はてなキーワード: 分化とは
私には子供がいるのだが、相互フォロー歴の長い友人の子供・子持ちへの愚痴が酷くて最近彼女のツイートを見ていられない。正直ブロックしたいが私も育児の愚痴をときどき呟くので同じことを彼女も思っているかもしれない。
その友人は何年か前に結婚し、いまはDINKsを選択している。それについて別に私はどうも思っていない…いや正直羨ましい。私(もその友人)も地方出身で周りからの子供つくれ圧がとても高かった。私も彼女も都市圏で就職をしたが、私は両親の「子供を作るのが自然」という価値観を内面化していたため、結局「自然に」結婚し結婚式も挙げ子供も作った。ただ仕事も好きなのでいまはフルタイムで働いている。結果、平日も休日も自由時間がほとんど無い。一方彼女は仕事をバリバリこなしながら平日にゲームをしたり趣味の話をしたり、ときどき落ち込んでは愚痴を呟いてフォロワーと交流していたり、とにかく私はその自由さがまぶしく、とても羨ましい。私には「結婚して子供を作らない」という選択はこわくてできなかった。でもその選択は間違いなくこれからの女性達を勇気づけるものだと思う。そんな彼女を尊敬していた。
ただ彼女もさすがに周りの子供つくれ圧はきついらしく、ときどき「子供ってそんなに必要?子供つくるのがそんなにえらいんか」といった素朴(風)な疑問や、子供のどこが嫌いで、自分はなぜ子育てに向いていないか、といったの事を呟いていた。そうそう外野から子供作れ作れ言われたら「なぜ子供が必要なのか」「なぜ自分はそういう選択をしたのか」という疑問を反芻するよな、女性への抑圧を考えたらそういう意見も絶対に必要だよな、と納得していた。
ただ以下のツイートはさすがにどうかと思ったので、直接言う勇気のない私はここで吐かせてもらおうと思う。
「子どもがいる人って仮にいなかったら腑抜けになっちゃうのかな ペースメーカーとか生活の張り合いみたいな側面もあるって言うけど」
→さすがに失礼wwwwwwwwww 子持ち全員生活の張り合いのために子供産むと思ってるん?????wwwwwwww 子持ちへの解像度低すぎやろwwwwwwwww そんな理解で子持ち批判してたん????????
よく聞く「子供のいない人生なんて考えられない!」というのはな、自分の生活における子供の侵食率が高すぎ&それが数年続いているので、子供がいなかったバージョンは不確定要素が多すぎてうまくイメージできないというだけや。子供最高!!って意味では決してないで。もちろん子供や子育てが生きがいの人もいるけどな、そういう人ってママ垢見てると少数派やで。いっぺんママ垢見てみ?夫と子供(と仕事)への愚痴と、子供可愛い~!と、自己嫌悪と、あとスリコとスタバとオタク趣味とホットクックの話が混在してるで。
てか子供がいなかったら別にその人生を歩むだけやで。仕事や趣味にもっと注力したかもしれないし、もともと腑抜けた人なら腑抜けた人生というだけやで。子供がいたら自分はこうなるて予測が正確にできる奴なんて誰もいないし、反対もまた然りやで。
そもそも子供がいる/いないて繋がっているんやで。いない状態からいる状態に色んな事情や選択があって変化したんやで。子供いない人全員腑抜けなら全員腑抜けになってしまうで。君は腑抜けやないでしょ。あと事情と言ったけど子持ち全員が子供大好き!育てる自信あります!って子供を大望して産むんじゃないやで。子供の有無は本人の意思以外にもたくさん事情があるやで。
まぁ何が言いたいかというと、子持ち/子無しで2分化して敵視するのはやめてくれよ。君が「女は子供を作るべき」と言われたくないように、子持ちは傲慢だよな、子供って自分に自信がないと無理だよねw、みたいな偏見をまき散らすのをやめてくれ。世の中には確かにヤバい親はいるが、大抵の親は周りに気を使いまくっている。仕事に穴を空けて本当に申し訳ないと思っている。電車で騒ぐ子供はうるさいと思っているし、それを躾けられないのは自分のせいなのかなぁと泣くほど悩んでいる。それは子供がいない時の感情を覚えているからである。子供を立派に育てる自信があるのではなく、とりあえず生んでしまったので成人までは付き添わないと、くらいの責任感だけ持っている。そして子供がいない人に対して悪意を持っていない。正直君の「子持ち」像は仮想敵だと思う。もう一度言うが一回ママ垢覗いた方が良い。子供産む前後で、生活リズムや価値観は少し変わるかもしれないけど、根っこの部分はたいして変わらない。こいつ親になって変わってしまったなと感じるなら、それはその人が何かを諦めた結果ってだけなんだよ。その過程をすっ飛ばして「子持ちは~」とくくって疎外しないでくれ。君だっていろいろ悩んだ結果DINKsを選択したんだろ。私はその選択を否定しないし何なら言及もしない。DINKs当事者でない私が肯定であれ否定であれ何かを言ったとしたらそれは暴力になり得るからだ。私は君をまだ友人だと思ってたんだけど君はそうじゃないのかな。そうじゃないんだろうな。私が「子持ち」だから。それか、君は自分が傷つけられた事に対しては敏感だけど、自分の言動には本当に無自覚だから気付いてもいないのかもしれないな。
ごめん、やっぱブロックするわ。
こんな細分化されてんのね
欧米の多文化共生・移民統合の実態はホワイトフライト・セグリゲーションン・治安悪化です!
