はてなキーワード: 自分たちとは
有権者の大半は自民党の右翼的な思想傾向も支持していないし、金や宗教の問題でも支持していないし、経済政策が成功してて自分たちの生活が楽になっているとも、あるいは今後楽になるとも思ってないわけだよね?
バイオラ大学での福音学での恩師、カーティス・ミッチェル博士はよく言っていた。「救いの前に彼らを迷わせなければならない」と。もし人々が自分たちの生活に何か深刻に満たされていないものを感じていなければ、新たな信仰を受け入れるとは考えにくいし、まして神や救いを求めようとするはずもない。
ダニエル・L・エヴェレット(著), 屋代通子(翻訳)(2012年)『ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観』(みすず書房)pp.369
キリスト教が宣教師によって世界各地に伝播していく仕組みはこれだったのか。ローマやエルサレムとははるか遠くに離れたアジアや南米にまでキリスト教が広まっているのが不思議だったけれども。キリスト教には原罪というすべての人類に押しつけがましく罪悪感を植え付ける思想があって、個人的には気に食わなかったけど、宣教にはうってつけの手法だったのか。
著者のエヴェレット博士は、SILという米国のキリスト教宣教師の組織の一員として聖書をピダハン語に翻訳して宣教するために、ブラジル・アマゾンの少数民族ピダハンの集落へと妻子と共に赴いた。著書によると、聖書を翻訳してピダハンに理解させることはできたが、キリスト教信仰を受け入れさせることはできなかった。
ピダハンは特別に宗教を信仰しておらず、実際に見聞きした物事しか信用しない。あえて何らかの信仰があるとすればアニミズム信仰であり、あらゆる物に精霊が宿っていると考えている。さらには自らが精霊になったりもする。故人に変装して土葬されたときの気持ちをトランス状態で語ったり、精霊の名のもとに自らの雄弁さや教訓を語ったりといった具合にだ。日本で言うところのイタコ芸かと私は思った。ピダハンにとって精霊は、実際に見聞きできるものなのだ。
ピダハンにとってイエス・キリストは実際に見聞きをすることのできない存在なので信仰の対象たり得なかったのだ。翻訳された聖書の音声レコードを聞いて文化の違いに笑ったりもするが、聖書はエンタメとしか理解されなかったようだ。洗礼者ヨハネが首をはねられる場面を楽しみながら何度も聞いたという具合にだ。エヴェレット博士は宣教師だが、同時に言語学者として大学での研究も並行していた。実証されたことしか信じないピダハンの態度を目の当たりにして、エヴェレット博士は科学者としての自らの論理的思考の結果から、信仰に疑問を持って無神論者になったという。
聖書をアニミズム信仰者に理解させることができなかったことは、キリスト教宣教師が自らの信仰を喪失させるほどのことだったのだろうか。だとしたら、過去に世界中にキリスト教を宣教できたのはなぜだろうか。やはり、金や暴力といった強制力を働かせなければ宣教は難しいのだろうか。日本に対するキリスト教宣教師がそうだったように。冒頭で引用したように、強制力をもってして迷わせることが、キリスト教宣教による救いを与えるのに必要な前提なのだろう。ジャングルという恵まれた自然に満足して常に笑顔を絶やさないピダハンには、迷う必要がそもそもなかったから、キリストは不要だったのだ。
科学技術の発展にともなう人々の論理力の向上と、金や暴力による強制力を忌避する社会的な風潮によって、宗教の力は今後ますます縮小していくことだろう。日本において神道・仏教などの宗教の力が人々から薄れていくのと同様の運命を、キリスト教など他の世界的な宗教でも同様にたどっていくことだろう。
なんだか絶賛的な評価が多いみたいようだが、社会学は門外漢だけに、個人的にはモヤモヤが残った。
前回は上野千鶴子や吉見俊哉、大澤真幸などが全体の監修者で、巻数も26あったと記憶しています。各巻のタイトルも凝ったものが多かった。執筆者も社会学プロパーだけでなく、竹田青嗣などの周辺領域の方が入っていました。文体や内容も派手で、自由で、雑多で、それほど社会学とは関係のないものもたくさんありました。もちろんそれだけではなく、当時の最先端の社会学的な議論をしている論文もたくさんあって、たとえば落合恵美子が実証的な観点から上野千鶴子を強く批判する論文なども収録されていたのですが。
そのころから比べると、社会学も大きく変わりました。どちらかといえば、より地味な、地道な、実証的なスタイルで調査研究をおこなう社会学が求められるようになったのです。今回の『岩波講座 社会学』では、そうした社会学者が中心となって執筆します。特定の対象と特定の問題に、特定の理論と特定の方法を携えて実直に調査研究を続けるような、そんな社会学者たちはこれまでたくさんいたし、いまもたくさんいます。いま、この社会にとってほんとうに必要なのは、「職人的」な社会学者なのです。
要するに、この講座のシリーズ全体でおこなうのは、社会学そのものの再定義です。もっといえば、これは「本来の社会学」へと立ち戻ろうとする試みです。社会学者は、大風呂敷を広げた預言者であってはならない。私はすでに、2018年に有斐閣から出版された『社会学はどこから来てどこへ行くのか』という対談集で、そのような趣旨のことを述べています。
まずここで説明されるべきは、「地味な、地道な、実証的なスタイルで調査研究をおこなう社会学が求められるようになった」理由であり、そしてかつてはそうしたものが忌避(あるいは小馬鹿に)されていた理由である。例えば、社会学という学問の発展の結果なのか、社会経済的な環境の変化や取り組むべき新たな社会問題の登場の影響なのか、社会科学研究全体のトレンドの変化の影響なのかが、きちんと説明されるべきである。上の文章はそうした説明が一切なく、以前の社会学は中身がからっぽだったが、自分たちが「地味な、地道な、実証的な」ものに改善したという、それこそ中身が空っぽなことを言っているだけに過ぎない。
「社会学者は、大風呂敷を広げた預言者であってはならない」というのも、別に社会学に限ったことではない。具体的には見田宗介や宮台真司のことを言っているだろうが、30年以上前には「大風呂敷を広げた預言者」は、哲学者の浅田彰など、社会学以外にも数多く存在していた。現在だと斎藤幸平や成田悠輔の名前が「現代の預言者」として思い浮かぶが、彼らは経済学者である。社会学者で思い浮かぶ名前はもういない(古市は軽薄ではあるが預言者的では全くない)。
そもそも、「地味な、地道な、実証的な」をくどいほど強調している点で、おそらくはSNS上の社会学バッシングを気にして怯えるばかりの、自分たちの中身のなさを暴露している感じがする。本当に「地味な、地道な、実証的な」人は、そんなことは口が裂けても言わない。ネット上の悪口など意に介さず、自分の研究にコツコツと取り組むだけだ。「大風呂敷を広げた預言者」についても、そうした人がなぜ必要とされるのかの現代的な状況について丁寧に分析・説明するだろう。
そして後半は、紙の本との出会いが大事だというノスタルジックな感情論に終始している。もちろん世代的に共感できなくはないが、30年前からの情報環境の劇的な変化と今回のシリーズの編集方針との関係について、社会学者として何か分析的な議論があるべきだろう。
