はてなキーワード: 退職とは
就労支援施設3カ月くらいで自信つけて再就職しようとしてたのに、質問したときの値段は各々で違いますってはぐらかされて、(年収225万退職後)実際通ったら8回通っただけで
毎月9千円以上払わされて、半年たっての全然変化ないし、女らしさを強要してくる女集団やら傍若無人な男集団の変な生徒ばかりで全然集中できない。
オタク男1人女1人がオタクアピールして耳からも目からもうるさいくて、オタク大嫌いになった。
日本男尊女卑の2次元オタクばっかし、イライライライラしてる。
日本って一建物に若い美少女キャラを模した物を置かないと気が済まないみたいで、他の国はそんなことないのに、もうこんな国に生まれたくなかった。
同じく自発的な貯蓄はできてない。
生前贈与に親や祖父母がくれたお金が150万くらいあるけど親の葬式代だと思って手はつけずにいる
手取り20万の頃の会社では財形貯蓄?とかいうのがあったから申し込んで、毎月とボーナス時に自動で引き落とされてて、4年くらいで体壊してやめたけど、退職時に解約して2〜3ヶ月分の生活費にできる程度になってた
手取り30万の頃の会社では自社の持株会と企業DCに上限額入れて、それと別で積立定期?で自動で引き落とされて貯金されるやつやってた
そっちも2年くらいで体壊して半年休職して辞めて、2ヶ月無職して旅行しまくってたら、新しい会社決まった頃にちょうど無くなった
今は手取り23万で、自社の持株会社に一万円だけ入れて、企業DC上限額入れて、あとは家計簿アプリでなるべく20万くらいに収まるように気をつけてるけど超える月もあるし、年間20万も残ればマシな方って感じ
小森龍邦氏死去、88歳 元衆院議員、部落解放同盟広島県連顧問
解放運動の巨星がまたひとつ墜ちた。私もあと十年生きるか怪しい身である。自分の政治運動に対する考えを少しばかり綴ってみてもいいだろう。
上のニュースの人は、かつて解放同盟の事務方のトップだった方だ。昭和7年に広島県東部の被差別部落に生まれ、中高生の時分から老年に至るまで部落解放運動に携わってこられた。
私が活動していた地域とは遠く離れているが、それでも半年に一度は彼の実家の傍にある、ちんまりとした選挙事務所へ行き、地元産のワインを飲みながら語り合ったものだ。
私などが知己と呼ぶのがおこがましいほど尊敬できる人格の持ち主だった。家族や地域や仲間のためであれば、危険を顧みずに行動する力を持っている。それでいて、思慮深いうえに頭の回転が速く、無謀な策を講じたりはしない。講じるとしたら、背後に確かな計算を持っている。そういう方だった。
それが、こんなに早くにお亡くなりになってしまった。悔しい限りだ。
私の番はいつ来るのだろう。運が良ければ二十年は生きられるかもしれない。運が悪ければ数年後か。その前に、自分の想いを吐き出す機会が欲しい。
さて、表題の意味について。あなた達の政治運動には『迫力』が足りないとは、どういう意味か。
言葉どおりの意味だ。特に、伝統的な分野、例えば労働組合などが挙げられる。昔に比べて弱体化が著しい。
企業ごとの組織率は低下し、労働者の組合加入率も低下し、賃金は下げられ放題、追い出し部屋や希望(半強制)退職の蔓延も放っておかざるを得ない。数十年後には、労働組合というものが事実上消滅していてもおかしくはない。
また、高校や大学など、学校内の自治を求める活動もそうだ。私は元高校教師だが、昔に比べれば、学生たちが自ら声を上げて学校のルールを変革するために動くことは減っている。感覚としてはそうであり、数字においてもそうなっている。悪い意味で、子どもが大人のいいなりになっている。
近年話題になったものだと、#MeToo運動だ。女性がこれまでに男性から受けた、性を主とする嫌がらせを公共の場で告発することをいうようだ。
日本ではそこまで定着しなかったが、本場のアメリカでは著名な人物の一部が職や名誉を失っている。最悪の場合は、裁判により実刑判決を受けることになる。
LGBTの社会運動も、社会の価値観を変革しつつある分野のひとつだ。
大衆消費社会が訪れてそうまで時間も経たない頃から、同性愛者としてのカミングアウトや文学活動、デモ行進や芸能界での活躍、自分たちを侮辱する者に対する訴訟提起(府中青年の家裁判)、ゲイであることを周囲に言いふらした者及びその所属校への糾弾(一橋大学アウティング事件)など、仲間の権利を守るための諸活動を行ってきた。
以前は、映像作品において、同性愛者が精神異常者として描かれるのは当たり前のことだった。子ども向けのアニメなどでもそういった描写があったが、昔に比べればなりを潜めているように思える。批判を恐れて、ゲイやレズビアンの人達を描けなくなっているだけかもしれないが。
