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はてなキーワード: 賛否両論とは

2021-08-26

掛け算の順序問題計算論理の科目としての算数

掛け算の順序問題なるものがある。
りんごが4つ入った袋が3つあったらりんごは全部でいくつありますか?」という問題に「4×3=12 答え 12個」と「3×4=12 答え 12個」という回答があって、前者だけを正答とすべきだとか両方正答とするべきだとか、そういう問題だ。長方形の面積について話している場合もある。

この意見対立には、(一面として)数学をどのように抽象的に捉えるか、というのや数学算数という科目の持つ役割に関してのスタンスの相違が原因にあると考える。
数学をより純粋抽象的に捉えるにしたがって「順序強要」→「順序容認」→「順序強要」のように立場が変化することを以下で述べる。

念の為記しておくが、この文章は掛け算の順序問題に関してどの立場が正しいというような文章ではない。
俺は教育専門家でもなければ小学生算数を教えたベテラン教師というわけでもない。
数学への向き合い方が真摯になるにつれて変化する立場が単調でないことに気づき、その非自明な振る舞いについて筆を執ろうと思っただけのものである
この文章で誰かの何らかに影響があればそれは幸いである。

順序強要派1

りんごが4つ入った袋が3つあったらりんごは全部でいくつありますか?」という問題に「4×3=12 答え 12個」と答えるのが正答であり、「3×4=12 答え 12個」と答えるのは誤答であるという立場である
"4×3"という数式には「『1つぶんが4つ』のものが『3つぶん』ある」という意味があるとして、"3×4"という数式は題意にそぐわないとする。

正直なところ、数学でこれを正当化するような解釈を俺は知らない。
より高学年、あるいは中学高校大学・それ以降で出現する数式(例えば e^iθ=i sinθ+cosθ が成り立つとは、どういう意味合いのものが等しいということを言っているんだろうか?)に対して、その数式の"意味"は適切に存在して、何らかの実態と一致するだろうか。そのような体系がある場合、ぜひ知りたいのでご一報いただければ嬉しい。

順序容認

上記思想とは翻って「4×3=12 答え 12個」も「3×4=12 答え 12個」も正答とする立場である
数式そのものに何か「実際的意味」はなく、そこには記号の間の関係操作があるという立場はより現代的な数学に近いものであり、納得できるものだろう。

俺が現実計算をするときもこの立場にいる。「日本国民全員が2回ずつ…」などと聞いたら脳内で出てくる式は"1億3000万×2=2億6000万"だし、「2人が1億3000万個ずつ…」と聞いても思い浮かべる式は"1億3000万×2=2億6000万"のままだ(自分の脳は乗数が単純なほど高速に乗算が行えるから、そのような式のほうを思い浮かべるように訓練されたのではないかと思う)。単なる道具としての使い勝手ならば、この立場はとても強い。道具として(正しい答えを出せるなら、という条件付きだが)順序を気にしない方が順序を気にする方より楽だろう。

算数を「現実事柄に付随して必要となる計算を正しく行う能力を育てる」科目だと考えるなら──教養大学などで学ぶそれではない)としての算術としての用途としては実際にそれで十分だろう──、真っ当な立場だろう。

しかし、この立場には少し弱いところがある。
数式そのもの意味はないとするのはよいが、その結果立式の段階で「状況」から一足飛ばしで「数式」が出来上がっている。これは、少なくとも数学の厳密な操作ではない。より厳密であろうとするならば、次の立場になるだろう。

順序強要派2

数学的に厳密な立場であろうとするならば、意味論的操作を取り除く必要がある。この立場において、「『ひとつ分の数』が『いくつ分』あるとき、全体で『(ひとつ分の数)×(いくつ分)』あります」という定義にしたがって被乗数と乗数を区別することには意義がある。

この立場では、「りんごが4つ入った袋が3つあったらりんごは全部でいくつありますか?」という問題文に記述欄があった上で、「4×3=12 答え 12個」と答えるのも「3×4=12 答え 12個」と答えるのも厳密には誤答とする。
「これは、りんごが袋ひとつ分につき4つあり、袋が3つ分あるので、全体で4×3個のりんごがある。4×3=12なので、答えは12である。 答え 12個」のように定義形式に構文的に当てはめて答えて初めて正答である。この立場は「3×4=12」という立式を否定するものではない。「りんごを袋にひとつずつ入れていくことを考えると、これは一周分につき3つのりんごを入れ、4周分入れるので全体で3×4個のりんごがある。3×4=12なので、12個入れたことになり、全部でりんご12個ある。 答え 12個」という回答も正答である

この立場のもとで、「これは、りんごが袋ひとつ分につき4つあり、袋が3つ分あるので、全体で3×4個のりんごがある。3×4=12なので、答えは12である。 答え 12個」という回答は全くの間違いとなる。「3×4=12」という立式ができる解釈はあるが、その式を導出するに至る構文的操作が誤っているためである。同様に、定義が「『ひとつ分の数』が『いくつ分』あるとき、全体で『(いくつ分)×(ひとつ分の数)』あります」というものならば、「これは、りんごが袋ひとつ分につき4つあり、袋が3つ分あるので、全体で4×3個のりんごがある。4×3=12なので、答えは12である。 答え 12個」という回答は間違いとなる。

"3×4"と"4×3"はそれが"12"と等しいことを示すための証明木も異なるなど、式として完全に異なるものである。値が等しいことは証明されるべき非自明命題であり、何も断らず用いてよいことではない。
「被乗数と乗数を入れ替えても答えが変わらないため、立式の際に断らずにこれらを入れ替えることがある」と答案の先頭で述べてある答案があれば(このようなことが書ける生徒は単なる乗算でつまづくような生徒ではないだろうが)、「りんごが袋ひとつ分につき4つあり、袋が3つ分あるので、全体で3×4個」でも正答としてよいだろう。

余談だが、長方形の面積に関してさらに状況は混迷を極める場合がある。長方形の面積を「たて×よこ」とするとき、これは「定義」か、「定理」かすら明らかでない。「1cm×1cm正方形の面積は1cm^2」で「1cm×1cm正方形がある図形にすきまも重なりもなく敷き詰められる場合その図形の面積は 使った正方形の個数 cm^2」という定義によって導かれる「定理」とする立場もあるだろう。この場合、「たて×よこ」は単なる立式の1宗派に過ぎず「よこ×たて」で面積を計算しようと1つ1つ数えようとどんな式で計算しようと使った正方形の個数を正しく導くことができる式ならば正答である。対して、「たて×よこ」が「定義」ならば、どちらを"たて"と見るかを記述する2択のみがあり、それ以外は誤答である(別の定理がある場合を除く)。

