はてなキーワード: 車輪とは
学生 「はい。救世主です。弾丸よりも速い無敵の車輪ペインキラーです。」
面接官「・・・で、そのペインキラーは当社において働くうえで何のメリットがあるとお考えですか?」
面接官「いや、当社にはメタルを理解してくるような輩はいません。それに普通のカラオケで耳に危害を加えるのは犯罪ですよね。」
面接官「ふざけないでください。それにセンチネルって何ですか。だいたい・・・」
学生 「誰もが恐れる男です。死の番人とも書きます。名盤背徳の掟に入ってまして、これは・・・」
面接官「聞いてません。帰って下さい。」
学生 「あれあれ?怒らせていいんですか?歌いますよ。ペインキラー。」
童貞問題の本質はやはりこれしかない。いまだに男に対して、男らしさが求められていること。
だから私は常々言っているのだけれど、世の中の男達は男らしさを思い切って捨ててみればいいのだ。
男女平等を目指す社会が始まって70年が経過しているのに、現在も男らしさの価値観は消えていない。
女性を抑圧する考え方と、男性に過度の責任が負わされる考え方は、車輪の両輪のような関係だからだ。
恋愛や結婚において、男は女をリードしなければならない。結婚指輪を贈るのも男から女に対して。
告白やプロポーズも男から女にすることが求められる。逆に女から男にアプローチすることは、はしたないとみなされる。
もっと言えば、男には女以上の経済力や甲斐性が求められる。これが男性差別だと批判される社会にならないと、男女平等は不可能だ。
「女らしく」「女のくせに」と言う言葉がセクハラになるように、男に男らしさを求めること自体もセクハラになるのだ。
2007年の男女雇用機会均等法改正において、女性から男性に対するセクハラも禁止されている。
童貞いじりしている奴らは、価値観が10年は遅れていると批判されても文句は言えない。
はあちゅうの童貞いじり問題が意外と深刻だった理由もここにある。
はあちゅうの経歴を調べてみたが、慶応大学卒業後に電通に就職している。そして今はオピニオンリーダーの一人として活躍しているらしい。
そもそも男女平等の社会を目指す最前線の一人としてあるべきはあちゅうが、男社会の価値観に染まって童貞いじりをしていた。
これは思った以上に深刻ではないだろうか。
本題に戻ろう。
「なぜ男が女をリードしなければならないのか。なぜ男が女を養わなければいけないのか。」
この記事が人気になっている。
京大ナンバーワン教官が教える「勉強することのホントの意味」 これがミライの授業だ
http://news.livedoor.com/article/detail/13971240/
いろいろ異論があるのだけど、その中でも些細かもしれないがけっこう「ちがうだろ!」と強く思ったところ、ここ。
「昔、中国の田舎に、数学がすごくできる中学生がいました。ある数学の研究者がその子の才能を見抜いて、『君は都会の学校に行って、数学の勉強をするべきだ』とアドバイスしました。しかし、その子の親は『うちで農業を手伝わせます』と進学を止めたのです。
何年かして研究者がその子に再会すると、彼はこう言いました。『先生、僕はすごい発見をしました。この公式を使うと、あらゆる2次方程式が解けるんです』。彼が見せたのは、皆さんが中3で必ず習う『解の公式』でした」
生徒たちがどっと笑う。「ゼロから車輪を再発明する」ようなことは、時間の無駄でしかない。すでに解明されている真理や、かつての人々が見出した知見、発明された技術は、できるだけ効率的に学ぶことが、新しいものを生み出すためには必要なのだ。
実はこの「解の方式の再発見」、自分も中学生の時にやっている。学校の授業がさっぱりわからず、「けど、xに当てはまる数を出せばいいんだろ。絶対もっと楽な方法あるはずだから」と授業も聞かずに真剣に考えてたら、何か手応えのあるのが出てきた。何回使ってみても正解が出る。「オレって天才」と思って数日の間は得意の絶頂にいたんだけど、気がついたらそれって解の公式だったってオチ。
でも、おかげで二次方程式が何なのかが理解できたんだから、自分にとっては無意味とか時間のムダだとか、そんな訳は絶対にない。教師の説明じゃわからなかったところを自分で導き出したのは、とことん貴重な経験だったと思ってる。