これらの成功している政治(社会)運動には、共通する点がある。
相手の痛いところを突いていることだ。
この方針なくして勝利はない。しかし、近年の伝統的な政治運動の類を見る限り、相手の痛いところを見抜くことができる知性、または攻撃する度胸を欠いているように思う。
特に、組合関係の団体がそうである。昔の労働組合は、使用者と刺し違える覚悟があった。
意図的に給与の支払いを遅らされても、当局側が雇った暴力団に夜道で襲われても、工場を社員寮ごとロックアウトされても、それでも不屈の覚悟で戦い抜いてきた。
それが今では、使用者の言いなりとなり、組織から仲間を追い出すための行為に協力している。情けない限りだ。
話が逸れた。
相手の痛いところを突くことの具体例として、昭和40年頃の話をする。私の高校時代の級友の話である。K君とする。
高校二年の時だった。夏の午後の授業中に、ある教師が教室の窓の向こうにある山を指さして言った。「お前らみてみい、あの山にはよっつが住んどる」(※手の指が四本であるという意味)
その教師は、部落に住んでいる人間を馬鹿にしたのだ。当時はまだ、被差別部落で生活する人々と、それ以外との間に貧富の差があった。馬鹿にされやすかった。
どれだけ悲惨な生活だったか、今の生活と対比しながら述べると、家にトイレはなく(集落で共同のトイレだった)、上水道は通っておらず、生活汚水は外に垂れ流しであり、雨樋や排水溝がないので大雨が降ったら屋内は水びたしになっていた。
家族で食卓を囲んだ光景にいい思い出はない。口に出して述べたくないし、思い出したくもない。
さて、その男の言葉に頭にきたK君は、翌日に地域の仲間(私を含む)を連れて職員室に入っていった。K君が連れてきた解放委員会の男が怒鳴ったのを覚えている。「教頭、どういう教育をしとる!」という大声に、周囲に緊張が張り詰めた。校長までやってきた。
その教師に向けて、「そんなことは言ったらいけんど」と説得しようとしたものの、それ以前の問題だった。その教師は、私達の質疑に対して、最後までしらを切り通したのだ。「そんなことはしていない」と言い張った。
このままではK君の立場が危ういわけだが、私にはどうすればいいかわからない。しかし、協力をしたかった。
また翌日、K君は教室の中で証言者を探すために、級友の前で声を上げた。「このままでは俺は嘘つきになってしまう。証言をしてくれ」と皆に伝えた。が、私ともう一人か二人以外に協力者は出なかった。
次の日だった。今度は、級友一人一人と話をする作戦に切り替えた。校庭に級友を呼び出し、どうして協力してくれないのか、と訴えたのだ。それでも駄目だった。みな、「それは勘弁してくれ」と言うばかりだったという。
さらに次の日、K君は50枚ほどのA6程度の大きさの小紙を持ってきた。それを級友の一人一人に渡して、「これに証言を書いてくれ。後で預かる」とお願いして回ったのだ。
翌週、K君は再び、地域の仲間と、同じ地区の解放委員会の役員を連れて校長室に入っていった。私は外で待っていたが、勝利を確信していた。K君は、20枚以上はあろうかという紙の束を持っていたからである。
その年度の末をもって、その教師は異動になった。県内の一番端にあるエリアに転勤していった。彼はまだ赴任して2年目だったことから、今回の作戦が功を奏したとみていいだろう。
この、K君の動きを間近で見たことが、私が政治運動を志したきっかけだった。
今度は、少し規模の大きい話をしよう。
それから三十年以上が経って、平成の初期だったと記憶している。被差別部落の生活・文化的な環境を改善するという一連の政策が国会での議決を受けてから、長い時が経っていた。
K君の事件をきっかけにして、私は解放委員会に正式に加入し、高校で社会科を教えながら政治運動に身を投じていた。40になる頃に教師を辞めて、今度は別の公職に就いた。
ある年の冬だった。私が活動していた県の幹部職員が、「同和関係の補助金はすべて凍結する」と、あろうことか県議会で答弁した。
寝耳に水だった。まさか、そんなことはあるまいと考えたが、確かな事実だった。議会答弁はテレビ中継もされていた。
当時、私が所属していた団体の幹部が全員呼び出され、偉い方々から対策を指示された。それぞれの支部からも、来年度の予算について雨後の筍のように質問が寄せられていた。
発砲ふさがりかと思われたが、ふと、K君のことを思い出した。彼はもう立派な社会人であり、解放委員会からも抜けていた。それでも藁にすがる思いで相談に行こうとしたものの、気が乗らない。