居住地域に移民・難民が増えると、高所得者・高学歴者が最初に引っ越しをします。
欧米の実情を見れば、多文化共生・移民統合という考えはお花畑に過ぎません。
日本人の高所得者・高学歴者が別の都市に引っ越すJapanese-flight(ジャパニーズフライト・日本人の脱出)・セグリゲーションンが起こるでしょう!
コ●ラ● 9:5 あなた方はどこであれ、多神教徒を見つけ次第●しなさい
イスラム教徒の土葬墓地計画、住民から反対相次ぐ…予定地の550mに水源
tinyurl.com/dosou
非ヨーロッパ移民の割合が3〜4%に達したときに始まりますが、
民族の分離は
「極右」
「排外主義者」
といった烙印を押して
tinyurl.com/seiyo-no-jishi
セグリゲーション(segregation)
tinyurl.com/sumiwake
人種または民族文化が多様化しつつある地域からの白人の突然の、または長期的な大規模移住
2004年、英国国勢調査の調査によりロンドンでのホワイトフライトの証拠が示された。
2011年の国勢調査では、初めてロンドンの人口の50%未満が白人であり、
ロンドンの一部の地域では白人の人口が人口の20%未満であることがわかりました。
調査対象地域の小学校から「劇的な」ホワイトフライトが発生した(ダブリン15)。
2009年6月までに、オスロの学校の40%以上が移民の過半数を占め、
2010年1月、ノルウェー放送協会のDagsrevyenのニュース記事は、
一部の都市地区では、人種差別がすでに幼稚園で始まっています」と述べています。
記者団は、「ここ数年、茶色の学校はより茶色になり、白い学校はより白くなった」と述べ、
非ヨーロッパ移民の割合が3〜4%に達したときに始まりますが、
2018年、ガーディアンはブランプトンで発生したホワイトフライトと、
その「73%の目に見える少数民族、最大の民族グループであるインド人」のために
郊外の都市が「ブラムラデシュ」と「ブラウンタウン」と呼ばれていた方法を取り上げました。
記事はバーナビー、イーストバンクーバー、リッチモンド、サウスバンクーバー、サリーなどのグレーターバンクーバー内の
対照的に、ツワッセン、サウスサレー、ホワイトロック、ラングレーなどの大都市圏内の他の都市や近隣には、
同じように大きな白い飛び地がある
ニューサウスウェールズセカンダリープリンシパルカウンシルとウエスタンシドニー大学によると、
その州の公立学校は、
ホワイトフライトは、ニュージーランドの社会経済的十分位数の低い学校で観察されています。
2000年には60,000人のニュージーランドのヨーロッパ人学生が低位の学校(最貧地域にある)に通い、
White flight
「北欧の優等生」スウェーデンが一転、犯罪大国に 移民ギャングが暗躍
だが、近年は麻薬や銃密輸をめぐるギャング同士の抗争が激しさを増す。
今年は11月末までに、銃撃・爆破事件が合計約490件以上。
昨年は銃犯罪で63人が死亡した。
英紙フィナンシャル・タイムズによると、
2020年、人口100万人あたりの銃撃による死者数は
EU最多だった。
殺人、
爆破事件、
暴力などが
増え続け
今年の9月30日までの
爆破事件は132件
1052万人の国
警察が入れない
緊急車両が入れない
「みんなの文化を尊重」かえって溝広げた? 「多文化主義」問い直すヨーロッパ
スウェーデン政府が増加する移民犯罪に対処する為に、移民政策を変更して移民削減政策を進めています。
スウェーデン国内で麻薬取引・暴力犯罪を増加させているクルドギャングへの対策が移民規制強化する大きな動機の一つ
保護が必要な移民には一時的な保護を与える。しかし、永住許可は段階的に廃止する。
麻薬取引の覇権を巡って2つのギャングが争っている事が関係し、
犯罪急増、選挙の焦点=首相「移民の社会統合失敗」―スウェーデン
「あまりに多い移民と、あまりに足りないスウェーデン社会への統合」(アンデション首相)
「並行社会」を生み出した
tinyurl.com/tabunkakyousei
性犯罪が500%増加し、
ストーカー行為やハラスメントも6000%近く増加している事を
そして更に彼は言った。
tinyurl.com/7h8wtxkf
tinyurl.com/eikoku
多文化共生は失敗した
tinyurl.com/tabunkakyousei
tinyurl.com/hk29w4a4
tinyurl.com/Detroit-America
賃金が下がっている事を
認めた。
