
「わかった、わかったさっきのナシ!そしたら今までどおり友達としてやってくって事で」
と収めた。そうするしか無かった。脈無さ過ぎにも程があるだろ。
ちなみに彼女は来られることに慣れてないわけじゃなく、この間まで別の男と付き合ってた(そういう雰囲気を察せなかった間抜けな俺は確実にコミュ障)という話をされる展開に。
例によってその男は最初会った時からすごく感じが良くて、押しが強くて「それで来るだろうなーと思ったら来た」と。
まあ喧嘩もいっぱいしたとか言ってたっけ。
こんな話をされるとか、墓穴掘った感じである。
「増田さんはすごく話し易いんだよ、同じサークルの○○さんには話せないかなってことでも、増田さんには話せる」
と言ってきたが、それでなおかつ友達のままでいましょうというのは、正直な話
「あんたは都合のいい男だったよ」
と言っているようにしか聞こえないわけで。
以下は完全な愚痴。
コミュ障な俺の交際経験なんてそれこそ毛が生えた程度でしかないのだが、そうした経験から導き出される、俺の一番コミュ障な部分は「好きになった女をその気にさせられない」ことに尽きる。
要するにデートでも日常会話でもいいけど「お前は俺にとって友達以上の存在なんだぜ」という、良い意味でエッチなメッセージを、ドン引きしない塩梅で、相手に合わせて伝えていくということが、そういう「イケてる言動」が破滅的にできない。
つまり恋が始まった所で、どこまで行っても独り善がりの一方通行であり、間違っても想いを交わす、或いはお互いが想いを交わしたと勘違いするレベルには至らない。
一応、一回だけ上手く行ったことはあるけど、ほどなくしてその女は他の男に寝取られ、後処理で死ぬ思いをした。
そんな事もあり、恋愛が全く綺麗じゃないものというのは心底理解しているつもりだが、更に俺の場合、恋愛というのは得られるモノ以上に負担が大きすぎて、気持ち的に辛さしか残らない。
というわけで、俺にとっての結婚は完全に相性の問題、世間でいうところの「ご縁」、もう少し科学的な言い方をするなら「確率の問題」になってしまう。
そこでは恋愛感情や、ましてやキスやセックスなど、かなり優先順位が低くなる。
それくらい割り切らないと、多分俺は一生結婚できそうにないから。
それに、くっついた後で芽生える想いは必ずあると思うし。
そう考えるとお見合いっていいよな、独力で女をハントするのに比べたら殆ど据え膳上げ膳だもんな。
俺はもう少し独力で頑張ってみるけど。
とにかく、今後は紳士的に会話をした結果のフィーリングとか、第三者の「増田と△△さんは合いそうだよー」とか、万に一つではあるが相手から近づいてきたりとか、そういう数少ないチャンスを狙う方向で行こうと思う。
それに対するみんなの反応が気になるのも当然のことだと思う。
面白いと言ってくれたら素直に嬉しいし、
気分が悪くならない、と言えばウソになるが、
そのコメントにより反省し、次はより大勢の人が不快にならないような動画作りに励もうと思う。俺の場合はな。
情報発信していたという報告だ。
だから何、と俺は言いたい。
「情報が古い」「Wikiにあった」「知ってた」「新しい情報だけ載せろ」
うん。うん。うん。うん。
俺の中では撮れたてピチピチの最新情報のつもりだった。
既存動画との重複を避けるために、事前に似たような動画や情報が投稿されていないかチェックしているんだが、
調べきれていなかったようだ。申し訳ない。
でも、あと二つはなんだ!?
お前が何を知っていて、何を知らないのかを俺はわからない。
「新しい情報だけ載せろ」と言われても、
上に書いた通り、俺の中では全て最新情報のつもりだった。
情報の取捨選択ができていなかった点は申し訳なく思っているが、
お前にとって何が新しくて、何が古いのか俺にはわからない。
このコメントをするのであれば、どの部分が古い情報なのかの指摘も欲しいところ。
で、現状俺は二番煎じと言われるのを承知の上で動画を投稿している。
いくら事前に調べたところで、「漏れ」が生じるのは人間である以上仕方のないことだ。
それを知らなかった視聴者にとって、俺の動画は二番煎じではなく、最新情報であるはずだ。
真に最新ではないにせよ、少なくともそれを知らなかった視聴者の知識はアップデートされたはずだ。
知らない視聴者にとって、動画投稿というのは広告塔としての役割がある。
このうち、「知ってた」などのコメントを残す人は3つ目のタイプだと思う。
まず、コメントを残してくれるということは非常にありがたいことだと思っている。
再生数だけ無駄に増えても、全然嬉しくな……まあそりゃ嬉しいけど、
それよりやっぱりみんながそれを見てどう感じたのかを知りたいと思うものだ。
でも、「知ってた」とコメントするのであれば、「何を」知ってたのかが知りたくなるのが投稿者としてのわがままな気持ち。
はてブロとかツイッターならそれも容易だけど、まあ動画は基本的に情報が一方通行だからね。生放送なら変わると思うけど。
自分の未知は、誰かの既知。しかし、誰かの既知は、誰かの未知。
その日のうちに収録、その日のうちに編集、その日のうちに投稿。
何の情報を公開するかは最低限吟味する必要があるが、それよりも「鮮度」が大事だと思うんだ。
例えばつい最近自分がゲームを買って、その中で初めて発見したバグがあり、ネットで軽く調べても前例がなかったので投稿してみると、
で、改めて前例を調べてみると、一つだけあった。
三年前に投稿された20分弱の生放送の無編集動画に、説明はないが3秒程度軽く映っていた。
これって、「知っている」視聴者より「知らない」視聴者のほうが多いんじゃね?
