はてなキーワード: 不戦敗とは
もうそろいい歳なんで、一発ネタ半分ガチ半分、母乳が出るという女性に筆下ろしを依頼した。
駅前で待ち合わせて来たのはまあイメージの範囲内、と思いたい…て感じのぽっちゃりウーマン。
「うお〜テンション上がってきた〜wwラブホとか初めてでwww」
「このあたりはねぇホテルすぐ埋まるから探すの大変なのよ。料金とか以前にまず空いてるかどうかってレベルだから。」
自分で書いてて空しいほどのカラ元気をブン回しているうちにホテルも見つかりスルッと入室。「なんだ全然緊張しないじゃん」とこの時は思っていたが…。
ベッドに横たわり、ちんこをマッサージされつつ母乳をかけられる。
「おお…」と感嘆の声が思わず漏れる。白濁液が俺のちんこに塗られていく。
そしてマッサージが始まった。圧倒的エロビジョン。しかし勃たない。アレ?独りで部屋にいるときなんてこんなシチュ見てたらギンギンバキバキに勃つのに。
「おっぱい触っていいですか?」
「痛っ」
「あっすみません」
「アッハイ…」
あれ?嫌な予感だ。勃たない焦りが具現化し、頭に流れ込み始める。
ちんこに集中するのも叶わず、ブラックライトで浮かぶヨッシーとマリオが思考順序をかき乱していく。
俺が描いた夢は…マリ…じゃないエロエロお姉さんに筆おろされたい的な…でヨッsお姉さんにガンガン腰振りながら「出るァ〜!!???」って出しまくる的な…。
お姉さんはSなプレイが生業らしく、勃たない間も半ばわざと言葉責め的に「全然勃たないんだけど?」「普通の娘だったら幻滅しちゃうよねこの時点で」と畳み掛けてくる。
いや、うん。
普段ならちょいMの俺がビクンビクンしてるはずの言葉も、ただ現状を述べる冷淡な日本語にしか聞こえない。滾ってこない。
ちんこをさすり続ける手。苦し紛れに乳首舐めてもらったら勃起予兆が。
「おっキタ!」
なぁ〜にチンコが勃っただけで喜んでんだ自分。普段は不要なタイミングで勃つ暴れん坊なのに、今は首のすわった赤子のようなムーブをしている。
頭から雑念を振り切ろうとしたところで、ゴムが装着されお姉さんが跨ってきた。しかしというかまあ予想通り秒で萎えていく海綿体。は?
お姉さんもしばらくウフフとか言いながら腰を振ってくれたがいろいろ察したようで、ちんこを抜き、ゴムを外し、シャワーを浴びながら説教的に淡々とアドバイスしてくれた。
「初めてとか、緊張して勃たないのよね…予想以上に勃たないでしょ?」
「母乳は本当に萎えさせる要素ばかりよ、余程の母乳フェチでもなければギンギンは無理」
「ゴムつけてオナニーとかしてる?ただでさえ膣圧は弱いんだから、『ゴム付けてても勃たせるんだ』って強い意志を持てるように慣らしておかないと」
「こうやって見られながらちんここすってもたたないでしょ、これはもう場に慣れるしかない」
「普通の人でも赤の他人とじゃ一回目は勃起できないとか普通にある」
「やっぱり慣れてくるとしたら3度目ぐらいから(まともにヤレる)かなー」
「私はSだから自分のペースで顔面騎乗したりしたいの、だから攻められるのは趣味じゃない」
「私がここでずっと見続けてると君はおそらく『次』の時に勃たなくなっちゃうから、私はもう帰るね」
あっ、…
『バタン』
お姉さんは去っていった。入室から本当に20分ぐらいしか経ってないと思う。
直後、テレビで流れるAVを観ながら、今までの人生を振り返る自分がいた。
オスとして「勝った」経験がほぼない俺の人生。体重が増えても見て見ぬ振りをし、筋肉をつける努力もしなかった。中学で一瞬彼女ができたが、周りの目を気にしすぎて何もできないチキンクソ野郎だった。当然彼女は去っていった。
結局の所、「オスとして戦って負けた」のではなく、「オスとして戦うことを避け、勝手に不戦敗していた」んだなーと。
今回初めて体感した「オスとしての敗北」はあまりにも重かった。しかし、お姉さんに対する怒りや後ろめたさは微塵もない。むしろ淡々と教えてくれてありがとう。
「議論に勝ち負けはない」というがそれは嘘だ。
例えば、質問に答えられるかで議論の勝敗を判定する向きがある。
質問に答えらえないことを理由に「論破された」と判断する人がいる。
これは端的に間違っている。
Bの論が証明されないからといって、Aの論が正しいとは証明できないからだ。
例えば、以下のような議論が行われるとしよう。
UFOが存在すると主張するAと、UFOが存在しないと主張するBがいたとする。
B「例えば、C教授がUFOは存在しないと言っていた。その意見は正しいと思う」
A「えっ?C教授がいっていたら、その意見を信用するんですか?
