はてなキーワード: 代表とは
オレはミニシアター系映画とかややマイナーなポストロックとかのお前の言うサブカル分野好きだけど、たぶん当時サブカル界隈がアニメやオタクを叩きまくってたからだよ。
オレは昔からブヒアニメも見るけど、サブカル界隈では怖くて言えなかったよ。
ちなみにお前は知らなそうだけど、いまやサブカルと言ったらアニメとかオタク文化のことを指す人が多いからな。
00年代くらいまで存在した旧サブカルは、今はもうサブカルとは言わないから。
旧サブカルはそれだけ衰退したってこと。
まあ、マイナーだからサブカルなのに高尚さを出したいのか頻繁に周りのイケてないと判断した奴や物を叩いて差別化しようとしてたから、まあそりゃあ衰退して当然なんだけどな。要は排他的ってこと。
一方でアニオタ文化は快楽主義だからこそ排他的ではなくて、どんどん周囲を取り込んでいって、いまや日本を代表するコンテンツになったと思ってる。
警戒されたくないなら、最初に旧サブカルもアニメもメジャー系もなんでも見るけど特に旧サブカルが好きで、というように話せばいいだけ。
つーか、コミュ力低そうな女やな!
宮崎駿のドキュメンタリー番組のラストでナウシカのイラストを描く映像とか、
そういうのが出てくるとすわリメイクか!?みたいにざわつくんだけど、
そんなもん尺が足りるわけねえべな。
エピソードカットしまくりでなんとも残念な仕上がりになるのは間違いない。
つーか、原作ナウシカのラストのようなハッピーエンドは結局何処にもなかったけれど、とりあえず前を向いて生きていこう、、、
みたいなのはすでにもののけ姫でやっているわけで今更つくりなおす意味もない。
つーかつーか話が脱線するけど、結局宮崎駿の代表作って、もののけ姫になるんだろうなあと思う。
あのラストが宮崎駿という人の思想を凝縮したものだと感じるのは自分だけではあるまい。
それはともかく新しくナウシカをつくる意味なんてないし、そのことはつくるほうでもわかってるはずだから多分つくらないだろう。
夜時間があったら日記を書こうと思う。男の性衝動が、どうやら…かなり誤解されてるらしいと判った。
性欲は、生まれつき罹ってる宿痾のように捉えられがちだ。
追記2:ダラダラと長く読みにくい文章になっちゃったんで、あとで整理して書き直します。読んでくださった方、すみません。
→4/29 20:25追記 たびたびですが、書き直しやめました。長文を読んでくださった方、ありがとうございます。あと歳がバレるパトレイバー展示会ネタをどこかに入れたかったのですが、さすがに無理でした。
→4/30 15:55追記 https://anond.hatelabo.jp/20240430155506 に補足とブコメへのレスを書きました。コメントくださった方、ありがとうございます
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たまたまホッテントリで見かけた話題について、ブクマはやっていませんが色々と書きたくなったので、増田にて吐き出します。
前職でIT系、前々職で商社系の販促を経験しており、展示会には良く出展してました。RX社主催のものにも定期的に出していたので、場の雰囲気は分かるつもりです。
IT系の場合、ごく一部のIT商社(代表格:O社)を除いて、ガツガツと営業できる人は残念ながら少ないと思います。
昔、コスト削減の一環で、プロパーの若手営業のみで体制組んだのですが、見事に大半の社員が動けませんでした。ルート営業で成果を上げていたり、初回訪問を問題無くこなせる社員でも、です。
初対面の人に物怖じせずに話しかけて、アンケート等をしながら5分ぐらい話を繋げられるってのも、立派な技術なんですよね。営業経験10年の中堅社員が「無視されるっての辛いんですね。今後、街でティッシュを配っていたら必ず受け取るようにします」って言っていたのが今でも記憶に残っています。
またこれについては、同業者や人事とも話していて同じ感覚です。業界柄、初対面適性の高いプロパーを採用したり、教育するぐらいなら、外注(展示会なら呼び込み、テレアポならアウトバウンド代行)に任せて、プロパーは確度の高い案件に注力すべきだ、的な。
商材にもよりますが、1件あたり数千万円以上~で、受注まで1年~かかるのであれば、入口は外注して大量に対応し、その中から良さげなものをプロパー対応するのは、人件費を変動費化させたり、費用対コストを考えると妥当なような気もします。
外注の話に戻りますが、結局、日当数万でも外注したほうがよっぽど効果高いんです。立ち話程度で話せる情報なら半日もレクチャーすれば分かってくれますし、その上、来場者にもガンガン攻めて来てくれる。
それに、どうせ出展&設営費で、小さいブースでも200~300万円、大きなブースなら1000万円以上かかることもザラですので、そのうちの1割を外注費に回したほうが費用対効果高いんです。ここが来場者との最大の接点ですから、ここを変にケチると前述のように出展そのものが失敗になります。
次に、私の主観ですが、IT系展示会で女性コンパニオンを使う理由としては、
1)出展者・来場者共に男性が多いので単純に目立つ。あと混雑時は女性の声のほうが通りやすい
2)プロパー男性社員の士気が上がる(と言っても、遅刻しないでちゃんと来る、頻繁なたばこ休憩が減る、来場者から見えるところでダラダラしない、ぐらいですが)
3)費用はたいして変わらない(コロナ前ですが、20代半ばだと、女性は3万円/日、男性は2.5万円/日、ぐらいでした。服装は両性とも自前のスーツ)
です。
個人的には、1)が大きいような気がします。来場者が男女半々のノベルティショーなんかは、出展者の男女比も同じような感じでした。行ったことが無いので分かりませんが、女性向けのビューティーショー(化粧品やエステ用品の展示会)なんかだとどうなんでしょうかね。
2)はねぇ…、なんというか。でも実際そんな気がします。これは1)と同じで、男性が、女性が、というのではなく、同性のみの中に異性を入れることで緊張感が出る、ということで。n=1ですが、「9:00開場なのでビッグサイトに8:30集合」としたら、「出勤できないので経費で前泊しても良いですか」と言っていた社員(なお弊社は品川で、定時は朝9:00)が会期4日間、毎日ちゃんと出勤したという経験もあります。
