はてなキーワード: 自己主張とは
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
つまり、あくまで筆者個人の語りを代弁させているというわけだな。
なので会話の内容は覚え書きが不可能なほど、不自然に長いことがほとんどだ。
まあ、本当にやっているとしたら録音でもしないとダメだろうな。
内容なども加味して、パブリックな場所でそれらの会話を他人が聞き取れて、なおかつ記憶できるというのは考えにくいため、まあ十中八九は架空だ。
その会話の内容の導入部分や、場面が不自然なことがウケて、この方式をとる人が多いというわけだな。
このあたりは媒体によって様々で、動画だと「総統閣下シリーズ」とか、「ゆっくり解説」など語り手に加えて仮想の聞き手も同時に配置することがあるな。
歴史を辿れば、別の人物を複数設けて作り手の主張を代弁させるというやり方は、ずっと前から普及している。
なぜ個人で語ればいいことを、わざわざそのような形式でやるかは諸説ある。
聞き手と話し手を配置することによって、話の構造を理解しやすくするため、だとか。
「自分」という存在を、その話から排除しつつ語りたいから、とか。
自分以外の誰でもいいから、そういった代弁者を求めているのかもしれない。
自己主張と、自分という個のギャップに苦しんだ結果かもしれないな。
まあ対談形式であろうが、なかろうが、本質的には同じなのだが。
おっと、念のためにいっておくが、「同じ」というのは私はもちろん君も含まれているぞ。
以下は、いわゆる【ノマカス】特有の性格、性癖、性向、発想等に関する所見です。
(1) 腐女子に対する、抑えがたい差別意識や侮蔑の念の虜になっている。
(2) 人種、性格はネトウヨに近く、ヘイトスピーチや恫喝が得意である。
(3) 【男女】、【公式】の価値など、【本音】では全く信じていない。
(4) 自分と他人との関係を、優劣、強弱、上下という視点で捉えたがる。
(5) 姑息な【ステID】、【ID非公開】による、無責任な投稿をしたがる。
(6) 自分がオタクであることを棚に上げたまま、平然と他人(主に腐女子)に罵詈雑言を吐きたがる。
(7) 腐女子に対する、異常なまでの猜疑心、不信感に凝り固まっている。
(8) 【本音】では、【男女】の恋愛、結婚など考えていない。
(9) セックス、結婚、貞操に関する既成概念、固定観念に囚われている。
(10) 価値判断を下す際、安易に既成の規範や権威に追従、迎合したがる。
(11)「なぜ?」、「なぜなら」という論理的、因果論的思考を苦手とする。
(12) 自己批評、諧謔性、ユーモアへの興味・関心が驚くほど欠けている。
(13) 他人と建設的な議論をするよりも、問答無用の自己主張をしたがる。
(14) 自説・持論の根本的な拠り所も、人生の最終目標も見えていない。
(15)【腐女子】だけでなく、【男女カプ派】からも嫌われているとの自覚がない。
(16) 自分を【ノマカス】ではなく、【男女カプ派・女オタク】だと勘違いしている。
(17) 確たる証拠の裏付けのないまま、すぐに【腐叩き】に囚われたがる。
(18) 内部に無数のコンプレックスを抱えているのに、その自覚がない。
(19) 【ノマカス】は同性愛への過干渉、DV、モラハラの危険性を孕んでいる。
(20) 自分の不如意を自力で解決しようとせず、腐女子のせいにしたがる。
(21)他説を批判する際、原文引用を避け、故意に歪曲して紹介したがる。
(22)【not腐】と【ノマカス】の間の明確な線引きを求めると口を噤んでしまう。
いい子に育ってほしい、優しい子に育ってほしい、親として願うのは勝手だけれど子供にそれを伝えて親の願望通り育てようとするのはやめたほうがいい。
子どもの頃はそれでいいとしても、大人になって困るのはその子だから。
自分は末っ子で、上の兄弟が手のかかる奴らだったから母親からあまり構われずに育った。「小さい頃からあんたはいいこで優しくて手がかからなくて、よくお母さんを助けてくれた」って母親は今になっても言う。
けど、ほんとは違う。
当時めちゃくちゃ愛情に飢えてたよ。
「◯◯はおりこうさんだもんね」って言われ続けたから、自分を抑えてでもいいこを演じるしかなかった。それが唯一、上に二人いる自分が愛情を享受できる手段だと思ったから。
まれに上の兄弟達を見習って反抗しようもんなら、ショックに打ちのめされた顔で「あなたらしくない」って言われてさ。わたしらしいってなんだろう?お母さんはどうやったらもっと私のこと好きになってくれる?って小学生のころからよく考えたよ。
いつも笑顔で明るくて誰にでも親切で、ひょうきんで家族を冗談で笑わせて、友達も多いし勉強もできる、親にとってかわいい反抗はしても親の考え方と対立する反抗はしない。そんな空気の読めるいいこを演じてメリットあったのはせいぜい中学生までだった。
堂々と自己主張する人のほうが尊重される社会にでたら、都合のいい扱い方されて磨耗してくだけ。他人から誉められる機会は少なくなるのにも関わらず、他人の評価を軸に育ってきたために自己肯定の仕方がわからず、叱られるのに滅法弱い。自分の意見に自信がもてない。
社会に出たての頃は上司や同期の人間みんなが自己中に見えた。けど今思えば、自分の頭で考えて自分の意思をちゃんと主張してただけだった。
