はてなキーワード: 収束とは
真夜中に眠れないほど精神的にめいってしまったから書いた。久方振りに「どうしようもない」ほどの体調不良を経験してるが…涙も治そうという気力も出ないことに危機感を感じてる。本音しか書けなくなってしまったよ
…TMくん( @tm2501 )のはてブや発言を読んでいると痛々しいと思うんだが、いわゆる「イタイ人」ではないんだよなーと思ってて、色々考えた結果「精神面リストカッター」というあたりで腑に落ちた。彼の魂はどうすると救われるかなと思ったりする。
一応、振られたから返しておきます。「精神的リストカッター」ってなんぞですか?
あ、言葉自体は私の造語なので…。「肉体ではなく精神(ココロ)に対し自傷行為を繰り返す人」くらいの解釈でおねがいします。ちなみにTMくんに自覚があるかどうかは関係ない。外野から見てそう見えるって話なので。
小学校でたときには少なからず、自覚があったので否定はしません。(詳しくは今日の朝に投稿した記事で)それは歪んだ家庭環境ゆえに仕方ないものだと思ってます。気がついたときに僕が病まずに努力し続ける精神を獲得するためにはこれ以外の方法が当時はなかったと
あ、その行為自体は否定するつもりはないのです。あんまりいい意味に使われない言葉ではあるので申し訳ない。…どっちかというと、今のTMくんがどういう方向に進みたいのか、永遠にリスカし続けることをよしとするのかみたいなのが見えてこないなーと思って。
そこで望みが叶えば、ある種真人間になれるチャンスはあると思うのですが…自分の現状から言えば、劣化版有村悠みたいな末路しか見えないのは認めますね。彼よかコミュ力・社会性はあるが、才能も知識もない。行くも引くも地獄になるのは確かに目に見える話ですね
真人間じゃないとという考えが、凝り固まってるなあと思います。バイリンガルを目指せばいいだけなんだけどね、これって。別にどれか1つのコミュ世界だけじゃないわけだし。それに、才能や知識なんかなくたって、生きていける世界は多々あるんですよ。
言われてみると、昼と夜の顔(公私)を両方ともをちゃんと作ろうとすると、どうしてもひとつの顔につながるようなルートを求めてしまうのがダメなのかもしれませんね。才能や知識のいらぬ世界で大多数の人は生きていくはずだが、それを説明する言葉を僕はもってない
なんとなくだけどオンリーワンでNo.1以外は全部ダメ!思考が見え隠れしてるなあと思います。合わせ技で1本!もありなんだよとかそういう風に考えられるといいかなあと。あと、公私は無理に1つにしなくていいと思う、というのが私自身の経験則。
「オンリーワンでNo.1以外は全部ダメ!思考」真に戦うべきはこの思考なんですよねぇ…。これのおかげでたった一人でブログを大きく出来たけど、これのせいで二つの道を緩やかに成立させることが手抜きに感じてしまう。どちらか一本をすごく真面目にしてしまう
青二才の敵は青二才自身の自意識。 ここに気付いたのはエライ。 あと一歩だ。頑張ろう。
オタクのコミュニケーションは手軽に深いコミュニケーション体験を得られて、麻薬的な快感を味わえてしまうんですよね。それをうっかり10代前半とか半ばに覚えると、なまじ味わってしまっただけに、この感覚を味合わえないコミュニケーションを異様に軽視しだすと思います。オタクのコミュ障の原点は多分ここなんだと思う。、刺激が強いコミュニケーションを求め続けた結果がそれかも……という事で次なる仮説を考えておりますwそれぞれ味わいは違うけどおいしい、って理解ができればなんとかなるとも思うんですが、ジャンキーなヲタコミュにハマると難しいかもですねぇ。
無分別にオタクな用語をバラまいた結果、それまで築けていた間柄が傷つき、ボロボロになっていく過程こそが、コミュ障への過程そのものなのではないか。まさにどこかのヤマアラシのジレンマではないか。さて。この段階で分別があり、それまで使ってたコミュニケーションも手放さなければ、おそらくコミュ障の症状は軽度で済むと思う。問題は「闇に呑まれよ」ではないが、なんとかしてこのジャンキーな快感を味わえるコミュ方を駆使したい誘惑に抗えなかった人だ。当人は、ただ刺激の強いコミュニケーションをしたいだけなんだけど、周囲から見たら突然コミュニケーションのプロトコルが変わった人は一般的に「奇人」と言われる。親や友人に奇人扱いされるようになったら、いよいよオタクのコミュニティにしか居場所がなくなる。距離感がおかしくなるのは、自分の通信プロトコルが変わった自覚なしに、相手に通じない、刺激的なプロトコルを発し続けた結果なのか。通じればコミュが成立するけど、通じないコミュニケーションはひたすらノイズでうるさいだけだ。けど 「ぼくのかんがえたさいきょうのプロトコル」 が通じないことは二重の苛立ちを生む(素晴らしい物が認められない苛立ちと、通じないことそのものへの苛立ち)けど、自分のプロトコルに酔ってるから捨てられず被害が収束しないのか。本来はバカバカしいし投げ捨てるべき物なんだけど。あと、ここまで来ると多分、通常の汎用的なプロトコルが下に見えてしょうがない。だからこれを採択する気はないし、おそらくこれを使ってる連中を見下してる。とすると余計に殻に籠もって、自分だけの歪なプロトコルに益々酔いしれていくのか。うわあ。本来は相手に通じてナンボのプロトコルなのに、どんどん自分にしか使えない役に立たないプロトコルに入れ込んでいくアンビヴァレンツ。しかも翻訳すら許さない(翻訳はこの役に立たないゴミにあるはずのない品位を貶めることになるため)からゴミ加減が益々kskするだけなのに余計に…うわあ。あとはこのサイクルが行くところまで行って煮詰まれば、どこに出しても恥ずかしいコミュ障がいっちょ上がってしまうのか。ぐへえ。やばい。開ける気の無かったパンドラの箱を無用に開けた気分だ。しかも希望がないorz。
この話の元は、まぁ案の定実体験なんですが、10代前半のオタ成り立て(罹患したて)の頃が案の定一番酷くて、「自分の日常会話が全てマンガやアニメのセリフで成立できてる」って信じ切ってた頃があったんですよ。だからプロトコルに酔うというのは実体験なんです。オタク人生25年、もっと早く気付こうよ。ヒントはいっぱいあったし、多分この話は20年前ぐらいの自分でも理解できるよきっと。
自覚があるので読ませてもらいました。私自身汎用的なプロトコルとの上下関係を明確に定義したことはありません。ただ、私の中でこれで勝たなきゃ本当に母親に幼いときから押されていた「そんなこともできない奴」の烙印で一生涯潰され続ける。その絶望と戦ってたら、こうなりました
多分ここに明確な上下関係を見出す人は少ないと思います。快楽に支配されると、快感にならないものは意識すらしないからです。ただ、使い方によっては確かに武器にも杖にもなると思いますが、頼りすぎると自分に跳ね返ってくるだけです。
そこなんですよね。承認欲求が強すぎる状態を僕の基準地点にしてるから話がずれたり、煽り耐性が落ちてしまったりしてる。問題だとは思うのですが、オタク界隈の悩みゆえ明確な言語化・相談ができにくい内容。ゆえにバランスのいい状態でかつ僕の自己同一性が守られる形をもってない。そういう意味じゃ少し違うのかなぁ…と思うのです。まがいなりにも自分の頭と目で作ってきたモノに評価を受け、オタク的な人だけではなく幅広い層からの支持から得た自信なので、それゆえに過信しすぎていた部分が強かった。(成功体験と認識してしまうとそれを修正するのは難しい)
なるほど。あの鋭い舌鋒の台所を垣間見た気分です。でもこれを明確にコントロールできる人はやはりそういないですよ。タイミングの調節だけなら簡単にできるけど、威力とかキレ味のコントロールは強めることにしか大概の人は興味ないでしょうから、強さだけを求めてしまうと思います。成功体験と結びつくと尚更修正は辛いと思います。自分でつかみ取ったもので構築したとなったらなおさらですわ。壊す必要はないけど、見つめ直すことはオススメします。