最後に、外注だからグイグイ来る問題ですが…たぶん彼ら、彼女らも外注の元請けから切られないように、そしてステップアップするために必死なんだと思います。我々プロパーは受注金額で評価されますが、外注の場合、名刺の枚数で評価されるしかありません。
また彼ら・彼女らは、若い劇団員やお笑い芸人とが多いようであり、ここでステップを踏めば、展示会における大勢の前でのプレゼン要員(5万円~/日。質疑はプロパーが対応するので外注でもOK)や、企業研修の講師(10万円~/日。コミュニケーションや演技など)とか、時間の自由が利いて、割のいい企業相手の仕事に就くことができる、と話していました。
以上です。なんか文章的になったり、箇条書きになったり、殴り書きでスミマセン。でも1つの経験から。
当然ですが、ノベルティ配布の目的は、見込み顧客情報の収集です。
名前も知らない相手に0からテレアポしても会ってくれるのは1%程度ですが、部署名と個人名が分かれば最低限電話で話すことはできます。
そうすると20%~30%ぐらいは会ってくれます(ここでもテレアポは異性の声が良いというデータがあったような気もしますが、うろ覚えなので割愛します)。
担当者や担当部署では無いということも多々ありますが、それでも会ってくれた人の10%~20%ぐらいは、担当者や担当部署の人を同席させてくれたり、社内で紹介してくれることもあります。
個人的な感覚としては、展示会で獲得できた情報から、直近の受注につながりそう(提案や見積OK)なのは1%、中長期的な感じ(メール送信OKで、年に2回ぐらい訪問)なのが9%ぐらいでしょうか。なお残りの90%のうち、メール送信のみOKが20%で、メール送信NGなのが70%ぐらいです。
ぶっちゃけ、ノベルティの代わりに、見込み顧客の情報収集のきっかけにつながるツールがあれば、なんでも良いと思います。
ですが、現在のところ数百円で話のきっかけ(来場者もノベルティがもらえるから、5分ぐらい話を聞いてアンケートに答えて、情報を渡すという理由)になるツールとしては、ノベルティが強く、当面は無くならないと思います。
なお私は、デスクサイドに置けて、社名が残るもの、という基準でノベルティを選定していました。単価は、受け取る際に抵抗感がない、販促予算から逆算、で200円~300円ぐらいでしたか。フリクション+替え芯、スマホスタンド、(震災後は)マグライト、あたりを選んでいたような気がします。
この分野はよく知らないのですが、IT系展示会(ゲームを除く)でそんなに露出度の高いコンパニオンっていましたっけ? 普通、スーツかビジネスカジュアル、ユニフォーム的な社名入りポロシャツでは?
やるからには効果あるんでしょうけど、だったら人数増やした方が良くない?と考えてしまいます。ネット上でバズらせるなど、別の目的があればまだ納得しますが。
あとゲームショーで、コンパニオンに自社商品のコスプレ(露出度問わず)をしてもらう場合、あれはかなりガチにやってます。
聞いた話ですが、ちゃんと数回コンペまでやってコンパニオンを厳選し、日当は10万〜/日、それに衣装代が20万〜で、合計は50万〜。もはや着ぐるみ一着作るのと大差ありません。ゲームショーはB2Cであり、ブースへの来場者数が売上に直結するんでしょうね。
余談ですが、最近では、会社が著名コスプレイヤーとのコラボするという話も聞きます。
会社側はコスプレイヤー側を公認し、契約期間後の衣装を譲渡する、そして一定額の契約料を払う。
その代わりにコスプレイヤー側は、契約期間中の展示会には必ず参加する(日当は別途出る)、契約期間中はプライベートであっても競合商品のコスプレはしない、自分のSNSで定期的に「公認コスプレイヤー」としての活動に触れる、あたりが条件とのことです。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20240427031516
gryphon 面白く読んだが2点。「…付託されたが、その後本格的な審査…ない」は議会が駆引と日程で動く以上あり得る話で「付託」時点で一定水準の議論と推定可能か/米上院(各州2議席)等「平等選挙原則」は前提にせずとも可
平等選挙原則の話はあとに回す。議会が駆け引きと日程で動くのであれば、付託は政治的取引の結果と解することもできるような気がするというのはともかくとして、確かに議会の駆け引きの結果たなざらしにされているという可能性はある。そこで、先の2008年提案をもう少し細かく読んで見た。
https://dserver.bundestag.de/btd/16/098/1609868.pdf
よく読むと、この提案は、基本法や関連法規の改正を連邦政府に促すべきだという「決議」の提案であり、基本法改正の条文を並び立てる案ではない。条文も具体的な制度設計も伴わない提案を一定水準の議論と言って良いのか。だから賛否も問われずにたなざらしにされたのではないだろうか。以下の文章以外は、提案の理由(いわゆる「世代間正義」の実現が主のようだ)が長々述べられているに過ぎない。
II. Der Deutsche Bundestag fordert die Bundesregierung auf, einen Gesetzentwurf zur Einführung eines Wahlrechts von Geburt an durch Än- derung des Artikels 38 des Grundgesetzes und erforderliche weitere gesetzliche Änderungen, insbesondere im Bundeswahlgesetz, vorzulegen. Für den Fall, dass die Eltern sich in der Ausübung ihrer Stellvertreterposition in Bezug auf das Kindeswahlrecht nicht einigen können, wird die Bundesregierung aufgefor- dert, eine einfache und beide Eltern möglichst gleichberechtigende Regelung zu schaffen.