tinyurl.com/yu5zudes
tinyurl.com/ynb6nrcd
tinyurl.com/tokutei-ginou
川口市の外国人住民は、現在約4万人と市人口の約6.7%を占めています。
tinyurl.com/233m5tvr
tinyurl.com/2n5azte2
川口市内の
tinyurl.com/5fv62ve4
殺す、殺していいと物騒な言葉が飛び交い、機動隊さえ威嚇しています。
tinyurl.com/kawaguchi-shi
tinyurl.com/y78nx32y
外国籍でも町職員に 住民の2割が外国人の町、採用の国籍条項撤廃
tinyurl.com/oizumimachi-gunmaken
住民2割が外国人の群馬県大泉町 「将来の日本の姿」で共生探る町長
tinyurl.com/gunmaken-oizumimachi
tinyurl.com/takenotsuka-adachiku
〈リトルチャイナタウン化する竹ノ塚〉足立区に住む中国人は10年間で2倍に。「家賃が安いのが魅力」「1000万円台の低価格帯物件が人気」暮らしやすさを求めて中
一晩寝て頭を冷やした
悪いのは自分がコピペレベルで出来るまで作業を細分化しなかったのが原因
他の環境ではツールで出来るのを、この環境で改善しないのが悪いと他人のせいにして
議題も客観的な意見なのだから、自分が感じていないだけでそうなのかもしれない
敵視してはいけない
そこを指摘したのは何も悪いことではない
ただ、それはその場で思いのままに言わず、持ち帰って判断する位の余裕が無かった自分の落ち度
瞬時にその問題は切り分けられなかったのは幼稚すぎたな
最近、そう言ったことに出くわさなかったから頭が硬くなっていた
気をつけないと
この店は星いくつだの、この映画やゲームは何点だの人はやたらとその価値を数値で表現したがる。
私自身、星や点数をつけていた時期があった。最初は星で5段階評価、それじゃ大雑把すぎて点数の10段階になり、SABCとランク分けした上で10段階評価ををつける細分化まで行った。正しく分類分け出来ないだろうか試行錯誤していた。
ただ、人間日々変化するもので、1年前楽しんでいた、仮に90点付けた物が今も同じく90点をつけられるかと言われればそうではない。逆に楽しめなかった物が年齢を重ねる事によって見方が変わり楽しめるようになる事だってザラにある。
時間とコンテンツが増えればその分つけた点数や基準にブレが生じてくる。ブレたと認識する度に修正を要する。そんな事をしてまで点数というラベルを貼る行為に意味なんてあるのだろうか。
しゅんき氏の、ラニーノーズ、Runny Noizeに対するファンとしての失敗に関するnote(https://note.com/syunki0910/n/n0bbc0a2e4b96)が話題になり、
それにより「推し活は、推しが理想と違った場合は呑み込んで応援するか離れるかしかない」という言説が出回っているが、私は少し違う意見だったためその旨を記す。
以下はしゅんき氏が記事内で挙げた、何らかの推し活をするうえでのファンのパターンだ。
この2パターンがいて、両者は分かり合うことができないということには共感をする。そして本記事は、②であることが多い立場からの発言である。
また、こちらの記事(https://note.com/syunki0910/n/n9e7ab2259c1c)の嫌われた原因の項目で書かれている、「自分の振る舞いはおかしなことではない」という点も、一部は理解することができる。
私のスタンスは、
・人には他人を傷つけたりその自由意思を妨げない限り、発言の自由は担保されるべきである
・プロのアーティストが生み出した作品に厳しい意見がつくことは(誹謗中傷や言葉選びによっては許容されないが)ある程度想定されることであり、その発信自体は叩かれるべきではない
というところだ。
前置きが長くなったが、以上のようにしゅんき氏に一部共感するところがある人間の視点から、問題を分析したいと思う。
しゅんき氏は、noteの中で、「人がどんな感情を持つのもどんな行動をするのも、基本的には自分勝手である。勝手に人に感動したり怒ったりするのだ。誰でもそうだ。人間はそういうものなのだから、別になんの問題もない。」と述べている。この一文はまったくその通りである。だから「推しに不満を持っていても、不満を吐き出しながら応援する」という行為自体に問題はなく、「推し活は~すべき」ということには当てはまらない。
