はてなキーワード: マイルールとは
数年前、一時期婚活をしていた。
マッチングアプリは今ほど隆盛していなかったし、オンラインの出会いはデジタルネイティヴ世代な割に黎明期寄りの自分のマインドとも合わないので活動は現場、婚活パーティーへの参加が主だった。
当時は結構な頻度で通っていたし、かなり成果もあった。しかし、親の病気や自身の結婚観の変化が重なり次第にパーティーから足が遠のき現在に至る。
先日、以前婚活で利用していた婚活サイトからお見合いパーティーの無料招待の知らせが届いた。男女比のバランスが悪い回や参加者のキャンセルが生じた時にこういう知らせが届く。
普段は気にも留めないが、その日に限ってふと「行ってみようかな」という考えが起こった。
(これは余談だけど、恐らくコロナ禍の自粛生活で人との交流に飢えていた。婚活というより見知らぬ人間と会話したかったのだと思う)
数年振りに参加した婚活パーティーはコロナの影響で規模はかなり縮小していた。会話の際は以前のような向かい合わせの形ではなく、横並びで座ったまま会話するスタイルに変わっていた。
挨拶の際に一瞬顔見せするものの、会話中は当然マスク姿なので声が聞き取りづらく不便に感じた。
それでもパーティー自体に個人的にはブランクは感じなかったし、見知らぬ他人との会話はやはり楽しかった。
(これも余談だけど、当時は全く気にしていなかったが会場で記入するプロフィールカードに女性のみ「得意料理」の項目があるのことが気になった※ちな男性は年収。
また、そこに違和感を持つ参加者がいないようにも見受けられた。婚活市場の男女観は前時代的なんだなと感じたし、人口減少・価値観の多様化する現代においてこの価値観でこの企業は大丈夫かと心配になった、大きなお世話だけど)
話が逸れた、ここからが本題なんだけど
手前味噌だが、以前は同様のパーティーに参加すればめちゃくちゃモテていたので今日も余裕とタカを括っていたらこのザマ、笑うしかない。
しかし、自分の魅力は婚活で無双していた当時より確実に上がっていると自負している。そこそこ稀有な人生経験を経て人間的にも成長した、習慣的に鍛えている今の体型が人生ベストに整っている、今の自分の容姿が一番綺麗と自負している。この日参加者との会話だって盛り上がった。
じゃあ以前の私と何が違うのか、帰りの電車で1人考えた。服装?髪型?少し喋り過ぎた?けれど考えを巡らせれば巡らせるほど当然の結果に行き着く。
『自分の年齢が以前より増えた』
それに尽きるのだ。なるほど20代と30代ではこれほど異性からの需要に差があるのかと思った。
以前は30人以上集まる会場で上位人気という経験もザラにあった、その時自分は(あくまで婚活市場という枠内だけど)人間的な魅力があるから選ばれていると思っていた、私の努力の賜物だと思っていた。しかしそうではなかった、『年齢』だったのだ。
自分がブスと自覚した日から人一倍努力した、おかげで人と比較すればそこそこ美人になった。
礼儀や所作も人より整っていると思う、今でも習慣的に本も読んでいる。確実に私は去年よりずっと魅力的になっている。ただ年齢という数字で私は以前よりずっと異性から選ばれない。
そもそも生まれ持った容姿だって年齢だって自身ではどうすることもできない、整形だって限界がある。言わば不可抗力だ。
そんなもので自分を値踏みされて自尊心を削られ続ける女としての生き方に何の価値があるのかと思った。つくづく結婚に向いていない思考の女だと思う。
とはいえ、優秀な子孫を残そうとする生物の本能という観点から捉えても男性が若く美しい女性を望むことは至極合理的で当然な選択だと思う、そこを責める気は一切ない(私は子を持つ気はないけど)
人間の価値は不可抗力以外の場所にある。それは刹那的に生きてルッキズムに囚われていた10代と20代前半の自分があったからこそ胸を張って言える。
ただ恋愛市場・婚活市場における『価値』は圧倒的に『不可抗力』な側面が大きい。それを今回理解した。この知見を肌感覚で得られたことは大きい。
これは決してネガティブな話ではなく
恋愛/婚活市場での価値を失いつつ(もう失っているのかも)ある人間がそこを自覚してふっきれた時、人生はもう一段階面白くなるのではないかと感じた。努力ではどうにもならない事象に囚われることは無意味だ、投資する必要はない。
この市場で私はもう定年に近いが、人間年齢では私はまだまだ若いのだ。何にだって投資できる、オラわくわくすっぞ状態なのだ。
男性の30代の市場価値はまだ高いので彼らがこの境地に至るのは肉体がもう少し衰えてからなのだろうと思うと、30代で前半でここに至った私(女)はラッキーなのかもしれない。
最後に経験者からのアドバイスだけど本気で結婚したい人は市場価値の高い間に婚活を頑張った方が良いよ、突然暴落するからね。
私はもう婚活市場には積極的に戻らないと思う、ただDINKS希望のパーティーがあれば一度参加したいかも。
おわり
■追記
伸びてて笑った、少しだけ返信
有益な情報もあって大変有り難く読ませてもらった。ただ、そもそも今回婚活パーティーに参加したのは冒頭で書いた通り無料招待だった上に「見知らぬ他人との交流に飢えていた」からなんですね。
散々な結果やその後の思考・気づきはその副産物、子供は望まないので特に結婚に焦ってもないんだなこれが。