俺は自分がやってるゲームで人気実況主があげたやつとか、再生数やコメント数が多い動画は基本的に全部見るようにしているが、
よーく調べてやっと見つけた、って動画までは調べきれないんだ。それは俺の怠惰だから反省すべき点ではあるが。
もしかしてその「知ってた」コメントをした人はその動画の投稿主ではないのだろうか?とか思ってみたりもする。
情報を出す上で非常に大事なのは、それを「誰が」出すかということなんだと思う。
この店員だから買った、とか、この店員だから買わなかった、とか。
無名な投稿主の動画は情報発信力が弱く、それにより知識をアップデートできる視聴者の数は指で数えるほどだ。
有名な投稿主の動画は情報発信力が強く、それにより知識をアップデートできる視聴者の数は指で数えきれないほどだろう。
どちらも重要なのは、二番煎じと言われるのを恐れずに「投稿し続けること」。
たとえ無名でも、ずーっと投稿していればいずれ固定ファンはつくものだし、有名な投稿主だってはじめは二番煎じだったし、無名だったはずだ。
こういう考え方をしている人は他にもいるはずだし、
そういう人にとってこの考え方は「知っている」はずだ。
でも人は絶えず入れ替わっていく。語り手が世代交代するように、読み手も世代交代する。
世代交代した読み手にとって、最近の情報というものは、真に最新でなくても、彼の中では最新情報のはずだ。
それで怯えて動画投稿をやめてしまえば、情報源がひとつ消えちゃうんだよ?
自分の動画によって知識をアップデートできたかもしれない複数の視聴者の可能性を消してしまうことになるんだよ?
買い被りすぎではあるが、情報は多いに越したことはないので、
みんな恐れずに、情報を発信し続けてほしいなと、俺は思いました まる
現在主流のウェブサービスはネガティブな評価はしづらいシステムになっている。
人類社会がどうこう言う話じゃないよ。むしろ逆に、人間は、ネガ評価大好きだ。匿名になれば一気にたたきや批判が横行するのはここにいる人間はだれでも知ってるだろう。ネガネガして一方的な意見をたたきつけたい人間はたくさんいる。無数にいる。
しかし一方で、そういうギスギス空間にいるのがいやなのも人間なのだ。もっと行ってしまうと自分はネガネガ批判の対象にはなりたくないのだ。安全な場所から一方的に攻撃したいのであって、自分が攻撃を受けるのが嫌なのだ。
しかしそういうわけのわからん一方通行システムを作るとコミュニティーがあれるし反社会的になる(2chなんかがよい例だ)。
だから現代の大手SNSは意図的にポジティブな反応しか返せないようにしてるんだよ。システム的な悪意の抑制だ。
それらは完全にコミュニティデザインレベルでの意思であって、要するに「そういう意図で抑制してる」んだ。別に「人間社会がそうできている」からではない。
ふと思ったんだけど、Googleって検索でユーザーが探しているものを探せるし、欲しい物をアドワーズなんかで宣伝してくれるんだけど、肝心の「人と人とを繋げる」っていうコミュニケーションの部分は弱いよね。あくまで「お前が気の合いそうな奴(店)をお前で探せ」って感じでさ。
ま、その為にgmailなんかから個人情報を収集して提案できるようにしようとしているんだろうけど、やっぱり一方通行だわな。コミュニケーションは双方向だから。
ネットが一般社会に広まって20年近く経つと思うけど、未だにコミュニケーション取るのに努力しなきゃいけないもんな。外国人と話すのに、言葉を勉強しなきゃいけない。
使いやすさや性能はだいぶ改善されてきたと思うけど、比例して覚える事は増えた。コミュニケーションの手段ばっかり増やさないで、肝心の”コミュニケーションのしやすさ”にも取り組んでほしいぜ。
ドンと構えて、解かなきゃいけない事とか動かない謎とかミステリーとかそういう物を大前提にしてるのは昔のゲームで
解かなきゃいけない使命とか、調べてみたい時とか、最初から持っていて腰をすえて落ち着いて調べられる
一つの遺跡の謎を解こうと思って同じ場所を行ったり来たり往復して一つの謎を解こうとする事で話を進めるみたいな感じ
自分から到達しなければいけない謎とかは無いから、流れに身を任すだけって言うのは今のゲーム
話は垂れ流されるように一方通行で、その話内では一つの場所は通り過ぎると二度と戻らない
例)宝箱を取れといったら、宝箱を目指して洞窟かなんかを進むと途中にいる敵を倒しながら奥に進んで宝箱に付いたら引き返すだけ
4月から新卒で働き始めたわけだけど、昼食代がばかにならない。
あと友人とか見てると日本の会社のあり方に疑問、鬱憤がかなりあるので吐き出す。
サラリーマンの平均の昼食代が500円だというけれど、少なく見積もっても500×20日で一万円。
会社で働く力をつけるために食べるのに自腹を切る意味が分からない。
昼食代を浮かすために朝早く起きて弁当作るのにも労力かかるしやってられない。
最近東京のベンチャーじゃグリコのオフィスデヤサイとかいうサービスが利用されるのを知った。
サービス内容の中で会社が社員のために金を出してくれるコースもあった。
こちとら必死に働いて会社の利益のために、社長や役員の利益のために働いてんだ。
先輩にビジネス書とか読めとか言われたけど、ビジネス書をサラリーマンが自分で買って仕事の効率を自分で良くしようというのも意味が分からない。
ただでさえ低い賃金で人生の中で二度と来ない1日の大半を「社長の会社」のために使ってんだ。
仕事で自己実現なんてできるわけないことは知ってる。自分のためじゃない。社会のためじゃない。
