はてなキーワード: 必然性とは
https://twitter.com/colabo_yumeno/status/1582298642106699776
大前提として、いかなる理由でも暴力は良くないし、こうした形で嫌がらせを行うのは最低な行為だ。
すでに警察に被害届を出しているとのことなので、正しく法が執行されることを期待している。
仁藤夢乃と言えば、代表を務める団体が会計上の不審な点を突っ込まれているのにも関わらずだんまりを貫き、以前は少しでも批判されようものなら訴訟をちらつかせて黙らせていた人が、これまで「嫌がらせにあっている」程度の匂わせに留めている。
嫌がらせが多数あり、中には殺害予告、レイプ予告といった直接的な危害にも直結するようなものもあるのに、それらは「時間の無駄だから」とスルーしていた人が、バスに傷がついたことで即被害届を出している。
(言及していないだけで、すでに相談しているのかもしれないが)
このタイミングでこういう「被害」が出ると、仁藤夢乃側にはメリットが多すぎる。
このツイートのように被害をことさら騒ぎ立て、謂れのない誹謗中傷と戦う姿をアピールできる。
暇空によってかけられた数々の嫌疑を、この器物損壊と同レベルの「嫌がらせ」と一括りにして払拭することができる。
バスに傷はつくかもしれないが、言ってしまえばただの傷で、走行には支障はないように思えるし、団体の活動にだって直接的な支障はないだろう。
腹は立つかもしれないが、修理できるだけのお金も団体の金庫にはプールされているだろうし。
温泉むすめを燃やしていたり、献血ポスターにいちゃもんをつけていた頃のほうがよっぽど恨みを買っており、その頃だったら衝動的にバカな行動に走る人間がいたとしても納得ができる。
だが今、暇空が具体的な証拠を突きつけ、しかるべき機関にしかるべき手続きで照会をし、間もなく結果が出るというこのタイミングで嫌がらせを仕掛ける必然性が無いのだ。
もちろん、バカが突発的に嫌がらせを行い、その場限りの満足感を得た可能性もあるが(っていうかそれが一番高いと思うが)、それでもやはりなぜこのタイミングで?という疑問がある。
ここで思い出すのが、チマチョゴリ切り裂き事件だ。
北朝鮮の立場が国際的に悪くなるとなぜか頻発し、なのに犯人は一向に捕まらない不思議な事件。
そして気が付くと無辜の女学生に八つ当たりで加害する野蛮な日本人と、差別に耐え忍びながら日々生活しているのに突然理不尽な暴力に見舞われる朝鮮人の図式が定着するのだ。
実際問題、今回のバスの傷も本人が「先週水曜日には無かった」と言っているくらいなので、いつ頃つけられたのかは特定が難しいと思われる。
おそらく、犯人が捕まることはないだろう。
すべて人のせいにできる。
それこそが反出生主義の源であり、外部から論破できない根源である。
全部人のせいで、実際そうであるので、何も言うことはない。
不幸は伝播するので、情報化社会が極まれば(議論が脳波マージなどで時間不要になれば)人は皆安楽死を選ぶ。
結局生きることにミッションも意味がない以上、助け合ってまで生きることに必然性はなく、生まれないことこそ正しいのである。
生まれないことが正しいということは、安楽死こそ正しいのである。
反出生主義はそれを否定するが、しかし人は人が働かねば生きて行けず、もしすべての生殖活動が塞がれたとしたとき、今の赤ん坊世代が老人になったときにどのように生命維持をして誰が医療行為を行うのか。
そこ(人間社会停止による苦しい死、もしくは早めの安楽死)をその世代にすべて背負わせるのならば、それは全くの不平等であり、反出生主義が必ず産み出すその不平等の答えは「一斉に安楽死」しかないのである。
自分たちは社会の恩恵を受けて最期を遂げながら、下の世代にすべての辛さや絶望を押し付ける「自殺しないけど反出生主義」は、愚か極まりない自分勝手自己中心的と言わざるを得ない。
ふむ。一晩かけて考えがまとまった。
少年誌を掲げつつも、少女の読者が一定数いる事実を知りながら❶
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「少年キャラが」同年代の少女を性的に見ている、のではなく、主体は「作者が」❷
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ところで、職場でのセクハラが禁止されてるのは職場を変えるのが困難だから、である
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だが物語の流れ上の必然性も、こういう漫画ですよ、という事前の断りもないので避けられない❸
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未成年の少女❶ が見ている前で、大人の❷ 性的まなざしを初見回避不可❸ で見せびらかす
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=セクハラ
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少年を戦地に追いやるフィクションとの差は、セクハラか否か。セクハラ概念はフェミニストによって発明されたアイデアだが、今日では広く支持されている
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まだ、読者による不買推奨運動の選択肢が消えてない。「嫌なら読まなければいい」を推してく選択肢もありうる?◉
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作者サイドにお願いするしかない。赤の他人への身勝手な指図( = お気持ち)の断行
↓
= “やめてほしい”
↓
なお、お気持ちの内訳が「倫理観」なのは明白だ。大人が子どもにセクハラすべきでない、とは紛れも無い倫理観。誠実さのためにはそれを隠すわけにはいかない
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変に取り繕ってマンガ家側が正しいかも、などと言うのはウソをつく行為なので、むしろ失礼。まさしく「倫理観が違う」。ファン視点では自分側が正しく見える。自信がないなら最初からお気持ち表明してない。だから、誠実さのためにそれも隠さない
↓
= 編集部も含む制作サイドへの「価値観のアップデート」の要請
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もし無視されたり、断られたら?