全くそのとおりです。昔に比べて、「一般的な思考」よりも、先にエッジの効いた青二才節が先に思いつくようになったため、知らぬ間に相手から失言扱いされるケースが増えました。演じ分けとまで言わなくても、「一般的な思考」と並列できる程度には戻したいですねぇ…。最近、悩んでいるのはその力加減なのです。オタクブロガーのままリア充で真人間になるという路線でここ数箇月書いてきていたが、これがどちらからも不評であり、僕自身が疲れはててしまう事に最近気づいてしまったため、力加減の変えどころが分からず、思案していますね。正しい変化とか、更生とかそういう枠組みに入りたいとは思わないが…自分のやっていること、考えていることに無理や限界があるというのはわかる。そういう時の選択肢が欲しいねぇ…自分で作りこんでしまった自我ゆえに、一般的な処方箋を頭ごなしに押し付けられるのは御免だ。適切なモノを選ばないと
「炎上以外成功してないから、他のEXITを見つけられないから困っている」というところまで自覚があるならもう少し。炎上以外の方法で注目を集められる実力を身につけよう
個人的にはオタクのままリア充になって、自分がいる場所の視野を広げてしまいたいなぁ…と最近は考えるようになりました。それゆえ、オタク同士の座談会にわざと女性(ナース親子)を呼んで、ホモソーシャル的な議論にしないような事をしました。
と思ってたら、どうしてこういう小手先に頼ろうとするかな。 その程度の工夫でなんとかなるような悩みならそんなにひねくれたりしないでしょう。 強がらないでもっと自分の抱えてる悩みを真剣に見つめよう
本人がまとめててワロタwww http://togetter.com/li/485119
綺麗事、とまでは言わないが、論理より先に感情で訴えかける、ということは往々にしてあると思う。
例えばこうだ。
今まで、社内システムやWeb制作など、いくつかのベンダーを利用して作ったりしてきたが、最終的にはもめる結果となってしまい、コストだけ浪費してろくなものができていなかった。
この度、新しいシステムを構築し、社運をかけた新規事業に打ち出すため、結果を出せるベンダーを募集したい。募集要項としては、このようにした。
「当社では来期の新規事業設立に向けて、大規模なシステム構築を必要としています。そのため、信頼できるベンダーを探しています。ただの受発注の関係にとどまらず、当社の事を真摯に考えていただけるパートナーの形を目指せるような関係を築ければと思っております!詳しくはお問い合わせください。」
または、こうだ。
敏腕プログラマーのAくん。基幹システムの受託開発をメインとしている当社において、プログラマの域にとどまらず営業からSE業務までこなすオールラウンドプレイヤーだ。
トラブルも多く経験しながらも、順調に仕事をこなして行っていたが、ある日、Aくんから相談を持ちかけられた。
内容をただしてみると、AくんはWebの業界に将来性を感じていて、ステップアップのために転職を考えているとのこと。
今やめられると困るので、昇給を提案してみたが、このような返事だった。
「お金じゃないんです。」
IT業界においては、これらはよくある話ではないかなと思いますが、多くの方はこれらの例の真意を汲み取れていないのではないかと思います。
なぜかと言うと、これらのポイントとしては、やはり「お金」だからなのです。
1つ目のケースを考えてみたい。
なぜ今までの発注は失敗に終わったのか。
それらは全て「お金」が解決してくれたはずなのです。
何を言っているんだお前はと思うでしょう。
だが、よく考えてみて頂きたい。
当初は合っていたでしょう。こういうことをやりたいというヒアリング。
ここまではよかった。
もっと安くなりませんか、これ?と。
または、見積りの段階で要件が固まりきっていなかったのではないでしょうか?
こういう感じでやりたいんだけど、細かい事は決まっていないので
進めながら決めていきます、というような。
当然、見積りの段階では、ある程度のバッファやリスクヘッジも踏まえた上で
値付けをするでしょう。
そこまで推し測ることは難しい。多くの場合は出来ない人間になるのですが、
仕様は決まらない先延ばしにする、後から要件をごちゃごちゃいいだす。
出来上がったものにケチを付けると、当初予定していた作業内容からは
到底かけ離れたものとなっていくわけです。
そういった発注者側の意見をまとめたりスケジュールに遅れが出ないように
管理をするのがSEなりPMなりの仕事なんじゃねーのかよと、そういう意見もあるでしょう。
それは至極当然なことです。当然なことのため、予めそういった事態も想定した
だが、見積りの段階では発注者はそれが納得理解できない。出来ない人間なので
なおさらです。意味がわからない金額を上乗せされているので、それならば
金額を下げるか、スケジュールや要望に無茶を出すか、という事になってしまうわけです。
こうなった場合、御社のために頑張りますよ、とか、パートナーだからがんばりますよ、とか、そういう問題ではないのです。
そもそも頑張ってなんとかなる問題ではない。
単純にお金の問題なのです。
でも、発注者側は追加のコストは払えない。じゃあこの見積書はなんなんだよええっと
なるわけですね。これじゃ折り合いがつくわけもありません。
よって揉めるなり、満足のいくものが完成しない、という事になるわけです。
これは、色々な視点から見ればもっと多くの問題をはらんでいるし、一概に
発注者の責任であるなどと言い逃れをするようなものではないですが、
ただ単に、問題解決のためには、やはりお金に収束されるのかな、ということなのです。
2つ目のケースの場合はどうだろうか。
Aくんの意見は「お金じゃない」だから、お金じゃないっていってんでしょう。
そう思えますが、やはりそうではないのです。
心のなかで何を考えているかまでは当然わかりませんが、
少なくとも頼られていると実感できる会社を辞職するわけです。
本当にステップアップを考えているだけならば、辞めなくてもできるわけです。
えーだって、会社がそういう方向じゃなかったら無理に決まってるでしょう。
そんなことはないのです。
勉強なんかどんな環境でもできるし、Webの業界について詳しくなりたいと思っているならばなおさらのこと、Webなのだから、どんな形態でも、どんな場所からでも勉強はできるし仕事を作ることもできる。
そういう発想がない時点でそもそもナンセンスです。
そうであるにもかかわらず「辞める」という選択肢をとる限りには、
やはり今の状態に満足できない要因があるということです。
それは「お金」だと言えないでしょうか。
この話は給料だけに限るわけではありません。
会社にお金があれば、新しい事業を始めることもできたかもしれません。
他法的に展開するというのは経営者としては必ず考え得ることですから、
Aくんから提案があれば、そういった方向性も考えられたかもしれません。
Aくんから見れば、給料にしても会社にしても、あらゆる視点で見て、
やはりお金が足りていなかったというわけなのです。
なんかまとまりがなくなってきましたが、やはり。世の中ゼニなのです
一部で話題になってるこれだけど、投稿件数100越えてる割には、他のネット論争と比べて比較的コメントが読みやすい。これについては、投稿してくる人も d:id:perlcodesample も余計なノイズや一言を入れずに投稿してくれているからだと思う。見習いたい。
にもかかわらず、ここを読まないでトラバ突っ込みを入れてくる奴は馬鹿ばっかりだから話は全然収束しないし。トラバ投げる奴は、ただ自分が気持ち良いエントリを書きました、って話しかしてない。
d:id:perlcodesample は「perlだとスカラーも各種リファレンスも全部 my $var って書くだけで受けることができる! 楽!」って話しかしてない。(そこから派生する色んな"利点"については「お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな」レベルの主観だらけなので"インデントをスペースにするかタブにするか論争"のように対話しても万人に納得のいく結論は出ない)
そう言う話に「そんなことをしてると(あらかじめコンパイル時にチェックが入らないから)後から大変なことになるぞ!」ってツッコミが入り、それに対して「後から大変ってどういうことですか? どうせ全部テストするんですから(コンパイルを行った時点である)最初から大変なのも、(プログラムをテスト実行した)後から大変なのも、大変度合いの総和は大して変わらないでしょう?」というあたりで止まっている。