連邦議会は、連邦政府に対して、基本法第38条と他の必要な法律の改正、特に連邦選挙法の改正を通じて出生時からの選挙権を導入する法案を提出するよう求める。両親が子の選挙権についての代理権行使[の方法]について一致できない場合のために、連邦政府には、簡単かつ両親双方に可能な限り同権的な規則を作成することを求める。
ちなみに、Wikipediaドイツ語版(https://de.wikipedia.org/wiki/Familienwahlrecht)を見て知ったのだが、2003年にもほぼ同じ提案がされている(https://dserver.bundestag.de/btd/15/015/1501544.pdf)。
こうして経緯を調べてみると、議会の妥協ゆえにたなざらしにされているというよりも、5年経って具体的な案も詰められなかったというのが現実であるように思われる。
「国会で」とか「政府で」という枠を外して学界に目を転じると、確かにドイツ人らしく(?)真面目に議論されているみたいだ。前回の調査局の報告書には、数は少ないながらこの問題を直接的に取り扱った論文がいくつか引用されていた。彼らが議論しているのは基本法の定める民主国家原理に反するのか、それを促進できるのかという点である。問題は、そうした真面目な議論をきちんと踏まえた上でドイツ人ができなかった(ように見える)平等選挙の原則に反しない提案を考案するどころか、子が3人だから私は4票(吉村氏)などと賛成派のドイツ人も避けようとしている発言をしてしまっていることだ。
さて、平等選挙の話に戻る。アメリカの上院は人口にかかわらず一州に2議席である。しかし、このような例があるから平等選挙は必ずしも民主主義の前提ではないというのに私は強い疑問がある。
第一に、合衆国憲法の上院の議席分配については、アメリカ連邦制特有のものである。アメリカのような連邦制をとらない日本でこの例を出すことは不適切だろう。
第二に、アメリカの上院の議席分配が不平等であることは、当のアメリカ人も不満を持っている。たとえば有名な政治学者ロバート・ダールの『アメリカ憲法は民主的か』(邦訳が岩波書店からある)は、上院議員が人口に比例していない「顕著な不平等代表」であると述べる(邦訳58頁以下)。この仕組みは合衆国憲法制定時に諸州の妥協(いわゆるコネティカット妥協)で作られたわけであるが、そもそも、合衆国憲法は民主主義が大事にされる時代に制定されたわけではないというのが時代背景としてある。合衆国憲法が制定された時代には、不平等な選挙制度は普通に見られた。ダールは一例として、19世紀に存在した悪名高いプロイセンの三級選挙法を引き合いに出している。三級選挙法は、平等選挙を求める激しい非難を浴びながらもしぶとく生き残っていたが、第一次大戦の敗北と共に消え去ったのである。選挙権は与えるが露骨にユンカーと資本家の票を優遇するこの仕組みは極めて有名であり、今でも平等選挙の反対概念である差等選挙の一例として三級選挙法はよく言及される。今さら民主主義が大事にされていたわけではない時代にできた妥協として生き残っているものを引き合いに出すのは、民主主義者の行動としてはおかしなものだと思う。ちなみに、ドイツの連邦参議院(上院)は、ある程度の人口比例的に各州に議席が割り振られることになっている(また、そもそも連邦参議院はアメリカの上院ほどの権限はない)。
ケルゼンも言っているが、民主主義は人々の平等をもって本旨とする(古代のギリシアの民主政も突き詰めれば平等に行き着くだろう。民主政を表すもう一つの言葉はイソノミア(平等の法)である)。選挙権の平等は民主主義と切っても切れないのであり、ドイツ人が平等選挙に反しないように「代理」と言っているのは、ドイツ基本法(憲法)20条に抵触するのを避けるためだけではないだろう。もし平等選挙の理念を取っ払うのだとすれば、金持ちが結託して再び三級選挙法のような仕組みを導入されても文句は言えない。むしろ今般の眠たい提案よりも金持ちを守るための露骨な提案の方が議会を通りやすいだろう。平等選挙を引っ込めてはならない。
選挙権の平等に歪みを加えるような制度改正をしても、政治的影響力を増すのは「代理」する大人であり、子どもではないという現実を見るべきだ。若年者の「世代間平等」とやらを図りたいのであれば、方法は一つである。「代理」などという回りくどいことなどせず、選挙権の年齢を下げることだ。16歳、(オーストリアで検討されている)14歳、あるいはその下でもいいが、子どもが投票の意思表示をすることができるギリギリまで下げてみることを提案されたい(ちなみに私は、14歳くらいまでなら割とすぐにでも引き下げて良いのではないかと思う)。
(ついでに)
意思表示の能力がない子どもは排除されるのになぜ意思表示の能力のない人(たとえば重度な認知症の老人)が選挙権から排除されないのかという疑問を持つ人もいるらしい。理論的にいえば、確かに意思表示の能力のない人は選挙、つまり国家意思の形成に参与する資格はない(実は理論的にいえば子どもか老人かは選挙権の決定に直接関係するわけではない)。そうすると、なぜ2013年の法改正で成年後見人の選挙権が回復されたかという疑問がわきそうだが、後見はあくまで財産管理上の能力があるか否かの問題であり、政治的な意思表示の能力があるかとは厳密にいえば関係ない※。要は、現状、意思表示の能力のない大人を選挙権から排除する仕組みはないと考えなければならない(もっとも、実際には政治的な意思表示が一切できないなら投票所に来られまいし、投票所に来ても何もできないだろうが)。
