はてなキーワード: 洗礼とは
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・ウォータースのドネアKO
・パッキャオ復活
・井上の躍進
・ロマチェンコ、サリドのダーティーなプロの洗礼に屈するもゲーリーラッセルを下し最速世界王者に
・相変わらずウラディミール・クリチコ強し。隙がない。
記憶を辿りながら今の世界チャンピオンを眺めてみるとこんな感じか。
今年は全体的にディフェンスに注目が当たった年だったように思う。
ガードやパリングだけじゃなく、フットワークやボディーワークに加えてポジショニングの上手い選手が上位選手として名を連ねている。
ロマゴンやゴロフキンといったKOモンスターも攻撃にこそ注目が集まるが、ディフェンスのレベルも恐ろしく高い。ロマゴンに至ってはインファイトでも殆ど強打を貰わないので、あれだけ一方的に攻め続けることができる。
マイダナによるメイウェザー崩しは功を奏しかけた。普段なら使わないような左上からの打ち下ろすようなフックはL字ガード崩しの新たな定石になりそうだ。
来年の展開
パッキャオの復活によって長年待たされ続けたパッキャオVSメイウェザーの気運が高まっている。
恐らくメイウェザーは避けるだろうが、ブラッドリーのダッキングに外されまくったパッキャオが今のメイウェザーを捉えられるとは思えないというのが実現した際の個人的な見解。
後は今年頭角を現した新星がどれだけ実力を発揮してスーパースターへと上り詰めるのかというところが注目。
若手スーパースターがやや不足している感のあるボクシング界だけに、サウル・アルバレスやダニー・ガルシア、さらに日本の井上尚弥などにも期待したい。
人間の歴史の中で絶対に無視できないものだけど、水や空気や食べ物のように生存にそれが必須なものではない
でもそれが普通のことで、外国のように、国が宗教を決めたり、国民の宗教が統一されていることの方が不可思議に思われる
元来人間の精神というのは自由で、宗教を信じる自由、信じない自由もあるはずである
何を信じるかは個々人が決めればよいのだ
今の時代は、昔よりも幸せに生きられる人が多い時代なのだから、
たとえば、私の伯母はガンに侵されてから、夫の信仰するキリスト教に入信し、洗礼を受けた
そして死を受け入れて亡くなったと思う
でも祖母は、実家が神道の家だったので、祖父を葬儀を神道で行うといって、父と喧嘩した
今の私は祖母の気持ちがわからないでもない
いくら祖父の望んだことでも、自分の信じてきたことから外れたことをするのは受け入れがたかったのだろう
どうしようもなく辛い時期があって、辛さを忘れる方法を模索した時に、仏教の無常という考えに救われたことがあった
人間が生きるうえで、自分ではどうしようもなくなった時に必要なものがあって、それが宗教という形になっていると思う
今の時代は豊かなので、特に日本では、自分ではどうしようもないということが少ないのかもしれない
でも、宗教ってなんなんだということは考えてみてほしい
こちらこそお返事ありがとうございます。
カルト的な宗教、信仰の仕方をしている人は自己主張が激しいからそうなっちゃうのは致し方ないかもしれませんね。
一般的に自己主張は伝統的な宗教では嫌われる傾向にあるのが現実っていうか。
でも、ここ数年で日本でもキリスト教徒が3%から6%になったなんていう話もあったりなんかします。
ああ、わかるなあ。
12歳の時にあれが起きてから、色々変なスピリチュアルも流行りましたよね、今もそうですけど…。
正直ね、宗教アレルギー起こしてる人の方が何も感じていない人より、変なのにハマりやすいんですよね。
仏教の実践重視のところとか、キリスト教のカルトなあそことか、スピリチュアルなんて一番多いです。
あれ?宗教怖いとか言ってなかったっけ?って突っ込んだら、あの時のわたしはどうかしていた、とか言い出す始末で。
現世利益ちっくな信仰って一番厄介で、その思考になっちゃうと伝統宗教のところにはなかなか入れないし拒否されちゃうから。
実際「信仰に至るかどうかで悩んでるっぽい」似たような感じでうちの教会に来てる人って確かに見かけるんですよね。
話しかけるのがいいのかどうなのかわからないから、まだ話しかけていないんだけど。
書き込みを見て、その人にちょっとだけでも話しかけてみようかなあ、と思いました。
その時になったら「与えられる」ものですよ。
あ、そうだ。
日本正教会 http://www.orthodoxjapan.jp/
ウェブサイト見て、先に知識だけちょっと積んで行った方がいいかも。
できれば、行く直前に電話もしてみたら、教える人もラクかもしれません。
暦が違う(クリスマスが1月)とか、十字の切り方が西方教会(プロテスタント含む)と左右逆とか、
正教で洗礼受けた人じゃないと前の方行っちゃだめとかあります。
(※どこの教会行っても、前の方に行くのはやめた方が無難:聖書朗読する人が座ってます)
他の方が同じ教派のひと同士じゃないと結婚できないとか言ってますが、
寛容なところなら未信徒の方だけ呼んで勉強会をしたり、「こんなことに理解を示してほしい」と要望した上で
あと、堕胎をできるだけ避けるのはどこの宗教でも言われることで、キリスト教に限りません。
「ファイト!戦う君の歌を戦わない奴らが笑うだろう」とはアメリカ大統領の誰かの遺言だったと思うが、戦うのがダサい痛いとされる今時じゃそんな言葉は流行らないだろうな。
ジャンプ黄金時代とは違って90年代以降ポストモダンが浸透し明確な善悪の区別がすっかり消失したこともこれに起因する。ほとんど全ては善なのだ。みんな違ってみんないい。
では多様性ある今の時代何が重視されているかと言えば答えは簡単コミュ力である。我々(脱)ゆとり世代の日本人は義務教育課程でスクールカーストの洗礼を受けてお勉強よりも何よりもコミュ力の重要性を学ぶ。
しかしコミュ力という言葉は甚だ曖昧でそこには自信のなさから来る人見知りが多分に含まれる。要は日本語能力とか言語的知能の問題よりも対人緊張や受容的態度などの気持ちの問題が大きい。
