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はてなキーワード: だんだんとは

2024-08-22

猿のエサボタンと同じじゃん

>まずボタンを押すと必ず餌が出てくる箱をつくる。

それに気がついたサルボタンを押して餌を出すようになる。

食べたい分だけ餌を出したら、その箱には興味を無くす。

腹が減ったら、また箱のところに戻ってくる。

 

ボタンを押しても、その箱から餌が全く出なくなると、サルはその箱に興味をなくす。

 

ところが、ボタンを押して、餌が出たり出なかったりするように設定すると、

サル一生懸命そのボタンを押すようになる。

 

餌が出る確率だんだん落としていく。

ボタンを押し続けるよりも、他の場所に行って餌を探したほうが効率が良いぐらいに、

餌が出る確率を落としても、サル一生懸命ボタンを押し続けるそうだ。

そして、餌が出る確率を調整することで、

サルに、狂ったように一日中ボタンを押し続けさせることも可能だそうだ。

 

のちのパチンコである anond:20240822104855

2024-08-21

anond:20240821053550

元カレマツコ・デラックスに変貌してしまった。といっても元カレほど私は彼の知らない世界を欲していないので、スタジオだんだん無理になってきて、連絡を取るのをやめた。

彼のことは友人として今でも好きだけど、司会としての魅力は特に感じていない私。そして私にゲストとしての価値見出しはいても、友人としての価値見出していない元カレ。悲しいすれ違い。こうやって人は別れを経験するんだ。ふーん、あっそ。

元カレメッセージから醸し出される知らない世界への必死さを見ると、彼にとって知らない世界いか関係性の中心にあったか分かる。私も嫌いじゃなかった。会えば必ず話してたし、話さないで帰るっていうのは考えられなかった。でも私にとっての知らない世界って所詮オマケしかなかった。焼肉屋さんに行った時の注文とか、飛行機に乗った時にジュースを選ぶとか、そんな感じ。いつもより楽しく感じるし、話せるなら話そうと思うけど、そのために焼肉屋に行ったり飛行機に乗ったりしてるわけではない、あの感じ。元カレにとって知らない世界焼肉屋焼き肉で、飛行機における移動だったんだろうな。

いっそ元カレの知らない世界を欲してると言えるくらい私も知らない世界を中心に据えられたら。それはそれで新しい親友同士になれたのかもしれない。爛れた関係ではあったとしても、お互いに求めるものが一致していて、目線の合った関係性。少し憧れずにはいられない。現実的には、よくある男と女の別れに過ぎない。こうやって初めての真剣な恋が終わっていく寂しさをただいじくり回している時間、めちゃくちゃ無駄だと分かっている、のに離れられない。

元カレが私の体目当て野郎に変貌してしまった。といっても元カレほど私は彼の体を欲していないので、気持ち悪いメッセージだんだん無理になってきて、連絡を取るのをやめた。

彼のことは友人として今でも好きだけど異性としての魅力は特に感じていない私。そして私に異性としての価値見出しはいても、友人としての価値見出していない元カレ。悲しいすれ違い。こうやって人は別れを経験するんだ。ふーん、あっそ。

元カレメッセージから醸し出されるセックスへの必死さを見ると、彼にとってセックスいか関係性の中心にあったか分かる。私も嫌いじゃなかった。会えば必ずしてたし、しないで帰るっていうのは考えられなかった。でも私にとってのセックスって所詮オマケしかなかった。焼肉屋さんに行った帰りのガムとか、飛行機に乗った時に貰える飴とか、そんな感じ。いつもより美味しく感じるし、貰えるなら貰っておこうと思うけど、そのために焼肉屋に行ったり飛行機に乗ったりしてるわけではない、あの感じ。元カレにとってはセックス焼肉屋焼き肉で、飛行機における移動だったんだろうな。

いっそ元カレの体を欲してると言えるくらい私もセックスを中心に据えられたら。それはそれで新しい親友同士になれたのかもしれない。爛れた関係ではあったとしても、お互いに求めるものが一致していて、目線の合った関係性。少し憧れずにはいられない。現実的には、よくある男と女の別れに過ぎない。こうやって初めての真剣な恋が終わっていく寂しさをただいじくり回している時間、めちゃくちゃ無駄だと分かっている、のに離れられない。

   令和6年4月12日    記録

      主、平成31年2月23日にあった朝霞水門での真夜中の体育会のことを調査するため朝方に朝霞水門の方へ行ったが当時に違って繁茂していた工場の草も刈られているし

    付近散歩している高齢者からその辺を巡回されると電波障害になるという目で見られて東京河川敷を朝方にジョギングしている富裕層が何を考えているかだんだん分かってきたと言う。

     令和6年4月20日  記録

   平成30年10月リリース、 令和元年6月13日~コンサート開始のGLAYの、愁いのPrisonerを歌うことにしたというが鳴かず飛ばすで、1年前と比較してやる気がないという。

  23日に浮間舟渡にやる気がなくなった運営大本巡査が出現しライト確認をしたということ。27日に、愁いの部分を替え歌して、 いらいらのPrisonerに変更したがあまり当たらなかったという。

   ※ 警察容赦なく国民に手を出してく~ といったもの

    令和6年5月1日   記録

    主が荒川河川敷東大法学部の内容についての電磁解説をすると、朝方4時30分に戸田市の向こう岸に、つげわの小さい高齢者無線で出るように指示されており、法を実施すると

   生活ができない、あなたを殺さなければならない、といった顔をしているという。しかし向こう岸に小さく散歩に出ているだけなのでよくみえなかったということ。河川敷でそうした極限的な意見を言って

  いると警防運営の枯れたおばさんの性器突っ込み過ぎると物理攻撃やそれに類する睡眠中の悪夢が同伴するという。 ときわ台メリーガーデンの11階に住んでいる石村智を通じて、若い巡査

  部長東大法学部教務課に押しかけて卒業の取り消し請求をするように暴れる夢をみたのだという。2日は休んでいたが、夢に加藤恵子および西階中学同級生が出てきて、前田疲れたか、

  と声をかけてくる夢をみたのだという。3日は荒川河川敷警察が警戒しており、5日は志村福祉事務所の前を不審おっさん西台の方向に歩いていたということ。7日は前野公営住宅前に

  後ろ向きに歩いている身体障碍者が出ているという。

     令和6年5月10日  記録

   主、通院。武蔵野病院から帰る途中に、自動車ひらがなに、 す→さ→け→せ、と書いてあり自宅に帰ると増田IDが全部消えていたという。高見奈亜子に対して、現在診療中だが

  上の運営本部が何を話そうか今必死で考えているという発言をしたという。帰宅後に、アパートの202号室のアメリカ人音楽の音がうるさいといって通報ベランダを出ると太った巡査部長

  立っていて、ときわ台メリーガーデンの左から3番目の2階に運営の男が立っているということ。 12日、河川敷で久しぶりにGLAYを本気でやると、ローソン店員がいつも迷惑そうな顔をしている

  という。

    