憲法が成年(ここでいう成年とは民法上の成年をいう)に選挙権を保障するのは、成年であれば政治的意思表示の能力があるだろうという線引きを採用しているからである。こうした年齢によって能力の有無の線引きにするのは、一見すると確かに問題がある。子どもでも賢い子はいるし、大人でも愚鈍な人はいる。思考実験としては、年齢にかかわらずすべて政治的な意思表示の能力がある人をテストで判定し、テストに合格した人にみに選挙権を与えるということも考えられる。ただ、どのような方法でテストを組めば公正に政治的意思表示の能力があると見なせるかという問題が生じる。このようなテストを実際に恣意的に活用して実質的に黒人の投票権を奪っていたのがかつてのアメリカ南部諸州であったことを忘れてはならない。
結局、年齢によって形式的に線引きする方が、ヨリ問題はすくないように思う(年齢よりも問題を起こしにくい線引きの方法があったら教えてくれ)。あとはどこまで下げられるかを真剣に考えることだ。
なお、日本国憲法15条3項は、成年者には選挙権を与えなければならないとだけ言っており(公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する)、未成年者に選挙権を与えることを禁じていない。これは、ドイツ基本法38条2項が、「満18歳の者は、選挙権を有する」と定めていることと対照的である。年齢の引き下げなら日本では憲法改正など必要なくすぐさまやれることなのに、わざわざ憲法改正どころか民主主義の根本原理を改変するような提案をしてくるのは、何かおかしな底意があるのだろう。
※これは思いつきだが、禁治産者が選挙権から排除されていたのは、財産を持つ有徳の者にだけ選挙権は与えられるべきであるという制限選挙時代のBesitz und Bildungの観念に由来するのかな。いずれ調べてみたい。
若者の政治参加を促したいなら一番は被選挙権を10代に与えて、たまに海外で誕生するような高校生市長も可能にしようって提案すりゃいいのにね。
そりゃあ笑うだろ
車椅子ユーザーが自分が代表だって気になって暴れててるの笑っちゃうだろ?
それと同じなんだよ
自分が正しいと思ってるだけなのに、自分は正しいからってことで、チャレンジしてくるの滑稽でしかない
馬鹿にして笑われるべき奴らだよって扱わないと、同じ馬鹿が出てくる
まあ、その同じ馬鹿がお前らなんだろうけどさ
あからさまな釣り増田にもかかわらず、ググって過去投稿やコピペの類であるかを検索せずに条件反射的に反応してしまい、大変申し訳ございませんでした。
件の増田にブクマしたブクマカを代表して、僭越ながらわたくしめが土下座で謝罪させていただきます。
なお、その方法として古来中国より伝わる「三跪九叩頭の礼」をもってして謝罪の表明とさせていただきます。
冗長な記述を避けるためにRubyで表記させていただくことを予めご了承ください。
for i in 1..3 do
puts '跪'
for j in 1..3 do
puts "#{j}" + '叩頭'
puts '起'
end
puts '起立'
end
御清聴の程有難く存じます。
上沼恵美子に代表されるようなおばちゃま方って夫のことないがしろにするよね
熟年離婚も多い
でもおばちゃま方もしゅきしゅきだいしゅき〜って結婚したんだと思うのよ
でも全部嘘なんだよね
年取ってあそこまで嫌われるんだったら結婚する気が失せる
維新の会共同代表の吉村大阪府知事が、「0歳児投票権」(未成年の子の投票は親が代理して行う)を提案し、維新のマニフェストに加えたいという意向だという。
(https://digital.asahi.com/articles/ASS4T2RNLS4TOXIE01TM.html)
これについて同党音喜多幹事長が、次のようなツイートをリツイート(リポスト?)していた。
吉村知事の0歳児投票権=ドメイン投票の実現可能性は兎も角、海外で真面目に議論されて国会まで行った話を、あたかも与太話のようにせせら笑い取り合わない風潮をみると、この国の知識レベルが心配になる
海外の議論で主な論点はすでに整理されてるが、日本のSNS界隈の反応はそのレベルに達してない
吉村知事が言ってるドメイン投票は例えばドイツでは連邦議会において議論され、(https://bundestag.de/resource/blob/531942/6669f3e29651882065938fc6a14fd779/wd-3-157-17-pdf-data.pdf)、無論導入にはいたらなかったものの、第三次メルケル内閣のManuela Schwesig家族相など、賛同者もいた昔からあるアイディアの一つですが
ドイツの連邦議会で議論されたというのは、この議論が無理のあるものではないということを示す一つの傍証とされているのだろう。音喜多氏もこれを自分の議論を支持する意味でリポスト(?)しているようだ。ただ、リンク先のPDFを見て色々な意味で驚いた。