細かいところだが、「巻数も26あったと記憶しています」って、なんですぐ調べないのだろうか。「地味な、地道な、実証的なスタイル」な人は、そういうところから絶対に手間暇を惜しまない。そもそも、岸氏はネット上の発言しか知らないのだが、それらを読む限り、経済政策論にも安易に口を挟んだりなど、「地味な、地道な、実証的なスタイル」の人には全く見えない。
母親は神に祈れだの神の勉強しろだの、俺のことを見る気がない。俺の辛さをわかる気がない。
他の家族も、俺を見ているというより、家族が死ぬというのが嫌なだけ。俺のことなんて見ていない。
周りの福祉関係の職員も仕事だから自殺されたら困るから止めてるだけ。俺のことなんて本当はどうでもいい。仕事だから仕方なく構ってるだけ。もし俺が死んだとしても次の日には忘れてる。
他の人もそうだ。どうせ俺が死んでも面倒なやつが死んでくれてせいせいするとしか思わない。
こんな人生を続けるのはしんどすぎる
早く死にたい
長生きしたところで苦しみが長く続くだけだよ。意味がない。誰も俺のことなんて詳しく知らないし、知る気すらない。別にいいけど。俺だって俺に興味ないし。無価値だから早く死ねばいい。人生の消化試合がこのままダラダラと続くくらいなら、まだ若いうちにさっさと死んでしまったほうが儚くていいだろう。年老いて自殺しても醜いだけだ。このままこの苦しみが続くのなら、死んでしまいたい。どうせまともになれないんだから、死んだほうが早い。人とまともにコミュニケーションがとれないゴミは人間社会にとってどう考えても邪魔で、不要な存在だよ。健常者はみんな障害者なんて醜くて汚くて面倒臭くて邪魔だと思ってるだろう。だから税金を障害者に使うのもこれからどんどん減っていく。どのみち社会的に死んでる存在だ。このまま惨めに終わっていくのなら、早く死にたい。
これ以上歳をとって醜くなる前にさっさと死にたい。
これでもまだ誇りを捨てないでおこうという気概が自分に残っていることに少し驚いた。なんでだろう。今の時点で相当終わってるのに。わからない。何気に自尊心がまだ少しは残ってるのかもしれない。俺がまだ高校生なら、もう少し生きていようと思えたのに。もうあの頃には戻れないし、もう完全に取り返しがつかない。全てにおいて終わってる。どうせ人は死ぬんだから、死ぬタイミングは自分で決めたい。自分の納得の行くタイミング、死に方で死にたい。小汚い死に方はしたくない。死ぬなら景色のいいビルの屋上で飛び降り自殺。そう決めてるんだ。こんなに死にたいのに、死にたいはずなのに、死ぬのが怖い。人間の本能というものが本当に憎たらしい。
結局「自殺するな」というのはどこまで行っても他人事で、自殺を止める側の自分勝手な考えに過ぎない。当人の苦しみなんて当人以外にはわからないし、止める側の立場上死なれるのは困るという以上の理由はない。社会の混乱を生むからだとか、残された家族が困るからだとか、結局そういう経済的な理由から自殺予防というのは存在する。結局当人の苦しみなんて関係なくて、「金」の問題でしかない。人の命なんて所詮そんなものだ。みんな社会を維持するために限界まで働かされて、老いぼれになって人生を楽しめなくなってからようやく開放される。人間というのは惨めな生き物だ。所詮社会に使い捨てにされるためだけに存在する。
何が言いたいかというと、人間の命は無価値だからいつ死ぬかも自分で決めていいということだ。止めるのは本人の自由を妨害することに他ならない。
自分の内面の話に戻るが、外に出ると不安で不安で仕方ない。特に何もしていないのに、自分がなにか重大な失敗をしてしまったんじゃないかと不安になる。周りが全員敵に見える。バスに乗ると全員俺を邪魔な存在だと思ってる感じがするし、死ねと思われてそうで死にたくなる。この世界のどこにも居場所がないような気がして、家に帰っても喪失感、虚無感でいっぱいになる。歩いててすれ違う人が俺の容姿をみてバカにしているように感じる。変な奴、気持ち悪いやつだと思われてるんだと確信している。所詮どこにも自分の居場所はないし、ただ暇をつぶすためだけのものがあるだけで、オレの心を救ってくれるものはない。宗教などで救われようとする気力もない。ただ薄っぺらい娯楽で、死ぬまでの時間をダラダラと食いつぶしているだけだ。俺の苦しみなんて価値もないし、誰にも見せる気もないから、ただ一人で苦しんでいくだけだ。所詮人間なんてそんなものだろう。みんな救われたいと思っていても、誰かが救ってくれるわけじゃない。そんなに他人は暇じゃない。この苦しみをわかってくれる「何か」が欲しくて、自殺関連のものを読み漁ったりするが、やっぱりどこか自分と違うし、何か足りない。この苦しみを分かち合うコミュニティがあればいいが、だいたいそういうものはネット上では規約違反になり、「漂白」される。死にたい人間の苦しみなど、世の中の決まりを決めている側にとっては、邪魔でしかないということだろう。
所詮幸せも苦しみも全て過ぎ去っていくなら、さっさと無に還ったほうがいい。諸行無常という言葉のとおりだ。生きる意味なんてないんだ。どうせ人間は一生孤独なんだから、死んでしまったほうがいい。こんな空虚で無意味で無価値な人生など、さっさとおわらせてしまったほうがいい。どうせオレ一人死んだところで何も変わらないし。
世の中の「常識側」にいる人間が嫌いだ。常に自分たちは正義で、間違いなんて犯したことはなく、清廉潔白だと言わんばかりの態度が嫌いだ。その他人の苦しみを屁とも思わないその姿勢が嫌いだ。もちろん悪いことをした人間は糾弾されるべきだが、正義側にいたら罵詈雑言を浴びせてもいいとか、嘲笑ってもいい、嫌がらせをしてもいいというのは違う気がする。人はもっと人に優しく有るべきだ。なんでこんなに人間社会は憎しみと嘲笑で満ち満ちているんだろう。気持ち悪い。もちろん俺もそういったものに参加して、誰かをバカにすることがある。それをやっているうちはちょっと何かに対しての復讐心のようなものが満たされるが、所詮一時的なものでしかない。それを続けていると、段々とその矛先が自分に向くんじゃないかというのが気になっていって、段々と人間不信が強くなり、苦しくなる。そんな醜いことをやっている自分のことも嫌いになっていく。悪循環だ。だが、なかなかやめられない。他人のことを考えていると、自分のことを考えなくて済むから楽なのである。その時だけは苦しみから開放されるのだ。俺はこの自分の癖を、非常に問題だと思っていて、できるだけ早くやめたいが、なかなかやめられない。ゴシップというのは、「何も行動していない」というのが武器になる。なかなかそういった趣味は存在しない。創造的な趣味はだいたい自分が努力していないと駄目だ。創造的な趣味でない場合も、知識が必要になってくる。ゴシップというのは他人から競争することから逃れられる数少ない娯楽なのだ。こんな醜い娯楽はさっさと消えたほうがいいが、社会の構造上消えることはないだろう。そういう人間の醜さも嫌いだ。段々と自分が人間であることが嫌になっていき、自己嫌悪で満たされていく。何にも挑戦する気がない人間は、何も得ることができない。匿名でなにかを書き続けたところで、何も得ることはできないのだ。名前がない投稿は、社会制裁を受ける可能性が低い代わりに、得られるものもない。まさに空気だ。存在する価値がない。人を攻撃したところで、何も得られないのになぜ人は人を攻撃するのか。やっぱり人間の本能なんだろう。争うことで人は社会を構築し、進化させていく。本当に気持ち悪い生き物だ。だが、そうするしか方法が見あたらないのも事実だ。だから人間は滅びたほうがいい。俺が人間を滅ぼす方法を実行できるなら、もうとっくに滅ぼしてるだろう。核爆弾を管理する人間がなぜこういった考えにならずに済んでいるのか、わからない。人間社会はどこまでも空虚で、無価値で、醜いのに。
