はてなキーワード: 無造作とは
晴れてるのに膝までの長靴を履いて、子供が着るみたいなフードの目の部分が透明の黄色いレインコートを着て、まあここまではゆめかわ?とかあえてのファッションで済むかもしれないが、極めつけは大量の千円札や万札が無造作に詰め込まれたピンクの可愛いイラストが描いてある透明のビニール袋を4つくらい体からぶら下げていた。
あまりの無防備さにびっくりしたが、やばいのは見た目だけではなかった。
中年女性は振込用紙のようなものを持ってきていたのだが、その用紙では振り込みができないらしいのだった。
そしてコンビニの若い店員さんに大声&タメ口で「えーじゃあここ来た意味ないじゃん、使えなー!えーいいよ!しょうがないけど私自分でやるからさ!ここの連絡先言って!」と言っていた。
若い店員は大変申し訳ありませんがこちらでは連絡先は分かりかねます…と謝っていたがそれが気に入らないようでまた怒鳴っていた。「えーじゃあ、あんたたち何にもできないんじゃん!えー、使えなー!」
使えなー!が口癖とおぼしきその女性は一通り店員を罵りながら店を出ていった。正直見ているこちらまでイライラした。どういう人生を送ったら店員にあんなに横柄になれるんだろうか?
水も使えないし木も無造作には生えてないし詰みだな
また擬似相関がTogetterで上がっていたりしたので書いておく。
各自ググれ (ttps://minna-shigaku.com/category18/entry31.html ttp://jspt.japanpt.or.jp/ebpt_glossary/causation.html ttps://www.kansai-td.co.jp/corporate/energy/electromagnetic-wave/research/epidemiological-research/evaluation-criteria.html ttps://jeaweb.jp/glossary/glossary015.html など)
" 因果関係を判定する条件として,米国公衆衛生局長諮問委員会の5基準(1964)が提唱されています.
1.Consistency(一致性):異なる地域・時代・状況でも同一のことが起こる
2.Strength(強固性):原因と結果の関連が強い
3.Specificity(特異性):原因と結果の間に特定の対応関係がある(原因が変われば結果も変わる)
4.Temporality(時間性):原因が結果よりも時間的に先行する
5.Coherence(整合性):既知の知識体系と矛盾しない
"
"
関連の密接性
関連が強いほど因果関係がある。曝露が多いほど疾病の発生率が高い。
関連の普遍性
関連の特異性
疾病があれば曝露があり、曝露があれば予測される率でその疾病が発生すること。
関連の時間性
関連の論理性
もちろん提唱されているだけであり、これが因果関係の判断基準のすべてではない。
”Bradford Hillの判定基準(1965)もあります.
6.Biological gradient(生物学的用量反応勾配):定量的な反応が起こる(量-反応関係)
7.Plausibility(尤もらしさ):生物学的に矛盾なく説明できる
8.Experiment(実験的証拠):関連を支持する実験的研究が存在する
9.Analogy(類似性):既存の類似した関連により裏付けられる”
というわけで次、エビデンス
ttps://www.ims.u-tokyo.ac.jp/imsut/jp/about/press/page_00042.html
新型コロナウイルスの空気伝播に対するマスクの防御効果 東京大学医科学研究所(このページ発表年月日が明記されていない。多分2020年10月)
や
ttps://academic.oup.com/cid/article/71/16/2139/5848814
Surgical Mask Partition Reduces the Risk of Noncontact Transmission in a Golden Syrian Hamster Model for Coronavirus Disease 2019 (COVID-19)
「を以て”新型コロナの対処法のうちマスクにはエビデンスがある”からマスクしないやつは非国民と言っている」輩はいるか?いないよな?
RCTされていないからじゃないぜ。
なぜならエビデンスは基本的に人間に関するデータである必要があるからだ。
つまり、森永のミルクを飲んだら病気になる、チッソの廃液が流されている水俣の海でとれた魚を食べると病気になる
ミルクに何の毒が入っているか確定されていない、は治療・対策を推奨するエビデンスを止める理由にはならない。
ヘリコバクターピロリに感染していると胃がんになる、ヘリコバクターピロリを除菌すると胃がんにならない>だから除菌をしよう
ピロリ菌を感染させた動物の粘膜細胞にがん遺伝子が発現するのが証明されていない>ピロリ菌除菌療法を進めない
東大のマネキン実験も、ハムスターの実験も 「患者データに基づかない」論文でしかない。
それをもって推奨する対策はその時点では 最低ランクのレベルⅥ 専門委員会や専門家個人の意見。