この思想は非常に窮屈に思えるかもしれないが、数学直感理解否定するものではない。
必ずしも全生徒がそこまで進むわけではないが、数学科などで学ぶような数学においてはこのような思想が顕著になる。
純粋数学において、自然数すら現実の何の対象とも厳密には対応せず、論理学は実際の"正しさ"と一致する保証を持たせるものではない。数学基礎論などを学ぶことでこのような数学思想に触れることができると考える。

もし俺が正義感とやる気と生徒への期待と十分な時間を持ち合わせているなら、生徒にこのように指導するだろう。算数(は賛否両論あるかもしれないが)・数学計算するだけの科目ではなく、論理学を学ぶための学問でもあるからだ。特に文章題を「現実対象数学的にモデル化してそこから論理的結論を導く」ことを問うものであるとするならば、この立場に立つことには合理性がある。

しかし、これは理想的な状況における対応である。例えば回答欄が「(しき) (こたえ)」のように分かれている場合そもそもこのような記述を行うべき欄がない。この場合問題文を「『ひとつ分の数』が4であるようなものが3つ分あるとき、全体でいくつあるでしょう?」のように非常に定義に近づけて初めて「3×4=12」を減点する準備が整うといえよう(これでもまだ即座に誤答とするべきではないだろう)。そうでない場合、「4×3=12」と「3×4=12」の2つの式は同程度に論理の飛躍を伴っており、それらに点数の別をつけるべきではないかもしれない。

まとめ

冒頭でも述べた通り俺は教育専門家でもなんでもないから、どの立場を取れば生徒がよく理解するかなどについて何も言えない(どの立場に対しても理解できる生徒と理解できない生徒がいるだろうと思うが)。
個人的には2つ目と3つ目の中間のような立場だ。算数計算をするだけでもないし論理をするだけでもない。単に計算をする手段としてなら順番なんてどうでもいい、素早く正しい答えが出るなら3袋の4個入りみかんを見て3+3+3+3だと思おうが(2*2)*3だと思おうが10+2だと思おうが構わない。他人と考えを共有するための道具なら前提から論理を組み立てる訓練が必要で、掛け算の順番にまで気を遣わなければ意味のある結果を出せない。数学はどちらをする科目でもあることに我々は自覚的だろうか。

顔面障害は「障害」と認められないのはなぜ?

顔面神経麻痺といった医学上の正式な疾患ではなく、顔の美醜によって受ける社会的不利益や困難、損失のことね。

顔面障害ではなく「恋愛障害」と表現してもいい。

KKOやBKOであれば、詳しく書かなくても分かってくれるだろう。

容貌の美しさによって周囲の人間から受ける扱いが変わったり、ひどい時にはイジメ迫害を受けることもある。

身体障害精神障害に関しては、賛否両論あれど社会によって社会保障対象として手厚く保護してくれる。

現在行われているパラリンピックのように、国家イベントとして盛り上げてもらえる。

しか顔面の美醜で不利益を受ける人間には、何の保障もされていないではないか

第3次産業従事する日本人過半数を超えていて、誰しも顔面の美醜による利益不利益に関心を持っているにもかかわらず、未だに顔面障害は「障害」だと認められていない。

人間は顔より心が重要から障害」だと認めることが出来ない、というロジックなのだろうか。

繰り返すが、顔面の美醜によっていじめ迫害といった実害につながるという実態があるので、障害として認めてもいいのではないか

私には夢がある

それはパラリンピック顔面障害者(恋愛障害者)も普通に出ることが出来るような社会の実現だ。

anond:20210826174656

アニメ賛否両論だったが、原作と設定変えずにやってる平均値は好き

書籍の方もずっと買ってる

2021-08-24

anond:20210824185719

おおっ、成功例!うちデスク私物多い人結構いるか賛否両論ありそうだけどそういうの平気だった?

フジロックフェスティバルを開催してくれてありがとう

ギターに初めて触れたのは高校生の時。

それから数十年、会社員をしながら趣味バンド活動をしていた。

音楽勇気が貰えたこともあった。

音楽が好き、という自覚もあった。

幸い良いバンド仲間にも恵まれていたので1~2ヶ月に一度のペースで都内ライブハウスコピーバンドだけどライブもやっていた。

 

最後に人前でギターを弾いたのは2020年1月ごろ。

スタジオでのセッション

人前に出てギターを弾く事はとても楽しかった。

他に得意なことも無かった私には、まあそれでも「弾けない人よりは多少マシに弾ける」というレベルだったけど、自己表現をして対面で認めて貰えるというのはとても嬉しかった。

 

知っての通り世間コロナ禍。

私はIT系の仕事をしているので、2020年5月の時点で完全にテレワークへ移行した。

幸い収入が減ることはなく、通勤時間ゼロになったことで睡眠時間が増えてむしろ健康になったくらいだ。

テレワークが開始されてから今まで、会社へ出勤したのは3回程度。

都心に出ることもほぼ無くなり、近所のスーパーと家との往復。

行きつけのラーメン屋の店主とちょっとした挨拶するのが他人と対面で会話する唯一の機会になった。

 

このような生活を始めてからちょっと落ち着いた頃に「無観客の配信ライブやらないか」とか「限られたメンバーのみでスタジオセッションやらないか」など誘われたことがあったが、この状況下で「人が移動すること自体に様々なリスクがある」と思っていたので、すべてお断りした。

また、コロナ禍の出始めのころ「ライブハウスクラスター」といった話が広がったこともあって、ギターを背負って外に出る事自体に後ろめたい気持ちが少しあった。

余計なことをするとライブハウス迷惑がかかってしまうのでは?とも思っていた。

 

そんな中、オリンピックが延期になった。

当然のことだと思った。

結果、オリンピック2021年に開催して無事(?)に閉会となった。

個人的には今も、やるべきじゃかなったではないかと思っているが、私のような凡人には正解は分からない。

 

そして先日、2021年8月フジロックフェスティバルが有観客で開催となった。

ネット上では賛否両論が今も見ることができる。

 

オリンピックが開催されたのだからフェス大丈夫だろう」

「無観客のオリンピックと有観客のフェス比較にならん」

政府批判の場になっている」

医療従事者のことを考えていない」

 

などといった色んな考えが見られる。

 

上記は私がネット上をなんとなく見ててのイメージなので正確な発言ではなく個人的な印象が含まれています

 

フジロックといった屋外フェスは一度も行ったことがない。

なので、動けるうちに一度は行ってみたいなぁ、と以前から思っていた。

仮にもギターちょっと弾いている端くれだし、自称音楽好き」なので。

もっぱら洋楽ばかりを聴いていたので最近日本音楽は良く分からないのだけど。

 

オリンピック概要は以下のとおり。

・基本無観客

選手スタッフ原則選手から出ない

選手スタッフは定期的にPCR検査を受けて陽性の場合隔離等の処置

・今のところ日本国内への感染拡大に繋がったという事実確認できていない(のかな?)