なるほど確かにコミュ障が多いとされるオタクと言われる人達は排他性が著しく異質な人間たちとのコミュニケーションには困難をきたすが、対立感情のない仲間うちどうしでは円滑に交流しているように見える。
それで満足に生きていけるならわざわざ異質なものと交流する必要などないというのもポストモダンな現代社会における道理であろう。換言すればコミュ障それ自体には全く問題がないのである。
自分の幸福にとって必要な他者受容のレベルがどの程度かそれを見誤っていなければ、何らかの自分とは無関係なクラスターでコミュ障と非難されても気にすることはないのである。
しかし一方で気持ちの問題を度外視した純粋なコミュ力、これをトーク力と名付けるが、トーク力が無い人間はこれからの社会死滅していく運命なのである。
気持ちというのは(対人不安障害でもない限り)相手によって大きく変わるが、トーク力は誰が相手でも基本的に共通しているから大事なのだ。
聞き手の年代・性別・人種などで話題の展開しやすさに違いは生じるが、そこは知識ですぐに補完できる部分であり本質ではない。
話すべき相手なら当然事前に知識を入れてるはずであり、知識不足でうまく話せない相手というのはあまり関わる必要のない相手だから気にしなくて良いと割り切って考えることもできる。
ではどうやってプロはトーク力を磨いているのかという疑問が当然わいてくる。トーク力といっても様々な状況があるが例えば友達3人以上で話すときにはテンポの良さが特に重視される。
多人数であるほどあまり独りよがりに話を拡げることは出来ない。中身のある込み入った話が求められることも少ない。となれば自ずとテンポが最重要になるわけだ。
誰かが何か発言した瞬間に話をほんの少し拡げるような一言ボケを入れる。そんなスピード勝負になるから場をリードする人間であるにはスピードが命。瞬発的なトーク力のない人間に発言権はない。
瞬発力ない人間は発言権がないからなかなか多人数の会話でのトークスキルが磨かれないという負のスパイラルに陥る。でも作文の瞬発力は何も多人数のトークだけで鍛えられるものではない。
いやむしろ人との実際の会話よりも多くの時間を毎日費やしている日頃の思考のほうが大事なのだ。日頃見聞きしたものを独自の着眼点で吟味して話の引き出しに入れておく。
そしてここが重要なのだが引き出しを人との会話だけでなく自分自身の思考にも積極的に活用せねばならない。日頃使っているから素早く引き出しに出し入れできるようになるのだ。
さて話者が二人である時には、互いの興味をかなり具体的に想定できて共通の話題を見つけやすいため突っ込んだ話が可能になる。話題をテンポよく変える必要もない。
ここで重要になるのはスピードよりもバラエティである。バラエティと言っても娯楽番組じゃなくて多様性な。柔軟に変幻自在に話題を拡げられること。
結局これも日頃の思考がベースになってるんだよね。話題が広がらないと会話が途切れるのは誰しも経験したことがあるだろう。なぜ話題が広がらないかというと
話題の引き出しの少なさも勿論あるんだけど、それ以上に引き出しが乱暴にしか整理されてないのが大きい。例えば、トーク力が致命的にない人間に限って
大抵「女は馬鹿」みたいな凝り固まった考え方にとらわれている。過度な一般化と断定口調とそれを強弁するための乱暴な言葉遣いが特徴だ。
これでは浅い会話しかできず表面でしか繋がりのない人間関係しか構築できないのは当然である。そしてその原因は物事の認識が曖昧かつ大掴み過ぎることにある。
何も天才的頭脳なんて必要なくて普通に日頃から色んなことをまんべんなく考える癖があるかどうかの話だ。それが出来てる人ほど頭が柔らかく、話をしてても会話が広がりやすい。
元増田です。
付け加えたい。
「アウェーの洗礼」とは「アウェーでの試練」の言い換えと考えられるが、
洗礼は試練などではない
と言われるのではないか、と思いました。
元増田です。反応してくれて有難う。
英語に直すことが全てではないけど、英語にしたら我々の使っている意味じゃないことは分かるわけで。
http://eow.alc.co.jp/search?q=%E6%B4%97%E7%A4%BC
その派生義らしい
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/127769/m0u/
の
2 その後に影響を与えるようなことについて初めての経験をすること。また、ある集団の一員となるためなどに、避けて通れない試練。「新思想の―を受ける」「新入部員が特訓の―を受ける」
をみても、「アウェーの洗礼」というときの「洗礼」とは違うと思うんだよな。
誰が、どんなニュアンスで
「本拠地でない場所でのフェアプレー精神のない(いじめ的な)行為」
を意味する使い方が始めたのがか興味がある。
ちなみに、「ガラパゴス化」という言葉を初めて使った人の証言は検索すれば今でも見つかると思う。
俺は、その人の主張の線で考えても、間違った語の選択をしたと考えているが。
俺たちが止めるのも聞かずに、タカピー女が某国に旅行にいってかなりひどいことをされて帰ってきた。
言わんこっちゃない。
俺もざまぁと思った。
うざかったタカピーも収まって、俺はよっぽど、よくやってくれたって気でいた。
だけどそこにネトウヨ男がつけこんだ。
傷口に塩と胡椒と一味とレモン汁を隠し味にすりこんで1時間寝かせてオーブンで焼きあげるような、
なにもそこまで言わないでも、というようなひどいことを言っていた。
こりゃーいくらなんでも、ブチキレあるなと見ていたが、何もなかった。
むしろ逆に、女の方がどんどん萎れていった。
俺の知らない所で上下関係を覆す何かが進んでいたような。
何とは言わないけれど。
けどあいつ童貞だし、そんな勇気ないから、思いすごしかもしれない。
自分を襲った不幸には意味があった(自業自得だと思うが)と信じているようだ。
洗礼を受けたとか、神の意思とか、歴史の必然とかヤバい目で言っている。
聖母マリアの処女妊娠とからめて、おかしなメンタリティになっている。
ネトウヨ男から刷り込まれた知識とからまって、どす黒いえらいことになってる。
