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はてなキーワード: テキストとは

2020-12-09

anond:20201209110202

まず根本的に話がわかってないように思えるんだけど

テキストに書いてあるURLクリックするとその先でバッチが動くって話であって

ユーザーバッチ認識して起動させてるんじゃねえんだから

知らないバッチを走らせるうんぬんなんて的外れもいいとこ

2020-12-07

anond:20201207215638

意志が強いっていうのか、全部電源が切れるのはいいな。

自分は「読みたい」の他に「書きたい」があって、テキスト入力機能を捨てきれないでいるんだ。

KindleRaspberry Piディスプレイにしている人もネット上で見かけたけど、たんにシェル上でエディタが使える程度なんだよね。

eInkのタブレットも売ってるけどAndroidアップデートができずすぐに使い物にならなくなる気がして、手が出ないな。

夜に画面を見ないようにしたい

なんだか最近睡眠の質が良くない、というか寝付きが悪い。

寝る直前までスマホの画面を見続けているせいか、頭の片隅が疲れているのだけれど、いざ寝床に入って目を閉じてもなかなか寝付けない。

スマホを大型画面のモデルに変えてからさらに寝付きの悪さが悪化している気がする。

寝床に入る少なくとも2時間からスマホをいっさい見ないようにしようと思って実行してみたが、2日目で挫折した。

手の届くところにスマホがあると、LINEの返信をしないと悪いような気がして、ついつい見てしまう。そのついでにTwitterを覗いてしまったり。

絶対に、絶対に見ないようにするんだと思ってスマホの電源を切ってみたが、しばらくすると頭の片隅がむずむずしてきて、つい電源を入れ直してしまう。

あと、こんな時間にここに書き込んでいる通り、ネット上にどうでもいい文章を書いて投下すること自体が好きなのでついやってしまう。

スマホを見ないように自分自分コントロールすることができなくなっている。そのことは自分でわかっているのに、どうしようもない。

せめて画面から出てくるブルーライトの量を減らして目への負担を減らせないかと思って、スマホからiPod touchに切り替えてこれを書いている。SNSを見るアプリは入れないようにして、テキスト入力だけはできるようにしてみた。Night Shiftにして画面の色を暖色系にもしてみた。

こうすると少しだけ目への負担が減った感じがある。

できれば夜に画面をいっさい見ないようにしたいが、それはまだできていない。

スマホが普及する前にはできていたはずなのに、なぜ今はできないのだろう。

寝る前はペンメモ帳だけしか使わないようにしてみたが、自分の書いたものをどうしてもテキストデータで残しておきたくなってしまい、けっきょく挫折した。

テクノロジー人間自由にすると思っていたのに、自分場合依存してしまって、かえって不自由になっている。

この状態から抜け出したいと思っているのに、できないでいる。どうしたらよいのか、もうわからなくなっている。

本当にどうすればよいのだろうか。

しろテキスト入力以外のキーボード操作無効化すべきだと思う

https://zenn.dev/tak_dcxi/articles/f958e96888ee47


ウェブUIキーボード考慮されてないのが多すぎ


ボタン押せなくするのは透明な要素を上に乗せるだけだったり

キーボードフォーカスしてエンターすれば押せてはいけないタイミングで押せるので整合性おかしくなったりエラーになったりするサービス普通にある


スライドで切り替わるタブの見えない部分もフォーカス移動できたり

⇨タブキーフォーカス移動するとブラウザがそこを表示可能範囲自動スクロールするから想定されていない中途半端位置スクロールしてタブの表示が壊れる


考慮してない物が当たり前のようにあるしいちいちキーボードまで考慮してられないならいっそキーボード操作無効にしたほうがいいと思う





anond:20201207021857

そういうことじゃないんだよな

機能制限されるガラケーの時にわざわざネットサーフィンしてたか?って言うことなのよ

PCサイトビューアなんか使い物にならなかったし

2ちゃんは基本テキストからガラケーでも見やすかった部類に入るけど、精々元から知ってるものぐらいしか開かなかったでしょ

2020-12-06

母にはiPadを、父にはSwitch

まだ先の話だが親が定年したら母にはiPadを、父にはSwitchを贈ろうと思っている。2人とも同い年なので同じ年に定年になるはずだ。

母は自分で楽しみを見つけるタイプなので50を過ぎてから2.5次元舞台にハマったり女子向けソシャゲで遊んでたり趣味が多い。ソシャゲ動画を思い切り楽しんで欲しいので大きな画面のiPadを贈りたい。

父は若い頃こそゲームをしたり映画を観たり推理小説を読んだりしていたが今では休日は日がな一日テレビを観ている。映画もたまには嗜んでいるようだが、以前は難解なミステリサスペンスを好んでいたのに今はなぜかJKが観るような少女漫画原作イケメンラブコメ映画をよく観ているらしい。そして観たテレビ映画に「たいして面白くねえ」と不満を漏らしイライラしている。どうやら難しいことを考えるのが苦手になってしまったようで小説も読んでいない。ゲームも新しいものについていけずPS1のもので止まっている。最近はそのPS1も埃を被っている。もう動かないのかもしれない。

もともと内弁慶気質だった父がテレビイケメンラブコメ漬けになってからモラハラ家族に対する配慮のなさが加速した。父と母の口論しょっちゅう(だいたい父が癇癪を起こす)だし自分ももう長い間父とまともに会話をしていない。趣味や好きなことを持っていない人間他人攻撃することでしか面白さを感じられなくなるということを聞いたことがあるがまさにそんな感じだと思った。

そんなことをぼんやり考えている中、映画版の「光のお父さん」を観た。ブログ版やドラマ版をすでに観ていたのでエンタメに特化した光のお父さんだなぁ、という感想を抱いたが面白かった。

自分も幼い頃から父の影響でFFDQを遊んでいた。今の父からは考えられないが自分がまだ字が読めない頃はスーファミコントローラーだけ持たせてもらい、父が横でテキスト音読しながらゲームをしていた。今でいうフルボイス実況みたいなものだ。フルボイス実況全部父。

そんな思い出があるから今の父に失望しつつも「光のお父さん」のようにまた一緒にゲームをしたいという気持ちもある。自分オンラインゲームは苦手だしきっと父もハマらないであうから、父が定年したらSwitchDQ11Sを贈りたい。DQ11は原点回帰というか昔のドラクエ好きな人にほど刺さる作品だと思う。父が定年する頃にはまた次世代機が出ているかもしれないが、ひと昔前のゲーム機が父には似合っていると思う。

またいつか父と冒険できる日が来るといいのだが。

2020-12-05

萌え絵アニメーションに向いてないという勘違い


巷で話題萌えアニメオタク害悪だと主張する記事を読んだ感想である


私は萌えアニメからいわゆる硬派と呼ばれるアニメまで広く嗜む、アニメ視聴歴20年くらいのしがないアラサー男だ。

ジャンプサンデーと言ったお馴染みの週刊誌で人気の原作アニメが、テレ東ゴールデンタイム毎日のように放送されていた頃に、箸で摘んだ夕食のコロッケテーブルの上に落としブラウン管にかじりつく少年期を過ごし、最近新刊が発売された『涼宮ハルヒの憂鬱』をきっかけにいわゆる深夜アニメ世界に足を踏み入れて、今日に至ると言った経歴(他に言葉が思いつかなかった)を持っている。