20代の頃は漠然とそろそろ結婚しなきゃと思い活動していたけれど、今は結婚という形にこだわる必要すらないと考えている。
30代独身女として”わきまえろ”と言うならそんな市場もこコミュニティも願い下げですね。
(ただ、一回の復帰戦で損切りを決断するのは早い/戦う市場を間違えているというコメントは「たしかに」と思った)
②『お見合いパーティーの場で子供がいらないと言ってしまうことが原因、子供が欲しくて参加している人が多い』
百も承知、お見合いパーティー時に子なし希望は言わないよ。数分の会話で初対面の人間に語れるほど軽い覚悟じゃないもの。
ただプロフィールカードに子供に関する欄がある場合は正直に書いていたし、最低限のマナーとしてマッチングした相手には一回目のデートまでには告げることをマイルールにしていたよ。
③ 頑張った分だけ人の魅力は増えるのか
少なくとも自己評価は上がる。本来自己肯定感に理由なんて不要だけど、例えば筋トレなら引き締まっていく身体という目に見える裏付けが上乗せさると自己肯定感は爆上がりするよ。(筋トレは良いぞ)
仮に失敗したって”努力した”過去は消えない、その人間の過去は誰にも奪えないと「夜と霧」のヴィクトール・フランクルも述べていた。
つまり頑張り続ける限り人間の魅力は確実に上がるし、誰が何と言おうと私は昨日の私より魅力的なのです。
それもそうだね、元婚活無双女の婚活パーティーアドバイスとか書いたら需要あるかな?
市場において年齢という最強のアドバンテージを持つ20代女子なら戦略次第で無双は余裕よ、婚活パーティーは戦場だ。それに不特定多数の人間と会話する経験はなかなか勉強になるし、刺激的で楽しいよ、頑張ってね。
返信おわり
では、またどこかで
後輩がマイルールから逸脱してるのが微妙に許せないタイプの人間だな。
勝手な推測だけど、内心思うだけなら別に増田に書かなくてもいいわけじゃん。なんならこんなの飲み会雑談でちょっと愚痴って終わりじゃん。でも敢えてその感情を増田に書くってことは、やっぱりなんか思うところがあるんだろう。
服装規定も割と自由みたいだから、男でも指輪をすること自体は職務上は違反ではないわけだ。だがたしかに「普通は」男は職場で結婚指輪以外の指輪はしない。自分も服装規定がゆるい職場にいるから分かるが、結婚してないけどアクセサリーとして職場で指輪をつける女性は珍しくも何ともないし社会的に認められているが、男はそうじゃないだろう。少なくとも増田はそう感じてる。
これがもし上司先輩だったらたぶんこんなモヤモヤしないと思うよ。こんな小さなオレオレルール、上司と喧嘩してまで適用させるもんでもないしな。最後の「これで文句はない」ってくだりからしてマイルールに逸脱しなくなったのを安堵してるし、「メンタル弱いし成長しない」ってくだりから後輩を下に見てるのが窺える。
でもまあ分かるよ。そんな彼女アピールにうつつを抜かす前に仕事ちゃんと覚えろって本当は本人に言いたいけど別に服装規定に大きく違反してるわけじゃないしこんな小さな事でことを荒立てたくもないじゃん。
逆に自分はオフィスで帽子かぶってる奴に違和感を感じるけどね。子供の頃から室内で帽子を被り続けるのはマナー違反だと教えられてきたから、職場でも常時着帽してるのを見るとモヤモヤしてしまう。ハゲを隠しているのかもしれないけど、十中八九ファッションだろ。でも本当にハゲなのに「着帽はマナー違反だから外してください」って面と向かって言ったら大問題じゃん?服装規定には問題ないし、ただ気に入らないってだけだし。
まあ人には大なり小なり「人はこうでなきゃいけない」っていうマイルールがそれぞれあって、増田はそれが指輪で、自分はそれが帽子だったってことだろう。
給料安いからろくな奴が来ないんだ、という主張はさておき公立学校の教員なんて昔からコミュ障のオンパレードじゃないか。
ここからは体験談。小学校では隣のクラスに低学年しか受け持たないおばちゃん先生がいて、後で聞いたら謎のマイルールに体罰とやりたい放題で不登校になる子もいて保護者から何度もクレームが来ていたらしい。学校も把握していたけど「こっちで言って改善するならとっくに改善してるわ」という感じでどうにもできなかったらしい。
中学では謎のヒステリックババアが嫌われていた。試験中いきなり生徒を引っぱたいて廊下に連れ出した。ババア曰く「カンニングだ!」と騒いだけど確認したら机の中に入っていたのはゴミ。疑わしいのはよろしくないが、いきなり引っぱたくのは明らかにおかしい。その後病気とかでいなくなった。
高校でも無闇に嫌われているじいさんがいた。あまりにも嫌われていてじいさんの授業全部寝てる優等生がいて、じいさんがガチギレして「この問題を解け!」となったけど優等生はスラスラ答えてそのまま睡眠体勢に戻ってじいさんプルプルしてるっていう漫画みたいなこともあった。
あと女子の着替え覗こうとする奴もいた。そいつに関しては若い女性の先生が研修で絡まれててちょっと……という話も聞いた。
他にも生徒をバカ呼ばわりするとか約束の時間を全く守れないとか明らかに風呂入ってねえとか生徒の顔を全く覚えないとか先生以前に「コミュ障とか以前に社会人としてどうよ」というのはたっくさんいた。それはど子に行ってもいるんだろうけど、正採用の場合簡単に辞めさせられないし閑職に追いやるとかそういうのもできないし、そういうハズレ人材をどうにかできないものだろうか。