解の公式なんてのはしょせんは道具だ。道具としてみたときには、再発明するよりは既にそこにあるものを使ったほうが賢いだろう。再発明はバカのやることだ。
けれど、重要なのは道具が必要なことに気づき、その道具を作り出すことができる能力だ。そういう立場からは、道具そのものに意味を見出すのはバカげている。
ここで笑った高校生たちは、そういうことを教えられずに育ってきたんだろうと思う。車輪は何度でも再発明していい。電話だって再発明できたんだから。
「なんにも悪いことしてないのに」って言い切れる時点でギルティ。男として生まれただけで生物学的に加害性があるって気づいてくれ頼むから。「なにもしない」はマイナスなんだよ。
女性専用の街があったら夜の9時でも買い物に行ける。深夜早朝勤務もできる。なにより、ボーッとしながら散歩ができる。
気を引き締めなくていいんだ、後ろ気にしなくていいんだよ、足音、自転車の車輪の音、バイクの音に振り返らなくていいんだよ。幸せすぎて涙出るね…
女性専用とか男性単独入場禁止の文字を見たときの女性、どう感じるんだと思う?「安心する」んだよ。
泣けてくるだろ。女性は無意識にいつも男性を恐れて安心できてないんだよ。この世界のどこが女尊男卑なんだ
なんで“レイプ犯”だけ嫌いにならないで、男全般嫌いになるかわかる?見分けがつかないからだよ
男性でジェンダーや差別についてまともなこと言ってる人たまに見るけどすげーなーと思う。この国で男に生まれて人間的にまともに育つのって難しいよね。
しかし、車輪自体の歴史などについては、曖昧としたまま、あー、はいはい、既にあるライブラリーや関数を使えって言うプログラマーのアレでしょ。
なんだけど、車輪って、舗装された道路が存在したときに、とてつもなく威力を発揮するとあった。
(まー、鉄道におけるレールのような話か。デコボコ道だと、いまいち車輪付きでも、その便利さを利用しきれないってことだった。キャタピラってもんが、あるが。)
中国やローマの皇帝が、「道」・「道幅」・「水はけの良い道」について規格の統一をさせたってのは歴史上画期的なこととして歴史の教科書書いてあるが、大事みたいだね。
今の日本ならば、アスファルトで舗装された高速道路のような片側二車線の道路と、田舎の砂利道や住宅街の入り組んだ細い道とでの自動車が出せるスピードを考えて見たらいいだろう。
似たようなこと、今、流行のビッグデータとか人工知能・コンピュータの世界に改めて、考えてみたい。
人工知能が利用しやすい形、あるいは、プログラミングがなされやすいフォーマットでの
データ形式で保存されることが、期待されているようだ。
囲碁の世界では、棋譜が残されていて、そこから、人工知能に自己学習をさせた。
適切なフォーマットへと変換された後でだろうが。
(アバウトな理解だけれど、もちろん、始めは人間が教えて、その後に人工知能vs人工知能でも、自己学習をしていたようだが。)
これから、パソコンが理解しやすい形に、データが格納されていくと、
本当に、あっという間に、あらゆる仕事がかわるんだろーなと。
人工知能による翻訳とか期待されているが、これからも、単純作業よりも、少し複雑なルールの仕事は人口知能に置き換わっていくのかーってことを、
経済学の専門家ではないので間違っていれば教えて欲しいのだが。
BIの財源について、多くのシミュレーションでは現行の社会保障費を削って、その分を割り当てるものと仮定されることが多いのだけれど、いろいろ考えてみた結果、実はそんな必要は無いのではないかという結論に至ったので、ちょっと一緒に考えてみて欲しい。
ちなみに結論を先に言っておくと、私はBIの財源には法人税の増税分(および個人事業主に対する所得税の増税分)を充てるのが適切だと思う。
理由は、そうすることで、現行の経済の仕組みをほとんど崩さずに(新たに得をする人も、損をする人も、ほとんど生まずに)BIを導入することが可能になると考えられるからだ。
なぜそんなロジックが成立するのかについては、以下で詳しく説明をしていきたいと思うが、その前にBIを導入する目的について確認しておきたい。
