はてなキーワード: 世界は言葉でできているとは
なんか「ないものはない」とかいう深淵からやって来た命題がホッテントリに上がってたけれど、ブコメ欄で言及されていた「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」はオーストリアの哲学者ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの言である。我々が想定する哲学的真理の多くについて、我々は「ある」とか「ない」とかそのほか如何なる述語も設けずに、沈黙を守るべきなのだ――というのがこの発言の主旨だと思われるが、僕は学生時代、ヴィトゲンシュタインの代表著作である論理哲学論考を第四章だか第五章の論理式の辺りで投げ出してしまったので、正確な解釈がどうなっているかは分からない。もし貴方が正確な知識を求めるならば、岩波版の『論理哲学論考』を書店に探しに行こう。
ヴィトゲンシュタインは、ケンブリッジ大学にて当時の哲学の大家であるバートランド・ラッセルの元で学んだ後に、ラッセルへとこの『論考』のアイデアを書き送り、激賞を受け出版へと至りました。この『論考』の主旨は、簡単に言えば「世界は言葉でできている」といったものです。極めて凝縮された文体で書かれたこの異形のテキストは、当時の哲学界に激しい影響を与えたと言われています。
さて、「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」の一節はこの『論考』のラストを飾る言葉であり、また彼は「梯子を用いて障害を乗り越えた後は、その梯子を投げ捨てなければならない。即ち、この書物もまた投げ捨てられねばならない」とも同書において語っており、彼によれば同書によって哲学界における諸問題は「完全に解決された」とのことでした(後年、彼はこの意見を覆すことになります)。
ヴィトゲンシュタインは極めてその人生に謎の満ちた人物で、ユダヤ系の影響を大きく受けた裕福な家系に生まれ、本人はカトリック教徒として一生を過ごしました。学業において非常に優秀な成績を収めた彼は、イギリスのケンブリッジ大学に進学し、当時の学壇を占めていた哲学ほか様々な学問の大家と対面し、議論と思索を深めていくことになります。
彼の人物史を巡ってしばしば取り沙汰されるのは、彼が人生の殆ど全てに渡り自殺への欲求に苦しんでいたというエピソードです。彼は、兄四人、そして姉三人の八人兄弟の内の末っ子として生を享けるのですが、彼の人生において四人の兄の内、四男のパウルを除く三人は自殺しています。そのため、ヴィトゲンシュタインの心には、常に死への憧憬が巣食っていたというエピソードは有名です。彼は、自分の死に場所を求めて第一次世界大戦に従軍したとも言われています。その過酷な戦場で、彼はトルストイの福音書解説を紐解きながら、砲声に震える塹壕の中で『論考』の原型を模索し、そして戦場の死に接する中で生への意欲を切り開いた、とも言われています。
さてタイトルの「クソデカ述語」に関してですが、いや、要するに「ない」って何なんですか? って話です。「ない」っていう述語なんなんすか、っていう話です。
とかくこの世の中には意味のない述語というのが多数存在していて、その内の一つがこの「無」だと思うんですね。つまり、「無」っていうものは言及できないから「無」なのであって、それに対して「ないものはないですね」とか平然と言及しているダ○ソーの店員ほかその他の店員の存在は一体なんなんすか? という話なのです。
要するに、「無」なんてものは「無い」のだから、本来であれば我々は「ありません」とか、「無いです」といった述語の使用を基本的には控えなければならないのであり、つまり、我々は沈黙しなければならないわけです。それでも、我々が何かについて「無い」だとか、「ありはしない」とか語れるということは、本質的に我々の言語が、その意味と対象との関係性に混乱を来しているからなのであって、要はこんな言葉のやりとりなんか単なるゲームのようなものに過ぎないんじゃねえか、みたいなことを考えるわけですね。クソデカ述語。
世界は「ある」? コップはここに「無い」? もっと正確な記述の方法があるはずです。空は青い? 空は青く「ある」? 「無い」について我々が多くのことを語ることができないにも関わらず、何故我々はその対義語とされている「ある」について雄弁に語ることができるのですか? もっと正確な記述の方法があるはずです。正確には「コップは移動している。あるいは、コップは現在別の形状を取っている」が正解なのです。クソでけえ述語は投げ捨てろ、梯子を下ろせ。お前らはもっと沈黙しろ。
テレビ番組「世界は言葉でできている」が大好きだった。深夜のころに偶然見ただけだったんだけど、とても面白かった。句会のような番組で、下の句を作るように名言を作っていって、誰かが方向性を決めると「ああ、そっちなのね」と言って皆さらにかぶせてくる様が圧巻でとにかく面白かった。オードリー若林さんとバナナマン設楽さんはとりわけ(失礼だけど)カンがよかった。若林さんの場合は読書経験から裏打ちされた言葉の山からいい組み合わせを選んでくる才能で、設楽さんの場合は、意外な言葉を結び付けることで雰囲気を作り上げてくる才能があったように思う。前述の方向性を作る、というのは若林さんの力で、かぶせてくるのは設楽さんの力だった。大喜利と勘違いした出演者が見ていて哀れだったのも印象的だった。そうじゃない、もっとキザに言葉を作り合わせるゲームなんだと気付いてほしかった。
そんな番組がゴールデンに進出した。正直言って不安しかなかった。「24時間残念営業」の店長が言うところの時間帯によって売れる商品が違うのに、深夜の商品をゴールデンに持ってきただけだった。変に変えなかったのは作り手側の矜持だろうか。もう敗戦処理だったんだと想像する。
いい名言には超ニーチェ君人形がもらえるのだけれど、ゴールデンで初めて見る人たちには、どうして超ニーチェ君なのか意味が解らなかったと思う。深夜ならその人形はくだらないながらも、仲間内だけでわかるこじゃれた嫌がらせみたいに見えていたのに、ゴールデンだと単に雑な人形にしか見えなかった。
やはりそこには先の店長のいう「うちらの世界」があったんだと今になって思い至った。どんな番組も中身が変わっていく。ほこたてだって、お試しかだって。ゴールデンで生き残るというのは、そういうことなんだろう。全然しらない世界だけど気の毒だ。
決して自身を変えることなく、5回で、しかも明確に終わりを示さず終わってしまった「世界は言葉でできている」。番組本は丁寧な編集で、通して読むにはページごとに雰囲気が変わりすぎて辛いのだけれど、ちょっとしたときに手にして、適当に開いたページを読むには最適にデザインされている。名言というのは居合切りのような芸で、続けてみるには向いていないのだと判る。番組も2時間見るにはつらい。好きでも辛かったのだから、まったく新規の人には同じことの繰り返し、しかも笑いなしとどう楽しめばいいのかわからなかっただろう。ゴールデンじゃどう楽しめばいいのかわかっている番組じゃないとだめなんだ。繰り返すけど、それでも番組を変えなかったスタッフには敬意を感じる。
深夜で半年に一回くらいでほそぼそとやっていれば僕はいまだにこの番組を見られていたのかもしれない。いまのフジテレビの凋落というのはこういうところからきているんじゃないかな。