密でない屋外でウレタンマスクをしている人をエビデンスガーで警察できる代物じゃないってことだ。
全くエビデンスがないわけではない
https://news.yahoo.co.jp/byline/kutsunasatoshi/20200723-00189530
忽那医師のこれは
エビデンスに結びつく症例報告(クラスV?)とハムスター実験、ex vivo実験を並べている。
注意深く読めばハムスター実験がエビデンスであるとは述べていない。
著者はわかっているが読者が解っていないと思わず無造作に書いてしまっているか、読者を騙そうとして書いているかどちらかだろう(多分前者)。
”8.Experiment(実験的証拠):関連を支持する実験的研究が存在する”
として因果関係の判定に寄与する貴重な実験ではあるが、【エビデンス】ではない
ちなみに忽那医師らが当初、マスクは推奨しないといっていた、そして今でも限定的な言い方でしかマスク装着推奨をしないのは
”5.Coherence(整合性):既知の知識体系と矛盾しない”
”インフルエンザにマスクは有効ではない” という既知の知識体系を援用した結果であり、今でもなおその既知の知識体系に寄り添っている。
ファウチが初期にマスクを推奨しなかったのが「真に必要な医療現場にマスクが不足しそうだからそれを避けるため」というのは完全に信用する気にはならないんだよな。
ある日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨雲レーダーを見ていた。
広い門の下には、この男のほか誰もいない。ただ所々ペンキの剥げた、大きな円柱にドローンが一機突き刺さっている。
羅生門が朱雀大路にある以上は、この男のほかにも、雨やみを待つSIerやプログラマーがもう二三人はありそうなものである。
それが、この男のほかには誰もいない。
何故かと云うと、この二三年、京都には地震とかDDoS攻撃とかEMPとかドローン攻撃とか云う災がつづいて起こった。
そこで洛中のさびれ方は一通りではない。旧記によると、サーバーやEVを打ち砕いて、その貴金属が使われたり充電池がそのままだったりする金属の塊を建築資材として売っていたと云う事である。
洛中がその始末であるから、羅生門の修理などは元より誰も捨てて顧る者がなかった。するとその荒れ果てたのをよい事にして、
営業職が棲む、意地悪な顧客が棲む。とうとうしまいには、引き取り手のないSEを、この門へ持って来て棄てて行くと云う習慣さえ出来た。
そこで、日の目が見えなくなると、誰でも気味を悪がってこの門の近所へは足ぶみをしない事になってしまったのである。
その代わりまたドローンがどこからか、たくさん集まって来た。昼間見ると、そのドローンが何機となく輪を描いて、高い電波塔のまわりを
ブンブン言いながら飛びまわっている。ことに門の上の空が、夕焼けであかくなる時には、それがゴマをまいたようにハッキリ見えた。
ドローンはもちろん、門の上にいるSEをせっつきに来るのである。_______もっとも今日はあまり仕事がないのか一機も見えない。
ただ、所々崩れかかった、そうしてその崩れ目に長い草のはえた石段の上に、墜落したドローンの残骸が落ちているのが見える。
下人は七段ある石段の一番上の段に、何日も洗っていないスーツの尻を据えて、右の頬に出来た大きな人面瘡を気にしながら、ぼんやり雨のふるのを眺めていた。
作者はさっき「下人が雨雲レーダーを見ていた」と書いた。しかし、下人は雨雲がどうでも格別どうしようと云う事はない。ふだんなら、
もちろん会社へ帰る可き筈である。ところがその会社からは、四五日前に暇を出された。前にも書いたように、当時京都の町は一通り
ならず衰微していた。今この下人が永年、使われていた会社から暇を出されたのも、実はこの衰微の小さな余波にほかならない。
だから「下人が雨雲レーダーを見ていた」と云うよりも「雨に降りこめられた下人が、行き所がなくて途方にくれていた」と云うほうが適当である。その上、今日の空模様も少なからず、この平安朝の下人のSentimentalismに影響した。
申の刻下がり(16時以後)からふり出した雨は、いまだに上がるけしきがない。そこで下人は、何をおいても差当り明日の暮らしをどうにかしようとして____云わばどうにもならない事を、どうにかしようとして、とりとめもない考えを辿りながら、さっきから朱雀大路にふる雨の音を聞くともなく聞いていたのである。
雨は、羅生門をつつんで、遠くからざあっと云う音をあつめて来る。夕闇は次第に空を低くして、見上げると門の屋根が、斜に突き出した甍の先に、重たくうす暗い雲を支えている。
どうにもならない事をどうにかするためには、手段を選んでいる遑(いとま)はない。選んでいれば、高架の下か道端のベンチの上で、餓死するばかりである。選ばないとすれば____下人の考えは、何度も同じ道を低徊(ていかい)した挙げ句に、やっとこの局所へ逢着(ほうちゃく)した。しかしこの「すれば」は、いつまで経っても結局「すれば」であった。下人は手段を選ばないという事を肯定しながらも、この「すれば」のかたをつけるために、当然、その後に来る可き「転売屋になるほかに仕方がない」と云う事を、積極的に肯定するだけの勇気が出ずにいたのである。