という究極の目的のため、
という施策を行う必要があり、そのための方法としてBIが有用だと考えられることにある。
BIの推進論者の中には、例えば、社会保障の一本化による効率化や、現行の分配システムによる不平等の解消など、上記以外の効用をBIに求めている人もいるかも知れないが、それは私の考えるBIの目的とは異なるので、ここでは考慮しないことにする。
では早速、私の考えるBIの枠組みを説明していきたいと思う。
まず、BIの金額を設定する。ここでは、人間一人が最低限生活するのに月額10万円が必要であると仮定し、それと同等の金額が全国民に一律支給されるものとする。また、BIの導入に合わせて、現行の解雇規制を大幅に緩和する。職を失っても最低限の生活が保証されている以上、企業が好きなときに従業員を解雇しても問題はないという考え方を取り入れる訳だ。
さて次に、とある会社(A社)の給与体系をモデルケースとして設定する。
さて、ここでA社の月あたりの人件費の合計は80万円であるが、BIの開始によって、各従業員は会社以外に国からも現金の支給を受けることになる。
会社は、各従業員の世帯収入がBI導入以前と同等になるよう給与を減額し、その分を法人税(BI税)として国庫に納めることとする。
極端な例を示したため、従業員3の給与が0円なってしまい、これでは従業員3が離職してしまうのではないかという懸念が生まれるかも知れないが、問題はない。
BIの導入によって、国内のあらゆる企業の給与水準は(単身者の場合)10万円ずつ低下しているため、理論上は、(流石に0円では困るが)1円でも給与が発生するならそこにはインセンティブが存在するものと考えられる。
とはいえ、現実には1円で働く人など誰もいないだろう、というツッコミが聞こえてきそうだが、やはり大丈夫だ。問題はない。
なぜなら、実際には「従業員3」の給与は1円よりもずっと多くなることが予想できるからだ。
原資となるのは、解雇規制の撤廃によって可能になったリストラによる余剰人件費である。
A社の場合、例えば月給20万円の「従業員1」を解雇してより安価な人材へと置き換えることによって人件費のムダを省けば、その分の人件費を他の従業員へと割り当てることが可能になる。
現状、企業側の一方的な解雇は労働者に著しい不利益となるため厳しく制限されているし、特に家族を養わなければならない「従業員1」のような人を解雇することは企業倫理的にも難があったが、BIによって扶養家族も含めた世帯の収入が最低限保証されているのであれば、リストラも許容されると考えるのだ。
なお、ここで「解雇規制を導入したからといって企業の生産性が向上するとは限らない」から「余剰人件費が生まれるとは限らない」という主張は当然ロジックとしては成立するものの、今回のシミュレーションにおけるBI導入のそもそもの目的が「解雇規制の撤廃、雇用の流動化」による「日本企業の国際的な競争力向上(生産性向上)」である(上述)以上、その点については既に定義として肯定されていることに注意いただきたい。
(つまり「解雇規制を撤廃すれば生産性が上がる」というのは大前提となる仮定なので、ここでは議論しないよ……ということ)
さて、以上が私の考えるBIプランの大枠であるが、このプランのメリットについて、もう少し詳しく触れておこう。
最初に述べたように、この方法でBIを導入した場合、社会保障の枠組みは、現行の制度に特段大きな変更を加えることなく、そのまま運用することが可能となる。
保険制度や年金制度をBIに統合しようとすると、どうしてもBIへの移行は大掛かりで複雑なものにならざるを得ないし、その過程で必ず、得をする者と損をする者、そして利権が発生する。
現状、様々な面で破綻や不平等が指摘されているこれらの社会保障制度と一本化を行おうとすれば、全方位から圧力が加わってろくな制度にならないであろうことは予想に難くない。
であるならば、いっその事、BIはBIとして独立して導入を図った方が実務の面でも難が少なく、システムが単純な分、透明性も高くなることが期待できるはずだ。