このままほっといたら、大阪であった日本人を狙った通り魔の逆バージョンな事件でも起こしそうで怖い。
今すぐ縁を切って逃げるべきだと思う。
だけど、未然に惨劇を避けるために何かするべきだとも思う。
俺はどうしたらいいんだろうか……
4月、上京してきた後輩のアパートを訪ねた。意外と良い部屋で防音もわるくない様子だった。
その時、オレはセフレを帯同していた。後輩に都会の女を味わわせてやるためだ。
最初は、「あ、オレの彼女。」とか言って紹介したんだけど、コートの下は下着しかつけてない露出狂モード。
しばらく談笑してたんだけど、「なあ、おまえ彼女いるの?」
「いや、いないっすよ。」
「じゃあ、こいつ喰ってみる?」と、コートをめくって下着姿を見せてやった。
「先輩の彼女じゃないんすか?」
「なんだよ、喰いたくねえの?」
「いや、喰いたいっす。」
「よし、じゃあ条件がある。オレのまえで喰え。」
「えっ?無理っすよ。」
「じゃあ連れて帰るぞ?」
しばし悩んだ様子だったが、「わかりました。」と性欲が勝ったようだった。
「じゃあ、とりあえず下脱げよ。」
勃起したちんぽが出てきた。
「おい、フェラしてやれよ。」
コートをはぎ、下着姿のまま後輩のちんぽを舐めるセフレをみていたら、ちょー興奮してきた。
「エロいわー。おまえちょーエロいわー。雌豚やんかー。」と罵声を浴びせていたら、なんかセフレが興奮してきちゃって、自分の指でおまんまんいじりはじめちゃった。
「おい、後輩、おまえも舐めてやれよ。」
目の前で繰り広げられるシックスナイン。なんかおかしくておもわずわらってしまった。
「もういんじゃね?いれたら?」
「そういやお前、キスしてねえだろ?ちゃんとキスしてやれよ。」と指導すると、後輩君は律儀にセフレにキスしていました。
二つ目が、3Pでした。これはセフレの希望。男二人に攻められたい、というので後輩に白羽の矢が立ったのです。
「ちょっと、バックで入れてやって。」まだセックスの主導権はオレ。
後輩はぎこちないようすでなんとかバックではめ込み、腰を振り出したので、いよいよオレの出番、とセフレの前に経って、勃起したちんぽを咥えさせました。
超イラマチオ。口マンコとして、激しく出し入れしてやり、そのまま発射しちゃいました。
後輩もいつのまにかイってしまったようでした。「速いよっ!」と後輩に言い、「もう一回できるだろ?布団ちゃんとしいてやろうぜ。」と二回戦の準備を始めました。
東京に来ました。
やられました。
乾燥機につっこんどいた下着盗られました。
4000円+1000円…つらいです…大幅な出費つらいです…
ブラジャー1着買うのに、田舎ゆえの交通費!!!かけた時間!!
胸の形がアレなゆえにかかる試着時間!!自分と店員さんの疲労!!!
なんといっても下着本体の値段!!
こっちはバイトする時間も作れないような要領悪い体力もない理系学生!!!!
せめて。せめてせめて。
盗むなら上記分のお金を置いていってください。せめて。
気になるのは、盗んだものはどうなるんだろうってこと。
身につけたり擦ったりして楽しむのか、
ただただしまい込むのか、
切り裂いて遊ぶ人とかもいるんですかね。
気になる。
出張先のホテル周辺があまりに何もないためふらついてたら雀荘を発見
お一人様歓迎の文字を馬鹿正直に受け止め独り突貫
の前に「雀荘 独りで」とかで検索して
教えてgooで独りでも全然行けます的な回答に安心感を得た後に店に入った記録
スペック:
20代後半
ルールはひと通り知ってる
符計算はできない
哲也を全巻読んでる
扉を開けるなり「イッラッシャーセー!!」と声を掛けられ面食らう
もっと暗いもんかと思ってたので意外
囲われてる卓は2つ
「フリー初めてなんですけど」と言うと先に飲み物出されてルール説明が始まる
正直アリアリとかの確認だけかと思いきや
アカ牌やツモ上がりなどに連動しているっぽいが、正直まったく把握できず
この時点で少し嫌な予感がよぎるが、笑顔で大丈夫です宣言してやり過ごす
あと東南戦って言われたのがよくわからず、
これが普通の半荘戦であることに気づいたのがこれを書いている今
これが最低金額らしい
少し多くね?とは思った
しばらくして卓が空いて案内される
面子は将棋の田中魁秀に似たおじさん、greyのhisashiに似たイケメン、小太りな童顔のおじさん
この時点で「初めてで手際悪いと思いますがよろしくお願いします」みたいな予防線を張る
もう若干怖い
開始
・理牌以外は片手で、卓上に手を置く
・自分側の山を少し手前に出す
(時間が経ってから中央の赤いランプの点灯で分かることに気づく)、
理牌中なこともあって
今思っても初回で全て処理することは無理だと思う
・自分側の山を少し手前に出す
これは何度も注意を喰らい、なんかもう申し訳なくなる
あと俺の後ろにずっと店員さんが立っているのはなんかの嫌がらせか
と思ったが、今思えばサポートで入っていたのかもしれない
最初の半荘は見事にラス
詳細は省くが、諸々の環境適応作業による緊張のせいで捨牌が分析できない
あと早さに慣れない
少し止まるだけでもう謝らなければいけないあの独特の雰囲気
有り得ない捨牌で放銃して泣きそうになる
祝儀関係は予想通りさっぱり分からんので全部店員任せなのも申し訳ないやらで
とにかく集中できない
次の半荘が始まってから、少しずつ冷静さを取り戻す
そもそもなんでこんな見知らぬおっさん達にこんなに申し訳なさそうにせにゃならんのだ
普段の上司に対するそれをなんでここでも発揮しなきゃならんのだ
みたいな感じで自分に苛つき
ある程度の形式的なやり取りをする以外は極力余計な気配りを排す
すると不思議なことに、この場はそういうのが一番ストレスフリーだという事に気づく
ああ、皆そういう感じで自分中心にやってるのね
何故か少し悲しくなる
なんでだろう、分からない
なんで俺は進んでこんな場に入ってしまったのかとすら思った
たぶんこの感覚がある限り、俺は雀荘には向かない
ただ、やっと集中しだしてからは少し楽しくなった
ギリギリにかわして手を作る緊張感はやはり良い
2回目の半荘は2位
抜けようと思って店員さんに申し出たら
