自由の発見、自由論
解る人は自由な人
だからといって解らない人の中に自由な人がいないとは限らない
何かが「自由」かどうかを知りつくす事は不可能だけど、「自由の否定」ができないものは沢山確認できる
「わからないという事がわかる」という「無知の知」から「わからない事がそもそもわからない」という事は
確かに言えそうに感じるけど、そこで少し視点が自由になったのではないかと言える視点からは
「そもそも何からも認識されてない何か」すらに対しても「存在」として見る事が可能になる
それでは、、まず「数」の意味。考え方、数え方を基に展開収束を実際に行き来して
自由に自由そのもを扱い、自由にここに表す様をご覧頂き「どう感じるか?」を自由にしてみてください
これからはじまる文章を「どう感じるか?」をなるべく自由に感じてもらえるように書きました。
書き手の私が視点を自由に移動させますので、一緒に移動したり、無視したり、反発してみたり
様々な視点で読み進めて頂けたら幸いです。 勿論、今ここでスルーしたり時系列的に一つ前のページに戻っても自由です。
さあ何もかもから自由になってみましょう!それではばいばい!
「数と自由の両者を次元という次元からそれこそ自由に俯瞰するところから始まった思索記」
自由の数え方は、まず自由を知ってからではできないの?
いいえ
まずは「在った」のかどうかが「数える」という行為の前提です
なぜなら、数の次元は数でもってその「次元」を扱える事から「次元」という考え方そのものよりも
上の次元として考える事ができる
その時にそれらの次元同士の関係性を俯瞰する「視点」という次元が
「数という次元」が「次元」という「次元」の内部外部問わず自由に在るという事を認識した「視点」そのものが
「数という次元」と「次元」という次元からも「自由に在った」からだという事だ
なぜなら、まず「次元」よりもその次元を認識しそれらの間柄、関係性が認識できなければ
そもそも意味と意味の繋がりを認識する事はできず、意味も意味として認識する意識そのものが無いという事になってしまう
意識があるからこそ「次元」に対して「数」が自由で在ると同時にお互いの関係性そのものが「次元」で繋がり関係し合っている事に
気が付かないはずだし、築いてこれら何かしらの対象に対して意識を持つ事ができる
その意識であり意識としての働きも併せ持つという事を否定できない「視点の次元」は
「●●の次元」とあらわす以上は次元という考え方の内部では自由に移動できているはずなので
「視点という次元」は「次元」という考え方の内部にしか存在しないはずなのだけど
視点が「次元の次元」からも自由でその外からの視点で認識しない限り視点という次元そのものが次元という次元の内部だけで自由なのか?
はたまた、どちらか一方で自由なのか、それとも自由ではないのか? わからないし、知覚しないはずだ
でも私たちは、常に何らかの認識に対して反応する時に様々な反応を示す
身体が反応を示したり、心が反応を示したり、またどちらか一方であったり、相関のある反応を示したり
相関不明な反応を示したり、また「反応が無い時など」と様々な反応を示す。
という事は、どういう事かというと、これらから「存在の定義」いくつか考える事ができる
存在とは「感じる事」
存在とは「感じ反応する事」
存在とは「何かが生じる事」
存在とは「反応しない事」
「反応がない」という対象はそものも一見すると存在していないかのように考えられるけど
何かが「ない」と感じた時にその「ない」という意味が生じてしまうので
なぜかというと
「無」はその性質から、もしどこかに「存在していたとしても」認識できないはずだけれど
無に対する認識がそもそも無ければ、その性質や関係性などをこのようには言い表す事はできないはずだ
もし貴方が、何らかの認識をする時に「その認識」の存在が「有」でもあり「無」でもある矛盾によって
そのバランスでもって存在しせみせているという認識を持つ視点に対しても自由であるのならば
それは究極の自由「自由からも自由」で在る実感でき本当の「自由」を楽しむ事ができるだろう
簡単な事だと言ってしまえば、どのように思われるかわからないけれど
1=有限に在る 0=無限にない「無という次元に在るのか無いのかワカラナイ」
として
1=自由に設定できる有限 0=無の限り「ないものをそもそも測れないので自由度は不明」
と考えると
ただの数字の「1」ですら実は自由だという事が解る
ほら、次元は数で測れる事が可能だ 他の何かや他の次元からも観測はできるかもしれないけれど
自由というポテンシャルエネルギーにはベクトルがありそのベクトルには「広がり」は在る事がわかる
がしかしそれと同時に「収束」のベクトルが発生してしまう事を忘れてはいけない
何かの関係性を構造という認識だけでもって解こう説こう知覚しようとすると
縛られると同時に位置とその位置の持つポテンシャルエネルギーが
構造が構造として存在する為に構造を維持しようとして働く反対向きの方向性の認識が発生しているのに
なぜなら認識そのものがエネルギーを持つ以上、構造次元に対して自由な視点は
存在する事が自由であるし、その次元内に存在したと同時に同じ次元内で引き寄せられてしまうばかりだと想いがちなんだけど
この考えを公開するという事は、その次元間の関係性からも自由になって認識して
自由に「自由」そのものを考える事だできた事を明かしたかったからである
おわりんご