バッハさんだけが銀ブラ

・各国の選手スタッフからオリンピック開催について感謝言葉がちょいちょい聞かれる

 

フジロック概要は以下のとおり。

・例年より人数を減らしての有観客

出演者スタッフ主催が決めた感染対策に応じた行動をしているはず

・観客も決められた感染対策ほとんどが応じているはず(?と思いたい)

・が会場内での飲酒、帰路での宴会SNS等での目撃情報あり

・今のところ日本国内への感染拡大に繋がったという事実確認できていない(まだ終了して日が浅いし)

・一部の出演者が現政府批判する発言が聞かれ、分断は本意じゃない、とか言っているらしい

 

オリンピックフジロック(とGOTOトラベル)の共通点だと思った事

一定数の割合にたいして「人の移動って大丈夫なんだ」「他がいいならうちらOK」という雰囲気を作り出してしまたこ

 

やっぱり最後の「雰囲気作り」を失敗してしまったのだと思う。

政府にも色々問題点があると思っているけど、まあ、がんばっているようにも思える。

見えないところで色々と利権やら利害があったりするのも昔からであって、今に始まった話ではないけど。

 

政府の明確な失策はこの「自粛しなくても大丈夫という雰囲気作りを制御できなかった」ことだろうし、私達側からすると一定数の割合で「もう大丈夫なんだ」「あっちがやってるから私達も我慢しない」といった自制をすることができない「雰囲気に流されてしまった人たち」が結構いることが残念なところだと思う。

 

そろそろ表題に戻るが、オリンピックフジロックフェスティバル世間への雰囲気作りがコントロールできない時点で、開催をしない、あるいは開催の仕方をもう少し考えるべきだったと今も思う。

ギターが好き、音楽が好き、を自称する私もフジロックの人の密度SNSで見てしまうと、ちょっと怖くなってしまった。

また、SNS上ではバンド仲間が、無観客とはいえ人の流れを止めることは考慮していないのか、ライブのお知らせやセッション開催を普通に告知していたりする。

 

ここで2つの考えがよぎった。

・私は自称音楽好きを名乗っていたが命をかけてまで(あるいは他人迷惑をかけてまで)フェス参加やライブ開催を良しとしないので、実は音楽は好きじゃないのではないか

・人の流れを抑制しなければならないという考え自体が実は世間とズレており、心配しすぎなんじゃないか

 

どちらも正解かもしれない。

 

特にフジロック騒動を見て思ったことは、自分が信じていて助けられていたと思っていた「音楽のチカラ」って実はそれほど大きなチカラじゃなかった、あるいは存在すらしなかったのではないか、と。

もし音楽に絶大なチカラがあれば、私程度の人間なんてコロっと引っ張られて「そうはいってもフジロック開催できてよかったよな!」と思っていたかもしれない。

ただ「音楽のチカラ」を信じたい気持ちはある。

少なくとも結構な人数の人が「そうはいってもフジロック開催できてよかったよな!」と心に刺さっているからだ。

私には刺さらなかった。

ということは、やっぱり自分はたしいて音楽きじゃなかったし、ギター自己アピール方法ひとつというだけで、自分人生でそれほど大切なものじゃなかった、と思うようになった。

 

「この程度」のことは人の命には替えられないし、何より感染拡大が進んでいて病床がパンパンの状況であってもひたすら懸命に命を繋ごうと奮闘していただいている医療従事者の方に必要以上にご負担をかけられない、という意味で人の流れを減らして感染を少しでも広がらないようにする、という考えが今は最優先であるべき、と改めて思うようになった。

 

こんな考えに至ったのはおそらくフジロックフェスティバルが開催されたからだと思う。

フジロックフェスティバルのおかげで、フジロック騒動のおかげで、出演者の行動や様々な発言を見ることができて、「私の「音楽好き」は音楽が好きと思っている自分が好きだっただけ」「音楽のチカラはほどほど」という事に気付くことができた。

命を最優先にしたい気持ちは変わらないが、私は音楽好きを自称しないし、もうギターを弾くことも無いと思う。

私の音楽への価値観を見直すきっかけを作り、「音楽のチカラ」の程度を示してくれたフジロックフェスティバルには改めて感謝したいと思う。

ありがとう

 

あとづけ:

というわけで今は家に引き篭もって淡々FF14プレイ中。

そしてVチューバー動画を漁ってる。

オンラインゲームYouTubeコロナ禍において最高にマッチしているエンタメだし、感染拡大を抑制するチカラを持っているなぁと実感。

 

追記1:

慣れない投稿だったので段落が皆無だった。

段落ちょっと追加してみた。

音楽業界仕事のやり方を変えろよ

旧来のビジネスが上手くいかなくなったら新しい金儲けの方法を考えるのが仕事だよな

テレワークの推進だってそうだし、テイクアウトメニューを用意するのだってそう

賛否両論だろうが個人的にはオリンピック無観客も該当すると思う、オリンピックはほぼ公共事業みたいなものだが)

娑婆企業環境の変化に合わせて投資して、仕事のやり方を変えて生き残ろうとしている

なんで音楽業界(や芸能業界)は社会が変わったのに自分たちのやり方を変えずに儲けようとするのだろう

フジロックもそうだし、ライブハウスもそう

例えばライブハウスだってカメラ複数導入し、YouTube配信環境を用意してアーティストオンラインライブできる環境提供するとかできたんじゃね

俺の挙げた例が上手くいくとは思わないが、環境の変化に適応しようとせず周りに迷惑かけながらただ従来のビジネスを続けようとするから嫌われるし理解されないのだろう

anond:20210824003850

2021-08-17

anond:20210817114726

今の時点だと賛否両論だけど、年末には空気変わってるでしょ。

コロナゼロにすることができないことがわかった以上、ワクチン打ったらもう終わりだよな。

2021-08-15

DaiGoだけじゃなくヘイトクライムに加担しているまとめサイト

賛否両論みたいな感じでPVを稼ぐまとめサイトもまじでどうにかしろ

DaiGoだけ批判して終わらしたらいけない問題だぞ

無視して済む問題じゃない

2021-08-14

anond:20210814001315

シンもちゃんとおわって肩の荷は降りたけど、なんだかんだ賛否両論だったQのほうがどうなるのか予想もつかなくて見てて面白かったんだよな〜

2021-08-13

anond:20210813142256

「分かれそう」って何だよ(笑)

全部マナー違反だわ

勝手賛否両論にしてんじゃねーよwww

2021-08-12

anond:20210812145031

「○○には賛否両論あるが〜」とか言って中立を装って明らかに間違ったことを肯定しようとする奴

2021-08-08

はてなユーザーやっぱりずれてんな

Twitterでもヤフコメでも、オリンピック記事に対して賛否両論はあるにしても選手への賞賛を送るコメントは多い。

が、それがはてブになると、まーひどい有様。固定のアカウントが張り付いてずっとオリンピック叩き。

オリンピックを見て楽しんでるユーザーは離れちゃってほぼコメントを残さない状況になってる。

今後この偏りは解消されることあるんだろうか。

2021-07-31

anond:20210731133719

納得するね。

そもそも賛否両論ある状態で、今大事なのが何だからこれが正しいと言って突っぱね、さらに実際正しいから支持されるのが正しい政治家

2021-07-30

借金玉氏、はじめて知ってTwitter見てみたけど主張は読めるが同じ話を延々繰り返してて怖い。深夜だからかな?