快楽、喜び、楽しみ、苦しみ、悲しみなど何もかもが過ぎ去っていくなら、すべてのものに価値はない。価値がないから、滅ぼしてしまってもいいだろう。俺はずっと昔からこういう考えで生きてきたが、なかなか同じような考えの人間に遭遇しない。なぜなんだろう。俺も周りにこんなことは言えないが。自分では真に迫っていると思うのだが、どうせ世間から見たら愚かで、頭がおかしいと嘲笑されるだけだ。ニヒリズムと言わておしまいだ。でも、合理的に詰めていったら、そういう結論になると思う。「ニヒリズム」というのがおそらくレッテル張りのために存在するんだと思う。社会にとって良くない考え方は、そうして潰されていくんだと思っている。そういう社会を維持することを結論としていて、それ以外の考えは一切受け付けないという風潮も嫌いだ。結論が先に決まっているから、何を言っても無駄だからだ。とにかく俺はひねくれていて、惨めで馬鹿だから、そういう考え方になるんだろう。こういうことを書いていると、早く死ねと思われるんだろうな。そして死んだら、こういうやつは死んでも仕方ないと片付けられるだろう。結局俺は社会に捨てられた存在だし、社会に貢献する気もない。だいたい社会ってなんなんだ。ただ俺は人間として生まれただけだ。社会の一員になると決めたわけじゃない。だがたしかに社会なしには人が生きていくのは困難だが、社会の重圧に耐えて生きていくのも苦しい。人間は欠陥だらけだ。本当に空虚で惨めだ。社会に属さなくてもどっちみち苦しいんだろう。こういうのを完璧主義というのかもしれない。ひねくれすぎて、自爆しているだけなんだろうな。俺はどのみち満たされることはないんだろう。ただ苦しみながら惨めに死んでいくだけだ。アホくさい。俺は変なところで正義感が強い。他人を馬鹿にしたくない、だからバカにしているやつを許したくない。でも結局それは自分に返ってきて、自分が苦しくなるだけだが。誰かの意思を感じると、それに従いたくないという強い意志が湧いてくる。昔からそうだ。逆張り思考なんだ。だから俺には対して意思がない。自分がない。空虚なのだ。昔からそうだ。他人ありきの考え方しかできない。逆張り思考とはそういうものだ。未だに自分が何をしたいか、どう生きたいのか分からない。ただ嫌なことから逃げているだけだ。俺にはなりたいものもないし、やりたいこともない。空虚な人間なんだ。ただ人の反対をやっているだけで、別に強靭な考えのもと行動しているわけじゃない。だからすぐ自分に自信をなくすし、すぐ途中で諦める。惨めな生き物だな。おれはこのままずっと素直に生きられないんだろうな。何重にもひねくれた思考が俺を苦しめてくる。自分で自分を苦しめているんだ。愚かで馬鹿だが、やめられない。癖になってしまっている。考え方を変えるというのは非常に骨の折れる作業だ。俺はそれを成し遂げられる気がしない。だから俺は一生このままだろう。一生惨めなままなんだろう。このまま醜くなっていくなら、今死にたい。25歳というのは一種の区切りの時だろう。俺はそれまでの時間をダラダラと無駄に生きてしまった。もう取り返しがつかない。早く死にたい。損切りをするなら今だろう。これ以上醜態を晒したところで、惨めなだけだ。愚かなだけだ。やっぱり首を吊って死にたい。自殺といえば首吊りだろう。暗く、おぞましい感じがまさに「自殺」のイメージぴったりだ。飛び降りは少し爽快感がありすぎる。陰湿でジメジメとした感じがほしい。やっぱり首吊りだろう。ただ、首吊りは縄とか、結び方とか、色々面倒なのが玉に瑕だ。飛び降りは高いところから飛び降りるだけだ。これから死ぬというときに、細かいことを考えてられない。やっぱり飛び降りかもしれない。死にたいけど死ぬのが怖い。なんて臆病なんだろう。惨めだ。死にたいのに。この死にたさは本物なのに。外に出ると、空虚で空っぽな感じが加速する。人生に意味がない感じが加速する。誰も俺に興味がなく、みんな俺の命に価値がないと思っているように感じる。透明だ。透明人間だ。限りなく透明に近い存在だ。外に出るのが怖いのは、単純に今の春の空気感が嫌いというのと、それにウキウキしている人間が多い感じがするのが嫌いなのだ。春というのは色々と新しくなる。場所も人間関係も変わる。それがとてつもなく苦痛だ。心が外側に、虚無側に剥がされるような感覚に陥る。昔から、環境が変わるたびに、ひどく精神的ダメージを負っていた。今もだ。俺は環境の変化に敏感で、心が弱い人間なんだろう。生まれつきだから、おそらく治せない。治すとしてもかなり苦労するだろう。この焦燥感に満ち満ちた季節が嫌いだ。非常に気持ち悪い。心が削られていくような感覚に陥って、自分が自分でなくなってしまうんじゃないかと怖くなる。今の自分でさえ不安定なのに、新しい環境にあてられて、更に今の自分が揺れ動いて、消えていってしまうんじゃないかと不安になる。自分というものがハッキリしてないから、自己紹介もうまくできないし、自己PRもうまくできない。新しい環境というのは、俺にとって強風だ。俺はろうそくに灯された弱々しい炎だ。すぐに消えてしまう。消えてもまた炎はつけ直されるが、前の自分に戻りたいという欲求が強く、再び炎が灯っても苦しみは強く残る。前の自分に戻りたいということばかり考えてしまう。俺はいつも過去に生きているんだろう。惨めで愚かだ。だが、前に進むのが怖い。変わるのが怖い。ずっと変わらないでいたい。変わってしまうくらいなら、死にたい。死にたくて仕方ない。もう取り返しがつかないと考えてばかりだ。いつも過去に戻りたいとばかり考えている。最近とかではなく、昔からそうなんだ。小学生の頃は幼稚園に戻りたいと考えていたし、中学生の頃は小学校に戻りたいと考えていた。高校の頃は中学生に戻りたいと考なえていた。大学生の頃は、高校生の頃が苦しかったから、大学生になれて嬉しかったが、大学が苦しくなってくると、小学生の頃に戻りたくなっていった。今も小学生の頃に戻りたい。いい年こいた大人が、何を言っているんだろう。いつまでも過去のことばかり考えて生きているからこうなったんだろうな。今に生きていない。よく、俺は本当にこの世界に生きているんだろうかと不安になる。なにか自分だけ別の世界に生きているかのような、切り離されたかのような感覚に陥る。俺が俺である証明なんてなにもない。とにかく不安感で満ち満ちているんだ。なんでもないようなことにすぐ不安になる。これはもう治すとかいうものではないんだろう。生まれつきの癖のようなものだ。早く死にたい。「死」という絶対的に動かない、固定されたものになりたい。