第一に、このPDFはドイツ連邦議会調査局(Wissenschaftliche Dienste)が作っているものである。調査局が作っている立法資料を持ってきて連邦議会において議論されたというのは羊頭狗肉の感がある(※)。たとえば日本の国会図書館調査及び立法考査局が資料を書いたら国会で議論されたことになるのだろうか。
第二に、調査局の報告書(タイトル:生まれた時からの選挙権[構想]の諸問題)という体裁上、両論併記的であり、あまり執筆者個人の意見は出ていないが、この提案に対する分析の水準は明らかに日本でいま議論されているようなレベルのものではないことに驚いた。なお、ドイツ法に詳しくない方のために申し上げるが、ここから先で述べる「基本法」とは、ドイツにおける憲法典(日本国憲法のような)にあたる法である。
要約すると、
・親に子どもの数分の選挙権を付与するモデル(Modell des originären Elternwahlrechts)は、ドイツ基本法38条1項1文が保障する平等選挙の原則に反するし、平等原則の原則は20条の民主的連邦国家原理に含まれる。したがって、基本法79条3項の定めにしたがって、このような提案はたとえ基本法(憲法)改正によるとしても許されない。(4-5頁でバッサリ斬られている)
・一方子の選挙権を親が代理行使するモデル(Modell des originären Kinderwahlrechts)については、別途の考察が必要になる。(同)
・基本法38条2項(選挙権年齢)の改正が必要という点はともかくとして、実質的な側面としてはやはり基本法79条3項が定める基本法改正の限界について検討するべきであるが、そこで重要になるのは、基本法20条の民主国家原理に含まれる平等選挙の原則にこのようなモデルが適合するか否かである。
・親の代理投票主唱者は、親は子の票を受託に基づいて行使するので、平等選挙原則に反しないと主張する。すなわち、親自身の投票権行使と子の投票権行使は区別して行うべき制度であれば平等選挙原則に反しない。また、たとえ平等選挙原則に反するのであるとしても、このような制度は普通選挙原則(選挙権を万人に付与すること)に奉仕するから、その意味では民主主義原理に役立つ(※基本法20条、ひいては79条3項に反しない)。(7-8)
・このモデルへの批判者は、まずもって、望むか否かは別として政治プロセスに参加できない人にも選挙権を与えても、民主主義の正統性は得られないとする(※普通選挙の拡大という言い分は見せかけであるということだろう)。そのうえで、親による代理投票は、事実の問題として、親に複数の票を与えることに他ならない。親自身の票と子の票を区別して投票するという仕組みは非現実的である。そもそも代理投票という仕組み自体、子どもは成熟していないということを前提としているのであり、親が子の受託に基づいて投票するという議論と矛盾する。加えて、親を通じた代理投票という仕組みは、選挙権が一身専属的な権利であり、国家の意思形成に責任を持って参加する力をその人だけに与えるものだという側面を無視している。結局、基本法20条、ひいては79条3項に反する。(9-11)
ここから分かるのは、ドイツでは親の代理投票制度は、普通選挙の拡大に資するし、かつ、代理投票モデルであれば、平等選挙原則に反しないという形で議論されているということである。少なくとも「消滅可能性自治体」があるからとかいう「地方創世」で一山当てたいコンサル向けのくだらない理由が提案の原点なのではない。また、少なくとも表向きは、少子化対策のために子持ちの票を増やそうという理由でもない(その理由の馬鹿らしさはこれでも読めば良いhttps://mond.how/ja/topics/v35a8jk8lwp89el/jw3f2o4dj0z9fo4)。あくまでも普通選挙の拡大に資するというのが理由である。より民主的な政治制度への変更を試みようという提案(として自らを位置付けている)というわけだ。ただ、民主主義は平等選挙原則も同様に要請するから、ドイツ人がやっているように、平等選挙原則と両立するかを考えなければならない。
平等選挙原則に反しないというためには、親自身の投票と子の投票を厳密に区別する必要がある。それが現実問題として可能なのかということをしっかり考えなければならない。この仕組みの賛同者がドイツの連邦議会と調査局を区別していないというぞんざいなやり方をとっていることからすると、どうもドイツの議論は話の枕に使われているだけで、ドイツの議論を真面目に受け止めて、そのような制度が可能なのかを考察する者はあまりいなさそうだ。私個人の意見では、親と子の投票を厳密に区分した制度を作ることは無理だろう。というのも、この仕組みが問題になるのは、子の投票意向と親の意向が相反する場合だが、その場合、子は自らの投票意向を開示して親を説得しなければならない。これでは投票の秘密も何もあったものではなく、逆に子が投票の秘密を守ろうとすると、親の投票意向をコントロールすることはできない。それでは子から投票を付託されたという代理人という建前が崩れる。また、投票意向が明らかにならない子について親が「代理」するのでは、結局親に二票与えるのと変わりがない。加えていえば、代理権を持つのは母親なのだろうか、父親なのだろうか(吉村知事は制度実現のあかつきには自身が子の分も含めて4票あるというので、父親が前提なのだろう)。ここは、親と子の投票を厳密に区分するという発想をとれば実は問題が生じない(子の意向に沿うならばその票を投ずるのは父でも母でも他の保護者でも構わない)のだが、先程述べたように、特に投票意向を表示できない子については区分は無理だろう。したがって、事実上「二票」入れられるのはどちらなのかという争いが生じざるを得ない。そのような場合には「0.5票」を両親に付与することも考えられるが、正面から両親に票を与えることを認めれば、ますます平等選挙原則に反しないという建前が崩れる。