2024-08-20

anond:20240820230008

20年後

父母のどちらかは他界しどちらかは介護施設

今住んでいる賃貸家賃が高いのでもっと安いボロアパート引越し

引越したことでますます親戚知人とも疎遠になりほぼ孤独状態

何のスキルもないうえに年寄りで使いにくいのであっさり派遣を切られ無職になる

加齢で目も頭もだめになりスマホ漫画も字を読むのがつらいので一日中テレビを見るか寝ている

ある日空き巣が入り部屋中めちゃくちゃにされるが泥棒警察通報したら殺すと脅され怖くて通報できず部屋もめちゃくちゃのまま暮らす

そのうち割れガラスの破片で足を切ってしまい傷がだんだん化膿して高熱で倒れる

電話救急車を呼ぶ気力すらなくそのまま衰弱して死ぬ

耳鳴り

最近、というかここ数年ふとした時に耳鳴りがする。

音はピーーーっていう、サイン波みたいな音。

で、調べてみると難聴だとか色々出てくるんだけど、「耳を塞ぐと大きくなる」って書いてあるんだよね。

自分のは全く逆で、塞ぐとだんだん小さくなって何もなかったかのように耳鳴りが消える。

なんなんだろう、、、

anond:20240820034633

若い女性の仕事を奪う企業になるとイメージが多少悪い(これ以上下がることもないと思うが)

その若い女性の仕事だんだん減っている(単純に芸能界の売り出しや番組需要のせい。ああいタレントの「人気」は正直関係ない)

同時に起こっていたことなので双方契約を切る意味がなかった

2024-08-19

anond:20240818234330

そういうのに飢えてたときアホみたいにぼる塾の動画ばっかり見てたけど、だんだん食傷してしてきて最後は嫌になってやめてしまったのを思い出した。許容量がある要素ってかんじ。

いくら楽しくてもずっとは見てられないなと思ったけどそんなこと考える間も理由もないほどリアル人間関係が充実してる人は当たり前だからいつまで見てても飽きないし平気なのかな。

anond:20240819002751

整形狂いって、SNSの整形女を見てもわかる通りだんだん顔怖くなっちゃうんだよね

不気味な顔してるんじゃない?自己客観的評価できないんだろうね

2024-08-18

富裕層専業主婦気持ち悪いので観劇趣味を辞める

この記事をご存知だろうか?

嫌味とかではなく、なんの職種だったら月10回とか観劇できる時間と財力が得られるんですか、、、???

https://x.com/lnyaonl/status/1807761844385497506

まさにこれを絵に描いたようなような人間存在を知り、辞めるに至ったまでのことを書き残したい。

筆者スペック

・ここ1〜2年で舞台俳優推しができた新規オタク

都内OLをやっている20代女。

一人暮らし

フルタイムで働いてやっと舞台を1、2回見れるくらい。

(※ここでの舞台有楽町周辺の劇場だと想定してほしい。)

ハマりたてのころは舞台価格設定に慣れなかった。

こんなに高いんだ?!と驚きつつ、推しの演技を見たい一心チケットを取っていた。

チケットは取れたり取れなかったりでこんなものかぁと思っていた。

一人で推し情報を追うのに限界を感じ、推し情報を得るためXのアカウントも取得し、界隈の観劇ファンとも交流するようになった。

そこでわかったことが一つある。観劇ファンには怪物がいる、専業主婦富裕層だ。

私はあるファンとあるきっかけで交流するようになった(以下Aとする)

Aスペック

アラサーorアラフォー

・子持ち

都内住み

最初舞台に詳しい人だという印象だったのだが、フォローして気になる所が多々出てきた。

連日の一等席観劇観劇後はホテルアフタヌーンティー、平日昼間から高級寿司、入手困難な舞台もしっかりチケットを揃えている等…

何者なんだ????どっから金が出てくる???

自分仕事で行けなかった舞台にもきっちり観劇しており、だんだんとなぜ働いている自分が行けないのに毎日悠々とくらしてる人間が行けているのかと鼻につくようになっていった。

入手困難なチケット

A「今回チケット取りすぎたかもw」

????じゃあ譲ってくれや????????

自由に動ける時間、金がありましたらそりゃ取れますわな。

育児が大変だということを引き抜いても毎日の悠々暮らしを見てると、なんというか働いてる自分馬鹿みたいだなと思えてきた。

近年のチケット代金の値上がりもあり、自分がどう頑張っても結局はこういう時間お金もある富裕層しかチケットは流れないのだなと思うとやるせ無くなってくる。

自分は想定されたお客様ではもうなくなったのだ。

そろそろXのアカウントも消し、推しファン辞める。観劇趣味も辞めようと思う。


追記

Aの人柄もファンを辞める原因になっている気がする。

・古臭い表現((´・ω・`)絵文字)

・Xでは強気意見オフではもそもそ小さい声で喋る

・気を遣っていない見た目

・筆者に避けられていると思ってないのかオフ会に誘ってくる(Aが年上だから単に断れないだけ)

東京救急外来電話をしたがあまり役に立たなかった

外出中に突然の息切れ・動悸が起きた。

激しい症状ではない。救急車を呼ぶほどの緊急性は無いと思い、119から救急外来相談をした。

まず症状について聞かれ、その後は発生日時、現在の状況、名前や年齢など。

最寄りの救急外来を教えてもらい、通話は終了。

さあ病院に行くぞと救急外来電話をしたのだが、こっから思うように話が進まない。

息切れは治まっていますか?」「立ち眩みはありますか?」「往診歴はありますか?」

さっき聞かれた内容を再度回答し続けた挙げ句、うちでは循環器科の応対ができないので別の病院を紹介するとのこと。

呼吸が乱れて不安な身としては、どこでもいいか医者に掛からせてくれと気持ちが焦る。

しかしその後も同じような展開が続いた。症状を事細かに聞かれ、うちではいま受付できないので別の病院へ…と。

だんだん苛立ってきて、質問の途中で「診察できなさそうなら結構です」と通話を切り上げてしまった。

こんな問答を繰り返してる内にすっかり症状が治まったので帰宅した。

今回は症状が軽かったから良かったものの、そうでなかったらゾッとする。

病院に辿り着くのが困難であるなら、症状が軽くてもさっさと救急車を呼んだ方がいいなと思った。

煮詰まる」はいかにして「結論が出る」という意味になったか

それでは夏休み自由研究を発表したいと思います

最初

現在のところ「煮詰まる」という言葉は、「議論交渉がまとまって結論が出る」という用法が正しいとされ、「議論が進まなくなって行き詰まる」という用法誤用であるとされている。「煮詰まる」という言葉がどのように用いられてきたのかに興味を持ったので、その変遷を辿っていこうと思う。ソースはだいたい国会図書館デジタルコレクションである

注意として、ここでは「煮詰まる」と「煮詰める」を区別して、「煮詰まる」の用例のみを追っていくこととする。現在においても「煮詰める」のほうには「行き詰まる」という用法はなさそうだからである

白樺派の例

調べてまず気付くのは武者小路実篤が「煮詰まる」を多用していたこである。そして同じく白樺派有島武郎長与善郎、その影響を受けたという岸田劉生木村荘八なども「煮詰まる」を用いている。まるで実篤から伝染したようである。それらは概ね「無駄な修飾を排して凝縮されている」あるいは「態度が一つに決まっていく」というような用法であり、いずれもポジティブ意味で使っているところが共通している。いくつかの例を挙げる。