特に規模が大きいアーティストになればなるほど、様々な葛藤を抱えながら応援しているファンはいる。私が今回記事を書こうと考えたのは、冒頭に述べた「推し活のファンの在り方二元論」に異議を唱えたかったからだ。あのような言説が広まると、多くの葛藤するファンが「自分は推しを応援する資格はない」と自分を責める原因になりかねない。「どんなスタンスで応援しようと自由」なのである。
今回、しゅんき氏は、以下のように述べている。
これは、「アーティストはかくあるべき」という押し付けであり、アーティスト個人に対する自由意思の妨げである。
もちろん、客の声をよく聞き向上に努めるスタンスは、商業的に正しいとされる。これがたとえば、利益創出を目的とした企業それ自体が相手であれば、もう少し理屈は通る。しかし本件の相手はアーティストとはいえ個人である。私は洲崎氏という方を本記事で初めて知ったが、どういうスタンスで活動するかは自由であり、それが利益に繋がるか繋がらないか、繋がらない場合どうなるかはファンが判断することではなく、本人自身や所属会社が考えることである。
存じ上げないうえで例とはいえこのようなことを述べるのは申し訳ないが、たとえば「今はコントより音楽活動に比重を置きたい」と思っており、作品の完成度が低くなった場合も、それはアーティスト自身の自由である。
しゅんき氏が「ファンとはこうあるべき(たとえば本人が提示していた①のような全肯定であるべき)」「作品への不満は言ってはならない」ということを強要されるのをおかしいと思うことと同様に、人の創作活動やアーティスト活動を強要することはできない。
しゅんき氏がそれを傲慢だと述べるのも自由だが、洲崎氏が傲慢と思われても構わないと思うこともまた自由なのである。
しゅんき氏の初期のnoteの中には「自分はこういう人間である」という記述、そして自分がなぜ間違っているかわからないという記述があった。
1でも述べたとおり、間違っているわけではないという点は共感する。ただし、その自分を周囲が受け入れるべきだと考えると、それは今回のような事態を生む。
見る限りしゅんき氏のなかには2つの欲求や理想(細分化すれば3つ)の状態があると思う。
1つは、アーティストと良好な関係を築き、ライブに参加し続けること(これは2つに分けられる)
この2つは、現状の方法では両立することが困難である。そして氏は両立できないことについて、「相手が譲歩し両方の欲求を満たしてくれるよう振る舞うべき」だと考えている。
ここが今回の一番の問題であると考える。よく言われるように他人は変えられない。だから自分がやり方を変えるしかないのだ。
②SNS上の振る舞いを優先し、良好な関係は諦める。現場では交流を求めず作品だけ楽しむ
③完全に降りる
そして、④は(今からはもう難しいかもしれないが)、「欲求が両立する方法を考え、折衷案的振る舞いを見つけること」だ。
こういった場合、人は④の方法を取ることが多いのではないだろうか。
・この職場に自分の仕事の進め方を浸透させた方がいいと考え、同僚には仕事の仕方を合わせてもらえるよう交渉する。後に実績で報いられると信じ、その場の人間関係の軋轢は覚悟する。
・合わない場所にいることはしたくないが1年ほどは我慢できそうなので、転職のために1年は必要な実績を積むことにする。そのために時に妥協し時に我を通すなど状況に応じて変える。
・人と良好に働くことを優先したいため、同僚の進め方に合わせる。関係を構築してから徐々に自身の意見を述べるようにしていく。
以上の違いは、「進め方へのこだわり」「実績」「人間関係」様々な要素がある中で何を優先するかだ。自分の価値観を点検し、どこにどれだけ比重を置き、逆にどれが不足していると耐えられないか、どれくらいなら耐えられるかを見極め、自分にとって心地の良いバランスを探っていく。それが人間関係であり人の営みではないのだろうか。
ここで、すべてを満たそうとただ声高に叫んだところでそれが叶えられることはないだろう。しかししゅんき氏は、自分の欲求すべてが同等に叶えられるべきであると考えている。
欲求を複数持つことや叶えようとすることは問題ではない。問題は、他人や環境は変えられないという点への無自覚さと、自分の中の優先順位が不明瞭なことである。
自分にとってもっとも理想的な状態は何か。それが実現するためにはどのような振る舞いが適しているかを「相手が変わる」という選択肢を除き、「自身の妥協点」や「自身が新たに身につける思考や振る舞い」を考慮したうえで計画し、実行に移す。
こうした行動が、氏には必要だったのではないだろうか。
とはいえ、まだ若い方が以上のようなことを考えて振る舞うことは難しい場合が多いだろうと思う。