経営者以外は全員「社長(他人)の夢(資産を増やす)をかなえるため」に働いてるわけ。
今までなんでこういう声が出てこなかったのかわからない。
自分で給料から金だして新品のビジネス書を買って仕事ができる人間を目指す意味も分からない。
仕事の効率化は考えてもいい。社員同士のモチベーションを上げる努力をしてやってもいい。
でも金払ってほしい。そういうこと全部に。
社員同士のコミュニケーションのために先輩後輩を飲みに行かせたいなら、会社が経費を持ってほしい。
むしろランチタイムを3時間くらいとって一緒にご飯行く制度作ればいい。
社員を8時間以上働かせないと利益がでないような会社経営者は無能だと思ってる。
ベンチャー企業とか特に。新卒社員が入社早々睡眠不足になる会社って労働システムがおかしい。
友人は深夜まで働かされて、早朝出勤して、休日出勤して、その状態を肯定してる。見ててつらいわ。
一人が8時間以下働いて利益でるシステム作れるまで社長が一人で残業すればいい。
一日8時間、昼食代、交通費、勉強代すべて会社持ち、残業なし、あっても2時間以内。残業代はきっちりでる。
働きたいやつは働けばいい、毎日日付超えて仕事して、金稼いで、社畜になって、いろんな仕事に頭使って。
仕事以外にやりたいことがないやつはそれをやればいい。
だけど労働者がいることも忘れないでほしい。労働者でいる権利だってあるはずだ。
なのに皆やたら「疑似ビジネスマン(経営者)」になろうとする。
サラリーマンなのに、滑稽だなぁと思う。
会社は好きだ。会社の人も好きだ。仕事内容もまぁ好き。だけどそれに人生を捧げるつもりはない。
やりたいことも読みたい本も、見たい映画も聴きたい音楽も行ってみたい国も、会いたい人も、たくさんいる。たくさんある。
一人一日8時間、誰がどの仕事をしても利益が出る、そんなシステムを研究してほしい。
替えの聞く仕事でいいんだよ。そしたら社員は人柄で選ばれるから。
仕事できなくたって、できる仕事をこなせるようなシステムがあればそれでいい。
社員のすることじゃない。
とりあえず社長、お昼ご飯代下さい。牛丼、うどん、そば、パンは飽きました。
http://anond.hatelabo.jp/20140423222458
朝飯はいいや。朝は自分の好きな時間に好きなもの食べようと思えば食べれるしね。
http://anond.hatelabo.jp/20140423230744
食べなくてもいける。
働いてなければ空腹で動けなくてもいいけど、働いていたらそれはまずい。
昼食も含めた拘束時間なんだから会社が持つべきだと思うんだけどな。
給与の一定の割合に税金がかからないから、必要なものを給料から払えってことなんだ。
だったら純粋に労働に対しての賃金はかなり低くなるってことか…。
そもそも経営者は高級寿司食べようが高いスーツ買おうが経費で落ちるんだから、それを働いている社員にも適応してほしい。
500円、せめて半額の250円でいい。ビジネス書ももう3割でいいよ。
社員のためってのは、そのまま会社のためになると思うんだけどなー。
今の社会は社員自らの「会社のため」、ってのが一方通行な気がするんだよ。
http://anond.hatelabo.jp/20140423230939
はてな最高だな!
良い会社だと思うわ。
でも今の会社好きなんだ。
ネットを始めたばかりの2003年頃からずっと2ch.netに入り浸っている自分が見た2ちゃんねる分断騒動をわかりやすいように書いてみる。余計なものや不確定要素を多く含むものはなるべく除外し、一ユーザがどういう心情でこの騒動に接したのか書きたい。
異変は2月からだった。2ch.netの各地に、Jimという人物が英語で、『前の管理人は資金を集められない無能だったので首にした。今は自分が管理人だ(意訳)』と語るスレッドが立った。自分は別にひろゆき信者でもないし、管理人が変わったのか、とそれだけであまり気にせず2ch.netを使い続けていた。
次の異変は3月の頭頃。2ch.net各地のローカルルールに『転載禁止』が加えられた。この転載禁止というのは、2ch.netの書き込みをまとめブログなどに転載するのを禁じる、という意味だ。そして3月中頃には2ch.net全体が転載禁止となった。
私はこの転載禁止を決めたやり方が気に食わなかった。2ch.netではローカルルールの変更などは、自治スレッドというところで何ヶ月もかけて議論し周知した上で、投票によって決められる伝統がある。しかし、この転載禁止へのローカルルールの変更は、1日2日程度の不十分な議論と全くと言っていいほど周知のないまま行われた投票で決定された結果であり、従来の運営であったなら議論不十分な無効投票として却下していたはずだ。だが、新しい管理人のJimはこれを認めてしまった。
このようなやり方がまかり通る掲示板にはいられない、そう思って、だれでも書き込みを自由に使っていいパブリックドメインを採用しているopen2ch.netに移ることにした。
最初はこのopen2ch.netは怪しいところかもしれないと警戒していた。open2ch.netのサーバは中国にあるから危険だ、という書き込みも見た。
だが、管理人が矢野さとる氏であることを知って考えが変わった。氏が昔からインターネット界隈で面白いサービスを生み出し続けている開発者であることを知っていたからだ。予告.inを作った人と言えばピンとくる人もいるかもしれない。サーバが中国にあるというウワサも、実際はクラウドサーバ上に構築されていてサーバが世界中に分散しており、その一分が中国にあるというだけの話だった。ちなみに、実況板が落ちるから実況禁止もデマ。