↓
https://kakuyomu.jp/works/1177354054888537422
正直迷走している
なろうでもよくあるんだけど、初期プロットが早々に意味を失ってタイトルと中身が乖離したが、なんとなく続けてる系に見える
倉庫要員のサブキャラとして転生「ストレージのアイテムが鍵だ」ってなタイトルにしておいて
そのキャラが強くて無双してしまい、アイテム何処?と言う作品とか
「すぐ死ぬ村人転生」ってなタイトルで初めて、3話くらいでチートが覚醒して無双しちゃうとか
いやまぁ、裏切られたという「結果」は描いていて、旅はしているのだが
主人公サイドにさしたる執着がなく普通に主人公サイドで閉じて冒険しているので
話としてはとっとと30話くらいで、【主人公サイドの知らぬ間に】勇者サイドがざまぁされて消えてれば、読み続けた人も居たんじゃなかろかと言う感じ
主人公をお友達として傍に置いておこうとする自己中イカレと描写されてるのに
これを「メインヒロインだ」と無駄推しする作者の冷笑的なスタンスも加味され
裏切った剣聖に、後付けでどんどんと、勇者周辺のクズに騙され続けてる被害者的要素を加味していくんだけど
救われると良いなぁなんて思えずに、ただただ胸糞悪いだけの描写になってる
感想読んでもそう思うよなってのがあったりするし
作者が妙に勇者を気に入っているので
勇者が退場する時も「楽しめたよ」とか言いながら、想定通りと言う顔して退場しそうな感じだ
勇者周辺はみんな不幸になって、悪意をもって好き勝手してる勇者は最後に(勇者の自意識としては)救われそう
ざまぁとかタグ付いてるし、第三章からはファンタジーになりますとか言ってるけど
勇者の話が挿入されるのも相まって、全般的に鬱々とした作品に仕上がってる
剣聖ざまぁという見方をすることもできなくはないが、自身で言っている「メインヒロイン」だという定義と矛盾する
個人的にこういう「タグ詐欺」「タイトル詐欺」についてはマイナス評価を付けられるべきじゃないかと思ってる
こういうのは「not for me」として擁護されるべきじゃなく
今のところ最新話まで読んでも裏切られる必然性もなければ、胸糞勇者物語を同じ話として同梱する必要も感じられず
ただの「不遇冒険者」の話で良かった
2018年に同様の自殺を遂げたライダーの方の模倣とも聞くけど、ざっとツイートを読むと、躁状態的な明るく楽しげなツイートの中に、
「最後」や「もう来れない」といった自殺を匂わせる文言を差し込んだり、発達障害や自殺に関するツイートをRTしていたりと「手がかりの配置」が
美しく、しかも最後の写真が「過去にRTした『一歩踏み出す』というテーマのイラストと構図が同じ」で伏線回収しつつ、「詳しい人や地元の人なら
その写真だけでどこか分かるくらい変わった形状のダム」を背景に写すことで、「どこで彼が死のうとしてるのか」考察し、現地に向かう人を呼びこんで
直前の「これで日本一周は終わり!」ツイートへの当初のリプライを見てると、「いろいろヒントは出てたのにみんな気づかず呑気なもんだぜ」って
感じで、kotaさんこれ見ながら気持ち良かっただろうなと思うよ。「騙し切った!」って快感ね。
これから死のうと思ってて、どうせ死ぬなら多少目立ってみたいと思ってる私のような人間には勉強になることしきりですよ。
ADHDの診断書。いやー分かる。「あ、俺って先天的に欠陥品だったんだ。道理でな~」って確定しちゃえば、今感じてる生きづらさは
一生続くんだって分かっちゃうからね。だったらば一秒でも早く死んだほうがコスパが良い。でも、ただでさえ面倒だったり怖かったりする
ことは先延ばしにしがちな発達障害。「死ぬ」のなんて一番怖いし面倒くさいですからね。
そこは、自殺を「残りの人生ぜんぶ賭けたビッグイベント」と読み替えて自分に暗示をかけて、「楽しいことなら頑張れる」過集中のムラッ気を
生かして愉快に死ぬしかない。kotaさんのやり口はその意味でも非常にクレバーでしたね。
自分が「普通」に現代社会に適合した生活ができない欠陥品だってことは二十何年生きててよく分かってるし、それが
環境遺伝も含むにせよ親からの遺伝だってことも分かってる。大嫌いだった父親と同じような言い方で他人を脅し、傷つけ横柄に
振る舞うようになってしまった。うちの父方の一族は、全員同じ怒り方をする。私も。嘘で自分を大きく見せようとしたり失敗をごまかそうとする、
父の短絡的な虚言癖と軽薄な外面の良さもしっかり受け継いでしまった。あれは祖父も一緒だった。
軽蔑していた父方の伯父のように、九時五時の仕事が嫌になって辞めてその場しのぎのコネの単発仕事と借金で自堕落に
暮らすことをなんとも思わなくなってしまった。
私の親族を見回すと、ひとりも真っ当に自分の力で生計を立てている人間がいない。父方の一族はみんな、網元で金持ちだった
祖父の当てにして遊んで暮らしている。その祖父だって、独力で会社を立ち上げたんじゃない。大政翼賛会の幹部で県会議員
だった父親(曾祖父)が、公職追放後の新しい稼ぎとして仲の良いヤクザから借金のカタに取り上げた定置網の漁業権を
売ってもらって、それを息子が継いだというだけだ。祖父も父も、ただ親が用意してくれたレールに乗ってへらへら既得権益を
むさぼっていたにすぎない。大体、漁業なんていうのは自分がつくった訳でもない自然のものを略奪する泥棒であって、
網元なんてその泥棒する権利を「最初の方からその町にいた」というだけの既得権益者で独占する犯罪集団の構成員だ。
漁師なんてみんな死んだほうが良い。
母方の一族も、みんなコンビニと不動産業をやっている祖父から金を送ってもらって生きている。母方の祖父母については、高度経済成長の
人口ボーナスを追い風に馬車馬のように働いて戦後のどさくさから一代で蓄財したのだから大したものだと思うが、てめえの息子が
確実に統合失調症なのを40年間引きこもらせて病院に連れて行かせず、今や「玄関の前で蝉が死んでた!集団ストーカーが
死骸を目印のために置いたんだ!」と騒ぐおしまいの60男になってしまった責任を取らずに死んでいこうとしている罪は重い。
父方も母方も、今のうのうと生きている50代以上の寄生虫どもが財産を使い果たし、私にまで回って来ることはおそらくなさそうだ。
私に与えられたのは、ただただ「まっとうに働くことができないこらえ性のない注意欠陥障害で」「社会性も協調性もない」