痛い目にあって試行錯誤してきて、やっとのことで、人への気遣いは考えつつも主張するべきところでは純粋に自分の意見を主張することを覚えた。
だから、子どもがいない自分が言うのはおかしいかもしれないけど、いま子どもを育ててる人、これから育てる予定がある人に伝えておきたい。
・その子にいい子でいること、優しくいることを求めすぎないでほしい。子どもはその加減がわからないから、自己を殺して他人を尊重することが優しさで、意見しないことがいい子なのだと勘違いしてしまうことがある。いい子でいることを誉めるんじゃく、考え方自体やそれを主張できたことについてレスポンスしてほしい。
・「あなたらしさ」を親が決めつけないでほしい。自分の意見と全く違うことを子どもが主張してもがっかりしたり「あんたは全然親に似てない」「橋の下で拾った」とか茶化さず、真っ正面から受け取ってほしい。子どもの意見を拾い上げてあんたはこういう子だよねって刷り込みはしないほうがいい。
長くなりましたが、そこんとこどうぞよろしくお願いします。
簡単にいうと女になりたい男
かつバイセクシャル
付き合ったあとにカミングアウトされた
あんたが女になりたいのか知らないけど、私は心も身体もオンナなんで、ペアリングが私のおごりとか...萎えたわ
デートでそっちがおごってくれた時は嬉しかったし感謝してるけど、「あ〜今日は一日〇〇ちゃんに注ぎ込んだ〜w」は?冷めるわ ほんと無神経
セクマイとか関係なしに空気読めないし金の話しかしないケチだから別れた。
でもそいつ元々の性格が捻くれてて自分は理解なんてしてもらえないだのぐちぐちウジウジうざかった
そういうこと言ったらこっちだって、あぁふみこんじやいけないのかなって思うよね。どうせ、、とかいうからそっちから遠ざけてるんでしょ?
そいつのせいで自己主張の激しいセクシャルマイノリティーが無理になった
大島薫とかも無理
先日、去年5月に発生した東京都小金井市のアイドルへのストーカー刺傷事件の初公判が行われた。
https://news.biglobe.ne.jp/domestic/0220/san_170220_1905462248.html
逮捕されたキチガイが事件前からアイドルに対してやっていた常軌を逸した行動についてはみなさんご存知だと思うが、
ふと一連の記事を見ていて、自分が中学・高校時代に散々痛めつけられて10年近く経った今でも強いトラウマになっているキチガイ(同性)のことを思い出したので、
その個人的な経験を踏まえて、「キチガイが隣にいること」の恐ろしさについて語っていきたい。
・近年ネットを騒がせた偽◯ガーにそっくり
キチガイに絡まれた直接な原因は「学校でやり残していた宿題をやっていたことにそいつが噛み付いた。」たったそれだけ。
ちょうど部活が一緒で出席番号も近かったのもあったのか、余計迫ってきて、なにかあるごとに「仲良くなりたいから話し合い(という名目の自己主張の押しつけ)がしたい」と言って気持ち悪いといったらありゃしない。
その上、自分は教師から嫌われやすいタイプだったためか、教師もキチガイに肩を持ち始めて、一層こちらの言い分が通らなくなってしまった。
そいつのために部活やら何やら辞めたのだが、それでもネチネチとついてきた(挙句の果てには教師が自分と修学旅行や林間学校の部屋を一緒にさせようとしたりした。)
結局高校卒業をきっかけにピタリと関係が終わり、結局キチガイとは縁がキレた。そして、今でも連絡は一切ない。
実際、高校卒業してから他の同級生と話をする機会があったのだが、あのキチガイには相当うろたえていたようである。
要はクラスメイトも扱いに困っていたキチガイを運悪く押し付けられてしまったということである。
そして、色々とそのトラウマに浪人・大学・社会人と悩まされていた中で、アイドルストーカー刺傷事件が発生して、事件や公判の一連の流れを見ていて、思うところがあり、ここに書くこととなった。
こういう個人的な経験を踏まえて、被害者の方の苦しみや怖さは十分理解できるし、周囲の人間であれば是非被害者の苦しみを理解して欲しい。そして、被告人には適切な処罰・医療的処置を施してもらいたいものである。
ということで、自分の経験と今回の事件をふまえて、「キチガイがいることの恐ろしさ」について述べていきたいと思う。
1.「そいつのために行動の一つ一つが束縛される」
とにかくキチガイは自分の要求のために「束縛する」ことが大好きであり、なまじ力関係で向こうが上だとかなり行動は制限されてしまう。向こうは物理的な暴力はもちろん、つきまといや暴言でどんどんこちらの行動を束縛してくるのである。
小金井の事件の被告人も「アイドルを恋人・妻にする」という要求のためにアイドルの行動にいちゃもんを付けて、束縛しようとしていた。
とにかく言動・行動の一つ一つが支離滅裂なのである。それも見るだけ聞くだけで耳や目が腐るぐらいの支離滅裂ぶりである。
小金井の事件の被告人も「君を嫌いなやつはクズだ(この文章の助詞の使い方がそもそもおかしい)」というTwitterアカウントでアイドルへの気持ち悪いリプ・ツイートをやっていたり、自分が送ったブランド物のプレゼントを「入らないと思うなら返せ」と言って返してもらったところ、更に逆ギレしたりと本当に「支離滅裂」なのである。