と冷たい目で言われる
それは先に言っといてくれ
しゃあなしで3週目
と思いきや少し経って童顔おじさんがまさかの四暗刻ツモで即終了
なんだそれ
俺とイケメンは大いにリアクションしてしまったが、おっさん二人は無表情
もう少し嬉しそうにしやがれ
そんなこんなでトータルで4000負け
初回の洗礼をまともに食らった形になった
次は慣れててもっと楽しめるとは思う
でもじゃあもう一回行くかと言われると微妙なところ
緊張感が味わえるのは良かったが、そこにいる人間の雰囲気のせいだろうか
常に通うにはなんだか肌に合わない
いや、これが居心地が良いと感じる人はいるだろう
他にやりたいことがある場合は行かないほうがいい
反応有難く存じます
だと思う
それ故にここで引いておかないとその後入り浸りそうで自戒の念を込めました
だからゲーセンの方が健康的なんだよ。対戦ゲームなら勝っても負けても1クレジット分は3ケタ円しか消費しないし、これはプレイヤー全員に適用される。賭け事じゃないから金は貰えないけど「楽しい」これがすべてだ
これはなー・・・俺もゲーセンにはかなりお世話になったし
俺がパニクった原因であるすべての手作業が自動化されているのが最高なんだけど
やっぱり牌を手にとって重みを感じながら、人間とやりたい欲求があるんだよな
リアルの緊張感とは代え難い
その雀ゴロ達すごく紳士的で手加減してくれれたと思う
それは思った
あと俺のリーチに対して、普段なら絶対出さないであろう少し怪しい牌を強気で差し込んできたり
まあ正直判別できないが、いい人達だったと思う
なんだかまた行きたく
いややめておこう
こいつら全員腐ってるから俺が真の名前、増田名を洗礼してあげるわ。
id:aukusoe 増田名:サードブロガーの看板持ち スターレベル:1587 aka2 midori6
id:pkm 増田名:すべってるお笑い芸人 スターレベル:1473 aka2 midori5
id:underhitpoint 増田名:(ごめんぶっちゃけ知らんわ) スターレベル:252 aka1 midori3
id:pribetch 増田名:古参 スターレベル:8192 aka5 midori37
独学でレトロゲームを学び処女のアイドルと謳われたゲームソムリエール氏のほぼ全言動が、実際には所属事務所の元ゲーム業界人のオッサン氏の手になるものだった、という衝撃的な事件が世間を賑わせている。これに関連して、少し自分の思うところを書いておきたい。
メディアや芸能業界のあり方、またはポリティカル・コレクトネスについての議論はほかに譲るとして、ゲームソムリエールそのものについての話になる。今回の事件はかなり根源的な問題まで浮き彫りにした、というのがもっぱらの認識のようだ。人はゲームソムリエールに何を求め、何を根拠に評価しているのかということ。また純粋にゲームを勧めるというのはいかに難しいかということ。そんな問題についてだ。ここで私は、純粋にゲームを選んでプレイすることなど不可能であるのは当然として、そんなことを目指す必要さえない、という主張を述べたいと思う。
私が初めてゲームソムリエール氏の名前を知ったのは昨年、おそらく例のロムカートリッジを破壊する動画がUPされた直後のことだ。人づてに話を聞いて興味を持ち、ネットで検索してプロフィールやら言及する文章やらを読み、ゲームソムリエール氏のレトロゲームコレクションをネット上で目撃したと記憶している。そのとき強烈に残ったのは、まず違和感であった。
違和感というのは、そのレトロゲームコレクションのたたずまいとプロフィールや売り出し方とのあまりの乖離に対してである。端的に言ってそのコレクションは、80年代に幼少期を過ごした男性のコレクションのように思われた。真っ当にビデオゲームの洗礼を受け、ゲームを中心にサブカルチャーの波を揉まれてきた知性に優れる人間が、都度つど何らかの金銭の制約を自らに課しながらコレクションされたものだと「わかった」。今このようなことを書いても後出しだと言われるのはわかりきっているが、そう思ったのは事実で、おそらく80年代よりゲームに親しんできた心ある人間の多くが直感できたはずだ(実際、私の知るゲームマニアの幾人かは今回の発覚に対して「やっぱり」といった感想を漏らしていた)。アイドルを目指し上京した後に真実のゲームに目覚め、それまでの経歴を全て破棄した元弱小グループアイドルの一員が、常に轟音の鳴り響く中で霊感の降臨を待って収集した物とは、到底考えられない。プロフィールのそれらの言葉には薄ら寒さすら覚えた。オエッ。売り出すためのストーリーを誰かが描いている。事務所のオッサンははそれに乗じて悪びれずにいるらしい。そんな構図を漠然と思い描いた。
私はそのとき、彼女のコレクションを嫌った。いや、嫌おうとしたのだ。彼女が自らに課した書法の制約とは、売れるアイドルにするための――言い換えればマス・マーケットに届けるための――打算であったに違いないと想像した。売る気満々で集められた、嘘にまみれた、いやらしいパッチワークなのだろうと想像した。そうして想像してみて結局、最初の印象に戻るのだった。怖気の走るようなまがい物にしては「マニアごころをわかっている」コレクションに見える。真摯にレトロゲーム収集に向かわずしてこれが生み出せるのなら、随分な才能の持ち主なのだろう。その点だけは悔しいが認めざるを得ず、周りに評価を聞かれても曖昧なことを言うほかなかった。著書なんてもちろん買う気もしなかった。胡散臭い人間が胡散臭い売り出し方をしている、大量の嘘が混ぜ込まれた(はずの)コレクションが、見てみたら本当に見事な出来だった、なんてことになれば余計に悔しいし。そうそう、見なくたってわかる。きっと、見てて腹が立つようなコレクションに違いない。あーあ、ゲームソムリエールなんて、嫌いだ。
――見たまえ、ここに「物語」によってレトロゲームへの好悪を左右される情けない人間の姿がある。しかも漠然と思い描いただけの、自分の脳内で生み出した勝手な物語によって認識を歪められているのだから世話がない。私だけがこんな情けないのか? ……いや、そうでもない……ですよね?