袋のサイズに関しては、本部からの指導で店員が品物の量と大きさから袋のサイズを見極めて決めていいということになっている。特大サイズ5円を除いて一律3円なんだけど、特大サイズにするときだって基本的には客に確認を取る必要はない。入りきらなければ+3円でもう一枚袋を買うことになり、客は損をするばかりだからだ。
問題なのは、客の方がレジ袋の代金という今まで払わなくて良かった金額を負担しなければならないことによりケチになってしまうこと。煙草一箱と栄養ドリンク一本くらいの買い物でも3円で買える袋の中で最大のものを要求してくることがよくある。
ただ「3円で買えるやつで一番大きい袋ください」と言ってくれればいいだけなのだが、この一言が言えない、あるいは意地でも言いたくないという客が結構いて、それでしょっちゅうトラブルが起きている。客と店員とが言い合いになるというよりは客が一方的に店員を怒鳴り付ける、脅す、暴力を奮う、クレームを本部まで入れる、という、店にとっては迷惑でしかない。
店員の方にもトラブルを招く原因を作る人はいる。楽だからといって客が何も言わないうちからレジ袋は全部3円のなかで最大サイズで勝手に統一する奴なんかがそうだ。こういう奴がシフトに多く長く入っていたりすると、客の方がそのやり方を当たり前だと思い込む。そして、偶々別の時間帯にいつも入っている店員がそいつの代わりにシフトに入ったりすると、袋のサイズのことで客から怒鳴り付けられることになる。
「こんな小せえサイズじゃゴミ袋にもならねえじゃねえかよ!!」
なんて唐突に言われても、店員としてはただマニュアル通りに接客をしただけで何故そこまでキレられなきゃいけないのか分からない。
店の方針が全店員に徹底されておらず、誰かしらマイルールを勝手に拵えると、そんな混乱が起きる。ただでさえ人手不足なのに真面目にやってる店員から辞めていってしまう。
そして、店頭で一人の客がレジ袋ごときでギャーギャー喚いて店員を拘束し泣かせていたりすれば勿論、あとに並んでいる客にまで迷惑がかかる。
去年
https://anond.hatelabo.jp/20200101232410
を書いた増田です。
去年は散々な一年でしたね。
私も、去年は個人的にも色々と散々な年だったんですが、そんな中でも「年始には半分釣りでタイトルつけたけど、ほんとに人生変わったかも」と思うところがありました。
まぁ正確には、変わってきたかも、、、?ですが。
以下つらつらと書いていますが、まとめると
「100分で名著とは別のジャンルで、去年実感した「知識がつながって読めるようになる」が再現できた」
それでいて、
それによって、去年一年で少し世界が広がったと思いますし、それでいつつ、本業で必要な知識の深化も出来たと思っています。
これが何故出来たかと言うと、一昨年本業と関係ない本を100冊読むという行為をしたメタ効果じゃないかな、と思うわけです。
以下詳細。
いきなり自分語りスイマセン。
去年もちらっと書きましたが、私は趣味の一つとして持久系スポーツをやっています。
レベルとしては社会人アマチュアでは上位1-2%くらいには入っていましたので、まぁまぁ本気の趣味です。でした。
が、一昨年(2019)の末に足をボキッとやりまして、都合4ヶ月ぐらい走れませんでした。
長い時間をかけて鍛えてきたものが為す術なく失われるのを見ているだけという喪失感は中々きつくて、だいぶメンタルやられました。
の上、御存知の通りコロナで夏以降の大会も全て中止、日常復帰後の練習モチベーションも上がらず正直一年で別人レベルまで体力落ちたと思います。
健全な肉体に健全な魂が宿る、あれは「だったらいいな」という話らしいですが、少なくとも肉体が「健全でなくなるカーブ」を描いているときには魂も降下カーブを描きますね。
振り返るとマジで生活全般にやる気の出ずやっとメンタルが上向いてきたのが晩秋ごろ、という一年でしたが、唯一分量を維持ないし増加させられた生産的アクションが読書でした。
結構これに精神的に救われていた部分もあると思います(クソみたいな1日だったが一応本は読めた。。。と言う感じ)。
春頃はもう死にたいとか思った瞬間もあった気がしますが、今は寝たきりになっても少なくとも本は読めるな、という心持ちでいます。
気持ちがどんだけ落ち込んでいても、ベッドの中でできる生産的活動がある安心感があるという感じです。
100分で名著解説本で掴んだペースを維持したかったのもあり、読書の方向性を広げる方向として去年はNHK出版のテキストを中心に選びました。
本の物理的サイズ、厚さ、章毎の分量等々が似ていたからです。(これは今まで読んでいた場所、時間、等々がそのまま続けられるということです。)
あと、NHKが好む文化人というのは大体決まっているので、百分で名著シリーズで知っている人が著者だったりして安心感あります。
結果読んだ数(下記しますが、28冊)が物語っていますが、良かったです。
NHKは番組内容とか受信料であれやこれや言われることもありますが、教育系のコンテンツは極めて良質だと思います。
前置きが長くなりましたが、特に読んでよかったのが宗教の時間シリーズです。
最初の7-8冊程度は、これは求めているレベルを超えている、九分九厘内容忘れるなと思いながら読んでいましたが、