そしてこうした振る舞いを自身が二十歳そこそこの時に身につけていたかというとはなはだ疑問であり、だからこそ私は、こうした記事を書いている。
なんてもの、ファンダムのなかの「べき」論は幻想だと思っている。ただそこは人の営みであり、アーティストも含め、心の通う、自分と違う人たちが多くいる場所だ。
迎合を覚えろという意味ではなく、ただ、自らの思い通りにならないことを理解したうえで、なるべく心地の良い落としどころを見つけていくこと(あるいはそれを試すこと)を、私は若い方に推奨したいのかもしれない。
最近は、時間ができると「サウナ行きたい」と思うことが多くなった。
中年にさしかかった年齢のせいなのかもしれないが、最近、世間的にもブームになっているから、きっとみんな、昔より、サウナに行きたがっているということなのだろう。だが「行きたがっている」というのは本当だろうか。みんなただ単に、やることがないだけではないのか。
現代、自分を含めたある種の人々には、やるべきこと、欲しいもの、価値のある行為が何もない。SNSの時代にはすべてが細分化され、相対化されてしまう。映画も音楽も文学も、たくさんの人がそれを見たり聞いたり読んだりすることで名作になるのではないか。しかし、そういうことはもう望むべくもない。あらゆることは、単なる好みの問題でしかない。
それが楽しめるなら、幸せだろう。しかし誰も自分の好みだけで生きていけるはずがない。「推す」なんていうのも、すべてが相対化されてしまったあとに何かを信じるために、自分を「推し」に明け渡す、ある意味で宗教的な自己犠牲のような行為だと思う。
「推す」というのは、自分を信じられない人間が考え出した、自己否定による「好み」の止揚だ。
そして、現代におけるサウナとは「推す」ことの裏面ではないだろうか。
「推す」が、自己否定から他者を経て創造される「生きる意味」であるとすれば、「サウナ」は、自己否定自体の緩やかな肯定である。
あらゆる価値が相対化され、何も信じられなくなった人間には、本当の意味で欲望がない。やりたいことも、欲しいものも、行きたい場所もない。しかし、そのことに向き合ってしまうのはとても危険だ。それ自体フィクションに過ぎないとはいえ「生きる意味」がなくなってしまうからだ。
そこでサウナとは「何もしない」ということであり、サウナに行くとはつまり「どこにも行かない」ことだ。つまり、欲望すべきものがないということを、「何もしない」をすることで、無理なく肯定する。「すべきことがないので、何もしたくない」という恐ろしい事実に目を背けつつ、何もしないままで何かしたような安心感が得られる。そういう効果がサウナにはあると思う。
自分は縁がないけれど、おそらく筋トレにも近いものがあるだろう。「筋肉は裏切らない」というキャッチコピーがあるが、それは、ほかに確かなものが何もないという絶望にしか聞こえない。
信じるに値する価値がないということを、他者を通じた自己犠牲で埋め合わせるのが「推し」、信じないこと自体を信じることによってやりすごすのが「サウナ」、自己をモノとして信じようとするのが「筋トレ」といった感じだろうか。
なんでもいいから何かを信じて生きたいと思っているが、とても難しい。
おまおれか、、というくらい悩みが同じでした。
私もADHD診てくれる精神科を探し、受診しましたが1箇所目はまさに元増田と同じでした。
多分いい先生なんだと思います。が、問題が全く解決しませんでした。(多少心境を吐露したので気持ちが軽くなりましたが、、)
その上でお勧めされたのはやはりカウンセラーでした。結局時間を作るのが難しかったのでそちらは申し込まず、別なクリニックを探すことに、、
2箇所目は割と都会のクリニックまで出向いて診察を受けました。検査もそこで行ってくれ、費用はそこそこかかりましたが最終的にはコンサータが処方されることになりました。(ほぼ凸凹が無かったですがまあいいかなと言って出されました。多分保険診療的にはあまり宜しくないのかもしれません)
前提として、薬に関しては合う合わないがあるので絶対こうだと決めつけることはできません。
その上で私の場合を書くと
・昼食後眠く無くなった
これはかなり大きかったです。昼食後に細かい確認作業が全然できていなかったのができるようになった。
・食欲
一時的にかなり減りましたが今は元に戻りました。
・後回し癖
キャパオーバー状態になってしまった場合は正直解決していません。何から手をつけていいか呆然とする時があります。気合いで乗り切ってる感じです。
・副作用?