また、そもそもの筋論から言っても、BIの導入によって世帯収入の一部が補填され、それによって企業の人件費の削減が可能となり、その分の増税が可能になるという循環ロジックこそが、最も自然なBIの在り方であるはずだ。
と、ここまで説明してきたが、最後に上記のシミュレーションでは触れなかった細かいケースについても解説を行っておきたいと思う。
まず前提として、今回のシミュレーションでは人間一人が最低限生活するのに必要な金額が月額10万円であると仮定している。
にも関わらず、10万円未満の給与の人が存在するとするならば、その人はBIの導入以前より自活できていないことになる。
例えば、仮に月給5万円の人がいたとして、この人は生活するため必ずどこかから月にもう5万を入手していなければならないということだ。
そこで、ここでは仮に親からの仕送りが5万円あると仮定しよう。
BIが導入された場合、単純に数字を当てはめると以下の通りになる。
本人の給与がマイナスになってしまったので、当然、本人は仕事を辞める選択をするだろう。この場合、困るのは働き手を失った企業の側だが、これは、そもそも人間一人をひと月拘束しておいて、人間がひと月生活するのに必要な金額を支払っていない方に明らかな問題があるケースだ。
BIの導入は、むしろこういったブラック企業を淘汰する役割も果たすといえるのである。
専業主婦やニートに対してもBIは支給される。一見すると、これらの人々はBIの導入によって得をしているようにも見えるが、前述のシミュレーションを見れば分かるように、そもそもこれらの人々は誰かの扶養に入ることで生活を成り立たせている。BIの導入によって稼ぎ手の給与が扶養家族の分も合わせて減少するため、結果として世帯では収支に変動は発生しない。
唯一、生活保護についてはBIと一本化を図る必要があるだろう。もともと生活保護は「健康で文化的な最低限度の生活」を実現する水準……つまりはBI相当額を支給する制度と考えるのが一般的なので、それまで申請しなければ受給できなかったものが、無条件で受給できるようになるというだけの変化が起きるに過ぎない。
無論、財源は理論上、それまでの生活保護の予算で賄うことが可能だ。
単純に「(従業員数+従業員の扶養家族数)×BI金額」で算出する。
企業に算出させると過少申告が起きるかもしれないので、各個人に申告義務を課しても良いかも知れない(BI支給の要件として)。
うちの犬の様子がおかしくなったのは、3年前の秋、私が高校1年生のときだった。
後ろ脚だけがもつれる。ふらつく。地面に脚を擦って歩く。何か、様子がおかしい。その時点でそれなりに年を取っていたこと(当時12歳)、以前子宮系の病気になって九死に一生を得たこともあって病院の先生にもよくその存在を知られていたこともあり、すぐに動物病院へ連れて行った。
というのも我が家には昔、その子と一緒に飼っていて、小学生の頃に白血病で死んでしまったもう一匹のコーギーがいたのだが、異変に気付いていたのに大丈夫だと高をくくってしまったが為に病院へ行くのが遅れてしまったという過去があったからだった。
最初に獣医さんが言ったのは、ヘルニアかもしれない、とのこと。コーギーのような胴長短足犬がヘルニアになりやすいのはよく知られた事実である。実際に、昔読んだ様々なコーギーの飼育本のどれもが、ヘルニアという病気について取り上げていた。発症を防ぐために階段の上り下りはさせない、だとか、そんなようなことが書かれていたことを覚えている。実際に、レントゲン写真を見せつつ説明もしてくれた。
ただ、それと同時にちらっと言われた、別の病気の可能性。現段階では確定できないけれども、もうひとつ「これかもしれない」という病気がある、と、何気なく言われた。後ろ足からどんどん動かなくなっていく病気。ヘルニアと違って痛みはないけれども、だからこそ犬自身は気づかず普段通り歩こうとする。今考えると、あれは変性性脊髄症(DM)のことを言っていたのだろう。
とりあえず当面はヘルニアの疑いとして治療を行っていきましょう、という方針になったが、その後の病気の進行は今考えるとまさしくDMそのものであった。