これも何冊か読んでいうちに「知識がつながって」読めるようになってきました。
この年になっても、何かを身につける、学ぶことができる。それは読書による独学だけでもある程度可能である、ということは個人的に心強いメタ経験になっています。
逆に言うと最初の数冊はほぼわからないままなので、数年後また一気に読み返したいですね。
去年は、自発的にはまず読まないであろう本も、読んでみたいと思っていました。
そのための方法として、友人におすすめの本を聞くという方法を取りました。
また、一週間以内くらいには実際に読んで感想を伝えて内容についてやりとりするというマイルールを作りました。
これによって狙い通り、新しい関心フックが幾つか作れましたが、想定外の効果としてある程度親しくなった人とさらに距離を縮める手段としてかなり有効だったように思います。
一昨年以前の私だったら、それが有効だと知っていても負荷が大きかったでしょうが今なら別に無理せずやれる、むしろ楽しい、というところがポイントです。
今のところ猛烈につまらないものを紹介してきた人がいないのもありますが。。
何かについて知りたいと考えた時、ネットで検索するという初動は変わりませんが、さらに知りたいことがあるor体系化したいor記憶への定着率を挙げたい時、本を読むというアクションが自然に追加されました。
また、読書をするにあたって、ちょっとした障害になっていた事が怖くなくりました。例えば下記のように。
・中断:面白そうな本を見つけたらそっちを読み出してしまう。中断してもまた一週間もしたら読めるのだから。もし中身忘れていたら都度振り返ればいいのだから。とシンプルに考えられるようになりました。自由です。
・積読:いま読めなくても恐れることはない、そのうち読めると素直に考えられるようになりました。流石にそろそろ消化に一年ぐらいは掛かりそうなくらい本が積まれていますが、現在のところ三年後の自分を信じられます。
・読書履歴・読書キュー汚染:穏やかでない単語を使いました。これは要するに「話題になっているけど、こんな俗っぽい本を読む時間を~もっと重要な本が~」とか考えなくなったということです。気になったら読みます。
これらって結局全部やらない言い訳だと思うんですが、単純に読書に対する心理的ハードルを下げて読書量で解決するというパワープレイ(一昨年の私比)が可能になりました。
一昨年解説本を100冊読んだのは運動部一年生がやるような練習のための練習だと書きましたが、あれはそんなに外してないなと今でも思います。
百分で名著シリーズ:12冊(2021年1月分の「資本論」も、もう読みました)
で、個人的に出色なのは教養系の読書がたっぷりできたことより、仕事の本がたくさん読めたことです。
去年までは年間7-8冊ほど読んでるかな?という感じでした。
ところが、今年は読書に占める仕事本の割合は減ったにも関わらず、倍以上読めました。
本を読むという行為自体がスムースになったと言うか、「仕事の本は(趣味・教養の本より)重要である」という心の中の序列がどうでも良くなり、いつかは読めるのだから、になった効果だと思います。
はてなあたりで使われがちな「文化資本」「分断」あたりの用語の社会学的なバックボーンについて理解できました。
はてブ見てると「社会学者って、、、」と思うシーンも多いですが、必要な学問だと捉えなおすいい機会になりました。
面白くない話として社会を伝えて分析するのが社会学、という分類はなるほどと思いました。
逆に言えば、美しい弱者、貧者のストーリーなんかばっかり見ている人は社会学者とは言えないのだなと。こういう人はてブあたりでよく見る気もしますが。。。
年末だったのもあり、久しぶりに放送の方も全て見たのですが、やっぱりできたら放送も見るべきですね。
解説本の著者の言いたいことが、スルスル入ってきます。それと、伊集院光さんやっぱすごいなと。ああいうレスポンス返せる人間になりたい。
能楽師の安田登氏解説の古典説明本です。下記する「史記」でもそうですが、
漢字の成り立ちに纏わる深い知識(今ある漢字が成立した年代には開きがある)から独特な解釈をされています。
これが真実なのかはわかりませんが非常に興味深く、この著者の著書をあたったり、この視点で更に歴史を追ってみたいなと思わせてくれる本でした。
安田登氏の能舞台も見てみたいと思ったのですが、昨今の状況では難しいですよね、、、今年あたり何処かで見に行けるといいな。
タイトルのとおり、経典や歴史的事件ではなく残っている手紙から親鸞聖人の人物に迫ろうという趣旨の本です。
上記したとおり「何冊か読んだ効果」が大きいのでしょうが、これ読んで、はじめて浄土真宗わかった気分になりました。
ちなみにうちは曹洞宗なんですが、曹洞宗はいまのところわかったと思う瞬間がないです、、、
観無量寿経をベースに、浄土系の教えが中国~日本で花開いていった過程を追った本です。
私が読んだ中では最も単独で理解しやすく、去年おすすめした「集中講義・大乗仏教」と合わせて読むとより日本仏教の流れが理解できるかなと思いました。
宗教の時間は多くが前後編の2冊構成なのですが、1冊構成なのも読み返しやすくて良いです。
著者の釈徹宗さんには、もっといろんなお経の解説書を書いて欲しい、、、!!