なので、安心して移住することが出来た。さすがに2ch.netと比べたら人がいないし、専門板は過疎そのものであるが、なんだか気に入った。荒らし通報がブラウザのボタンを押すだけでできるし、運営の対応も素早い。そのせいか荒らしが目立たず、居心地がいいのだ。
で、4月1日にひろゆきが2ch.netが乗っ取られたと発表する。それに伴い、後日新しい2ch.scを立ち上げると宣言した。当然2ch.netのJimはそれに反論する。そうして、2ch.netにはopen2ch.netと2ch.scがNGワードとして書き込めなくなった。
これもまた腹がたった。明らかな言論統制だ。犯罪を防ぐために死ねだの殺すだのがNGワードになるのは納得するが、これは単なる保身のためのNGワードだと判断した。ますます2ch.netに戻る気はなくなった。
この時点で、ユーザは2ch.netに残るのか、ひろゆきについて行って2ch.scに移るのか、はたまた第3勢力のopen2ch.netにやってくるのか、まるで三国志のような様相を呈してきた。訴訟も宣言され大きなニュースとなった2ch.netと2ch.scの争いに対して、open2ch.netは大して有名ではなく、その存在を知らないユーザもいた。
そんな中で自分は2ch.scが出来てもopen2ch.netに残ろうと決心した。矢継ぎ早に新機能を搭載し、その一方でエイプリルフールのネタとして強制博多弁機能などを実装する遊び心を持った管理人がいるopen2ch.netが好きになったからだ。
そして4月半ばにひろゆきが新しく公開した2ch.scは、2ch.netの書き込みが全てコピーされ、さらに2ch.sc独自の書き込みも出来るし見れる、というサイトだった。しかし2ch.scの書き込みは2ch.netには反映されない一方通行なものだ。
これで役者は揃った。この3つの2ちゃんねるがどうなっていくのかはこれから決まることだ。
※この件を包括的に語るのならば嫌儲やまとめサイトなどの話題も避けて通れないが、自分には嫌儲とまとめサイトの争いは無関係だったし、誰がどうやって2ch.netで工作していたかまで検証する気はないので省かせてもらった。ひろゆきとJimの主張の違いについても、これは両者が裁判をやると言っているのでその結果に任せたい。
まず、多くの人が「教師が入学式を欠席するなんて!」と呆れたことの理由を考えてみたい。
そして、自分自身が反感を抱いた理由を考えてみたい。
よく、国民皆教育評論家というけれど、実際には一人一人異なる教育を受けてきていても、同じような教科書を使って決められたカリキュラムで教育を受けたという幻想があるので、報道されない個別、具体的なさまざまの事情をついつい無視して、自分の個人的な体験に置き換えて、善し悪しならぬ悪し悪しを語ってしまうんだろうね。
今回の件で教師を責める理由に、公務員なのに、という理由があったけれど、少し考えればそれは理由になってない。
私立の担任教師なら入学式を欠席してもよいと思っているのだろうか?そうは思えなかった。
呆れた多くの人たちの中には、自分の子供の入学式のために仕事を休んだ経験がある人も多いと思う。
それは、担任教師に抱いている「当然の期待」のハードルが、とてつもなく高いからだと思う。
そして、担任教師への期待のハードルが高すぎる理由は、親から見て学校が、我慢して子供を通わせざるをえないところであるからではないか、と思う。
私が思う「学校が親に課す高いハードル」とは次のようなものだ。
学校はこんな高いハードルを親に求めるのだから、親も担任教師に対して過大な自己犠牲を求めるのではないか。
(この高いハードルを「親は学校/先生に子供を人質にとられている」と感じる人もいるかもしれない)
家族のために計画的な休みを取ることについて、これほど反対が出る職業は、たとえばシーズン中のプロスポーツ選手くらいしか思いつかない(緊急時に出動する公務員はまた別の話だ)。
たとえば医師は患者の死に際して「我々も手をつくした」と言わなければならない。
気をもむ乗客が「予定どおりに到着しますか?」と訊いたら、乗務員は「はい、大丈夫です」と言わなければならない。
実際には、手を尽くしたと言えない場合もあるだろうし、乗り物が定時に着くかどうかはやってみないと分からない。
でも、正直な回答をすると、相手は「ないがしろにされた」と感じる。
「たまたまこの日は、一刻を争う急患の方が多かったので……」
「今のところは定刻ですが、この先で故障が起きないとは言い切れませんので……」
このように「論理的には正しくないことを、言明させる/させられる風潮」が日本特有かどうかは知らない。
担任教師の家族が危篤の場合、急に学校を休んだとしても、我が子をないがしろにされたと憤る親は少ないだろう。突発事項だし、教師だって人間だもの。
でも、自分の子供の入学式に出るために計画的に学校を休まれると、受け持ちの生徒は二の次です、と行動でハッキリ示されたような気持ちになる人もいるだろう。
「誠意がない」と感じるのではないか。
「誠意」を重視する、というと、日本特有のものにも思えてくる。
最優先の仕事が同時にやってきたときに、人間なので、順序を付けないといけない。
でも、あからさまに誰かを後回しにすることはできない。
なので、遅くなった人から苦情が来た時は「今出ました」と言う。本当はまだ出ていなくてもウソをつく。