【元ネタ】 これ読んでいたらふとゲームソムリエールさんのことが頭をよぎったんだ。
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/voiceactor/1389757644/
http://hayabusa.2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1389713864/
そして、あいも変わらず、ファンの対応は祝賀ムードと心を大きくかき乱される人々とで二分されております
なぜ、声優の結婚で心がかき乱される人がいるのか、勝手に考察してみます
17: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2014/01/15(水) 02:55:26.99 ID:GGdYUXXe0
309 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/01/15(水) 02:16:30.25 ID:xbKDiinG0
そのまま院へ進んで就職する
そして多くの職場にもないんだよ
嗜むのはかなり一般的なこと
するとね、一番身近な女性って
声優になるんだよ
週に一回はトークが聴ける
ラジオってその人の素の部分が
出ることが多いから
その人の声、仕草、会話の間が合えば
どんどんハマってく
ある意味週に一回30分その人と
話したみたいな体験ができるんだ
そしてそこそこの声優だったら月に一回くらい
生で見れちゃう一番身近なんだよ
恋しちゃうに決まってるじゃん
とあります
心をかき乱されている人たちがすべてそういう人とは限らないと思うが、こういう人が多いんじゃないかと思います
一見すると女性経験に乏しく、そういう人が疑似恋愛的に声優に入れ込んでしまった結果、声優オタクと呼ばれる層のうちでもコアな層が勝手に心をかき乱されているように見えるが、そうじゃないと思います
一つ一つはとても些細な事で、当たり前のこととして受け止めている事例でも日常生活で声優の結婚に心かき乱される人ほどではないけれど心がざわめく瞬間というのは多いと思います
例えば、昔付き合っていた彼女なり彼氏が別の誰かと付き合っているということを知った時なんかがそれに当たると思います
初恋でそのまま結婚しない限りそういうことはままあるわけで、そういった瞬間に少なくとも自分は心がざわめくのを感じます
あるいは本気で付き合っていた人と別れて、その人が別の人と付き合っていることは知っていたけど、やはり結婚したなどということを聞くと心がざわめき、口先では祝福を述べられても、心の奥底が淀むことがあります
そこまでいかなくても、気になっている人が自分以外の人に気があったり付き合っていたりするとやはりざわめくまでは行かないけれど少し落胆します
日常生活において、こういった心のエネルギーをじわじわと消費するイベントは乱発しているわけではないと思うけど、こういった時に多くの人がどうしているかというと情動中心型のストレスコーピング反応を無意識に行っているのだと思います
具体的に言えば「まぁ、仕方がない」と考えてみたり、「もう自分とは恋愛的な意味で縁がなかったことなのだからしょうがない」など……
件の心をかき乱されている声優ファンはココでつまずいているのだと思います
一般にコーピング反応は学習できることされていて、前回のコーピング反応でうまくストレスに対処できた方法があれば同様の方法でストレスを処理しようとします
そして学習することで学習したことを活用しながら前の段階より強い類似したストレスにも対応することが可能になることが示唆されています
つまり、ドラゴンボールの亀仙人が悟空たちにやった重たい亀の甲羅のウェイトを徐々に重くしながらやっていけばいつの間にか重たいウェイトを背負っても大丈夫になってた的なあれです
つまり、声優の結婚で心をかき乱されている層の一部にはこのコーピング反応の学習が乏しい人がいるのではないかと思います
言わずもがな異性経験が少ないことが挙げられますが、これは端的に経験の数が少ないことが問題なのではないと思います
ストレスとして「あの子が気になるけどうまく告白できないなどというかわいい悩みを持つ段階」から「昔好きだった子が自分の知らない誰かと結婚してたことを知る段階」というのは突然にやって来るわけではなく、その間に交友関係の中でコーピング反応を学びその次の段階次の段階へと活かしながら何とかやっていって、やっと「昔好きだった子が自分の知らない誰かと結婚したことを知る段階」のストレスにうまく対処できる様になっているのだと思う
逆に言えば、過剰に心をかき乱されている=ストレスコーピング反応がうまくできていない人というのはこれらの途中の学習段階をすっ飛ばして「ちょっと気になるあの子(声優)」から「ちょっと気になるあの子が自分の知らない誰かと結婚したことを突然知る」という段階を急に体験して、未経験の巨大なストレスに混乱している状態と取れると思います
また、「あの子が気になる」段階を何回繰り返しても学習の深まりはその回数に対数関数的な曲線でしか伸びず、ある程度繰り返すとあまり学習は進まなくなると思います(ゲームだったら最初の町を出たところでザコ敵をボコ殴りにしてレベルカンストなんてこともできますが、それも非効率的ですし、リアルで自分より弱い敵をボコ殴りにして練習したからといって自分の経験値が上がるかというと疑問です)
つまり、調子こいてサボっているといくら高校の頃の貯金があるからといってイプシロンデルタあたりで早々に洗礼に会うのと似て段階的な学習が重要ということです(イプシロンデルタあたりで躓く奴なんてたかが知れてますが←)
万事に対して学習不足な子供はうまくいかないことがあるとものにあったたり泣きじゃくったりすることがありますが、同様に恋愛についてストレスに対して学習不足な大人も同様に心を大きくかき乱され場合によっては暴れることになるのだと思います
ここまでで、声優の結婚で心をかき乱されている人はコーピングの学習不足であるとしましたが、通常子供から大人になる課程で多くの人は様々な人生経験を通し、コーピングの方法を様々なストレスに対して問題中心型であれ情動中心型であれ学んでいきます
それに乏しい人がおかしいと笑ったり、蔑んではいけないと思います
ストレス対処法を知る機会というのは死ぬまで一生続くわけですから今回がその機会だったと取ることもできます(突然強度のストレスにさらされるのは辛いですが)
また、上手くストレスに対処できている人でも今までそういったストレスにさらされてきて逆に情動中心型のストレスコーピング反応ばかりが優先し学習性無気力に近くなっているかもしれません
あるいは、その声優に対しての思い入れが少ないだけで、もっと思い入れ強く片思いをしている同僚の子が結婚したことを知ったときに思いがけず心を大きくかき乱されることとなるかもしれませんがそれは実のところ大した差はないのだと思います(ネット上で暴れまわって滑稽さを露呈するか、飲み屋で気のおけない仲間に滑稽さを露呈するかの差しかありません)
逆に、声優の結婚で心をかき乱されている人は他の種類のストレスコーピングには学習経験が多い可能性があり、一概に人生経験が多いとか少ないとかいう問題にはつながらないと思います
置かれた環境や、自分が身をおいた環境に大きくよる問題だと思います
声優の結婚で心をかき乱されている人が滑稽に見えるなら、実はそれは自分も滑稽だということです
声優の結婚で心をかき乱されている人が幼く見えるのなら、実はそれは自分が老獪だということです
声優の結婚で心をかき乱されている人を嘲笑うなら、それはいつか自分が何かで狼狽した時に嘲笑われることを甘受しなければならないことを理解しなければなりません
私はもともと無宗教だったんですが、
旦那様もそのご両親も、教区の神父さんもとても優しい方々ばかりで
わたしもこうなりたいなって思って決心しました。
それでいま勉強しるんですがどうしてもわからない事がありました。
旦那様に
イエス・キリストってマリア様から生まれたんだから人間だよね?