単純に、日々の話題の元ネタとして興味深くまた著者が「面白い人」であると感じてとても読みやすかった。
独立した章立てで分割した読書もしやすく、何方にもおすすめできる本だと思います。
子供向けに実施された19世紀の科学講義を書籍化したもので、科学レクチャーの傑作と言われているそうです。
当時はプロジェクター等も無いため図があまりなく、正直、本として読んだだけでは当時の雰囲気を十分に味わうことは出来ないかと思ったのですが、
ファラデーという当代最高の学者がが全力をもって子供たちに科学の楽しさを伝えようとしていることはとても良くわかりました。
去年は西欧文明というか西欧社会の限界的なものが色々見えた年かなとも思うのですが、ソロモンの指輪もそうですが、こういった本を著した方々が繋いできたものはやっぱり尊いなと思います。
100分で名著の解説本を読んでから、絶対に読もうと思っていた原典の一つ。
下記の、薩摩焼窯元めぐりと合わせて水俣に行く前に読みました。
内容については私が今更感想をいうのもあれなんですが、「読む前と後で違う自分になっているような気がする」読書体験ができる数少ない本の一冊と思います。
あとがきにある通り、書かれていることは読んだ印象より遥かに創作の比率が高い、ということを差っ引いてもこれは日本人全員が読んだほうがいいんじゃないかと。
恥ずかしながら初・司馬遼太郎でした。焼き物が好きで窯元めぐりも趣味なもので、薩摩焼の里をめぐる前にと思って読んだんですが、面白かったです。
声に出して読みたい日本語というか、何でしょう、文章がうまいと言うより文章の響きが格好いいというか、流石昭和の大作家ですね。一気に好きな作家リストに載りました。
今、ちょっと重めのものもと思って坂の上の雲もちょっとずつ読んでいます。
タイトルの付け方も最高にうまいですよね、、頭にのこるというか。
これは分からないし分かりたくもない
ツリーを拝見した。
それともそういう相手は人間扱いしなくても良いって都合のいいマイルールがあるのか?
性的な行為に無頓着な相手を理解したくもないのは、好きにすればいい。
でも、理解する気も説得するつもりもないのに暴言だけ吐いて攻撃して、あげく正義面している様をみると、ため息をついてしまうよ。
以前フェミニストの誰かが言っていたんだけど、「男性はそもそも人間扱いするというのが何を意味するのかわかっていない」。人間扱いされたことがない男が多いから。
あなたの「人間として見る」の概念は意義深いものだと思う。似たトピックはたまに増田やはてなブックマークにも上がってくるけど、ちゃんと論じられたことは今まで一度もなかった。
できればそれを労をいとわず語ってほしい。
なにか信じるものに従えば必ずおちんぎんもらえるって一点張りの無知を知性とか信仰とかいうとあとで悲しくなるかなと思うよ
宗教だって思ったりするのだとしたらその制約を誓ってたご本尊が蛆虫の塊だったって見えたとき絶望すると思うんだわ
まず経済を勉強して実地で体感してから金融派生商品を触ったほうがいいと思うよ
きっと何かに例える発想があるなら学んだその後できっといい表現が生まれる気がする
まずね経済が波があってその差で儲けるってのは波乗りとおんなじその局面でだけできる偏差がるんだわ
商売やってたり会計やってたりすると何日締めで何日払いとかあるよね
あれなんでだと思う?