大正10年 武者小路実篤自分脚本に就て』

僕は脚本はどうしても人間精神のあらわれである上に、煮つまったものであることを要求します。


大正10年 有島武郎『筆頭語』

心が二元的である間は、即ち或る機縁によって煮つまって一元的にならない間は、どこまでも二元なり多元なりの生活を押し通して行くがいいと思う。


大正11年 木村荘八『泰西名画家伝』

長官デリニのあやが「うまく」かかるもかからぬもなく、競技――即(すなわち)対抗の空気は忽ち煮つまるばかりであった。


大正13年 長与善郎『書斎より』

牛のよだれのようにだらだらした書きぶりがいかんのは問題にもならぬ事であるが、さればと云って何でも只無暗に簡潔に端折って書きさえすればいいと云う事を一つおぼえて、まるで電報文句のような言葉さえつかえば煮つまったいい文章だ、と思っている人の文章は又不自然な、とらわれた感じのするものである


昭和5年 岸田劉生演劇美論』

全体として、一つの美しさを出すけれど、旧劇の如く煮つまった味はなく、その美は甘く、低級である


白樺派以外の例

もちろん白樺派以外の用例も同時期にあった。意味的にはさまざまだが、ネガティブ用法も多かったようだ。

明治40年イヴィッド・パーリー『くらげ』

この説明には余程可笑しな点がある、で、僕は云った。

『じゃ、この国では、宗教煮詰まって了ったのですネ。』

もとは『The Scarlet Empire』というタイトルアメリカ小説である。原文は「It looks as if religion may correctly be said to have gone to seed, in this country.」となっており、「gone to seed」は「盛りを過ぎて衰える」という意味なので、つまりそういった意味で「煮詰まる」が使われていると考えられる。「加熱しすぎて水分が飛んでしまった」ようなイメージだろうか。

大正9年 ドストエフスキー白夜

私が余りに余計なことを喋舌り、私の心の中で長い間煮つまっていたことを必要もないのに述べ立てたことを、而もそれに就いては私は書いたものから読むように話すことが出来たのだ

こちらも翻訳書。英文は「I had unnecessarily described what had long been simmering in my heart」。「心の中でくすぶり続けていた」とか「ずっと感情が渦巻いていた」といったイメージか。

大正10年 岡本一平へぼ胡瓜』

何処かに法華宗があると見え、この熱気の世界の中へ煮詰まった声でお題目をいきみ出してる。

真夏暑い日に遠く法華宗お題目が聞こえてくる…という場面で、この「煮詰まった声」は「重苦しく絞り出している」ような印象を受ける。もの煮詰まったあとのドロドロとしたイメージだろうか。

大正12年 佐々木味津三『呪はしき生存

単にそれを考えるだけでも、彼は天地が煮つまるように感じていたたまらないような震撼を覚えた。

「居た堪らない」というので、世界が煮られて、そこにいられなくなるような感じだろうか。ぎゅっと狭窄するような感覚もあるかもしれない。

昭和2年歌舞伎 第三年第十三号』

森金之丞は正直にこれに答えるが、だんだん議場(公議所)の空気が煮つまって行き怒声、罵声騒然たる裡に第一場は閉じて行く。

議論が悪い方向に盛り上がってヒートアップしているという描写結論が出そうにないという点では現在の「誤用」のほうに近いか

昭和6年 大高巌『近代支那文学史上の先駆者

かるが故に自己生活を安泰ならせんが為には儼然として己れが階級城壁を固守しなくてはならない。科挙制度がそれだ。かかる試験制度採用することは一に権力者に反抗する意志学問の為に煮つまらせ、又一には士大夫階級思想擁護有為なる人材を作ることになる。

こちらは「集中させる」「浪費させる」ようなニュアンスか。

昭和9年 式場隆三郎バーナード・リーチ

高村光太郎は余り外に出ない。併し仕事は煮つまってきていると思う。暫らく作品を見ない。

この式場隆三郎白樺派との交流があったらしいが、「作品を見ない」ということは、ここでの用法は「行き詰まる」に近いのではないか

昭和10年 丸山幹治『黒頭巾を脱ぐ』

勿論コチコ官僚型で煮つまって、倒さにふっても水っ気もないような人ではなく、時代に対する感受性は強く、好んで人の長所認識する感服癖さえある。

こちらは「頭が固い」というような用法

昭和10年 ギュスターヴ・フローベールジョルジュ・サンドへの書簡

では左様なら。もう遅いのです。頭がまるで煮詰まりそうです。

翻訳書。英文は「Adieu, it is late, I have an aching head.」なので、普通に頭痛がすることを言っているのか、それとも「悩んで行き詰まっている」的な意味なのかはわからない。

戦後の例

戦前武者小路実篤を中心に、小説詩歌戯曲などの文学的文脈で使われることが多かった「煮詰まる」だが、戦後になると現在のような「議論交渉煮詰まる=結論が出る」といった用法が登場し、やがて支配的になっていったようだ。

それに関してわかりやすいのは「国会会議検索」で、戦前の「帝国議会会議検索」では「煮詰まる」はほとんどヒットしないが、国会会議録では1950年代あたりから見られるようになる。さらに用例を確認していくと1960年代から爆発的に増えていったようだ。労使交渉文脈が多いように思われるので、そのあたりをきっかけに流行りはじめたのかもしれない。

となると次に気になるのは「議論煮詰まる」=「行き詰まる」という用法がいつごろ確立されたのかということである。どうやって調べればよいか。たとえば「煮詰まってしまった」みたいな形だとネガティブ文脈で使われていそうだ。ということで検索してみよう。

昭和34年週刊現代

しか日本側は表面上は「朝鮮総連相手にせず」とその抗議を重視せず、裏では字句は修正せずとも運用面に幅をもたせるという妥協の動きに期待を寄せていた。それが、日赤相手にせざるをえない北朝鮮赤十字から真向に攻撃を受けたのだから問題は煮詰ってしまった。


昭和44年『先見経済

やはり人間災害にあってみないとなかなかわからないもので、そういったことで安堵感を持っている。しかしジワジワと危機に瀕してきているわけで、そのとき判断をあやまると、残念ながら煮詰まってしまう。


昭和47年ミュージックライフ

ハイスクールからジュニアカレッジヘと進んだアリス達は2年間のカレッジライフ煮詰まってしまい、カリフォルニアに向かったのである


昭和50年キネマ旬報

その後の二本は結局むしかえしのドラマをやるしかなくて、無残な作品になってしまった

あれも、会社方針企画貧困の為せる業で、プロデューサー監督も完全に煮詰まってしまったんですよ


昭和51年レコード芸術

あい自由さが背景にあってのこの音楽じゃなくて、すごい煮詰まっちゃってて、つらいだろうなというところで出て来る音なんですね。


昭和53年スイングジャーナル

でも、いつか自分のやりたいことをやらないと苦しくなるというか煮詰まちゃうわけだよね。


昭和54年ジャズ批評

昔は、自分が何をやっていいかからなかった。やり過ぎると煮詰まってしまうし。


昭和56年週刊読売

「でも、仕事ばっかりしていると煮詰まちゃう」「煮詰まちゃうってのは、息詰まる、退屈する、スランプに陥るって意味なんです。」


昭和60年 毛利子来岡島治夫・末永蒼生『「体」発、宇宙へ』

たとえば原稿書いてて、もう煮詰まっちゃって、しょうがない、寝よう、横になると、ア、と思いついちゃう


昭和60年 チャールズ・シェフィールド放浪惑星

その問題ととっくんでいるうちにわたしの頭は煮詰まってしまい、あとをマッカンドリューにゆだねた。


昭和60年 松浦理英子いちばん長い午後』

実はそれは性的遊戯の一環ではなく、二人の交際煮詰まってしまったあげくのもがき合いであった。


結論が出る」用法と比べれば圧倒的に少ない。とはいえ1970年代くらいからは、日常語として「行き詰まる」的な用法もわりと広まっていそうな感じはする。というか「結論が出る」用法議論交渉文脈しか使えず、それ以外のときは「行き詰まる」用法になることが多かった、という感じではないか

