2023-03-15

論理的思考に操られているかもしれない

「君の言っていることはすべて正しいけど、面白くない。」

何年か前に読んだ雑誌コピーで、当時かなりの衝撃を受けたことを覚えている。

今でもたまにこのコピーを思い出してドキッとすることがある。

自分論理的に考えることが得意なほうだ。

エンジニアという職業では特に論理的に考えることが必須スキルとなる。

それは「正しさの判断」が必要な場面が多いからだ。

エンジニア仕事は、正しい方向へ向かうための判断を繰り返すことに他ならない。

ビジネスのためにどのようなシステムを作るべきか?アーキテクチャの選定はビジネス課題解決になっているかアプリケーション実装ビジネス意図した動作をするか?

こういった判断をする際には、常に論理的思考が役に立つ。

職業病かどうかわからないが、日常生活でも無意識論理的に考えることが増えたように思う。

脳が勝手論理的思考しているような、そんな感覚がある。

エンジニア仕事では論理的思考は役に立つが、日常生活ではむしろ邪魔になることがある。

それは、論理的思考が「正しさの判断」にしかならないからだ。

日常生活で正しさが求められるシーンは限られている。

正しいことが他の何よりも優先されるのかといえば、当然そんなことはない。

正しさがある程度証明されたからといって、それが何になるんだろうか?

共感を求めている人に正論を叩きつけたり、別のコンテキストに立つ人間同士が正論を言い合ったりすることは、ほとんど無価値だし、むしろ憎悪の原因にしかならない。

エンジニア仕事でさえも、論理的思考邪魔になる場面があると思う。

論理的に考えることは、ある程度の時間がかかる。正しさの判断をするために時間をかける必要がない場面は、無限にある気がする。

正しい判断が求められず、速攻で理由もなく決めてしまえばいいようなトピックに関しては、論理的思考コストしかなっていない。

まり合理的でないが論理的判断をしてしまうケースはよくある。

それでいても論理的に考えたくなってしまうのは、論理的思考がすべてを解決してくれるように見えるからだ。

しかしたら人は根源的に、自分が正しいことの保証を求めるのかもしれない。

夢の中でさえ論理的思考していることがある。もはや論理的思考に操られているのかもしれないと思う。

論理的思考に操られないためには、「正しさの判断必要か」を考えることだ。

論理的思考はすべてを解決するわけじゃなく、正しさの判断しかならない。

正しさの判断不要な場面では、むしろ毒になるかもしれない。

感覚で考えること」と「正しくないこと」の両方を肯定する必要がある。

まず、感覚で考えることは、論理的に考えることの真逆というわけでもない。

感覚で考えた結果が、論理的に正しいこともあるだろう。

それに、もし考えが論理的に正しくなかったとしても「別にそれでいいじゃん」と思える寛容さや「間違ってるけど面白いね」と思える柔軟さを大切にしたい。

この文章を書いている最中でさえ、正しさを常に思考している。

たぶん、もっと絵を見たり音楽を聴いたり、自然に触れたりしたほうがいい。

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