彼に迷惑をかけるのでないかという想いもあったが、何よりも私個人の意地だった。同和教育、人権思想を啓もうする活動を担う一員である以上は、自分達の力で解決せねばならないという気概があった。
とはいえ、K君と話をしたかった。結局、正式な相談ではなく、共に食事をしながら今回の件について話し合うという形式を取った。K君は、「ここで折れたら前例になろうが」という話から始まり、諸々の助言をいただいた。今でも感謝している。
後日、県の横暴に対する対抗策がまとまった。開始時期は、一週間後とした。
数万人規模の組織で、ここまでの速度で動くのは無理がある。組織全体の足並みが揃わなくなる恐れがあったが、予算全凍結は目の前だった。
あの時のK君のように、各市町の教育委員会の庁舎に数人で飛び込んだなら、「どうしてこんな卑劣なことをするのか。子どもらが人権意識をもつための活動ができなくなっていいのか」というメッセージを何時間にも渡って、毎日伝え続ける。
庁舎の外には最大100人程度を待機させていた。みなそれぞれ、横断幕と拡声器を使って、スローガンを堂々たる態度で表し、相手方にこちらが本気であることを知らせた。朝方から始まって、日中は休憩を挟みながら、日が沈む頃まで毎日続けた。
場所は関係なかった。公共機関であれば、どこででも実施した。教育委員会だろうと、市役所の入り口だろうと、学校の門前だろうと、警察署の前だろうと、県会議員の自宅の玄関だろうと、場所は関係なかった。
かつて、私たちは基本的人権の享有を受けられなかった。その歴史を繰り返してはならない。私たちは本気だった。
議会での答弁から半年後、私達の本気は伝わった。予算の凍結が撤回されたのだ。
これまでと同じように、これまでと同じだけの金額を子ども達への教育活動、個別学習会や勉強会に使うことができるようになった。
私たちは、相手の痛いところを突いた。突き上げを受けた教育委員会は、通常の業務を行うにあたって支障が出る。日中は、私たちが絶えず抗議をするので、それに対応せざるを得ないからだ。
それが数日であれば持ちこたえるだろうが、何か月にも及ぶとさすがに根を上げる。
「予算の凍結はやめてくれ。現場がもたない」と各市町とその教育委員会は、県の決定に抗議する流れができる。
さらに長い期間に渡って続けば、県としても、予算の凍結の続行と、各市町の疲弊とを天秤にかけざるを得なくなる。
相手の痛いところを突けばいいというものではない。こちらも痛い目を見る覚悟が必要だ。というのも、現実的には、まずはこちらが痛い目を見る可能性が高いからだ。
上記の場合、県による予算凍結の撤回を求めて戦うにあたり、相手方に攻勢をかける必要があったわけだが――初期の段階が一番苦労した。まず、動員をかけても会員は集まりにくかった(当事者意識の欠如)。これがただの動員ではなく、緊急事態を打破するための闘いであることをわかってもらうために熱弁を振るう必要があった。この説得のための活動、すなわち県内の支部巡りに最も時間を要した。
人が集まり、相手方に攻勢をかけることができるようになったとして、最大のリスクがある。警察に通報されることだ。特に、要職にある者が動けなくなるのはまずい。敵にとっての追い風になる。
今回は、そうした事態が起こることはなかった。絶対に暴力行為や脅迫行為をしてはならないと、組織内で固く申し合わせをしていたからだ。
私が若い頃の解放運動だと、警察など介入する余地はなかった。デモ活動やオルグの最中に通報があって警察官が駆け付けたとしても、我々を見て尻込みをするのは当たり前で、あちらの方が逃げ出すこともあった。
それほどまでに、当時の私たちは気迫に満ちた政治(社会)運動をしていた。物事に対する「本気」というものが、警察すら怯えさせるほどに昇華されていた。
時が経ち、平成時代になると、部落に住む人々も豊かになったこともあり、ハングリー精神が見えなくなっていた。集団の気迫はすっかりと消えてしまい、周りから見ると――デモ活動の全てが滑稽なものに映るようになっていた。満たされた人間に政治運動はできない。それだけのことだった。
ところで、予算凍結に対する対抗策の実施にあたり、最大の懸念事項があった。
県と市町との連携だ。もし、予算凍結の議会答弁を打つよりも前に、県議会が各市町に根回しを行い、さらに我々を抑えるための手を考えていたとしたら、負けていた可能性が高い。
逆に言えば、同和対策事業に関する予算の凍結という重大事項について、事前に各市町と連絡調整をしないというミスを県が犯したからこそ、我々は勝利することができたと言っていい。
最後になる。
相手の痛いところを突くこと、その直近の事例としてミャンマーのデモを挙げたい。
アウンサン・スー・チーを頭に据える民主派が勝つにはどうすればいいだろうか?