視聴作品数は、履歴書に書けば人間性理由採用確率が30%減になるくらいあっただろうか。と言っても熱中度でいえば大したモノではなく、どんなに気に入った作品でも円盤を買ったり、グッズ等を買う程度だった。興奮が抑えられず感想ブログに載せたり、二次創作に勤しんだりするくらいならニコニコ動画で他の作品の視聴課金をし始めるくらいには職人気質は持ち合わせておらず、人によってはカステラ茶色の表皮だけをすくって人工甘味料(無いかも)の鋭く刺すような舌触りだけで満足するような、奇怪な楽しみかたをダラダラ続けていただけに見えるかもしれない。

そんな人間がひさしぶりに取れた休日の暇潰しに書いた文章だ。

簡潔に何が言いたいのか知りたい方は、途中全く大したこと書いてないので、最後だけを読んでほしい。

以降は今の俺以上に暇だと宣言できる、大変人間強度に優れた人だけが読み進めて欲しい。


主に作品ごとのアニメーションが持つ性質役割の違いについて横道に外れながら綴っていきたいと思う。

過去に色々な作品を目にしてきている者ならばご理解いただけると思うが、「好きなアニメは? どういうところが好きなの?」と質問を受けたとき、瞬時に心動かされた場面(シーン)が頭の中を駆け巡り、「さてどれから話せばよいものか……」と、全身が幾分高揚している自分がいることに気づくだろう。

それらはキャラクタたちと共にストーリーを辿ることで得られた感覚につけられた名前のようなものだと私は考える。そしてそれらは言葉では表せないが、私たちに中で一種の『共通言語』的な役割を担い、機能しているのだ。


例えば以下のシーンを目を瞑って思い浮かべてもらいたい。


『氷属性もつ冷徹残忍な魔女が、手に持った杖を振るった。その瞬間空間四方から無数の鋭利な菱形をした氷の刃が出現し、彼女の透明感のある艶やかな唇で結ばれる「さようなら」の言葉を合図に一斉に襲いかかってきた』


数々の映像作品を見たことがある人なら、無の空間からパキパキと音を立てながら蒼白い形作られ、魔女の妖艶な笑顔が映った次の瞬間に鋭い氷の塊が視界の中心に集まってくる2、3カットくらいの映像が容易に頭の中に流れたことだろう。

これは性格によるのかもしれないが、私は基本的には物語の進行上は「それ」でOKと考えるのだ。

「それ」とは、視聴者の頭の中で出来上がった薄ぼんやりとした2、3カットのことであり、重要なのは「それ」を我々視聴者に想起させ、作品を補完させることだと考えている。

例えば先のシーンで「魔女がどんな容姿でどんな服装服をまとい、どんな体勢なのか」とか、「魔女と言うくらいなら箒に乗っているのか」とか、「どんな服を身に纏っていたのか」とか、「どれくらい勢いで杖を振ったのか、杖の先はどこを向いているのか」とか、「氷の軌道は直線的なのか最初に外側に弧を描くなどトリッキーな動きをしているのか、時間差のある多段階攻撃なのか」などの質問されたら、スラスラと答えられるだろうか。(……私だけができないのなら怖い。ショックのあまり寝込む)

おそらくだが「いやそんな細かいところまでは……」のレベルの話だと思っている。多分これができる人はきっと絵が上手いはずだ。私は私を含め絵がど下手くその人がこの世にいることを知っている。

ぶちゃけた話、そこの解像度が高くなくても我々には多分『伝わってる』のである

しろ、それでどれくらい負傷するのかとか、実力差はどれくらいなのか、どうやって勝つのか負けるのかなどの次の展開に興味が移っていないだろうか。さらに言えば、この魔女性格はどんな感じなのか? 冷徹なのだから口調は厳しいのかとか、魔女主人公のこと気に入ったりするのか、追々仲間になる展開なのか、と言った、キャラクタの心情の移り変わる様子すら、この段階で期待してそれを軸に妄想を膨らませる人もいるだろう。

さらにここに、


『氷の魔女と呼ばれる彼女は、実は地球に住む人間の種を手に入れようと狙ってやってきた宇宙人であった。侵略活動やすいよう周りの空気自分たちの住む星の大気温度まで下げるため、彼女腰掛けているステンレス製の巨大三角から温度を奪う冷気的な何かを放出していて、空気中の水蒸気が氷結してできた塊を利用し相手冷凍保存しようとしている』


と言ったストーリーの上欠かせない設定が加わった瞬間、魔女攻撃の一連の動きがどれくらい迫力があるのかよりも、物語の展開的な動きの方が気になってこないだろうか。アニメーション上の緻密な動作よりも、ギャグ調を出すためにSDキャラデザや画面効果といった要素の方が卓越してきそうなモノである


要はその作品がどんなジャンルでどんなテーマなのか、その中でアニメーションをどう位置付けているかで、表現千差万別の答えを持っていると考えている。立体的な動きとか力の伝わり方を見て取れるようなリアリティを重視するよりも、もっと感情移入して欲しいかキャラクタの魅力を全面に出す方針があるのであれば、背景のモブと呼ばれる方々まで生き生きと動いていればその画面の映え様に感動するけど、そこに力入れるなら止め絵でも良いかキャラ造形やカラーグラデーションに力が入ってて欲しいよねって意見も当然あると思う。

この時萌え絵かどうかはあんまり本質的問題ではなくて、視聴者各々の共通言語とどれほどマッチしていて違和感あるかないかの話に過ぎないと考える。

これより先は趣味指向トレンドしか言えない領域突入してしまう気がしてならない。そこは表現の自由が担保されている以上、善悪判断軸が及ばない空間である

もしそれに対して「過去多くの作品萌え絵が使われていて、時間をかけて大衆になじんでしまたことで不当にも市民権的なモノを得てしまたからだ!」などと主張してしまっては、もはや時代(トレンド)に対する憎悪しかなく、いつまでも見えない相手との戦いを余儀なくされることになるだろう。

キャラ造形に対する文句ほど不毛なことはない。


ひと昔前にギャルゲー原作としたアニメが多く生み出される時期があった。のちにラノベ原作アニメが多く輩出される時代が訪れることになるのだが、当時としてはニコニコ動画を始めとした他メディアで取り沙汰され、言わば萌えアニメの本流とも言える地位を築いていたと思う。

ではそのどれもが、彼がいうところの『強度』なるものを有してたかというと、……なんとも言えないところはあるかも知れない。

当然のことだが何千枚という数の原画に対して、その全て原作独特の繊細な塗りを再現するのは時間的にも経済的にも叶わず立ち絵差分とスチルと効果のみで表現されていた絵に対して、話の展開にマッチするようにかつゼロから動きを盛り込むのはやはり至難の技のようで、結果的作品の持つ強みを生かしきれないまま終わってしまったものが多くあった印象がある。

その原因は、アニメ萌え絵が向いていないというよりは、テキスト……特にキャラクタの心情面に比重が大きい作品は、初めからアニメーションを十二分に活かせるだけの舞台比較的狭いように思える。キャラクタ同士のウィットに富んだ掛け合いを楽しむだけなら、それこそゲームのように会話と場面移動、要所要所で叙情性の窺える背景描写カットの繰り返しで事足りてしまい、ともすれば動作は間を持たせるためのツールになってしま可能性すらあるのだ。身もふたもない話だが。