これまではウソも方便で良かったのだ。医者は患者に優先順位をつけ、優先度:低の患者が死んだら「全力を…」と言い、家族はそれで納得してくれた。
だが、世の中段々厳密になった。世知辛くなった。すべて記録で残すようになった。
そうすると、真面目ぶって「トリアージ」などと、優先順位の付け方を議論しなくてはいけなくなる。
ルールをつくって、あからさまに後回しにする人をつくることになる。
今回の件が、どのようにして報道される程の大事になったのかは知らないが、かつてなら誰かが担任の不在に気づいても、校長が「ちょっと貧血になって休んでいました」とか言えば済んだのかも知れない。
今はもちろんそれはできない。
後回しにされると分かって後回しにされるのと、後回しにされたとは分からないままに後回しにされるのと、どちらがよいのか。
「知らぬが仏」という言葉もある。
さて、では自分自身はどうなのか。
通常、この手の話では労働者側に立つことが多いと自分では思っているのに、この件に関しては自分も担任教師に高いハードルを課していて、我ながら驚いた。
自分の子供の入学式に出たいのは親として当然のことだし、親だって担任教師の子育てを尊重すべきだ、という意見があった。
担任教師が休むことそのものが、子供の教育にとって良いことだ、という意見もあった。
行動を通じて労働者の権利、ワークライフバランスの大切さを教えることにもなる、というものだ。
とても論理的だ。そして、わたしは割と論理的な話が好きな方だ。
友人とも対話した。
友人「公務員だって平時は私用で有給取得できるだろう。労働基準法を現場で無視してよいのか」
自分「担任教師の職務は特別で、子どもたちにとって唯一無二だ」
友人「家族の不幸とそれ以外の境目は?」
自分「計画的な休みかどうか。他人の子供を預かるという仕事の性質上、計画的に私用を優先することはふさわしくない」
友人「妊娠はどうか?」
自分「妊娠は計画的なものではないと個人的には思っている。不幸や入院と同じ」
友人「教師のなり手が減るぞ」
自分「有能でも信念がないのはだめだ」
このような私の意見は偏っていると思う。それは喜んで認める。
そしてその理由は、高校時代に受けた教育が、親にとっても教師にとっても非常にハードルが高いものだったことによるのだと思う。
昨日はたまたま高校(県立)の同期会だった。そこに集まったメンバーは、自分の出身校に誇りを持っている。
同時に、入学直後に受けた指導が、一種狂気じみたものだったことも認めている。
(このサイトを見つけてメンバー一同大笑い。ヤフー知恵袋 ★過激な校歌指導の現状★ ~埼玉県と福岡県の高校受験生へ~ http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n224682)
受験できる範囲内の県立高校としては一応トップの学校に入学して3日目から、まぁ右翼かヤクザのような指導を受けるわけです。
高校一年生が男女問わず軍歌のような応援歌を大声で歌わされるわけですよ。
「○せ」みたいな内容の。
親の中には子供から学校の模様を聞いて憤った人もいたかもしれない。
課外の補習授業に自主的に参加しなければならず、毎朝6時半には子供を送り出さなくてはいけない。
一方で体育祭ともなれば、放課後に強制的に応援練習に駆り出される。期間中は塾通いもできない。
それでも親としては、子供によい大学に進学して欲しいから、学校の先生が「ウチは文武両道なんです。協力してください」と言えば、なかなか否とは言い難かったと思う。
その代わり先生も、毎朝休まず7時40分から授業をするし、当然ながら行事は全て出席するし、3年生ともなると元旦返上で模試をやる。
公務員としての高校教師の職分をはるかに超えて熱心に生徒指導をしていた。だから親も納得していたのではないか。
こういう環境で育ったから、担任教師が入学式を欠席、と聞いた瞬間に、反射的に自分の受けた教育と結びつけて、否定的な反応を示してしまったのではないか、と思う。
きょう街コン行ってきたわ。
ルールは2人一組。受付を済ますとスタッフが誘導。ランダムで参加してる女性二人と2対2の合コン方式へ。
最初の1時間経ったら場所移動可能。別の店舗へ行き再びスタッフの誘導を待って2対2の合コンの形へ.
一組目→女は飲み物烏龍茶、俺らはビール2,3杯。会話ほぼ一方通行、俺の相棒はほぼ無言.
二組目→女は飲み物緑茶、俺らはビール2,3杯。会話ほぼ一方通行、俺の相棒はほぼ無音.
三組目→化物みたいな女二人組、飲み物頼まない、俺らはビール、席に座って五分くらいで「私達他のお店も見てみたいからいくね」
四組目→俺だけビール、女は烏龍茶。俺が色々話すも女は携帯イジイジ。15分くらいで「私達他の-」.
終了。
なんなのこれ
増田の話と直接関連するテーマではないがやはりイカレジジイに絡まれたことがある。
(先に言っておくとオチは無い)
車がギリギリ二台通れる程度のセンターラインの無い車道(一方通行)の脇にある、幅1mほどの狭い歩道を二人で歩いていた。
後ろからやかましくベルを鳴らしながら自転車が近づいてきたけど、自転車のベルの厚かましさが嫌いなので振り向きもせずに無視していた。普段から車通りの少ない道だし、その時も車はいなかったので車道を通ればいいはずだ。ベルを鳴らせばモーセのごとく自分の前に道が開けると思っているキチガイジジイは発狂しベルを激しく鳴らしながら強引にチャリの鼻先を突っ込んできた。
めんどくさいので脇によけながら小さい声で「アブねーな」とだけ言ったらジジイは大興奮して自転車から降り、その場でハンドルを振り回す勢いで怒っている。いろいろわめきながら立ったまま自転車の前輪をおれにぶつけて来る。