偉い人がいってたら信じてしまうんですね。では、C教授がUFOは存在するといったら意見を変えるんですか?」
B「覚えてないので、できないよ」
A「はあ…答えられないんですね」
この議論では、AがBをやりこめている。
最終的にAの質問に答えられていない。
が、Aの主張が正しいとは言えない。
なぜなら、Aは主張を述べているが、その根拠を示していないからだ。
Aの主張を証明するには、根拠を示し、それに対して正当化を行う必要がある。
対してBは不完全ではあるが、「C教授の意見」を紹介しているから、
主張の正当性は無ではない。
有である。
ところがインターネットには、
このことが全く分かっていない人が残念ながらいる。
それをいいことにひたすら疑問を繰り出し、相手の根拠の論駁のみを行う論客も現れている。
上で示したUFOの論争は単純なので、間違っていることがよくわかるが、
このような論客は実際には様々なテクニックを使うことで、この批判から逃れている。
男尊女卑がなぜ起こるのかは、生物学的な配偶システムが大きく関わってきます。
動物社会には男尊女卑(オットセイなど)、男女平等(トキなど)、女尊男卑(アンコウなど)のいずれのタイプも存在します。
なぜそうしたいろいろなタイプが生じるのかというと、♂と♀との間に繁殖適齢期までに生き残る数(これを生物学では「第三次性比」という)にあまり差が出ないタイプや大きな違いが生じるタイプの動物があり、少ない側の性に希少価値が生まれるからです。
ではそもそも、性別によって適齢期までに生き残る数に差が生まれるのかというと、少し専門的な話になりますが潜在的繁殖スピードに性差が生じるからです。潜在的繁殖スピードが他方の性より遅いと、出産や育児によって次の繁殖までにかかる時間が長くなり、配偶者獲得の場面であぶれにくくなります。逆に、他方の性は配偶者獲得の場面であぶれやすくなるので、配偶者獲得競争が生じやすくなります。そこで、大きく筋力の強い体を作って同性が繁殖するのを邪魔したり追い払ったりして配偶者を独占しやすくなるのです。しかしながら、大きく強い体を作るのにはそれなりのコストがかかるので、生存率が犠牲になります。
例えば、トラは♂が♀より体重が1.5倍近くあり、テリトリーの広さで♂が♀の3倍ほどありますが、♂と♀とのテリトリーの広さの違いはそのまま生存率の違いによるものです。独立して自分のテリトリーを獲得するときに同性同士で争って死んでしまうことが♂は♀と比べてはるかに多く、♂は♀と比べると壮年期までの生存率が1/3程度になります。つまり、♂の方が体が大きくて力も強く、支配できる土地が♀の3倍ほどもあり、♂のテリトリーには数頭の♀のテリトリーが重なる形になります。このため、生き残った♂一頭当たりの経済的資本と繁殖機会は生き残った♀の3倍ほどもあるということになります。
つまり、生き残って次世代を生み出す年齢帯で♂♀一頭当たりの食糧獲得機会と繁殖機会に格差が生じる動物は、男尊女卑(女尊男卑)タイプといえます。
ライオンなども同様で、繁殖適齢期まで生き残る確率は♀の方が高く、少数の♂が多数の♀を従えるという構造の群れを成します。
オットセイやアシカなどはこの傾向が非常に強く、数頭の♂が数十頭から百頭もの♀を従えるハーレムを作り、配偶者獲得競争に敗れた(不戦敗も含む)十数頭のあぶれ♂がハーレムを奪うか、ボスが狩りに出かけたり睡眠に入った隙を狙って♀と交尾する機会をうかがうためにハーレムの周りを取り巻くという形態が生まれます。