下人は、大きなくしゃみをして、それから大儀そうに立ち上がった。夕冷えのする京都は、もうカイロが欲しいほどの寒さである。風は門の柱という柱の間を、夕闇と共に遠慮なく吹き抜ける。円柱に突き刺さっていたドローンも、もうどこかへ吹き飛ばされてしまった。
下人は頸(くび)を縮めながら、カッターシャツに重ねたヨレヨレのジャケットの肩を高くして門のまわりを見まわした。雨風の患(うれえ)のない、人目にかかる惧(おそれ)のない、一晩楽にねられそうな所があれば、そこでともかくも夜を明かそうと思ったからである。
すると、幸い門の上の楼へ上る、幅の狭い、点検用の梯子が眼についた。上なら、人がいたにしてもどうせ疲れ果てて寝ているSEばかりである。下人はそこで、腰にさげた特殊警棒が伸びないように気をつけながら、便所サンダルをはいた足を、その梯子の一番下の段へふみかけた。
それから、何分かの後である。羅生門の楼の上へ出る、幅の狭い梯子の中段に、一人の男が猫のように身を縮めて、息を殺しながら上の様子を窺っていた。楼の上からさす白色光が、かすかに、その男の右の頬をぬらしている。短い髭の中に、赤く膿を持った人面瘡のある頬である。下人は初めから、この上にいる者は寝ているSEとばかり高を括っていた。それが、梯子を二三段上って見ると、上では誰かがスマホライトをとぼして、しかもその灯りをそこここと動かしているらしい。これはその濁った、白い光が隅々に蜘蛛の巣をかけた天井裏に揺れながら映ったので、すぐにそれと知れたのである。この雨の夜に、この羅生門の上で灯をともしているからは、どうせただの者ではない。
下人はヤモリのように足音をぬすんで、やっと急な梯子を一番上の段まで這うようにして上りつめた。そうして体をできるだけ平らにしながら、頸をできるだけ前へ出して、恐る恐る楼の中を覗いて見た。
見ると楼の内には、噂に聞いていた通り何人かのSEが無造作に寝ているが、ライトの光の及ぶ範囲が思ったより狭いので、数は幾つともわからない。ただ、おぼろげながら知れるのは、その中に手ぶらの者とPCを持っている者があるという事である。もちろん、中には女も男もまじっているらしい。そうして、そのSEは皆、それがかつて労働意欲に燃えていた人間だと云う事実さえ疑われるほど、土をこねて造った人形のように、口を開けたり手を延ばしたりして、死んだように床にころがっていた。しかも、肩とか胸とかの高くなっている部分に、ぼんやりした光をうけて、低くなっている部分の影を一層暗くしながら、永久に唖(おし)の如く黙っていた。
下人は、それらのSEの様子に思わず眼を覆った。しかしその手は、次の瞬間にはもう眼を覆うことを忘れていた。ある強い感情が、ほとんどことごとく男の視界を奪ってしまったからだ。
下人の眼は、その時はじめてそのSEの中にうずくまっている人間を見た。桧皮色のジャージを着た、背の低い、痩せた、白髪頭の猿のような老婆である。その老婆は、右の手にライトを灯したスマホを持って、そのSEの一人のPCを覗き込むように眺めていた。腕に抱いている所を見ると、多分ノートパソコンであろう。
下人は、六分の恐怖と四分の好奇心に動かされて、暫時は呼吸をするのさえ忘れていた。旧記の記者の語を借りれば、「えぐいって」と感じたのである。すると老婆は精密ドライバーを取り出して、それから今まで眺めていたノートパソコンに手をかけると、ちょうど猿の親が猿の子のシラミをとるように、そのノートパソコンを分解しはじめた。かなり手慣れているらしい。
電子部品が一個ずつ抜けるのに従って、下人の心からは、恐怖が少しずつ消えていった。そうして、それと同時に、この老婆に対する激しい憎悪が少しずつ動いて来た。____いや、この老婆に対すると云っては語弊があるかも知れない。むしろ、あらゆる悪に対する反感が、一分毎に強さを増して来たのである。この時、誰かがこの下人にさっき門の下でこの男が考えていた、餓死をするか転売屋になるかと云う問題を改めて持ち出したら、おそらく下人は何の未練もなく、餓死を選んだ事であろう。それほどこの男の悪を憎む心は、指数関数的に勢いよく燃え上がり出していたのである。
下人には、なぜ老婆がSEのノートパソコンを分解するかわからなかった。従って、合理的には、それを悪であると一方的に決めることが出来なかった。しかし下人にとっては、この雨の夜に、この羅生門の上で、SE自前のノートパソコンを分解すると云う事が、それだけで既に許すべからざる悪であった。勿論、下人は、さっきまで自分が転売屋になる気でいた事なぞは、とうに忘れていたのである。
そこで下人は、両足に力を入れて、いきなり梯子から上へ飛び上がった。そうして特殊警棒に手をかけながら、大股に老婆の前へ歩み寄った。老婆はマイコンで自作した監視カメラで、事前に下人の動きを見ていたのだが、想定外の行動に飛び上がった。
「どこ行くんじゃワレ!」
