はてなキーワード: 森林とは
気付いたら日記を辞めていた。
辞めてから1年以上経って「そういえば辞めてしまったな」と気付き、ふわと宙に浮かぶ今まで書き上げてきた日記が、途端に愛おしく、このままインターネット上に残りつつ誰にも読まれないであろう我が子たちに対してやるせない気持ちが沸沸と湧き出てきたので、雑にコピーして増田にペーストすることにした。
キーボードを打ちながら10月もう半分終わったのかと驚く。なにもやらずとも日々はとめどなく続く。大学は3年も後期なので全然忙しくなくてポツンポツンと入っている講義に出席しつつ空き時間は家で寝ていたり何もしなかったりレポートを書いたりしている。今日の講義は2限目だけなので目を覚まして時計を見たら間に合っていなかった、休講ですね。そういう日もある。カーテンから見える空が青々としていていいなと思う。空が高いと涼しくて森林浴をしているみたいに身体が換気される感じだ。皮膚も夏用のシューズみたいに通気孔空いてたらもっと涼しいだろうなと思うけど洗うのだるくて不衛生になっちゃいそうか。夏にお世話になった実習先に支払うゴニョの代金を今日払おうと思ったのだけど結局大学行かないから払えないな。本当は月曜が支払期限なのだけどもう水曜だし、悪いことをしてしまったとか思うと体の芯がむず痒くなっていけない。やることねーとか思いつつ結局駅へ向かって大学行きの電車に乗りこむ。帰巣本能?休日にやることないから会社行く趣味のない社員みたいだ。途中の駅で降りる。母校の最寄駅なのだけど別にセンチメンたらないし何も感じず適当に歩いた。昼なので飯を探しているのだ。近くに大盛りアッサリ系の中華そば店あったなとか節約しないといけないからチェーンのうどんでいいなとか思いつつ適当に歩いているとまぜそばの看板が目に入る。
はい。
うまいけど量が少ない。800円とったくせに。
初めて入った店なのだけど入るやいなやちょっとすいませんと狭い店内を一度追い出される。入り口に設置してある食券機が壊れているみたいで店員がガチャガチャやりつつ無理っすねー注文は口頭でと言われ、カウンターの向かいにいる女性に何にしますと問われる。テストに例えると問題用紙が配られないままテストが始まる感じだ、もしくは虚の檻に向かって人参を差し出す感じ。なにを、なにが…?ううっと戸惑って、まぜゴニョとかウーとか言ってたら上の麺が来た、いいですね。まぜそば食べたことないのだけどまぜそばなどと銘打っているのだからおそらく混ぜて召し上がるのだろうと丁寧に盛られた具をグチャグチャと掘っては上に掘っては上に混ぜていく。天地返しだこれ。グチャグチャのなにかをズーッとやっているとカウンターの向かいで店員同士のささやきというかフフッとかいう笑が聴こえ頭が白くなる。僕たち誇り高きいじめられ経験者は笑い声の対象を常に自分だと捉えてしまうバグを搭載しているので不便だ。人生のストーリーに応じてアップデートされないし。結局よく分からなかった麺を平らげてそそくさと退散した。よく分からんうちに丼の麺は無くなり満腹中枢は刺激されたので不本意というかやるせなく、近所のチェーンうどん店に入ろうかと逡巡したのだけどぼくは賢いのでやめた。帰宅するかと駅に向かっている途中で古本屋に吸い込まれたので100円小説コーナーを回りマンガとか本とか買った。
WWFをはじめとする自然保護団体が、野生の生物を採取、売買しないように注意喚起しており、
多くの市民が啓蒙されている現状だが、それに対する天野尚氏(ADA創始者 2015年没)の見解が以下。
ADAは自社のギャラリーや雑誌等のメディアで数多くの水草レイアウト水槽を発表しているが、
天野氏はワイルドものに強いこだわりがあり、ネオンテトラやブラックネオンテトラ、小型バルブのような、
ほぼ安価なブリードものしか市場に出ないような魚種についても、わざわざワイルドものを使っていた。
―――熱帯魚を飼う楽しみの一つに繁殖というものがありますが、
天野 私も以前、ディスカスの繁殖をやっていたのですが、そうするとホルマリンなどの薬を水槽に入れるので、
なにか不自然な感じになるんですよ。しばらくして魚が全滅してしまって、やめてしまいました。
手を加え過ぎて、本来の野生の魅力が失われてしまったんですね。
生まれてくる個体が野生の個体と同じであればいいのですが、人工的に繁殖した魚は体色もどんどん
悪くなっているじゃないですか。繁殖はいけないということではなく、熱帯魚の楽しみとして殖やすというのも
非常に大切なことで、水槽で種を継続させるのも重要なことなんだけれど、それだけを続けていると