この d:id:perlcodesample の主張は、(本人にとっては)暗黙の以下の前提がある。
この前提のどれかに無理があることを直感的に示さない限り、この対話は終わらない。
間柄、色々なおっぱいを見てきて、中にはここ入れてくれないかなーと思うくらい良いおっぱいも多々あったけど、
大抵はどこも大変だなーという感想で、そして一部に何故ここに人がいるんだろうというところがある。
いわゆる桃色おっぱいだ。
内情は様々だが、極まると似た形になるのは何でも共通している。
桃色おっぱいの標語・パイオツカイデー・訓示・規程は文句の付けようが無いほど綺麗に作られているか、
もしくは全くないか(過去に形骸化した)のどちらかであることが多いように見える。
悪影響は少ない(短い期間にトラウマを植え付けられるケースもあるが)。
見ていて悲惨を感じるのは前者だ。
まずトップが教育熱心である。理想を語り、あるべき姿を定める。
大きなおっぱいの出身であることが多く、規則など細かい部分まで決める。
有体に言ってしまえば、他と比べられないという安心感を拠り所としている。
理由は同様だが、愛され方には不思議と差が出る。
意図的かはともかく、古代ローマ外交のような効果を発揮している場合もあって感心したことがある。
いずれにせよ、社会人としてまっさらな頭の中に崇高なパイオツカイデーとAV男優人像が叩き込まれる。
不幸なのは、理想と現実のギャップについて未経験ゆえに評価が出来ないことだ。
さらにそういうおっぱいは「AV女優の成長に期待」して重要な間も責任とセットで新人アイドルに任せることが多い。
失敗を犯した時も上手くいかないのは自分が足りないからと考えるようになる。
そのAV女優の多くは、間に対して非常に誠実だ。
彼らに辞めるという選択肢はない。
どれだけおっぱいに不満を持っていようと、顧客と間に罪は無い。
間は自分の問題だ。
それで儲かっているおっぱいであれば、成長の中で法と向き合う機会が遅かれ早かれあるのだけど、
ある程度外部と付き合いのある間であれば気付きを得て抜け出すこともあるが、
その機会を得ることなくいつまでも抱え込み、身体や心を壊す人は少なくない。
こう大雑把に括ってしまうのは好みじゃないのだけど、やはり日本的な問題なのかなと思う。
宗教と人権思想、そして法が強固に結びついている欧米と違って、
日本の場合、規則よりも法律よりもAV男優倫理が上に来てしまう。
法をいくら変えようが、より正しいものがその上にあるのでは、実態は何も変わらないのではないか。
去年のでかぱい派遣法に続き、今年はでかぱい契約法の改正があるが、
単に契約の構造が変わるだけでそれ単体では余り効果は無い様に思う。
考え方を変えなければ、いつまでもこの問題は残り続ける。
間は尊い。素晴らしい考えだ。だが、そこに付け入る悪が野放しになっている。
悪と認識されてすらいない。何が悪かを誰も知らない。
でも、そんなの読まないでもわかるだろう。
過労で倒れる。鬱で出社できない。業務中に泣き出す。わけのわからんミスを繰り返す。
近頃の若い者はとか言う前に気付いて欲しい。
尊いはずの間が人を壊している。その異常に。その仕組みに。
過去、「おっぱいは誰のものか」という議論が活発にされた時期があった。
「おっぱい」を「間」に置き換えてみるといい。
問題は全く同根だが、
当時「おっぱいはでかぱい者のもの」といった人達は「間はでかぱい者のもの(責任)」と言うだろうか?
「おっぱいは資本家のもの」といった人達は「間は資本家のもの(責任)」と言うだろうか?
桃色おっぱいの夜遊び者と従業員に聞けば、両者とも正反対の自己矛盾した意見を言うはずだ。
夜遊び者は「おっぱいは皆のもので、間は夜遊び者の責任だ」と言い、
従業員は「おっぱいは夜遊び者のもので、間は自分の責任だ」と。
誰かに意図的に作られたわけではなく、
法と倫理のエアポケットで自然進化したバケモノが、全国に何千何万と存在している。
別に本人たちが納得しているなら、口を出すのも余計なお世話のように感じられることも、なくはない。
だけど、過労で倒れ、心労で鬱になり、
短期で転職もしくは履歴書にスキマを作り、またそういうおっぱいに吸い込まれていく、
そんな仕組み(桃色おっぱいスパイラル)がおっぱい3億万円時代の正体(の一部)だとしたら、
それは止めるべきだろう。そのために、口を出さずにはいられない。
とはいっても、どう止めるかについては、無責任な意見しか言えない。
上の例に自分が当てはまると思うなら、さっさと辞表を出せというくらいだ。
クライアントや同僚のことは、ひとまず脇におく。
脇に置けないなら、長期的にはその人達のためと思えばいい。
桃色おっぱいの間のクオリティは、そのAV男優倫理に反して得てして低いのだから。
でかぱい力市場も売り手に力が戻りつつある状態だ。
誇張してもいけないが、それが正当な対価と信じる額を言っていい。
それが桃色から抜け出す第一歩になる。
間は辛いもの、人間関係は理不尽なもの、我慢は美徳、理想は理想。
辞めろ、さっさと。選択肢がないなんてのは思い込みだ。
恥ずかしがらずにキャリコンに相談して、可能性を整理してもらえばいい。
そこで卑屈にならずに他の世界を見ることができれば、きっと世界が広がるはずだ。
多分。
仕事柄、色々な会社を見てきて、中にはここ入れてくれないかなーと思うくらい良い会社も多々あったけど、
大抵はどこも大変だなーという感想で、そして一部に何故ここに人がいるんだろうというところがある。
いわゆるブラック会社だ。
内情は様々だが、極まると似た形になるのは何でも共通している。
ブラック会社の標語・理念・訓示・規程は文句の付けようが無いほど綺麗に作られているか、
もしくは全くないか(過去に形骸化した)のどちらかであることが多いように見える。
悪影響は少ない(短い期間にトラウマを植え付けられるケースもあるが)。
見ていて悲惨を感じるのは前者だ。
まずトップが教育熱心である。理想を語り、あるべき姿を定める。
大きな会社の出身であることが多く、規則など細かい部分まで決める。
有体に言ってしまえば、他と比べられないという安心感を拠り所としている。
理由は同様だが、愛され方には不思議と差が出る。
意図的かはともかく、古代ローマ外交のような効果を発揮している場合もあって感心したことがある。
いずれにせよ、社会人としてまっさらな頭の中に崇高な理念と職業人像が叩き込まれる。
不幸なのは、理想と現実のギャップについて未経験ゆえに評価が出来ないことだ。
さらにそういう会社は「社員の成長に期待」して重要な仕事も責任とセットで新人に任せることが多い。
失敗を犯した時も上手くいかないのは自分が足りないからと考えるようになる。
彼らに辞めるという選択肢はない。
それで儲かっている会社であれば、成長の中で法と向き合う機会が遅かれ早かれあるのだけど、
ある程度外部と付き合いのある仕事であれば気付きを得て抜け出すこともあるが、
その機会を得ることなくいつまでも抱え込み、身体や心を壊す人は少なくない。
こう大雑把に括ってしまうのは好みじゃないのだけど、やはり日本的な問題なのかなと思う。
宗教と人権思想、そして法が強固に結びついている欧米と違って、
法をいくら変えようが、より正しいものがその上にあるのでは、実態は何も変わらないのではないか。
単に契約の構造が変わるだけでそれ単体では余り効果は無い様に思う。
考え方を変えなければ、いつまでもこの問題は残り続ける。
仕事は尊い。素晴らしい考えだ。だが、そこに付け入る悪が野放しになっている。
悪と認識されてすらいない。何が悪かを誰も知らない。
でも、そんなの読まないでもわかるだろう。
過労で倒れる。鬱で出社できない。業務中に泣き出す。わけのわからんミスを繰り返す。
近頃の若い者はとか言う前に気付いて欲しい。
尊いはずの仕事が人を壊している。その異常に。その仕組みに。
過去、「会社は誰のものか」という議論が活発にされた時期があった。
問題は全く同根だが、
当時「会社は労働者のもの」といった人達は「仕事は労働者のもの(責任)」と言うだろうか?
「会社は資本家のもの」といった人達は「仕事は資本家のもの(責任)」と言うだろうか?