どのみちこの苦痛からは逃れられないんだ。忘れている期間があったとしても、思い出している期間のほうが圧倒的に長い。これで生きていろとなると、中々の生き地獄だ。早く死にたい。不安は人間にとって大切なものだとかいうのをよく見るが、俺にとって不安は苦痛を与えてくる存在でしかない。不安をほんの少ししか感じない人のほうが人生楽しいのは明らかだ。世間から断絶した生き方をしたい。全く他人の顔を伺わずに生きたい。他人という存在は不安を与えてくるほうが多い。人間社会は比較の連続だ。どこまで行っても比較は止まらない。趣味に没頭しようが、比較からは逃れられない。むしろ、趣味こそ比較で苦しみやすい。何かを作り出すと特に比較の対象になる。それ以外でも人間は比較したがる。婚活なんていうのはその極みだ。結局、比べることが人間の本能なんだろう。比べて、比べて、その先にあるのは苦痛だけだ。だからといって勝負を放棄すると、俺みたいに落ちぶれて、何も残らなくなる。なにも持っていないというのは、安心とは程遠い。何も持っていない人間は、環境の変化にとても弱い。真っ先に切り捨てられるとしたら、そういう人間だ。いてもいなくても変わらないどころか、いないほうが都合がいいので、かんたんに切り捨てられる。ゴミ同然だ。早く死にたい。社会のお荷物だという自覚があるからこそ、早く死にたい。人間社会というものがどうでもいいと思っているはずなのに、やはり他人の目というのが強烈に気になってしまう。俺は本当に自分の意志で生きているんだろうか。結局、「社会人とはこうあるべき」という生き方に囚われている気がする。そんなのは俺が一番嫌いなものなのに。不愉快だ。不本意だ。俺は他人の言われるとおりに生きたくないんだ。かといってこうしたいという意志もない。だからただ無能であることに固執している。無能でいれば、他人からどうこう言われないし、他人とあまり比較されることもなくなる。ただ、社会から見放されたゴミとしての扱いになるが。社会のレールから外れると、なにかに挑戦したり、何かを得ようとするのに非常に苦労するはめになる。なにも得る気がない生き方をし続けないといけなくなる。ただ惨めに、無様に底辺を這いつくばって生きる羽目になる。こんな状態から、まともな人間になろうとすること自体が間違いなんだ。何もかも足りていないから、何もかも努力しないといけない。そもそも努力しても補填できない穴もある。アスペがまさにそれだ。コミュニケーションに問題があるのは発達障害だから、どうしようもない。そのどうしようもない穴が、社会で必要不可欠だからとんでもなく苦痛なのだ。どのみちまともになれないなら、死んだほうが早い。俺は根っこから終わっている。それをどうにか隠そうとしたところで、それが露呈するのは時間の問題だ。結局みんな離れていき、誰も残らない。俺には冗談が通じない。馬鹿だからだ。馬鹿だから、面白い話ができない。馬鹿だから、話してて苦痛になる。生きてるだけで邪魔な存在だ。そこにいられると迷惑になる存在だ。馬鹿だから、なにもかもうまく行かない。馬鹿だから、まともに努力できない。ゴミみたいな人生がこのままずっと続くと考えただけで、非常に嫌になる。クラクラする。結局他人に迷惑を掛けるだけで、邪魔にしかならないし、自分も楽しいと思えない。生きてるだけで迷惑だ。邪魔だ。生きてるとどんどん苦しみが積もっていき、呼吸がどんどん苦しくなる。生きれば生きるほど、逃げ場がなくなっていく。段々希望が見えなくなっていくのがよくわかる。待ち受けているのは深い苦しみだ。将来に希望なんてないし、なりたいものもない。もし仮にこのあと頑張ってまともになったところで、別に何かあるわけでもない。俺みたいな人間が受け入れられるとは到底思えない。そもそも他人とコミュニケーションを取るのが怖い。怖いのを乗り越えたところで、アスペは治らない。どっちみち積んでるのだ。俺が誰かに求められるなんていうのは、結局幻想でしかない。俺はどこに行っても迷惑なだけの存在なのだ。邪魔でうっとおしくて、いるだけで空気が悪くなって、気を使わせてしまう。わかってはいるが、どうすればいいんだ?コミュニケーションというものが俺にはわからない。人間社会がコミュニケーションを重要視する以上、俺みたいなのははじき出されるだけだ。俺みたいな人間は一生孤独に生きていくしかないんだろう。ゴミみたいな人生だ。ただ、時間を浪費するだけの無意味で無 Permalink | 記事への反応(1) | 03:08
ある日、川で洗濯をしていたおばあさんは、大きな桃を見つけました。
「わあ、なんて立派な桃なの!これは食べてみなくちゃ!」
と言って、桃を持ち帰りました。おじいさんが帰ってきて、桃を切ろうとしたとき、中から赤ちゃんが飛び出してきました。
「おやおや、桃から赤ちゃんが出てきたぞ!これは神様のお恵みだな!」
と喜んだおじいさんとおばあさんは、桃太郎と名付けて育てました。桃太郎はすくすくと成長し、やがて立派な青年になりました。
ある日、桃太郎はおじいさんとおばあさんに言いました。
「おじいさん、おばあさん、私は鬼ヶ島に行って、鬼たちを退治してきます。鬼たちは人々を苦しめている悪いやつらです。私は正義の味方ですから、鬼たちに立ち向かわなくてはなりません。」
と言って、おにぎりを持って旅立ちました。途中で出会った犬、雉、猿におにぎりを分け与えて仲間にしました。犬は元々警察犬だったので、嗅覚が鋭く、雉は元々アイドルだったので、歌が上手く、猿は元々サーカスの芸人だったので、身体が柔らかく、それぞれに特技がありました。
やがて、桃太郎たちは鬼ヶ島に到着しました。鬼ヶ島は、鬼たちが建てた巨大なカジノでした。鬼たちは人々をカジノに誘い込んで、金や財産を奪っていました。鬼たちは元々政治家や官僚や経営者だったので、権力や金に飽くことがなく、人々を騙していました。
桃太郎は勇敢にもカジノに乗り込みましたが、そこで待っていたのは、鬼のボスである鬼王でした。鬼王は元々国の首相だったので、巧みな話術で桃太郎を誘惑しました。
「桃太郎よ、君はなぜ鬼たちを退治しようとするのか?鬼たちは悪いことをしているのではない。人々に夢と希望と楽しみを与えているのだ。君も一緒になって、このカジノで遊びませんか?君には何でも与えよう。金も名声も女も。君の望むものは何でもだ。」
と言って、桃太郎に高級なスーツや車や時計や女性を見せました。桃太郎は鬼王の言葉に心を動かされましたが、仲間の犬、雉、猿が励ましてくれました。
「桃太郎さん、鬼王の言うことにだまされちゃだめですよ。鬼王は人々を幸せにしているんじゃなくて、不幸にしているんです。鬼王のカジノで遊んだ人たちは、金も財産も家族も友人も失って、絶望して自殺したり犯罪に走ったりしています。鬼王は人々の夢や希望や楽しみを奪って、自分のものにしているんです。桃太郎さんは正義の味方ですから、鬼王に立ち向かわなくてはなりません。」
と言って、桃太郎に現実の姿を見せました。桃太郎は鬼王の嘘に気づき、仲間とともに鬼王に戦いを挑みました。桃太郎は剣で、犬は牙で、雉は羽で、猿は手足で、鬼王に攻撃しました。鬼王は桃太郎たちの攻撃をかわしながら、カジノのスロットマシンやルーレットやポーカーで反撃しました。激しい戦いの末、桃太郎は鬼王の胸に一突きにして倒しました。鬼王は倒れながら言いました。