武力では国軍に勝てない。ならば、「国軍は間違っている」というメッセージを、自国内と国際社会に訴えかけるしかない。
経済面ではゼネラル・ストライキを行い、社会面では民主的な思想や制度について啓もう活動を行い、政治面では大規模デモによって世界に窮状をアピールする。
アメリカがすでにミャンマーへの経済制裁を行っているし、世界的な空気として、国軍より民主派を推す声が大きいのは間違いない。
民主派のやり方というのは、それでいい。とことん大きなデモを打って、自分達の正義をアピールする。
が、その代償として、民主派は多くの命を失っている。つい先ほど、未成年のデモ参加者が銃で撃たれて亡くなったというニュースが飛び込んできた。先日のデモでは50人以上が亡くなったという。
民主派グループの中でも、指導者に近ければ近い者ほど、身体に危険が迫る。国軍にしてみれば、今が正念場である。世界各国からの評価が低下することを気にかけず、民主派の指導者層を徹底的に弾圧し、デモ活動を先導する者を少なくし、事態を膠着状態に陥らせ、軍事政権を持続させるとともに――軟禁しているアウンサンの自然死を狙うメリットの方が大きい。
もし日本が、ミャンマーのように危険な状態だったとして、あなたが立ち上がって戦わねばならなくなった時、どういう心構えで、どういう行動を取るべきだろうか? 相手の痛いところを突くために、どこまでのリスクを背負えるだろうか?
その問題に直面していたのが、私が生まれた時代よりもさらに昔、明治以降の被差別部落に暮らす人々だった。あまりに苦しい生活環境であるがゆえ、生存権を得るために戦わねばならなかった。しかし、どうやって戦えばいいのか?
多くの者が基本的人権を得るために戦い、痛い目に遭いながらも戦いを続け、そして今の、(経済的な意味に限っては)被差別部落問題が解決した現在に至る。
あなたの人生にとって、重大な戦いをせねばならない時がくるはずだ。その時に、どういった行動を取ればいいのか、当日記がその際の助けになれば幸いだ。
40代以下の若い人に向けて、このトピックを書いたつもりだ。あちらへ、こちらへとぶれた文章になって申し訳ない。読み返してみると、まとまりのなさに驚いている。ご容赦いただきたい。
(国内ITベンダー→外資ITベンダー→[イマココ]国内銀行IT部)
■本題
社内規定では「退職するときは1ヶ月前までに上席へ伝えろ」と書いてあるから、4/15に退職しますと伝えた。
すると、「暗黙のルール的には、3ヶ月前には言ってほしいわけよ」と言われた。
規定では1ヶ月なのに?????暗黙のルール?????????業務の引き継ぎは絶対1ヶ月でできるよう立ち回ってきたが???????
これまでの転職も1ヶ月前告知で問題なしだったのに???????
退職届受理されなかった場合は、職業選択の自由侵害で騒ぎ起こせるよね???????
後任計画は確かに狂って申し訳ないけど(弊社は人が少なめ)、ヒト・モノ・カネをどうにかするのは経営の責任では?????????????????????????????
ここで質問です、
当方30歳、女。
特定派遣という業界に思うことのある人は多いだろうが、私にとっては良い会社だった。社員の距離感が自分に合っていたし、基本給は高いとは言えないが福利厚生は十分に揃っていた。
家庭の事情で引っ越しが出来なくなり、派遣として働くことが難しくなってしまった。やむを得ない退職だった。
化学というものは自分には向いていないような気がして、全く違う業界から転居が不要な場所にある企業を片っ端からブクマし、気が向いたら応募していた。
通勤はさほど大変ではない。完全年寄り相手の事業内容には一切興味がなかったが、業務内容には興味があった。
面接はトントンと進み、あっさりと就職が決まった。「○日から来てください(その電話の5日後の日付)」って、普通いいですかとか了承を取るもんなんじゃないかと思った。
職歴に間があくと、年金とか保険とかの手続きを自分でやらないといけないことが面倒。
来てほしいって言われたし……
とかなんとか、押しに弱い性質が響いたのか、まあいいか……とここに決めてしまった。
電話が来た日は不安で、普段しない親への電話などをしてしまった。
入ってみて。
風通しの良い社風だとは聞いていた。確かに社員間の風通しは良い。
が、パートのお局2大巨頭が強大すぎた。挨拶するだけマシ、しないギャルババアもいる(本当にギャルみたいなのだ、見た目はどう見ても40代後半だが)。
雑談には一切乗らない。挨拶をしないやつが世界で一番嫌いな私は既に毛根が死にかけている。
近くにグループがあるのに、「自分だけ会話に加われない」という状況がとてつもなくストレスになるらしい。
それらしいトラウマ体験に心当たりは、あるようなないような、という具合だが。学生時代の記憶が本当にぽろりと抜け落ちてしまっているのだ。