って聞いたら
うんそうだよ、でも神様でもあるよって答えが返ってきました。
神父様にも確認したんですが、
もうほんとわかんなくなって、
神様は神様で、イエス様はイエス様、だから私の中ではイエス様は神の子供で人間でいいやっていったら
ものすごい怒られました。
たしかに私はよく、年齢より若く見えるね、美魔女だね、って言われますが、
火あぶりになんかされたくありません。
私の考えってそんなにおかしいんですかね?
<blockquite> すでにお話しましたようにゲルマン人たちは死後も彼岸で現世と同じような生活が続けられると考えていたようです。キリスト教が最後の審判という考え方を教えて後も死後の世界というイメージは簡単には崩れませんでした。あるゲルマンの族長は洗礼を受ける段になって、「洗礼を受けても死後に入る自分の親族とあの世で会えるか」と聞き、司祭が「あなたの親族は洗礼を受けていないから地獄にいるでしょう。しかし貴方は洗礼を受けるから天国に入るので会えないでしょう」と答えたところ「では洗礼をやめよう」といって受けなかったといわれています。死後の世界はそれ程重要だったのです。
source="阿部謹也『ヨーロッパを見る視覚』(岩波書店、1996) p275 L9(第五章 キリスト教と伝統社会)"
阿部謹也の本を読んでいて、例の有名なコピペエピソードと似たのがあったので上記に貼り付け。
有名なエピソードは、 『聖書と「甘え」 (PHP新書)』土居 健郎
「神が天地を創造し、そんなに情け深い存在だというなら、なぜ地獄などというものがあるのか、これは大矛盾であると。キリストを信じ、神の洗礼を受けなければ救われないというならば、自分たちの先祖はどうなっているのだ。洗礼を受けていない先祖は、やはり地獄に行ったのか」、
と聞いたといいます。
ザビエルは
と答えました。
」
まとめ:やっぱり未開の地には似たようなエピソードがあるもんだ。
堀田善衞の小説『路上の人』( asin:4198618230 ) を読んだ。
13世紀のヨーロッパが舞台で、カタリ派と呼ばれるキリスト教の異端教派の十字軍による征伐を背景に、路上を放浪する中年の男ヨナがキリスト教世界を放浪する物語である。
読了後に知ったのだが、最近ジブリの森美術館で、もし映画化するとしたらという前提のもと宮崎吾朗氏が作成した絵コンテやポスターが展示されていたらしい。来年夏公開予定の新作がこの『路上の人』なのではという噂が流れているが、私はそれは到底できないと思う。もし映画化するとしたら、ジブリは子供向けアニメを届けるスタジオというイメージを完全に捨て去ることになるだろうなと思う。
『路上の人』というタイトルはキリスト教世界において安住する場所の無い東洋人である堀田善衞自身を指している。堀田の分身であるヨナの目線で、当時のカトリック僧院の生活をかいま見て、そこで当たり前のように行われている不正や腐敗を描き出す。そして、カトリック教会とは異なる教義を持ち、慎ましく暮らすカタリ派の信者が異端審問にかけられ、虐殺されていく様を描く。これは書籍に挟み込まれた堀田と誰かの対談において、堀田自身が述べているのだが、『路上の人』は「ヨーロッパへの異議申し立て」なのである。
ここで題材となっているカタリ派について、あまり作中では詳しく語られていないので、簡単な副読本として『カタリ派 ーー中世ヨーロッパ最大の異端』( asin:4422212206 )を読んでみた。これによると、カタリ派とは現世は悪によって生み出された地獄そのものであり、この世には一切の価値がないと考え、ただただ世界の終わりに神によって救済されることだけを願って一生を生きるという教義を持つ教派であるらしい。現世に生まれることは地獄に居ることと同じなので、生殖を目的とする性交を禁じている(ただしそれ以外の性交は禁じていないというところがユニーク)。カタリ派にとって死ぬことととは救済であるが、自殺は禁じられているので、信者はただ死が訪れることを希望として生きる。カトリック教会が特に問題視したのはキリストの人性を否定したこと、洗礼などのサクラメントの必要性を否定したことにあるようだ。
異端という考えは正統があるからこそ生まれる。宗教の正統性は日本人にはピンと来ない問題だからこそ、『路上の人』で描写される凄惨な異端審問の様子にやるせない気持ちが生まれる。
増田:私もはてな大で必ず年に1回、学生にいやがらせの質問をするのです。
「この中でアイドルを愛している人、手を挙げてください」と言うと、200人の教室で2、3人の手が挙がる。
ガチガチのアイドルオタとして洗礼を受けている子やジャニオタの子は手を挙げる。でも、みんなにヘンなヤツだと思われるから、挙げない子もいると思うんですね。
「じゃあ、アイドルを愛してない人、手を挙げてください」と言うと、みんなバーッと挙げるんですよ。「その中でアイドルが出てるテレビ見たことのある人」と言うと、手を挙げる。
「その中でアイドルが出てる映画やドラマのDVD持っている人、持ったことのある人」と言うと、手が挙がって、カバンの中に持っている子がいるんです。
「じゃあ、あなたたち、アイドルを愛していないのなら、ここにハンマーがあるから、そのDVDを粉々に砕いて」と言うのです(笑)。
「アイドルなんか愛してないならできるだろう?」と言うと、「ダメです。そんなことできるわけないじゃないですか」とうろたえる。
「何でできないんだ?」と聞くと、「怒りを買う」と。「誰の怒りを買うんだ?」「アイドルオタの怒りを買う」って。
