最近は、時間ができると「サウナ行きたい」と思うことが多くなった。
中年にさしかかった年齢のせいなのかもしれないが、最近、世間的にもブームになっているから、きっとみんな、昔より、サウナに行きたがっているということなのだろう。だが「行きたがっている」というのは本当だろうか。みんなただ単に、やることがないだけではないのか。
現代、自分を含めたある種の人々には、やるべきこと、欲しいもの、価値のある行為が何もない。SNSの時代にはすべてが細分化され、相対化されてしまう。映画も音楽も文学も、たくさんの人がそれを見たり聞いたり読んだりすることで名作になるのではないか。しかし、そういうことはもう望むべくもない。あらゆることは、単なる好みの問題でしかない。
それが楽しめるなら、幸せだろう。しかし誰も自分の好みだけで生きていけるはずがない。「推す」なんていうのも、すべてが相対化されてしまったあとに何かを信じるために、自分を「推し」に明け渡す、ある意味で宗教的な自己犠牲のような行為だと思う。
「推す」というのは、自分を信じられない人間が考え出した、自己否定による「好み」の止揚だ。
そして、現代におけるサウナとは「推す」ことの裏面ではないだろうか。
「推す」が、自己否定から他者を経て創造される「生きる意味」であるとすれば、「サウナ」は、自己否定自体の緩やかな肯定である。
あらゆる価値が相対化され、何も信じられなくなった人間には、本当の意味で欲望がない。やりたいことも、欲しいものも、行きたい場所もない。しかし、そのことに向き合ってしまうのはとても危険だ。それ自体フィクションに過ぎないとはいえ「生きる意味」がなくなってしまうからだ。
そこでサウナとは「何もしない」ということであり、サウナに行くとはつまり「どこにも行かない」ことだ。つまり、欲望すべきものがないということを、「何もしない」をすることで、無理なく肯定する。「すべきことがないので、何もしたくない」という恐ろしい事実に目を背けつつ、何もしないままで何かしたような安心感が得られる。そういう効果がサウナにはあると思う。
自分は縁がないけれど、おそらく筋トレにも近いものがあるだろう。「筋肉は裏切らない」というキャッチコピーがあるが、それは、ほかに確かなものが何もないという絶望にしか聞こえない。
信じるに値する価値がないということを、他者を通じた自己犠牲で埋め合わせるのが「推し」、信じないこと自体を信じることによってやりすごすのが「サウナ」、自己をモノとして信じようとするのが「筋トレ」といった感じだろうか。
なんでもいいから何かを信じて生きたいと思っているが、とても難しい。
子どもほしいと思う? って質問自分で書いて思ったけど、これこそ最も原始的な推し活か。 いやそれも違うか。昔は生活のための労働力だもんな。近現代に貧困がそこそこ解決されて...
子どもが推し活とは確かにそうかも 自分にはいないけど、いたら生きる理由にはなるか そうして良いよって言われても、自分のためにだけ生きるってのは難しいよなあ
飽きるよね。自分のためだけに生きるのって。 自分にとって大事な誰かのために生きたいなあ、とここ一年ぐらい思うようになったけど、推し活みたいなもんと言えばそうだよなあ。軽...