「ホウレンソウのできない」「部屋も片付けられない」「双極性障害で」「クズのくせに無意味にプライドばかり高い」「すぐにキレる」
「感情的な人間なのを糊塗するために論理的にしゃべろうと必死になってモラハラみたいになる」「虚言癖で自分を大きく見せたがる演技性人格障害で」
「人におもねって喋っているのがバレバレで信頼されない」「自分の意思と力で飯を食っていこうという能力に決定的に欠けた」
自分の遺伝子がこの世に必要がないことは分かり切ってる。生まれてくる必要がなかった。ただ、私が苦しい思いをし、私のまわりの
人間たちが私のせいで不快な思いをするだけなのだから。反出生主義とはなんと妥当な価値観だろう。
私は自分が欠陥品だと分かっているにも拘わらず、反省しない人間なので「じゃあ周りの連中はそんな価値のある存在なのかよ!?」と
他人に転嫁して叫び散らしたくなることがある。結婚や子作り・子育てにポジティブな人間を見ると「お前ら如きの遺伝子を世界に遺す
これは個人の意見だから、ガバガバ認定の全員が同じこと考えてるわけではないよ。人の意見を聞くのは面白いので、異なる意見や見落としている描写があったら教えてほしい。
リコリコの脚本の問題点は「するべき描写が足りていない」「制作人が物語を客観視できていない」ことだと思う。
ストーリーや描写に細かい突っ込みどころはたくさんあったけど、私が主にダメだと感じたのは以下の3つ。
②キャラクターが浅い
リコリコをバディものだと思ったのはイントロダクションの「凹凸コンビ」、キャッチコピーの「ふたりの時間、選びとる未来」と1話から。百合押しはいうまでもないでしょ。
バディもので必要なものは、「この2人じゃなければこの結末はなかったと思える」ことで、百合は定義が難しいけど「女の子同士」で「互いが影響を与え合い、代わりのない存在となる」とかそのあたりが必要だと思う。
バディものだったかということについては、2人で敵と戦うわけでもないし2人で悩んだりするわけでもないし、2人で選び勝ち取った未来でもなくて、最終的に千束のための物語だった。求めてたバディものの描写はOPの共闘部分くらいだったよ。
百合に関しては、なぜかまどマギと比べている人がいたからまどマギを例にカップリングの傾向について書く。まどマギはカップリングがメイン登場人物分あって、まどかとマミさんのカップリングは人気だけど、さやかとマミさんのカップリングはそうでもないんだよね。3話まで3人で行動していたのに差があるのは、マミさんの心を理解して変化させたのはまどかだったからっていうのがあると思う(ほむらのいた世界の関係も含まれると思うけど)。まどかもさやかもマミさんから影響を受けているけど、マミさんはまどかから影響を受けて心情に変化があった描写があるから「エモい」関係になった。
じゃあリコリコではどうだったかというと、たきなは千束から影響を受けたといえるけど、千束はたきなに影響を受けてはいない。千束がたきなに特別に感情を吐露するとか、たきなという人間じゃないと成し得ない関係になってるわけでもない。ついでに言うとたきなも影響を受けてはいるけどそれで成長した描写が薄いから、ただDAが全てだった頃から依存先が変わっただけにしか見えない。
2人がお互いに不可欠な存在だったり深く干渉し合った関係ではない。だから百合か?といわれると、いや百合ではないな…ってなる。「女の子同士がいちゃいちゃしてれば百合なんだよ!」っていう層とはこの辺で相いれないんだろうなぁと思う。
そしてバディでも百合でもないし千束に影響も与えないから、たきなの存在に必然性がない。これは後半だけじゃなくて物語全体で感じたことで、物語におけるたきなの役割って「ドローンを打ち落とせるくらい射撃がうまい」以上のことがない。
たきなの代わりにえりか(1話で人質になった子)が喫茶リコリコへ左遷された物語を考えてみてほしい。それで物語の大筋が変わるか?千束が「あなたに会えて嬉しい」とたきな以外に言わないか?そこが変わらないならたきなの存在に必然性も説得力もなく、制作側がやりたいことをするための存在に感じるよ。
描写が足りない点についてもう一つ考えてほしいんだけど、たきなは「昨年京都から転属した」「フキと同室だった」って1話で言っていて、千束と出会う前に少なくとも数か月はフキ達と行動してたってことになる。1話以前のたきなを想像できるか?あの性格で今まで問題なく過ごせていたほうがおかしいし、1話が初任務くらいじゃないと違和感がある。あの世界でキャラクターが生きてる感じがしないんだよ。
たきなについてもう1つ問題点があって、結局1話で機銃を撃ったことに言及してない。千束は「人を助けた」って言ってるけど、たきなが命令無視して動くほど合理的だと感じた理由への言及がない。これはたきなの成長を描くなら必須だよ。
千束を除いたたきな独自の関係性って本編の中ではえりかしかないから、11話のえりかとの和解は重要な意味があるはずで、たきなの行動が本当にえりかを救いたかったものならばそこで撃った理由を話すべきだった。例えばたきなからえりかへ「怖い思いさせてごめん」「あの時はわからなかったけど(成長した)今ならわかる。私はあなたを助けたかった」とかそういう展開が必要だった。嫌味を言うだけで終わったから、あの行動の理由なんて考えておらず、たきなの成長を描く気がなかったんだなって思ったよ。
このアニメ、モノローグが1話冒頭しかないから各々の心情を知るには主に会話になる。で、考えをベラベラ喋る割にはキャラクターの行動原理が見えてこないから、こいつら何がしたいの?感がでてくる。
人を殺したくない←なぜ:人に救ってもらった命だから
っていうのは理解できる。でも「自分が」殺したくないにしてはたきなやフキに殺さないように言うし、直接的にも間接的にも殺したくないにしては1話の機銃乱射に歓声あげて、自分がもう少し早く到着していれば回避できたとかそういう葛藤もない。不殺の理由を「気分がよくないから」って答えているけどその「気分」の根拠もないから結局何がしたいの?その中途半端な設定いる?と思ってしまう。
敵についても動機が見えてこないから浅くて小物感があるし、それと戦っている主人公達とこの物語がチープに見える。
吉松だと
千束に殺しをさせたい←なぜ:才能を世界に届けたいから←なぜ:?