そもそも、ここから分かるように一口に子どもといっても投票が可能な年齢の子とそうでない子がいるのだから、投票が可能な年齢の子について代理投票などという面倒な仕組みを採らずに投票権の年齢を下げれば良いだけの話だ。たとえばオーストリアでは16歳まで投票権年齢が引き下げられているが、引き続き14歳投票権が議論されていると聞いた覚えがある。このような議論は真剣な考慮に値すると思う。
繰り返しになるが、ドイツではこの投票制度が平等選挙原則に反しないと言えるか否かが議論され、それが難しいと考えられているようだ。だとすれば、ドイツの議論を踏まえて、この制度の賛同者は、この制度が平等選挙原則に反しないようになる制度の可能性こそを真面目に考えるべきだろう。ただ思いつきでぶち上げても、もう終わった話だと一蹴されるのは当然である(※)。なお、そもそも平等選挙原則について真面目に考えないのであれば、民主主義にコミットしていないと思われても仕方がない。上記の議論では、平等選挙原則は基本法(=憲法)改正によっても曲げることは許されないと言われている(※※)。
※興味本位で調べてみたところ、ドイツ連邦議会にこのような基本法改正の提案が提出されたことはあるようだ(2008年提案)。ただ、連邦議会のHPで確認する限り、提案は委員会に付託されたが、その後本格的な審査が行われた様子はない。つまり、賛成・反対の議決もなく、本格的な議論もされずに一蹴された話だということだ。
https://dip.bundestag.de/vorgang/der-zukunft-eine-stimme-geben-f%C3%BCr-ein-wahlrecht-von/14939
※※
これはドイツ基本法79条3項の規定故ではあるが、憲法改正の限界という純法律的な論点を脇に措いたとしても選挙権の平等を真面目に考えないことが民主主義者であることを疑わせるのは変わりはない。なお、日本国憲法も、14条1項からして平等選挙原則をとっている(そうでなければ一票の格差が問題にされることはない)が、平等選挙原則の排除が憲法改正の限界に引っかかる理論的可能性はあるだろう。
(追記)
それにしても、吉村氏に関しては、自身が子の分も含めて4票あるというから、「代理」モデルの利点である平等選挙原則との抵触回避の利点をわざわざ捨てているように思う。利点を捨てるような発言を自分からしていくあたり、本当にただの思いつきなのだろう。ドイツ人の議論を持ち出しながら(これをやったのは音喜多氏だが)、ドイツ人が回避しようとしていたことをやってしまうのは無様だ。「消滅可能性自治体」に引っかけた話題作りという以上の意味はないのだろうが、話題作りのために民主主義の根本原理に手を触れるのはどうかしている。それが弁護士のすることだろうか。
(再追記)
(再々追記)
神社の例祭を運営する側である。厳密には私ではなくて、夫が代表でその寄合に参加している。
その例祭のことで、夫に相談を受けて悩んでいる。相談内容だけど……
うちの地域は、京都市内の山間部に近いところにある。小さい神社で豊作を祝う意味で例祭がやるのだけど、そのお祭りに町外の人が来て、出店の飲食物を買っていく。そんな懸念を夫が吐いていた。
参考までに、神社の境内の付近では、市販のおにぎり50円、ジュース50円、焼きそば100円、ビール100円で売っている。ほかの食べ物も非常に安い。地域に対する感謝価格だ。
夫が言うには、町外の人がそれなりの量を持ち帰りで買っていくようである。私は直接見たことはないけど、確かに毎年キレイに売り切れている。
「どうすればいいと思うか。去年は地元の子の分がなくなった。今のやり方を変えた方がいいのか」
うちの地域の神社は山の上じゃなくて、住宅地の近くにある。お祭りをしている様子が外から見てもわかりやすい。小学校とか中学校の校庭でサマーフェスティバルとか、文化行事などをしていると、すぐにわかるよね? あんな感じ。しかも夜だから、照明が余計に目立つ。
私の考えだけど、たくさん買っていく町外の人がいても当たり前なのでは?と感じる。目くじらを立てずにと言いたいけど、それは夫がほしい答えじゃない。かといって、どうすればいいのか、効果的な案が思い浮かぶことはなかった。
もう何か月かすると、お祭りの準備が始まる。夫の相談には応えたい。どのように答えればいいのか、よろしければアドバイスをいただけたらありがたい。ほかの質問投稿サイトには相談していません。ここだけです。
友情・努力・勝利の方程式を単項で解くとインフレする、というだけの話
同時期のバトル漫画でも雑誌が違うと「友情・努力・勝利」ではなかったりするので
一方でジョジョは明確にインフレとは違っていて能力バトルになっていった