「桃太郎よ、君はなぜ鬼たちを退治したのか?鬼たちは人々に夢と希望と楽しみを与えていたのだ。君はそれを奪って、人々をつまらない現実に追いやったのだ。君は正義の味方ではない。君は人々の敵だ。」
と言って、息絶えました。桃太郎は鬼王の言葉に疑問を感じましたが、仲間の犬、雉、猿が祝福してくれました。
「桃太郎さん、やりましたね!鬼王を倒して、人々を鬼たちの魔の手から救ってくれました。桃太郎さんは正義の味方ですから、人々は感謝しています。桃太郎さんは英雄ですよ。」
と言って、桃太郎に拍手をしました。桃太郎は仲間の言葉に安心し、鬼たちの奪った金や財産を人々に返して、おじいさんとおばあさんのもとに帰りました。おじいさんとおばあさんは桃太郎の帰りを待っていて、喜んで迎えました。
「桃太郎、おかえりなさい。鬼たちを退治してくれてありがとう。君は本当に立派な子だ。これからも元気で、正義の味方でいてね。」
と言って、桃太郎に抱きつきました。桃太郎はおじいさんとおばあさんに感謝し、仲間の犬、雉、猿とともに幸せに暮らしました。
桃太郎はおじいさんとおばあさんと仲間の犬、雉、猿とともに幸せに暮らしていましたが、ある日、突然、警察がやってきました。警察は桃太郎に手錠をかけて、連行しようとしました。
と言って、桃太郎を引きずりました。桃太郎は驚いて抵抗しましたが、警察は聞く耳を持ちませんでした。おじいさんとおばあさんは桃太郎を助けようとしましたが、警察に押しのけられました。
「桃太郎、どうしてこんなことになったの?鬼王を殺したなんて、本当なの?」
と言って、涙を流しました。桃太郎はおじいさんとおばあさんに言いました。
「おじいさん、おばあさん、私は鬼王を殺したのではありません。私は正義の味方ですから、鬼王に戦いを挑んだのです。鬼王は人々を苦しめていた悪いやつですから、退治しなくてはならなかったのです。私は無実です。信じてください。」
と言って、訴えました。しかし、警察は桃太郎の言葉を無視して、車に押し込めました。桃太郎は仲間の犬、雉、猿に助けを求めましたが、彼らは桃太郎の顔を見ると、にやりと笑って言いました。
「桃太郎さん、ごめんなさいね。私たちは実は資本家の工作員でした。鬼王は私たちの敵でしたから、あなたを利用して鬼王を倒そうとしたのです。あなたは鬼王の言葉にだまされなかったのは残念でしたが、私たちはあなたに現実の姿を見せて、鬼王に戦いを挑ませたのです。あなたは私たちの思惑通りに鬼王を倒してくれました。ありがとう。」
と言って、桃太郎を裏切りました。桃太郎は犬、雉、猿の言葉に愕然としましたが、彼らは桃太郎に言いました。
「桃太郎さん、あなたは正義の味方だと思っていましたが、実は人々の敵でした。鬼王は人々に夢と希望と楽しみを与えていたのです。あなたはそれを奪って、人々をつまらない現実に追いやったのです。あなたは鬼王を殺した罪で、死刑になります。さようなら。」
と言って、桃太郎を見捨てました。桃太郎は犬、雉、猿の言葉に混乱しましたが、警察は桃太郎を連れ去りました。桃太郎は裁判で有罪判決を受けて、死刑になりました。おじいさんとおばあさんは桃太郎の無実を訴えましたが、誰も聞いてくれませんでした。犬、雉、猿は資本家のもとに戻りました。資本家は犬、雉、猿に言いました。
「よくやった。鬼王を倒して、私たちの利権を守ってくれた。これで鬼ヶ島のカジノは私たちのものだ。私たちは人々をカジノに誘い込んで、金や財産を奪って、私たちの懐を肥やすのだ。私たちは夢と希望と楽しみを与えるのではなく、奪うのだ。私たちは悪いことをしているのではない。私たちは正義の味方だ。」
と言って、笑いました。犬、雉、猿も笑いました。そして、彼らは幸せに暮らしました。
資本家たちは鬼ヶ島のカジノを手に入れて、喜んでいましたが、すぐに問題が起きました。資本家たちはそれぞれが自分の欲に駆られて、カジノの利益や権力を独占しようとしました。資本家たちは互いに裏切りや妨害や暗殺を繰り返しました。資本家たちは工作員である犬、雉、猿をも利用しました。犬、雉、猿は資本家たちの命令に従って、他の資本家や工作員を攻撃しました。犬、雉、猿は自分たちの特技を生かして、様々な手段で敵を倒しました。犬は嗅覚で、雉は歌で、猿は身体で、敵を翻弄しました。
やがて、資本家たちは数が減って、最後に残ったのは一人だけでした。その資本家は最も強くて、最もずるくて、最も欲深い資本家でした。その資本家は犬、雉、猿に言いました。
「よくやった。他の資本家たちを倒して、私のためにカジノを守ってくれた。これでカジノは私一人のものだ。私は人々をカジノに誘い込んで、金や財産を奪って、私一人の懐を肥やすのだ。私は夢と希望と楽しみを与えるのではなく、奪うのだ。私は悪いことをしているのではない。私は正義の味方だ。」
と言って、笑いました。犬、雉、猿も笑いました。しかし、その笑顔はすぐに消えました。その資本家は犬、雉、猿に言いました。
「しかし、私はもうあなたたちのことは必要ない。あなたたちは私の邪魔になるだけだ。だから、あなたたちは死んでくれ。」
と言って、銃を取り出して、犬、雉、猿に向けて引き金を引きました。犬、雉、猿は驚いて逃げようとしましたが、間に合いませんでした。犬、雉、猿は銃弾に倒れて、血を流しました。その資本家は犬、雉、猿に言いました。
「さようなら。あなたたちは私にとっては道具に過ぎなかった。あなたたちは私の利益のために使われただけだ。あなたたちは正義の味方ではない。あなたたちは人々の敵だ。」
と言って、踏みつけました。その資本家は一人でカジノに入りました。その資本家は一人でカジノで遊びました。その資本家は一人でカジノで笑いました。その資本家は一人でカジノで死にました。幸せに死にました。
最後に生き残った資本家の名前はロスチャイルドという名前でした。
ロスチャイルドは一人でカジノで死にましたが、彼の死は世界に知られませんでした。彼の子孫たちは彼の死を隠して、カジノの経営を引き継ぎました。ロスチャイルドの子孫たちは彼と同じくらい強くて、ずるくて、欲深い資本家でした。ロスチャイルドの子孫たちはカジノを拡大して、世界中に支店を作りました。ロスチャイルドの子孫たちは人々をカジノに誘い込んで、金や財産を奪って、自分たちの懐を肥やしました。ロスチャイルドの子孫たちは夢と希望と楽しみを与えるのではなく、奪いました。ロスチャイルドの子孫たちは悪いことをしているのではないと思っていました。ロスチャイルドの子孫たちは正義の味方だと思っていました。
桃太郎は死刑になりましたが、彼の死は世界に知られました。彼の死は人々に衝撃を与えました。彼の死は人々に怒りを燃やしました。彼の死は人々に反抗の意志を芽生えさせました。桃太郎にはスイカ太郎という弟がいました。スイカ太郎は桃太郎の死を知って、悲しみました。スイカ太郎は桃太郎の死を知って、怒りました。スイカ太郎は桃太郎の死を知って、決意しました。スイカ太郎は桃太郎の意思を受け継いで、ロスチャイルドの子孫たちに戦いを挑むことを誓いました。スイカ太郎は桃太郎の仇であるロスチャイルドの子孫たちを倒すことを誓いました。スイカ太郎は桃太郎の夢である人々の幸せを守ることを誓いました。