3.「嫌がることを"あえて"やる。そんでもって嫌がられていることがわからないからもっとやる。」
小学校ぐらい出ていれば何をすれば人が嫌がるかどうかぐらいパット見で分かるし、それをやってはいけないことぐらい身についているはずなのだが、こういうキチガイはそういった分別を知っているか知らないか問わず"あえて"やるのである。そんでもって加減を知らずに取り返しのつかない程度にまでとことんやるのである。
あの事件の被告人も1.や2.で述べたように被告人が嫌がることを執拗にやり、しまいには殺人未遂事件にまで発展してしまった。今回の事件では被害者に対して警察や事務所、後援者がしっかりとフォローしていたので良かったものの、自分の時のように「キチガイの肩を持って煽る」人もいるわけで、そういうタイプがいると余計厄介になる。
4.「家族にすらも理解してもらえないトラウマが10年以上も続く」
これが一番の問題である。関係が完璧に離れて、名実ともに「赤の他人」になったとしても、トラウマが延々と続き、10年以上経っても「昨日のこと」のように思い出してしまうのである。
自分自身これのせいで本を読めなくなったり、ちょっとした作業をするにも脳裏によぎってしまうのであるが、家族には全く理解されなかった。(小金井の事件以降ようやく理解されるようになった。)
小金井の事件の被害者も自分と同じような状況に悩まされているのである。(本が読めなくなった後遺症が物理的な怪我によるものなのか、心理的なものによるものなのかはわからないのだが。)
http://www.sponichi.co.jp/society/news/2017/02/22/kiji/20170221s00042000215000c.html
彼女も10年以上、下手したら一生トラウマにさいなまれる可能性が高い。本当に被告人には「被害者の人生を返せ!」と言いたくなる。
長々となったのだが、「キチガイが隣にいて、関わる」というのはここまで恐ろしいことなのである。そんでもって、全く理解してもらえない後遺症にも悩まされるのである。
小金井の事件の被害者と周囲の関係者、並びに現在このようなキチガイと戦っている人々に対しては少しでもその苦労が和らぐように願っている。
ネットでは韓国がかなり嫌われているというのを除いてもまあ確かに「LGのあの顔みたいなロゴがあるのとないのじゃない方がいいかなー」という風に自分も思っていたのだが、
でもASUSやHP、Dellも、東芝や三菱とかだって平等に同じくらいはダサいだろと正直思ってる。
今ちょうどノートPC買い替えたいって思ってるんだが第一候補のDellのXSPシリーズはコスパも性能も良い感じなのに買うの躊躇してる理由が「ロゴがダサい」だしな。
いや別にロゴ単体でダサいっていうわけじゃないけど、日常生活で使う製品の目立つところにどどーん!とばかりにロゴを主張させるのはなんか違うくない?って思う。
XiaomiのMi Notebookのような、無印良品的な自己主張のないシンプルデザインがこの世にもっと増えればいいのに。
2016年って「マウントを取る」が流行ってたような気がする(ネット上の話ね)。
あるエントリにコメントが付いてたら違う視点から自らの優位さを誇示するようなコメントを付け、
マウンティングに勝利した者が全部を掠め取っていく「勝者全取り」みたいなムーヴが気にかかった。
わたしからすれば思いもよらない鋭いマウンティングを成功させる人もいて、
頭の回転が速い人がいるもんだと感心することもしばしばだった。
こうした行為を「マウントを取る」という概念として認識出来たのが2016年だったし、
そもそもエントリそのものが、被マウンティングの餌食にならないように留意していたりして、
その読み合い一挙一足に緊張感が走っていた気がする。
それは批判されることを過度に恐れているようにも見えたし、
慎重で誤解されないような物言いに気をつけているようにも見えた。
http://anond.hatelabo.jp/20161204095016
驚いた。全く真逆の感想だ。アメリカといっても、サンフランシスコのイケイケスタートアップからウォール街のクオンツからシカゴのコンサルまで、全く違うだろうけど、5年以上東海岸の米系企業に籍をおき、向こうの地でもそれなりに働いてきた自分からすると全く同意できなかった。あくまで個人的な感想であるけど、いくつか反論してみたい。
俺が米系企業の日本支社に就職したとき、最初に「会議で発言しないのは存在しないのと同じだ」と言われた。少なくとも俺の5年以上の経験で、会議に出て黙ったままただメモを取っているアメリカ人は見たことがない。
誰かが発言しない会議があると「君は何も喋ってないけど、この会議はそもそも必要なのか?」と言われる。真顔で。
これは、日本とアメリカのコミュニケーションの違いも大きい。例えば、日本人が「お世話になっております。表題の件ですが…」と書いているうちに、アメリカ人は「ok」の二文字だけで返信する。件名が「ok / EOM」で本文なし、なんてメールも多い。
必然的に報告だけの会議というのは少なくなるし、会議というのは発言をする場であるということが意識として徹底されている。