ちなみに、この「行き詰まる」用法誤用として問題視されるようになったのは2000年ごろらしい。実際、Google Booksで「煮詰ま誤用」などと検索すると2000年以降の書籍しか引っかからない。

まとめ

といったところか。

煮詰まる」のコアイメージは「熱されることで水分がなくなっていき固形分だけが残る」というようなものであろう。

それをポジティブに捉えると「余分なものが削ぎ落とされて本質がはっきりする」といった意味合いになり、ネガティブに捉えると「瑞々しいものが失われて停滞する」といった意味合いになる。たとえば「議論」にポジティブイメージ適用すると「論点が整理されて結論がはっきりする」になり、「思考」にネガティブイメージ適用すると「新しいアイディアが生まれなくなり行き詰まる」になるわけだ。

もともとの料理としては「美味しくするために煮詰める」ことも「熱しすぎて煮詰まってしまう」こともあるわけで、どちらのイメージで使うのも自然感覚である。当初から煮詰まる」は多義的比喩表現だったのだから、「これが唯一正しい用法なのだ」などとはあまり気にしなくていいのではないだろうか。

発表は以上となります。ご清聴ありがとうございました。

もうちかれた

地方在住限界看護師です。

だんだんおかしくなってきたのは5月をすぎたあたりでした。

夜勤明けに寝ずに夜ご飯作ってたりどこかに出かけてたり。

自分は昔から夜勤明けはしっかり寝る!というかもう眠くてたまらなくてお風呂入ったら寝てたんです。

それでも無理してる感じはなくて働いてました。でもだんだんだんだん自分では気づかないくらいに精神は病んでいってたんだと思います

地方病院というのはもう限界がきていて患者とは言えない患者入院させて入院期限がきれていても伸ばして入院させています。だいたい期限を切れても入院している人なんてろくでもない人たちです。

どうろくでもないかというとクレーム当たり前、暴言当たり前、わがまま放題です。こういうときに真っ先に思いつくのが生活保護の方々かと思いますが意外と生活保護の方々は期限を超えることはあまりありません。生活保護費が入金されない可能性があるからです。ここらへんは詳しくかくとめんどーなので書きません。

上司はもちろん守ってくれません。だって守る=強制退院しか道はないからです。

強制退院なんていくらひどくてもさせません。治療拒否しているような状況でもさせません。

なぜ?

ベッドにいるだけでお金になるからです。

これは急性期病棟だといるだけではいけないのでそんな患者はよそへ回します。

タチが悪いのが地域包括病棟です。治療しなければ1日3万円ぐらいのお金が入ってきます。なので何が何でも退院をさせません。期限を超えても多少減額されるくらいです。

田舎病院なんて開業医以外は死にかけです。というかもう死んでます。大赤字です。その中で確実に労働環境は急速に悪くなってきています

かに他の職業よりは夜勤に入れば給料は高いです。でももうちかれました。ある日突然ふらふらになり体が動かなくなりました。

いったん休職しましたがいつ戻れるかわかりません。

お先真っ暗とはこのことでしょう。

2024-08-17

     もなーのAA ( ´∀`) が、大股を広げて、 うんこなんだあ、と言いながら、脱糞する、AAが昔はあったが、段々無くなって来た。

    最近は、    だんだん分かって来た、僕が死んでも誰も泣かない

              豚をぶったたく    命ある限り

    といったスレッドばかりで過疎地域となっている。  2ちゃんねるは、 弁護士の間では、 遠隔操作事件があった頃から、過疎になっているという弁論が多くなっており、最初

  弁護士の決めつけが多かったが、

2024-08-16

anond:20240816200949

だんだん増えて行ったら、いずれ淘汰されるのかな

まぁ最初に消えるのはサザエさんだろうけど

妹と家出して数年が経った


注意;児童虐待の話が出てきます。苦手な人はご遠慮ください。


(本文です)

________________

どうしても書き留めておきたいと思った。昔の私のことを。

今は大学生から何もできないけど、いつか受け入れて消化できたらいいなって。

私にとっての父は、経済的な支えであり、飼い主であり、服従すべき存在だった。

私が初めてキスをした人で、初めてセックスをした人で、初めて妊娠した相手で、「性」に関するすべての始まり。そんな存在だった。

父は、私が小学校1年生の時に家にやってきた血の繋がりのない人だった。私は実の父を知らない。

最初子供好きな良い人だと思っていた。しばらくすると私に性的アプローチをするようになり、小4で母が亡くなると同時に、「同情」「母の代理」「妹の盾」といった役割を私に課して、少しずつ私を性玩具に作り替えていった。

父の命令には従順に従うことが求められた。朝は父に犯された後学校へ行き、夜は私を凌辱する父のために夕食を作り、妹が眠った後、父の相手をしてから私は床に就く日々を送った。

毎日というわけではありません

中3で私が他の男性の子妊娠してしまったあとは、殴る蹴るの暴行を受けた。まるで自分の所有物が汚されたみたいに、すごく怒っていた。

それからは、私がどんな男性相手もできると思ったのだろうか、父はときどき自分お仕事の仲間を連れてきて私に相手をさせ、小銭を稼いでいた。

それ以外にも、アルバイト先の先輩から暴行を受けた。幸い妊娠はしなかったけど、もう限界だと思った。私は高3の夏休みに、貯めたお金を持って、妹を連れて家を出た。

今は、普通大学生はしないであろう仕事風俗嬢)をして、妹を養っている。自立、は一応できているとは思う。

それでもまだ、私の心は父への服従心で満ちている。なぜこんな気持ちになるのだろう。自分でもわからないところがある。



思い出す必要はないのかもしれない。でも、思い出さずにいることもまた難しいので、心の整理のために書き留めておきたい。

お話の順序とか、私の気持ちとか、これからどうしたいとか、いろいろ混ざってしまうと思う。わかりにくかったらごめんなさい。

さっき、「父に性的虐待を受けていた」と書いてるけど、実を言うと、虐待だと私自身が認めたというか、受け入れたのは、父と関係を持ってしばらく経ってからのこと。

ハッキリ認識したのは、やっぱり身体的な暴力を受けた中3の冬頃から。その年の夏に先輩からレイプされて、妊娠したことに気付いた父が身体的な暴力をふるったあの日からだ。

それまでは、いけないことなのはわかっていたけど、それでもどこか仕方のないことだと思っていた。

経験のない人には理解できないかもしれないし、そもそもこの話自体が「嘘臭い」と言われそうだ。今書いていることもきっと、非現実的というか、理解できないことかもしれない。