真島だと
っていう感じで行動に対する動機が見えてこない。このキャラクターはなぜそうしたいのかという部分が足りていない。過去編やって全部描写しろとは言わないよ。でもワンカット・一言くらい「なんかあったんやろなぁ」と感じさせるものがないのは、そもそも理解させる気がない。
例えば真島は世界のテロ組織転々としてるって設定があるんだから、過去戦争でバランスにこだわるきっかけがあったとか、一瞬でも過去の描写があれば勝手に考察してもらえるのにもったいないなぁって思った。
12話で特に顕著だった一般人の描写について、ストーリー全般で明らかに足りていない。ストーリーに一般人が全く関わってこないならいいけど、一般人をギミックにするなら序盤から省いてはいけない要素だった。モノローグで「平和です!」って言われてもどのレベルかわからない。作中でも暴力団はいる描写はあったし、10年前にテロが起きてる時点で平和ってなんだよって思うよ。
というかこのアニメの設定上、殺し屋とかと戦うんだから相対的に治安が悪く見える。だから一般人の平和ボケと平和な作中世界は過剰なくらいやらないとつり合いが取れない。それを省いた上での12話だからそれは批判されるよ。
設定上できないんだったらいいけど、喫茶店という一般人が立ち入る場所があって、かつ4話ではテレビで脱線事故に対する反応もしているのに、平和ボケしている描写を入れられなかったは通用しない。それで理解してくれは制作側の明らかな怠慢だよ。
1話でも街中の戦闘と誘拐未遂があったんだから、人が死なない事件の後処理や一般人ひいては被害者の事件に対する認識を描けていれば世界観も掘り下げられてよかったのになぁと思った。
総合的に言うと、やりたいことはわかるけどそれに必要な描写もないしキャラクターの掘り下げもできていないせいで何がしたいのかわからないアニメだった。脚本が複数いるみたいだから舵取りをするべきなのは監督だし、監督のストーリーに対する客観視が足りなかったのか、そもそのそんな詳細な設定は考えられてないのか、そこに割く時間がなかったのか。
やりたいことについては付いてきてくれる人はいるからこれから頑張ってほしいよ。もったいなかったなぁ。
[余談]
・上記で何度か触れてるけど、このアニメは1話が一番問題だと思う。始まりはもっと丁寧に描いてほしいなって思った。
・この13話かけた世界に意味があったのはミカくらいだろうね。
ミカは過去と向き合いそのけりをつけた。他の人は何も成し遂げていないし解決もしていない。
・百合でまどマギを例に出してたけど、オリジナルアニメ、バディもの、整備された歪な世界、それに異を唱えるラスボス という点ではPSYCHO-PASSがこの作品の比較としては適切じゃないかな。PSYCHO-PASSは主人公の友達の一般人目線があったし、ちゃんとバディものだった。まだ観たことがない人にはどっちもぜひ観てほしい。
・魅力的な世界といまいち理解できない登場人物、作者の考えた設定を見る側に伝えられていない、本筋と関係ない描写に時間を割くっていう点でリコリコは打ち切り漫画みたいだなって思った。途中の失速に対してある程度落としどころ見つけたね~みたいなのも含めて。
・アニメや映画でどういう話だったかって短く要約できるものは優れた脚本だといえるけど、リコリコに関して思いついた人がいれば教えてほしい。自分はできなかったので。
歴史修正主義を今すぐやめろ。
常に何の理由も必要とせずセクシャルマイノリティが当たり前に存在してきたのが日本のオタクコンテンツだ。
それを不適切だとして勝手に改変しセクシャルマイノリティの存在を抹消してきたのが欧米だ。
その欧米が今さらになって急に「セクシャルマイノリティに寛容な進歩的なボクちゃん達」に目覚め「日本は遅れてるゥ~」などとイキり散らすのは、許さない。
例によってまた元発言の主の名前は武士の情けで伏せといてやる。
ちなみにこれみんなスーパーマンの息子をポリコレが無理矢理ゲイにした時の話な。
>逆だよ。同性愛者であることに「なぜ」は要らんのじゃ。掘り下げるかどうかは作品の趣旨やテーマによるが、当たり前のようにそこに居る、が大事で今まで蔑ろにされてたことなの。
↑
逆だよ。同性愛者であることに「なぜ」が要らんかったのが日本じゃ。
当たり前のようにそこに居る、が今まで蔑ろにされてたのが欧米じゃ。
>「我々を納得させる理由がないとセクシャルマイノリティの存在を許さない」という人。現実のセクシャルマイノリティにももちろん同じ目線を向けて生きている。
↑
「我々を納得させる理由があろうとなかろうとセクシャルマイノリティの存在を許さない」としてセーラームーンもCCさくらも勝手に改変したのが欧米なのだが?
「「我々を納得させる理由がないとセクシャルマイノリティの存在を許さない」という人」なんてのは、日本のオタクにはもともと存在しないのだが?
謎なのだが?
>異性愛者のキャラで「なぜそのキャラは異性愛者になったのか」の掘り下げはどれだけ存在するんですか?その掘り下げがない異性愛者の恋愛描写は「そういう配慮」とは感じないんですか???
↑
基本的に恋愛物のコンテンツは「なぜその人を好きになったのか」を掘り下げるものなのだが?