販売があってお金が儲かるのがお仕事なんだけどあれ大概は借金してモノを仕入れてそれをいいタイミングで売って儲けるの
仕入れの代金とか従業員のお給料とか電光熱費に事務所家賃に税金などいろいろ
いつ払いますとかこれだけは年末までため込んで使っちゃいけないお金とかあるからどうしてもタイミングが合わなくなるものがでてくる
取引先がみんな25日締めで払いだとその日に全部の現金を用意してないといけないよね
なのでこっちにお金がはいってくるタイミングとお支払いするタイミングが分かれるわけ
これで差ができるんだなーと思ってもらえたらいいんだけどそうでないならもうちょっと
そのリスクを減らすために現金が発生するタイミングを増やしたりするんだよね
歳末とか毎週のセールとか取引を現金でするから値引きとか長いスパンでの取引とか
そうするとどこで現金がほしいか何の取引に利益がでるかで「そこでできた利益の分け前をくれ 仕入れの金を援助してやるから」って会社の機能を切り売りできるものがあるんだね
それが株なんだけど何をどうする予定があるとかわかればすぐそこに乗り込んできて利益をふんだくるやつがいるからインサイダーとか厳しい取り決めがあるんだけど
そういうこまかいのは調べればいっぱいでてくると思うので調べてみて
その今の時点の会社を買い支えるっていう公開株の取引きのほかに夏になったらビールが売れるとか冬になったらダウンがうれるとかのタイミングで
夏からダウンを作ってるところにダウンが売れるわけがないので製造料金は売上のない完全マイナスなんだけどこれを先に売ったりもできるんだよね
小麦がとか小豆がとかでヤバイって先物取引の話とか漫画にもなっててみんなよく知ってるよね
農家のみなさんはすでによくされてるけど作物が出来上がって売れたら初めてお金になる
台風とか水害とかこう害とかでダメになったら投資が全部ゼロの儲けになってしまうとかそんなのみんな知ってるよね
約束とか嘘とかそういう言葉にすればそういう取引だったり概念的だとか宗教的だとかいまはその知識に当てはめられると感じてるかもしれないけど
それは経済って仕組み一本で純粋に成り立っているので人間性とかそういうのは入らずにそんな仕組みはあるんだよ
なぜ未来がとか願いがとかって思うだろうけどそれは期日って決めたお互いの経済循環的機会つまりタイミングをずらすことで約束を破らず果たせるようにしてる姿なの
そのずれが大きく離れるときにリスクを回避するためにとる手段が現金とか流動貨幣的に募集したり投入したりするタイミングになるわけ
根性や自分ルールでその派生商品に利益がでるわけではないんだよ
単純に考えると自分が「儲かる!」って見えて感じてしまうそのタイミングが「どの周期をそう見てしまっているのか」という事に気が付いてルールにしたのなら
自分の感覚の動きが情勢を理解して把握しなくても小さなデータから傾向を割り出すことができる指針になっているかもしれないってことだね
そういう勘はその人自身の人生そのものが反映しているわけでだからどうだと言ってもマイルールを分けることや説明することに特に意味はないかな
たとえば私は交差点で目があった人とはかならず目をそらされてしまうそういうジンクスがあり傾向がありその性別はどちらが多いとかデータがあったとしても
取引には現金で即日という最強の取引から期待値に不動産を貸し出すとかまでいろいろあってそれぞれにちがうリスクがあるので
相互に埋め合わせるために盾と矛みたいな経済循環をもっていてそのタイミングに必要な貨幣量っていうのがその取引自体では等価なので
時間でその量がたまるのを待つ以外にはもっている人から借りるということで時間を減らすことがリスクの回避になっているから
その相手の必要なタイミングでお金をつっこめばありがとうって感謝とともの元本が返ってくる
逆に準備がし終わって払い出すタイミングだと払う側に準備予算と同じ高さで会社の一部を買い取ってその会社の「次に借りたいお金の分量」が下になるときに売ってしまうと
次のタイミング用に買い付ける人たちがその下側の値段でなら引き取りますよってくるんだね
FXとかはそのさらに大きな国単位での時期とか商品とか予算とかに全部の分の取引相手国の現金が必要なんだよね
これが商取引なんていう各個人それぞれの都合で必要な貨幣量の総合計を国とか銀行がストックするのってすごくリスクなんだよね
国単位の明日の状況とか予想とか出来る訳がないから現状を常に見て変動してるのでたしかに一日で倍になるかもしれない
同じ確率で半分になるかもしれないその安全性の確保は偉い人が「いい感じ」って言うとしてその理解をその下がどう行い市場がどう動きみんなが何を買うかで変わる
もう勘で動くというのが4重奏くらいなわけ
こんな「くじにはあたりが必ず入っている」という確率が四分の一つまり「あたりなんてはいってない」が四分の一ほどにもある状態にみんなのお金を入れられないよね
博打の胴元をしてどうせ当たらないだろうと思って掛け金をのんじゃう人みたいなやばさがあるわけ
なので一般市民のみんなの現金をオラにわけてくれって方式で募るのが外国為替証拠金取引なの
みんなが保険会社みたいな感じだね
反対に度を越えたらみんなが保険金をお支払いするっていう契約の保険会社を自営業でやってる感じ