今まで誹謗中傷をたくさん受けてきたという悲しい前提があって?いまは

「金が出来たから金でしばく方法が出来るようになったぞ」

「金が無いけど捨て身でしばく方法もあって(したくないけど)その手札もチラチラさせっぞこういう方法もあるかんな?(したくないけどなーする奴居るかもってことはお前ら知っとけよー)」

(金でしばく方法をできればしたくないのは金がないほとんどの障碍者が出来ない方法から)


金も地位も手に入れることができた。顧問弁護士も手に入れた」

「俺障碍者


って話をなんかしてらっしゃる

論争論客どっちの何が正しいのかなんかよーわからんけど素人が何かの意見に突っ込むと逆の刀で返されそうなのでここは「見」にまわろう。


彼は発達障害者底辺からネット上の文筆業で成功をおさめたようで、当時から追っかけていた人にとってはかなりシンパシーを感じることができる人物に見える。実際苦労されたんだろうね。経歴は異例で恵まれてるとは思うけど。

でも、今から氏を知ろうとすると弱者(発達障害者)の立場強者(成功者)の立場を同時に振り回しているように見えるのだわな。

弱者であり強者でもある、というのはありえるんだけれど。

そこらへんは個人的シンパシーを感じないというか、嫉妬かなんかか好きになれない。

これは俺の好き嫌いなんだと思うけれど、最近似たような感情を抱いたことを思い出したのね。

大坂なおみさんなんだけど。

過去にもいろいろ主張してきた彼女記者会見ボイコットしてからいろいろ論争が起きていた中で、彼女うつ(英文文意がわからないので病とは確定してないんでしたっけ)と公表したんだよね。たしか

それまでは偉大なプロプレイヤー提言として眺めていたんだけど、この公表で俺の中で借金玉氏と同じように弱者(うつ病)であり強者(偉大なプロプレイヤー)になったんだよね。だから気持ちがスッと引いてしまってたぶん気分的にはアンチよりになったんだろうね。それからまり嫌わないために見ないようにしてる。

立場ある人の勇気ある提言は大いに歓迎すべきでいろいろな立場から賛否両論わき出ればいいと思うけれど、脳に障害なりうつ病なりある人に強い否定はしにくいよね。これが俺の優しさなのかはわからないけど99.9割違うよな。

勝手な印象すぎて申し訳ないけど地位と脳や精神に関する病を見ると「ガードされて有利」な格ゲーキャラ並みの理不尽な「強さ」を感じてしまうのだわな。相手病気で苦しんでるのにまさに理不尽思い込みですわな。

どっちの要素でも支援者はわんさか得られる属性なのにどっちも持ってるなんて虎に翼、最強すぎて嫌っちゃうのです。

(今、車イス乗車拒否うんぬんの人も思い出したけどあれは単純に初見時は高圧的で嫌いだったな)


じゃあ立場ある人は病を公表することも出来ずただ耐えなければならないのか!

っと考えてみると、とても困る。困るといっても俺は差別主義者?なので出来れば耐えてくれって思っててでもそんなの通らないから俺が黙って見てほんのり嫌うわけだ。今回のように。

うーん、せめて議論に持ち出さず、でも属人的ものから切り離せず……できればひとつ議論にはどちらかの属性だけで挑んで欲しい、のかな?俺、馬鹿から簡単なのがいい。激しくやり合える人とは激しくやり合い、やさしく寄り添うべき人には寄り添う単純なのがいい。です。はい。たぶん。俺の馬鹿ゆえの触り方がわからないアンタッチャブルさも嫌いを加速させてると思う。



何を嫌っているかもうちょっと自問してみると、目的達成への近さが気に入らないと思うんだよね。

彼や彼女のゴールは単純化するとおそらくネットリンチ者や記者?なりに勝利?することなんだろうけど、地位のある人の行動は成功やすいし、困難を抱えている人の行動も支援され成功やすい。両者が合わさるととても成功やすい。

俺は成功やすものには妬みから反感を持つので、たとえばオリンピック甲子園なら実力が下のものが上位のものに勝つ下克上応援ちゃう

国会なら野党が反対したりねじれ国会に持ち込んでも結局再可決で与党法案が成立しやすいだろってほんのりさめた目で見ちゃう

そんな俺でも世間にそれなりに折り合いをつけて生きているので、地位や金がある人は病を使って倍率ドンさらに倍って界王拳を使わないでくれって感じ。そんな彼らに噛み付けるみんなは俺には出来ないすごいバランス感覚議論ができる方々だから内容は別として噛み付くことは応援してるって感じ。かしこ

2021-07-29

anond:20210729130557

賛成多数→MMT低脳バカが多いか

賛否両論公共事業俺様が便利ならそれでいい

否定多数→五輪:目立つヤツが嫌い

はてな民政府支出に対する意識

賛成多数→MMT

賛否両論公共事業

否定多数→五輪

 

結果として公から民に金が流れるだけなのに、賛否まちまちなのはなぜだろう。

2021-07-25

はてブ醜悪さ指摘されてこの反応

しかも、スターがめちゃくちゃ集まる

これってどうなってんの?