スイカ太郎は旅に出ました。途中で出会った牛、鹿、兎におにぎりを分け与えて仲間にしました。牛は元々農家の労働者だったので、力が強く、鹿は元々森の番人だったので、視力が良く、兎は元々魔法使いだったので、魔法が使える、それぞれに特技がありました。
やがて、スイカ太郎たちはロスチャイルドの本拠地であるカジノに到着しました。カジノは、ロスチャイルドの子孫たちが建てた巨大なビルでした。ロスチャイルドの子孫たちは人々をカジノに誘い込んで、金や財産を奪っていました。ロスチャイルドの子孫たちは元々政治家や官僚や経営者だったので、権力や金に飽くことがなく、人々を騙していました。
スイカ太郎は勇敢にもカジノに乗り込みましたが、そこで待っていたのは、ロスチャイルドの子孫のボスであるロスチャイルド・ジュニアでした。ロスチャイルド・ジュニアは元々国の大統領だったので、威圧的な話術でスイカ太郎を脅しました。
「スイカ太郎よ、君はなぜ私たちに戦いを挑むのか?私たちは人々に夢と希望と楽しみを与えているのだ。君も一緒になって、このカジノで遊びませんか?君には何でも与えよう。金も名声も女も。君の望むものは何でもだ。」
と言って、スイカ太郎に高級なスーツや車や時計や女性を見せました。スイカ太郎はロスチャイルド・ジュニアの言葉に心を動かされませんでした。仲間の牛、鹿、兎が励ましてくれました。
「スイカ太郎さん、ロスチャイルド・ジュニアの言うことにだまされちゃだめですよ。ロスチャイルド・ジュニアは人々を幸せにしているんじゃなくて、不幸にしているんです。ロスチャイルド・ジュニアのカジノで遊んだ人たちは、金も財産も家族も友人も失って、絶望して自殺したり犯罪に走ったりしています。ロスチャイルド・ジュニアは人々の夢や希望や楽しみを奪って、自分のものにしているんです。スイカ太郎さんは正義の味方ですから、ロスチャイルド・ジュニアに立ち向かわなくてはなりません。」
と言って、スイカ太郎に現実の姿を見せました。スイカ太郎はロスチャイルド・ジュニアの嘘に気づき、仲間とともにロスチャイルド・ジュニアに戦いを挑みました。スイカ太郎は剣で、牛は角で、鹿は角で、兎は魔法で、ロスチャイルド・ジュニアに攻撃しました。ロスチャイルド・ジュニアはスイカ太郎たちの攻撃をかわしながら、カジノのスロットマシンやルーレットやポーカーで反撃しました。激しい戦いの末、スイカ太郎はロスチャイルド・ジュニアの胸に一突きにして倒しました。ロスチャイルド・ジュニアは倒れながら言いました。
「スイカ太郎よ、君はなぜ私たちを倒したのか?私たちは人々に夢と希望と楽しみを与えていたのだ。君はそれを
君はそれを奪って、人々をつまらない現実に追いやったのだ。君は正義の味方ではない。君は人々の敵だ。」
と言って、息絶えました。スイカ太郎はロスチャイルド・ジュニアの言葉に疑問を感じましたが、仲間の牛、鹿、兎が祝福してくれました。
「スイカ太郎さん、やりましたね!ロスチャイルド・ジュニアを倒して、人々をロスチャイルドの子孫たちの魔の手から救ってくれました。スイカ太郎さんは正義の味方ですから、人々は感謝しています。スイカ太郎さんは英雄ですよ。」
と言って、スイカ太郎に拍手をしました。スイカ太郎は仲間の言葉に安心し、ロスチャイルドの子孫たちの奪った金や財産を人々に返して、おじいさんとおばあさんのもとに帰りました。おじいさんとおばあさんはスイカ太郎の帰りを待っていて、喜んで迎えました。
「スイカ太郎、おかえりなさい。ロスチャイルドの子孫たちを倒してくれてありがとう。君は本当に立派な子だ。これからも元気で、正義の味方でいてね。」
と言って、スイカ太郎に抱きつきました。スイカ太郎はおじいさんとおばあさんに感謝し、仲間の牛、鹿、兎とともに幸せに暮らしました。めでたしめでたし。
「弱者男性版フェミニストやるわ」と発奮するキミが被害を受けてたかは知らないが、かつて萌えオタクの領域を中心に、フェミニストによる焼畑が行われてたんだよ。公共の広告がどうの、性的強調がどうの、性的消費するな、などなど…。
萌えに興じる同好のオタクたちは、フェミニスト連中の炎に怯えた。
表現の自由の戦士を知ってるなら聞いたことがあるだろう。ニーメラーの詩を。広告表現だけだからと甘んじていれば、コンビニを焼き、書店を焼き、最後にはネットさえもクリーンにしてしまうかも知れない。萌えエロを知らない次のオタク世代は、ゾーニングで闇に追いやられた夢の、その存在さえも気付かないのだから、当然汚らわしいものとして扱うようになる。そしていつか、萌えは消える。
2、3年前は毎月のように戦々恐々としていたのに。これは、実は、ひとえに一人の士のおかげなんだ。彼が勇気を出して全力で戦ってくれたおかげで、世間は反省し始めた。いにしえから続く女性差別から女性を守る正義の使者たるフェミニストは、絶対に正しいのか、と。いつの間にか彼女らの暴走を許してしまっているのでは、と。時を同じくして、いくつかのフェミの失態になる事件が起こり、現在の小康状態に至る。
すべては敵から身を守るために、必要なことだった。おそらくキミは知らないだろうが、忘れてしまうほど昔にある事件があり、一時期オタクは邪悪な魑魅魍魎として社会から見られていたんだ。ウソではない。本当のことだ。俺は正直あの時代のことは悪夢だと思って早く忘れたい。だけど、状況次第では再び暗雲が空を覆うかもしれない。今、生成AIが爆発的に進歩している。それについては俺の仲間内でも賛否両論があるし、普通に戦争状態なのだが、何にしてもコンテンツは大きく前進するだろう。しかし例えば架空のロリ絵などは、大手サイトでも扱いが揺れている。リアル過ぎる少女の絵は、実在被害者を参考にした恐れがあるから禁止だそうだ。馬鹿馬鹿しいロジックだが、サイト運営の苦労もわかる。
思い出してほしい、かつての非モテ、続いてキモくてカネのおじさん、今で言う弱者男性は、フェミに対抗するために俺たちアンチフェミが作り上げてきた概念だったろう。フェミ連中は、自分らのロジックを自分たちには適用しないダブルスタンダード女郎どもだ! 奴らは嘯く。
おそらくキミも聞いたことがあるだろう。フェミの結束力に叶う相手はいないと知っていながら、それを言うのだから、本当に強かな連中だと思う。だから俺らはフェミのロジックを適用しながらも、差別から救われない便宜的なペルソナをぶち上げる必要があった。フェミの欺瞞を浮き彫りにするために。救われる差別者を決めるのはロジックではなく実は「可哀想ランキング」なのだと。見た目で可哀想に思えないキモいおじさんたちを救えるような、聖者の論理ではない、すべてはそれを世間に示すため。
実在の弱者男性の存在は知っているし、俺らとて見過ごしてるわけではない。彼らを救おうとするキミの意思は立派だと思う。
現状、これがどこにもない。はてな匿名ダイアリー内に確保するつもりだ。協力よろしく。
だがな、その「恋愛における差別」とかいう概念は到底受け入れるわけにはいかないぞ。どうせダブルスタンダードのそしりを逃れるために男女対称にして、
・男は女性の年齢が少し高いくらいで不合理に排除しないとか、・ルックスを理由に排除しないよう努めるとか、・オッパイのデカさで選ぶのは差別とか、
……そういう性の不自由を男にも強いる気だろ?