銀行や国が手をだしたくない賭けなのにみんなが必ずもうかるって訳はあるはずないよね
だけどその動きはできるだけ多くの情報を知ることでより確率の高い方向へ向かわせることができるよ
細かい連鎖が数珠のようにつながってるような鎖のペンダントみたいな形になっているというか紐を端から揺らすと先端がどこに動くかなんて予想がつかないよね
でも繋がっているものがそれぞれ全然ちがうものをつなぎ合わせてチェーンにしたものでもそれぞれがどう動くかなんとなくわかっていたら先端がどっち向くか予想はできるよね
その繋がっている情報をどうやって手に入れるかがとても重要な動向の予想の鍵になるわけで信仰とか宗教とか感情とか人間性はあんまり関係ないよ
でも逆に考えて人がそれぞれどういう感じでうごくからこんな施設があってこんな業態があってこんな商品がいつ売れているから今はどうなるかって予想は一人の人間でもできる範囲にあるよね
春だから何がうれるなーとか秋になったらとか男性だから女性だから子供だから作業員だから官僚だからといったようなそれぞれのニーズがそれぞれのタイミングで存在してまたそうじゃないタイミングとそうじゃないのに準備をしないといけないタイミングがあるよね
お米を売ったお金が入っていたらいいけど入っていない状態で田植えをするとなると「お米を買った人以外」からお金を集める方法が必要でそんなタイミングで売りに出るものがあってそこで買えるものは「お米が売れる時期」に価値が増すしそうじゃない時期にはお手頃で買えたりすることになる
その売りのタイミングや買いのタイミングを季節か雰囲気とかだれの態度とかどんな動物の状態かとかそんな雰囲気で感じ取って判断してアタリを引く人もいるわけで
そんなルールがあるならそれに従うといいねというだけの話であって「ビーバーが小屋をつくったら小麦の輸出高があがる」とか言い出す人のみているビーバーとあなたの観察しているビーバーが同一かどうかまた場所とか気候ほか温度やなにかについて同一でもないなにもかもが物理的に一致していない人が繰り返してもそれを感じ取ったりできる可能性は高そうではないよね
そう自分の財布にあるお金とその商品の末端の行き先の間にあるものを全部うめていけば科学的に値動きはわかるはずだよ
その一部だけでも形骸化して人間に把握できるようにしてるのが経済
あなたの持ってるお金で小麦の先物を買うとしたら知っておくべきは
・小麦の流通状況 組合などの状況とそれに接続している数件の業者と運営にかかわる状況
・運輸運搬・取引先の状況 事業自体に関わる法制度や自然環境的状況 取引先の状況
・小麦を使った製造業 市場における商品の状況とメーカーの状況
・製品の取り扱い業者状況 製品の広告や製品の販売実態に対する状況
・製品を取り巻く当期の状況 製品自体の販売タイミングにおける消費動向などの状況
これを全部把握するとしたら何億や何兆といった数の情報を行動について判断できる精度で得る必要があるのが最低限必要なんだけど
そんなの個人でできるわけがないのでそんなリスクを背負うことを業務としてはできないので個人のあまってるお金で投資っていうものをしてくださいねってのが一般の金融派生商品の約款には書いてあるというか取引条件がそれなんだね
でも人によってはそれらが織りなす大きなパターンをなにかの絵に見えたり動物にみたてたり風景のように感じて判断できる人はいないとはいわないしいるとおもう
みんなそれらが理解できないしあることがわかっていても風景にすら見えない人が全然関係ないものをあがめてその雰囲気を上記の最低限必要な情報の集合体と見立ててすがるのは
たしかに宗教的かなとはおもうけどその情報の集合体であるご本尊は貴重な市場データが高い純度でつまった大理石の像なのかなってことを知ってほしい
手垢にまみれたあまいつくりの木彫りのご本尊がそのたった1商品を取り巻く広大な情報と今後の世界における位置づけや動向について示すコンパスになりえるのか
崇めている巨大な「セミナー」とか「勉強会」とか「コーチング・コンサルティング」のその姿を成している情報の点の集まりは宝石なのか蛆虫なのかどうか
それすらわからないもう「宗教かも」というスケールでみているのだとしたら人工衛星から地表に設けたダーツ盤に矢を放つようなものじゃないかな
もしも投資をしていたりするつもりだったりそれがいいものだって思ったりしていたりするなら
いまいちど宗教とかそういう事から離れてまずお金ってどこから生まれてくるのか探してみたらいいんじゃないかな
そういう探求をしようと思った時「納得!」させてくれる人がいたらまずその人はさけるべきだとおもう
無知な人が理解ができる情報の限界は無知な人が理解できるレベルなはずがないんだよ
「納得」してしまう現実を見れる場所を教えてくれる人がもしそこに連れて行ってくれるというなら行ってみてもいいかもしれない
もちろんその人自身の知識を尊敬し理解し納得する最低限の法律と情勢の基礎知識である経済は簿記がとれる程度には知っておく必要があると思うんだけどね
自分の生きる意味というか、人生設計や行動を決める上での指針。
作りかけ。
こういうのみんなある?よかったら取り入れたいから教えて!