また、野生の魚を捕るのは自然破壊につながるからダメだという考え方もありますが、
野生の魚を捕らないと現地人は食べていけないんですよ。
皆さん、これを頭に入れてもらいたいのですが、魚を採取することが絶対に悪いことじゃないんです。
彼らは野生の魚を採取し、それで得た収入で生活しているんです。魚を捕らないと、彼らはジャングルを焼いて
作物をつくらなければならない。ジャングルが焼かれたら、今度は川が汚染されて魚が生きていけなくなるんです。
本当にジャングルを守ろうと思ったら、ただ魚を獲るなとか、植物を獲るなとか、人間を入れるなとか言うだけじゃ駄目なんです。
一番いい方法は、現地人が最低限の量の魚を採取して高い値段で売ることですよ。
また、ジャングルの自然そのものを観光資源として、観光客にお金を落とさせるようにすることで、
アマゾンの森では、樹木や低地のシダ類によって多くの雨水が保持され、その雨水が腐葉土に浸透して濾過され、
地球温暖化とかゴミ問題とか森林破壊とかそのへんの問題もぜんぜんヤバイんだけど、そのうちすごいブレイクスルーがあって案外なんとかなるかもしれないという思いが少しはある。
でも(少なくとも日本の)少子化問題が将来なんとかなりそうな気がぜんぜんしないんだよな。金がないのがよくないって言うけど、金があっても子供3人以上もつのはしんどいって人が大多数なのではと思う。例えば国民全員に月40万のベーシックインカム!ってなったら(経済が破綻するというのは置いておいて)働く必要もないし子供持ったらむしろ収支プラスになるくらいだけど、そうなってもじゃあ子供たくさん作ろうとはならない気がする。なんていうか「子作りはダサい」みたいな風潮ができてしまっているような。
俺は反出生主義だからすごい嬉しいんだけど、一方で釈然としない感じもするんだよな。基本厭世的な人が多いツイッターとかですら反出生とかチャイルドフリー思想はクズ・過激・負け組の論理・うつ病みたいな扱いなのに実際にはそういう方向に社会が向かってる気がする。
時期もあってか最近怖い話を青い鳥で見かけてうん年前に体験した少し怖い不思議な体験の話を思い出し、書きました。
私は幽霊なんて見たことも感じたことも無いような、そこらにいる漫画やゲームが大好きな人間、俗に言うオタクってやつです。
好きや漫画もアニメもゲームの作品を自分の作品に対する思いや熱を込めて絵描いたりする二次創作も好きで、長年やっています。
ここ数年は推しの作品やキャラクターを写真の中で再現する、コスプレというジャンルも手を出してます。
その時体験した話です。
数年前に管理者のご好意で許可を頂き、とある史跡でコスプレの撮影をする事になった。
史跡といっても大昔に大きめな戦いがあり、ほぼ何もなくなってしまい、緑が広がる田舎の景色によくあるような場所である。
そんな大自然溢れるような史跡に何回か遊びに行った事があり、まあ馴れ親しんではいました。
一時期は月2.3で通うくらいに。今思えばなんであんなに行ってたんだろ?憑いてた??(笑)
撮影日当日、小雨が降っていて撮影できるだろうかと思いながら、確か朝の8時くらいに家を出た。
田舎でも店が立ち並ぶ大きな通りから山の方へと田んぼや畑、民家が広がる田舎道へと入る。
何度か行っているとはいえ、道中は細い道や似たような代わり映えしない田園風景の中、車での運転。
あまり自信がなかったので迷わない為に、遅刻しないようにと念の為に車のナビをつけて。
目的地まで半分は過ぎた頃、突然ナビがルートを再検索して変更しました。
今時のナビでは混雑時なんかに新たなルートを勝手に検索みたいなのはよくある事ですが、当時の私の車のナビには道を間違えない限りそんな機能なんてなかったのでビックリした覚えがあります。
道を間違えたのか?と見たら、いつも曲がる所とは逆の道を曲がれ、との指示。
私が知らないだけで近道があるのか!と、当時は思ってナビが言うがままに従い、その道を曲がりました。
閑静な住宅地から段々と古い民家がポツ…ポツ…と少し立ち並ぶ、更に田園風景が広がる山の方へと。
小山に突き当たり、山の側面といえば良いでしょうか、を伝うように伸びる車二台が通れそうなコンクリート道を通る用にナビに指示されました。
本当にここを通ったら目的地につけるのか?目的地からどれだけ近い場所に今いるのだろうか?と、考えながらもあの時は素直にナビに従って。
その道を登っていくと少しずつ道が細くなっており、当時の私は車免許を取ってそう長い年月は経ってないので、反対車線から車が来ないかハラハラでした。
ふと、左横を見ると大きく伸びた竹林。