夜は効果が切れて普通に寝られるのですが、仕事が溜まった時には眠くならないことを良いことに睡眠時間を削って仕事してます。明らかに身体にも脳にも悪いだろうなと思ってます。
目の前の課題を解決したいのでそこは仕方ないかなと思っています。
自分の考えとしては薬に頼るだけではなく、もっとタスクの細分化ができるようにすること、他人に仕事を振るようにすることができるように考えなければと思います。
気になるねえ
何故気になったのか
「自然薯を探すときはまず特徴的なハート形の葉を探すとよい」のような説明がされることがままある
「ハート形」という概念が無い昔の日本だと自然薯や山芋の葉のような形を何と呼んでいたのか、というのを知りたい
調べましょうね
なるほど、西洋からいわゆる「ハート」概念が伝来する以前から土器や織物にハート形の文様が存在する、と
神社仏閣など建築物には「猪目」と呼ばれるハート形の意匠が施されている、と
なるほどねえ
じゃあ昔の日本で自然薯を探すときは「猪目型の葉っぱを探すとよい」と説明されていたのだろうなぁ~
……とはならない
「西洋ハート伝来以前から猪目と呼ばれるハート形の文様が存在した」イコール「自然薯など芋系のハート形の葉っぱを当時の人は猪目のような形の葉っぱと呼んでいた」とはならない
芋掘りする農民が「猪目」というある種の専門用語を日常的に使用するか?という点を疑う
農民が子を連れて山に入り、山芋の探し方を教える時に「山芋はこういう形の葉っぱだ」と伝える時、その葉の形をどういう形と表現するか?
勘だけど逆なんだろうな
すなわちハート形を「芋の葉のような形」と呼んでいたのではないか……という勘
その場合、
の問いの答えは「自然薯や山芋の葉のような形はそのまま『芋の葉のような形』と呼んでいた」ことになる
農民が子に山芋の探し方を教える時も、山芋の葉の形を何かに例えたりせず「こういう葉っぱの形は芋の葉の形だ」と表現する……?
さて、この勘由来の仮説を検証するにはどんな文献を探せばいいのか
いろいろぐぐってみるか
1911年(明治44年)、奈良県農事試験場(現農業研究開発センター)がツクネイモの品種試験を開始した。黒皮ツクネの特徴として「所謂大和薯にして本県の原産なり 蔓褐色にして太く葉は広き心臓形にして葉肉厚く濃緑なり 草勢強壮にして本県の風土に能く適正す 塊根は球状にして豊肥凹凸なく外皮粗厚にして小亀裂をなして亀甲形の斑点をなす 肉質純白水分少なく粘気強くして品質頗る佳良 料理用菓子用蒲鉾用等に用途広く四ヶ年平均反当収量六百三十二貫四百匁(2.37t)にして種薯に対する生産割合は約八倍に達し供試各品種中第二位にありと雖も其価格高きが故に経済上は寧ろ第一位を占む 該薯は零余子(むかご)は頗る小にして二ヶ年間栽培せざれば種薯に供養し難し[9]」と記録されている。
キリスト教伝来から300年以上経過しているからハート形という概念が浸透していても不思議じゃない
いや、リンネの分類学の著作が日本に伝来した時期あたりも調べる価値があるか?
西洋の植物図鑑で「heart-shaped」のような説明がされているのが翻訳されたことで明治期に一般に普及の可能性……
『日葡辞書』になんか自然薯の記述とかないかなあ……いや、あったとしてもポルトガル目線の記述だから意味ないか……
園芸アサガオの葉っぱの形で「芋葉」と呼ばれる変異パターンがあるようだ
時間切れ、また夜に調べるか……
三つ葉葵紋は西洋人にハート形と誤解されたみたいな逸話をどこかで読んだような……
これは日記です
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Wikipediaの「葉身」の「葉の概形を表す用語」を見ると興味深い
自然薯や葵のような葉は「心臓形(cordate)」と分類されている
その一方でカタバミのような葉は「倒心臓形(obcordate)」と分類されている
きっと西洋でメジャーなハート形の葉が葵みたいなタイプで、後からマイナーな側に倒心臓形と名付けられた、みたいな流れがあるのだろう
ヨーロッパでメジャーなハート形の葉っぱの植物……西洋菩提樹とかかなあ
知らんけど~
おそらく現代人の葉っぱの形に対する分解能が昔と比べて落ちている
色の分解能が上がって青と緑が別々になった現象の逆
葵の葉の形と芋の葉の形を現代人は一括りにハート形としてしまうが、昔の人は正しくそれぞれ「葵の葉のような形」「芋の葉のような形」と認識していた可能性がある
ゆえに、「ハート形」に類する形を指す言葉は不要だった……とか
その場合、