ブラック会社の経営者と従業員に聞けば、両者とも正反対の自己矛盾した意見を言うはずだ。
誰かに意図的に作られたわけではなく、
法と倫理のエアポケットで自然進化したバケモノが、全国に何千何万と存在している。
別に本人たちが納得しているなら、口を出すのも余計なお世話のように感じられることも、なくはない。
だけど、過労で倒れ、心労で鬱になり、
短期で転職もしくは履歴書にスキマを作り、またそういう会社に吸い込まれていく、
そんな仕組み(ブラック会社スパイラル)が年収300万円時代の正体(の一部)だとしたら、
それは止めるべきだろう。そのために、口を出さずにはいられない。
とはいっても、どう止めるかについては、無責任な意見しか言えない。
上の例に自分が当てはまると思うなら、さっさと辞表を出せというくらいだ。
クライアントや同僚のことは、ひとまず脇におく。
脇に置けないなら、長期的にはその人達のためと思えばいい。
ブラック会社の仕事のクオリティは、その職業倫理に反して得てして低いのだから。
誇張してもいけないが、それが正当な対価と信じる額を言っていい。
仕事は辛いもの、人間関係は理不尽なもの、我慢は美徳、理想は理想。
辞めろ、さっさと。選択肢がないなんてのは思い込みだ。
恥ずかしがらずにキャリコンに相談して、可能性を整理してもらえばいい。
そこで卑屈にならずに他の世界を見ることができれば、きっと世界が広がるはずだ。
多分。
ガンダムシリーズはそのほとんどが、最終話においては「明日がやってくる、希望を持って生きよう」という方向性に収束する。
逆襲のシャアで、アムロは「貴様ほど急ぎすぎもしなければ、人類に絶望もしちゃいない!」と言う。それは「明日からやってくる日々の中で毎日努力してすこしずつよくしていけばいいじゃないか」ということを言っているのだ。これは、まおゆうにおいて魔王が言う「一緒に行ければ、どんなことでも乗り越えられるさ。それに何が起きたって幸せだけは約束できる。丘の向こうには、きっと“明日”があるんだから」と、努力の方向性として、ほぼ同一だ。
逆襲のシャアにおけるシャアというのは、急進的改革派なわけだ。現在に絶望してテロに訴えてでも世界を変革しようとした。
まおゆうにおける最終的な敵対概念は、守旧というか停止主義だ。既得権益をまもるために世界を静止させようとした。
これらにたいして、アムロと勇者/魔王は毎日の改良によって徐々に変革をなすべきだという主張をとなえる。ゆっくりでも、一歩ずつ、悪いところを直しながら明日へ進んでいけばいい。そういう主張だ。両者はその点において同じ側に立っている。
逆襲のシャアは素晴らしい作品だけど、あえて疵を探すとするならば、アムロの主張を実行できるかどうかに、疑義があることがあげられる。
これは主観も入るので、視聴者全員に「そうだったでしょ」と決めつけられる話ではないのだが、アムロのなかに、その主義を唱えるのとはまったく逆の個人的バックボーンも見え隠れするのだ。
アムロは「人類に絶望もしちゃいない!」と叫ぶわけだが、彼は一年戦争で心を通わせた少女をうしない、英雄として戦争終結に貢献したにもかかわらず戦後は体制派に飼い殺されていた過去がある。事実、その後、反体制派武装組織に協力している。彼は十分以上に絶望するような人生は歩んできているのである。
もちろん、それは悪いストーリーではない。彼が不遇を託っていたからこそ、アムロの叫びは読者の胸を打つ。自らの絶望から立ち上がったからこそ「人類に絶望もしちゃいない!」と叫ぶ彼は雄々しく、格好良い。その意味では、キラ=ヤマトの「それでも守りたい世界があるんだ!」も、ほぼ同一の文脈だ。
もっといってしまえば、まおゆうの勇者も確実に同じ文脈だろう。
英雄として世界を救うもにもかかわらず迫害を受け、絶望しかけるが、個人的な繋がりや精神的克己によって立ち上がり、人々を救うために奔走する。
「この絶望の中にあって明日を信じられますか?」という問いにたいして、アムロや勇者は「信じられる!」と叫ぶ。それは、彼らが彼らの魂を担保として叫ぶわけだ。その強い輝きによって闇を飛び越える。
これらはストーリーとしてはよくできているが、じゃあ、それが、読者である我々にも適用できるか? といわれると返す言葉に困る。つまり、我々があの種の絶望におとされたあと、再び立ち上がって「人類に絶望もしちゃいない!」と叫べる保証はどこにあるのか? という点だ。「この絶望の中にあって明日を信じられますか?」という問いにたいして、逆襲のシャアは「アムロなら叫ぶね」と答える。そして、現場にいた兵士もサイコフレームで思いが伝わった結果命を捨ててそれに賛成する。
この構図が、 id:Gaius_Petronius が批評したところの「英雄譚」であり、「英雄譚の限界」なのだ。
アムロは立ち上がり叫んだが、我々が同じ事を出来るとは限らない。というか、出来るようには思えない。サイコフレームの光があれば特攻くらいは出来る気がするが。
これにたいして、まおゆうは別の答えを読者に提供しようとする。それは歴史的な視点だ。
読者は現代日本に住んでいる。色々問題があるし、苦しみもある。でも、500年前とくらべてみれば明らかに恵まれている。みんなご飯をそこそこちゃんと食べている。電気が通っている。暖房も冷房もある。乳幼児死亡率は極限にまでへらされた。風邪は即死を意味する病ではなくなった。なんとネットにまで繋がってる。それどころか個人用の通信機器をみんなが持っている。これら視点で見れば、現在は、過去よりも、確実に具体的により良くなっている。もちろん大きな戦争もエネルギー問題もある。が、飢え死にばかりしてた頃に比べて、漸進していることは確実だ(この認識にぐだぐだ文句をつけてる人間が中国やアフリカ奥地に移住した例を知らない)。
その視点を提供した上で、魔王は「この絶望の中にあって明日を信じられますか?」という問に答える。
「信じられる。だってそれは歴史を見れば明らかだ。人間は愚かかもしれないし、間違いを沢山起こすが、それでもここまでやってきた。この先にいけないはずがない」と。
この具体性や説得力は、アムロにもキラ=ヤマトにもなかったものだ。
主人公個人の精神的高潔さや勇敢さに仮託をせずに、読者にも実行可能なやり方で「英雄を超克」させてくれる物語上のギミックだ。
(この部分の指摘が、「物語三昧」には欠けているようにおもわれる)
まおゆうの提供する「丘の向こう」というのは「戦争が起こらないSF処方箋」でも「近代に続く血みどろの道」でもない。
「丘の頂上に立ったとき見られる向こうの景色=明日」と対になるようにしてあらわれる、「丘の頂上に立ったとき見られる歩いてきた景色=歴史」であり、未来と過去の両方をあわせた視界だ。読者に提供される「丘の向こう」というのは、この視界であって、それ以上でも、以下でもない。そしてこの視界は、英雄の苦難や高潔をもたないでも、誰にでも(それこそWikiを検索する程度の労力で)手に入る。
まおゆうがガンダムを踏まえて、より先へ行こうとした部分があるとすればここだし、物語の類型を一歩進めた部分も、まさにここにある。
ステマ騒動から一年。いやー時が経つのはいつも早いなとしみじみする増田でございます。
さて皆さまは去年の年明け、何をしてらしたでしょう?わたしは2chが楽しくてしょうがありませんでした。
そこで今回はニュー速民移住の運びにスポットをあててエントリ書いてきます。
あれから一年たってあえてこのトピックを顧みてみる必要があるのかは、、、…思考停止といきましょう。HAHAHAHA!!