自転車の前輪を蹴ってやろうとした瞬間、ふと遠くから二組ほどの主婦が「アラ、何かしら?」と言った面持ちでこちらを見てる事に気が付いた。ジジイがあまりに大声でわめくから周囲の人の注意を引いていたみたいだ。この状況を遠くから見ると「若者がお年寄りの自転車を蹴ろうとしている」ように見えてしまう。それは不利なので適当に「わかったわかった」とかいいながらジジイを置いて歩き出した。本当はぶん殴りたいぐらい腹が立っていたけれど、イザという時に悪者にされてしまうのはきっとこちらだろうから我慢するしかない。それでもしばらくジジイはついてきて後ろから何か言っている。最初はマナーと交通ルール(自転車は歩道を走るものなんだとか、ベルを鳴らしたら避けろとか、危ないだろ、とかいった自分勝手な主張だけど…)についてわめいていたのにこの頃にはただの罵倒になっていたけどなんとか耐えていたらそのうちいなくなった。
この時の話はこれだけなんだけど、似たような感じで興奮したジジイが自転車をぶつけるような感じで絡んできて意味不明な主張をわめきたてる現象の被害にあったことが他にも3回ほどある。そろそろ世間の認識として「若者がお年寄りを…」ではなく「イカレジジイが一般市民に絡んでる」という構図の存在を認めてほしい。事情がよくわからないときに一方的に年寄り側を善だと思い込まないで欲しい。それだけ。
ここ暫く、非常に困っている事がある。
これまでは人が来ることで、周囲にとって良い点もあるだろう、若い人の趣味の事だから、
と近隣含め私もある程度目を瞑ってきたが、先日ある一件があり、もはやこのままではいけないという心境へと変化した。
いくつか、時系列であった事を書く事にする。
ある程度は、人が来れば多少は発生する事であるから、箇条書きとしておく。
・ゴミ箱の無い場所に、ペットボトル、パンの袋、タバコ等のゴミが増えた
バックプレートがそういうキャラの物だったので、そうなのだろう
県外ナンバーによく見られる、県外はこの所明らかに増えていた
これに関しては少し補足しておくと、町内会のような物でも少し話題となり、昨今の町おこし等も挙がったのだが、
あまりそういう人は多くなく、全体としては「悪いとは言い辛いが、良いとは言えない」というグレーな反応。
・敷地への侵入
同じく補足。境目が分かり辛い所も多少あるのは事実として、ゲームの傾向上、夜間に訪れる人も居るようだ。
許可を得ていない人が夜間に敷地に入ればどうなるかは察しが付くかと思う。
さて本題である。先程書いたような行為が何度も見られ、やや黒よりのグレーだが、
自浄作用やその他単純に利益面で期待していた人、そういった人の反応を一気に黒へと持っていく事が起こってしまった。
所謂痛車…調べて分かった事だが、どうやらこの近所が元ネタのキャラらしいが、
ある家の傍にある農地の駐車用スペースに止まっており、家から作業をしたい為注意するも、
特に反応が無かったので降りて車の前に行き、どけてくれと再度注意。
何故か1時間程度だからいいだろうと口論(ここで別の近隣の人が気付き、家から様子を見ていた)となり、
その後罵声、「これをあっちへ」と軽く車に触れた手を叩くように振り払う、煩いどければいいんだろうと、
人が傍にいるのに急発進させミラーを腕にぶつける等、中々酷い事をしたようだ。
本人、目撃者と同じ事を言っていた点や、実際腕に痣が出来ていた事等から、私を含め周囲でそこそこの騒動となっている。
町内会レベルの話は行われていないが、当人や目撃者は勿論の事、
周囲の東方という物…良くわからない人にとってはオタクそのものになるが、それらを見る目は大きく変わっている。
ある程度目を瞑ってきた事が、こういった結果になったという面も勿論あるのだが、
それ以上にこちらに非が無いにもかかわらず、迷惑では済まない事まで起こってしまった以上、感情の悪化は避けられず、
「張り紙を張って追い出せ」という年配の方もいる。
何より、今回の被害者が80歳近かった事もある。その人自体は、
「人が増えれば多少は起こる」
「遠路遥々来るから大変だろう、少し話もしてみたい」
等、問題点を認識しつつもやや好意的な印象を元々は話していただけに、被害者自身のショックもだが、
「そらみたことか、やっぱり危険じゃないか」という声も出ている。
こうなってしまった以上、私も一切擁護は出来ない。東方オタクの聖地である以前に、ここは私達の生活範囲なのだ。
それを理解していない人が増え、事を荒立てたという事実はやはり許しがたい所がある。
多くの東方オタクは、余程自浄作用を働かせない限りは、今回の事をリカバリーは出来ないと肝に銘じてほしい。
蛇足になるが、作者はファン層に対し自由な方針、言動を掲げているようだが、
警告等はもっとちゃんとした言葉で行って貰いたい。~~は良くないですね、程度で済むうちはいいが、
ルールは2人一組。受付を済ますとスタッフが誘導。ランダムで参加してる女性二人と2対2の合コン方式へ。
最初の1時間経ったら場所移動可能。別の店舗へ行き再びスタッフの誘導を待って2対2の合コンの形へ.
一組目→女は飲み物烏龍茶、俺らはビール2,3杯。会話ほぼ一方通行、俺の相棒はほぼ無言.
二組目→女は飲み物緑茶、俺らはビール2,3杯。会話ほぼ一方通行、俺の相棒はほぼ無音.
三組目→化物みたいな女二人組、飲み物頼まない、俺らはビール、席に座って五分くらいで「私達他のお店も見てみたいからいくね」
四組目→俺だけビール、女は烏龍茶。俺が色々話すも女は携帯イジイジ。15分くらいで「私達他の-」.