に対する回答は「ハート形より細分化されたそれぞれの植物の葉の形に例えられた表現で呼ばれていた。芋の葉は芋の葉のような形と呼ぶほかないし、葵の葉は葵の葉のような形と呼ぶ。」
となる
そもそも葉っぱ以外でハート形をしたモノが例えば江戸時代にどれだけあったというのか、という話がある(桃とか……しかし葉っぱを指すときに「桃の形の葉っぱ」とは言わんやろ、たぶん)
市松模様とか唐草模様とか、古くからある文様でいわゆるハート柄っぽく見えるものはないっぽいしなあ……一応「猪目文」があるのか
それこそ数少ない葉っぱ以外のモチーフでハート形が現れたときそれを「猪目」と呼んでいたのではないか
検証できるかどうか
うーんどうだろう、例えばこういう攻め方はどうか
博物学と医学薬学の中間みたいなジャンルという認識なのだが、植物の葉の形で分類するみたいなことをやっていたらしい
ただなぁ~、学者先生が使う言葉や認識と、市井の人々の使う言葉や認識って別だろうからな……
とりあえず1759年ごろに書かれた『花彙』という名の植物図鑑を国会図書館デジタルコレクションで読んでみよう
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面積を求める和算の問題で、ハート形の図形の面積を求めよ……みたいな問題あるかもな
もしあったなら「〇〇に似たこの図形の~」みたいな記述があるかも
一応調べること
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調査がとっちらかったので自分の関心の向き先を言語化しておこう
・「ハート形」という概念が無い昔の日本だと自然薯や山芋の葉のような形を何と呼んでいたのかの調査(昔の人は山芋の探し方をどうやって伝えたのか問題)
■サブクエスト
・昔の日本における(芋の葉以外の)「ハート形」と類似した図案、文様の使用例、またその呼称の調査
・幕末~明治期の文献から「ハート形」」「心形」「心臓形」の記述を探して市井の人々の中に「ハート形」という概念が定着していった流れの調査
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メモ:
こういう調べものをしていると古辞書に何と書かれているか確認したいというシーンがしばしばある
また、現代語訳された古辞書が書籍として売ってあるなら購入も検討すること
また、もしも辞書に「猪目」が載っていないなら当時の一般的な語彙の中に「猪目」が含まれていないとみなすことが出来るかもしれない
ここまでの調べものは「猪目は確かに日本古来から存在するハート形の模様だけど、昔の日本の多くの人は猪目って単語を知らないのではないか」という話が前提にあるので、その裏取りにもなる
神社仏閣に猪目模様があって、その模様があると知っている人でも、その模様の名前を知っているかどうかは完全に別
例えば……コンクリートブロック塀の松みたいな模様の穴が開いたブロック、あれの名前を知っている現代人は少ないのではないか
似たような構造があることを疑っている←この例は適切ではない……「身近にある模様でも名前を知らないものはある」という意図で例示したが、……上手く言語化できないな、後で再考する バックスペースを押さないことがアウトプットしやすくなるコツみたいな文章を何かで読んだ
トランプのハート柄が「猪目柄」と呼ばれないという傍証はあるんだけどな……→昔の日本人でも猪目という単語を知っている人は少ない説
それはそれとして、そろそろくずし字を読めるようにならないと調べものが滞る……教材を探して勉強してみるか
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・「ハート形」という概念が無い昔の日本だと自然薯や山芋の葉のような形を何と呼んでいたのかの調査(昔の人は山芋の探し方をどうやって伝えたのか問題)
→率直に「芋の葉の形」と何にも例えず呼んでいた、あるいは「芋の葉に似た植物の葉の形」を例に挙げて説明していた……と思われる
しかし古い植物図鑑を見ていると、例えばサツマイモの葉の説明をするときに「葉は朝顔に似る」のように別の植物で例える記述が多くみられた
(余談だがアサガオはヒルガオ科サツマイモ属なので葉が似ているのは納得、リンネ式階層分類体系は偉大っすなあ)
■サブクエスト
・昔の日本における(芋の葉以外の)「ハート形」と類似した図案、文様の使用例、またその呼称の調査
芋って家紋のモチーフにないんだなあ、考えてみるとちょっと意外(芋桐紋とかあるけど、これは芋ではなく桐モチーフと呼ぶべきだろう)
♡の幾何学的な図形の特徴を指す呼称という意味では、そのような概念は存在しない……か?