はい、無性に書きたいんです。書かせてください。あの時のことをもう一度ねちっこく掘り返したいんですよ。
◆食べログ騒動で話題になった「ステマ」ってどういう意味?:PC Online
◆ 2ch「ステマ」戦争 人気板が住民大移動で一気に縮小、その背景の事情と心情 (1/4) - ITmedia ニュース
◆ 「ステマ騒動」の矛先はゲハブログへ:ゲハブログ最大手「はちま起稿」が謝罪文を掲載、管理人交代へ (1/3) - ねとらぼ
◆今回のニュー速騒動のまとめ : 【移転しました】旧ロブ速 (ロブ速)
◆2012年、2ちゃんねると2ちゃんねるまとめサイトの間で何が起こっていたのか(前編) - 空気を読まない中杜カズサ
◇【ステルスマーケティングのプラットフォーム化とフレーマーの定住】
煽り調教を受ける日々が続き、煽り煽られ合う快感に溺れる者が出てきながらもN速民の間には鬱憤が積もっていく。
~
◇【ステマ騒動ここに起こる】
シャフトや食べログの不祥事を皮切りに、利潤主義的コピペブログやステルスマーケティング業者の問題が表面化し始める。ゲートキーパー事件やブログ連合祭り以来、住民の中で燻ぶっていた不満に火が付く。
◇【ステマ三段呪文が板内に渦巻き始める】
シャフト炎上をきっかけに、N速フレーマーと業者がここぞとばかりに躍動する。
◇【恰好の餌場を得たネットイナゴの襲来により、一方的なステマ連呼に拍車が掛かる】
連呼する者が大量発生したことにより、相変異を起こした一部のN速民が、ステマ連呼の群れに入り行動を共にするようになる。
◇【ステラおばさんの集団によってもたらされる持続的な蝗害に戦略的な爆撃が重なった結果、遂にニュース速報板は機能が麻痺した状態が続くようになる】
N速焦土作戦の手法は連呼から第二次自治戦争で見られたような爆撃兵器を使ったものへ移行する。
~
とあることから板運営の人間がグルだったという疑惑が浮上する。N速民陣営だと認識していた自治側にまで弄ばれていたことに、一部の家畜が発狂する。この事態に端を発した形で決起した住民により移動運動が起こされる。
◇【『1/09 N速ステマした』】
1月9日正子に住民の大半が移民によって成り立っている嫌儲板に移住を決行する。一方で、残留組のN速民も多く見られる。
大移動決行後も、立つ鳥跡を濁さず精神で、焼け野原と化したN速内をローラーがけ部隊による草刈り作業が続けられる。
ところで今現在はどうなってるの?と。要はここですよね。
廃れたまま板枯れしてしまったのか、はたまた焼き畑農業みたいに復活しているのか。
さて結果やいかに!!
ニュー速豊作祭りじゃぁあああああ!!!豊作わっしょぉい!!♪ヽ(^^ヽ)♪ニュー速よっこぉいっ!!♪(/_ _ )/♪
はい、ということで結局は元の活気あるニュー速に戻ったとさ。めでたしめでたし、、…なのかな?
何事も無かったようにもみえるし、一連の騒動が収束しているとも言い難い。
実際のところは分断で冷戦状態といったところでしょうか。
ただ一年前の騒動の時に板全体で運動を起こしたこと、そしてそれからの出来事。
これは明確な意思表示になったし、業界に対しての問題提起にもつながった。
そういえば検索トレンドのデイリーランキングに顔出ししてたし、あと年末の流行語候補なんかにもあがってたね。
ステマ騒動から一年。いやー時が経つのはいつも早いなとしみじみする増田でございます。
さて皆さまは去年の年明け、何をしてらしたでしょう?わたしは2chが楽しくてしょうがありませんでした。
そこで今回はニュー速民移住の運びにスポットをあててエントリ書いてきます。
あれから一年たってあえてこのトピックを顧みてみる必要があるのかは、、、…思考停止といきましょう。HAHAHAHA!!
はい、無性に書きたいんです。書かせてください。あの時のことをもう一度ねちっこく掘り返したいんですよ。
◆食べログ騒動で話題になった「ステマ」ってどういう意味?:PC Online
◆ 2ch「ステマ」戦争 人気板が住民大移動で一気に縮小、その背景の事情と心情 (1/4) - ITmedia ニュース
◆ 「ステマ騒動」の矛先はゲハブログへ:ゲハブログ最大手「はちま起稿」が謝罪文を掲載、管理人交代へ (1/3) - ねとらぼ
◆今回のニュー速騒動のまとめ : 【移転しました】旧ロブ速 (ロブ速)
◆2012年、2ちゃんねると2ちゃんねるまとめサイトの間で何が起こっていたのか(前編) - 空気を読まない中杜カズサ
◇【ステルスマーケティングのプラットフォーム化とフレーマーの定住】
煽り調教を受ける日々が続き、煽り煽られ合う快感に溺れる者が出てきながらもN速民の間には鬱憤が積もっていく。
~
◇【ステマ騒動ここに起こる】
シャフトや食べログの不祥事を皮切りに、利潤主義的コピペブログやステルスマーケティング業者の問題が表面化し始める。ゲートキーパー事件やブログ連合祭り以来、住民の中で燻ぶっていた不満に火が付く。
◇【ステマ三段呪文が板内に渦巻き始める】
シャフト炎上をきっかけに、N速フレーマーと業者がここぞとばかりに躍動する。
◇【恰好の餌場を得たネットイナゴの襲来により、一方的なステマ連呼に拍車が掛かる】
連呼する者が大量発生したことにより、相変異を起こした一部のN速民が、ステマ連呼の群れに入り行動を共にするようになる。
◇【ステラおばさんの集団によってもたらされる持続的な蝗害に戦略的な爆撃が重なった結果、遂にニュース速報板は機能が麻痺した状態が続くようになる】
N速焦土作戦の手法は連呼から第二次自治戦争で見られたような爆撃兵器を使ったものへ移行する。
~
とあることから板運営の人間がグルだったという疑惑が浮上する。N速民陣営だと認識していた自治側にまで弄ばれていたことに、一部の家畜が発狂する。この事態に端を発した形で決起した住民により移動運動が起こされる。
◇【『1/09 N速ステマした』】
1月9日正子に住民の大半が移民によって成り立っている嫌儲板に移住を決行する。一方で、残留組のN速民も多く見られる。
大移動決行後も、立つ鳥跡を濁さず精神で、焼け野原と化したN速内をローラーがけ部隊による草刈り作業が続けられる。
ところで今現在はどうなってるの?と。要はここですよね。
廃れたまま板枯れしてしまったのか、はたまた焼き畑農業みたいに復活しているのか。
さて結果やいかに!!
ニュー速豊作祭りじゃぁあああああ!!!豊作わっしょぉい!!♪ヽ(^^ヽ)♪ニュー速よっこぉいっ!!♪(/_ _ )/♪
はい、ということで結局は元の活気あるニュー速に戻ったとさ。めでたしめでたし、、…なのかな?
何事も無かったようにもみえるし、一連の騒動が収束しているとも言い難い。
実際のところは分断で冷戦状態といったところでしょうか。
ただ一年前の騒動の時に板全体で運動を起こしたこと、そしてそれからの出来事。
これは明確な意思表示になったし、業界に対しての問題提起にもつながった。
そういえば検索トレンドのデイリーランキングに顔出ししてたし、あと年末の流行語候補なんかにもあがってたね。
カードゲームやコンピュータゲームをやっているとたまに思うことをまとめたいと思う。
さまざまなゲームでヒットポイント(通称HP、ライフとも体力とも)、マジックポイント(通称MP、マナ、エナジー、リソースとも)という概念が使われているのだが、この関係をよくよく考え直してみるとバトルバランスは数式(のようなもの)で書き表すことができるのではないだろうか?
まず、ゲームのバトルとは基本的に「自分のMPを使って行動を行い、相手のHPをゼロにする」ことを目的としている。まずはここからスタートしよう。
議論の簡単化のため、まずは連続時間のリアルタイムバトルではなく離散時間のターン制バトルとし、ターン内のMPを使用した行動は完全に同時に終了することにする。
さて、まずメラ(仮)という行動を導入してみよう。このメラという行動は自分のMPを1消費して、相手のHPを1減らすという行動になる。
こんな感じだ。さて今ゲームの目的は相手のHPをゼロにすることであるから、AもBも相手のHPがゼロになるまでメラを打ち続けることが最適行動である。この行動を続けていくと必ず次のような状態で収束するだろう。
AもBも勝利条件を満たしているが、勝敗が付いていない。しかも何回やっても勝敗が付かない。これはバトルバランスとしては破綻してはいないだろうか?
さて、この条件を満たすためにメラという操作に工夫を加えることはできないだろうか?すぐに思いつく方法はダメージを固定値ではなく乱数である程度の幅を持たせることである。こうすれば期待値では互角であっても引き分けになる確率はかなり下がる。よってこのバトルバランスは破綻していない!