本国から来たマネージャーは、日本人が会議に出席していながら全く発言しないことに驚く。日本人は、会議という場が意見をぶつけ合う場にも関わらず異常に萎縮しているように見える。間違ったことを発言したら怒られるのではないか、と。俺自身はどんな馬鹿な質問をしても怒られた記憶はないが、発言しなかったらマネージャーに呼び出されてアドバイスされたことがある。
元増田はアメリカの大学のディベートを見たことがあるのだろうか?ディベートというのは、(悪い言い方をすれば)いかに黙らずに早口で屁理屈を言い続けるかを競うスポーツだ。イエールでもハーバードでもエリートが日々「どんな論点をどんな立場でも」ディベートに勝てるかを検査し続けている。(チョムスキーは、深い思索のないディベートがリーマン・ショックを引き起こしたと言っていた)アイビーリーグ卒業生が多い会社はそういうディベートの文化が根付いていて、会議のスピードが異常に早い。
アメリカ人はちゃんと主張する人を好む。給料上げてください」って言うと結構上がる。言わないと上がらない。大抵の企業では「1/1」という、マネージャーと一対一で話してアピールする場が設けられていて、そこの場でどれだけ自分が頑張ったかを語らされる。
それは、年功序列が薄いことと裏表だ。アピールできるやつはずんずん登っていくし、うだつが上がらなければそのままか、クビになる。だから、ボスにアピールすることはむちゃくちゃ重要なポイントだと考えられてる。
日本人のように「頑張っていたらいつか認められる」なんていうことは考えないし、キャリアというのは自分でアピールして掴み取るものだという意識が徹底している。
これはもう匿名ブログの宿命上、想像でしかかけないのだけど、元増田はあくまで「日本人」として接してもらっていたのではないかと感じた。それも日本人が多い多国籍企業の。
アメリカ人(特にサンフランシスコとかシアトルあたりの)は英語できないやつには慣れているので優しいし、日本人が入るような会社なら、シャイなのも知っているから話も振ってくれる。カリフォルニアなんか白人が4割しかいない。インド人の聞きづらい英語に四苦八苦し、イタリア人のコーヒーブレイクには付き合う。多国籍企業とはそういうものだ、と割り切っている。
そして、文化が違うこと、ネイティブじゃない言語で話す人との仕事の仕方をきちんとわかっている。だから、口ごもる人にはちゃんと時間をくれるし、わかりやすい英語を使おうと頭を捻ってくれる。それはポリティカル・コレクトネスに近い。(日本人だって日本語が下手な外国人がいたらじっと聞かないか?)
日本人が考えずに喋っているとは思わない。むしろもっと怯えずに発言すればいいと思う。どだい、会議というのは話すためにある。ただ単にボスの報告を聞くだけならメールでいい。わかっていないことがあれば空気を読まずに質問すればいいし、気になったことがあれば深く考え込まずに発言すれば良いのだ。
いささか乱暴な言い方ではあるけど、日本人はもっと適当でもいいからどんどん発言するべきだ、と言うのが個人的な結論である。発言することが時間の無駄になるようなメンバーが会議に居る事自体がおかしいのだ。
素晴らしく有能で深い思考を持っている日本人が、発言しないために低い評価に甘んじているのをよく見てきた。とてももったいないと思う。少なくとも、米系企業で働こうとしている人は、とにかく何でも良いから発言する癖をつけたほうが良い。わからないことがあれば聞く、考えていることがあったら意見を言う、適当でも良いから改善ポイントを言う。発言量を増やすだけでキャリアが変わる。
大人気ソーシャルゲーム兼スマホ音ゲーであるシンデレラガールズだが、この主要キャラクターの中でも圧倒的にアンチの多い嫌われ者アイドルが存在する。
そう、パッションタイプ代表であり、デレマスを代表するユニット「ニュージェネレーションズ」のリーダー"本田未央"だ。
このキャラクター、実のところびっくりするぐらい嫌われている。ちゃんと担当Pも存在し、好きなキャラクターに上げる人物も多数いるのだが、
それでもすさまじい勢いでアンチが量産され、今日に至る。アニメ放送時期なんか凄いありさまで叩かれていたほど。登場するだけでニコ動のコメントは荒れ、アニメの実況スレは本田死ねの一文で溢れかえった。
ではなぜ、こんなにも嫌われているのか。それには大きく4つの理由が存在している。
このキャラクターがなぜここまで嫌われるかに至ったのか、その経緯を研究することで、今後同じようなアニメやゲームを作る際に「嫌われないキャラクター作り」に生かせられれば、この記事を作ったかいもあると言ったところである。
なお、最初に書き込んでおくが、筆者は決して本田未央アンチではないことを明記しておく。ただ、本田未央が登場した際に荒れるありさまについて、ひたすらにうんざりしている側であり、
その原因もやはりシンデレラガールズの運営そのものに存在すると自負しているだけであることを分かっていただきたい。いわば運営が作ってしまった「負の遺産」であるということを認めるほかないというスタンスである。
では、早速如何に本田未央がなぜ不人気キャラになってしまっているのか、その4つの理由を記述することにする。
本田未央で検索してもらえれば分かるが、とりあえずあんな感じの見た目である。
シンデレラガールズには180人を超えるデレマスオリジナルキャラクターが存在するが、ぶっちゃけた話、その中でもキャラデザの良さ、可愛さと言う面では、半分以下のキャラクターに劣るといっても過言ではない。