終了。
なんなのこれ
研修所からでてくるやつらと毎日すれ違うのだが、集団になると誰一人としてよけない。
タクシーをつかまえるオッサン達(今日どっち方面で飲む?)は止まって歩道をふさぐ。
--------------------- → → →→ ←(困惑) → → → → → ---------------------
あとこの自転車なんなの。ばかなの。
歩行者の後をつけないといけない瞬間なのになぜ追い越そうとするのか。
--------------------- (歩行者)→ (歩行者)→ (歩行者)→ (自転車)→ ←(困惑) ---------------------
女集団は横一列であるく(前後になったら、死ぬのかもしれない)
横一列歩きのヤツらが太陽にほえたまま近づいてきたので、あと5歩くらいの位置で歩行をやめるという実験を何度かしたけど
--------------------- (何なのコイツという目)→ (何なのコイツという目)→ ←(急停止) (何なのコイツという目)→ ---------------------
何度かためしてみたけど、急停止作戦をすると、迷惑そうな不審そうな目でじろじろみながらよけてくれるwww
一度ラリってますみたいな(目をあっちむきにして、よだれ垂らす)かんじでヨロヨロ歩いたら全員よけてくれたが歩行スピードが遅くなりがちなので急いでいるときにはむかない。
朝すれちがう姉ちゃんたちは、線をひいてあるだけの狭い歩道に自転車で内側?車道じゃない側を当然のように通ろうとするので困惑する。
中央線のない車道 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - (自転車)___ ←(困惑) \--→ ------------------------------------------ 建物建物建物建物建物建物建物建物建物建物
そもそも、左側通行すらしないっていう。
心当たりのあるやつは反省してくださいです
友人に対して哀れに思うようになったらおしまいだ。
そういうわけで縁を切った。ちょうど卒業だったので好都合。
とにかく子供っぽくてうるさい。つまらない冗談。中身がなくて一方通行の発言。
どう返答すればいいのかまるでわからない。
「ここは増田のおごりね」ちゃんと支払ってくれる。
「増田の航空券も俺が持っているから、増田に置いてきぼりにされることはない」私が友人を置いていくなんてない。
イライラすることこの上ない。そうすると、他にも気に入らないところが出てくる。
いらだちが募っていて、あるとき、友人がかわいそうに思えてきた。
こんなにつまらなくて鬱陶しい奴だったのか、と。
もとには戻れない。
友人ではあったはずなのだけど、私とはそりが合わなかったのだろう。
「ASD診断基準変更、の報に、これからアスペルガー症候群じゃなくなりそうな一自閉症者が思うこと」(ここまでタイトル)
DSM改定で「アスペルガー症候群」の診断名がなくなったらしい。「社会コミュニケーションの障害」「限定した興味や反復行動」に絞った結果、有病率は1/4程度に減ることが見込まれるとか。自分は大学時代に診断を受けた「アスペルガー症候群」の人間になるのだけれど、まっさきに思ったことは、「なんだかなあ」だった。Twitterで呟こうと思ったらひどく長くなってしまったので、匿名ダイアリに投稿してみることにした。昨今いわれる「一記事800字ルール」から大きく逸脱していて読みにくいと思うのだけれど、勘弁願いたい。
アスペの本質は「心の理論」の障害じゃなくて、感覚の取得機能の異常(異常というか、「社会適応に必要な情報だけを拾えない)だ、という風に、(旧診断基準では「アスペルガー症候群」と診断されていた)自分は考えている。考えている、だけだとアレなので、一応つけくわえると、以前、お世話になった先生に確認したところ、「その考えは間違っていない」というような事を言われたので、おそらく間違えてはいない(一応、そんなような研究結果もあったと記憶している。まあ、私は学究者ではなく一当事者なので、エビデンスが若干いいかげんなのは許してもらいたいのだけれど。
人間の感覚には、いまどきのカメラのように「オートフォーカス」機能がついている。それも、大変高性能な。これが、オートマじゃなくってすべてマニュアルなのが自閉症(=アスペルガースペクトラムだ。たとえば、誰かが「それ」と言って何かを指差したとする。定形発達の子供は、「指示の対象に目線を向け、そ話者が何かしらの指示または主張を行うに備える」という一連の処理を、ごく自然に身につける。しかし、自閉症者の視界は、蟻の視界だ。「特定の範囲の、限られた情報」だけを拾うことができない。まず、「人間の輪郭」を意識するのが難しい。うごき、を俯瞰してみることができない。そして、「手振りの意味」を理解するのには、もっと時間がかかる。
指差した先を意識すればよい、と学んだとしても、その後がまた大変だ。自閉症者のせまい視界は、「それ」として指し示された物体「以外のもの」を意識できない。あたかも同化するように自閉症者の意識は「それ」とひとつになってしまう。指示、という行為の先にある意図へ辿り着けない。本人の記憶にも残らないような小さい自分に、こんな小さな「ロス」をくりかえして、自閉症者の社会能力は定形発達者のそれからどんどん遅れてゆく。
自閉症者は往々にして、「世界と自分とのあいだに、一方通行の分厚い硝子の壁がある」という表現をする。入ってくるものは、ときに自分たちに害を与えるけれど、こちらがわから触れることはできない。氾濫した感覚世界に、ドナ・ウィリアムズが自著のタイトルとして記したように、「何者でもなく。どこでもいない」自分だけが残される。興味が限定されるのは、何かしらア・プリオリな原因があるわけではない。単純に、あまりに「細かすぎ、多すぎる」情報の波に晒されていることの裏返しだ。自閉症者は、その複雑すぎる世界を規則化するために自らひねりだしたルールにより所を求める。あるいは、数字や言葉などの「より強固で、確実な」曖昧さの無い世界に逃避し、没入していく。
さて、ここで重要なことがある。成長が遅い、ということは、「いずれ追いつく可能性がある」ということだ。IQが高い場合は年齢が上がればコミュニケーション能力は(或る程度は)向上する。限られた環境であれば適応できるようにもなる。IQが低いと、成長速度が社会が要求する適応レベルに追いつかないので、わかりやすい「知恵遅れ」になる。旧DSM水準においては、診断の多軸性、「コミュニケーション能力の障害」以外の細かい部分こそに、自閉性の障害の本質があったように思う。高機能な自閉症者(これまでの診断基準でいう「アスペルガー症候群」、言語機能に遅れがあるものは「高機能自閉症」)は、往々にして、その能力と努力によってコミュニケーション能力が向上させ、また、社会の中で自分が受容されるポジションを獲得し、
あたかも「社会に適応した」かのように振舞うことができるようになることもある。けれど、知覚過敏や感覚から来る負担の大きさ、ある種のデリケートさ(適応しても処理量は変わらないせいで疲れやすい)、過集中傾向、カクテルパーティ効果への適応不可能などは歳を重ねてもあまり改善しない。二次障害との複合で、ひどくなる場合もある。そして二次障害。我らが最大の敵である二次障害だ。慢性的に感覚的に、また社会的にストレスを受ける環境による鬱や神経症、PTSD様の症状(瑣細な感覚刺激からフラッシュバックを起こし、日常生活に支障が出る)なども、かなり改善させづらい。というより、社会に出ている多くの自閉症者は、コミュニケーション能力の障害以上にこれらに苦しめられることとなる。これらの人間に、「アスペルガースペクトラム」の診断基準から外れたとき、医学はどのように対応するのだろうか?