下人は、老婆が寝ているSEにつまずきながら、慌てふためいて逃げようとする行く手を塞いで、こう罵った。老婆は、それでも下人をつきのけて行こうとする。下人はまた、それを行かすまいとして、押し戻す。二人はSEの浅い寝息の中で、しばらく無言のまま、つかみ合った。しかし勝敗は初めから分かっている。下人はとうとう老婆の腕をつかんで、無理にそこへねじ倒した。ちょうどケンタッキーフライドチキンの骨のような腕である。
「何しとったんじゃ!云え。云わんとこれやど」
下人は老婆をつき放すと、いきなり特殊警棒を伸ばして、黒くて硬くて長いものをその眼の前へつきつけた。けれども、老婆は黙っている。両手をわなわな震わせて、肩で息を切りながら、眼を、眼球がまぶたの外へ出そうになるほど見開いて、唖のように執拗(しゅうね)く黙っている。これを見ると、下人は初めて明白にこの老婆の生殺与奪の権を自分が握っていると云う事を意識した。そしてこの意識は、今まで煮え滾っていた憎悪の心を、いつの間にか冷ましてしまった。後に残ったのは、ただ、ある仕事をしてそれが納期に間に合った時の、安らかな得意と満足があるばかりである。そこで下人は、老婆を見下しながら、少し声を和らげてこう云った。
「ワシはマッポでもSECOMでもない。今し方この門の下を通りかかった暇なヤツや。せやからお前に縄かけてどうこうしようっちゅう事もない。ただ、今時分この門の上で何をしとったんか、それをワシに話しさえすればええんや」
すると老婆は、見開いていた眼を一層大きくして、じっとその下人の顔を見守った。まぶたの赤くなった二階幹事長のような、鋭い眼で見たのである。それから皺でほとんど鼻と一つになった唇を、何か物でも噛んでいるように動かした。細い喉で、尖った喉仏の動いているのが見える。その時、その喉からカエルの鳴くような声が、喘ぎ喘ぎ、下人の耳へ伝わって来た。
「このパソコンのCPUを抜いてな、型番とコア数を偽装してな、転売しようと思うたのじゃ」
下人は、老婆の答が存外平凡なのに失望した。そうして失望すると同時に、また前の憎悪が、冷ややかな侮蔑とともに心の中へ入って来た。するとその気色が先方へも通じたのであろう。老婆は片手にまだ抜き取ったCPUを(素手で)持ったなり、蟇(ひき)のつぶやくような声で、口ごもりながらこんな事を云った。
「なるほどな。SEからPCを奪うという事は、何ぼう悪いことかも知れぬ。じゃが、ここにいるSE達は皆、そのくらいな事をされてもいい人間ばかりだぞよ。現にわしが今、CPUを奪った女などはな、コメントも無いし改行もない滅茶苦茶なコードを、仕様通りに動けばよいと言って書いておったわ。それもよ、この女の書くコードは早いし安いし仕様通りに動くと云うて、ケチな経営者どもが買っていたそうな。ワシは、この女のした事が悪いとは思うていぬ。せねば餓死をするのじゃて、仕方がなくする事じゃわいの。じゃて、その仕方がない事をよく知っているこの女は、大方わしのする事も大目に見てくれるであろ」
老婆は大体こんな意味の事を云った。CPUを盗られた女は、よほど疲れているのかこんな騒ぎでもノートパソコンを抱いたまま、全く起きる気配がない。
下人は、特殊警棒を畳んで、その柄を左の手で握りながら、冷然としてこの話を聞いていた。勿論、右の手では、赤く頬に膿を持った大きな人面瘡を気にしながら、聞いているのである。しかし、これを聞いている中に、下人の心にはある勇気が生まれて来た。それはさっき門の下で、この男には欠けていた勇気である。そうして、またさっきこの門の上へ上ってこの老婆を捕まえた時の勇気とは、全然、反対な方向へ動こうとする勇気である。下人は、餓死をするか転売屋になるかに迷わなかったばかりではない。その時のこの男の心持ちから云えば、餓死などという事は、ほとんど考える事さえ出来ないほど、意識の外へ追い出されていた。
「ほーん、そうか」
老婆の話が終わると、下人は嘲るような声で念を押した。そうして、一足前へ出ると、不意に右の手を人面瘡から離して、老婆の襟上をつかみながら、噛み付くようにこう云った。
「ほな、ワシが転売をしようと恨むまいな。ワシもそうしなければ、餓死をする体なのだ」
下人はすばやく、老婆からCPUを奪い取った。それから、足にしがみつこうとする老婆をジャイアントスイングで投げ飛ばした。梯子の口までは、僅かに五歩を数えるばかりである。下人は剥ぎ取ったCPUを胸ポケットに入れ、床に置いてあった老婆の精密ドライバーセットも手に持ってまたたく間に稲妻のごとく急な梯子を夜の底へとかけ降りた。
しばらく死んだように倒れていた老婆が体を起こしたのは、それから間もなくの事である。老婆はつぶやくような、うめくような声を立てながら、まだライトがついているスマホの光を頼りに、梯子の口まで這って行った。そうして、そこから短い白髪をさかさまにして、門の下を覗き込んだ。外には、ただ黒洞々たる夜があるばかりである。
スマホをクッションやベッドなどに無造作に投げる人って多くね。
ひどいのになると喫茶店の木のテーブルの上に無造作に投げるのもいる。
いや、あんた、あんたの身につけてるもので1番高価なもんやで?
そういうひと多いでしょ?しかも多くの人はまだローン支払い中やで?
それなのに無造作に投げる。そしてちょいちょい落としたりしくじって床に転がったりもする。
なんであんなことするの?あんたの大事な情報もギュウギュウにつまってるんだぞ?