>好きなもんを好きなことに理由なんて無い思うんやけど
>私だって妻のこと好きやし
↑
逆だよ。
好きなもんを好きなことに理由なんて無いはずなのに、あきらかに「理由がある」から不自然に見えて反発するんだよ。
本当は同性愛者じゃないのに「ポリコレに配慮する進歩的なリベラルインテリ」だと思われたくて同性愛者のふりしてるようにしか見えない。
>「理由を説明してくれないと存在に納得できない」というのは同性愛差別そのもの
↑
誰も「存在に納得できない」とは言ってない。
「その作品に登場する必然性があるのか納得できない」しか言ってない。
>同性愛者が同性愛者である事に理由なんてないし、作者も当たり前に存在すると思ったから登場させてるんですよ。
↑
逆だよ。
当たり前に存在するものとはされていない欧米の価値観が背後にあるから、無理にでも「当たり前に存在するんだ!当たり前に存在するんだ!」と強調する必要があり、
日本のオタクコンテンツなら自然に当たり前の存在として同性愛者を描いてきた。
このスーパーマンのような無理やりゴリ押しするような不自然さは日本のオタクコンテンツには無い。
>これちょっと違うな。「作者も当たり前に(同性愛者が)存在すると知っていたから」に訂正します。
同性愛者が同性愛者である理由などなく当たり前に存在してきたのが日本のオタクコンテンツなのだが、
欧米は日本と違って同性愛差別が酷くて「当たり前には存在しないもの」として扱われてきたから無理矢理「当たり前に存在するんだ!当たり前に存在するんだ!」と強調しなきゃならないので
「当たり前」な感じが全然しなくて描写が唐突かつ不自然だから反発を招くんだよ。
欧米ポリコレコンテンツの側が「同性愛者が当たり前に存在するもの」として描かれてきた日本のオタクコンテンツから謙虚に学べよ謙虚に。
日本のオタクコンテンツなら自然に当たり前の存在として同性愛者を描いてきた。
このスーパーマンのような無理やりゴリ押しするような不自然さは日本のオタクコンテンツには無い。
だから日本のオタクコンテンツにセクシャルマイノリティが常に登場してきて日本のオタクは誰もそれを悪くは言わなかったんだよ。
欧米人のオタクがどう思ってたのかは知らないけどな。日本のオタクなら「セクシャルマイノリティが存在すること自体が嫌だ」とは“絶対に”言わないし、
「セクシャルマイノリティが存在すること自体が嫌だ」と言うオタクがいるならそいつは日本人じゃないだろう。
少なくともキリスト教かイスラム教が社会の多数派となる文化圏で育った人間じゃなきゃ「セクシャルマイノリティが存在すること自体が嫌だ」という発想には“絶対に”ならない。
>先入観や偏見とは何ぞや?という疑問に対して、とても納得の行く答えを身を持って示してくれているツイート。
「先入観や偏見とは何ぞや?」というのがよくわかるツイートだな。
「日本人は欧米と違って遅れてるから、セクシャルマイノリティに先入観や偏見がある奴ばかりに違いない」という「先入観や偏見」だな。
実態は「真逆」なんだがな!!!!!俺はべつに「日本にはセクシャルマイノリティに対する差別は無い」とは言ってねーのだが?
日本人は伝統的に「セクシャルマイノリティは当たり前に存在する」として、テレビとかでもオネエキャラとか昔から普通に受け入れてきたのだが?
しかし、だから差別が無いかというと、そんなふうに「オネエキャラ」みたいに面白おかしく弄って消費するのも一種の差別なんだが?
ただしそれは欧米流の「存在自体を認めない」というタイプの差別とは異なるスタイルの差別なんだが?存在自体は認める、ただし弄る、というのが日本流の差別なんだが?
そんなふうに存在そのものはとっくに受け入れてる日本に「存在自体を認めない」とする欧米流の差別への対抗である「存在を認める」という形のカウンターの方式を押し付けても意味がないばかりか
「弄る」という日本流の「差別」を「差別じゃない」から「良いこと」とされかねないから、マイノリティの立場からすれば迷惑なんだが?
俺がもしマイノリティの立場だったら、「俺のことはほっといてほしい、存在を無視してほしい、面白おかしく弄られるのはもう嫌だ」と思うと思うのだが?そういう「俺がかまってやると相手も嬉しいはずだ」とかいう勘違いの善意の押し付けは弱者からすれば「攻撃」としか感じられず、そっちのほうが差別なんだが?
同性愛者が同性愛者である理由などなく当たり前に存在してきたのが日本のオタクコンテンツなのだが、
欧米は日本と違って同性愛差別が酷くて「当たり前には存在しないもの」として扱われてきたから無理矢理「当たり前に存在するんだ!当たり前に存在するんだ!」と強調しなきゃならないので
「当たり前」な感じが全然しなくて描写が唐突かつ不自然だから反発を招くんだよ。
欧米ポリコレコンテンツの側が「同性愛者が当たり前に存在するもの」として描かれてきた日本のオタクコンテンツから謙虚に学べよ謙虚に。
いや全くおかしくない。
高校生くらいの時期の男の行動原理は全て「女にモテたい、セックスがしたい」という動機のみ。
高校生くらいの時期の女はみんな暴力的な男が大好きで、弱い男を集団でボコボコにする男を見るとキャーキャー黄色い声出してチヤホヤして、そいつらとセックスしたくなるのが女の本能なのだ。
だから女に暴力的な男とセックスしたがる本能があるせいで弱い男は強い男に殴られるのであり、
女がいなければ男も「女にモテたいから弱い男を集団でボコボコにしてやろう」とは思わないものなのだ。