私は実のところ、父を憎んでいない。これは結果ではなくて、現状「憎めない状態」といったほうが正解かもしれない。

もともと実父の存在すら全く不明で、本当のことを言うと、「父親」という存在感覚がわからない。見たこともないから。両親が仲良くしている家庭を見ると、とても不思議感覚になってしまう。

私がこうして「父」と書いてはいても、それは、それ以外に呼べる称号がないからだ。性的意味でいえば、25歳年上の愛人だったのかもしれない。

性的関係を条件に、生活費を出して養ってもらう。それだけの存在。つまるところ、私は7歳くらいかパパ活をしていたのかもしれない。



私と妹と母で生活していた時は、とても極貧だった。

母は身寄りもなく頼れる友達とかもいない感じ。元風俗嬢だったのは確かだ。

ちゃんとしたお店に勤めていたのか、それとももっとアングラな感じだったのかはわからない。

少なくとも、お金をたくさん稼いで貯金していたとかではない。本当に貧乏なお家だった。

なぜお金がなかったのかもよくわからない。けど、とにかくその日の食べ物も苦労していた。

子どもの頃って、どうしてこんなに苦しい生活なのか、なにもわからない。意識しようがないよね。

確かなのは、父が来てから普通暮らしができるようになったこと。

私は欲しいものもたくさん買ってもらえるようになり、行ったことのない場所にも連れていってもらえたので、父は楽しいことをたくさんくれる人だった。

しかすると、子どもながらにその対価を要求されたなら、応えないといけないと思ったのかもしれない。

それこそ、父親なら家族サービスをして当然かもしれないけど、私にとって父は本当の父ではなく、なにかを買ってもらったり、どこかへ連れていってもらったりしても、どこか「していただいている」感があった。そういう関係だった。交換しあう関係

そういう意味では、最初から最後まで、ずっと本当の”父親”としては受け入れてなかったのかも。

母が亡くなった後も、父はサービス精神旺盛な人であり続けた。私と妹と父の3人でいるときは、面倒見がよく、優しい父だった。外でもそうで、ご近所さんとのお付き合いもよく、「いいお父さんね」とよく言われた。

私や妹が体調を崩せば、しっかり看病をしたり、病院にも連れていってくれた。本当にお手本のような父だった。

ただ、ひとつ。私との性的関係要求してきたこと以外は。

思い返せば、母が存命の頃から、私の体を触ったり、舐めたりはあった。

それが性的虐待兆候だと言われればそうなのかもしれない。ただ、私はそう認識してなかった。

今思えば、血の繋がっていない低学年のあそこをじっくり見たり触ったりするのは異常だとわかるけど、当時は悪意の可能性すら頭に思い浮かばなかったし、優しい言葉を掛けながらそうしてきたので、父親というのはそういうものなのかと認識していた。

「小4のころから虐待」と書けるのは、母が亡くなった後の父の要求を「嫌だ」と感じ始めたのがそれからだったから。もちろん、もう少し前から「本当はダメことなんだ」という意識はあった。

いろいろ勉強もするし、心も成長するし、男女の違いも意識が芽生えてくるので。

でも、上記のとおり、父親と娘とはそういうものなのかと思っていた。誰かに話すこともしなかったし、話す必要があるとも思わなかったし、訂正してくれる人はいなかった。



私には疑問がある。

父は、一緒に暮らし始めて、「そういう気」を起こしたのか、元々私を狙っていたのか。

きっと、増田の人たちからすると、「そんなことはどうでもいい」と言われると思う。私のことなんて他人なんだし、父にされたことに変わりはなく、私が被害者なのも変わらないので。

ただ、私は父を憎めていないので、きっとこういう疑問が頭をよぎるんだと思う。

まり、一緒に暮らし始めてそういう気になってしまったのなら、私は心のどこかで父を許してしまいそうで、元々そういう気なら、父を悪者定義やすいのかも。

「いや、ただのレイプだよ」と言われるかもしれない。第三者から見ればそうだと思うし、実際そうなんだと思う。

でも、10年間も一緒にいた私にとって。人生の半分、一緒に生活して、子どもから大人になる時期に一番近くにいた男性は、私にとってなんなのか。どうしても浮かんでしまう。

母が亡くなってから最初の1年くらいは、手や口を使った行為で、さら半年も経つと、私は父の精液を飲むまでになっていた。

嫌だったかというと、嫌だった。でも、やらないといけないことだと思ってた。それが大人になることだと思ってた。

単にその行為がというのではなくて、「嫌だと思うことでもやらないといけないことがある」ということ。

具体的には、亡くなった母親の代わりに、私は嫌な事でもたいへんなことでも、家庭の平和のためにやらいないといけないって思ってた。

「誰かに相談すればよかったんじゃない?」って思う人もいるかもしれない。

でも、私は父と娘はそういうものだと思ってた。

おかしくない?」って感じるかもしれない。そう、おかしいよね。でも私は「父親とはなにか?」を知らなかった。生まれてずっといなかったので。「父から見て娘とはなにか」を知らなかった。

そういう意味では、冒頭で書いたように、私は彼を本当の意味で「父親」とは認識していなかったんだと思う。本当は性的関係を持つ男性しかなくて、でもそれを一緒に住んでいるという理由で「父親」だと定義していた。



いま私は、風俗世界で働いている。一応、自立してると言えるのかもしれない。

精液って、人それぞれに味が違う。体臭も違うし。私は父の味と匂いを今もはっきり覚えている。

そんな私でも、不意に処女を奪われたのはショックだった。

身体的な苦痛もあったけど、本能的に大切なものを壊されたと感じたし、あの日、あの夜は、もう普通女の子はいらなくなったと

いう実感が体中に広がった。

でも。そう感じるのは自分わがままからと思っていた。大切な妹がいたので。守ってあげないといけない。

私がイヤだと思うこと=私のワガママ。そうだと思った。私がイヤだという理由で、父のしてほしいことを拒絶するのは無責任だと思った。

今これを読んでる人からすると、意味不明だと思う。狂ってるか、下手な官能小説みたい思われるんだと思う。

でも、私にはそれが現実で、一番受け入れやす感覚だった。

処女ではなくなったその日から、7年間。父と関係を持たない週はなかった。

計算したら330週くらい。毎週毎週毎週毎週。何日も連続。朝晩繰り返し。そんな日もあった。

一番多いのは、夜寝る前。妹が寝てから。そういう日は、父からいろいろなサインがある。私たち言葉にしなくても通じ合っていた。

妹が寝てから、父の部屋に行って。たいていは人形オナホ扱い。でも、とき恋人のように扱われることもあった。愛しい娘として扱われることもあった。父のその日の気分次第で。