と、ふと、スマホに対する態度って配偶者に対する態度と同じとかそういう心理テスト的なこともありうるんじゃないかと思ったり。
ただまあいまみたiPadのCMでも高そうなヘッドホンを床にボーン投げたりしてるし、
ハリウッド映画でも膝においてパチパチやってたMacBookを無造作に閉じて座ってたソファに投げつけてるシーンとかけっこうあるしなあ。
バカみたいな話だが、特にゴキに関してCM等で怖がり不快に思うよう洗脳されている気がしてどうしても恐怖を克服したいと思い学生時代駆除業者でアルバイトをしたことがある。
一般家庭ではなく外食や商業施設テナントの害虫調査と駆除、主にネズミとゴキがターゲットだ。
最初はトリモチについた数多のネズミが身体は千切れボロボロになっても必死に生きようとする無残な姿とそれを躊躇なくふたつに畳んでブスブス足で潰しながら歩いていく先輩の姿に何度も目を背けたくなった。
私達が担当するような商業テナントのゴキは小型のチャバネが多く一般家庭で見られる大型のクロゴキは屋内で大繁殖していることはほとんどない。
それでもとあるスポーツクラブの屋外練習場でクロゴキが大量繁殖しナイター営業している時に床を縦横無尽にクロゴキが行き交う様は凄まじかったし、見えているのか見えていないのか無造作に練習道具やタオルの入ったバッグを置いてナイターのスポーツに汗を流す利用者の姿は不思議だった。
(この時は従来の毒エサに加え、大元になっていた屋外の空調室外機器類への徹底的な殺虫が行われた)
基本的には小さなゴキホイホイみたいな調査キットで生息地を絞り込み毒エサで駆除をする。
ゴキというのは本当に頭が良くて、同じところで仲間が駆除されたら基本的にはもうそこには近づかないし住処を変える。
同じ毒エサも何度も繰り返し使用し続けると目に見えて効果が下がる。
このいたちごっこのサイクルを緩やかに間延びさせ生息数をできるだけ少数で抑え続けるのがプロの業者の真髄である。
最初は恐怖を克服するつもりではじめたアルバイトだったが、何度もネズミやゴキを駆除しているうちに芽生えたのは彼らへのある種の畏敬の念だった。
ネズミもゴキも今この瞬間を生きるために本当に一生懸命考え抜いて生きている。
例えば彼らがひと刺しで人を死に至らしめる毒針や毒牙を持っていたら現代文明の中で生きながらえただろうか。
彼らはヒトが作り上げた文明の中でそのおこぼれをもらうことに適応する形に進化した。
動物園の動物にヒトの残飯をあげたら腹を壊すが、小型化し群衆を形成し悪食で生き延びる事ができる野生の強さはまさに生きることそのものである。
私はあの数年間のアルバイトで一般人の何千倍、もしかしたらそれ以上ネズミとゴキを殺した。
父や祖母祖父のお墓参りに行く時など、ふと「私はきっと天国には行けないだろうな」と思ったりもする。
子供達もいっちょ前にゴキを怖がるのだが、スパーンと新聞で引っ叩き(出来るだけ潰れないように加減する)そのまま触覚を掴んでポイと窓の外に放り投げる私。
という息子の声を聞くと、こういう事で母の威厳を保つのはちょっと想定外だったんだけどなぁと苦笑いしてしまう。
ちなみにゴキと対峙した時に一番大切な心構えはむやみに恐れないことだ。
恐怖が伝わった時、ゴキは決死の覚悟であなたに向かったり、飛んで逃げようとする。
「殺る時はできるだけ素早く静かにな」
バイト帰りに洗面所で髪を解くとパラパラと死んだチャバネが落ちてきて血の気が引いた事は忘れられないが、ゴキとネズミのおかげで少しだけ強くなった母ちゃんがここにいる。
それっぽいことだけを呟いてる人に絞ってフォロー(4人)してるのに
必ずと言っていいほど、「達観してる俺カッケー」みたいなツイートが1度は流れてきてげんなりする
1年以上フォローしてるのは定期的にお猫様の写真挙げてる人だけ。この人はそれ以外のことを流さないから、たまに流れてくる写真が楽しみ
俺がツイッター上で興味あるのはゲームの話やお猫様の写真であって他は興味ねえんだよなぁ
たまに日常の話題が流れてくる分には人となりが分かるし、そんなに目くじら立てるほどでもないけど
如何に俺様が立派な人間かみたいな自分語りされても黙ってブロック行きにしかならねえんだよなぁ
無造作に「今日はこのゲームで遊んだ!」とか「ここ難しい!」って他愛もないツイートをほどほどに見たいのであって、ツイッターに自己啓発なんて一切求めてないから俺の目に届かないようにやってくれ
ていうかそんなもんツイッターに書いてる時間があるなら早寝早起きで資格勉強でもやれ。参考書3冊と問題集3冊と過去問が積み上がってると自己啓発なんて微塵もやろうと思わないから
茅野市民館の本の背が退色するとかで騒いでるけどさ
どうも納得行かないんだよな。
紙の本なんて消耗品やん。
あえて「日本人は」って言うけど
日本人、消耗品をめちゃくちゃ大事に大事にしまっておいて死蔵してほぼ誰も使わないみたいなムーブ好きすぎ。
いや、そういう扱いしたほうが良い本があるのはわかるよ?
でもそれより、有限の寿命の中で沢山の人間の目に届くのが役目っていうこともあるだろ?