特に注目すべきポイントは「極端すぎる横ハネの髪型」である。髪型は不人気要素を大きく左右すると言われつづけているキャラクタービジネス界だが、アイマスも当然例外ではない。
先輩アイドルキャラである「秋月律子」などが分かりやすいだろう。Xbox版の律子の髪型はご存知の通り"三つ編み"であるが、これがまた律子の不人気に拍車をかけていたと言わざるを得ない。
ニコマス界隈では、この三つ編みを取った律子を「覚醒律子」と持て囃し、可愛い、こっちの方が良いなどといったコメントで溢れかえった。
つまり、キャラの可愛さにおける髪型の注目ポイントは非常に大きいということである。緑髪は不人気であるという風潮もネット界では有名か。
そう、未央の髪型は不人気への拍車をかけているのである。筆者はこれが一番のマイナスポイントだと思っている。
横ハネを持つキャラクターはアイマスには何名か存在する。大正義主人公である「天海春香」もその一人。だが、あまり目立つことがない横ハネであることが見た目で分かるだろう。
そしてシンデレラガールズでは「輿水幸子」が有名か。こちらも大人気キャラであり、キュートタイプの筆頭人気キャラとして君臨しているほど。同じ横ハネでありながら未央と人気の差は歴然。
なぜここまで差があるのか、それは横ハネが自己主張をするレベルで目立っているかどうか、である。未央の場合、髪型を見たとき、とにかく横ハネが目に付く。
ショートヘア―の下半分すべてが左右に跳ねているのである。これはいけない。可愛い見た目を台無しにしていると言わざるを得ない。
その証拠に、同じ髪型をしている「西島櫂」も不人気キャラの筆頭である。なんと未央以上の横ハネ持ち。これでは人気がでるわけがない。二人とも折角の巨乳キャラなのに実に勿体無い。
これをシンデレラガールズ稼働当初にやってしまい、第3回総選挙まで一回も50位内入りすることが無かったほど人気が無かったのだ。レアリティNのカードイラストも実に可愛くない。特訓後のN+なんて修正を入れなければならないレベル。
未央の特徴の1つはやはりパッション溢れる元気娘で誰とでも気軽に友達になれる社交性を持った性格であるだろう。
そもそもとして、オタクは元気で積極的な子に苦手な印象を持つことがわかっている。特に未央はコミュ力魔神であるため、間違いなくスクールカースト上位勢だろう。
未央はそういったキャラクターの中でも特段コミュニケーションを取るという意味では飛び抜けている。無作為に相手にスキンシップを行い、許可も得ていないのにあだ名をつけ、どんな相手にも遠慮なく絡みだす。
未央の場合、ただ元気が良いとは勝手が違うのである。性格上「誰かと絡む積極性」という意味ではシンデレラガールズ随一の行動力の持ち主である。この特徴が逆効果になってしまっていると言えるだろう。
暗い学生時代を過ごしてきた彼らにとって愛着が湧くような性格ではなく、行動そのものが異次元世界の住人みたいなものである。傍から見たら近寄り辛いという印象をうけていることだろう。
そんなキャラクターを果たして彼らは好きになるのだろうか。きっと一部にはいるだろうが、大多数は無理だろう。なぜならオタクが好きなのは「大人しく、自分でも守ってあげられるようなか弱く清楚で小動物な子」だからだ。
デレマスの人気上位キャラクターにはやはりというか、そういう子が多い。緒方智絵里、鷺沢文香などがそれに当てはまるだろう。
この二人は極端だが、とにかく元気過ぎず、自分のテンションでもついていけそうな子がこの手のキャラクターではモテている傾向にある。
つまるところ、自分でも相手が出来そうなキャラクターに愛着をもったり、興味をもったりするのである。普段から根暗な人物たちの人間心理としては至極当然のことだろう。まさに未央の性格とは真逆なのである。
アイマスを好きになるようなユーザーは、未央みたいな性格のキャラクターを好きになることはなかなかないのである。悲しいことに。
同じソシャゲであるガールフレンド(仮)の人気投票1位が誰か知っているだろうか。「村上文緒」というキャラクターであるが、このキャラクターの設定と性格は先ほど紹介した鷺沢文香とほぼ同じである。最早語るまい。
アニメで発言した「ほらほら笑顔、忘れてるぞ☆」はあらゆる視聴者をイラつかせたことだろう。なお、この発言は後述する問題のアニメ6話~7話の次の話である8話で発言されたセリフである。タイミング悪すぎと言わざるを得ない。
ここで言う酷いとは、"不遇だった"という意味ではない。全くの逆、"超優遇"だったからである。それとは別に、最早デレアニ界隈では黒歴史とされている6話についても含め、酷い扱いと捉えることとする。
まずアニメシンデレラガールズ6話について語ろう。この6話が、アニメシンデレラガールズの人気の全てを左右してしまったと言っても過言ではない。
6話の内容だが、軽く説明すると「本田未央が新ユニットニュージェネレーションズのリーダーとなり、ユニットとして初ライブに挑むが、あまりにも少ないお客に未央がプロデューサーに逆ギレし、アイドル止めると叫び逃げ出す」といったストーリーである。
これだけ書くと誰もが思うだろう。なんだこのクソキャラと。実際のところ、この話の背景には様々な思惑やすれ違いが発生しており、一口に語るのは早計であるのだが、この6話を普通に見ていた視聴者達の大半はそう考えなかったのであろう。