まりなんとも言えない感じになるのは萌え絵のせいではなく、作品のコンセプトにいかアニメーションを上手絡めることができるかによるのだ。そしてそれは当然、作品ジャンルアクション主体なのかコメディ主体なのかリアル恋愛主体となるのかでアニメーションの寄与度の上限が決まってくるので、表現手法の一つである「動き」単体で評価した時、ジャンルによる偏りがどうしても出てしまうモノなのだ。画面映えする動きがなくても『十二人の怒れる男』(実写映画だけど)のような名作は生まれる。

実際のギャルゲー原作作品には、画面映えを飽きさせないようなさまざまなアイデアが盛り込まれていたけど、いよいよ話の筋から外れてしまうから割愛したい。


画面を縦横無尽に駆け巡るアニメーションは、突き詰めればただの動きであり、結局は表現手法の一つでしかなく、ストーリーとの直接的な関係がなければ、ストーリーへの直接的に干渉することはできない別レイヤー存在にすぎないとも言える。

絵コンテ等の段階でスクリーン上の動きに込めた意図に気づける目の肥えた人にとっては、「動かし屋さん」の実力が垣間見れる瞬間であり、味の決め手のような作品価値を決定づける重要ポイントなのかも知れない。

だがストーリーの展開に目が向いてしまう人々にとっては「面白い動きだな、他作品ではあんまり見ないカットを入れてるな」くらいに止まっていて、やっぱりキャラ同士の会話やその時に垣間見れる感情自分リーチできるかどうかに関心が向いてしまものだ。

昨日NHKの某番組で紹介されていたが、殆ど人間は1秒間に4,5枚の絵しか見れないらしい。一枚絵のカットの切り替え表現の繰り返しは、程度にもよるのだろうが、予算工程など諸々の事情を鑑みた時、大変妥当表現だと個人的には思う。

昨今のは様々な形が出てきたとはいえ、まだまだ異世界生モノアニメブームが続いているように見える。

少ないリソースで最大効果を期待する戦略としては非常に合理的だと思っている。

ストーリー上の役割が小さい場面では「異世界生モノあるある」やその根底にある「子供の頃に慣れ親しんだRPGの思い出」という共通言語を利用して絞り、作品オリジナルの強みにピボットを置き部分的に「動き」のリソースを割くことで相対的な画面と展開のギャップを生み出し、差別化と人気を獲得するにあたり大変都合が良いのかなと思っている。

この潮流について個人的にどうと言うつもりはない。むしろ当然の流れだと思う。個人的には長らく続いてきた「高校生部活青春ドラマ」がようやく落ち着いてきて、代わりに台頭してきたくらいの感覚だ。時代とともに変遷する価値観や需要を端的に示していると思ってる。


ところで『リトルウィッチアカデミア』というアニメ作品をご存知だろうか。

2017年に株式会社トリガーから出されたオリジナル作品で、ヒロイン少女アッコが憧れの魔女シャイニィシャリオにのようになろうと魔法学校入学し、仲間達と共に成長を遂げていくというお話である。当時OP映像を見てその作り込まれ世界観引き込まれ、全話リアルタイムで追っていた。

ご存知の通りトリガーといえば他にも『キルラキル』や『SSSS.GRIDMAN』を始めとする数々の名作アニメを世に生み出した有名なアニメ製作会社だ。

社名に違わず弾丸が飛び交うような激しいアクションシーンが特徴的で、およそ10年にわたり多くのアニメファンを魅了し続けてきた。

何の因果か、つい先日株式会社トリガーが手がけるのアニメオリジナル放送前となる『リトルウィッチアカデミア』の短編映画原画制作する新人アニメーターたちの様子を追ったドキュメンタリー動画を、失礼ながらもしゃちく☆まっしぐらしていたリアタイ当時の自分の状況と重ねながら観ていた。

今回この拙文を書こうと思ったのも、その動画を触れたあとの余韻がそうさせたのだと思う。

動画の内容が気になった方は各人で確認してもらいたい。

端的に言うと、彼らが手がける他作品と一線を画す豪快な「動き」に込められた感動を生み出すもののの正体はアニメーターたちの寿命のものだ。

そこまで心血注がなくたって、既に共通言語を獲得している我々にはその半分以下の動きであったとしてもおそらく『伝わっている』のである。だが彼らはそんな事眼中にはなさそうだ。彼ら自身が観たいものを描いているだけなのだろう。シャイニィシャリオクルクルと回りながら杖を振り動物たちの花火魔法を出すまでのたった数秒の「動き」に、何週間も終わりの見えない苦悩を重ね続けるなんて、それこそ描くこと動かすことが大大大好きでもなければやれるはずがない。私のような観ているだけの人間には理解できない世界がそこにはあった。

間違いなく時代トレンド関係なく後世に伝わってほしい作品の一つだし、アニメ好きの私は一つでも多くそう言った作品が世に出てくることを願ってやまないものの一人ではある。

だがそれがアニメの全てだとかあるべき姿だとかそういう指向性に囚われるような話でもないと思う。

だが、予算制作期間と人員の消耗等のあらゆるのリスクを考えるのであれば、それらアニメーターの生命と血が滴る作品を世に出すことは、何十人何百人の人生をかけた大勝負であり、そんなものを定期的に見せておくれよなんて烏滸がましいことを言えるほど私は偉い人間ではない。

製作陣の戦いの姿の一端を見ただけで、シャリオが振う杖の軌跡一つとっても、数年に一度しか拝めない奇跡の奇蹟と言われても納得できるし、胸の内から熱く込み上げてくるものを心地よく感じることができる。


コロナの影響ですっかり荒廃しきった今の時代、人との関わりがすっかり乏しくなってしまった(俺だけかもしれないけど)独身を生きる俺に、自然と「頑張って作ってくれてありがとう」の気持ちと、明日を頑張れる活力を授けてくれた魔法だった。

もっと色々な魔法を、『傑作』を見てみたい! その想いの強さが故にアニメ業界の現状に、文句の声の一つくらい出してみたい気持ちもわかる。

けれど、

あの世界は、我々視聴者同士が視聴者層の絵の嗜好がどうとかで文句を言い合っているレベルで語れるのものではないのだと私は思う。

私が円盤や関連グッズを購入すると言った金銭的な応援以外にできることは、アニメーターの方々が1秒でも長くアニメを大大大好きでいていただきたいと願うだけである


気づきの通り最後の2文が言いたかっただけだ。

最後まで読んでいただいた方は、こんな拙文にお時間取らせてしま申し訳ない。

良いアニメライフを。

萌え絵アニメーションに向いてないという勘違い

巷で話題萌えアニメオタク害悪だと主張する記事を読んだ感想である

私は萌えアニメからいわゆる硬派と呼ばれるアニメまで広く嗜む、アニメ視聴歴20年くらいのしがないアラサー男だ。

ジャンプサンデーと言ったお馴染みの週刊誌で人気の原作アニメが、テレ東ゴールデンタイム毎日のように放送されていた頃に、箸で摘んだ夕食のコロッケテーブルの上に落としブラウン管にかじりつく少年期を過ごし、最近新刊が発売された『涼宮ハルヒの憂鬱』をきっかけにいわゆる深夜アニメ世界に足を踏み入れて、今日に至ると言った経歴(他に言葉が思いつかなかった)を持っている。