その足元にゴロゴロ転がるように緑の苔が生えたり、割れたりしている墓石がバタバタ倒れ、転がっててギョッとした。
素直に「えっ!怖っ!何これ!?手入れしろや!」と内心思ってビビった。今思うと普通に怖いです…。
数メートル先が車1台くらい通れる細い道となっており、その向こうに伸びきった沢山の竹が重さでしなったのか分からないが、曲線を描くように曲がって緑のトンネルを作っていました。
竹のトンネルダァ!キレイダナァ!なんて思ってナビを確認すると、道の先に書いてあるのは「○○史跡霊園」。
ナビはその霊園を突っ切って画面の右隅に少し見えた目的地の史跡に行けと言うんです。
大昔に戦いがあって人が亡くなってる土地な為、出るという噂もあるらしい場所。
(私は何度も訪れ、腐るほど写真を史跡で撮りましたが一回も写ったことはなかったです。写ったらモブ兵がタダで付いてくるな!と友達と言っていたからですかね(笑))
いかにもヤバそうな森林の先に進んで二度と帰れない、みたいな…。
ホラー番組の見過ぎやろ、って今は思いますが当時は「コスプレの撮影あるし、撮影楽しみだし帰れねえのは困る!!」これ1つでした。
ホラー番組を好奇心で見て毎回ビビる奴なんですが、その時はその思いが強かったからか不思議な事に恐怖もクソもなかったです。
そこからはナビの指示をガン無視で車をUターンさせ、山を降りました。
その間もポンポン鳴っては山に、霊園の道へと戻そうとするナビ。
ウザかったので音楽の音量を少し上げて歌を歌いながら元来た道をスピードギリギリで爆走して戻った。
ルートが突然変更された道へと戻るとまたポン!と軽快な音を出しながらナビはルート変更してきた。
いつも曲がる道、いつもと同じルート。
なら初めからそっち案内しろ!遅刻するやん!!と内心キレながら、ロケ地まで慌てて車をかっ飛ばしました。
その後は何事も無く、無事に目的地に着きました。
遅刻はすることなく、なんなら一番乗りについて友達らと撮影を楽しんで無事に帰宅。
ブヨに刺されて後日、足が二倍近く腫れ上がる以外は無事でした!(笑)
後日、ロケ地周辺に住んでいる知人や、この辺の道に詳しい父にこの事を話してそんな道はないか?と聞いてみたが、らしき道はなく、グーグルマップ先生とも長い事にらめっこしたけどそんな道は見当たりませんでした。
史跡の隣は山でそこを突っ切って行ける近道なんてない。
別名の霊園はあっても離れているし、突っ切って史跡まですぐ行ける道なんてなく…。
未だにあればなんだったのかなぁ…と思います。
それ以降は何回足を運んでもそのルートは出ませんし、他のナビもそんな道は検索に出しませんでした。
以上、霊感もクソもない人間が体験した不思議なちょっと怖い話でした。
もし見えてたりしたら、あの竹トンネルに何かいたのかもしれないし、墓石バッタンバッタン祭りのとこに何かいたのかも、と思うと心底見えなくて良かったと思います。
あのまま進んでいたら今頃こうやって、新たな推したちに会えず、ここに書いてすらいなかったのかなぁ…。
あれはなんだったんだ…??
ちなみにそのポンコツナビはマジでポンコツすぎて新品だったのに一年半くらいでぶっ壊れてペルソナチェンジしました。
アマゾンでの森林火災がニュースになっているけれど、アマゾンの火災はもうくすぶり状態になっていて、ここ数日ひどいことになっているのはどっちかと言うとパンタナールなんじゃないだろうか。
一体どこがどれくらい燃えているのだろうかと衛星のCOやCO2観測情報を眺めてそう思った。
しかもここ20日ほど燃えていたアマゾンよりもCO2濃度がやたら高い。
素人だからこのCOやCO2レベルがどれくらいの被害にあたるのかイメージはできない。
アマゾンやパンタナールでニュースをググっても全体を把握していそうなニュースサイトは無さそう。ポルトガル語サイトなら把握できているのだろうか?。
大アマゾンの状況なんて広いし、森深いし日本や欧米の状況を把握するようには簡単に見通せないのだろうな。
earth.nullschool.netの時間を巻き戻せば先日まで燃えていたロシアの森林火災も何となく分かる。自分が想像していたより日本に近いところが燃えていた。
それは運動という場においては正しい理屈だけど、国会議員でそれやるの難しいよね、って話なわけで。
漁師さんが海の保全だけやってるのは自由だし、それに対して「森林保護もやれ!」って絡むのは頭どうかしてると思うけど、
環境保護を訴えて漁師代表として国会に送り出されて森林保護法案に反対票投じてたら「森の問題にも真剣になれよ」って言われても仕方なくない?