ただし、こういう話をしようとすると、感情とは関係なく涙が出てくる。今も書きながら涙が出ている。自分の中でなにかの防衛機能が働いているのだろうとは思う。
つまり、すぐ近くにパートのお局がいるのに、自分だけ(同時に入った社員も同様なので、自分だけではないのだが…)が会話に入れず、ハブられているという今の状況は、非常にストレスになっている。
給与が低いのは別に構わない。前も高くはなかったし。と思っていたが、思ったより見合っていないと荒むものだ。それなりに良い大学は出ている。
将来性がないのはまあ構わない。こんなところいつでもやめてやるという気持ちになれる。
とにかくずっとモヤモヤし続けていて、まとまっていないのだ。
よく考えないで就職するからだろカスと言われたらまったくそのとおりである。
自分のやりたいことがわからないし、何が向いているのかも未だにあんまりわかっていない。
とにかく自己評価が低いからこういう行動をしてしまったんだろうな、とは今にして思う。
いつでもやめてやるぞーーーーー
上司がすごいできるひとで、産休あけて1年で誰もが納得で課長になったのよ。何よりマネジメントというかコーチングというかそう言う能力があって、すごい職場は働きやすいし効率も上がって成果もでた。
ところが、3月末で退職するんだって話になって、今プチパニック(笑)
子育てと介護が重なって大変だから、と言う理由なので、社長や専務が、アシスタントつけてもっと時短でかまわないとかいろいろと口説いたらしいんだけど、決意は固くて、だめだって。
ところが、本人にさっき聞いたら、引き抜きだって(笑)業界で中堅どころの会社が支店を出すからそこに務めるんだって(笑)
俺も連れてってくださいよーっていったら、笑って一蹴されました(笑)
はー。
悲しい。
まぁ、あれよ。
太った。標準体重をここ数年ずっと体重をキープしていたのにこの一年で4キロ太った。健康診断でしか測らなかったから本当はもっと増えているはず。
コロナでステイホームになって約一年。世間ではコロナ太りは未だに叫ばれている。
しかし私は違う。断じて違う。もともとインドア、休みの前日には3連休だろうが5連休だろうが関係なく必要な分の食料を買い込んで絶対的に家から出ない、というのを一人暮らしを始めた時から徹底していた。友達と遊びに行くのだって月一くらいだったし。つまりコロナ前からエブリデイステイホームだった為コロナ太りは言い訳にならないのだ。
だから外で「太っちゃって〜」と言う話題になった時は曖昧に笑って誤魔化していた。
コロナが流行り出した頃。モロに私の職場はその影響を受けた。いや、何処の業界もそうだけど、特に受けた。お陰で元々空気が悪かった職場がさらに酷いことになった。旅行が趣味の先輩は行けなくなった鬱憤を下の子にぶつけてきたし、上司は元々ヒステリックだったのが更にヒステリックになった。要領が悪く仕事ができない私は特にターゲットにされた。あんまりにも辛すぎて仕事行きたくなさすぎて夜眠れなくなったし、食事も取れなくなった。その後色々あって休職のちすぐに復職。しかし通常業務ではなく雑用しかさせて貰えなかった。何ヶ月もその状態が続いたため上にも掛けあったが、暖簾に腕押しだった。勿論この措置を不満に思う人は出てきて、あからさまな嫌味などはないが、基本無視された。
その頃から仕事終わりのドカ食いが始まった。まじで食欲がコントロールできなかった。元々食べる方だが今振り返っても異常なラインナップだ。ケンタッキーの鳥の日パックを食べた直後にしゃぶしゃぶ食べ放題に行ったり、日常的にお弁当を2食+お惣菜3品、ファミレスでメイン+サイドメニュー2種類だったり、お弁当+ケーキ1ホール又は惣菜パン4個とか、お弁当一つ+お惣菜一つの日は+スナック菓子三袋とか食べてた。前はパンやお菓子はあまり食べなかったのに。食費は少ない日で2000円、多い日は6000円いってた。家にあるものを食べ尽くしちゃって出前を2日分頼んだら一回で食べちゃうし。内容も揚げ物や肉中心だった。和食の方が好きだったのに。逆に休日は全く食べない日が多かった。食べない→食べない→ドカ食いみたいな。一番太るやつ。今振り返るとやばいな私。
勿論食べ過ぎで気持ち悪くなって夜眠れなかったし、食べたものを吐くのに抵抗があって吐くまではしてなかったけれど、胃の圧迫感で呼吸も苦しかった。他にもお風呂に入る時自分の体を見ると胸よりお腹の方が出ていた。服や下着もきつくてパンパンだった。ズボンは一年前はつかなかったゴムの痕がくっきりついていた。更に少し動くだけで体が重くて苦しいし、汗をかくしで運動どころか立ち上がるのも億劫だった。確実に筋肉量は落ちてる。仕事行ってなかったらもっと太っていた。
とにかく全部ぐちゃぐちゃだった。