視聴作品数は、履歴書に書けば人間性理由採用確率が30%減になるくらいあっただろうか。と言っても熱中度でいえば大したモノではなく、どんなに気に入った作品でも円盤を買ったり、グッズ等を買う程度だった。興奮が抑えられず感想ブログに載せたり、二次創作に勤しんだりするくらいならニコニコ動画で他の作品の視聴課金をし始めるくらいには職人気質は持ち合わせておらず、人によってはカステラ茶色の表皮だけをすくって人工甘味料(無いかも)の鋭く刺すような舌触りだけで満足するような、奇怪な楽しみかたをダラダラ続けていただけに見えるかもしれない。

そんな人間がひさしぶりに取れた休日の暇潰しに書いた文章だ。

簡潔に何が言いたいのか知りたい方は、途中全く大したこと書いてないので、最後だけを読んでほしい。

以降は今の俺以上に暇だと宣言できる、大変人間強度に優れた人だけが読み進めて欲しい。

主に作品ごとのアニメーションが持つ性質役割の違いについて横道に外れながら綴っていきたいと思う。

過去に色々な作品を目にしてきている者ならばご理解いただけると思うが、「好きなアニメは? どういうところが好きなの?」と質問を受けたとき、瞬時に心動かされた場面(シーン)が頭の中を駆け巡り、「さてどれから話せばよいものか……」と、全身が幾分高揚している自分がいることに気づくだろう。

それらはキャラクタたちと共にストーリーを辿ることで得られた感覚につけられた名前のようなものだと私は考える。そしてそれらは言葉では表せないが、私たちに中で一種の『共通言語』的な役割を担い、機能しているのだ。

アニメーション、画面上の動きの一つに、こうした共通言語や構図の時間的変化から読み取れる言語で感じて欲しい叙情性に補完を入れたいのか。

例えば以下のシーンを目を瞑って思い浮かべてもらいたい。

『氷属性もつ冷徹残忍な魔女が、手に持った杖を振るった。その瞬間空間四方から無数の鋭利な菱形をした氷の刃が出現し、彼女の透明感のある艶やかな唇で結ばれる「さようなら」の言葉を合図に一斉に襲いかかってきた』

数々の映像作品を見たことがある人なら、無の空間からパキパキと音を立てながら蒼白い形作られ、魔女の妖艶な笑顔が映った次の瞬間に鋭い氷の塊が視界の中心に集まってくる2、3カットくらいの映像が容易に頭の中に流れたことだろう。

これは性格によるのかもしれないが、私は基本的には物語の進行上は「それ」でOKと考えるのだ。

「それ」とは、視聴者の頭の中で出来上がった薄ぼんやりとした2、3カットのことであり、重要なのは「それ」を我々視聴者に想起させ、作品を補完させることだと考えている。

例えば先のシーンで「魔女がどんな容姿でどんな服装服をまとい、どんな体勢なのか」とか、「魔女と言うくらいなら箒に乗っているのか」とか、「どんな服を身に纏っていたのか」とか、「どれくらい勢いで杖を振ったのか、杖の先はどこを向いているのか」とか、「氷の軌道は直線的なのか最初に外側に弧を描くなどトリッキーな動きをしているのか、時間差のある多段階攻撃なのか」などの質問されたら、スラスラと答えられるだろうか。(……私だけができないのなら怖い。ショックのあまり寝込む)

おそらくだが「いやそんな細かいところまでは……」のレベルの話だと思っている。多分これができる人はきっと絵が上手いはずだ。私は私を含め絵がど下手くその人がこの世にいることを知っている。

ぶちゃけた話、そこの解像度が高くなくても我々には多分『伝わってる』のである

しろ、それでどれくらい負傷するのかとか、実力差はどれくらいなのか、どうやって勝つのか負けるのかなどの次の展開に興味が移っていないだろうか。さらに言えば、この魔女性格はどんな感じなのか? 冷徹なのだから口調は厳しいのかとか、魔女主人公のこと気に入ったりするのか、追々仲間になる展開なのか、と言った、キャラクタの心情の移り変わる様子すら、この段階で期待してそれを軸に妄想を膨らませる人もいるだろう。

さらにここに、

『氷の魔女と呼ばれる彼女は、実は地球に住む人間の種を手に入れようと狙ってやってきた宇宙人であった。侵略活動やすいよう周りの空気自分たちの住む星の大気温度まで下げるため、彼女腰掛けているステンレス製の巨大三角から温度を奪う冷気的な何かを放出していて、空気中の水蒸気が氷結してできた塊を利用し相手冷凍保存しようとしている』

と言ったストーリーの上欠かせない設定が加わった瞬間、魔女攻撃の一連の動きがどれくらい迫力があるのかよりも、物語の展開的な動きの方が気になってこないだろうか。アニメーション上の緻密な動作よりも、ギャグ調を出すためにSDキャラデザや画面効果といった要素の方が卓越してきそうなモノである

要はその作品がどんなジャンルでどんなテーマなのか、その中でアニメーションをどう位置付けているかで、表現千差万別の答えを持っていると考えている。立体的な動きとか力の伝わり方を見て取れるようなリアリティを重視するよりも、もっと感情移入して欲しいかキャラクタの魅力を全面に出す方針があるのであれば、背景のモブと呼ばれる方々まで生き生きと動いていればその画面の映え様に感動するけど、そこに力入れるなら止め絵でも良いかキャラ造形やカラーグラデーションに力が入ってて欲しいよねって意見も当然あると思う。

この時萌え絵かどうかはあんまり本質的問題ではなくて、視聴者各々の共通言語とどれほどマッチしていて違和感あるかないかの話に過ぎないと考える。

これより先は趣味指向トレンドしか言えない領域突入してしまう気がしてならない。そこは表現の自由が担保されている以上、善悪判断軸が及ばない空間である

もしそれに対して「過去多くの作品萌え絵が使われていて、時間をかけて大衆になじんでしまたことで不当にも市民権的なモノを得てしまたからだ!」などと主張してしまっては、もはや時代(トレンド)に対する憎悪しかなく、いつまでも見えない相手との戦いを余儀なくされることになるだろう。

キャラ造形に対する文句ほど不毛なことはない。

ひと昔前にギャルゲー原作としたアニメが多く生み出される時期があった。のちにラノベ原作アニメが多く輩出される時代が訪れることになるのだが、当時としてはニコニコ動画を始めとした他メディアで取り沙汰され、言わば萌えアニメの本流とも言える地位を築いていたと思う。

ではそのどれもが、彼がいうところの『強度』なるものを有してたかというと、……なんとも言えないところはあるかも知れない。

当然のことだが何千枚という数の原画に対して、その全て原作独特の繊細な塗りを再現するのは時間的にも経済的にも叶わず立ち絵差分とスチルと効果のみで表現されていた絵に対して、話の展開にマッチするようにかつゼロから動きを盛り込むのはやはり至難の技のようで、結果的作品の持つ強みを生かしきれないまま終わってしまったものが多くあった印象がある。