・そもそも君達は君達の森林保護イシューの議員を国会に送り出すことを頑張るべきじゃない?
という話なんだが。
たとえば海洋団体が君達森林団体に共闘を呼びかけてるなら別だよ?
でも別に呼びかけてないじゃん。
海洋保護活動や議員擁立に対して憎悪に満ちたネガキャンと妨害ばっかりしてきたから。
君達みたいに感情優先で「森林保護の邪魔してやる!」なんて積極的嫌がらせはしません。
という話。
それが最初の増田で言った、シングルイシューって難しいよね国会では、という話なわけよ。
もしもそれがオタク関係の問題ばっかり話し合う場ならそれでもいいんだけど、実際にはオタクとは基本的に関係ない報道の自由とか共謀罪とかそういうのも話し合う場なわけですよ。
人を右派とか差別主義とか決め付けて執拗に攻撃してくる左派と手を握りたいなんて思ってません
正直言って、あなたがた左派が基本的権利を自分達の党派性より優先できる人達だという信頼は全く持ってません。
そして権利の中に含まれてるはずのものでもあなたがたが嫌いな対象を喜ばせる権利であれば積極的に否定してしまう人達だということを知っている。
でも、表現規制反対以外の重要なイシューで食い違う人を議員として担げって言われても困る。議員は表現の自由以外の問題にも必然的に口を出す職業なわけだから。
だから、頼んでない。
何度もいうけどさあ。
頼んでないから。
我々が望んで敵になったのではなく、
あんたらの根深い憎悪と悪意によって我々は敵対してるんでしょうよ。
我々もお前らにそんな期待を持ったことも要請をしたことも無いだろ。
何度も何度もしつこいな。
あんたらは一生内ゲバとネガキャンで生きて行けばいいけど、オタクを巻き込むな。
でもそれはお互い様でしょう? 左派の人が右派と全面的に一致するのがありえないってことは、逆もまた然り。右派の人からしても、表現規制反対のシングルイシューで左派の人を担げって言われても困っちゃうでしょ。その一点以外で食い違っているわけだもの。
お互い様じゃねーだろ。
オタクがいつあんたがたの表現規制反対派候補の川田龍平さん?にあんたらのような団結した悪意で持ってネガキャンをした?
龍平さんに思うことなんて「あ、久しぶり。大変な病気なのに頑張ってるんだねー」ぐらいだよ。
だから、そういう分断があることを認めませんか、って話よ。
だから何度も何度もさあ
「オタクはあなたがた左翼を仲間だと思ったことははなからありません」
「あなたがた左翼は誰よりもオタク差別のお気持ちを丸出しにして悪意をぶつけてきたからです」
とはっきり申し上げている。
分断どころか元から仲間じゃねえ、って何回言えばわかるんだ。
ついでに言えば、
もし仮に共闘なんかしてもあなた達のやれることなんてどこまでもネガティブで陰湿なネガキャン・嫌がらせ・仲間割れぐらいじゃん。
戦力として役に立つどころか厄介ごと呼び込むだけだね。
なんでそうなるかわかる?
立憲民主党の候補に投票するときですら、その候補の開く明るい未来に胸をときめかせてるっつーより
その人が当選することによって落ちる自民党の議員の吠え面を思い浮かべて暗い憎しみを楽しんでるでしょ。
この分断に目を向けずに、つまり自分が右側の人だってのを認めずに超党派でございみたいな顔されても困るんですわ。いや、左側からすると受け入れられませんから。そこちゃんと自覚してくださいよ。そういう話。
好きに言ってて下さいよ。
何度でもいうけど
オタクはヘイト集団である左翼を仲間と思ってないし受け入れられようなんて思ってません。
左翼の皆さんこそ誰よりもオタクヘイトが強い集団であるという自覚を持ってくださいね。
あんた達は「左翼に頭を下げて気持ちよくさせて利益も供与しないと協力してやらんぞ!」って言うけど
実際のあんたらは協力どころか執拗なヘイトと嫌がらせしかしてねーからな?