このままじゃまずい、来年以降もこの職場で働くのか、と思ったら気が重かった。けれど辞めると言う選択肢は辞めた後の事が恐怖で行動に移せなかった。一応つぶしが効く職業だがコロナだし。このまま辞めたら社会復帰出来ないのじゃないか、失業保険のこととか調べても上手くいかないのじゃないかとか思っていた。けれど現状を知っている私の人はみんな「そんな職場やめなさい、これ以上は君がダメになる。」「私の職場においでよ、こんなことで人生潰したら勿体無いよ。」と散々背中を押してくれた結果、辞める選択ができた。
厳密にはまだ退職はしていない。しかし有休消化させて貰えることになったため、終わりが見え、気持ちも上向きになってきた。
そうしたら食事量がかなり減った。基本ふりかけご飯+味噌汁に納豆かサラダかキムチ+おかず一品。おかずも揚げ物よりも煮物とか和食がメインになってきている。お弁当を買う場合も一つで足りてるし、お菓子もころっと食べなくなった。出前も取らない。でも全然無理してない。むしろドカ食いしてた時より満足感ある。なんとなく栄養バランスも意識できるようになってきた。
体型の変化もお風呂に入った時、胸よりお腹が凹んでた。服の締め付けが緩くなった(特に下着)。着るのに苦労してた服がすんなり着れるようになった。運動もそこまで億劫じゃなくなった。相変わらず外に出るのは嫌だけど家でストレッチを始めて見た。続くかわからないけれど。自分しか気づかないような小さな変化が少しずつ出てきたのがすごく嬉しい。
尻切れ蜻蛉になったが、ここ一年でストレスが一番太る原因なんだな、と言う知見が得られたのが収穫と思って元の体重に戻すためにダイエットしていこうと思う。
一週間がおわったぞーーー
万歳!
なんだかセレモニー感
みんなで一人ずつ感謝と思い出と激励の言葉をかけて泣いちゃったりして
若手氏についてはお疲れさま頑張ってねとしか思ってないのだけど
日々のあれこれがきれいなスピーチで「思い出」に均されていく感覚はちょっと苦手だ
卒業式も苦手だったな
早く宝くじあたんねーかなあ
ていうか今週終わらせるつもりだったことほぼ終わってねえな
同僚氏のことは以前より嫌いではなくなったがやはり言葉の端々にカチンとくることがあり
それに私も最近は「つまりどうしたいんですか?」みたくきつく返してしまうのでよくないな
若手氏の退職で泣いてたあとの人に優しくなかった
がほんとあの目的のない揚げ足とりむかつくのだ
職場のむかつく同僚にあだ名をつけて全く関係ない友人に愚痴るのは学生時代の友人の技術だ
あだ名が面白いと知らん人の愚痴でも面白エピソードトークみたいに聞けるからあれは発明だった
だがその友人はもう引っ越してしまってもう飲み会でだらだら下らない話ができない
いやLINEなりリモートのみなりしようと思えばできるけどそこまでしてする話でもない
帰りにスーパー銭湯でも寄ろうかと思ってたけどなんだか湿気と気温が高くてあんまりお風呂気分にならないな
なんか疲れててぼんやりしてる時にゲーム実況ちょうどいいんだよな
本や映画は内容に関わらず重すぎる
この間まで桃鉄実況をあれこれ見てて
つぎどうすっかなー
元気があったら俺の家の話を見ようかな
連ドラ見る元気なんて基本いつもねえんですよ
当たり前だけども当事者になるのと報道されているのを見るのとは全然違った。
事件被害者になるということは、ただただマイナスのことしかなく、失うものがすごく多いということがよくわかった。
この情勢になって誰かに話しを直接聞いてもらえることもなかなか難しいので、余計辛い。
家族に話せばいいと思われるかもしれないが、ただでさえ心配かけているのに「死にたい」なんてとても言えない。
死にたいが死ぬわけにはいけないので、仕事はやらなくてはならない(というか稼がなければならない)。
こちらはただの被害者なのに会社に正直に話したら仕事を干されてしまった。
今後迷惑をかける可能性もあるだろうと思って正直に話をしたが、失敗だったかもしれない。
もし従業員が被害に会って、その報告を受け、その従業員を大切に思うのならどうしたいかきちんと話を聞いてあげて欲しい。
休ませたほうがいいだろう、仕事を減らしてあげたほうがいいだろうと勝手に判断して仕事を取り上げるようなことはしないほうが良いと思う。
もちろん会社にとって重要な仕事を任せていたら、難しい判断をしなければいけないこともあるとは思う。(本業とは別に個人事業もやってるので少しはわかる)
ただその場合は(嘘でも)「あなたのことが大事だから、そのような判断をした」ということが伝えわらないと、(なにかあってもこの会社は助けてくれないんだな)と思われてしまうと思う。
ある事件被害者は迷惑がかかるから退職を申し出たところ、「(事件に立ち向かうには)働いているということが重要だ」と強く引き止められたらしい。