その原因は、アニメ萌え絵が向いていないというよりは、テキスト……特にキャラクタの心情面に比重が大きい作品は、初めからアニメーションを十二分に活かせるだけの舞台比較的狭いように思える。キャラクタ同士のウィットに富んだ掛け合いを楽しむだけなら、それこそゲームのように会話と場面移動、要所要所で叙情性の窺える背景描写カットの繰り返しで事足りてしまい、ともすれば動作は間を持たせるためのツールになってしま可能性すらあるのだ。身もふたもない話だが。

まりなんとも言えない感じになるのは萌え絵のせいではなく、作品のコンセプトにいかアニメーションを上手絡めることができるかによるのだ。そしてそれは当然、作品ジャンルアクション主体なのかコメディ主体なのかリアル恋愛主体となるのかでアニメーションの寄与度の上限が決まってくるので、表現手法の一つである「動き」単体で評価した時、ジャンルによる偏りがどうしても出てしまうモノなのだ。画面映えする動きがなくても『十二人の怒れる男』(実写映画だけど)のような名作は生まれる。

実際のギャルゲー原作作品には、画面映えを飽きさせないようなさまざまなアイデアが盛り込まれていたけど、いよいよ話の筋から外れてしまうから割愛したい。

画面を縦横無尽に駆け巡るアニメーションは、突き詰めればただの動きであり、結局は表現手法の一つでしかなく、ストーリーとの直接的な関係がなければ、ストーリーへの直接的に干渉することはできない別レイヤー存在にすぎないとも言える。

絵コンテ等の段階でスクリーン上の動きに込めた意図に気づける目の肥えた人にとっては、「動かし屋さん」の実力が垣間見れる瞬間であり、味の決め手のような作品価値を決定づける重要ポイントなのかも知れない。

だがストーリーの展開に目が向いてしまう人々にとっては「面白い動きだな、他作品ではあんまり見ないカットを入れてるな」くらいに止まっていて、やっぱりキャラ同士の会話やその時に垣間見れる感情自分リーチできるかどうかに関心が向いてしまものだ。

昨日NHKの某番組で紹介されていたが、殆ど人間は1秒間に4,5枚の絵しか見れないらしい。一枚絵のカットの切り替え表現の繰り返しは、程度にもよるのだろうが、予算工程など諸々の事情を鑑みた時、大変妥当表現だと個人的には思う。

昨今のは様々な形が出てきたとはいえ、まだまだ異世界生モノアニメブームが続いているように見える。

少ないリソースで最大効果を期待する戦略としては非常に合理的だと思っている。

ストーリー上の役割が小さい場面では「異世界生モノあるある」やその根底にある「子供の頃に慣れ親しんだRPGの思い出」という共通言語を利用して絞り、作品オリジナルの強みにピボットを置き部分的に「動き」のリソースを割くことで相対的な画面と展開のギャップを生み出し、差別化と人気を獲得するにあたり大変都合が良いのかなと思っている。

この潮流について個人的にどうと言うつもりはない。むしろ当然の流れだと思う。個人的には長らく続いてきた「高校生部活青春ドラマ」がようやく落ち着いてきて、代わりに台頭してきたくらいの感覚だ。時代とともに変遷する価値観や需要を端的に示していると思ってる。

ところで『リトルウィッチアカデミア』というアニメ作品をご存知だろうか。

2017年に株式会社トリガーから出されたオリジナル作品で、ヒロイン少女アッコが憧れの魔女シャイニィシャリオにのようになろうと魔法学校入学し、仲間達と共に成長を遂げていくというお話である。当時OP映像を見てその作り込まれ世界観引き込まれ、全話リアルタイムで追っていた。

ご存知の通りトリガーといえば他にも『キルラキル』や『SSSS.GRIDMAN』を始めとする数々の名作アニメを世に生み出した有名なアニメ製作会社だ。

社名に違わず弾丸が飛び交うような激しいアクションシーンが特徴的で、およそ10年にわたり多くのアニメファンを魅了し続けてきた。

何の因果か、つい先日株式会社トリガーが手がけるのアニメオリジナル放送前となる『リトルウィッチアカデミア』の短編映画原画制作する新人アニメーターたちの様子を追ったドキュメンタリー動画を、失礼ながらもしゃちく☆まっしぐらしていたリアタイ当時の自分の状況と重ねながら観ていた。

今回この拙文を書こうと思ったのも、その動画を触れたあとの余韻がそうさせたのだと思う。

動画の内容が気になった方は各人で確認してもらいたい。

端的に言うと、彼らが手がける他作品と一線を画す豪快な「動き」に込められた感動を生み出すもののの正体はアニメーターたちの寿命のものだ。

そこまで心血注がなくたって、既に共通言語を獲得している我々にはその半分以下の動きであったとしてもおそらく『伝わっている』のである。だが彼らはそんな事眼中にはなさそうだ。彼ら自身が観たいものを描いているだけなのだろう。シャイニィシャリオクルクルと回りながら杖を振り動物たちの花火魔法を出すまでのたった数秒の「動き」に、何週間も終わりの見えない苦悩を重ね続けるなんて、それこそ描くこと動かすことが大大大好きでもなければやれるはずがない。私のような観ているだけの人間には理解できない世界がそこにはあった。

間違いなく時代トレンド関係なく後世に伝わってほしい作品の一つだし、アニメ好きの私は一つでも多くそう言った作品が世に出てくることを願ってやまないものの一人ではある。

だがそれがアニメの全てだとかあるべき姿だとかそういう指向性に囚われるような話でもないと思う。

だが、予算制作期間と人員の消耗等のあらゆるのリスクを考えるのであれば、それらアニメーターの生命と血が滴る作品を世に出すことは、何十人何百人の人生をかけた大勝負であり、そんなものを定期的に見せておくれよなんて烏滸がましいことを言えるほど私は偉い人間ではない。

製作陣の戦いの姿の一端を見ただけで、シャリオが振う杖の軌跡一つとっても、数年に一度しか拝めない奇跡の奇蹟と言われても納得できるし、胸の内から熱く込み上げてくるものを心地よく感じることができる。

コロナの影響ですっかり荒廃しきった今の時代、人との関わりがすっかり乏しくなってしまった(俺だけかもしれないけど)独身を生きる俺に、自然と「頑張って作ってくれてありがとう」の気持ちと、明日を頑張れる活力を授けてくれた魔法だった。