女がみんな暴力男が嫌いで、「弱い男をボコボコにしたりしてると女にモテなくなる」という風潮になれば弱者男性の被害もなくなるのだが、
「女はみんな暴力的な男とセックスをしたがる」という本能は絶対に無くならないのでそれはありえない。
よって「男に殴られたから女を憎む」というのは完全に筋が通っており正当性がある。
むしろ逆になぜ男に殴られたのに女を憎まないのか、そっちのほうが矛盾しているのだ。
男が弱い男を殴る理由は「弱い男を殴れば女にモテるから」なのだから、殴られた原因である「女」を憎むのは必然性がある。
あとなんか「私はフェミニストだが男どうしのケンカを何度も止めた」「私ならそのときの君を助けた」とか言ってるのがいて
いかにも微笑ましい中2イキリだが、仮に実話だと信じてあげるとしても、「男どうしのケンカを止めた」とか「男に集団でボコられてる弱者男性を助けたい」とか言ってる時点で既に「フェミニストではない」からな。
フェミニストであるならば、必ずケンカに勝ったほうの男を養護しなければならないし、男に集団でボコボコにされてる弱者男性の側を女性差別主義者と認定してさらにボコボコにしなければならない。
なぜならばフェミニズムとは暴力男大好きイズムでなければならない。
フェミニストは「女性の味方」でなければならず、女はみんな暴力的なが大好きなのだから、必然的にフェミニストならば暴力男の味方にならなければならない。
>最初から同性愛者のキャラを作ってれば、文句わざわざ言うやつなんてほとんどいないと思う
これは正論。
事実、日本の漫画やアニメは昔からセクシャルマイノリティのキャラは必ずいた、というより不可欠な存在であり、出れば必ず人気キャラになった。
それが海外で放送されるときは不適切であるとして勝手に設定を変更されてきた。
それを今さら急にポリコレに目覚めた欧米が何の必然性もなく無理やりセクシャルマイノリティ要素をねじこんで「これを嫌がるジャップは遅れてるゥwwww」とバカにするとかふざけんな。
昔、北欧かどこかのCMで、飛行機の中で日本人におしぼり渡したら無知な日本人はおしぼりの使い方を知らず変なことするというギャグをやらかして、
無知なのはおしぼりは日本発祥なのも知らないレイシスト白人のCM作者のほうだと批判されたことがあるが
>オタクの本質は「変えるな」
間違ってるのはここだけ。
オタクの本質は「変えてもいい」だ。
絶対に譲れないのは「“政治的に利用するための目的で”変えるな」なんだよ。猫娘の姿が変わるのはその折々の流行に合わせただけであり、何らかの政治的勢力の言いなりになった結果ではない。
したがって、一部の偽善者リベサヨが喜ぶだけでそれ以外の本来のファンからは嫌がられているアメコミのポリコレ変更と違って、猫娘の変化は常に好意的に受け入れられている。ジャンプ漫画は設定を変更することで面白くなり、人気が上がった。
アメコミは設定を変更することでつまらなくなり、人気が激しく落ちたにもかかわらず、売れる売れないに関係なく偽善者リベサヨの政治的圧力に屈しなければならないため、無理やり変更しなければならない。
全く事情が違うんだよ。
この人らも普段はトランスカルトを批判してるのに、なぜトランスカルトと同じ手法であるポリコレには全く抵抗しようとしないのか?
単にキモヲタ叩きがしたいだけなのか?マイノリティの自分たち(オタク)の文化がマジョリティ(偽善者リベサヨポリコレ)によって蹂躙されることへの抵抗なんだが?
しかも日本のオタク文化は長年やおいとか百合とかでセクシャルマイノリティに寛容だった。
「それはマジョリティのシスヘテロがセクシャルマイノリティを性的搾取してただけだ」という批判はあってもいいが、今さらポリコレでイキり散らしてる欧米は作品の中にセクシャルマイノリティが登場すること自体を許さなかったんだから欧米のほうがもっと差別が酷い。
セクシャルマイノリティを受け入れてきた日本のオタクが「セクシャルマイノリティが登場するのが嫌だ」という理由でポリコレ叩きをするはずがない。
セクシャルマイノリティを政治的に利用するからポリコレを許さないんだよ。
セクシャルマイノリティを搾取して差別してるのはポリコレのほうだ。
政治的な意図のために何の脈絡もなくセクシャルマイノリティを無理やりねじこむ欧米ポリコレは、
昔からセクシャルマイノリティを「いるのが当たり前の存在」として自然に登場させてきた日本のオタクコンテンツの先進性を見習え。
レッテル張りしてるけど話が噛み合ってないんだよなあ。お前もお前で自分が思ってるほど頭よくないと思うよ。
相対論とか極端な例を持ち出す前にまずは身近なジャンルとして料理ブロガーで月間何百万PV稼いでる奴がなんで稼いでるのかその必然性を考えてみたら。別にPV稼いでる奴が無名ブロガーのレシピより飛びぬけて優れてるなんてことなくて、むしろ多くのブロガーは不条理にくすぶって、要は有名になってる人間の方がラッキーマンに過ぎないのよ。
ところでレビューの有無に関わらず投資の方法論が書かれてたらとりあえずやってみようとは思わんもんなのかね。
お前は増田を読んだといっても「目を通してレビューがあるかどうかを確認しただけ」だろ?中身は読んでないんだろ。
形式的に整っているかと役立つ内容かどうかは関係ないわけで、たとえば金欲がある奴は儲けの方法論とあったら読むだけ読んで参考にできることはしようと思うもんだがね。欲が無いのか?