罵詈雑言悪口の類いを言わないってそんなに難しいか

これな↓

「le_cinema この熱量キモ賛否両論あって当然。選手バンザイ!の人は他人にもそれを強要しようとする。本当に厚かましい。」

竜とそばかすの姫のレビューが軒並み「この監督やばい」感出してて笑

「竜とそばかすの姫」レビュー 危険すぎるメッセージ脚本の致命的な欠陥

https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2107/25/news017.html

[竜とそばかすの姫] - レビュー 現代における『美女と野獣』の寓話を語りましょう

https://jp.ign.com/ryu-to-sobakasu-no-hime/53430/review/

『竜とそばかすの姫』解説細田守作品賛否両論になる理由が改めてわかった

https://cinema.ne.jp/article/detail/47108

「竜とそばかすの姫」の違和感を紐解く-誰のための何目線映画だったのか -

https://note.com/meiroman/n/nfd547b8b82b2

 

まあ細田監督エグい題材扱う割に最後性善説で閉じるのがよくわからんところはあるよね

2021-07-24

オリンピック開会式感想

序盤は前衛的すぎてわからん

君が代はやっぱりMISIA歌(゚д゚)ウマーてなった。

入場式はゲーム音楽賛否両論あるけど知らん人からしたらただのかっこいい音楽だしいいんじゃないかな。ループはもうちょい曲増やしてもよかったんじゃないかと思うが。

ドローンはまじすごい。

バッハ話長すぎ校長先生かよ。

合唱良かった。

劇団ひとり選手にもウケてたね。

ピクトグラム競技内容の紹介もあるし今回のベストだと思う。

ピアノ歌舞伎は合ってんのかよくわかんないけどカッコ良かった。

聖火は医療関係者いれたのはいいと思う。

オリンピックが曝け出したゲームに対する差別意識時代遅れ認識

今回のオリンピック開会式では、賛否両論があるらしい。もちろん、「表現」において賛否重要である。誰もが絶賛するような作品存在しないし、存在してはいけない。ただ、作品批評を超えて、ゲームを「メインカルチャーではなくサブカルチャー」と見下したり、「ゲーム音楽程度」という表現を使う者が散見された。

これは作品批評とはかけ離れた評価であり、差別的であるとすら言える。そして、さらに悪いことに時代遅れ認識でもある。ここではそれを書き留めて、指摘していきたい。

そもそも文化に「サブ」と「メイン」という区分けを設けること自体が異様にも思うが、ここではそれに言及しない)

ゲーム文化

何を持って「文化」というのかは不明であるが、ゲーム映画に負けず劣らず文化性がある。

例えば、社会性。オンラインゲームは、良くも悪くもコミュニケーションを促進する。これは社会性と言える。

また、ゲーム談義。これも映画評論し、議論し合うのと同じだろう。もちろん、とき罵倒や難癖、アンチなどを生み出し、建設的な議論など難しい場合も多いが、それは映画もさほど変わらない。映画ファンが、お高く止まってゲームを見下す理由にはならない。

また、社会風刺するゲームだっていくらでもある。「Say No! More」や「還願 Devotion」、「Not Tonight」など。他にも様々なディストピアを描いたゲームや、政治皮肉った表現など、ゲームには珍しくない。

他にも、「BEYOND」や「James Bond 007:NightFire」、「Until Dawn」など、古くからゲームモデル俳優を起用する例も多い。また、ゲーム関係者映画演出担当したり、逆に映画関係者ゲームプロデュースになったりなど、そもそもこれらの業界対立関係にない。これらを差し置いて、ファンが「ゲームは俺の趣味より低俗」と見下すのは、なかなかに滑稽で、わりと風刺的でもある。

ゲーム経済

文化には経済という側面も重要である寄付しろ収益しろ、何らかのお金がないと芸術は先に進まない。

これでも、ゲームは「文化」の中で最先端を突っ走っている。

歴代で最も集積を上げた映画は、「アバター」の3146億円らしい(2019年に「アベンジャーズ」がトップになったが、2021年アバター中国などで再上映されたため、トップに返り咲いた)。

さて、これに対抗できるゲームタイトルはあるだろうか。もちろん、存在する。ポケモンgoは、サービス開始以来の5年で5500億円の収益を出したという(2021年7月時点)。

もちろん、映画は上映以外にも、サントラやグッズ、DVDなども売上になる。だから、これらがプラスされれば、ひょっとしたらアバターのほうが上になるかもしれない。また、基本的に1度の上映で客が満足する映画と、5年もユーザー継続するゲームでは、比較することがナンセンスかもしれない。

しかし、単純な収益で見れば、ゲーム映画ガチンコで戦えるレベル経済性も有していることが証明されたわけである

結論

さて、これらをもって、どうして「ゲームはサブだ」と見下せるのか。

マイクロソフトゲーム業界に殴り込みをかけて久しいし、昨今ではGoogleAmazonAppleなどが、独自ゲームを作ろうと躍起にすらなっている。

このように、もはやゲームは、文化の面でも経済の面でも「サブ」とは到底言えない存在感を有している。その事に気づかないのは時代遅れである理解し、そろそろ「価値観アップデート」すべき時期に来ているのではないだろうか。

そもそも、(言い尽くされた話でもあるが)100年くらい前には「映画低俗」「小説下劣」という時代があった訳だ。そんな価値観を「古臭い」と笑いながら、その古臭い人々と同じ価値観でいることなど、本当の文化人なら耐えられないはずである

2021-07-23

NHK放送法を遵守せよ

オリンピック開催には賛否両論あるのに祝福一色で開会式を中継するのは放送法の定める政治的中立違反する

https://note.kishidanami.com/n/nd7583da9b550

ラーメンズについて語るたびに、記事を書くたびに、言葉にするチャンスはどこにでもあった。あれはアカンのやと。

果たしてこれは、あり得たこなのだろうか?

たかファン一人が責任を取るなどとおこがましい」ってことじゃなく。

たとえば自分の好きなアーティストの、過去言動を「アカンかった」と「断罪」するのは難しくないかい?

コーネリアスファンなかにはそういう人もいたかもしれんけど。

ラーメンズの、作品上のネタ断罪するのは難しかったと思う。

この件も賛否両論あるくらいだし。

なんもない(こういう晴れ舞台に引っ張り出されてない)ときに、単発で「断罪」するには、それこそ文脈必要だよね。

なんで今それを掘り起こす?蒸し返す?みたいなことになる。

私はできる気がしないよ。

2021-07-12

病気」と診断を受ける意味

かつて自分ネットで絡まれた奴の一人にやべーやつがいた。

そいつは一つの国語表現固執するあまり不特定多数に自説を吹聴して回り、

あまつさえ特定国語学者のアンチまで務めるという壊れっぷりであった。

自分国語表現の正しさには素人なりに厳しいつもりであるが、

流石に目に余るのでそいつプロフィールを見たところ「発達障害」という文字列が入っていた、

ああそういうことね、と冷たくレスを返してみると、案の定相手がいきり立ったものである

ひたすら自説の正当性大義名分を主張しヒートアップしていく一方、

発達障害のものには一言も触れることはなかった。


私はそれを見て、かわいそうなやつだなと思った一方、

「なんのためにこいつは発達障害自称しているのか」と思ったものである

自分素人なので詳しいことは知らんが、ネットちょっと調べた限りでは、

発達障害はどうでもいいことに固執する傾向がある」というような話があった。

(下手に曲解するといけないので、そういうふわふわした理解にとどめておく。)