私は、どんな扱いを受ける日も、不満は言わず、父が人形を求めるならお人形になり、恋人を求めるなら恋人になり、お父さんが大好きな娘を求めるなら愛しい娘になった。

それが母がいない、この家族での私の役割で、誰にも言ってはいけないことで、私はそうやって父を愛すべきだとも思っていた。

学校に行く前にされることもあった。

妹には絵本を読んでてもらったり、タブレット動画を見てもらっていたり。行為のあと、何食わぬ顔で妹と一緒に集団登校の場所に行き、みんなと一緒に笑顔学校へ行く。

口の中で受け止めた日は、臭いが残っているので、マスクを付けた。中で受け止めた日は生理じゃないのにナプキンをつけて学校に行った。

父が仕事でいない日は、学校から帰ってすぐなんてこともあった。私の日常だった。



毎週毎週毎週毎週続いていると、だんだん心が麻痺してくる。

嫌だと感じないわけじゃないけど、学校でも普通に嫌な事や嬉しいことがあって。

心のエネルギーはそっちに使うので、ちゃんと応えさえすれば特に害のない父との行為は、なにかを感じるだけムダだという感覚になっていった。

同時にそれは、自尊心が壊れていたんだと思う。

中学校に上がる頃には、もうそういう感じだった。

からイジメられたんだとも思う。

そんな父も、私が学校で不当な扱いを受けたときとかは、味方になってくれる。

思春期から友達ともいろいろある。小学校高学年のときも、ちょっと数人を巻き込んだトラブルがあって、一方的に私が悪いってことにされてた(担任にも嫌われていたし)。

私が父に相談すると、父はかなり積極的担任と話をして、私の気持ちを代弁してくれたり、味方になってくれた。

正直言って、心強かった。私は父がいないと困る。生活面でもそうだけど、どこかで心強い存在でもあって。

これだけしてもらえるなら、私は私にできることで父を喜ばせないといけないとも思ってた。

ただ、中学に入ってからは、イジメられていることは打ち明けられずにいた。

それはきっと、主に性的イジメを受けていたからで、父に話すと父はイヤがるだろうと感じた。

中学生なんてまだ子どもだけど、男と女がどういうものか分かってきていた。

正直言って、学校でされていたことを打ち明けたら、父は私を汚物のように捨てると思った。

実際、中3で妊娠がバレたときは、殴る蹴るをされたわけだし……妊娠発覚後は、明らかに父の態度が変わった。

表向きは変わらない。妹と3人でいるときは、優しい楽しい面白い父だった。

でも、夜、私が相手をするとき。髪の毛を掴んでひっぱったり、お尻を強くたたいたり、頬を叩いたり、そういう感じになっていって。

回数も減った。その代わり、父の仕事の仲間の相手をさせられることが多くなった。最初抵抗していた。そうしたら、無理やりされて結局、行為時間が長くなる。痛いことだってあった。

でも、そのうちに抵抗しなくなると、今度は行為が早く終わるようになった。相手の思い通りにすると本当にすぐだった。

でも、そのうちに気が付いた。自分から相手気持ちよくしたり、かわいい子だと思えるような仕草をすると、早く終わるうえに、あの人たちが私にお小遣いをくれるようになった。それで、私や妹にとって必要ものを買えるようになった。

子どものうちから、そういうことに気が付けるようになったのは、いいことだったのか、悪いことだったのか今でもわからない。

その時、感じたことは2つ。

父が私を見なくなったことへの寂しさと、妹に矛先が向くことへの不安

後者はわかるけど、前者は自分でも意味の分からない感情だった。

でも、今思えば、今まで自分役割だって必死に応えてきた、そんな自分否定されるのがいやだったのかもしれない。

ただ、自尊心はすでに壊れていたんだろうし、なにかを正常に感じられていなかったのかも。まだよくわからない。

でも、この家にはいられないと思ったのは確かだ。



父はなんだったんだろう。

小さい子供だった私にとって、母を亡くした私たちにとっては、生きるために必要存在だった。

いびつではあったけど、愛情を感じることもたくさんあった。でもそれって、私が感じさせられていただけなんだろうか。

ただ、未だに元気でいて欲しいと思っている自分もいる。そして、それを気持ち悪く感じて、ものすごい力で否定しようとする自分もいる。

どっちが本当の自分か、どう感じるのが正しいのかも、未だわからない。

ただ一つ、私の「これは揺るぎない正解だ」と思えるのが、妹の幸せ。これだけだ。

もう私自身は、何をどう感じるのが正解なのかはわからないけど、妹が幸せなら全部それでいいんだと思える。

それでも。

繰り返し再生される父との濃厚な7年間の性生活は、私に「定義」を求めてくる。

「あれはなんだったの?」

って。

「私はこうだった」というのがふわふわしていて、それがいまだに自尊心回復できない原因なのかもしれないし。定義をしたらしたで、もっと自尊心ボロボロになるかもしれないし。

かといって、リアルで誰かに詳しく話す気にもなれないし……

ただ、時期がきたら妹にはすべて話してみようと思う。真剣に考えている。



最後にまた、父について思い返してみる。

改めて父について思い返すと、「自分の思い通りになることが第一の人」だった。

そして、外面が良く、口が上手く、口数が少なく、合理主義で、神経質で、顔が広く、用意周到で、倒錯的だった。

家庭内性的虐待というと、どこか乱暴イメージがあるかもしれないけど、私の場合基本的に「自分からする」ことを求められた。「しても・しなくてもいいけど、しなかったらどんなデメリットがあるか」をほのめかして、私が自分で「する」ことと選択するように仕向ける人だった。

いきなり、ハードなことは求めなかった。「本当はしたくないけど○○のためなら我慢してできる」を丁寧に積み重ねていき、気が付けば処女を奪われていた。

父がどんな仕事をしていたのか、詳しくは知らない。知りたいとも思わなかったので、尋ねたこともない。

ただ、月に何度か現金を渡され、それで3人分の食材を買ったり、トイレットペーパーや洗剤なんかも買っていた。

父は家事ほとんどしなかったし、母が亡くなったとき妹は5歳だったし、私が家事をやるしかなかった。

生前、母がいくつか基本的家事は教えてくれていたけど、やり方がわからないときスマホ検索したり、学校先生に聞いたりした。

とにかく、父の機嫌を損ねないよう、やるべきことをしっかりやり、なるべく嫌な思いをせずに、父を喜ばせる。そうすれば、妹にも私にも優しい父をキープできた。意外に思われるかもしれないけど、日常生活中は、いたって普通の会話をしていた。

から見れば、「お母さんが亡くなったけど、仲良く頑張っている親子」だったはずだ。こんな父だけど、割と欲しいものは買い与えてもらった。でも、それも「飼い慣らし」の手段だったのかもしれない。あるいはパパ活一種として。

すでに屈服状態だった私が家出を決意できたのは、思春期に入った妹を守りたい気持ちと、身体虐待による命の危険を感じたから。これが、私の父への関わり方。

父親はいてよかったのか? と訊かれると、どうなんだろう。

もしいなかったら、私と妹は孤児になっていたし、母ももっと早く亡くなっていたかもしれない。まがりなりにも経済的な支えではあったので、いなかったほうが幸せだったのか、いたから不幸だったのか。それはわからない。私はこの人生しか歩んだことがない。

「お母さんさえいてくれたら」と何度も思った。世の中が良い母親ばかりでないのを見ていると、そう単純な話ではないのかもしれないけど。

正直、「血の繋がりのある優しいお父さん」はファンタジーしかなく、理解できない存在だ。だからきっと、そうしたお父さんがいる人にとって、私の話は、逆にファンタジーに見えてしまうと思う。

いてよかったのかどうか、わたしにはわからない。

ひとつ確かなことは、私は父を憎んではいないということ。私にとって父は対等な存在ではなく、憎しみの対象にすらならないほど、不可侵存在だ。刺激したら爆発する爆弾を、憎んで叩き壊そうする人はいない。慎重に処理をすべき対象だ。