私事になるけれど、自分は二次障害への対応に、かなり苦労した。「病気になる原因」というのが感覚的な特性と、それによって経てきた生育環境に大きく拠っているために、一般的な治療方針やアドヴァイスがあまり役に立たないためだ。普通の人間は、ごくふつうの家庭で(母親は多少厳しくて神経質だったけれど)そこそこ健康に育ったにも関わらず、重篤なフラッシュバック症状(いわゆる「自閉症パニック」の主原因になるもの)を抱えたりしない。精神科、に行って自分が求めた治療を受けられたケースはとても稀だった。最初の二件くらいは適当に薬を出されて、経済的に継続困難なカウンセリングを勧められて終わり。結局、これではらちがあかない、と感じて(また、「はっきりさせるために」)実家に帰って診断を受けてきた、知的障害者向けの施設の外来の先生、そして、某k橋先生(統合失調の大家である)との出会いが、自分にとっては得がたかったけれど、必要な治療を受けられないままの人は未だ多いと思う。数年前にアルバイトを探していたとき、2ヶ月ほど支援センターにお世話になる機会があった。自分の大学時代と比べてこの数年、随分とサポート体制が整ったのだな、と感じて感心した(そして、その実現に走り回ったであろう人々に敬意を覚えた)、それからしばらくしての今回の報だった。
未だに「心の理論」ありきの「アスペルガー症候群とは」みたいな文章はよく見る。精神医学の世界って当事者も臨床も置いてけぼりなんだな、遅れてんなあ、というのはずっと思っていたけれど、今回の改編でよりその印象は強くなった。二次障害が軽くなって、今の生活が忙しくなるにつれ、自閉症を取り巻くもろもろの社会的状況に興味を向ける機会が減ってしまったので、偉そうに論じる権利は無いのだけれど、「まだこんなに遅れているの?」と、失望にも似た気持ちになったことは否めない。
私は診断をうけたとき、その時点で、もともと積極奇異タイプだったこともあり、社会能力自体はかなり改善していた。コミュニケーション能力に重きを置く診断基準だと、今はそのように診断されるかかなり怪しい。当時は、二次障害が今より重かったのに加えて、義務教育期間を終えたことで、それまでの細かな「不便(大学でお世話になった先生曰く『目に見えない腕の欠如』」がいちどに明らかになり、社会的な困難が顕著になっていた時期だったため、「診断が下っている」ことに、自分は自己分析の面で、そしてひとから助けを得る上で、随分と助けられた。この障害がときに致命的なのは、コミュニケーションの障害よりもっと前のステップ、感覚すること、世界に。社会に働きかけること、「関わる」ことそのものに困難を抱えるからだ。「コミュニケーション能力」だけに重きをおいて、障害の本質をばっさり切ってしまった新基準に、本来の意味で自閉性の障害を抱えた人間たち(ここ数年で顕著になったように、世間においてけして少なくない)を、フォローできるとは思えない。
自由業で不安定な生活なので、定期的に、「障碍者手帳を得るべきか」に迷うのだけれど、この機会に行動すべきかなあ、と、また、少しだけ迷っている。職種的に実感する機会は少ないのだけれど、「診断を持っている」というのは、「障碍者の枠に入れられる」ということであると同時、「自分の特異性がア・プリオリなものとして理解され、社会的に許される」手続きでもある。<そして、負担の多い日常に対してシステム的なバックアップを受けられる、というのはとんでもなく大きい。
以前は、手帳を取るなんて甘えだ、と思っていた。実際、生活しはじめると、やるべきことをやるために、使えるものを使わないことこそ甘えなのではないか、と思う。今のうちに診断書もう一回出してもらって、支援センターに相談に行くべきかなあ。けれど、ここまで「診断されない人間が出る」ことに異を唱えておきながら、自分はいつも立ち止まってしまうのだ。生きることに混乱を抱えるのが、自閉症者特有の事象であるはずはない。そんなことは重々承知していて、その上で、おそらく定形発達であれば経験しなかったであろう経験を、自分は重ねてきている。そして、思ってしまうのだ。自分のこれは、この、抱えた差異と、それによって生じる無数の困難は、自分が経験し・乗り越えてきた沢山のことは、果たして「障害」なのだろうか、と。無論、この逡巡が、社会的に「障害」とみなされるか、サポートを必要とし、サポートを得ることで社会の構成員としての生活を送ることへの困難が軽減される人間が存在するか(そして、自分がそのサポートを必要としているか)、という観点とは、デリケートながら別の問題だ、ということも重々承知しているのだけれど。
最近恐怖感が酷い。
PTSDだとか騒ぎ立てるつもりもないが、
先日の離婚調停。
僕は元嫁と別れたくなかった。
何より元嫁を愛していたし、
しかし、それは叶わなかった。
それ以降は、協議日の連絡や協議の日の必要書類や事務事項のみをメールしてくるようになった。
本気で別れたいと思っていたのだと思うし、
おそらく、そうであれば彼女の正しい選択だったと思う。
物事なんて、悪く捉えようと思えばいくらでも悪く捉えられる。
彼女にとっては、とにかく僕が悪だったのだろう。
ただ、少なくとも、
僕自身は自分に恥じるような行動を取っていなかったと思う。
要は、暴力だとか、浮気だとか、そういうことは何一つ行っていない。
些細なことが、
僕と一緒にいたくなくさせたのだと思っている。
当時、メールの到着が怖かった。
着信音は常に消していて、バイブが鳴る度、
おかしな動悸が起こってた。
言葉にすると凄く難しいのだけれど、
いわゆる恐怖感が近いと思う。
とにかく怖い。
不本意な通知、
しかし某かの返答をせねば窮地に追いやられる通知。
不本意な行動を強いられる、
その切っ掛けとなるメールの通知が本当に怖かった。
それが原因か、
攻撃的な相手からの通知に、
過剰な恐怖感を得るようになった。
今でもそれが続いている。
相手が誰であっても、
日によっては、メールが届くだけでも動悸がする。
今はただ、
その恐怖感が薄らぐ事を、祈るのみだ。