もっと色々な魔法を、『傑作』を見てみたい! その想いの強さが故にアニメ業界の現状に、文句の声の一つくらい出してみたい気持ちもわかる。

けれど、

あの世界は、我々視聴者同士が視聴者層の絵の嗜好がどうとかで文句を言い合っているレベルで語れるのものではないのだと私は思う。

私が円盤や関連グッズを購入すると言った金銭的な応援以外にできることは、アニメーターの方々が1秒でも長くアニメを大大大好きでいていただきたいと願うだけである

気づきの通り最後の2文が言いたかっただけだ。

最後まで読んでいただいた方は、こんな拙文にお時間取らせてしま申し訳ない。

良いアニメライフを。

anond:20201205095943

ひかりんといいとら婚といい、

いかにも結婚できなさそうな架空相談者をコテンパンに叩くテキストでバズらせて、商材に誘導するのが最近婚活業者トレンドやね

そんなに儲かってないのかなあ

ここも含めSNSを見てるとテキストのやり取りは知能指数を下げてる気がする

2020-12-03

https://anond.hatelabo.jp/20201130214610

「 ①IFでAかBを選択させてどっちかの設定を実行

 ②Whileで決められた回数分繰り返す

 これでやりたいことは分かる。分かるけれどこれでどうやって動画音楽エンコードをしたり

 画像処理をしたりするソフトウェアになるのかというのがよく分からない。」

プログラミングでやることは、その2つだけじゃなくて、もうひとつある。

関数を呼び出すこと

Javascriptなら、console.log("Hello world")。

これは、テキストを出力するという関数を呼び出していて、関数の内部を理解しなくても使える。

オブジェクト指向も、結局はこれと同じこと。あらかじめ用意されている関数メソッドを呼び出せばいい。

もしもゲームを作りたいなら、ゲームエンジンを使うといい。

これは、大きなゲーム作成専用ライブラリで、ゲームを作るための大量のメソッドを持っている。

JSとかPython なら、比較的小さなゲームエンジンライブラリがあるので、いいと思うよ。

anond:20201130214610

車の構造なんてろくに知らなくて運転手にはなれるだろ。

あんたのやってることは運転手になりたいのに、

整備士向けのテキストを読んで勝手絶望してるようなもん。

この場合あんたのやるべきことは自動車学校に行くことだ。

手段目的を履き違えまくってる。

道具として使えるようになれば問題ない。

道具の成り立ちとか構造なんぞ最初から知る必要はない。

2020-12-01

anond:20201201171157

追記

まず簡単なのはここに書いてある。

ttps://agk.saloon.jp/how-to-jp-series

結論をいうと対象ソフトが下記を満たすかどうかで難易度がかなり変わる。

1. 表示テキストが外部ファイルになっている or exe内部のリソースファイルから読み取られる ↔ プログラム埋め込み

2. 内部のテキストエンコード方式UTF-8 or 16 or 32 ↔ ASCIIなど

3. フォントシステムにあるのが使われる ↔ 外部ファイルになった画像フォントが使われる

すべてのソースが公開されていない限り、この条件を満たさなもの基本的日本語にできない。

例えば、自分C言語printfだけのHello world!プログラムを作ってみて、それをソース無しで、外からテキストを変更できるかためしてみればいい。

これは1に反するから多分簡単には出来ない。よしんば出来たとしても、Hello world!より文字数が多いテキストに変えるのはそれなりに面倒である

こういう表示をさせるやり方としてはprintfに渡すデータを実行時にすげ替えればいい。具体的にはprintfの直前で別の箇所にジャンプさせて引数レジスタに書き換えたいアドレスを渡して、またprintfまで戻ってくればいい。

これ以上に面倒なのが、2と3が合わさったもので、欧米アルファベットしか使わないため、ソフトの内部コードASCIIやCP12XXだったりする。さらにそのソフトに用意されているフォント文字はその範囲しか存在しない。これらはどう頑張っても普通に日本語を表示することは出来ないので、かなり強引に改造するしか無い。俗に中華パッチと呼ばれているものがそれである

具体的にはソフトのどこかで、表示させるテキスト配列から文字を1文字取得、1文字からコードポイントに変換、フォントファイルからそのコードポイントのグリフデータを取得、グリフデータを画面に表示させる処理があるため、そこに割り込む。1バイト取得している箇所を2,3バイト一気に取得して、それをなんとかしてコードポイントにして、そのコードポイントをグリフ取得の処理に回せばいい。

この方法にしても、技術的に難しい点は存在せず、技巧的であり、Cの本を読めば誰でもできる処理である

これでやりたいことは分かる。分かるけれどこれでどうやって動画音楽エンコードをしたり

画像処理をしたりするソフトウェアになるのかというのがよく分からない。

それは「数学」の知識が足りないからだと思う。

画像や音声を扱うのに純粋数学という学問知識必要ない。

でも、工業数学レベル知識必須である

例えば、サンプリング定理(標本化定理)を知らなければ音声の録音も圧縮理解できないのは当たり前。

から大学情報科、もしくは電子工学機械工学を履修するのは無駄ではない。

日本専門学校だと給与が安い仕事即戦力になるようなカリキュラムになりがちだから

専門学校が扱う職業ラインナップを見ればそれは明らかだと思う

乱暴一言表現するなら、この世のすべてはビット、つまり0と1で表現できてしまう。

少し正確に言うと、2進数ですべて表現できるは嘘で、

例えば小数点以下無限数字が続くような数字は、言い換えれば無限情報必要ということになる。

メモリは有限だし、たった1つのそんな感じの数字記憶するためにどんな巨大なメモリも埋まってしまうのでは意味がない。

からコンピュータ浮動小数点を表現する場合、どこかで足を切らなければならない。

それによって、紙で計算すれば問題ないことが、コンピュータではおかしな結果になることがある。

しかし、これを知っていなければ科学計算はもちろん、銀行のようなお金計算おかしな結果になってしまう。

大学数値計算の授業を取得するのは退屈だが、これを理解してなければ社会に出ても間違ったコードを書いてしまう。

というか、私も大学在籍中に間違ったコードを書いたことが何回かあるw

プログラミング入門書を読んでも、一般的に知られているソフトウェアの作り方みたいな事が

書いてないので、ゴールが見えてこない。だからうんざりしてくる。

その原因は根源的で哲学みたいな話で、

世の中のほとんどの物事には正解がないとか、そういう話にしかならない。

良いテキストはあるわけだけど、それを読むべきタイミングもあるし、万人向けが自分に向いてるとも限らない。

本なら何冊かはドブに捨てるつもりで買うしかない

みんなが良いから読めという本も、なんとなく自分にはこれがいいんじゃないか、も買うしかない

買って家でじっくり読んで、途中でナニコレ?みたいな本だったら後悔するかもしれないけど、世の中そういうもんだから

料理を作ろうと思ったら材料と道具を揃えたけれど、レシピが無いので作れないというものに近い。

自分レシピ通りに作らないでヒントにしかしないタイプなのだけど、

料理プログラミングには似ているけど、化学実験ではない。

焼く、炒める、煮る、蒸す、みたいな方法だけ理解していれば味付けなんて適当でいいのだ。

なんらかの魚があったとして、それは食べられる魚だと分かっているが調理方法はまったく知らなかったとする。

本とかネットとか調べる環境がなかったとする。

どうするか?