会社はカウンセラーではないので、従業員のプライベートのケアまでする必要はないようにも思うが、被害者の心をより傷つけるようなことはしないで欲しい。
あと家族も被害者がどんな心理状態にあるのか考えて行動してあげて欲しい。
被害者は自己評価が地に落ちている(少なくとも私は)ので、ちょっとした言動で酷く傷ついてしまう。
薄氷の上にいるような状態なので、あとで後悔をするようなことがないように。
たぶん家族や会社が事件被害者にどのように接すればいいかは、インターネット上や本が出ている気がするのでまずはそれを読んでみるのがいいんじゃないかなと思います。
報道されるような事件の被害者になったひとは想像を絶する目にあっていると思う。
自分が被害にあった事件は大したものではないのにも関わらずこんなに死にたくなるのに、ちゃんと生きてて本当に尊敬する。
最初はただ事件にあったことに呆然としたというか恐怖しか感じていなかったが、小さなことだけれども二次被害にもあって、加害者への憎悪が湧いている。
こちらは死にたくなっているのにのうのうと生きてるなんて許せない。
吐き出せばちょっとは気持ちが薄れるかなと思いましたが、やっぱりまだ死にたいです。
いままで少しづつ積み上げてきたものが他者によって簡単に壊されてしまうなんて想像もしていませんでしたが、まずは「死なない」という選択を毎日し続けて、時間が解決することを願っています。
事件被害者でなくても、こんな情勢で死にたいと思っているひとはやっぱり増えていると思うので、死ぬ前に(繋がりにくいらしいけど)いのちの電話でも増田でも「死にたい」と吐き出して欲しいと思って書きました。
12月に謎の高熱と腹痛嘔吐で三週間も会社を休んでしまったからだろう(会社の待機命令も含む)。
結局、血液検査や胃カメラなどの検査でもこれといった異常もなく、原因もわからないままだ。
こういうことは昔からよくあった。
原因を特定するために、甲状腺膠原病胃カメラレントゲン毎月の血液検査などしているが、どれも異常なし。強いて言うならCRPが高いくらい。
出来るだけ身体的負担が少ない仕事を選んでるが、それでもダメだ。
腰痛肩こり腱鞘炎はまだ可愛いもんで(まあ腱鞘炎が悪化して一週間使い物にならなかったから油断は禁物だが)ストレスによる胃痛吐き気がやっかいだ。
だから極力ストレスの少ない職場を選んでるんだけど、いつもストレスで胃が死んでるし病気がちで(発熱が多い)休んでしまう。
pmsも関係しているかもしれない。ただピルを服用してこれだから救いようがない。
心療内科も行ったが待ち時間が長すぎて待っていられなかった。週末はほぼ病院通いをしてるので待ち時間が長い病院は厳しい。
こんな身体だから力仕事系は無理なので事務職に絞ることになる。ただし事務職系は倍率が高い。
デスクワークってだけで応募する人が多いのか、コールセンター求人すらインディードで「超人気」マークが出ているほど。
体が弱いといえど、障害者なほどではないし。そもそも原因不明。
理解のある彼くんや太い実家もないので頼れる相手もいない。婚活する金もない。
大手といってもその業種がニッチ過ぎて競合相手がいなかったからだし、私も含め末端の人たちはみんな非正規だったのだけれど。
私のいた部署は出社して、管理職からとある書類を貰ったら各自振り分けられた複数の会社に行き、持ってきた書類にハンコ押してもらったり訂正して頂いて、回り終わったら帰社して明日の書類の準備をするという、営業と事務半々みたいな業務をしていた。
そんな業務の微妙さや仕事してる姿を誰にも見られないからか、普通と呼ぶにはちょっと「?」がつく人が多かった。
覚えてる限りを挙げてみると
・借金で首が回らず家賃も滞納しているため家に余り帰れず野宿しがちで、携帯も家電もないから消費者金融が会社に電話や直接回収しにくる40代独身。
・寡黙過ぎて10年勤務しているけれど、最寄りの駅と年齢以外のことを誰も知らない30代後半の男性。
・モーニング娘。が好き過ぎて関東圏に来る時は大体のコンサートに行き、次の日には体調不良で当日欠勤をするが、皆それが酷い二日酔いなのが暗黙の了解だから、昨日はモー娘のコンサートがあったという無駄な指標になる人。
・「私、夫が誰にも知られちゃいけない秘密を一つ握ってて、それがある限り自分は自由に生きられるの」と言っていて、周囲は「一体どんなことを」と思っているが気が強いので誰も言い出せない姐御肌の30代女性。
・機械オンチの同僚のPC端末の壁紙を突如νガンダムに変えたり、黙って無表情に仕事をしていた私に、飲み会で私に「あなた何人目?ねえ何人目?」と泥酔しながら聞くガチオタ既婚男性。
・ゲイでオネェなことを全く隠さないで話すのは構わないとして、片想いの同僚が他部署の女性と婚約したのを知り、心痛の余り会社を無断欠勤を数日間して、心身を心配して手土産を持って課長が自宅に訪ねた男性。