「おまえ、アイドルを愛してるのか?」「いや、アイドルなんて愛してません」と。「じゃあ、割れよ」って、そこで押し問答になるわけです(笑)。
増田:アイドルオタな感覚は持っているが、それは愛ではなくて、単なる習慣としてやっているのだと考えている、その二枚舌。
そこらへんから攻めていく余地はまだあると思うんですよね。やっぱりどんな子でも、家でエロ本を見るときは部屋の扉を閉めるというから(笑)。
増田:そこに父とか母とかいるのに、その前でエロ本やエロビデオは見られない。やっぱり何となくあっちの部屋から見られている感じがあるんですよ。
山折:身を慎むという感覚だな。
増田:向こうから何か見られている、そういう世界視線がある。「お母様が見ている」という感覚、先生の世代はありますよね。
山折:もちろんあるよ。
増田:私の世代もまだあります。今の子たちはさすがに「お母様が見ている」という感覚はなさそうですが、何かに見られている感覚はやっぱりあると思う。
お返事ありがとうございます。プロテスタントの人です。
日本人は無宗教とか言いつつ気がついたらお寺に所属していたりするので
ご心配するほどのことはないと思います。信仰心の問題としては。
ただ、キリスト教は「信仰心を持たない」というフレーズが「罵倒言葉」なので
そこら辺気をつけていただきたいと思ったりしています。
そうそう、まず、神社・お寺の「保存会」に入ってみてください。あの空気は説明するより見た方が早いです。
まるで地域のPTA役員みたいに、「私はやりたくない」とか、ほかの人にやらせようというムードでいっぱいです。
そして、周辺地域の人は、「保存会」の行う「お囃子」さえ「うるさい」「騒音だ」という感じです。
太鼓なんかもうやれません。
ネットにはたくさんいる右翼な方々や外来宗教が嫌いな人(仏教以外 笑)は仕事にかまけてそういうことをやらないのではないかと勘ぐってしまいます。
外来文化を飲み込んだカトリックとイベント好きな一部のプロテスタント由来ですが
教会に関わらないでやってる人が多いのでもう別に勝手にしてください的な感じで見ています。
目に余るのは「教会に関わってないから」という理由で無視しています。
旦那さんが本来所属していたお寺さんの住職と何故かトラブって、教会に来て
そういうこともあるから選択肢を知らないよりはいいんだろうとも思います。
他の宗教でお祝いをしようという流れはノンクリ(非キリスト教徒)の結婚式辺りからもう始まっているので
結婚式だと「あーそうですかーじゃあ勉強会3ヶ月くらい来てくださいねー」で「 妥 協 」しています。
本来は洗礼受けたりか求道者期間を持ったりしてからやっていただきたいというのが本音ですけど。
キリスト教徒なんですけどね。
なんか書くの余計かなとか思うんだけど書いちゃうんだよね。つい。
「戒律」についてできなかったことを「ゆるしの秘蹟」(告解は古い言い方)で神様の代理で「言葉ではっきり」赦してもらうんだよ。
でも信仰があるんだから、行いに顕れるべきだ!ってことで、「正しい」行動をするように奨められる。
あれはただそれだけのことなんですよ。
http://www.pauline.or.jp/yamamoto/yamamoto_56.php
「体はひとつでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である」という感じに
「いい人も悪い人もすべてキリストの体(教会、の暗喩)の一部」と求道者には初心者のうちに教えるのが普通なのよん。
で、これに続けて、あなたへの答えが載ってる。ついでに書いてみよー。めんどくさかったら読まなくていいよ。
あなたの投稿を見て、「はて?」と思った人のために書いてるつもり。
「あなたがたに最高の道を教えます…(中略)…愛がなければ無に等しい」。
現実、真面目な信徒や真面目な子供は教会の外でも中でも「いい評価」を受ける。
でもそれがどうかしたの?っていうのがキリスト教徒の長所であり短所なんだよね。
悪いことやりたい放題してても、「ごめんなさい」で済ませるのが教会。
この点で不愉快な思い、たぶんする人多いんだろうなあ。
それについては本当に申し訳ない。ウチらの優先順位は神様なんだ。
もしキリスト教徒が誰かに悪いことしたのに謝りに来なかったらそれはちゃんと伝えるべき。
その時怒っても当然だと思う。
非キリスト教徒は「罪を悔い改めた罪人は、等しく神に愛された存在であって、『ずっと正しく生きてきた信徒』と同じように救われる存在だ、という感覚が本当に持てているの?
どこかで、昔からの仏教のような感覚で、「より修行をした僧は、より仏に近い」「偉い」存在だ、という感覚がありはしないか。」と疑っちゃうんだよね。
気持ちはわかるんだけど…死ぬ間際に簡単な洗礼を受けて天の父の元へ一直線しちゃうのも別に構わないよってのも、伝統的な教会は受け入れるよ。(※教派による)
しかもそうやって亡くなった人の死者のためのミサ(プロテスタントなら日曜礼拝の時に同時に祈る)もやります。
カトリックなら大概は来週~再来週辺りにやることも多い(ハロウィン・死者の月・11月参照)。
「大いに罪を犯し、その罪を大いに悔やんで赦しをいただきなさい。そして、その赦しの大きさ(愛)を感じて、他者を愛せ。」
とね。
余計な散文お目汚し失礼しましたー
http://anond.hatelabo.jp/20130709090812です。
皆さん頭は冷えたでしょうか?
キリスト者の皆様
私たちは教派にもよりますが「国のためにも」祈りを捧げています
「歴史を重んじる」と誇っているはずの日本人にはありえないほどの態度ではないでしょうか?