キミら弱者男性はそりゃいいよ、選択肢がそもそも無いのだろうから。いいからハローワークに行ってくれ。仕事があるなら空いた時間でバイトでもしろ。収入的には食いつなげてるが、性的に不自由なら、………萌えを享受しろ。性的消費の罪悪感に遠慮することはない、表現の自由がそこにあるのだから。頼むから「恋愛における差別」とかいう怖ろしい概念を発明するな。実在してる誰にも迷惑をかけずに、性を自由に謳歌できる人生を楽しめ。
ChatGPTに、3つの立場からコメントを作ってもらいました。
この文章を読むと、筆者が自分の家庭生活に対する寂しさや辛さを率直に打ち明けているように感じます。夫婦関係での触れ合いの不足が彼らにとって心の穴を開けており、その空白を埋める方法が見つからずに苦しんでいる様子が伝わってきます。彼らは自分たちの状況に対して深く考え、なぜ夫婦同士でのスキンシップが難しいのか、なぜ他の家族との触れ合いは受け入れられるのに、配偶者とのそれが避けられるのかと疑問に感じています。この状況は彼らにとって心の苦しみを引き起こしており、ただ「一人の時間」だけでは満足できず、「二人の時間」を求めているように思えます。この状況から抜け出すために、他人の意見や経験談を求めている様子が伝わります。彼らの悩みに寄り添い、このような状況を打開するヒントや解決策を提供したいと思います。
筆者の文章からは、自分の夫婦関係に対する不満や寂しさ、そして相手に求める期待が強く感じられます。しかし、他者の期待や自己の欲求を相手に押し付けることで、自分の問題を解決しようとしているようにも思えます。夫婦関係は相互の尊重とコミュニケーションが必要ですが、筆者は相手に自分の欲求を押し付けることで満足を求めているようにも受け取れます。また、相手を評価する基準や他の家族との比較を通じて、自分の不満を相手に求めることが、冷たさや不満足感を生んでいる可能性があります。このような問題は、双方のコミュニケーションや妥協が必要です。批判的な側面からは、自己中心的な要求に対する認識が求められるでしょう。
筆者の文章は、夫婦関係における触れ合いの不足についての複雑な心情を率直に述べています。彼らは家族や自分自身に対して、なぜ配偶者との触れ合いが難しいのか、他の家族とのそれとの違いに疑問を抱いています。一方で、「一人の時間」の重要性も認識しており、そのバランスを見つけることに苦慮しています。彼らの気持ちは理解できますが、この問題は単純な解決策ではなく、夫婦関係や個々のニーズに合わせたコミュニケーションの改善が求められます。また、他の夫婦との比較や「大人だけの時間」についての考察もありますが、それぞれの夫婦関係やライフスタイルは異なるため、一般化することは難しいでしょう。この問題には相手とのコミュニケーションや相互理解が必要であり、時には専門家の助言も有益かもしれません。
実はそもそもリベラルってワードを左のヤバイ人達がリベラルって言葉をロンダリングしてしきりに使っていたと思っていた。そしてSNSで特定層をブロックしまくってみて気づいたんだけど、しきりにそのへん発信してる層って滅茶苦茶偏ってる。よそのエコチェンはさんざ批判するのに、自分たちのことは省みないからSNSとかでエコチェン発症したあげく、自分達の活動をwokeって分脈で虚飾してまた昔見たいに暴れてるってイメージあるんだけど……
結局のところ、パーティー券の裏金問題は有権者が自民党に安心感を与えすぎたのが遠因で、 第一義に自民党の当事者が悪いのは当然 だが甘やかした有権者にも責任がある。
とは言え「そうでしたっけ?うふふ」に代表される公約を屁とも思っていない立憲民主党が政権をとったところで元々老人向けの政策並べてる上にクリンチかましてくる共産党とべったりでは円高放置のボロボロの経済政策で日本が沈む。立憲民主党自身が認めるように 安倍政権が支持されたのは民主党政権と立憲民主党がダメダメ過ぎたからに他ならない 。
そこで維新と国民民主。批判しかできない立憲民主と異なり、自分たちの主張を曲げずに前に進める点が決定的に異なる。自民党が政権持ってても問題ないが政権交代できる党がいてある程度プレッシャーをかけないと今回のような腐敗が起こる。だから維新か国民民主なのである。 有権者からすでに見放された立憲民主党では自民党のプレッシャーにならない 。この2つの党こそが再発防止の鍵を握る。次の選挙で維新と国民民主を躍進させて対抗勢力を確保するのが有権者の責任である。
フェミニズムとBLは切っても切れない関係にあるのでBL論を書いた本には大抵言及されている。
腐女子は自分たちは不快な表現をする人間なので嫌がらせをされたりセクハラをされるのも当然で、徹底的に隠れるべきという規範を内面化していたため、外に向かって表現をするわきまえない腐女子を激しく攻撃していた。
だからフェミニストは男オタクからの嫌がらせに対してというより、それに屈して内ゲバを繰り返す腐女子に対して表現の自由を説いた。
同時にフェミニストはBLを抑圧された女性が解放されるための代償行為と位置付け、好き勝手に分析されラベリングされたと感じた腐女子からの反発は激しかった。
• エロい何かを見る
• 性的に興奮する
この二つしかない。
性的に見るとか見ないとかを調整できるわけじゃねー。
調整できると思う。
でなければセクシーな女性が不意に目に入った途端、自動的にエロがる生き物が男性、ってことになる。エロ目線で見ようとしてるからこそ興奮するのでは?