見出しはレトリックで、「あっちにも反対しろ」ではなく「どっちにも反対しないだろ?」という趣旨です。
ヴィーガンの主張は主に二つ、「畜産業における劣悪な飼育環境をなんとかしよう」と「畜産業が環境に与える悪影響をなんとかしよう」です。
「菜食主義者」よりも「反畜産主義者」のほうが正確なのでは、という気もしてきます。
前者はエシカル・ヴィーガン、後者はエンバイロメンタル・ヴィーガンと呼ばれ、微妙に立場が異なります。まあ両方を兼務している人も多いのでしょうが。
たとえばエシカル・ヴィーガンの立場では「まともな環境で飼育された家畜の肉は食べてもよい」というヴィーガンすら存在しています。
一方で、エンバイロメンタル・ヴィーガンは、環境保護の観点から畜産業の問題に着目しているので、動物実験を用いた医薬品や化粧品の問題には関心が薄いでしょう。
現代の食肉生産の多くは、環境負荷の高いいわゆる 工場畜産 (factory farming) に頼っています。そして私たちは実に多くの家畜動物を消費しています。鶏が580億匹、豚が14億匹、牛が3億匹など。これは1年の数です。想像できますか?
エサとなる穀物の生産や放牧のために貴重なアマゾンの森林が広く伐採され、土地や河川は汚染され、温室効果ガスを膨大に排出しています。
世界の 飢餓人口 は8億人。そのようななか、家畜に与えられている飼料の総量は40億人以上もの食事に相当すると言われます。
牛肉100グラムを作るためには穀物が1600グラム必要とされているため、穀物をそのまま食べた場合に比べてかなりの無駄が発生しています。飢餓問題は基本インフラ、教育水準、失業率、社会構造など複雑な問題が絡みますが、それでも菜食のメリットは極めて大きいものです。
肉食は水も土地もエネルギーも浪費します。世界人口が2050年に100億人に到達するとも言われているなかで、サステイナブルな食糧体制の確保は急務です。
日本エシカルヴィーガン教会とかいうところのサイトから引用しました。
(エシカル・ヴィーガンを名乗っていますが)こういったものがエンバイロメンタル・ヴィーガンの基本的な主張だと思います。
「クリーンミート」が「再生可能エネルギー」や「電気自動車」などに相当するでしょうか。
二酸化炭素の排出量を削減しようと唱える人に「俺たちに息をするなと言いたいのか?」などと絡む人が(私の観測範囲では)いなかったことを考えると、ヴィーガンに対して「おまえたちは生きているだけで虫や微生物を殺しているのだが?」などと批判することが、かなりズレていることがわかると思います。
あるいはヴィーガン側の主張としても「畜産はコストが高いので減らしていきませんか? そのためにはまず肉食を減らしませんか?」といったものであれば、納得する人は多いのではないでしょうか。
実際、大半のヴィーガンは、いきなり全人類の肉食を禁止しようだなんて思っていないでしょう。
「できることからやればいい」のです。
ここであなたの脳裏には肉屋を襲撃するヴィーガンのことがよぎったでしょうが、穏健派ヴィーガンに賛同すれば過激派ヴィーガンにも賛同することになるという論法はスリッピースロープにすぎません。
つまり「なるべく自動車ではなく公共機関を使おう」と同程度には「なるべく牛肉ではなく野菜を食べよう」という主張は成り立つと思うのですが、いかがでしょうか。
ちなみに私はヴィーガンではないので「おまえらヴィーガンは…」と一括りにするようなレッテルはご勘弁ください。よろしくお願いします。
アメリカ合衆国初代大統領ジョージ・ワシントンはインディアンに対する差別や黒人奴隷プランテーションを大々的に行ったから、建国の父として讃えられることは間違っていると主張するニュース記事を見た。
個人的にはアメリカにもワシントンにも思い入れはないので、別に彼を擁護するわけではないのだが、このような考え方には違和感を覚える。あなたが彼だったとして、あの時代に生きて、奴隷制に反対という立場を取るだけの勇気があったのか?と偉そうなことをいってみたくなるのである。よく言う、時代性を考えれば妥当じゃないかというやつである。
どうして時代性という考えが生まれるのか。我々の倫理観はどうして進歩するのか。
人は、環境によってその生き方を変える。アイヒマンという有名なナチ高官がいた。彼はもともとは穏健派でマジメな公務員タイプの人間で、ユダヤ人はアーリア(ドイツ)人と隔離して生活させるべきという思想こそ持っていたが、虐殺することはやりすぎだと当初は考えていた。しかし、他のカリスマある過激派幹部党員たちと討論を重ねた結果、ユダヤ人はやはり根絶やしにするべきだと意見を翻す。
結果としてユダヤ人を虐殺する命令書にサインした彼は、当然のことながら裁判にて死刑を言い渡されるが、のちに、彼と同じような圧迫状態に置かれたときに人間が倫理にもとる行動を取るかを調べた、いわゆるミルグラム実験において、人間の多くは道徳より権威・安全・保身を優先することがわかった。
人を、倫理を、道徳を規定するのは環境だ。では環境を規定するのは何か?一体何が奴隷という怖ろしい制度を肯定する道徳を生むに至ったのか?