とりあえず、まず口に入れられるサイズに切るべきだろう。

口に入れられないと食事にならんのだから、魚を切って骨を取る。

さばき方もググれない状況なのだから、もう適当に切断していくしかない。

鱗も大味で取るしかない。

ググらないと、とんでもないほど非効率的なさばき方をしている可能性があるが、とにかく食えればいいのだ。

腐らせては意味がない。

日本刺身みたいな生で食べる文化イヌイットではないが、漁師が船の上で食べることとも関係しているように思う。

何が言いたいかというと、生食現代文明ロジスティクスは保存技術の成せるわざであって、料理の基本は何でも熱を通すべきなのだ

毒になる菌で食中毒では意味がない。

切った魚を、焼く、炒める、煮る、蒸す、みたいな方法で熱を通せば料理は終わりだ。

レシピなんかなくてもこれで十分なのだ

あとはその魚に味を付けるため、味ぽんなり味噌なりトマトなり使えばいいだけなのだ

2020-11-30

無事に試験に落ちた話

簿記2級なんだけど普通に落ちた。予想通り問1と問4でうっかりミスしたのが一番痛かった

問1は設問ちゃんと読まないで仕入割引って書いて4点引かれた

問4は製造間接費を予定配賦するだけでいいのに、何を思ったのかご丁寧に下書きに全部集計して実際発生額を書いたこと。何してんだろうね

帰り道で思い出したよ。問題に「製造間接費は直接作業時間を配賦基準として予定配賦している」って書いてあるって

そもそも仕掛品勘定に実際発生額書いたら配賦差異出ねえじゃん。シングルプラン採用してるなんて一言も書いてねえよ、この問題過去に戻れたら助走つけてグーパンチで殴りたい

問4の問題仕掛品勘定作成と、仕掛品勘定を使ってP/L製品原価を埋める虫食い問題から仕掛品勘定を間違えた時点で製品原価が違うから後半全部アウト

20点取れるところが配点予想によれば14点~16点は引かれてる。つまり20点中4点か6点しか取れてない

問5は20点中18点だったか微妙だけど、合否には影響しないレベルだった

簡単な部分でこれだけ落とせばそら不合格にもなるよ。問1と問4と問5が得点源なのに、その得点源でのミスだもん。はぁ

500時間ぐらい勉強した結果がこれ。挙句にお前は理解不足だから工業簿記テキスト最初からやれって言われちゃった。点数が点数だから何も言い返せねえよ

でも問題見てよ?仕掛品勘定間違えたら後半は点数もらえない問題なんだけど?じゃあ誰が悪いのって?俺に決まってるよ

2020-11-29

村上春樹小説に登場するヒロイン図鑑

 ギャルゲーのオープニングムービーのノリで紹介していきたいと思う。含ネタバレ


ノルウェイの森

ミドリ

「私なんかね、髪の長い下品女の子二百五十人くらい知ってるわよ、本当よ」

 ノルウェイの森はご存知ダブルヒロインシステムで展開する物語であり、正ヒロインの直子に対する反ヒロインミドリであるミドリは深い自己反省を行う直子とは正反対キャラクターとして描かれているものの、要所で当を得た優れた知性の持ち主でもある。物語の途上、直子との恋愛に疲れ果てていく主人公のワタナベに対して次第に親しみを募らせていき、最終的には恋に落ちる。明るくユーモラスだが苦労人でもあり、「人生ビスケットの缶のようなもの」という独自哲学披露する。

・直子

「たぶん私たち、世の中に借りを返さなくちゃならなかったからよ」

 正ヒロインヤンデレの先駆け。高校時代に亡くなった恋人記憶を延々引きずり続けており、その代償行為としてワタナベとの関係を求めた結果、人生が取り返しのつかないほどこじれてしまった。曰く「自分自身が二つに分裂して木の周りで追いかけっこしている」。物語の中盤から京都サナトリウムにて療養生活を送ることになるが、最終的にワタナベの魂を深淵へと引きずりこむこととなる。

レイコさん

私たちがまともな点は、自分たちがまともじゃないってわかっていることよね」

 ダブルヒロインと銘打ちつつも、中盤以降登場するサブヒロイン

 若い頃は有能なピアニストであったが、演奏ストレスにより精神に不調をきたしてしまい、それ以来人生に振り回れされ続ける。挙げ句の果てに、教師としてピアノ指導していた美少女レズレイプされそうになるなど、人生が取り返しのつかないほどこじれてしまった。主人公とのラストシーンで読者を激しく混乱させる。


海辺のカフカ

さくら

「なんかさ、うまく言えないけど、本当の弟みたいな気がしてるんだ」

 『海辺のカフカ』はドイツにおける「フランツ・カフカ賞」やイスラエル文学賞であるエルサレム賞」の獲得への原動力となった作品であり、ギリシャ悲劇の色彩とインスピレーションを帯びたポップな文体が特徴である主人公は十五歳の少年で、田村カフカという偽名を名乗っており、作中においてその本名は明かされない。

 作中一番最初主人公が邂逅する他者さくらであり、彼女もまた苦労人。幼少期から両親との折り合いがつかず、一刻も早く自立し一人で生きていくことを人生方針にしていた。職業美容師

 主人公はかつて姉と両親の四人暮らしをしていたが、その途上で母と姉は家を去っている。主人公はその、顔もろくに覚えていない姉の姿を、さくらへと重ねるのであるヒロインというか擬似的な姉とも言うべき存在

佐伯さん

あなたは誰なの? どうしていろんなことをそんなによく知っているの?」

 正ヒロイン。五十代の美しい女性であり一切が知的に洗練されているが、巨大なオブセッション強迫観念)によって人生を摩耗させている。

 彼女人物設定は『ノルウェイの森』をなぞる形となっており、先に紹介した直子の鏡写しのような存在である彼女が勤めている私立図書館は、かつての恋人父親の所有であり、話がややこしくなるのだけれどこの父親物語中には登場しない。問題はその恋人とのことで、彼女は幼少期から恋人と親密な関係を築くのだけれど、最終的に死別する。それから三十年以上もの間、彼女自身空虚人生に苦しみ続けた結果、主人公出会う。

大島さん

「いつそれを言ってくれるか、ずっと待っていたんだ」

 ヒロイン欄にこの人物名前を記すこと自体が既にネタバレなのだけれど、とにかくヒロインの一人。ボーイッシュ枠。


世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド

・美しい太った娘

「お願い、このままじゃ世界が終わっちゃうのよ」

 美しい太った娘。村上春樹1979年デビューして以来、1987年に至るまで十年近くキャラクター名前を付けるのが恥ずかしかったとのことで、一部の例外あだ名を除いてキャラクター無名である。よって1985年出版された本作においても、一切の登場人物名前は明かされない。

 幼い頃に家族を全て交通事故で失って以来、祖父である天才科学者の「博士」の元で純粋培養された少女。十七歳。教育方針によって学校には通わず英才教育を受ける傍ら、適度に脂肪を取らされ、適度に太らされている。性欲一般に関してあまり理解しておらず、主人公に何かと性的質問を向けては困らせる。

 「博士」による教育の結果、語学などの現実生活を送るための技術複数習得している才女。決断力というか胆力があるが、どこかしら世間知らずな面は否めない。

図書館の娘(表)

「それが何かはわからないけれど、どこかで昔感じたことのあるもの空気とか光とか音とか、そういうものよ」

 多重世界の表の側であるハードボイルドワンダーランド』に登場する娘。なお裏の世界である世界の終り』においても、同一存在として主人公の前に現れる実に因縁深い存在でもある。図書館リファレンス係をしており、主人公一角獣に関するテキスト請求したことから親しくなる。大食漢であり給料の大半が食費に消えるが、上記の娘とは違い極めて均整の取れたスタイルの持ち主である