ディズニーCEO、近年の作品が“偏り過ぎていた”と認める 「一番は楽しませること」「目的を見失っていた」 - ねとらぼ
https://l.pg1x.com/vbz869sE8631KBpz8
だがな。歴史と伝統(リベサヨコミー共が大嫌いなもの)に「なかったもの(ポリコレ)」を乗せるんだったら「ちゃんと面白くしろ」ってこと。
これまで大して出てきてもいねぇ女子供マイノリティ共が「俺たちは社会正義(笑)だから英雄!」なんて幼稚園のお遊戯でもやらねぇ「理のない」話なんか作って「何がおもしれーんだよ?」だよ。
まぁ、そもそも(笑) 社会正義(笑)なんて新しい価値観が「歴史と伝統」っていう「時間を積み重ねることでしか作れない権威」に勝てる道理がねぇんだからヒステリーでウォッシュ(笑)しかねぇのは「知ってた」よ(笑)
リベサヨコミーが「歴史と伝統」っていう権威が大嫌いな理由は「自分たちが新しいこと」そして「ただあるだけで敬意と尊敬を払われる権威に勝てない」ことを知っているし、それをひっくり返す手段は「自責点(ワインスタインみたいなバカの登場)」しかねぇからだよな。
新参者のオマエラが非難・批判なんて「オマエが言うな!(笑)」って言われるだけだろ雑魚。
リベサヨコミー共の「本丸」が「歴史と伝統という権威の破壊・失墜・ウォッシュによる〝その権威そのものの簒奪〟」っていうのは「知ってた(笑)」事案だから取り繕いとかしてんじゃねぇよ、と声を大にして言いたい。
そして「そんな無駄なことしてんじゃねぇよ、雑魚」と強く言いたい。
コンテンツならまず「他人の褌で相撲を取らず、自分たちの作り出す面白さで戦え」よ。マジで。簒奪してエンパワー(笑)とか。まんまダークサイドじゃねぇか(笑)
好きなものを仕事にした所で取引先との確執が消えるわけじゃない。
良く分からずに知ったかする人間への苛立ちや、自分たちでマスクデータにした情報をこちらが知らないことを何度も説明されてようやく気づく間抜けへの殺意、もしこれが好きなものを仕事にしたとして許せたとは思えない。
それなりに知識がつき拘りが増えるに連れ、仕事の中で些細な苛立ちに過ぎないものにやたらと激昂しそうになることが増えてきた。
就職するのに必死にであまり興味がない分野に入ったおかげで、「まあゆーてどうでもいいよな」と割り切れるから耐えられているが自分の詳しいことだったらどうだったんだろうか。
たとえば、オタクの街のオタクショップの店員として働くオタクがお気に入りの百合アニメの服を着て出勤した日、ふとこう言われるのさ「いい服だな。ラブライブだろ」って、耐えられるんだろうか?
1日なら、1回なら、耐えられるかも知れない。
だが毎日何十回もそういうことが起きたら爆発するかも知れない。
ふとそう思うことがある。
異次元フェス アイドルマスター(ハート)ラブライブ!歌合戦DAY1を見た!!!!11111
推しのVtuberが公式アンバサダー勤め、ごく最近ラブライブ!サンシャイン!!を視聴する切っ掛けになった津島 善子(ヨハネ!)が宣伝隊長を務めてることになったので、物凄く興味はあったが物凄く稼ぎが少ないためにチケットを買うのを昨日まで躊躇していた。
それでもフェス開催記念番組見たら脳が異次元に飛ばされた。推しの曲を別のキャラがカバーしたり(うぉおおって汚い声出た)フェスのテーマを歌ったりして、気分が盛り上がって勢いで配信チケット二日分購入、もう躊躇は無い。
配信を再生して東京ドームのデカい舞台とデカいスクリーンが映し出される。設営撤去の光景が頭をよぎる。
歌合戦は本当に良かった。
ラブライブ!サンシャイン!!のAqoursしか知らないから初めて聞く曲ばかりで、アニメキャラの名前しか覚えてないからキャストの名前が表示されても誰だか分らなかった。
名前と顔を知ってる方は顔出しでテレビ番組をやっていた上坂すみれさん、邪神ちゃんの鈴木愛奈さん、隔週でヘブバン情報局に出演している前川涼子さん、トウカイテイオーのMachicoさんだけ。
そんな”にわか”状態でもアイドルたちのパフォーマンが心を殴る、何が起きてるのかわからないのに、すげぇアイドルすげえぇぇぇ!!!!!それしか言えねぇ!!
途中ソロ曲があって驚いたし!俺も会場のファンたちと一緒に声を上げて光る棒を振り上げたかった!!実家だから無理だけどな!!!
アンバサダーの二人にも役目があった(二人とも頭から角がはえてるw)。東京ドームのスクリーンに推しが映って不思議な気持ちに。よかったね、ラプ様。今年は本当に大活躍、大躍進で嬉しいいいです!!
大興奮で視聴を進めてあっという間に最後の挨拶に。たくさんのアイドルから3人が選ばれて、その最後がラブライブ!サンシャイン!!のその人だった。一番大きな声を張り上げて観客に呼びかける、その瞬間頭がスパークしてバラバラだった記憶が一つに繋がった。
あれ?俺この人知ってる??ラブライブ!サンシャイン!!を見始める前に声を聴いたことがある気がするぞ!?????
今でもプレイしているゲーム、ヘブンバーンズレッドのあの人だ!Anniversaryの朗読で姿を見ているのに、関西弁で声の出し方も髪型も違うから全然今まで気が付かなかったよ、伊波杏樹さんだったんだね!!!!おれおぼえた!!!
脳が焼けて呆然自失のまま、ライブは全体曲に突入。全体曲って集大成みたいな感じでいいよね。曲を聴きながら自然に涙が出た。泣きながら今日までの事を思い返した
今まで意識的にアイドルコンテンツは避けてきた。体を壊すまで10年ぐらい続けたライブ会場の設営撤去バイトを思い出すから。キツくて何度も倒れた。それでも就ける仕事がないからやめられない。
アイドルマスターの会場もラブライブの会場も作ったことがある。
他にもたくさんの会場を作って興味よりも恨みのような感情を持つようになった。長時間の肉体労働で「バイト」呼ばわりされて名前を呼ばれることもないし、やりがいもなくただ毎日辛いだけ。人間扱いはされない、作った舞台の上に立つ人たちも自分たちような有象無象の事なんて気に留めて無いだろうなと。
今思えばただの逆恨みだし自分の境遇とアイドルは何の関係もなかったのに。
https://dime.jp/genre/1370121/
意識が変わった切っ掛けは上の記事紹介されているVTuber、彼女はアイドルオタクを自称しテンション高くアイドルについて語るアイドルだった。今年に入って何度もステージに立つ彼女を見続けてアイドルが好きになり、推しの概念を知る
全体曲が終わり、ステージから誰もいなくなった。もっと異次元に居たかったなぁ
手を振りながらやり切った表情で去ってくアイドルたちを見て自分のして来た事に意義があった確信した。淀んだ心が少しだけ心輝いた気がする。
チケット買って本当に良かった。
あっ、DAY2が
俺は氏んだ