放送後、もう荒れに荒れるのである。記事冒頭に書いた通り、アニメの本スレ、ゲームの本スレ、実況スレ、アフィブログ、Twitter、その他SNS、ありとあらゆるサイトで荒れた。
当然と言えば当然だろう。こんな描写をされ、それでも「未央の気持ち分かる」「これはしょうがない」「これでこそ未央」「子供だし仕方ない」だなんて思った人物が果たして何人いるだろうか。いたかもしれないが、決して多くは無いだろう。
この6話以降、アニメ終了まで、いや終了し1年が経過した今でも「本田リーダー」とバカにされ続け、アフィブログの恰好の餌となり、未央アンチを大量生産してしまった結果となったのだ。
アニメのスタッフ曰く、「未央は非常に脚本的にも使いやすいキャラクター」と雑誌のインタビューでも公言しており、シリアスやキャラの成長描写を入れたかったがために、落として上げる脚本にしてみたのだが、結果はごらんのとおり。
落としたら人気が0以下になり、頑張って上げたが0に戻ることは無かった。そんな印象をうけたアニメであった。7話で武内Pと和解するが、それで救われた未央Pがいるのならそれはそれで良しとしよう。
だが、今日の未央の嫌われっぷりを見て、果たして何人の未央Pが心身安定の状態でいるのか実に気になるところ。
このテーマの冒頭でアニメにおいて未央は"超優遇"だったと記述した。上記ではまるで不遇な扱いを受けているように感じるが、問題は8話以降である。
2つ上げるとするなら、「セリフ量がアニメで最も多い」「とにかくいろんなキャラに絡み、出番が多く目立つシーンが多い」。
メイン回が6話にあったにも関わらず後半も数えきれない量で出番があり続け、1期の8話のメイン回以降ろくに出番のなかった蘭子に比べると破格の扱いであることがよくわかる。
ただでさえ6話で下がりまくった人気なのにこのアニメでの扱いである。アンチは量産され続け、普通の視聴者すら面白い心境ではなかったであろう。火に油を注ぐ結果になったのは言うまでもない。
それもこれも「脚本を書く上で使いやすいため」という結果に収束するからである。なんと皮肉なことか。
4.極端すぎる運営贔屓
テーマタイトルそのままの意味である。未央は基本不人気のまま進んで来たキャラであるが、やはりニュージェネレーションの一人として、そしてパッションの代表キャラとして表に出さざるを得ないキャラとなってしまっている。
だが、現状の人気は今まで説明してきた通り。第2回まで圏内入りすることはなく、フリートレードの価値も安い、pixivでもイラストの数は卯月や凛と比べると圧倒的に少ないといった感じ。
だが、第3回総選挙では5位。第4回では18位、第5回では6位を記録している。こう書くと、なんだ普通に人気キャラじゃんと思うかもしれないが、実はここにテーマタイトルの真の意味がある。
シンデレラ総選挙はあるシステムに則って行われている。それは投票権1枚につき1人一票を"何度でも同じキャラに投票できる"という仕組みと、投票券は"ガチャを引くことで手軽に手に入る"という仕組みである。
つまり、その投票期間に行われているガチャのキャラクターがもし自分の担当だった場合、ガチャを回しまくり、手に入れた投票権を担当に突っ込みまくるといった現象が発生するのだ。
もうお分かりだろう、この未央が5位、6位を獲得した第3回と5回の総選挙、未央がガチャ登場キャラだったのである。当然ガチャに登場させるキャラクターは運営が選出している。
こんなことが行われていたら当然納得いかない奴らはこういうだろう、「運営は未央を総選挙上位に押し上げたいからガチャに未央を選出した」。至極ごもっともな意見である。そう思われても仕方がない。
第3回はテーマ上、1stライブに先駆けてニュージェネレーションの卯月、凛と共に月末ガチャに登場といったものだったので、ここはまだライブ関連、ユニット繋がりで言い訳が通りそうなものである。
だが第5回に至っては特にイベントもライブもないにも関わらず直前に未央単体のガチャを投入。あきらかに狙ったものであると言わざるを得ない。
第4回の時には未央ガチャが行われなかったため、18位という結果になり、Paのみでも4位という結果に終わった。
これはマズイと思った運営が未央を上位に組み込むため、総選挙のタイミングでガチャを行ったと思われても不思議ではない。これを贔屓といわず何と形容されるべきか。
上記以外にも、ちょうどいまこの記事を描いているときに問題になっている事柄が1つ存在する。未央の他キャラへのカードイラスト出張である。
つまりどういうことかというと、スターライトステージのガチャで出てくるアイドルのSSRイラストに「未央がそのキャラクターと一緒に映っている」というものである。
SSRイラストといえば、そのキャラクターをこれでもかというほど可愛く書いたイラストであり、手に入れたユーザーにとっては宝物にも等しい。
なのにそのイラストに、全く別のキャラクターが出張ってきてるのである。特訓前のみの登場であるが、これに苦言を示した該当キャラの担当Pが本当に多く存在した。
当然文句を言う人らは「未央アンチである」といった扱いをされ蔑まれているが、当人たちの気持ちとしてはたまったものではないのであろう。分からないことも無い。言葉にはしなくとも、内心そう思っているP達はきっと多いことだろう。