ワシントンの時代、奴隷労働による大規模なプランテーションなしにはアメリカの工業化は支えられなかっただろう。リンカンによる奴隷解放だって、北部の工業化が十分に進んだ結果、奴隷の需要が薄くなったのが原因のひとつだとされている。
彼らは、奴隷労働なしには生きられなかったのだ。少なくとも、奴隷労働なしにはアメリカは今日のような巨大工業国に育つことはなく、このグローバルな科学社会もいまほど繁栄することはなかったであろう。
環境を規定するのは科学技術だ。人類の知恵だ。我々の需要を、その時代の科学技術が満たしきれないとき、我々は一部の社会的弱者に負担を押し付けてやり過ごそうとする。これは時代を超えて起こってきたことだ。日本国内を見ても穢多・非人・部落など枚挙に暇はない。
奴隷労働という『悪徳』の恩恵を享受した我々が、そのことによって得た新たな道徳観で彼らを批判するとはなんだか皮肉だ。回顧主義によって昔の人の悪徳を批判するのもいいが、むしろ未来の人間に批判されるべき悪徳が自らに備わっていないか、我々はもっと考えるべきではないか。
非正規雇用労働者、医学部の不正入試問題、保育士や看護師と言った一部の職業の常軌を逸した低賃金労働、過密環境下での畜養エトセトラエトセトラ……これらは、数十年後科学技術が進歩したときにはおそらくほぼ解決されるだろうと私は考えているし、その暁には未来の運動家たちの回顧的な批判にさらされるだろうとも、私は考えている。
貧困にあえぐ非正規雇用労働者が労働者全体の数十パーセントまでをも占めるのはなぜか。会社に正規雇用者を雇って保険料その他の経費を払うだけの経営的体力がないからだ。会社が流動性の高い人手を求めているからだ。正社員がその要件を満たすようにするための仕組みがないからだ。それらの問題を解決し、全ての雇用者たちに十分な生活物資を与えるだけの生産技術を我々が持っていないからだ。
犬や猫といった一部の哺乳類が動物愛護法で手厚く守られているにも拘らず、同じ哺乳類でも豚や牛は毎日おびただしい数が動物愛護という概念につばを吐きかけるような環境で肥育され屠畜され死んでいくのはなぜか。そうしないと我々は良質かつ大量の動物性蛋白質を手に入れることができず、そして動物性蛋白質を手に入れなければ人は健全に成長することが難しいからだ。
女性が医者になることが嫌われるのはなぜか。女性が妊娠したときに、医療という絶対に穴を開けてはならない業務にできる巨大な穴を埋める方法が現在見つかっていないからだ。そもそも、女性が妊娠したときに長期に渡って休職しなければならないほど、医療技術やリモートワークが進歩していないからだ。
話はそれるが、医学部不正入試の際に、この問題を提起した人が炎上していた。女性が多くなると、その分医療従事者に負担が増えることになり、システム全体が崩れかねないと。日本に生きている以上、誰しもこの構造的な問題の恩恵を受けているはずなのだが、これを一方的に叩いていた人は一体何様のつもりなのか。さぞ時代を先行きする高い道徳心をお持ちなんだろうな、と思いながら見ていた。
もっと直接的な話をしよう。石油資源を燃やさないため、トウモロコシなんかの生物資源から取り出した燃料を使おうという動きはかなり昔からある。だが、もし今すべての車がバイオエタノールを使いだしたら何が起こるか。全ての森林をトウモロコシ畑にしたとしても、我々の消費しているエネルギーを生産するにはとうてい足りないのだ。つまり、バイオエタノール、生物燃料という考え方は(少なくとも現行の技術では)人類を支えるだけの力を持っていない。現在の我々は自らの使うエネルギーを自己生産することすらできないのである。そして、そのつけを払わされる社会的弱者とは、未来人たちだ。彼らは、化石燃料は燃やし尽くされ、大気の汚染され尽くした地球という大きな負担を押し付けられるのだ。
この我々の巨大な『悪徳』に対して、我々は未来人になんと言われるのだろうか。呪詛を投げつけられるのだろうか。それとも、時代性という言葉とともに、やんちゃをしてしまった子供を見るような目で許してくれるのだろうか。いずれにせよ、今のところは物言わぬ存在である彼らからは批判されないのを良いことに、彼らに莫大な負債を押し付けていることは間違いない。
我々は皆、生きていくために必死だということを言い訳に、平気で他者を踏みにじる、巨大な業を背負った罪人なのだ。そして、そうである以上批判されることはあるし、完全に正しく生きてかつみんな幸せにしようなどという幻想は捨てねばならない。様々な意見を取り入れ、熟慮し苦悩した末の自らの選択は批判されないと思ったら大間違いである。皆あなたと同じように苦しんで、罪を背負って生きているのだ。むしろ、我々の権利とは、自由とは、選択とは、もらった批判を受け入れるか、心の中でくさすか、そこにこそあるのだ。