図書館の娘(裏)

「――私の心をみつけて」

 多重世界の裏の側である世界の終り』に登場する娘。リファレンス係の娘の多重存在。「古い夢」と呼ばれる一角獣の頭蓋骨を、図書館管理している。

 『世界の終り』においては心は動き回る影の形で存在しており、影は人が大人に成長する前に特殊器具によって切り離され、埋葬される。その儀式を経た後は全ての人間は「完全」となり、年を取ることもなく何かに怯えることもない。彼女もまたそのようにして心を喪う中、やがて外の世界からやってきた主人公出会う。

・影(主人公

「俺は君をどうしても外につれだしたかったんだ。君の生きるべき世界ちゃんと外にあるんだ」

 おまけ。

 『世界の終り』に登場する主人公の影。頭の回転が速く機転が利くが、主人公と切り離されてしまったため大きく体力を奪われており、ほぼスペランカーと化している。

 『世界の終り』において門番の男に幽閉され、真綿で締め上げられるような虐待を受け続ける。


などなど

 俺は『騎士団長殺し』を除いて全ての長編読破しているんだけれど、まだまだヒロインはたくさんいる。あるいは続編を書くことになるかもしれない。

 村上春樹ネットで言われてるほどひどい作家じゃないので、皆も読もう。チャオ。

謎のテキストボックス

増田個別日記のページの

はてな匿名ダイアリーanond:hogehoge

日記IDの部分がなぜかテキストボックスになっている事に気が付いた。

今のところ編集しても何も起こらないようだが…。不具合だろうか

2020-11-24

anond:20201124223813

ResearcherIDやORCID、個人業績リストを参照せずテキスト検索で済ます人間は本気で調べようと思ってないので相手にする必要がない

2020-11-23

anond:20201123000616

その愛嬌に惚れるわ

テキスト調子だんだんあほっぽくなってきてたか斜め読みしたとききもいしか書いてないような気がしたんだ

四面ごめん

2020-11-22

テキストによる加害に無頓着な人々

ブクマーとか増田普通に紛れてるんだけど、↓の増田は常日頃思っていたモヤモヤをまさに言語化してくれた。ありがとう

https://anond.hatelabo.jp/20201122013307

そして、嫌なら読むな、という逃げが甘えであることを世に知らしめてくれた低能先生感謝

チキチキ、クソデカ述語チキンレース

 なんか「ないものはない」とかい深淵からやって来た命題ホッテントリに上がってたけれど、ブコメ欄で言及されていた「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」はオーストリア哲学者ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの言である。我々が想定する哲学的真理の多くについて、我々は「ある」とか「ない」とかそのほか如何なる述語も設けずに、沈黙を守るべきなのだ――というのがこの発言の主旨だと思われるが、僕は学生時代ヴィトゲンシュタイン代表著作である論理哲学論考を第四章だか第五章の論理式の辺りで投げ出してしまったので、正確な解釈がどうなっているかは分からない。もし貴方が正確な知識を求めるならば、岩波版の『論理哲学論考』を書店に探しに行こう。


 ヴィトゲンシュタインは、ケンブリッジ大学にて当時の哲学大家であるバートランド・ラッセルの元で学んだ後に、ラッセルへとこの『論考』のアイデアを書き送り、激賞を受け出版へと至りました。この『論考』の主旨は、簡単に言えば「世界は言葉でできている」といったものです。極めて凝縮された文体で書かれたこの異形のテキストは、当時の哲学界に激しい影響を与えたと言われています

 さて、「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」の一節はこの『論考』のラストを飾る言葉であり、また彼は「梯子を用いて障害を乗り越えた後は、その梯子を投げ捨てなければならない。即ち、この書物もまた投げ捨てられねばならない」とも同書において語っており、彼によれば同書によって哲学界における諸問題は「完全に解決された」とのことでした(後年、彼はこの意見を覆すことになります)。


 ヴィトゲンシュタインは極めてその人生に謎の満ちた人物で、ユダヤ系の影響を大きく受けた裕福な家系に生まれ、本人はカトリック教徒として一生を過ごしました。学業において非常に優秀な成績を収めた彼は、イギリスケンブリッジ大学に進学し、当時の学壇を占めていた哲学ほか様々な学問大家と対面し、議論思索を深めていくことになります

 彼の人物史を巡ってしばしば取り沙汰されるのは、彼が人生殆ど全てに渡り自殺への欲求に苦しんでいたというエピソードです。彼は、兄四人、そして姉三人の八人兄弟の内の末っ子として生を享けるのですが、彼の人生において四人の兄の内、四男のパウルを除く三人は自殺しています。そのため、ヴィトゲンシュタインの心には、常に死への憧憬が巣食っていたというエピソードは有名です。彼は、自分の死に場所を求めて第一次世界大戦従軍したとも言われています。その過酷戦場で、彼はトルストイ福音書解説を紐解きながら、砲声に震える塹壕の中で『論考』の原型を模索し、そして戦場の死に接する中で生への意欲を切り開いた、とも言われています


 さてタイトルの「クソデカ述語」に関してですが、いや、要するに「ない」って何なんですか? って話です。「ない」っていう述語なんなんすか、っていう話です。

 とかくこの世の中には意味のない述語というのが多数存在していて、その内の一つがこの「無」だと思うんですね。つまり、「無」っていうもの言及できないから「無」なのであって、それに対して「ないものはないですね」とか平然と言及しているダ○ソーの店員ほかその他の店員存在は一体なんなんすか? という話なのです。

 要するに、「無」なんてものは「無い」のだから本来であれば我々は「ありません」とか、「無いです」といった述語の使用基本的には控えなければならないのであり、つまり、我々は沈黙しなければならないわけです。それでも、我々が何かについて「無い」だとか、「ありはしない」とか語れるということは、本質的に我々の言語が、その意味対象との関係性に混乱を来しているからなのであって、要はこんな言葉のやりとりなんか単なるゲームのようなものに過ぎないんじゃねえか、みたいなことを考えるわけですね。クソデカ述語。

 世界は「ある」? コップはここに「無い」? もっと正確な記述方法があるはずです。空は青い? 空は青く「ある」? 「無い」について我々が多くのことを語ることができないにも関わらず、何故我々はその対義語とされている「ある」について雄弁に語ることができるのですか? もっと正確な記述方法があるはずです。正確には「コップは移動している。あるいは、コップは現在別の形状を取っている」が正解なのです。クソでけえ述語は投げ捨てろ、梯子を下ろせ。お前らはもっと沈黙しろ

2020-11-20

中学生の時に父が「一般教養」と称してjavaの本を2冊と補足のプリント数枚をくれた。

家のパソコンでとりあえず言われるがままに何かをやってみた。

テキストエディットとやらで何かを書き、ターミナルかいうので呼び出した記憶がある。

セミコロンが足りないとか色々苦労し、全く好きになれずに一週間ほどでさじを投げた記憶がある。

父は「本が難しすぎたか」ともう1冊本をくれたが大差なかった。

そんな話を大学の同期にしたら「それは難しすぎる。かわいそうに」と言って「猫でもわかるC言語」的な本をくれた。

読んでみたけど途中でいきなり難しくなって見なかったことにした。

たぶん自分プログラムは向いていないと悟った。

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