まず、自力での散歩ができなくなった。後ろ脚が本格的に動かなくなってきても、犬はそれに気づいていない。だから、後ろ脚を引きずって前脚だけで歩こうとする。ちょうど、お座りの姿勢で移動しているような格好になる。そうなると、お腹のあたりが傷ついてしまうため、介助ベルトを使って後ろ脚を持ち上げて歩かせる必要がある。だけどそれはかなり負担で、かつうちの犬はあまりそのベルトで釣り上げられつつ散歩するのを好んでいなかった。もともと散歩が大好きで走り回るのも大好きな子だったから、なおさらだと思う。
またこのころ、排便がうまくできなくなってきた。後ろ脚でふんばることができないからとのことだった。獣医さん曰く、自力で出せないが為に腸の中に便がたまっており、新しい便に押されるようにして出てくるしかないため、コントロールができなくなっていたらしい。
もともと排泄はすべて散歩のときに済ませトイレシートなどは使わないのが常だったので、仕方がなくおむつを履かせることになった。ここでうっかりしていたのが、犬用おむつ。コーギーは例外的だが、ほとんどの犬にはしっぽがついている。そのためおむつにもしっぽを出す穴が付いているのだが、コーギーの場合はそれが仇となった。しっぽがないために、排泄物がその穴から出てきてしまうのだ。結局、赤ちゃん用のおむつの中でもとりわけ大きいサイズのものを着用させる方向に落ち着いた。
また、病気になる前からも誰かが家にいるときは基本的にケージから出してリビングの中を自由に動き回らせていたのだが、病気になり外へ散歩に行けなくなってからはほとんどケージを使わなくなっていった。以前のように階段を昇って行ってしまう心配もなかったし、そこまで部屋の中を動き回らないだろうと思ってのことだった。だが、そのすぐ後に問題に直面することとなった。
脚を擦って歩くと、おむつが脱げてしまう。これではどんなに今のおむつに優秀なポリマーが入っていても意味がない。そう考えた私たちは、仕方なく犬に服を着せてその服とおむつとをガムテープで結ぶことにした。見栄えも何もないが、仕方がない。
本当はうちの犬は服を着るのが嫌いで、幼いころに着せた時には気づいたら自力で脱いでしまっていたのだが、この時ばかりは何の不満げな様子も見せずにいてくれた。その後タンクトップスタイルの服から介護用の多機能ベストのような服を着せるようになっていったのだが、その時も何もなく受け入れてくれた。人間と同じで、犬も年を取ると丸くなるのかな、なんて考えたりもした。
ともあれ、私たち家族も犬自身も、病気とうまいこと付き合いながら、いつも通りの生活を続けていっていた。
そして2年前の初夏、ちょうど私が定期考査を終える頃に、犬が体調を崩して入院した。それと同時に、獣医さんからDMのことを聞かされた。そして、DMにかかっている犬の献体を受け付けている大学がある、ということも聞かされた。現段階ではヘルニアではなくDMの可能性が非常に互いが、この病気は脊髄の病気だから生きている間にその検査を行うことはできないため、除外診断的にしか分からないこと、また今はまだ治療法どころか詳しいメカニズムさえも明らかにされておらず、病気の進行を見守るしかないということ。だからこそ、もしも亡くなったときには献体に協力してあげてほしい。そう、言われた。
私はその時点から亡骸を献体として提供することをある程度は覚悟していたが、家族の思いはもっと複雑だったらしい。今年の春先にようやく意見が固まったぐらいだったのだ。かくいう私も、それが本当に犬にとっても良いことなのか、最初は迷った。もちろん遠い目で見れば、病気が解明されて多くのDM犬が助けられるようになったほうがいいだろう。
だけど、そんなそろばん勘定ではものごとは片付かない。臓器移植云々で色々な意見が出ているのと同じだ。当人の意思を省いた周りの勝手なエゴで、犬に嫌な思いをさせてしまわないか? 何度そう考えたか、分からない。
それと同時に、家の中では車いすの話が持ち上がった。自宅から少し離れたところに、犬用の車いすを取り扱っているところがあるらしい。それを聞きつけてほんの少し後の2年前の7月初旬、本当に車いすを作ってもらうことになった。まだ前脚がまったく動かなくなったわけでもないし、車いすを使えば昔のように走り回ることができて犬も喜ぶだろう、という考えだったそうだ。