・・・しかしちょっと待ってほしい。このバトルバランスは破綻していないと本当に言えるのだろうか?抽選の揺らぎの積み重ねだけで果たして本当にAとBは「相手に勝った・負けた」と納得できるだろうか?答えはノーだと自分は考えている。
この第二条件を満たすためによく採用されるのが回復という行動だ(以下ホイミ(仮)とする)。この行動はメラとは逆に自分のMPを消費して自分のHPを増加させる行動である。A、Bはこの行動を適宜行うことで相手の行動を阻害することが可能になる。
しかしこのホイミはメラの完全に逆の操作であるために、Aがメラをし続けBがホイミをし続けてしまうと:
以下の状況に収束する。
両者も勝利条件を満たせず、MPが尽きるという事態が発生する。これは第一条件にも反するし、別の条件としても書き下せるだろう。
<はじめに>
ヱヴァQが面白く無かった人の中には、どうしてそれが面白く無かったのか、
どうしてあんなに面白く無かったものをありがたがる人がいるのか、を理解できない人もいるかと思います。
(理解した上で嫌悪感を感じる人は本説明の対象外です)
そうした人達に向けてヱヴァQおよび旧作エヴァンゲリオンの面白さと面白く無さを説明してみます。
ただし、これは「説明」なのであって、ヱヴァQはだから面白いよねという「説得」ではありません。
理解できたからといってヱヴァQが面白くなるわけではありません。
<要約>
ヱヴァQはアンチorメタエンターテイメント的な構造=「期待を裏切られる楽しみ」を持っている。
(ここでいう「期待」とは「謎の提示→解決」「話のフリ→オチ」「主人公の苦難→成長」という、従来のエンターテイメントが持つ構造である)
「期待を裏切られたこと」が受け入れられない人は当然つまらなく感じるし、裏切られる楽しみを感じた人は楽しめただけの話。
これについては説明できません。「そう感じる」のだから仕方が無いありません。
ただ、他アニメに比べて単純にクオリティが低かったかどうかで言えばそんなことは無かったのではないでしょうか。
本説明は、こちらに関する説明になります。
通常、お話には各文章毎に意味があり、お話世界の設定を示し、物語が流れ、オチがつきます。
これが普通の「エンターテイメント」です。たとえばミステリを例にとってみましょう。
まず小説世界の設定が示されます。その示し方、というのは作者が見せたい示し方「ある視点からみた小説世界」です。
その世界には「謎」があります。クライマックスで作者は別方向からの視点を持ち込んだり、
視点の位置を変更することによって「謎の解決」をはかります。これがミステリです。
旧エヴァンゲリオンと新ヱヴァンゲリヲンには様々なエンターテイメント要素「純文学的」「SF的」「ミステリ的」な楽しみが入っています。
本論ではミステリとしての切り口からエヴァ群およびエヴァQを読み解きます。
エヴァには謎がちりばめられています。南極で4体いた巨人は何なのか、槍とは何なのか、人類保管計画とは・・・etc。
通常のミステリ系エンターテイメントではこれらの謎には一応の説明=オチがつきます。
謎と回答がセットで用意されていることがミステリ系エンターテイメントの条件なのです。
謎に対する回答が論理的でないことはミステリ系エンターテイメントでは批判対象になります。
では、謎に対して論理的な回答が用意されていればいいのでしょうか。答えは否です。
当たり前すぎる謎への回答は「つまらない、面白く無い、想定の範囲内」としてまた批判対象になるのです。
ミステリ系エンターテイメントの歴史はこの矛盾した期待「筋道が通っているのに予想を外す」に応えた歴史でした。
エンターテイナーは密室を作り、アリバイをでっちあげ、人物を交換し、天狗の鼻の上でナイフを滑らせたのです。
しかし、読者には読書体験が蓄積されます。「密室もの」「アリバイもの」「島田荘司のいつもの」などのように予想は外れにくくなります。
ミステリ系が広まることがミステリ系の楽しみを成り立ちにくくするのです。ここでエンターテイナーはさらに頑張りました。
密室ものと見せかけかけた人物入れ替え(トリックをトリックとして使う)や、
文章を意図的に誤読させることで謎でないと感じていたものを最後に謎であったと提示する(叙述トリック)などです。
「読者の読書体験込み」の謎(トリックを知っている読者への謎)を作ったのですね。
しかししかし、それすらも読者の読書体験に織り込まれてしまいます。「ああ、これは叙述トリックもの」だね、という風に。
こうしてミステリ系エンターテイメントのパターンは全て出尽くしたように見えました。あとは各作家の文章力/味付けだけの世界になったように思えました。
しかししかし、そうではありませんでした。ミステリ系エンターテイナー原理主義者が考えた最後の兵器、最後の謎、それがアンチorメタミステリです。
アンチミステリ、メタミステリとは何か?それはミステリ系エンターテイメントの条件「謎には回答がセットで用意されている」という想定、
「これはミステリだろ、という読者の読書体験を裏切る」ミステリのことです。(読者体験を念頭に=メタ、解決の放棄=アンチ)
ミステリ的に提示された謎は解決、されません。貼られた伏線には何らかの意図があり、背景には脈絡が流れているにも関わらず永遠にそれが明かさないのです。
読者は怒りました。怒り狂いました。こんな本は狂っていると騒ぎ、壁に本を投げつけ壁に穴をあけ、火を付けてさつまいもを焼いたのです。
ただ、一部の読者は壁にめり込んだ本を再度開き、焦げた本を再度繋ぎ合わせ始めました。
何故か?永遠に解決されない謎がとても魅力的に思えてきたのです。
アンチorメタミステリがただの問答無用の「裏切り」だったとしたら、それはミステリでもなんでもありませんでした。
しかししかししかし!アンチorメタミステリはきちんと「ミステリ」でした。何故か?提示されない、収束しないだけで、回答らしきものは「読めた」からです。
作者はデタラメに謎を配置したわけではなかったのです。
謎の配置には意味がありました。完全に繋がっていない謎同士、明かされずぶち切れた伏線から、かすかな破線のような真実の輪郭はかろうじて読めたのです。
一部の読者たちは途切れた伏線をつなぎ、明かされない謎を照らし合わせました。そうしてできた回答は一つではありません。
読者の数だけ答えがありました。いや、読者が考える度に回答が産まれました。
作者の意図は完全にトレースあるいはサルベージできない(ようにつくられている)ため、当然のことでした。
本を拾いあげた読者たちは各々、自分の回答について話合いを始めました。そうしてまた、新しい回答群が産まれたのです。
それは他のアニメにも言えることかもしれません。ですがエヴァは思いつく限り全部入り、ぐらいの要素が入っているのです。
SFとしてのエヴァ、純文学としてのエヴァ、ミステリとしてのエヴァ、キャラ萌えとしてのエヴァ。
それぞれが本格的に作られており、それらが複合的に絡み合うことで色々な読みを許す懐の深いアニメです。
当時、それら本格的な要素を持つアニメとしてエヴァはそれなりに期待されました。
TV放映の途中まで庵野監督は概ねそれに応えていたといっていいでしょう。
しかし、最終的には庵野監督は視聴者の期待をことごとく裏切ります。
TV版エヴァでは最終二話にはエヴァはほとんど登場せず、伏線は回収されず、ただ主人公が救われたという心象風景だけが提示されます。
旧映画版。今度こそ、と期待されたものを再び庵野監督は裏切りました。
復活したヒロインは次の瞬間無惨に食われ、主人公は最後の最後まで成長らしきものをせず、謎らしきもの回答は完全には示されませんでした。
たくさんの視聴者が失望・・・しませんでした。これこそがエヴァだと叫び、糞だ糞だと拍手喝采褒め讃えたのです。
エヴァがいかに糞でその糞が何を描いていたのかについて各々語り始めました。
何故か?視聴者は「裏切られることを予期していた」からなのです。
TV版最終二話でなされた裏切り。庵野監督が持つオタクへの自己嫌悪から発生したと言われるファーストインパクト。
これはうんこでした。ただただ庵野監督がうんこをしたかった。とてもうんこがしたかったことが原因で産まれた巨大なうんこでした。
しかし、これが偶然にもアンチエンターテイメント、アンチミステリの形式を踏んでしまうことになります。
「開示される予定だった真実が巨大な庵野のうんこによって適度に隠される」ことで良質なアンチミステリとなってしまったのです。
デリヘル・ガイナックス♪で嬢呼んだらいきなり罵られた挙げ句勝手に帰ってしまったんだけど、そういうプレイだと思えば良質だったみたいな感じです。
この放置プレイが評判を呼び、放置プレイマニアがこぞって映画館に行ったのですから、文句の出ようがありません。
いや、息子のわがままで映画館に連れてこられた私の家族など、一部、可哀想な人たちがいたことは事実です。歴史の裏にはいつも悲しみがあります。
庵野監督は10年くらいたったから、そろそろうんこ溜まってきたし、うんこしよう。するなら、前回よりもおっきいのを、だ。と考えました。