普通為替取引と言えば二つの通貨間で金を転がして相場の変動に伴う差額を儲けとして得ることを目的としたものを言うと思う。
相場が変化する中でこそ可能な方法という意味で動的な為替取引と言えると思う。
上記のような方法しか為替取引で儲ける方法など存在しないと思われる人たちににとって今ある唯一の方法論を「動的」とまるで別の何かと区別したような呼び方は単なる無駄に映るかもしれない。
しかし既存の方法論とは志向するところが異なる「静的な為替取引」と呼べそうな方法論を見つけたかもしれないということをこれから説明していこうと思う。
しかし「相場が固定されていたとしても」儲けることができるというのが今回説明したい方法なのだ。
むしろ相場が固定されていてくれていたほうがありがたいようなやり方なのである。
実際一個人が市場介入で相場を固定することはできないが、相場が大きく動いていく前に一連の取引を済ませてしまうということならできる。
そういう視点で考えれば今自分が行いたい全ての取引を一瞬で終えることが可能ならば大ざっぱに言えばその取引は固定相場制のなかでの取引と同等なものになる(大ざっぱに言えばと断ったのは、自分自身の取引による相場の変動が考慮されるため)。
一瞬のうちに全ての取引を済ませたときに得られる儲けが、数学における極限的な意味での、儲け得る金額の理想的な値に相当する。
この理想値に近い儲けを手にするためにできるだけ俊敏な取引が望まれるというわけだ。
つまり説明していく方法を実行するにあたっては手動ではなくプログラムを組んで行うことが望まれるということには留意してほしい。
またあえてこの時点で両者の為替取引を端的に表現しておくなら、動的な為替取引とは時間経過に伴う相場の変動を利用して儲けを得ること、静的な為替取引とは一時点における相場の「ひずみ」を利用して儲けを得ること、というところになると思う。
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具体的に説明するために仮想的な通貨とそのレートを仮定しておこう。
そのレートについての条件は以下の通り。(円に対して100円というように100Aや50Bと表記していく)
1.1C=100A(1.でこれから指し示すための通し番号となっており小数点ではない。以降同様の表記法を用いる)
2.1C=1B
AとBについては以下の2通りのレートを適宜考える(都度どのレートで考えているか示す)
3.1B=1A
同様に以下の通り
5.100D=1C
6.90D=100A
以降、文章だけで伝わるように努めたが、一応解説図のようなものも作成したので適宜imgurへ投稿した画像へのリンクを貼る(増田では1つの記事に貼れるリンク数には限りがあるためhttps://は省略させていただく)。
核心の部分を説明するまでの準備的な説明が多いので回りくどく思われるかもしれないが、読み飛ばしたりしてはおそらく理解できないはずなので辛抱強くついていってほしい(もちろん直截簡明に説明できない私の文章力不足もある)。
では具体的な説明をしていこう。
まずA,B,Cの三つだけで考える。
甲が100A、乙が100B、丙が100C持っていたとしよう。
まず甲と乙の間での取引が起こる。
レート3(1B=1A)の関係により、100Aと100Bがそのまま交換されることになる。
これにより甲は100B、乙は100A、丙が100C持っていることになる。
次に甲と丙で取引が行われる。
レート2により、今度は100Bと100Cの持主がそっくりそのまま入れ替わるわけだ。
これにより甲は100C、乙は100A、丙が100B持っていることになる。
甲は100C持っているわけだが、これはレート1により10000Aに相当する。
通貨Aに戻してから同様のことをサイクルとして繰り返すことで100倍ずつ資産の増やせるというわけである(厳密には甲と乙が行う取引自体によって取引中にレート3がAの価値が下がる方向に変化していく効果も考慮されることになるので、1サイクルにおいて変換させようとする通貨AとBの量の多いほどぴったり100倍にはならずそれを下回る成果となる)。
反面、乙がこの1サイクルで最終的に得たお金を通貨Cに換算すると、レート1により、1Cになっていることになる。
最初持っていた100Bはレート2により100Cに相当するのだったから、資産が100分の1に目減りしていることになるのだ。
これらのことはレート1とレート2が相場として確かにあることから起こることだ。
レート1とレート2の関係を知っていて、誰がレート3のような100分の1目減りする取引を行うだろうか。
つまりこの情報社会ではレート1とレート2が既にあるときレート3のような相場は発生しない。
ここで早速簡易な表を添付しておく。これを見ながらの方が俯瞰的に状況を見ることができ分かりやすいかもしれない。
結論としてはレート1とレート2であるときはレート4の相場で相場全体がこなれることになる。
これらの等式はまとめて1C=100A=1Bとすることができることから明らかなように、これら3つの相場が成り立っているときにはこの3つの通貨の間でいかにお金を転がそうとも損も得もしない。
つまりAのような一人勝ちできる勝者は発生し得ない。世の中そう上手い話はないというわけだ。
一応レート1,2,4のときの表も添付しておく。
ここまで分かりにくく感じるところがあったという人は、通貨A,B,Cをそれぞれ円、ビットコイン、ドル、に具体的な通貨に置き換えてみるといいかもしれない。
このときレートも具体化すれば1ドル=100円、1ドル=1ビット、1ビット=1円または1ビット=100円となる。
今まで円をビットコインを経由してドルにしてから円に戻すだけで資本が増やせるなんて話を聞いたことがあるだろうか?仮にそんな話があったとしてそれは確固たる成功例だったろうか?
そういうわけで、1ドル=100円、1ドル=1ビットのようになっているときは1ビット=1円のような誰かに都合のいい相場ではなく、1ビット=100円のようになっているはずだということである。
具体化した表も付しておく(レート4の場合)。
これは当然レート1とレート2のような相場に限ってしか言えないものではなく、ドルと円あるいはドルとビットのレートがどのようになっていても残りのビットと円のレートについて必ずそうなるということである。
ただしAとBの関係についてはレート4が成り立っているものとする。
表を見ればより一目瞭然かと思うが、上に書いたサイクルで甲が通貨Cを通貨Aに戻す直前には甲は持っている。
ここで甲と丁による通貨Aと通貨Dの取引を考える。丁は90D持っているものとする。
このとき甲と丁の取引が行われるとレート5により甲に100D、丁に1Aが渡ることになる。
今甲が持っている100Dを通貨Aに換算するには、レート6により、90:100=100:xという比例式を解く計算をすればよい。
x=10000/90ということで、もともと持っていた100Aより資産が増大しているのだ。
レート7があまりにも恣意的な設定なだけではないかと思われるかもしれない。
しかし肝心なのは、レート6であってはならないという必然性がないということだ。