そのような態度で自分と違っていて相手が完全に合わせることが不可能というだけの理由で、他の宗教の信徒を圧迫しないでください
感情的になる人がいると反射的に批判することはあまりに滑稽です
我々もただの人間です
同じように感情的になるあなたは、人間ではないとでも言うのでしょうか
また、日本のキリスト教徒人口について書いている方を見かけましたが
2000年代に入ってすぐ6%と報じられたものを見たことがあります
おそらく比較的正確です
訳あって一時的に教会に行けない人を、教会は「人口」から外すことがあります
教会はお寺や神社より厳密にミサや礼拝などに参加している人だけを人口として発表する傾向があるからです
首都圏にいますが311以降受洗を希望する人の数が急激に増えており洗礼前教育のクラス調整が追いつかないほどです
いわゆる「平信徒」から一歩上に上った立場なので連絡会議もあり他の教会でもマネジメントが忙しいことは知っています
また、無宗教(どの宗教にも応じる)という立場は状況に対して従順とも言えますが
逆に社会的問題を引き起こすカルトにひきこまれやすい傾向を持つ、という現実もあります
以上です。
これにて、私の発言を終わります。
体を太らせることにより大腿四頭筋を強力に鍛える方法を確立。自転車にほぼ毎日1時間以上乗り3日に1度のペースで2時間走り続ける。体重は80kgを超えているが何故か痩せる事ができず小一時間なぜだと思案する。そうか僕に足りないのは筋肉だと思いたちジムに顔を出してみる。初心者の洗礼を受けつつ自分のひ弱さに打ちひしがれていたのだがあるトレーニング器具を利用し始めた時感覚が違った。それは大腿四頭筋トレーニングマシンだ。なぜだ、20分程器具をガチャガチャやりながら考える。いつの間にか大腿四頭筋トレーニングマシン最重量80kgを楽々あげられるまで鍛え上がってしまっていた理由を考える。ああ、そうか、80kgの体重で自転車やジョギングを続けていたせいか。重たい体重を支えるためにお腹の贅肉ではなく大腿四頭筋が鍛え上がってしまっていたのか。あれ?俺なんの為に運動してたんだっけ?ああ、そうだ僕は痩せたかったのだ。痩せてモテモテになりたかったのだどこで僕は間違えた。痩せてすっきりした体で自信をつけて彼女をデート誘うつもりだったのになぜだ・・・体重はいまだに減らず80kgままだ。お腹も相変わらずぶよぶよ。なんだか無性にやるせなくなり涙が溢れ出してくる。そうだよなジョギングじゃお腹の贅肉は減らないよな単純な引き算だ。無計画に運動を初めてしまった結果がこれだ。畜生!畜生!!畜生!!!今、あわてて腹筋を初めた僕がいる。
よくわかりますよ、あなたの気持ち。自分も似た様な感情に悩んだ経験があります。
自分は、西洋の古典的な小説に感銘をうけて、もっと知りたいと思うと同時に
日本の土着の信仰につても魅力的に感じて、これは両立できないなぁ…と困っておりました。
そんな感情を背景に持った状態で、ある時、人生に大きな困難が降り掛かりまして
変な新興宗教に掴まる前に、自分が納得する宗教宗派を選ぼうと思い立ちました。
せっかくなので、かねてより興味のあったキリスト教にしようと決め
宗派による違いを調べ、教会が近くにある場合は足を運び、最後に一つの宗派を選びました。
日曜のミサにしばらく通い、その後に洗礼の準備のための聖書の勉強会にも通いました。
その後、人生の困難が落ち着くにつれ、教会からは足が遠のいてしまい、
結局洗礼は受けませんでしたが、今でも良い経験だったと思います。
以上のような経験をふまえ、増田に伝えたいことは、以下の通りです。
●日本におけるキリスト教コミュニティは西洋のそれとは大きく異なる
宗教的である以前にマイノリティ団体としての側面を強く感じます。
都心部なら、まだ増田のイメージに少しは近いところもあるかもしれませんが
少し郊外や田舎になると、老人ホームとボランティアのような雰囲気も珍しくありません。
教会のコミュニティは代々キリスト教徒として育った人が大半を占めます。
大人になってから自ら門を叩く人は、大変珍しいです。
あなたが教会で仲間として認められるためには、洗礼をうける必要がありますし
洗礼をうけた後も、教会員としての役割を人一倍こなすことが求められるでしょう。
キリスト教的には、私のような日本の伝統的宗教に価値を持ってる人も無神論者のようなものです。
それでも、事情を話して知りたいと言って訪ねて行けば、みなさん丁寧に対応してくれました。
そして、だんだんと足が遠のいても、ほっといてくれました。
時間のある学生のうちに、実際に自分の目で見て確かめてみるのも悪くないと思います。
ブコメ等で指摘されてる、恋人ができれば解決する、ってのもまた事実でしょうが
よくは知らないけど、暇な主婦層で構成された腐女子趣味の集まりじゃなかったっけ。要は気持ち悪い連中が気持ち悪いこと話して越に入ってるっていう。
まあ、Yahooブログなんかでもよくあった、古参が発言権持って、新参にいろいろなルールを押し付けてくるとかいうそういう感じのもの。同じブログサービス使ってるからって、そこでの流儀に合わせなきゃいけないなんて法はないので実際のところ、全く無視してしまっていい存在。
なんだけど、そう言われると逆に気になるものらしい。アイツらは一体何をやっているんだ?あれらはなんだ?なんで誰も言葉を濁してばっかで明確な回答をしないのか?と情報飢餓状態に陥ってしまい、本来無視していいはずのはてな村をあたかも世界支配を企てるイルミナティかなんかのように噂する人々が現れた。
曰く、はてなにははてな村なるコミュニティがあるらしい。曰く、はてなでははてな村に入らなければ一人前とは認められない。曰く、はてなでブログを始めるとはてな村の住人が洗礼にやってくる。株式会社はてなは「はてな」という場を提供するだけの存在で、実質的な支配ははてな村が行なっている等など。
そして、そんな中で「はてな村」住人の噂を漏れ聞いた人々が、「はてなはかくあるべき」という姿を創り上げていった。
曰く
こうして、新参の言論は封じられ、一部のテクニカルオタク達によるはてなの支配が始まった。
はてなでは誰かが長文でエントリ書いたら、誰かがそれに対する批判的な内容の長文を書く。相手が誰であろうとお構いなしだった。
特に明確な目的なくはてなでブログなんか始めるとそこの空気に当てられて、つい従わなければならない気分になってしまう。そうして、そんな連中がまた新参に対してこういう「洗礼」を行いはてな村の信望者を増やしていった
この流れに終止符を打ったのが、株式会社はてなの任天堂化だ。それまでテクニカルオタクにしか開いていなかった門戸を一般人にも解放するようになったのだ。一般人の流入により、はてなブログ間のコミュニケーションはだんだんと顧みられることがなくなり、そのコミュニティの繋がりは希薄となっていった。はてな村を信望する連中はこの一般人の流入を「はてなの愚衆化」と呼んで必死に抵抗したが、流入は年々加速度を増していき、はてな村信望者にこの変化を止めるすべはなかった。
はてな村に気に入られるエントリを書けば、大量の星が付けられたりブックマークされるという利点も、一般人の数の暴力の前には無力だった。人はより一般人に気に入られるエントリをかくようになった。
こうしてはてな村はかつての影響力もなくなり、見た目上自然消滅した。しかし、忘れてはならない。はてな村ははてなのどこかに未だ存在しているという事を。つい最近もこの様な形で信望者を増やそうとしているhttp://anond.hatelabo.jp/20121129184450
もし彼らを見ても、あれははてな村の連中だ。などと言って罵倒してはいけない。何かを言えばこれ幸いとばかりに彼らは議論をふっかけてくる。彼らは常に議論に飢えている。彼らをやり過ごすには見かけても何もしないことだ。