出羽守扱いされるかもしれんけど
ヨーロッパだとペーパーバックの本とか、めちゃめちゃ扱い雑に、無造作に公共圏においてあったりする。
でもそうすることでより多くの人間が本に触れられるっていう面はある。
例えば(本を読んだ人数)=(本の耐用年数)*(本を手に取る機会)を最大化したいと思えば
小学5年の終わりに転入した小学校から、ほぼ持ち上がりで中学校に進学した(公立だったけど、地域的に小学校、中学校は他の学校と学区が被っていなかった)。
もちろん、転入段階でできあがってた仲良しグループもクラスカーストも全部持ち上がり。
けど、中学に上がる少し前に、カースト上位の女子が多くいる進学塾に入塾して、さらに(前年度まで大会の成績が良かったため半分内心目当てで)彼女たちと同じ部活に入部した私は、運よくカースト上位の子たちと仲良くなれた。
カースト最上位のA子(詳細はわからないけど、どうも地主の娘らしい)がオタク趣味だったこともあって、中学1年は非常に充実していた。
途中でクラスに入った私立からの転入生のBとも仲良くなって、あの頃のクラスはカーストが崩れかけていた。
そして、同じクラスになったカースト上位の子から無視されるようになったし、小学校から仲良くしてくれてた子からも、ハブられていた(思い込みかとも思っていたけど、卒業時に謝られたから本当にハブられていたらしい)。
家庭の事情について相談しなかったからかもしれない。けど、そもそも引っ越しの時点で予感はあったし、そのころから一人でゆっくり受け入れていて、私にとってはわざわざ相談するようなことじゃなかった。
私は一気にカースト最下位に転落して、そこは私一人しかいない場所だった。その時点で、正直人間不信は半分出来上がっていた。
そして、部活と塾にもその余波はやってくる。
小学校からカースト上位の仲良しグループにいたC子が、別の小学校から入学してきたD子と仲違いした(らしい)のだが、彼女の親友だったE子や仲良しグループのA子たちが、D子を支持するようになったのだ。
C子は部活に来なくなり、やがて教室にも塾にも、学校にも来なくなってしまった。
いつもC子と一緒にいたA子やE子は、いつの間にか、当たり前のようにD子と行動を共にするようになっていた。
しばらくして、C子は別室登校を始めた。
同じクラスの元仲良しグループのメンバーで、唯一彼女のことを心配していたFちゃんだけは受け入れて、それ以外の生徒と会うことは拒絶していたらしい。
私は、正直自分のことに精一杯だったけど、いつの間にかC子の机が物置みたいになっているのにはさすがに憤りを覚えて、毎日放課後、彼女の机の中に無造作に入れられた物を取り出して、教卓の上に置くようにしていた。
けど、ある日、「C子ってずるいよね。うちらが必死になって勉強してる間、ずっと保健室で手芸してるんだよ」と、E子がA子やBと、教室で何の悪気もなく話しているのを聞いてしまった。
つい数か月前まであんなに仲良くしていたのに、とか、誰のせいでC子がそんなことになったと思ってるんだ、とか、思うことは山ほどあったけど、とっさに言葉が出てこなかったし、声を出したら泣いてしまいそうだった。
あの時、私の代わりに「そういうこと言うのやめろよ」と止めてくれた男子のことは、今でもヒーローだと思っている。
E子みたいな人がいる反面、彼のように思う人がいる。私も、少しでも力になりたい、そう思って、私は保健室のC子に充てて、ルーズリーフいっぱいに手紙を書いた。預けたのはFちゃんだったか保険の先生だったかは覚えてないけど。
一方、私はなぜかA子たちと同じクラスに入れられていた。ついに先生にも見捨てられたかと思ったけど、差し伸べられた手をとらなかったこともあったし、まぁ仕方ないと思って受け入れた。
中3のときは、受験学年だからか、成績がトップだった私は、いつしかみんなから頼られるようになっていた。人に勉強を教える楽しさを知ったのもこの年だ。
大人になったのか、それともみんなが私に頼っているからなのか、私の目からはカーストが見えなくなった。
卒業間際に私は色んな人に謝られた。
「助けてあげられなくてごめんね」
「ひどいことしてごめんね」
中には、私が音楽の先生に推して採用されて、卒業式に歌った曲の歌詞になぞらえて、すごく遠回しな謝罪をしてくる子もいた。
けど、私が本当に謝って、理由を説明してほしかったA子やBからは何も言葉はなかった。
A子が幹部を務める成人式の後の同窓会に誘われたり、成人式でA子から声をかけられたりしたので、もしかしたら彼女の中ではあの中2の一年間は書き換えられているのかもしれない。
私は、この中学3年間で、「女の子同士の付き合い」というものを一切信用できなくなった。
育ちの良い子が多かったので、わかりやすくて派手な「イジメ」はなかったけど、その分みんな傷つきやすくて、やっていたことも陰湿だったんじゃないかと思う。
けど、目に見える行動ができなくても、気に掛けている人は絶対にいる、ということも学んだ。
傍から見ても明確な理由がないのに、なぜかハブられている人がいたら、大人だってそう簡単に行動を起こせない。カースト意識に縛られた中学生の女の子ならなおさらだ。
15歳のとき、ベル・フックスの「フェミニズムはみんなのもの―情熱の政治学」を読み、それが私のバイブルになった。そこに書いてあったフェミニズムの説明を読んだだけで、それが世界を変えるとわかった。地元の図書館にかろうじてあったフェミニズム書籍コーナーに潜り込むや否や、 牟田一恵や田嶋陽子の世界に浸りこんだ。私が進学先の大学を選んだ理由は、その時すでにTwitterで名を馳せていた北村紗衣先生が教鞭をとっていたからだし、ジェンダー論の授業があるからだった。大学を出て最初についた仕事では社内セクハラの撲滅に従事し、プライベートでもTwitterや消費者運動を通じて、男女差別と戦ってきた。ほぼ十年、このために使った時間は知れない。