今は、私たちに関わることがないよう対策をして、遠く離れた場所に住んでいる。大学生の私と、高校生の妹の二人暮らしだ。

私が務めを果たし続ける限り、金輪際、父に会うこともないだろう。このことは、合理主義の父をよく知っているので、妙な信頼がある。

最後に、とりとめのない話を読んでいただき、ほんとうにありがとうございました。

理解のある彼くん」って言葉最近初めて知ったんだけど、「私」を受け入れてくれる優しい彼氏の事みたい。境界性パーソナリティ障害の妹の歴代彼氏達がみんなこれだったな。①

妹はその彼の事最初はめちゃくちゃ理想化して、「世界一幸せ」ってテンションだったのに、だんだん不満が溜まりこき下ろしが始まるんだよね。彼がそれに耐えきれなくなって最後は別れるってオチが常だった。②

私はその彼達と話をした事があるのだが、みんな母親との関係に何らかの問題を抱えている人が多かった。母の期待に応えていたり、母を支えていたり、頑張って生きてる人たちだった。高学歴社会的に立派な人たちだった。自分は母との関係にはケリがついたと解釈してる人が多かった。③

過去過去と割り切って。でもその欠乏感はまだ残っていて母への未消化の思い残しを、恋愛リカバリーしているように感じた。得られなかった母から承認や、愛情を取り戻したい。だからあえて問題のある彼女に接近し、支える役割に徹しようと。でも結局挫折してしまうんだよね。④

自分の欠乏感を埋めるために彼女を利用してるから。本当の愛ではないから。それが「理解ある彼くん」なのかもしれない。⑤完

https://x.com/morning13562733/status/1823883149123928191

2024-08-15

anond:20240815161425

増田ダメなところを教えてやる。

まず最初に、「自分アラフォー男性です 名古屋在住でもありません」と書いているが、その情報は話の本筋とは何も関係ない。要するに無駄情報だ。どれだけ昔のことを語るにしても、現在自分の年齢や住まいオチまで引っぱる必要がないから、はやり書く必要はなかった。

次に、「そもそもヴィジュアル系』という言葉自体がもう死語であろうが」とあるが、つかみが弱い。自分がこれから語ることに対しての情熱を感じさせられない。これでは読んでいる人が興味を持ちにくいぞ。

ヴィジュアル系バンドの細分化説明するところで、「名古屋系」とは何かを明確に説明するのが遅すぎる。また、「自分が好きだった」を強調するのも、どうも訴求力がない。具体的にどのバンド名古屋系と呼ばれるか、増田なりにイメージもっと早めに描き出してほしい。

そして、「ロックステレオタイプに対して、ロックという枠組みの中でのアンチテーゼとしてヴィジュアル系の流れが生まれ、その流れを決定的にしたのが名古屋系であり、黒夢だというのが増田の持論だ」とあるが、この部分が冗長すぎる。もっと簡潔に説明できるだろう。

さらに、「衝撃的だった」と言うが、なぜ衝撃的だったのかを具体的に説明するべきだ。読者にとっては共感できるポイントが欠けている。

名古屋系のバンドは軒並み短命、あるいはだんだん方向性が変わってポップになっていくことが多かった」というところも、具体的な例やデータを添えると説得力が増す。主観的意見だけではなく客観的事実重要だ。

最後に、「同志と心ゆくまで語り合いたいと思っていたのだが、リアル出会うことのできないまま」という部分は感情的で良いが、現実感に欠ける。こうした経験を書くだけで終わるのではなく、今後どうしていくかを少しでも示してほしい。

どうだ増田。返信は不要。礼も不要だぞ。

名古屋系と呼ばれるヴィジュアル系バンドの思い出

最初に断りますが、自分アラフォー男性です 名古屋在住でもありません






そもそもヴィジュアル系」という言葉自体がもう死語であろうが

全盛期は、どんなメイク系統か、曲がどんな音楽系統なのかで、ヴィジュアル系さらに細分化されていた

コテ系」 「オサレ系」 「ラウド系」 「白塗り系」 など、ヴィジュアル系の中に多様なサブジャンルがあった

そして増田はその中でも「名古屋系」と呼ばれるヴィジュアル系が好きだった


源流はSilver Roseあたりからだと思うが、個人的には黒夢が祖だと思っている

そもそもヴィジュアル系以前のロックは、汗くさくて、男くさくて、力強くて、体育会系で…という音楽だった

そういうロックステレオタイプに対して、ロックという枠組みの中でのアンチテーゼとしてヴィジュアル系の流れが生まれ

その流れを決定的にしたのが名古屋系であり、黒夢だというのが増田の持論だ

黒夢上記のようなロックイメージの、すべて真逆をいった、つまり

耽美で、女々しくて、病的で、退廃的な世界観で、ロックをやろうとしたのだ

これが衝撃的だった

すぐに多数のフォロワーが生まれ名古屋系と呼ばれるジャンル確立されていった

共通しているのは上記のような世界観なのだが、どうもこの方向性で長く続けるのは難しいようで、

名古屋系のバンドは軒並み短命、あるいはだんだん方向性が変わってポップになっていくことが多かった

また世間一般的セールスもあまりふるわず商業的に大成したバンドも少ない

それでも当時の世界観というか、名古屋系と呼ばれるバンドたちの空気感は何物にも代えがたく、

あれから30年近くたった今でも、当時の音源を引っ張り出してきてはたまに聞きたくなる

黒夢LaputaROUAGE、Merry Go Round、Lamiel、kein、deadman、GULLET

当時の名古屋バンドしか感じられない没入感のようなものがある

いつか、同志と心ゆくまで語り合いたいと思っていたのだが

リアル出会うことのできないまま、気づけばアラフォーおっさんになってしまった

やり場のない熱をここで供養させてください

航空機事故遺族だった

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/dailyportalz.jp/kiji/Mayday-study

このエントリブコメ見て初めてはっきり認識したんだけど、自分って航空機事故遺族なんだよなあ

なんか、あ、そうだったなって

言葉にするとそうなんだ、そこに入ってるんだって

今初めて腑に落ちた感じになってる

当時小学校低学年だったからはっきり覚えてなくてすべてが大人の伝聞で、事故の連絡が来てから大人たちの慌ただしさと情報のなさと、夜中にきょうだいと二人で家で待ちながら不安になったことと、「重体」ってだってまだ生きてるってことだから助かる可能性あるんでしょ?って一人だけ勘違いしてて楽観的で場違いなことを言っちゃったことと、たびたび、ついこの間もかっこいい車でマックに連れて行ってくれた人が死ぬのかもしれないという不思議さとどこか詰め所に移動してからやっぱりきょうだいと身を寄せ合って読んだ「燃える!お兄さん」がこんなときでも面白くて二人で同じとこで噴き出しちゃって気まずくなったこととか、そんなことだけ覚えている