ドラゴンボールに対するアンチテーゼとしては同じジャンプのジョジョになるんだと思う
「友情・努力・勝利」を単純に見せたいだけなら別にインフレして問題無い
ゲームで映像のクオリティを上げれば面白い、というのはちょっと違っていて
例えばオープンワールドだとそもそも映像のクオリティを上げないとゲームとして成り立たない
これは写実的かどうかというだけじゃなくて膨大なアイテムやクエスト、敵をちゃんと表現できるかどうかによってゲーム性が変わる
例えばマイクラって写実的ではないけれどレンダリング範囲が狭いと全然ゲームとして成り立たないのでSwitchだとクソゲーになってる
8番出口も現実と見紛うほどのリアリティがあるからこそ違和感に意味があるのであって
昔はCGクオリティを上げるのにめちゃくちゃ資金と技術が必要だったけど
今だと環境が充実しすぎてて割と簡単に高クオリティの映像が作れてしまう
ただ、それをゲームにどう活かせるかが重要、というのは昔から一緒
そして今も昔も「映像が凄い」というだけで名作扱いされるようなことは一切無い
そもそも映像に金がかけられるようなゲームはゲーム性やトータルバランスをちゃんと考えていることが「多い」のでそう思われてる
政治家って国民の代表であって、問題解決の専門家を招聘してるわけじゃないのよ。つまり馬鹿の代表は馬鹿ってことで、どの党なら解決する問題かって話では無いんだよね。
1964年頃から活動していたが、男として頭角がなく、昭和54年以降の女性の時代になって、その独特の性狂いのエッセイが大流行し、一世を風靡した。
「真夏の豊穣の豊かさに比べると、冬枯れの無機能の美しかない今にあっては」というのは、串田孫一の、エッセイの一節である。
ここでいう、冬枯れの無機能の美というのは、現在の警視総監である、小島博史が書いているようなゴミの事である。これをあえてゴミと強く表現する必要はないにしても、宮崎県警通信指令課
宮崎県警本部長が最終的に書く行政処分書が上記のものに該当することは明らかである。代表作
著作は山岳文学、画集、小説、人生論、哲学書、翻訳など多岐にわたる。詩集『羊飼の時計』(1953)、『山のパンセ』などが主著。
『山のパンセ』実業之日本社 1957 のち集英社文庫・岩波文庫・ヤマケイ文庫
『現代人生論全集11 串田孫一集』雪華社 1966(のち私の人生論10 串田孫一、日本ブックエース)
『Eの糸切れたり』時事通信社 1987(のち平凡社ライブラリー)
『もう登らない山』恒文社 1991
前例のない措置として、権威ある科学出版物サイエンティフィック・アメリカンは、ドナルド・トランプ大統領に対する痛烈な攻撃を開始し、次期米国選挙での対抗馬である民主党ジョー・バイデン候補を支持した。
科学は政治である。科学は本質的に政府の資金調達状況と社会の問題や問題によって形作られている。
これは科学がどのように組織され、資金が提供されているかに影響を与えるためには、科学者および科学コミュニケーターとして、政治の分野で行動しなければならないことを意味する。
サイエンティフィック・アメリカンの編集者が明確に述べているように、世界の危機について実際に知識がある人々が、その知識(または「集合知」)を公の場で、大声で、名前を出して発言し、代表することが過剰に重要視されている。
トランプ政権下では、科学は単に無視されているわけではない。特に気候変動やコロナウイルスのパンデミックなどの問題に関して、独自の意見を持っている。
過去には政治を掘り下げて特定の狭い範囲を超えてコメントする科学者は、その信頼性を傷つけおそらくは非倫理的な行為をしていると示唆されてきた。
しかしパンデミックや気候変動の問題については、科学者が政治的に過激な意見を持つようになってきた。
2017年ネイチャー誌は、「気候変動とゲノム編集をめぐる議論は、研究者が自らの快適ゾーンを超えて市民と関わる必要性を示している」と政治的な意見を主張した。
tyhe 俺は知っているぞ。名古屋の民は名古屋に来て矢場とん行きたいと言われた時に他の美味い味噌カツを案内したくてうずうずしていることを。なんなら矢場とんに行ったことが無いことを。
四十ウン年間名古屋民やってるけど、うずうずしてないしそもそも味噌カツなんて名古屋人にとってそんな特別な料理じゃないんだよなあ。ソースにするか、味噌にするかだけの違いでしかない。
そこらへんのとんかつ屋で食うことはあるけど、トンカツに味噌つけただけの料理なんてどこで食ってもそんな大差ないよ。
矢場とんも言ったことあるけど、あそこは味噌カツがどうこうより味噌汁が赤味噌じゃないのがおかしいと思う。
うなぎはひつまぶしよりうな丼の方が好き派だが、うなぎの良し悪しはあるんで下手な店では食わない方がいい。それなりの店なら好みでしかないね。
個人的に言わせてもらえば、名古屋で本当に食べてもらいたいものはあんかけスパゲティなのよ。ピリ辛いコショウのきいたトマトベースのソースに太麺が最高にあう。
私は大学に入るまで、スパゲティといえばあんかけスパゲティをさすものだと思ってた。少数派として弁当に入ってるナポリタンと、喫茶店にあるインディアン。
大学に入って初めて他のスパゲティが存在することを知ったが、それでもあんかけスパゲティ以上のスパゲティはないな、と思っている。