自分教は、自分が幸せであることを一番尊いことだと置いている。
・サボるのも、逃げるのも、諦めるのも、全部OK。ただしその状態が苦痛になったらやめること。
・自分のやりたいことにはお金をかけても良い。ただし、長期的に見て幸せを損ねない程度かどうかは天秤にかける。
ただし、自分の大切な人が幸せか?周りの人が幸せか?も勘定に入れる。また、その行為をしている自分は客観的に見てどうなのか?を考える
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・自分教では、自分が死ぬときに誰かに悲しまれたり、感謝されるような生き方をしているか?を行動の指針としているから。
・・・など。
(服の種類は固定にする、本への出費は惜しまない、などなど)を作ったりしているけれども、
数ヶ月前に二次創作用のツイッターで興味深い経験をしたから、ここに綴っておこうかと思う。
生きづらくなかろうか…と、感じた話で、おそらく私の二次創作への熱量なんてそんなもんで、相手にしたらとてもとても大事なことだったのかもしれない。
あるフォロワーさん(Aとする)からDMをいただいたことがはじまりだ。
ちなみに、私の二次創作垢は、ジャンルごった煮だ。そこを分かって繋がってる方々ばかり。
始まりのDMについては、私も改善できることだから、そうしようくらいで話が終わったが、以前から気になっていて繋がっていようか悩んでいたことがあるということから、Aの生きづらさや拗れさせてしまっている部分が見えてしまった。
・Aの作品に対して反応が少ないのはなぜか。Aが嫌いなのか。(TLを見逃したという理由は受け付けられない)
・嫌いな作品でもマイナージャンルにいるなら、推しカプの作品には反応をすべきだ。(自分はそうしているからみんなもすべき)
・Aは、大手にいた頃にパクリを疑われないためにと他と違った作品を書くためにと特殊設定を書くようにしているから、作風は変えられない。
以前から、自身の作品へのいいねやブクマがないことへの不安や反応がないことへの疑問を投げかける呟きはあったが、こんなにも悩んでいたのか…と初めて知った。
と、同時に、私にはこんなにも自分の二次創作へ熱量をもっていないなぁと感心した。
正直、ツイッターでのいいねやRTは、見逃した、流れたが理由だ。ジャンルごった煮のため、200も繋がりがあれば、TLは流れるし、支部にあげているならツイッターのホームにわざわざ見に行ってまで、新しい作品を確認には行かない。
Aのマイルールについては、私はずーっとツイッターにいられるわけじゃないから、見てあげられない、ごめんね…な状態だ。
私は、アラサーの腐女子だが、Aはアラフィフのサイト全盛期からの腐女子。
たぶん、ツイッターの流れとサイトの流れに付いて来られなかったのかもしれない…。
情報交流ツールとして流し見する私と反応をもらうためのツールとして使っているAと。
兎にも角にも、Aは、反応が欲しかったのだなぁと思う。
そして、他と差をつけるために推しカプの名前だけしか合っていない設定でも、書かなくちゃならないくらい、二次創作から離れられず、生き甲斐なんだなぁとも。
それに拍車をかけるように、マイナー界隈なのに、なぜか「文章も絵もできる両刀はすごい!」という風潮がでてきたのもあるだろう。
Aは、文章だけでやってきたが、その風潮にのり、自分の二次創作も!と思ったようだ。方や、私は、絵は表現方法じゃないから描かない。二次小説を気まぐれにアップする。時たま、有難いことにたくさんの人に見ていただける時もある。(ジャンル次第だけど)
ジャンルもごった煮で、思い立った時にふらっと二次創作を投下して、同人誌の原稿にも追われず(数年前に社会勉強でサークル参加して満足した)、好きかって喋って、TLにいないことが数日あったりするような私へ、
少なからず気に食わないことがあったのだろう。
いろいろしてるのに、なぜこんな奴に…そう思ったのかもしれない。
ただ……ここでやはり、Aが気持ちをぶつけた先が私だったことが、ほんとうに申し訳ないなと思った。
こんなに自分の作品を見て欲しい、サークル活動もして、絵も文も両刀になろうとするAの気持ちを想像することはできるが、理解は難しい。
これが、私のようなものではなく、同じくらい二次創作に熱量を注ぐ誰かだったら、もっとAも救われたんじゃないかと思う。
ツイッターという架空の世界で作り上げた、顔も知らない私というキャラクターに嫉妬して、ぶつけて、なのに、私には興味深い経験をしたと思われて…この食い違いがごめんねだ。
Aの生き甲斐は、二次創作であり、承認欲求を満たしてくれる誰かの存在を感じることだったのかもしれない。
だけど、私みたいな、熱量が違う相手に嘆いても、私はAの思う存在にはなれない。
だって、二次創作は他人のふんどし借りて楽しませていただいているものだ。
そんなに苦しくなってまでやらなくてもいいんじゃないかと、Aが可哀想になってきた。
改善できない旨を伝えても、Aからは、「フォローは外しません」ときた。
私のたった一つのいいねとRTでは、マイナー界隈は救えないし、狭いコミュニティの見せ合いっこなのに。
私はあまり気にしないから、そのままにしていたら、Aは二次創作作品を電子書籍化して販売をするまでに至ってしまった。
(これにも議論はあるようだが、私は電子書籍化はしてはいけないと思っている。たとえマイナーでも界隈に無用な火種は持ち込むのはどうかなと…
まぁ、正直なとこ怖くなった。公式から万が一にも目をつけられたらと)
そして、ついにブロ解をしたが、数時間後にAからフォローが来てしまった。
どうも、Aはマゾヒストなのかな?と、私のことにばかり囚われていないか?と。
最終手段は、私が消えてあげることだ。
大した熱量もなく二次創作をしている私にこれ以上、囚われていては可哀想だ。
その後のことは、特に情報ツールとしてしか使ってないアカウントに思い入れはなかったため、削除してしまっから、Aがどうなったか分からないけれど、二次創作を続けているんじゃないかと思う。
私は、変わらず二次創作を気まぐれに思いたったら、投下して、好きなことして過ごしている。
ただ、Aはどうしてあんなにも顔も知らない私に執着してしまったんだろう。
二次創作をほんとうに楽しんでいるんだろうか。
生きづらくないかなぁ…と今も思い出す。
最近、同人女シリーズという漫画が話題になっていて(やっぱり私には理解が完全じゃない部分もあったけど)、ふと数ヶ月前の経験を思い出して綴ってみた。なんの関係もないもな。
備忘録かもしれない。