理想論を語るにしろ、現実論を語るにしろ、それを受け入れるところから始めなくては、現代の社会問題に関する議論は的外れなものになってしまうだろう。
https://r25.jp/article/648041577767859763
ロマンティックラブ+一夫一妻式の結婚モデルの弊害というのは確かに色々あって、そうではないモデルを提示することで一部の人の生き方に何らかの救いを与えよう、みたいなコンセプトは分かるんですよ。でも、どう考えても森林さんの役割分割モデルのほうがやっていくのが非常に難しいのは自明で、なんでかっていうと、人間にはカラダは一個しか無いからなんですよね。
家庭のパートナーとして掃除洗濯する必要のあるとき、育児授乳する必要があるとき、一方はそれをやってて他のパートナーと乳繰りあってるような状況にも、逆に自分のことを抱いて欲しいのに無関係の家のトイレ掃除を優先されてるような状況にも、多くの人は耐えられないんですよ。
恋愛をするにもセックスをするにも家庭をやっていくにも、リソースが必要で結局そのリソースの根源は「この私のカラダ」なわけで、そのリソースの分配の管理はとてもたいへんでどうしても契約や約束ごとが絡んできてしまう。揉めないために議事録とりましょうみたいな。いや、完全にみんなが個人として独り立ちしてたらっていう人もいるんだけど、それはもうすでに結婚観の話ではなく、独身で各々好き勝手やっていこうという身も蓋も無い話になり、結構、現代で採用されちゃってて少子化してますよ。
あとこの手の話で思い出しちゃうのが宮台真司という先生で、色んなロマンティックラブ以外の恋愛観や結婚観を唱えてたりしてて、森林さんとかよりも学者っぽい概念とか使って説得力もそれなりにあったりなかったりだったんだけど、割と歳をとったときに自分の好みの性格のすごい若い奥さん貰って結婚しちゃったんですよね。そんでウェブサイトに娘の写真あげるような子煩悩なパパになっちゃった。彼の今までの理屈からすると、今でも外に女がいるかもしれないし、いてもいいと思うんだけど、やっぱり表立って外に女いるとは言わないし、そういう性のモデルを実践せよと言う理屈はトーンダウンしちゃたよね。ポロっと口説かれたとかってバラしちゃう女の人が数年前にブログ書いてた気がするけど。
何が言いたいかというと、若いとき、元気なとき、性欲やカラダのリソースが有り余ってるとき、男の人は自由恋愛のロジックを組んで披露して実践するわけです。でも、年をとったらどんどん撤退していく。なんでかっていうと、そもそも結婚というのは恋愛のためでもセックスのためでも無くて、家庭を作るためのものだからです。生活のセーフティネットを作った上で繁殖する場だからです。恋とセックスはおまけみたいなもんでしか実は無い。リソースが無くなっていったらセーフティネットを作ろうと巣を作りはじめるのはとても自明なことで、宮台先生みたいに性欲兄ちゃんがいいパパになっちゃうような人の話を何人分きいてもダメで、森林さんが60歳になっても同じこと言って同じ生活して沢山の女を抱いて生きていたら、もう一度話を聞いてみてもいいかな、と思いました。
あと、恋愛とセックスと家庭を一致させるのって、それらを分割させた上でリソースマネジメントするよりはるかに楽ですよ。十人の人を口説くより、昨日まで好きだった人をずっと好きでいたり、また好きになったりするなるほうがはるかに簡単なんじゃないでしょうか。
花粉症のホッテントリがあがってたので、つらつらと思うことを書いてみます。
https://www.yomiuri.co.jp/science/20190131-OYT1T50028/
もちろん、私も花粉症です。
ブコメ欄の方々も気持ちもよーくわかります。だけど、木を燃やせーとか全部切り倒せーとか言われると結構つらいです。
めちゃめちゃ雑に言うと、スギとヒノキはお金=財産になったからです。
むかしから、日本では建材や建具としてスギとヒノキが重宝されてきました。特に大きくて、まっすぐで、健康な木はとてもとても高く売れたそうです。
戦後はいろいろあって、日本の野山はとても荒れていました。そこで、価値の高かったスギとヒノキを当時の国策として日本の山々にめっちゃ植えました。
当時の考えからすれば、50年、60年後の子孫に財産を残してあげようって感じでしょうか。もちろん、それだけじゃないと思いますが。
オーストラリアやカナダ、南米などから安くて質のいい外材が盛んに輸出されるようになると、スギやヒノキの価値はだださがりとなりました。