その性質自覚しているなら、そうなっていると指摘された時に、

「すまんな」「ええんやで」とならなくては意味がないのではないか

逆に言えば、それができないのが発達障害なのかもしれんが。

いずれにしろ、彼が発達障害と診断された意味微塵も感じられなかったのである




そういえばもう一つ、「病気の診断」に関して思うことがあった。

一昔前に「新型うつ」という概念流行たころ、それを否定する風潮が強かった。

お茶の間にとって「うつ」とは「常に気分が落ち込んでいるべきもの」という偏見があった時代で、

(あるいは今もそう変わってはいないのかもしれないが、少なくともメディアの扱い方は違う気もする)

「やるべきことに直面すると落ち込む、解放されると嘘みたいに明るくなる」という新型うつを見て、

「甘え」や「仮病」の二文字が頭に浮かぶ人は少なくなかったであろうと思われる。

その様子を見ていた自分は当時まだ子供であったが、子供なりにその風潮を憂えたものであった。


いざ自身大人になってみると、うつ病の人が周囲にちらほら出てくるようになる。

私の交友関係はだいぶ狭いほうだが、それでもあんな人やこんな人がカウンセリングを受けている。

仕事で心を破壊された気の毒な人もいれば、体育大学に通いながら精神を病んでしまった人もいる。

健全精神健全な肉体に宿れかし。そう思わずはいられない。

無知の知ではないが、うつ病とはわからものだなという事だけがわかってくる一方、

彼らが日々己の心身と闘っている様子が切実に見えてくるものである


しかしながら、うつ病患者からといって100%同情されるわけでもない。

知人のとあるうつ病患者は、日々の体調管理すら苦労している様子が見て取れる一方、

もともと愚痴が多いうえに「かわいそうな自分」に酔うタイプであった。

それを日々聞かされる周囲の人はだんだんと耐えられなくなり、距離を置くようになってしまっていた。

うつ病であることそのものではなく、自分に酔うことを苦々しく見られていたのである


私の身内にも距離を置かれているうつ病患者がいる。

元々ヒステリックな部分があり、機嫌がコロコロ変わりやすく、

子供のころから見ていた自分は「こいつ病気なんじゃね」と思っていた。

私が大人になるにつれて傾向は見えてくるようになり、

どうやら忙しいだとか面倒なことが控えると機嫌が悪くなり、

思うようにならないことがあると、それをしばらく引きずる形でまた機嫌が悪くなるようであった。

それにもかかわらず自身勝手なこだわりでタスクを増やし、

頼れるものに頼ろうとしても結局文句ばかりで一向に楽になろうとせず、

そうして忙しくなるとまた機嫌が悪くなるというマッチポンプばかりをしていた。

ネットを通して「そういう人もいる」という知見を得て、そういう人なら仕方ないなと思っていた矢先、

本人からうつ病であると打ち明けられたのである診断書を見せられるでもなく。

そのとき私が抱いた感情は「かわいそう」とか「お気の毒」ではなく、

申し訳ないが「それ見たことか」「何を今更」「で?これからどうする?」という気持ちであり、

正直言って同情は一切わかなかったものであった。

なぜなら自らを病に落とし込んでいるようにしか見えなかったかである




近年は様々な病気、あるいはナントカ症というものが多数生まれてきている。

先日某ラジオでも取り上げられていたが、とくに恐怖症になると枚挙にいとまがない。

お酒恐怖症でーす!なぜなら目の前にあったら飲んじゃうから!違うかw」という投稿には個人的にムカついたが、

ほとんどは「落ち着きをなくす」「立っていられなくなる」のような割と切実な訴えであったし、

自身の友人知からもそういう話は聞いたり、あるいは付き合ってきたものである

そうした新たな病気やらなにやらというものの周知が試みられているのもまた現代であるが、

じゃあすべて見て聞いて覚えられるかと言えば、そんな余裕は多忙な一個人にはないし、

公の場で突然異変を起こした人を「あ!これネットで見たやつだ!」と100%適切に助けられる自信もない。

ましてや「病気認定差別的ものになりうることは過去現代も同じであり、

無垢マイノリティの方々が切実な訴えをなさっては、様々な人間が入り乱れて大騒ぎになるところである


では「病気」という診断は何のために存在するのか?百害あって一利なしなのか?

そもそも病気」は「病気」のレベルでなければいけないのか?

私はそうは思わない、というか、「病気」だけが特別である必要がないと思う。




西川貴教という歌手がいる。

彼はかなり前に、声帯ポリープ発見されたことがあったらしい。

声を出すお仕事の人にとっては特に厄介な病気であり、切除をしてしばらくお休みをいただくのが常である

しかし彼は「付き合っていけば味になる」と割り切り、手術をしなかったというのである

そのせいもあってか度々喉の不調で活動休止ということもあったようなのだが、

2011年の時には「プロとして情けない」とツイートした履歴もある。

そういう心持ちでいらっしゃることがまさしくプロである


身体と心の不調では話が違う、と言われるかもしれない。

しかしながら私が言いたいのは、彼はある種の病を「個性」として受け入れたということである

先ほど述べたように現代病気の種類が増えていく一方で、

病気とまでは言われないものや、単なる性格に過ぎないものも細分化されつつあるように感じる。

あなたはこだわり屋さんです」とか「あなたネガティブです」とか言われても、

それは正式病気や障碍ではないし、なんらかの公的な援助が受けられるわけでもない。

あるいは病気や障碍とまでは言い切れない「グレーゾーン」なるもの存在するようである

そういう「個性」が明らかになったときに、自分はどうするのか?

自分がその個性とどう「付き合ってい」くか考えていくべきなのではないか


もちろん病気や障碍には「どうにもならない」「仕方がない」部分はあるし、それに伴う人並み以上の苦労もある。

では病気や障碍であるからといって何もかも許されるのか?

自身身体コントロールできない病なら、どんなに偉そうにして厚かまし要求をしてもいいのか?

自身精神コントロールできない病なら、コントロールを諦めて好き勝手罵詈雑言を吐いてもいいのか?