上に乗せるのは個人的にはソーセージ系かフライ系をおすすめしたい。ミラネーズとかバイキングとかね。たまねぎとかの野菜系のものもあるけど、野菜の水が出てソースが薄まってしまっていまいちだと思う。でもそちらも人気みたいなんであくまで個人の感想です。
で、できれば鉄板。あんかけスパはあつあつが最高にうまい。火傷するぐらい熱いんで、熱いのが得意な人以外にはおすすめしない。私は毎回やけどしながら食ってる。
あんかけスパゲティは店によって結構味が違うんで、自分の好みのあんかけスパに出会う楽しみもある。私がよく行くのはチャオとドンキカフェ(旧ドンキホーテ)。チャオは鉄板があり、ドンキカフェはコショウがよくきいてて好み。チャオもドンキカフェも一応チェーンで、以前はたくさんあったのだが今は大分数を減らしてしまった悲しい。チャオはイオンとかのSCに時々入っている。ドンキカフェはチェーンなのにいまいちソースや麺の温度と具材の調理が安定しないという欠点があるのが残念。
20年ほど前から某大手カレーチェーンがあんかけスパゲティの店をはじめたが、こちらは結構独特な味で、まあ全然好きなんだけどちょっといつものあんかけスパゲティとは違うな、と思ってしまう。初めて食べる人にこれをあんかけスパゲティのベースだと認識されるのはどうなんだろうと思って薦めるのは躊躇してしまう。
そんなあんかけスパゲティの代表といえばヨコイだろう。私も学生時代に何度もお世話になった名店だ。だけど、こないだ名駅店で観光客に混じって食べたらぬるいスパゲティ出されて幻滅したね。昼時で客も多かったからか知らんけど、観光客にあんなもの食べさせてヨコイはあんかけスパゲティの代表として恥ずかしくないのか?と憤りを感じた。
昨日から、NewJeansのプロデューサーであるミン・ヒジンと、元締めであるHYBEがこれでもかと揉めている。詳細は適当に調べてくれればいい。
そのとばっちりで改めて「NewJeansおじさん」がきもがられているわけだが、というのも、このニュースに注目して物知り顔で物申しているのがもれなくこの層だからだ。そもそも、ミン・ヒジンという裏方にやたら関心があるのもNewJeansおじさんたちの特徴であって、「にゅじたちが心配😭」とかつぶやいているようなティーンたちは、ミン・ヒジンが誰なのかもろくにわかっちゃいないだろう。
念のため、きもがられているNewJeansおじさんが中年男性である必要はない。ある特定の性質を持った人は誰であれ「NewJeansおじさん」なのであり、非おじさんにきもがられる立場にある。
この性質がなんなのかといろいろ考えてみたのだが、一言で言ってしまえば、「NewJeansを作品として鑑賞しようとしている」ということになるのかもしれない。NewJeansおじさんたちはもれなく鑑賞者であり、非おじさんたちはそうではない。
要は、おじさんたちはよくできた作品を求めているのであり、その価値を堪能したいのであり、それをもたらした作者や文脈について知りたいのだ。なんなら言葉を尽くして批評したい。
残念ながら、ティーンたちからすればおじさんたちのこのようなふるまいはかなりきもい。非おじさんたちからすれば、肝心なのはまずもってメンバーたちであり、そのかわいさであり、人生である。推しの幸せが一番なのであって、彼女たちをひとつの作品の一部としてモノ化する視線をそもそも持っていないのだ。
ここには、決してわかり合えないふたつの態度がある。おじさんたちはNewJeansメンバーたちのVlogなんて見ないし、非おじさんたちはミン・ヒジンのインタビューなんて読まない。
いま、NewJeansはミン・ヒジンを追ってHYBEを去るか、ミン・ヒジンと手を切ってHYBEに残るかという選択を実質的に迫られている。言うまでもなく、おじさんたちがより望んでいるのは前者であるが、おそらくティーンたちにとってより好ましい帰結をもたらすのは後者だ。ミン・ヒジンの世界観、おじさんたちを引き寄せていたあの芸術性を失うことは、芸術作品としてのNewJeansの終わりを意味するが、「推す」側はそもそも芸術性なんて気にしていない。非おじさんたちはなんであれ愛を注ぐのだから、GODSみたいなクソしょうもない曲を連発して人気が停滞したところで、愛がより加速するだけだ。
おじさんばかりがきもがられるのであえて言うが、対象のクオリティを度外視してひたすら「推す」というのは、それはそれで無責任だし傲慢なふるまいだ。
「かわいい」「頑張ってる」ぐらいしか評価軸を持たないファンたちは、今回の件がこじれてNewJeansがいよいよ落ち目になったとしても推し続けるのだろうが、それにだって限度がある。そのうちどうせ、ILLITなんかに乗り換えるのだろう。
そして本当にひどいことに、HYBEに代表される大手企業は、このような乗り換えを推奨するかのごとく次から次へと新人グループを量産しては既存のグループを切り捨てていっている。良い作品を良い作品としてじっくり長く嗜む、という鑑賞的態度が廃れているばかりか、「推し」に対立する態度としてけなされている現状が、このようなビジネスモデルを助長していることは言うまでもない。
いくらかわいくて頑張っていても、作品として劣っていては意味がないだろうと、そう思う私はNewJeansおじさんである。多少なりともそう思うのであれば、あなたも多少はNewJeansおじさんである。