猪目が一応それではあるんだけど、市井の人々に広く知られた概念ではなかった(これも証拠なし)
だからこそ芋や葵の葉も「♡の幾何学的な図形の特徴を指す呼称」で形を例えられないということになる
・幕末~明治期の文献から「ハート形」」「心形」「心臓形」の記述を探して市井の人々の中に「ハート形」という概念が定着していった流れの調査
→ https://web.archive.org/web/20181002182121/nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/261341.html
>表現の自由戦士以外(左派の人?)はどう思っているんだろうなぁ、というのも興味本位だけど気になる
男性向けエロを愛しながらDMMTVに課金しつつ自身はBL二次創作をしている女だけど
ここまでいわないと弁えられない生き物なのか、という
情けないが一番近いかな
創作なら水龍敬ランドでもなんでも好きにやれと思うけど、これは現実じゃん
なんで現実の公共プールで再現しちゃおう、がやりすぎって気付けないんだろう
馬鹿なの…?
知らない人に>https://www.pixiv.net/artworks/45629320
ね、今回の規制でちょうど載せられてるような面積でしょ?
ついでに
自分も表現の自由を尊重したい派なので所謂表現の自由戦士と呼ばれる側なのかな?と思うのだけど(ちなみに当たり前だけど表現の不自由展等、性的でない表現の自由も含めて守りたい派です)、他の人がどう考えてるのかな?と知りたい
過度なハイレグ、ローライズ「不可」 埼玉県公園協会が水着撮影会に「細かすぎる」手引き
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.sankei.com/article/20240321-XGE5TNCJL5EJBOQBJAZ5UZ6PCE/
「チキンレースをするからこうなる」「表自が規制を自らで呼び込んだ」と言ったコメントがあり、首を傾げる部分が有った為
まず自分個人の感じで言うと、今回の手引きの明確化は割と好ましいと思っているんだよね、基準が明確でないまま規制されるよりは格段にマシなので、
ただ上のコメントはどうも「表現の自由戦士は手引きの明確化を好ましくないと思っている」という前提があるようだし、記事でも手引きに異議がある人がいる模様で、もしかして、所謂表現の自由戦士の中でも自分は外れ値と言うか、ズレているのか?と思った次第
なのでどうなのか確かめたい
まず整理が必要だと思うのだけど、今回の件に不満を言ったからと言って、全てが好ましくないという事ではない
個人的には、自由主義的にはこんな感じで大雑把な順位付けが出来るのでは?と思う
規制が無い(100点)>>規制が有るが基準が明確で緩い(80点)>>>規制が有るが基準が明確で中くらい(50点)>>>>規制が有るが基準が明確で厳しい(20点)>>>>>>>>>規制が有り、基準が不明確(-50点)
で、今回の件は-50点から80~20点に上がったわけだから、基本的には表現の自由戦士的には嬉しいんじゃないの?と思っている
左派(なのかな?よく分からない)の人にはその点で誤解が有るんじゃないかな?と思ったのだけど、自分の考えが表現の自由戦士内で少数派なだけという可能性もある(なので聞きたい)
もう一つ誤解は、全ての表現の自由戦士が100点(規制が無い)を目指していると思っているのでは?という事。少なくとも自分は80点くらいがベストだと考えているし、こういう人は多いんじゃないかな?と思う
全くの無政府状態が欲しいわけじゃなくて、規制が有るとしてもそれが適切じゃない場合は批判の声を上げられることが大事で、その為には基準が明確でない事にはどうしようもない、という話(明確じゃない基準を不適切かどうかなんてどうやって判断できる?)
今回の手引きの基準が厳し過ぎると思う人にとっては、今回の手引きは-50点から10点に上がって前進だけど、更に点数を上げる余地がある(なので批判の声も上げる)、という事なのかな?と
(ちなみに自分個人としては今回の手引きの基準は割とまぁアリなんじゃない?と思っている。もう少し緩くてもいい気はするけど、そこまで悪くない気が、なのでそこまで不満はない)
「基準の明確化」と「基準の厳格化」と「基準が細かくなる」はそれぞれ違う、個人的には明確化→良い、厳格化→良くない、細かくなる→どちらかといえば良い、という感じ
なので、個人的には今回の件について「細か過ぎる」という批判は良く分からないなぁと思っている。「厳し過ぎる」とかなら同意するかはともかく意味は分かる
あと、表現の自由戦士以外(左派の人?)はどう思っているんだろうなぁ、というのも興味本位だけど気になる
規制の基準の明確化、厳格化、細分化について、それぞれどう思っているんだろう(勿論、性的な表現に限らず、政府批判などあらゆる表現の規制について)
実は自分とそこまで変わらない可能性もあるのでは?と思っている
と、言うような事を考えるに、今回の手引きって、協会側は手引きを作れてよし、表現の自由戦士も基準が明確化してよし、左派(?)の人達も明確な基準で運用されるようになってよしで、三方よしが実は実現してる可能性もあるのでは?と思った
ブコメ欄では何だかこの件で対立がある事が前提みたいなコメントが見られるけど、それはただの思い込みで、