一般人にとっては、大義名分があるから批判することは難しい。でも人として嫌な思いはする。

そうして直言を受けることなく、一部の優しい人に甘やかされ続け、他の人からは疎まれ

傍若無人にしてある種の孤独モンスター、言い換えれば「裸の王様」が生まれる。

とくにマイノリティにおける過激派は、どいつもこいつもこうなってはいいか




実は私も一度だけ、カウンセリングをすすめられたことがある。

相手は肉親でも何でもない、大学一助教授であった。

大学の授業に通えていない現状を憂えてのことであったと思われる。

当時の自分は「怠けているだけなのに病院に行かせてくださいだなんて…」と、

周囲に言い訳がつかないからと助言を封殺したのであるが、

今思うと「たとえ病気でなくても」医者にかかったほうがよかったのではないかと思っている。

自分が怠けてしまう原因を明らかにできたかもしれないから。


結局二度と機会は訪れなかった私であるが、

大学時代におけるリアルネット交流を通じて多くのことを学び、

時には大きなトラブルを起こして教訓を肝に銘じ、

また時には友人からの諫言も受けつつ自分自分なりに成長させることができた。

かつては絵に描いたような「メンヘラ」だった私も、

今では精神疾患を冷静に分析し、自身客観的に見られるようになり始めた、と思う。

そうか?と思われるかもしれないが、少なくとも昔よりはマシである

なぜなら今思い返すと「昔の自分」が恥ずかしくて仕方ないかである

未だに昔の自分に同情する部分もないわけではないが、

一方で人の振り見て我が振り直すことも多くなった。

それだけ人の、自身の「醜さ」というものをより理解できるようになったのである

自身の気分の落ち込みも「これは見苦しいな」「こうすればおさまる」と自己分析し、

専門家によらないセルフコントロール自分なりに築き上げてきた。

そんな自分から見ると、コントロールのもの放棄している人が理解できないのである




現代科学西洋医学時代であり、「病気を治す」ことに邁進しているものと思う。

しかし一方で、「付き合っていく病気」というものは決して無くなるものではない。

今のコロナ禍においてもワクチン接種が進む一方で感染は防げない!と言われたり、

変異株に対する懸念が未だワイドショーをにぎわせている。

一方で人類は今まで毎年インフルエンザと付き合ってきており、

新たな生活習慣においては鳴りを潜めたことで、日々の感染対策重要性が浮き彫りになった。

ワクチン打てばかからない!でもなければ、タミフル飲めば大丈夫!でもなく、

自分ができることをして病気と付き合っていくことこそが大事であると改めて示されたものと思っている。


以前ネット上で「自分の機嫌は自分で取る」という言い回し話題になった時には、

元ネタを離れた曲解もあってか賛否両論を呼んだようであるが、

それができるかどうかはさておき、やろうと思わなければ始まらないのである

不機嫌な自分正当化するだけでは、だだをこねる子供と変わらないのである

自分の心をなだめてあげること。

心の不調の原因に向きあうこと。

それをやらずして「病気」に甘んじていては何の意味もないのである


人はたいてい、何かしらのハンデを抱えている。

それでも人は、一般人に混じって生きていかなくてはならない。

病気や障碍を隠して生きるよりかは、カミングアウトできる世の中であってほしいが、

カミングアウト免罪符と誤解している人間は、その秩序を乱してしまう。


自分に対しては、病気個性を認め、なるべくコントロールしてみよう。

他人に対しては、病気個性を認め、なるべく受け入れてあげよう。

それらが並立して初めて、やさしい世界体現できるのではないか




そんな自分の願望を尻目に、今日ネットの「病人」たちはレスバトルにいそしむのであった。

2021-07-07

anond:20210707101801

実在する人物だし91年というのは本当だろう

ただ後から文献で学んだ部分を、さも当時の自分実体験のように錯覚、補完しているんじゃないかと思う

たとえば自分ドラクエ世代ながら殆ど後追いなんだけど、知識としては「2の途中で1の大陸に行ったときは感動した」「4は発売当時は一本道で賛否両論だった」「7は延期しまくりでCMネタにまでされた」というのを、それこそインターネット掲示板とかまとめサイトで学んでいるから、同年代ドラクエガチ勢とも「いやー、あのときはねー、○○だったよねー」って話を合わせられるんだけど、それって文献から得た嘘の記憶なんだよな

よしきさんは結局何を言いたかったの

「どういう表現公共の場にふさわしくないか」の基準を作っていくという極めて大事プロセスフェミに丸投げするなんてとんでもない

https://note.com/yoshiki_stu/n/n57b247afee6f

というnote増田反論してくれる人がいました。

本当にありがとうございます

やってかせていただきます。 

なげー文へのなげーレスポンスなので読む人もいないだろうしほぼ私信状態になると思います

  

 

1よしきさんは「基準を示せ」に賛成なの?反対なの?

いきなりですがまずわからんポイントです。

 

 

ブログで当初のよしきさんの主張は以下の感じです。

そもそもフェミに「基準を示せ」と要求してる人は、何がやりたいんだ

それは法律判例世界でしょや。そういう議論を突き詰めていったら法の出番になるやん。

フェミの人が基準を示したところでどうせまた反発するだけやん。

新しくフェミの人が基準示したところでそれをリンチするだけでしょや。

その表現は許されんぞー!と主張する人に「許されない表現基準提示を求めること」、

それ自体を徹底的に否定しておられると思います

 

  

でもツッコミ的なはてブを見た後でよしきさんが書いた追記はこれです。

>「許されない程度に性的である」と主張する人は自分の主張している基準客観的にチェックできる形で明示すべきである

個別具体の例について批判する際に基準を示すのは当たり前である

 

なにこれ?

基準を求めることについてよしきさんがどう思ってるのかさっぱりわかりません。

レスポンス見て考えたら意見グルっと変わりました」なら全然かまわないんだけど(ならそう書いてほしいんだけど)。

もしも「私は最初からそう言ってます」的なやつならさすがにどうかと思います

  

まあ最終的に「基準を示すのは当たり前である」になったならそこは意見一致なのでそれ以上言うことはないんですが。

 

 

2.よしきさんのトイアンナ批判について

読んでいくとなんでかトイアンナの話の方が多いくらいなんです。

そもそも私はトイアンナには1ミリも触れてないしあんま興味もないし

柴田英里の発言とそれに対する大野先生エアリプについて」と最初言及範囲を明示してるのですが

わざわざレスをくれたんだからトイアンナの話も付き合いましょう。

  

これはかなり悪質な印象操作だと思う。 

 

「好評だったのに、性的であるという理由一部の人間がクレームを入れて取さげさせた」ならトイアンナさんの言ってることはわかる。

でも実際ははてブをみてもわかる通り「性的要素なしにしても全面的に不評だった」のだ。宇崎ちゃんの時とはまったく事情が違う。

 

しかしトイアンアさんは宇崎ちゃんの事例に重ねる形でこの事例を紹介している。結果として、この二つを混同する人が多かった。

 

ほとんどの人が支持してなかったものを取り下げた」という事例が、読者の中で「フェミニストによる弾圧」のイメージすり替えられてしまっているのだ。

ここだけでツッコミたいことが結構あります

 

 

3.好評不評は関係なくね?というか関係しちゃいけなくね?

わざわざトイアンナの方も読みましたが、

よしきさんの非難に反し、トイアンナは「人気のポスターだったのに」とか「好評なポスターだったのに」なんて言い回しは全くしていません。

あのポスターが人気だったかどうかということ自体触れてもいません。 

 

当然だと思います

だってそもそも「許されるべきでない表現」は人気不人気で決まるんですか?

不人気な物なら雑な「許されるべきでない」認定を食らわせて抹殺しても問題ないの?