さて、ここまで大長文でお送りしてきたが、いかがだっただろうか。
こんな文章を最後まで読んでくれた方がいるのかはわからないが、今自分が考えていたことを文章として残しておきたかったが故の行動である。
最後にもう一度書くが、筆者は未央アンチでは決してない。思っていたこと、考察したことを文章にまとめただけである。勘違いしないでほしい。
冒頭にも書いたが、これら4つの要素は決してそのキャラクターとそのキャラのファン達を幸せにすることは無い。絶対に無い。
溢れかえる今日のキャラクタービジネスコンテンツだが、明らかに「運営による無能行為」によって闇を見るキャラクターが多くなっている。
ここに記載した考察が世に広まり、アニメ・ゲーム業界の方々の目に入り、今後も本田未央のような「人間の悪意」を一身に背負うような不幸なキャラクターが生まれないようにして頂きたい。
是非とも、これらの要素を今後の反省課題として脳内にとどめて置き、新しいキャラを作り、そのキャラクターを育てていく際の糧としてくれることを切に願う。
以上
http://anond.hatelabo.jp/20161202221629
社会に出て一番の驚きは「たいていの人は考えて喋っていない」ってことだった。「考えている人」が喋るまでは次のプロセスを踏んでいる。
・その意図への適切な答えを探す
・その答えの適切な表現を考える
だから答えるまでに考える時間がある。それに対して「考えていない人」っていうのはペチャクチャと喋れる。なぜなら考えていないから。思ったことをそのまま声に出して伝えている。その話題がなぜあがっているのか、その適切な答えは何か、とは考えない。最初にパッと思いついたことをそのまま口にする。
日本の会社の会議がなぜ生産性が低いのか、それはこういう人が何人も会議に出席しているからだ。何も考えちゃいない。思ったことをすぐに口にする。だから、「考えていない人」が会議の場を支配することになり、熟議にならないし、考えも深まらないし、答えも見つからない。それぞれが思いつきを喋って時間が過ぎていく。「考えていない人」はみんなそうだと思っているから、思考する時間を勘案していない。すぐ喋る人が良いと思っている。そして、そういう人が「喋っているから」とだけで評価される。ますます「考えていない人」が幅を利かすようになっていく。ここが日本の会社のダメなところだ。
それに対してアメリカが強いのは──2年ほど働いた経験上だけど──人には「考える時間」があるとわかっていることだ。向こうにはディベートの文化があるし、PCが叩き込まれているから、「どう答えるか」についてちゃんと考えている。だから、ちょっとした雑談でも「黙る瞬間」っていうのが何度もある。でも、そういうときは日本人みたいに焦って喋ったりしない。だって、考えているんだから。お互いそれがわかっているので相手が口にするまでちゃんと待つ。そして、それが普通だ。
会議でも日本みたいに「喋らないやつはダメだ」みたいなことは言わない。だって、喋っていないやつは考えているんだからね。だから、喋っていないやつがいたら誰かが「きみはどう思う?」と聞く。そして、考えているやつの意見を傾聴する。それに対してみんなまた考える。だから議論が深まっていく。日本はこれがまったくない。考えていない人が思いつきを喋ってそれで時間が浪費していく。
教育が変わらない限り、この差は埋まらないと思う。日本は「考えていない人」が幅を利かせて、そういう人が「すぐ喋る考えていない人」をコミュニケーション能力があるとか、自己主張ができているとか、そういう理屈を付けて評価するからね。でも、本当の自己主張って思いつきを喋ることじゃなくて、考えたことを喋ることなんだけどね。それがわかっていない。「考える時間」をまったく考慮していないし、それをスケジュールに組み込んでいない。この差はとてつもなく大きい。
「今までポリコレ棒で叩かれてたオタクがポリコレに守られてるわけねえだろ、反ポリコレになって当然だ」ってのは違うって。
「ポリコレがオタクを殴る」ってのは、ソフ倫の「近親相姦や獣姦禁止」とか、コンビニエロ漫画の「ランドセルやセーラー服は禁止」の方だよ。
駅乃みちか辺りの話は、「オタクが棒を所構わず振り回しだしたので、それで殴られるやつがいるからやめろ、と、棒を取り上げられた」って話なんだよ。
自分が持ってたはずの棒を他人に取り上げられたから、「あの棒で俺を殴る気だ!」って言ってるだけのことだ。
棒を振るなって言われたら「じゃあ、この棒はどこで振っていいのか。誰に向けてなら振っていいのか」をちゃんと突き詰めて、お互いに気持ちよく傷つけ合わずに好きな棒を振れる距離を見出さなきゃいけないのに、「その棒、こっちに当たりそうなんですけど」「じゃあ、もう棒振らない……」って逃げちゃうやつが悪い。
「そうか、この棒はお前の前髪掠ってるか。じゃあ、これくらい短めに持っておこう。代わりにあっちの空いてるスペースは、お前に当たらないから好きに振る」そういう話をちゃんとしていかなきゃいけない。
でも、「どこででも好きに棒を振り回していい」という状況に慣れきってた奴らは、それが出来ない。話し合うのがめんどくさい。というか、話し合う方法が分からない。
オタクは別に好きなように棒を振り回してない? むしろ、振り回さないように遠慮してた?