車いすを使い始めてすぐは慣れておらずたびたび角にぶつけたり私や家族の足を車輪で轢いて行ったりしたこともあったが(笑)、犬は車いすを気に入ってくれたようだった。昔のように散歩ができることを、何よりもうれしそうにしていた。体力が落ち、徐々に前脚にも力が入らなくなってくるまでずっと、その車いすと共に外を歩き回ったことをよく覚えている。
車いすに乗らなくなって少ししてから、悪い癖がついた。目に留まったものを噛んでボロボロにしてしまう癖だった。それまではほとんどそんなことをする子ではなかったが、動けないことへのストレスがたまっていたのだと思う。新聞に始まり、プラスチック製のかご、障子、畳まで噛むようになった。少し目を離したすきにやられてしまうのでどうしようもなかった。帰ってきたら新聞がバラバラになって床に散乱している、なんてのはしょっちゅうだった。
同じころに、褥瘡が見られるようになった。いわゆる床ずれだ。お腹のあたりを中心に、毛がなくなり、代わりにかさぶたのようなものができていった。とても痛々しく、見ていてもかわいそうだった。せめて早く治るようにと、患部を清潔に保つことを心掛けるしかなかった。
受験勉強で私しか家にいないときは同じ部屋に犬を連れてきて、冷房の効いた部屋にいさせて熱中症を防ぐと共に様子を気にかけつつ勉強する、なんてこともあった。基本的に昼間はずっと寝ているので、そのいびきに少し腹が立ったこともあったが、それもいい思い出だ。
私が高校を卒業し実家を出たころから、呼吸がおかしくなっていった。この頃には胸ではなくお腹で呼吸をするようになっていて、呼吸自体も荒くなったりすることもよくあった。また、それより前ではあるものの、鳴き声も以前のように太いものではなくて、かすれたような声で鳴くようになっていた。
息を引き取る二日前、お水もご飯も摂らなくなった。大好きなおやつやミルクにも興味を示さなくなり、いよいよか、と覚悟した。DMは基本的には食欲の低下は見られない。ただし、終末期を除いて。病院で点滴を打ってもらってから少し食べ物を食べたりもしたそうだが、嫌な予感は当たっていた。次の日の昼、呼吸がおかしくなり、そのまま息を引き取った。
学校からそのまま急いで実家へ帰り、亡骸とようやく対面した。寝ているときの様子とまったく変わらない、いつも通りの表情をしていた。そのとき、以前獣医さんが言っていたことを思い出した。DMは、たとえ進行していても犬自身は痛みを感じない。白血病で亡くなってしまったもう一匹のコーギーは最期のその瞬間以外はずっと苦しそうだったけれど、この子は苦しまずに逝けた。それだけでもずっと幸せだったのかもしれない、と思った。
翌日の朝にDMのコーギーの献体を受け入れている大学へと訪れ、病気の経過を伝えるとともに献体として提供した。褥瘡の少ないからだを見た大学の動物病院の獣医さんに、よく介護されていたんですね、と言われ、自分たちのやってきたことは間違っていなかったんだとようやく一安心した。
そして、ご協力ありがとうございます、と何度も感謝された。大学のほうにはかかりつけの獣医さんに連絡してもらっていたそうなのだが、そのどちらからもすごく感謝されたことをよく覚えている。DMのコーギーは大学付属の動物病院でも何匹か診ているそうなのだが、あまり献体を提供することに協力的な飼い主さんはいないらしい。最後の最後に、苦しい思いをさせるかもしれない。そんな気持ちは、誰だってあるだろう。
献体提供後、検査をした後にはペットの葬儀社で個別に火葬してもらい、お骨はこちらに戻ってくるとのことだった。私が実家を出る日の朝、ちょうどお骨が家に届いた。大学を訪れて3日後だったと記憶している。人間の葬儀の時のようにしっかりとした骨壺と骨袋に入れられて帰ってきたそれは、他のペットたちの写真と一緒に今も実家に大切に保管されている。
あれって事前に乗る電車降りる電車となん両目のどこかっていうのを
事前に通知して計画的にそこに行かなきゃいけないし
気分で車両を移動することも出来ない
それもこれも電車とホームの間に車椅子でも平気なノンステップ設備がないからでさ
というわけで、飛行機なんかより電車の方が殆どの障碍者にも身近じゃん?