巨大うんこのために作られたより巨大な謎、セカンドインパクト、それが新劇場版ヱヴァQでした。
序、破は伏線でした。庵野監督は旧エヴァの制作/公開体験を、そして視聴者の視聴体験を利用します。
つまりメタミステリとしてのヱヴァ「第一の裏切り=お、これ、前と違ってまっとうなアニメじゃん!」です。
旧劇では糞が半分読まれていました。
旧劇を超えるためには、序、破、でエヴァが糞で謎を隠す形式のミステリである視聴体験を払拭する必要があったのです。
普通の糞好きに普通に映画館にきてもらっても、もう、庵野監督は満足できない。
訓練された糞好きでも楽しめる、よりアクロバティクなうんこを魅せるとともに、
中年男性がうんこを放り出したとこをみたこともない女子高生にうんこの素晴らしさを伝える、という庵野監督の願い–––––––人類補完計画。
この発動を目的として作られたため、序、破は精巧に綿密にまっとうなエンターテイメントをしていました。
そして、ヱヴァQ。やってしまいました。満を持して登場した監督はヴンダー=希望に糞を放り出す12使途(ネタばれ)として登場。
観客を糞塗れにします。
君の言っていることはほとんど意味が分からないよカヲル君、それどころか肝心なことは何一つ言わないよシンジ君以外のみんな。
これが第二の裏切り=
一人じゃないんだ、と思ってたら「孤独でしたー」
前に進めたんだ、と思っていたら「進めてませんでしたー」
槍でやり直せると思ったら「やり直せませんでしたー」
です。
救われるべきものが救われないアンチエンターテイメント、開示されるべき謎がほったらかしのアンチミステリこそがヱヴァQなのです。
つまらないのは当然なのです。まっとうな反応なのです。面白いとみせかけて面白く無く作ったのですから、面白いわけが無い。当然のことです。
ただ、「期待を裏切るという形式のエンターテイメントが面白さを期待されたら、最終的には<面白いことを裏切る>しかない」んです。
一度は必ず「面白く無いという面白さ」へ行き着いてしまうものなんです。これはもう、ある程度しょうがない。
問題は次回作シン・エヴァンゲリオン劇場版に持ち越されました。
ここできちんと伏線が回収される!と見せかけて回収されない!謎が開示される!と見せかけて開示されない!のか、どうかは分かりません。
アンチ的構造の最終回だったとしても、ある程度、おぼろげながら真実が見える形には仕上げてくるのではないでしょうか、というのが僕の予想です。
ある一つの解を持つミステリは、ネット社会においては瞬時に消費されます。
AはBだったんだ!以上!という情報は急速に読者や読者ですらない人間に行き渡ります。
「なあんだ、Aは結局Bだったのね。あーあれね。昔あったA=B型的カテゴリのやつね」というふうに。
物語の延命をはかろうと思うとメタorアンチミステリの形式をとらざるをえないのです。
読者が謎と真実について語り合うことで新たな謎が生まれ、語りが語りを呼ぶことで物語はかろうじて生きながらえるのです。
だから、今は普通のエンターテイメントにもアンチ的要素は含まれます。
ある物語できちんとオチがつくものの、別の読者を引きつける開示されない大きな謎がシリーズを繋ぐとみえる、などベタな展開ですね。
ちょうど、TVゲームがネットゲームになったことにそれは少し似ているかもしれません。
ゲームの攻略そのものではなく、攻略について語り合い、次アップデートへの期待について語り合うメタな楽しみ。
ラスボスを倒しても終わらないその営みこそがネットゲームの醍醐味です。
エヴァンゲリオン、一体、どうなってしまうんでしょうね、楽しみですね。
こちらからは以上です。
「なんで。いきなり」
急にそんなことを言われて混乱した。休日の昼下がりの話題ではない。
「私たち、どうなっているのかなと思って」
ああ、そういうことか。すぐに腑に落ちた。結婚して6年になるが、私たち夫婦には子どもがいない。お互い仕事が忙しいせいもあり、あっという間に時間が過ぎてしまった。共稼ぎなので多少の余裕はあるものの、マンションのローンがあるので、できるだけ節約して暮らしていた。
そう言って、話題になっていたエントリーを、スマートフォンで見せた。長文なので、少し待たされる。
「これって無責任な言い方だよね。そんなの知らないよ、って」
「そうじゃない。わざと、そう書いているんだと思うよ。そういう時代だってことを、強調するために」
このブログが書いているように、人間の居場所はどんどん無くなっている。なにか特別なものに人生を賭けて取り組むとか、交換不可能な人材になるとか、ふつうの人間が田舎で暮らすとか、どれも特別なミッションになりつつある。
すべてシステムに組み込まれてしまった。上司も部下も、誰もが成果を出したかだけが評価される。そして、少しでも油断すると立場を失う。慈悲を施すのはマイナスにしかならない。競争に生き残るためには、非人道的だと思うこともやるしかない。
「だから、そんなの知らないよ、っていうのが賢いやり方なんだ。真剣にやれることをやって生き残るか、あるいは諦めてフリーターなどの非正規労働者になるしかない」
まるで、危機を煽るニュース番組のキャスターにでもなったかのように勢いがついてきた。
「周りのことまで気にしていられないんだよ。自分にしかできない仕事とか、自分だけの居場所なんて、もう存在しないんだ。会社だって生き残るのに精一杯なんだよ。ユーロの金融危機だって、頭の良い人たちがいくら集まっても、いつ収束するかわからない。このまま行くと大恐慌や食糧危機だってあるという人もいる」
妻は、あんまり納得していない様子だった。
妻は不妊治療を望んでいた。個人的には自然にできるのが一番だと思っていたが、そうした選択も考えざるを得ない状況になりつつあった。もはや、結婚前に考えていた結婚生活というのが、どんなものだったのか思い出せなくなっていることに気付く。
さっきまでと違い、なかなか言葉がつながらない。
「なるようにしか……、ならないと思うよ」
「それでいいのかな?」
私は内心は、人生の不安要因が増えてほしくないと思っている。不妊治療の費用や、その後の育児費用や教育費について考えると、何もかも投げ出したい気持ちにかられる。ただ、妻が妊娠を望んでいるのは、よくわかっていた。
べつに贅沢な暮らしをしたいわけじゃないのに、子どもを一人作るだけでも、こんなに不安になる。二人、三人と産んでいる夫婦は、いくら働いても余裕なんかないはずだ。ある一発屋芸人のギャグフレーズが頭をよぎる。
そう、そんなことを心配していたら、人生なんてやってられない。でも、私たちは若くもないし、先のことを考えずに子作りもできない。
「やっぱり、会社、辞めようかと思って。疲労やストレスも原因みたいだし。いまを逃したら、もうだめかもしれないし」
最近になって、妻が何度か言っていることだった。しかし、それは妻自身も躊躇していた。一度、職場を離れて専業主婦になると、出産後に仕事を見つけても収入は激減する。もし会社を辞めなければ、育児休暇中の給与もあるので、少なくても数百万、定年まで勤めたら数千万円の違いになる。すぐに決断できないのも当然だ。
「考えておくよ」
あとで軋轢を生まないよう、できるだけどっちともつかずの曖昧な返事をする。もちろん、こうして決断を後押ししないことが、トラブルになる可能性があることもわかっている。
「僕らだけの問題じゃない。社会の問題なんだ」
「でも産みたい人は、いくつでも産めるんだから」
50歳でも出産できる不妊治療や、新しい遺伝子治療が生まれている一方で、誰もが幸せになれる新しい経済学というのは、なぜ発明されないのだろう。もし、うまくいけばノーベル賞ものなのに。
「誰にでも仕事がある経済学というのはないのかな。世界中で失業率が高いし、貧富の格差が問題になっているのに」
まったく夢も希望もなく、妻は言った。
「そんなの知ってるよ」
自由の発見、自由論
解る人は自由な人
だからといって解らない人の中に自由な人がいないとは限らない
何かが「自由」かどうかを知りつくす事は不可能だけど、「自由の否定」ができないものは沢山確認できる
「わからないという事がわかる」という「無知の知」から「わからない事がそもそもわからない」という事は
確かに言えそうに感じるけど、そこで少し視点が自由になったのではないかと言える視点からは
「そもそも何からも認識されてない何か」すらに対しても「存在」として見る事が可能になる
それでは、、まず「数」の意味。考え方、数え方を基に展開収束を実際に行き来して
自由に自由そのもを扱い、自由にここに表す様をご覧頂き「どう感じるか?」を自由にしてみてください
これからはじまる文章を「どう感じるか?」をなるべく自由に感じてもらえるように書きました。
書き手の私が視点を自由に移動させますので、一緒に移動したり、無視したり、反発してみたり
様々な視点で読み進めて頂けたら幸いです。 勿論、今ここでスルーしたり時系列的に一つ前のページに戻っても自由です。
さあ何もかもから自由になってみましょう!それではばいばい!