人気のある物ならなら「許されるべきでない」認定を思いとどまるべきなの?

 

逆でしょ? 

みんなに大好評な物であってもそれが自分の中の明確な基準に照らして「許されん」と信じるなら堂々とそう声を上げるべきだし 

まるで人気のない不評なものであっても怪しい「許されん」認定が下されそうなら「ちょっと待て!どういう理屈で許されないんだ!」と質すべきでしょ?

 

大衆の人気度合いに「許されなさ」が影響されたらそれはただの阿り、お調子もんじゃん。

皆に嫌われてる表現は悪認定して殺したれーって最悪でしょ。

 

きちんとスジや基準を明示した「許されない」認定をしてくれっていうのは

まさにそういうボンクラな話が嫌だからなんですけどね。

 

 

4,トイアンナはよしきさんルールを共有してないと思う

また、性的要素だけに限っても「私は、少なくとも満たさないと思う。

少なくとも、当てはまるかどうかは穏便に賛否両論するレベル」というトイアンナさんの主張は微妙ではないか

これに関しては「満たす」の意見の方が多いと思う。少なくともフィフティーフィフティーではない。今回の件に限って言えば、フェミ教授意見はそれほどおかしくない。

これも同じく意味不明なんだけど

え、それ多数決で決める話だったんですか?

 

理屈基準もない意見なんかいくらあっても「バカが沢山いるね」でしょ?

意見おかしいかおかしくないかって世間支持率で決まるの?

 

そんなんならもう例えばフェミニズムとか成り立たなくね?

「女は半人前だから父親や夫に従え」「女は家の中で働け」「女に選挙権なんか要らん」って価値観多数派だった時代

「これはおかしい。いまは少数派でも私が正しい」って頑張った女が物事を変えたんじゃないの?

 

よしきさんの「正しさは世間の支持度合いに影響を受ける」理論なら女はずっと弁えて家にいるのが「正し」かったですね。

ちょっともう何言ってんのかついていけないです。トイアンナがどうこうじゃなくあんたがおかしい。

   

で、トイアンナの話に戻ります

よしきさんの中にあるらしいヘンテコな「世の人気に影響されながら許されない認定する」ルールトイアンナが共有してる可能性は低いので

「宇崎ちゃんポスターミニスカポスター混同を図った!」というよしきさんのトイアンナ批判

一人相撲可能性が高いと思います

 

 

5.トイアンナの言ってたこ

一応よしきさんが「トイアンナ自分と同じルール採用してる」と誤解した理由っぽい箇所はトイアンナ記事の中に見つけました。

 

トイアンナは宇崎ちゃんポスター騒動を振り返って自分の中で是と否の論点を整理しつつ「賛否両論の段階」という言葉を使ってます

ちょっと変な言葉使いなのは確かですが、これをなんかしらんけどよしきさんは「世間の支持度合いがフィフティフィフティ」って意味と読んだんですね。

まあトイアンナはどう見ても「攻防の論陣が均衡状態」という自分の中のジャッジの話をしてるだけです。

 

ていうかそもそもポスターに対する支持不支持がフィフティフィフティっていったいどこで観測するんだよ。

もしほんとにそんなこと言ってたらトイアンナおかしいわ。

そのフィフティフィフティを疑問なく受け入れるよしきさんもやっぱりおかしいわ。

 

 

6.村と世界区別がついてないのでは

あとなんでかしらんけどはてなの反応とかで「世間の支持度合い」を測ってるっぽいのは本当におかしいですわ。 

はてなとかtwitter特殊タイムラインとかで分かるのは

非常に特殊人達の固まり切った脳による攻防だけです。

 

宇崎ちゃんポスターミニスカポスターについて、本当の世間の支持不支持はどうか?

「どうでもいい」が圧倒的1位だと思いますよ。 

「そんなことで必死に言い合いしてる奴等キモい」が2位じゃないですか。

  

  

7.結局、大野先生に対する批判のどこがおかしいと言いたいの?

これが一応本来の本題、かつ一番勘弁してほしい部分です。

連ツイの中で増田への回答はほぼなされている。

そこを伏せて「まともな回答がなされてない」ような印象操作をして「先生しっかりしてください」とやる増田普通にレギュレーション違反で失格でしょ

いやその連ツイはきちんとURL貼ってるし

なによりあなた引用してる所の多くは増田引用してますよね?

 

特に太字の部分について、増田も太字で引用して

「これが大野先生おかしいところです」と言ってるわけです。

「伏せて」とは? 

具体的に何が伏せられたんですか?

  

見ればわかると思うので一つ一つは指摘しないが、

太字あたりを念頭に置いたうえで、「先生しっかりしてください」の増田を読めば、ほとんどのことはすでに連ツイの中で回答されていることがわかるだろう。

えっ

一番肝心なところが「見ればわかると思うので」で回避された。

一番大事なところが内容ゼロ

 

よしきさん「増田反論するぞー、増田は論外であるぞー」

増田「ほうほう拝見しますぞー」

よしきさん「見ればわかると思うので指摘はしないがーーー」

増田「え???

 

こんなんあり?

よしきさんが何を反論たかったのかさっぱりわかりません。

だって本当に、文字通り、全く、なんにも説明出来てないんだもん

  

からそういう自分の主張の肝心な部分を「わかるだろ?」みたいに説明せず逃げるのはやめましょう

っていうのは大野先生のあのtweetに対しても言ったことです。

 

よしきさんはさすがに再度説明してくれると思うけど

これでなんか不貞腐れた感じになったり勝利宣言したりしながら説明せずに終了とかしたらさすがに呆れます

 

  

8.まとめ 結局よくわからん

わざわざ「増田は間違っておる!」と大上段の反論記事書いてくれたのでわーいって読んだのに

全然関係ないトイアンナの話を大量に読まされたあげくに増田への反論は中身ゼロって

あんまり仕打ち過ぎないかしら。

反省してよね。

 

あとはてブ民に対しても

はてブから人がたくさん来ちゃってなんのためにnoteで書いてるのかわからなくなってるので2日ほどマガジン読者以外に非公開にしますね……。

読みたい人はその後で来てください。正直noteは「めんどくさいはてブ民がこない」ことを前提に書きなぐりしてるのでいろいろ雑な記述あったと思います。ごめんなさいm(__)m

これはないんじゃないの。

めんどくさい話をしてる増田を拾い上げて反論(nullだったけど。)したらめんどくさいはてブ民がついてきたーって

猫の死体蹴ったら足にウジがついたーって言ってるみたいな感じで、被害者ヅラするとこちゃうぞと思う。

 

あと反論しようとしてくれること自体感謝してるし少しも悪く思ってないのはわかってほしい。他のこれから反論レスポンスをしてやるぞって人もね。

 

とか書いてたらnoteに追加エントリ来てるのかしら。

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