・その課長には愛人が3人いて、さらに奥様との夫婦生活も月1であると忘年会で暴露し、姐御さんに
「50代でそれってお盛ん過ぎませんか?!」
と詰め寄られていた。
他にも様々おりましたが、代表的な人はこんな感じでした。入社して1ヶ月くらいの時、若手の正規社員に
と心配されたりもしたけれど、私は元気でした。
結婚を機に引っ越すので退職したけど、社会のすみっこで微妙に生きづらい人には凄く快適だからあんなだったのかもな、と今でも思ってる。
で、1ヵ月半前に新しい人をまた採用した。
2021年3月1日 社員Bが妊娠と体調不良を理由に休職の申し出
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妊娠発覚〜休職の流れに違和感との増田があったので時系列順に整理してみた。
社員Aも社員Bも、「入社1ヶ月で体調不良→妊娠発覚→即座に休職を願い出る」の流れを辿っている。たしかに異様だ。
調べてみると、つわりの始まりは妊娠4週〜6周の間に始まる人が過半数以上らしい。
さらに、つわりがいつから始まったのか時期別にみていくと、妊娠5週目(妊娠1ヶ月目を過ぎたあたり)からつわりが始まったと感じる人がトップ(22.8%)。
そして、法で定められる「産休」は
通常出産予定日の1ヶ月半前に始まる。出産予定日は、妊娠40週に当たることが多い。妊娠初期である社員ABが取得したのは産前休業、産休ではなく傷病休業だろう。妊娠による産休以前の休業は
だそうだ。ちなみにこの私傷病休暇制度を定める義務は会社にはない。
私傷病による休職制度は、(中略)〜法律上の規定はなく就業規則等で定められることになりますので、企業ごとに取扱いもさまざまです。労働者の事情による休職ですから、賃金の補償がないことや、休職期間が満了しても復職の見込みが立たなければ自然退職または解雇となることもやむを得ないことと言えるでしょう。
「就職後すぐ休業」を防ぐために、企業は就業規則の休職制度を定めるにあたって、勤続年数〜年以上と条件をつけるのが普通だ。もし条件に反した、勤続1ヶ月で私傷病休暇を取らせる前例を作ると、
また、過去のケースで、休職制度適用対象者以外に休職制度を利用させてきた等の慣例がある場合に休職制度を利用させず解雇をすると、解雇権の濫用とされる可能性もあるので注意が必要である。
のようなことがあるそうなので、恐らく元増田の会社の就業規則は、私傷病休暇の取得に勤続年数による制限を設けていなかったと推測される。さらに長期雇用のポストならば最長1年、通常1ヶ月〜半年の試用期間を設け、「就職後すぐ休業」を防ぐこともできる。
就業規則を変えない限り、元増田の会社は同様のトラブルに見舞われる可能性が残り続けるだろう。はっきり言ってアホとしか言いようがない。
ちなみに
sp_fr_v7_2011 最初の(元からいた)人以外は退職ではなく休職だよね? 産休? だとしたら、労務関係詳しくないんで当て推量だけど、健康保険の産休手当とか雇用保険からの育児休業給付金目当てで入ってきた可能性ない?
そんな状況も踏まえての努力がリベラル先進社会には求められる。
管理職や同僚はつらいこともあるかもしれないけど、辛抱だよ。
グッとこらえて。
もし20人の新入社員をとるとき、半分以上を女性にするのが現代の先進。
10人以上の新入社員の女性が同時に妊娠して休業するか退職することもあろう。
昨今不況もあってこの小さい企業では事務方をこれ以上抱える余裕はない。
半年前、総務女性が妊娠の体調不良が辛くなって、ご家庭の事もあって何度も話し合いを重ねた結果退職する事になった。
リモートワークなどに配慮し、働く時間も加味し、要望は聞けるところは全て聞いた上だったがどうしても体調が悪いのでというので仕方ない。
今度はきちんとライフプランを教えてもらい、縁の有る人を採用した。
業務が滞ってるなと思っていたので、少し可能性は考えていたが仕事できるならしてもらおうと思った。
「すみません、体調悪くて仕事出来ないので休職します。本当に申し訳ございません。」
という彼女に対し「子供はまだだって言ってたやんけ~~」と思いながらも
「謝らないで欲しい、素晴らしい事だから。私が業務を引き受けるから」(キリッ)と言いつつ
内心は「ちょまってwww管理職辛いwwww人柱…」と思っていたが
で、1ヵ月半前に新しい人をまた採用した。
もう女性採用するの怖いと思いながらも女性の希望が多い職種なので仕方ない。
一昨日、「すみません、実は妊娠しまして体調辛いので一旦休職します」と言われた。
弊社は子宝に恵まれるご利益でもあるんか…?もしくは私がパワースポットか…?
採用が終わらない…。勘弁してくれ。