山手線の通勤時間帯を狙って電車とホームの間に車椅子の車輪引っ掛けて
「俺が自力で電車に乗り込むのを待て」「お前等手助けするなよ!」って叫びながら
10分20分電車止めてやったらどうなんだろう
そうまでしないと問題に気付けない意識の低い人間たちの蒙を啓く壮挙だし
異を唱える奴は最低な差別主義者だし
ネガティブなコメントが目についたのでちょっと言い返しておこう。
重量バランスは成立していそうだけれど、子供のヒップポイントが運転者より極端に高いのは乗り降りの容易性?あんまり感心しないな
乗り降りは関係ないのでは。子供の足が当たらないぐらい車輪間の幅広げたら道交法上の自転車じゃなくなるし三輪だから重心が高くても倒れにくいということかと。
機械式は片押しだとどんどん効きが悪くなるし両押しは高価ですよ。
油圧式が理想だけどやっぱり安くはないしそのへんの量販店でメンテできるのかという問題もあるしそもそもディスクはパッドの減りも早い。
Vブレーキでもいいじゃんという気はしますがリアがハブブレーキでしっかり効くのでフロントはなんでもいいのかな、と。
あなた道行く3人乗り自転車見るたびにそんなこと思ってるんですか?
中原さんは昨年7月に株式会社「ふたごじてんしゃ」を設立。年内に新しい3人乗り自転車を売り出す。価格は未定で、ゆくゆくは電動機付きも販売する予定だ。
道路交通法的に、どうなるんだろう。
Q: 普通の自転車より大きいのでしょうか?重さはどの程度ですか?
これは試作車だし、発売の際には電動アシストつくんだろうな。従来の三輪自転車に比べて前後が長く見えるし重量がえらいことになってそう。
重さについては、現時点では開発中ですので正確なお答えが出来ませんが、参考までに、旧ふたごじてんしゃ(試作機)は約40kgです。
ママ50kg+年長の6歳児20kg×2+自転車40kg=130kgだからね! 10kg増えたからなんだっつう話ですよ。
近所に保育園ないの?
世の中の3人乗り用自転車がなぜ2輪かというと、子供が大きくなった後にシートを外して普通に使えるようになるから。3輪だと後々の用途に困る。
田舎はよく知らないけど都市部ではそもそも送迎が不要になったら自転車なんて乗らないんですよね…。バッテリーが生きていればだいたい知り合いの小さな子供のいるご家庭に譲られていきます。
あと自転車関連記事でブクマが集まっているのでとりあえず一言言っとこうって人もちらほらいますね。
物は素晴らしくても乗る人間のマナーひとつなので、道交法のご理解宜しくお願いします、って感じ。自転車乗りだけじゃなくてすべての道路を利用する方々各位
ちゃんと車道走れよ?
例えば低価格ジーンズをユニクロが打ち出した時、今までそこらへんのスーパーでさんざん売ってたにも関わらず新しいムーブメントとしていっとき持て囃されただろ。
いいかよく聞け。
1台ごとに車輪をハメるスタンドが付いている駐輪場ならいいだろうが、平地の駐輪場では、お前らのチャリはいつも倒れているか、ちょっと触っただけで倒れてしまう。
ロードレーサーは軽いので、隣のチャリに重量があればドミノ倒しにならないこともあるが、ロードレーサー同士で隣り合って停めている場合なんかは確実に3,4台が倒れてきて、ハンドルがスポークにささったりして面倒なことになっている。
日本人は心優しいので、駐輪場で他人の自転車が倒れていたら、全部起こしてから離れる場合も多い。俺も一応起こしてやるよ。
しかしお前らのチャリはそもそも立ちにくいから、「立たせるための工夫」まで俺がしてやらないといかんのだ。
以前はスタンドをそもそも付けていないキチガイもよく見かけたが、さすがにそれは減ってきた印象だ。
しかし、左サイドにしかスタンドがない時点で不安定だし、その左のスタンドもなぜかお前らの場合は角度が非常に浅く、安定して立たない。何なのあれ?