結局亡くなったあとのお葬式で、その人のお母さんがほら目を開けた!開けた!って棺の中の人に縋りついて泣いててお葬式って本当にこうなんだなって思った 

しかしこれらの記憶ももう正確かどうかわからいくらいの時間が経った

自分喪主になった人の家族でその苦しんだ人も突然の病で数年前に看取って、あのときのことを話したり泣いたりはっきり覚えている人もだんだんこの世に少なくなってきた

遺族同士で連絡を取り合うでもない、誰かに実は自分家族は…と積極的に話したいことでもない

みんな多分意識的に黙っていたのだ

しか航空事故なので詳細な事故調報告も裁判記録も今でもネット上にはっきりこと細かに残っている

数年前初めて意識して検索してそれを見つけたとき、やっとなにがあったのか初めてわかった気がした

本当に大変な事故だったんだよな、その後のことも

その後あの人もあの人もあの人も自分も本当によく生きてきたもの

こんなの大人になってからしかからないよ本当には、そして大人だって決して体験したくなかったに違いない、という類の重たいもの自分体験意識的に上書きされた

かつての実際上の体験としては風化しているものテキストではつまびらかに入ってきてあのときより生々しく感じられた

それでも自分が遺族って気分じゃなかったけど、なんか昨日なぜかストンと納得した

嫌だなあという気持ちも悲しいなという気持ちもない、他人ごとではないけど、ただそうなんだったなって把握があった

あくま自分にとってはだけど、こういう体験ってごく個人的ものになってしまっているということだろう

もちろん個別のその事故面白おかしく扱われれば腹も立ったり困惑したりもするのだろうけど

なんていうか、遺族って結構そこらじゅうにいて珍しくない人たちだと思う

自分はてブにいたみたいに

不謹慎かそうでないか論戦もきっと茫洋としながら黙って見ているだけだ

なんとなくそのことだけわかっていてはほしいとは思った


追記

ごめん、あまり詳しくは書けない

書きたかたことは最後の何行かの部分で事故の詳細そのものじゃないか

かなりぼんやりさせたつもりだけど、このお葬式や詰め所の書き方でもその場にいた人や自分きょうだいが覚えていればあああの事故だな、書いたのはあの子かなってわかってしまうと思う

(自分にとっては書いておく必要があった)個人の雑感だとしてもこうして書き残すことを快く思わない関係者の人もいるだろうし、そういう人たちに悲しい思いをさせたいわけじゃない

なら書くなって話だけどさ……

2024-08-14

まだいる

窓の網戸に蝉が止まって鳴いてるなと思ってたら、よく見たら二匹いて交尾してるぽい。だんだんかになった。放っておいて大丈夫かな。網戸には卵産まないよね…

2024-08-13

キャンセルカルチャーの止め方

だんだん問題視されてきているのに、誰も止められない。

どうすればいいのか、皆目見当がつかない。

だんだんSF世界みたいになってね?

よくSF地球汚染されて地上に住めなくなって人類コロニー生活したり、地下に潜ったりする描写あるじゃん

汚染ではないけど、今の夏は暑すぎて外にほとんど出られず室内でエアコンがないと暮らせないようになってるのを見ると、まあまあSF世界設定に近づいてる感があるね。

anond:20240804200632

他人という存在が、十把一絡げでだんだん不明瞭となる感じはなんか理解できる。

私も最近は、自分以外の存在って全てNPCなんじゃないかと信じるようになってきた。

もっと言うなら、この世界自分のためだけに作られていて、

自分以外の存在NPC演者として演じているだけに過ぎない、と思えるようになってきた。

増田が例示した、座席を塞いだり、待ち列を伸ばしたりする行為だけなら、たぶんロボットでもできるはずで、

それなら、自分以外の存在は結局、全て機械なんじゃ?とも思ったりするのだ。

あとは、ニュースで扱われるような複雑な社会も、あくまでも映像だけの話で、実際に存在しないとも思ってきてる。

あれらは、実在してると自分勘違いしているだけで、本当はテレビゲームキャラクターかなんかなのだと、思い始めてる。

まり、まとめると、私が知覚できる簡単動作をしている「他人」は、機械化されたNPCで、

ニュースで扱われるようなすごい存在の「他人」は、映像だけで実在しないと考え始めてきてるわけだ。

まあ、リアル他人」にそれを言うことは無いのだが、自分の中ではわりと信じられる事実に成りつつある。

しかし、本当にそうだとしたら、ここに書くことも、NPCに伝えることにしかならないわけで、

それにどんな意味があるのかって話になるわけなんだが…

という感じで、リアル人間というのが何なのか、なんだかよくわからなくなってる今日この頃

そんなのは良くないから、久しぶりに東京を離れ、実家に帰ろうかとも思ったりする。

しかし、どこに居たって「他人」は面倒なんだよなぁ。この夏休みも帰らないんだろうなぁ。

フラフラした人たちの思い出

オフィス街信号待ちをしていると、救急車右手から来た。信号は青に変わったが、歩道に立つ会社勤めらしい人々は誰も動かないし、私も動かない。対岸にいた一人のサラリーマンが、救急車に気付かず道路に降りようとした。一歩踏み出したところで隣に誰も歩み出してこないことを不思議に思い、左右を見回し、救急車が来ていることをここで初めて認識し、バックステップで歩道に戻った。救急車は速度を緩めながらも止まることなく通過できた。私は(差別的かもしれないが)不注意なのはだいたい女性だと思っていたので、この日男性が不注意をしたことに少し驚いた。

こんなこともあった。車の往来の少ない真っ直ぐな道を、一人の若い女性が横断しようとしている。ところが左手の、いわば対向車線しか確認していない。女性右手から乗用車が一台、だんだん近づいてきている。あの女性が右に振り向けば、車に気付いて横断しないだろうと思いつつ、心配になって眺めていると、女性はとうとう右を向くことなく横断を開始した。乗用車もまた女性に警戒していたのか徐行しており、横断を始めた女性の手前で停止することで事故は起こらなかった。しかしあれが下手をすると事故に繋がるんだろうなという発見と、その場面を安全に目撃したことについての一種の感慨深さがあった。

こんなこともあった。ある日突如として雪が降り、昼の気温に溶け、夜の気温にまた凍った。一日にして道はスケートリンクのようになり、昼に自転車を使った人は乗って帰れないだろうという状態だった。しかし果敢にも乗る人はいるのである大学生らしい男性が一人、乗っては転び、乗っては転びしていた。そういうおもちゃのように何度も立ち上がっては滑って転ぶので、傍目にも諦めた方がいいのではないかと思っていたものの、彼は諦めなかった。その横を歩いて通りながら、彼がこちら側に倒れていませんように、と祈った。彼はいつも車道側に倒れ込んでいて、危なっかしいなと思った。

免許を初めて取った時、教室のような部屋に教官らしい人が入ってきて、事故を起こさないようにという話を始めた。そして事故が頻発する状況を教えてくれた。夜間に横断歩道以外のところを渡る高齢歩行者との接触が最も多いということだった。それを聞いて、どう気を付ければいいのだろうかと疑問に思っていると、教官特にいい言い回しを思い付かなかったようで、少し口淀んだ後に「とにかく気を付けてください」と締めた。野生動物みたいなものかと思った。

道行く人には様々な事情がある。事情とは糸のようなもので、糸が多いほど人はがんじがらめになり、判断の柔軟性を欠く。歩行者と車、歩行者自転車自転車と車、いずれの組み合わせでもがんじがらめ同士が偶然重なり合うと事故になるんだろうと、これらの件から思いを馳せた。交通事故が起きる現場は滑稽なようでいて、本人たちはきっと心から真剣に行き来しているのだと思う。しかし移動に真剣になるということが、既に社会に対して真摯ではない対応であることを常に念じておきたい。

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