何が言いたいかというと、フェミニストを名乗れる人間がいるとしたらそれは自分だということ。九州の田舎で育った孤独なティーンエイジャーにとって、フェミニストの冒険譚を読むのは震えんばかりの興奮だったし、目を見開かされる思いだった。周囲にこんな人は見た事がなかったけれど、ネットを通して自分と似たような人が他にいるとわかって希望が生まれた。大学に通い始めてからは、フェミニストでいることにひねくれたプライドをもつ人を他にも何人か発見した。けれどそれはまだ珍しかったし、社会の主流な考え方からはすっかり外れていた。だから、なぜせっかくそれなりの企業に就職した自分が、社内恋愛の末の寿退社ではなく、男受けの悪い反セクハラ活動に血道を上げているのか、誰も本当にはわかっていなかったし、私はフェミニストだと言うと、ほとんどの人が眉をしかめた。月日を経て、私は同じ志を持つ仲間の輪を少しずつ広げた。職場、教育、そしてマンガアニメなどの趣味の世界。それぞれの世界で活動する私たちを、フェミニズムが互いに引き寄せた。そんな仲間の助けがあったから生き延びる事が出来た。けれど仲間を探すのは難しかった。私たちはまだ、社会の中で傍流だったのだ。
でもこの十年、状況は様変わりした。映画やドラマはフェミニズムに則って制作されるのが当たり前になった。アナ雪や逃げ恥を通じフェミニズムは恥ずかしがらずに誰もが楽しめるものになった。
そして、たぶん一番重要なのは、今やフェミニストはカネを、そして権力や地位をも持っているということだろう。世界で一番大きな、そして一番勢い良く成長している企業は女性に配慮し、女性を雇っている。日本の大企業や省庁も女性差別をやめ敬意を示すようになった。強い女性はかっこいい。私たちは勝ったのだ。
そして、そこに問題がある。私たちは未だに自分達が反乱軍かのように振る舞っているけれど、今やフェミニズムは帝国だ。十年前までは私たちはおおむね正しく、批判は的外れで間違っていた。だから他人に耳を貸さない私たちの習性は深く根付いている。それどころか、フェミニストに向けられた批判をスクラムを組んでやりかえすのが絆を深めるためのちょっとしあ儀式になってすらいる。今までは誰かの批判を攻撃するのも、かつては大したことではなかった。一握りのフェミニズムに親和的な人以外にそうした論考が読まれる事はなったからだ。そんな内なる声も、今や大きな問題になっている。フェミニストが本当の権力を振りかざしているからだ。キズナアイやラブライブのポスターへの攻撃、宇崎ちゃんのポスターにまつわる献血ボイコットは、フェミニストの私にとって恥ずべき出来事だった。けれど恐ろしいのは、その暴力的な振る舞いが、フェミニスト界隈に常在する何かと同じ感じがすることだ。それでいいという空気があることだ。ただ驚くしかない。その空気はあっという間に、誰かが大切に育ててきた営みを、無造作に叩き潰すほどに膨張した。ファミリーマートのような主流の大企業ですら、私たちの突きつけた理不尽な圧力に巻き込まれている。今や私たちは、「自分を反乱軍だと思い込んでる帝国軍」なのだ。
だから「日本は未だ後進的な男性社会で、私たちフェミニストはそれに反抗するレジスタンスであり、いつの日か勝利するだろう」みたいな、フェミニスト界隈の通奏低音はすごく違う感じがする。たしかに私たち女性は、かつては家父長制にいじめられたり、大企業に無視されたりしていた。でもそれは、私たちにカネも力も無かった頃の話だ。今や私たちには権力があり、日本の資本主義社会は私たちを標的にするのではなく仲間とみなすのにやぶさかでない。20年前の男性社会は私たちをお茶くみや家庭に押し込めようとしていたけれど、今や私たちが仕事に学術に家庭に多くの選択肢を持つ一方で、文句も言わずに黙々と経済的な後ろ盾になってくれている。
フェミニズムの愛すべき要素の一つに、共感や連帯を大切にするという価値観がある。誰かが泣いている時、証拠や事実検証は、大抵役に立たない。いの一番に、「私もあなたのために怒りたい」と表明し、それを実行しなければ社会は変わらないのだと、痛い目に遭いながら学んできた。これはフェミニズム界隈を通底するルールだ。誰かが被害を表明すれば、ただちに飛んでいって守り合う。客観的なデータに基づく結論は、提示するのに時間がかかるし決まって歯切れが悪い。だからスピードと攻撃力が高い「お前は差別主義者だ。私は傷ついた」と言い切る思い切りが習慣になる。
なのに、フェミニストが自分たちの共感の埒外にある人々へ示す冷酷さには、思わず目を丸くしてしまう。知りうるほとんど全てのフェミニストが、自分より年収の低い男性や、性的魅力に乏しくオタク文化に逃げている(と見なしている)男性を嘲笑し、あるいはそういった言説を窘めもしない。逆に高学歴、高収入な男性や、容姿に優れるなど性的魅力が豊富なタイプは、あらゆるレトリックを用いて養護し、倫理的なお墨付きを与える。収入、学歴、容姿。共感で駆動するフェミニズムは、これら男性のステータスに対してどこまでもプリミティブな接し方をする界隈だ。フェミニズムが世間を席巻し、プレイヤーの絶対数が増えるにつれ状況は悪くなっている。
解決策を知っているというつもりはない。けれどどこかで何かが間違っていると意識することはできる。現に私より若い世代では、女性たちの間ですらフェミニズムへの忌避感が広がっていると感じている。しかし私たち現役フェミニストは、フェミニズムを忌避する女性に対してどんな態度をとってきただろう?ここで口にするのも憚られる、卑劣な言葉を投げつけては、仲間内での連帯を高めてきたのではないか?こう想像するのはおかしな事だろうか――この深く根付いたクソっぷりが、若い世代を遠ざけているのでは?