また、ハンドル(前輪)の動きが柔らかいので、チャリ全体が直線を保ちにくく、すぐにくるっと回って倒れてしまう。
その点で他人に迷惑をかけまくっているので、さっさと改善するか、俺のママチャリのように倒れにくいチャリで通えよ馬鹿ども。お願いします。
本題の前に筆者の話。
鉄道会社勤務、6年目、車両整備担当のぺーぺー、入社前は撮り鉄だったけど、今はカメラは旅行にいくときしか触らない。
私の職場は車両基地という場所ゆえ、地元の方や、写真撮影の方、親子連れの人までさまざな方がまわりから見ていらっしゃる。
そんななか、ずばぬけて、あきらかにマニアが面倒なことをする人が多い。
こっちは仕事だけど、でも昔撮り鉄やってたし鉄道が好きな気持ちはわからくない。好きなことがあるのはいいことだと思う。
たとえば私の仕事場なら、敷地に入らないでくれって看板あるの無視して、撮影する人の多いこと。
そのたびに手を止めて、言いに行かなきゃならない。
「あの~、申し訳ないんですけど、撮影は敷地外からお願いできません?」
ただそんなことわざわざしてたらキリがないし、そんなことの対策に"わざわざ大げさに"お金かけてられない。
たぶん、一般的な教養、常識がある人ならおかしいって思うはずだ。
これが自浄作用、善悪の判断を失った撮り鉄の発言だ。ネタではなく、マジである。
ただ、すべての撮り鉄がすべてこんなのじゃないっていうのも合わせて付け加えておく。
ちゃんとやってはいけないことはもちろんわかってる撮り鉄もいる、それが普通なんだけどね。
だいたいニュースになる撮り鉄の行動・発言はおかしいレベルがずば抜けてる人たち。
自分の欲求(撮りたい理想のアングル)とやってはいけないこと(違法行為)だけは天秤にかけて、行動してもらいたいもの。
なんで、そうなってるんだろう?って考えてほしいよ。
妄想臨時列車の運用ダイヤとか自分のなかで○○所属の車両が××所属かわらないかなぁ~とか、バカみたいな妄想想像話よりいま撮り鉄に対して向けられてることにしっかり目を向けてよ。
話は逸れたが、こんな対応をこまごましているうちに時間はもちろん過ぎてゆく。
規模や内容がひどいとき以外、いちいち上司呼んでられないし、上司に時間割いてもらって下手にほかの作業指示遅れるなら私が対応したほうがまし。
でもどこかで無駄な労力はかかる。
そんな中、マニアが考えてやったことはなんだ?
過去、停車中の貨物列車のブレーキかけて緩まなくして、列車はもちろん普通に走って、あとで怖くなって申告して逮捕された高校生の話。
貨物列車はどうやら貨車1両1両に駅で単独で停車するときにかけるブレーキシステムがあるみたいで、それを触ったのだとか。
同業他社の知り合いの知り合いからちらっと聞いた話だけど、列車は止められて、点検して、車輪がだめになってるから最寄りの駅で貨車を切り離して、代わりの貨車に付け替えて、だめになった貨車から付け替えた貨車に荷物載せなおしたりして、ダイヤ乱れて出てったって。
同じような業界だからこそ、思ったのはたぶんいろんな社員さんが通常業務止めて、緊急対応で出動したり、対応に追われたんだろうなって話。
人身事故とか、不慮の事故とか、偶発的な車両故障とか、仕方ない件ならば、それも仕事なんだしやるんだけど。
他人様の、しかも鉄道が好きって言う人間がやった不始末を後始末しなきゃならないのよ。
尽力された方々、さぞかし今一般人が撮り鉄ウザイって思うよりもっとウザイって思っただろうね。
一人の撮り鉄だろうが、大勢の撮り鉄だろうが、みんなお金払って駅などにいる人たちは、撮り鉄だろうが撮り鉄じゃなかろうが平等なお客様。
撮り鉄が金払って駅入ってもお客様やけど、同じお金払って乗ってるお客様に迷惑かけたら、会社は手を打つよ。
「安全」をお金払って乗ってる人、すべて平等に「安全」なるようにしてるのよ。
さっきの私の仕事場の話ならば、移動してる車両の触車事故なんかされたらたまったもんじゃない。
鉄道は跳ねたらほぼ一発で死ぬことができる。私も移動する車両の横とかに立ってるだけでも怖いし危険。
おわりに。
私も写真撮る機会あるし、撮影機材も写真知らない素人より全然わかる人だからトラバの内容わかるけど。
あなたの機材なんて知ったこっちゃないし、まずは社員の仕事や鉄道で移動してるお客様の邪魔しないで。
別に写真撮るなって言わない。そら写りたくない人とかいたらそれは別だが撮るなと言わないよ、私は。
ただ、いまこの目を向けられてること、考えて。
意識ある人、良識のかけらが残ってる人、ちゃんとマナーや常識ある撮り鉄ライフを送って。
「昔は良かったんだから良いだろ」とすぐ主張する人、現実見て。今は昔じゃない、今に適応して。脳みそ動かして。