それは違うだろ。最近はちょっとマシになったけど、エロゲブーム末期の秋葉原はすごかったぞ。大通り沿いに平気でスジ晒した幼女のポスターが貼ってあった。
でも、それはそれで正しい(大通り沿いはどうかと思うけど)。秋葉原はオタクに特化した街で、そういう表現を好む人間が好んで集まる場所だから、そこではそれがメジャーなのだ。
そう、メジャー。秋葉原のノリはマイノリティのノリじゃなくてメジャーのノリ。
マイノリティがマイノリティとして、メジャーとの距離感を図る表現じゃなくて、メジャーがメジャーとして、それ以外の表現を駆逐する表現。だから、よそに持ち出した時に「お前、それはちょっと待てよ」と制止がかかる。
ゲイタウンでは、ムキムキマッチョが小さいパンツで股間をモッコリさせたセクシーポスターがいくらでも飾ってある。そういうのはゲイタウンの外では滅多に見ない(意味もなくビキニ姿な女性の広告はいっぱいあるけど)。
しかし、年に何回か、ゲイパレードではそういう人たちがみんなの前に出てくる。普段はみんなの目に触れないけれど、こう言うふうに暮らしている人がいます、という『自分の権利』を主張するために出てくる。
おネエタレントがいる。おネエと呼ばれる中には、ただのゲイもいれば口調が女っぽいだけのノンケもいるし、トランスセクシャルもいて、それが一緒くたになってる。
性転換手術済みのMtFでも、いっしょくたに「女みたいな格好したおっさん」として「きもーい」と扱われる。
「そう扱われるのは嫌じゃないですか?」というインタビューに「本当は女性タレントと同じように扱ってほしい。でも、今はまだそういう時期ではない。自分の次の世代からは変わっていくと思う」と答える。
隠れた場所で独自進化したものが外に出ていくときは、「どこまで受け入れてもらえるか」手探りで、全部を最初から受け入れてもらうのではなく、自己主張と融和を繰り返して「どこが中立か」を探っていくものだと思う。
それをせずに、いきなりどこででも秋葉原ノリで棒を振り回しだせば、「きもい!」と同じ棒で叩かれて当然だわ。
今までは意味もなくビキニ姿の女性のポスターが、街中のどこにでも貼ってあった。それは、そういう広告を出展するメジャー勢力であるおっさんが振り回してる棒で、その棒に殴られてた人が「すいません、今まで社会的立場が弱かったので黙ってましたが、もうそういうのやめてください」と言いだす。
そして、「少なくともビキニや下着姿である意味のない広告はやめよう」「そういう広告にするにしても、おっさんだけでなく様々な立ち位置の人に良い印象を与える表現にしよう」と『中立』を探っていく。
ビキニで胸の谷間を強調するポスターがどこにでも貼ってあったおっさんからすりゃ、窮屈で意味不明だろう。「女は露出して胸を寄せて男を楽しませるべきものなのに、なんで遠慮しなきゃならないんだ」って平気で言う。自分が振り回してた棒を取り上げられて、「みんなが俺の価値観を攻撃する!」と泣き喚く。
ビキニ姿の女性を、上司に無理やり酒を飲まされる若い社畜に変えても同じだよな。
ポリコレ棒はターン制ってのは正しい。棒を取り上げられたやつらは、その棒を取り戻してまた相手をボッコボコにしていく。
だから、これからはポリコレ棒を振り回してくるやつも全く容赦しなくなるだろう。お前らの息を完全に止めるまで、自分たちは棒で叩かれるって分かったわけだから。
今日11月3日は文化の日。そんな仰々しい名前の日を休日にまでしているのだ、今日くらいは文化的なものに触れねばならぬと思い立ち、カリビアンコムという非常に文化的で洗練されたwebサイトに足を運び、周囲の時間を止めて本当に時が止まっているのかを他の人に触れることで検証するという非常に文化的で貴重な映像を見ることにした。しかし、その非常に文化的なwebサイトを巡っている辺りで何かがおかしかった。画面には文化的なバナー広告やパッケージが所狭しと言わんばかりに自己主張してくるにも関わらず、私の一物はパンツの中では所狭しと自己主張する気配が一切無かった。
異変に気づいてはいたが、それに見て見ぬふりをしながら文化的な映像を入手。ヘッドホンにティッシュペーパーを用意し、さあ準備万端、文化的な活動に精を出してやらんとモニターに向かい合って再生ボタンを押してみるが、やはりおかしい。その映像を何十分も見続けても、核心部分の時間が止まっていることを利用しながら少子化対策活動を行う貴重なシーンを目にしているときも、我が一物の文化的活動は始まるどころかうんともすんとも言わない。一体どうしたのだ。もしかして画面の向こうと同じく、こっちも時間が止まっているのだろうか。いや、そんな訳はない。
嫌な汗が脇にじんわりと湧き出てくる。最後まで見ても、ピクリともしない。なんてことだ。チンチンが、勃たなくなってしまった。
慌ててこれまでコツコツとためてきた文化財コレクションを漁って目を通してみたが、縮こまって萎れたまま、一切動くことはなかった。いつだってそうだ。人は失ってから初めてその大切さに気づく。どんなに強く握りしめてもピクリともせず、その温もりすら感じられない。一筋の涙が頬をつたい、凍てつくような部屋の隙間風が、涙の跡と丸出しの下半身に染み渡る。
ここ数年、パートナーと呼べる女性もいなかったために遊び相手もおらず、我が愚息は誰とも会うこと無く擦り切れたパンツの中に引きこもりっきり。そして私も仕事にかかりっきりで彼に構ってあげる時間もなく、引きこもりは更に加速。お元気ですか?お変わりありませんか?と市の福祉課職員のような週に1度の見守り&地域活性化活動も時間がないために段々と間隔が空いてしまい、ここ数ヶ月ほど目を離していた結果のこれである。実質、孤独死だ。
こんなのあんまりだ。まだ30になったばかりなのに。この世を去るには若すぎるだろう。これからまだまだ楽しいことがあっただろうに…。仕事には意欲を持って取り組めているし、たまの休みはゲームをしながら楽しんでいる。チンチンが勃たなくなって全てが楽しくなったわけでもないし、そうなることもないだろう。でも、高校時代に青春を謳歌できなかったという心残りに加えて、性生活も楽しめなくなるのだ。他の同世代の男女たちが楽しんでいること、人間が長きに渡って楽しんできたことの1つはもうずっと味わえないのだろうなと思うと、残念で無念でたまらない。