人工的に植え木は手入れが必要です。手塩にかけた木を二束三文で売られたら、はっきり言って赤字もいいところ。なので、山主さんたちは木を売ろうにも売れない状況が続いています。
もちろん、林野庁も手をこまねいてるわけではありません。花粉が少なかったり、出なかったりする樹種を研究開発して、なんとかこの状況を終わらせようとしています。
けど、結局のところ木が売れないことには、山主さんたちも植え替えしづらいんですよね。さっきも言いましたが、植林するとめっちゃお金かかるんです。伐採、搬出、地ごしらえ、獣害対策、植栽、下刈り、枝打ちetc。
正直、林業業界は税金なしではやっていけません。けど、どれだけ補助があっても、山主さんの金銭負担ゼロというわけにはなかなかいかないです。植え替えても金にならなる見込みがない。だからやらない。そういうことです。
2025年から、日本の森林を整備するために国民一人当たり1,000円/年の税金が追加されます。このお金を使って、杉やヒノキを花粉の少ない種に植え替えたり、針葉樹(スギ、ヒノキ、マツ)と広葉樹の混ざった混交林に変えたりする予定です。ちなみに、なぜか平成31年度から市町村に配布されるので、身近な山林も変化してくるかもしれません。
とはいえ、花粉問題はすぐには解決しません。日本の国土は多くが山林ですが、一斉に伐採して植樹したら、あっという間に国土が荒廃してしまうからです。嫌われ者のスギ、ヒノキですが、土壌安定や水質向上のためにはとてもとても大切なんです。
花粉症はつらいです。ほんとに。林業従事者は大雨の日以外は現場にいることが多いですから、そのつらさをよくわかってます。同時に、木の大切さ、大事さも身にしみてかっています。だからこそ、山主さんと話し合って、税金を使いながら、少しずつ、少しずつ植え替えをしているのです。
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失楽天がコンビニ基準の修正をやめて実用性が高まり、ティッシュの消費量が増える
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世界的に干ばつが多発し、水が貴重になる
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貴重な水を溜めるための桶が必要になる
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桶屋が儲かる
まとまらない走り書き
マトモな飼育も出来ず、する気も感じられない。
研究をしている風でもなく、値札のついていないペットショップと何が違うのか。
娯楽というが、苦しむ動物をただ見て楽しむとは、なんて高尚な趣味をお持ちなんだろうね。
嫌がる動物にべたべた触って嫌がらせするのが楽しみとは、なんて素敵な趣味なんだろうね。
情操教育なんて言うけれど、劣悪な環境でボロッボロの動物を叩き起こして驚かせて得られる情操って何なんだろうね。
確かに動物園という施設には、見世物としての要素はあるし、娯楽でもある。
だけど同時に、人類の環境破壊に対応するための必要悪としての施設でもある……脆弱になった生息基盤のために、域外保全によるバックアップや生態研究は必要であるし、そのための資金を得るには市民の協力が不可欠であるから。
また市民の理解を促し親しみを持ってもらうことも必要であるから。
幾らかのショープログラムも、動物生来の機能の発露であったり、飼育改善に関するものや生態理解に繋がるものであるべきであり、そのようになってきている。サーカスとは違う。
確かに動物園という施設は、いくつかの団体が言うように悪い施設ではある……けれど、その悪の根源は人類社会そのものにあって、動物園というのはただその悪を引き受けているに過ぎない。
動物たちの生息地を取り戻すために、都市を全て破壊して草原や森林とし、港湾を破壊して干潟とし、田畑を破壊して沼沢地とし、そうしてもはや支えきれなくなった人口をばっさり間引く…というようなことを志すならば、確かに動物園そのものを悪といえるだろうけれども。
ところが、そのようでない、むしろ人類悪を拡張したようなものが動物園と呼ばれていたりする。
それは、同じ動物園と呼ばれてはいるけれど、実態としては他の動物園とは全く違うおぞましい何かだ。
大昔のコロシアムだとかのような、捨て去ったはずの暗黒のマントを身にまとった、邪悪ななにかだ。
その昔に娯楽を優先した時代があるのは確かだけれど、今は変わってきており、反省すべき過去だ……その過去の亡霊に未だに大手を振らせてていいものだろうか。