あたりを見回すと、私たちが育ててきたフェミニズムが、自由への革命から威圧的な権力へと姿を変えたのがわかる。私たちは確かに素晴らしいものを生み出した。けれど私たちは不注意で、普通の人々を傷つけないための安全策を怠った。私たちは不注意で、未来のフェミニストたる多くの若者たちを成長の各段階で追い出してしまった。私たちは不注意で、世界をアップデートしたとき失うものがある人を気にかけなかった。いい目を見る人のことをだけを考えていた。(だいたい自分達のような人々だ。)
古い世代の連中より高潔でありたいと、いつも願っていた。けれど蓋を開けてみれば、力不足ゆえに無害なだけだった。体に染み付いた被害者意識は、私たちがいじめ行為に至る際の非道な言い訳と成り果てた。
だから言いたい。フェミニズムは終わりにしよう。フェミニズムは素晴らしいことを色々してきたけれど、今のフェミニズムは歪んだ復讐心と暴力衝動に駆り立てられる怪物だ。まともな答えは、これを終わらせてもっと良い何かを作り出すことしかない。
もっと良い何かとはどんなものだろう?私たちが攻撃したラブライブには希望を感じる。私たちが巻き込むのに失敗した若い世代の女性をはじめから取り込んでいるからだ。どんな未来が来るにせよ、私たちは良き人物になることを重視する必要がある。今までよりずっと。
弱さへの憎悪と、強いものへの阿諛追従は終わらせなければいけない。これはフェミニズムとあまりにくっつきすぎている。だからこの星からフェミニズムを消し去るしか、確かな方法はないと思う。
今朝2度寝したときの夢。
たしか求人のチラシに載っていて応募した。経験不問だった。電話すると「なかなか人が集まらず困っていた。すぐ来てくれ」と言われ、その通りGoogleマップで住所を調べ赴いた。
そこは三丁目の夕日テイストな古い商店だった。1階は商店、2階は居住スペースになっているらしい。ただ、商店はもう営業しておらず、すっからかんの棚が無造作にあるのみだった。
2階に上がると、しわくちゃの梅干しみたいなお婆さんがいた。どうやら大家さんらしく、浦沢直樹と血縁関係などは無いとのことだった。
そのお婆さんに奥の部屋に案内される。まさしくそこで浦沢直樹は漫画を描いていた。原稿やたくさんの本が散らばる和室だった。今PLUTOを描いていて、早速表紙に消しゴムを掛ける作業を頼まれた。
アシスタントの部屋はどうやら別らしい。手前の部屋の襖を開けると、小太りの青年が必死にベタを塗っていた。これまた昭和な部屋である。
私は空いている机に座り、消しゴムをかけ始めた。部屋の隅にテレビがあり、小さな音量で朝のワイドショーが流れている。
青年がおもむろにそう言う。
私は思わず手元の原稿を見た。PLUTOだ、すげ〜と感激しながら消しゴムを掛ける。
しばらく時間が経って時計を見ると、午後1時すぎだった。急に「そういや今の職場(現実で働いているところ)に辞めるって言ってなかったわ」と思い出す。アシスタント仲間に「すぐ戻ります」と声をかけて出ようとすると、「これ、先生から」とペラっとした付箋を渡された。
内容は覚えていないが、何かの指示だった。浦沢直樹の自画像が添えてある。しかしまあ後で見れば良い。それを机にほっぽって、私は商店を飛び出た。
飛び出て振り返ると、もうそこにあの昭和の商店は無かった。何もない、コンクリートの更地があるだけだった。一瞬の出来事である。
白い看板のような物が立っていて、中学生の男子が2、3人それを読んでいる。後ろから覗き込むと、「浦沢直樹仕事場跡地」と描いてあった。
周りに落書き、というか訪れた人が様々メッセージを書いていた。中学男子は言う。
「へ〜俺んちに20世紀少年あるよ」
「俺んちもなんか鉄腕アトムみたいなやつある」
それはPLUTOだ、そして何話目かの表紙は私が消しゴムを掛けたんだぞ、と口から出かけた時、ああもう幾年も過ぎてしまったんだなと悟った。
あの付箋にいったい何が書かれていたんだっけ、と考えたところで目が覚めた。
不思議な夢だった。
他人のことを云々する前に、まず自分の中で人生観や共同体観、道徳観を確立したほうがいいと思うよ
多くの現代人は宗教とはなにか、共同体とはなにか、価値観を共有するとはどういうことか、みたいなことを勉強せず
それってわからないものに「宗教」ってラベルつけてるだけだよね
そういう人間は、知識のある人間に誘導されると「宗教」にコロッと騙されたりする
「客観的な理由付け」「ダメ」「悪し」みたいな言葉を無造作に使ってるけど
良し悪しの判断基準は何?
ってことを真面目に考えたことないでしょ
まずそこからでは
そもそも宗教とはなにか、宗教がなぜ発生するのかについてもいろいろ学問的な言説はあるし
現代人が大好きな「科学的な分析」も日々アップデートされている
あと、増田に限らず感情、というか快・不快を「説明」してほしいみたいなことを言い出すやつ多いけど
それって大抵の場合、理屈があるわけじゃなくて単なる反応にすぎないわけで