「数と自由の両者を次元という次元からそれこそ自由に俯瞰するところから始まった思索記」
自由の数え方は、まず自由を知ってからではできないの?
いいえ
まずは「在った」のかどうかが「数える」という行為の前提です
なぜなら、数の次元は数でもってその「次元」を扱える事から「次元」という考え方そのものよりも
上の次元として考える事ができる
その時にそれらの次元同士の関係性を俯瞰する「視点」という次元が
「数という次元」が「次元」という「次元」の内部外部問わず自由に在るという事を認識した「視点」そのものが
「数という次元」と「次元」という次元からも「自由に在った」からだという事だ
なぜなら、まず「次元」よりもその次元を認識しそれらの間柄、関係性が認識できなければ
そもそも意味と意味の繋がりを認識する事はできず、意味も意味として認識する意識そのものが無いという事になってしまう
意識があるからこそ「次元」に対して「数」が自由で在ると同時にお互いの関係性そのものが「次元」で繋がり関係し合っている事に
気が付かないはずだし、築いてこれら何かしらの対象に対して意識を持つ事ができる
その意識であり意識としての働きも併せ持つという事を否定できない「視点の次元」は
「●●の次元」とあらわす以上は次元という考え方の内部では自由に移動できているはずなので
「視点という次元」は「次元」という考え方の内部にしか存在しないはずなのだけど
視点が「次元の次元」からも自由でその外からの視点で認識しない限り視点という次元そのものが次元という次元の内部だけで自由なのか?
はたまた、どちらか一方で自由なのか、それとも自由ではないのか? わからないし、知覚しないはずだ
でも私たちは、常に何らかの認識に対して反応する時に様々な反応を示す
身体が反応を示したり、心が反応を示したり、またどちらか一方であったり、相関のある反応を示したり
相関不明な反応を示したり、また「反応が無い時など」と様々な反応を示す。
という事は、どういう事かというと、これらから「存在の定義」いくつか考える事ができる
存在とは「感じる事」
存在とは「感じ反応する事」
存在とは「何かが生じる事」
存在とは「反応しない事」
「反応がない」という対象はそものも一見すると存在していないかのように考えられるけど
何かが「ない」と感じた時にその「ない」という意味が生じてしまうので
なぜかというと
「無」はその性質から、もしどこかに「存在していたとしても」認識できないはずだけれど
無に対する認識がそもそも無ければ、その性質や関係性などをこのようには言い表す事はできないはずだ
もし貴方が、何らかの認識をする時に「その認識」の存在が「有」でもあり「無」でもある矛盾によって
そのバランスでもって存在しせみせているという認識を持つ視点に対しても自由であるのならば
それは究極の自由「自由からも自由」で在る実感でき本当の「自由」を楽しむ事ができるだろう
簡単な事だと言ってしまえば、どのように思われるかわからないけれど
1=有限に在る 0=無限にない「無という次元に在るのか無いのかワカラナイ」
として
1=自由に設定できる有限 0=無の限り「ないものをそもそも測れないので自由度は不明」
と考えると
ただの数字の「1」ですら実は自由だという事が解る
ほら、次元は数で測れる事が可能だ 他の何かや他の次元からも観測はできるかもしれないけれど
自由というポテンシャルエネルギーにはベクトルがありそのベクトルには「広がり」は在る事がわかる
がしかしそれと同時に「収束」のベクトルが発生してしまう事を忘れてはいけない
何かの関係性を構造という認識だけでもって解こう説こう知覚しようとすると
縛られると同時に位置とその位置の持つポテンシャルエネルギーが
構造が構造として存在する為に構造を維持しようとして働く反対向きの方向性の認識が発生しているのに
なぜなら認識そのものがエネルギーを持つ以上、構造次元に対して自由な視点は
存在する事が自由であるし、その次元内に存在したと同時に同じ次元内で引き寄せられてしまうばかりだと想いがちなんだけど
この考えを公開するという事は、その次元間の関係性からも自由になって認識して
自由に「自由」そのものを考える事だできた事を明かしたかったからである
おわりんご
東方@ふたば観測所 - 数々のネタの起源でありながらほとんど誰にも認識されてないふたばの奥ゆかしさときたら
http://futabatouhoukansok.blog.fc2.com/blog-entry-327.html
東方絵師(A)が二次の設定に著作権主張するのおかしくね?と空リプ
↓著作権主張者(B)がエゴサーチしてAに噛み付く「ズレすぎ」「喧嘩売ってるんですかね」
↓めんどくさいからやりたくないとB
↓何がズレで何が暴言か明言しないことに戸惑うA
↓Bの肩を持つ人物(トゥギャまとめ人)がAの認識ズレについて謝罪要請
↓齟齬部分について素直に謝罪するA、それを受け入れるB、当人同士の会話は収束
http://tiestory.exblog.jp/19044814/
↓鍵かけて身内に愚痴るB
太平洋戦争で日本が侵したミスのうち、前段の甘い判断「中国と米国を同時に相手にしたこと」
は現代戦略史において指導部の無能ぶりと、教訓を示す教材となっている。
ケンカでも武道でも戦争でも、またビジネスでも「1度に戦う相手はひとり」の鉄則がある。
『二方面への同時対応は絶対にやってはならず、
二者と戦うなら、一方との戦いが終わるまで片方とは手を結ぶフリをしなければいけない』
間違っても戦争にはならないが、日本が失うものは多く、実質的な発言権を削がれ
二島の問題を処理出来ないという弱みが明瞭になる。
今はすでに止められる雰囲気ではなくなっている。
■二方面対応を仕掛けて得をするのはダレなのか
今回、訪米中の石原都知事が尖閣の問題を持ち出したタイミングと
三国のだれが領土問題で得をするのかどうか、マスコミは全然報道しないし、討論もない。
中国が尖閣を欲しがっているのは事実だろうが、時期的には今である必要は全然ない。
むしろ自国の力がさらに上がり、日本がもっと弱ってからでよかった。
だから中国としては『なんで今やるのか!?』とかなりイラついている。
歴史的にずっと棚上げされてきた問題を、なぜこのタイミングで持ち上げる必要があるのか?
国同士の駆け引き、問題には必ず利得が絡んでいるが、現状で得をしているのは
せいぜい、国内問題の不満・うっぷんを向けさせる程度だろう。
具体的に言えば、
・日本 原発問題から目を背けさせたい原子力ムラの面々と支援者
・中国 慢性的になりつつある格差問題から目を背けさせたい党中央
いずれも紛争に発展しえる問題(リスク)を、メリットに繋げる理由としては弱い。
あえて領土問題を引き起こす理由に足りるのは、調停者として登場することで、
日本・中国・韓国の接近を阻み、極東での影響力を維持したいデバガメ的な米国の勢力だろう。
二方面対応にならなければ日本は困らない。調停者を呼ぶ理由にもならない。
歴史的に同じ轍を踏むだろうと見越した連中に、
二方面対応の罠をかけられ、まんまとはまり込んでいるのが今の日本の姿である。
自分は日本国民なので当然、尖閣も竹島も正式に日本国の領土であるとしてもらいたい。
現代の戦争は完全な経済行為だから、勝ったとしても恐らく赤字である。(弾>>>魚)
だから、勝つつもりなら最低でも50年計画くらいは建て欲しいと思う。