丁が通貨Aなど念頭になく、通貨B,C,D間での取引にしか興味がない(そして多くの人もその傾向である)ならば、少なくともその三者間の相場を表すレート2,5,7は先ほどと同様一つの式にまとめられる関係にあるので、丁はこの取引において損も得もしていない。
丁(あるいはその他多数)にとっては安心して支払いなどと用として通貨を替えることができる環境にあるわけだ。
自分がした取引によってその取引相手である甲という一個人が得しているかどうかなどあずかり知らぬことである、ということだ。
同様に乙や丙にとっても通貨Dなど念頭になく、またそのような人々が多数派なのであれば、レート4を含む今のレート状態で乙や丙のようなA,B,Cの三通貨間の取引を期する人々にとって損も得もないことは表も交えて先述した通りだ。
レート6がどのようであっても先ほどの甲が100倍得したときに乙の資産が100分の1に目減りするような状況にはならないので、乙やその他通貨Bを持っている人たちの投資家心理はレート6には干渉しない・独立しているということなのだ。
概念図では念頭の埒外、蚊帳の外という様子を破線で示している(図中の数字はレートの通し番号に対応)。
私はレート6のような状態を相場のひずみとでも呼ぶことにしたい。
相場が固定するなかでは二通貨間の取引は言うまでもなく、一つのサイクルの間にどれだけ多くの通貨を噛ませても損も得も起こらないと考えるのが普通だろう。
いわば電気回路で一周すると電圧が元に戻るというキルヒホッフの法則のようなものが為替においても(手数料を抜きにすれば)成り立つはずだというのが素朴な考えとして多くの人に支持されるはずだ。
次々と自国の貨幣よりもより価値の高い通貨に替えていっても最終的に自国の通貨に戻したときには最初と全く同じ価値に戻ってしまうということである。
しかし大半の投資家心理とは独立した通貨ペアがあれば、そのレートも投資家心理の束縛を受けず、場合によっては誰かが得できる状況もあり得るのではないかという説を上では具体的に例示したわけだ。
ここでそのような通貨ペア=ひずみを生じる根源が成立条件について自信は無いが挙げておこうと思う。
さらに
条件として挙げたのはどれもAとDの為替を含む取引になっている。
逆に条件に挙げた取引がある程度存在するとAとDの相場であるレート6にも投資家心理が影響していくので誰も損得しない方向にレート6のひずみも解消されていくのではないかということだ。
たとえば1番目と2番目の条件はようするに金の流れが逆なだけなので、いずれか一つを挙げれば事足りる同値な重複した条件なのではないかということだ。
4通貨でひずみが生じる例を示したわけだがこの場合のひずみも解消され得るものである。
しかしそれ以上のある数以上の通貨間の関係のなかではそれらに内包されるそれぞれの二者間の相場がいかなるものであろうとも、どこかしらにひずみが生じてしまうものなのかもしれないと直感的に感じられる。
つまりある数以上の通貨を介せば必ず儲けを生み出す為替の経路が存在しているのではないかという主張であるわけだが、その通貨数がいくつであるのか、私にはそれを数学的に証明する技量はないのは悔やまれる。
話を戻せばこうしたひずみがあると、一見成り立ちそうな為替版のキルヒホッフの法則でも相殺しきれない差額が生まれ、それを儲けとして得ることができるかもしれないということだ。
これらの概念図を示しておく。
今までの話はこのようなごく単純な話に置き換えられるかもしれない(ただし以下は知人が見出したたとえ話なので語弊もある恐れがあり正しさは保証しない)。
今プレステ3の卸値が日本で3万円、アメリカで280ドルだとする。このとき100円=1ドルの相場である。
手持ちが29000円しかないなら日本でプレステを買うことは不可能だが、この相場ならドルでなら買える。
それどころかこのプレステ3を日本で売れば売ればお釣りが来るかもしれない。
ただし日本で売るにはアメリカで買ったそのプレステ3を日本まで運搬してもらう配送料がかかる。
この配送料次第では損かもしれないが、ここが先ほどまで説明してきた方法論の手数料負けするというおそれに相当するわけだ。
効率よく上記の条件を押さえた通貨ペアを探すなら、通貨ペアの相関係数表をチェックする方法が検討される。相関表の例:https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000299.000003206.html
まず日本円の列か行の中で相関係数の絶対値が0に近いものを探す。
0に近いものを見つけたら、今度は前の時点で列の中で眺めていたなら行を、行を眺めていたなら列を探して、同様にその通貨にとって相関がほとんどない通貨を見つけ出す。
こうして行から列、列から行と渡っていくことを繰り返し、最終的に日本円に戻ってくるループを見出す。
ただしこのループの中に同じ種類の通貨が二度以上あってはいけない。
もし同じ通貨があればそこで一つの完結したループができてしまっていると思われる(もちろん始点と終点として円だけは必ず二度登場しているはずである)。
そのようなループが今回の方法論を適用するのに優先的に試すべき候補であるが、実際にそのうちに手数料込みで儲けを生み出すひずみが生じているのかどれかといった計算や、このようなループを探し出す作業自体もプログラムで行なったほうが良いと思われる。
計算から取引の完了までの間に人力でもたもたしていると、その間にひずみの状況が変わり、行なっていた計算が適用できなくなるはずだからだ。
そもそも通貨の組み合わせも膨大であり、為替で利用できる通貨が10個だったとしても、順列の概念はうろ覚えで自信がないのだが、ひずみが発生し得る通貨数が4つ以上だと仮定してもその組み合わせ10P4+10P5+・・・+10P10のようになり、その中から候補のループを探すというのは人間が人力で行うべきことではないように思われる。
ともすれば量子コンピュータの実用化を待った方がいいぐらいかもしれない(なんとなくNP問題の匂いがする)。
ただしそれだけの組み合わせ数があるというのは良いことでもある。
プレステ3のような規格化された工業品はさておき具体的な物においてはひずみが生じやすい、しかし原油や貨幣は統一されたものなのでそのようなひずみは起こらないだろうというようなことを知人は言っていた。
しかしこれだけの数の組合せがあるなら、やはりそのなかにはまだ見出されていない、得できるような通貨ペア、ループが眠っていてもおかしくないと思うのだ。
頭の中で考えても俺の脳内スタックでは何か行ったり来たりするような状態を繰り返すばかりになっていたので埒が明かないと感じたし、また自分の中でも判然としないところが多いので、批判を乞う目的も兼ねて今回言語化を試みた。
そういう経緯ゆえに直観に頼ってごまかして書いたところもある。
ただし増田で間違ってると言われてもそれを鵜呑みにするようなことはしないつもりだ。
それを参考にはしながらも、今後金融や経済学の専門的なことを学び、もっと理詰めで考えられるような頭になった後で、この方法論が理屈として間違っているかどうか、また机上の空論ではなく有用あるいは実効性があるといえるかどうか確かな理解のもとで判定させていきたい。