人間はトラやライオンほどではないにしても、♂の方が潜在的繁殖スピードは速く、構造的にやや男尊女卑になりやすいタイプの動物だとは言えます。
また、文化人類学の見地からは、ジョージ・マードックによる無文字社会の研究から、結婚適齢期における男女比(生物学では第三次性比という)が1:1から大きくずれてしまうことが一夫多妻制や一妻多夫制といった複婚制ができる土壌となることを明らかになりました。
ヒトの一夫多妻制社会は、無文字社会では狩猟や戦争などで死亡率において男性の方が高いこと、女性は性成熟した15歳付近で結婚する人が多く、男性は社会的自立を確実なものにした25歳くらいで結婚する人が多く、婚姻年齢に差があるため、15~25歳の年齢帯で男性の死亡率が高いことが多い無文字社会では結婚適齢期の男女人口比で女性の方がはるかに多くなることが原因で形成されるとされています。
ヒトの場合も、第三次性比が偏ることが配偶機会の性差をもたらす点で、他の動物と基本的相違はありません。また、経済資本の争奪戦も異性間より同性間で強くなる傾向があり、これに勝った少数の男性が多数の女性を経済的にも支配し、敗れた多数の男性が排除されることから、経済面でも男女格差と男性間格差が顕著になる点も他の生物と同様です。
そして、富や繁殖機会の偏在は狩猟社会より農耕社会の方が顕著になりやすいです。こうして富や繁殖機会をより多く占めた男性が権力をふるうようになり、男尊女卑社会が形成されるのです。
また、文明化の恩恵によって男性の死亡率が下がり、結婚適齢期の男女人口比が1:1に近くなって性別による経済的利得と繁殖機会の不平等をもたらす生物学的基盤が失われても、一夫多妻型婚姻制度や男尊女卑が文化社会制度として強く根付いてしまうと、なかなか解消されずに継続されてしまうことが多くなります。
6月25日に投開票日が迫る静岡県知事選の増田レポート第4弾。
前回の記事で、このたびの静岡県知事選が消極的与野党全面対決の構図となったことは書いた。
おさらいすると、民進党系の現職川勝知事をおろしたい自民県連。だが前の知事選で圧倒的ボロ負けしたことで誰も自民党公認で出馬してくれる候補が見つからず、公示前に独自候補を出さないことを決定する実質不戦敗宣言。「川勝だけは応援しない」とだけ決めて、無所属で出馬表明していた溝口紀子を勝手連で支援することに。一方、毎回知事選に独自候補を立てていた共産党は、自民党が溝口を支援し始めたのを見て、「国政と歩調を合わせたほうがいい」と判断。独自候補を辞めて民進の川勝を応援することを決める。こうして、あまり表に出てこない民進党も含めて、消極的な与野党全面対決の一騎打ちの構図が出来上がった。
この静岡県知事選に、小池百合子東京都知事が参戦することになった。民進党が応援する川勝平太の応援として。本日の大雨の中、民進・細野豪志議員の地元三島市で、選挙カーの上で細野、川勝、小池のスリーショットが並ぶ。小池都知事と川勝県知事のつながりは何か。小池は東京五輪での開催自治体首長会合での縁と話す。負担金で揉めた会合のことである。あの会合では埼玉、千葉、神奈川の県知事ばかりが目立ったが静岡県知事もいたのだ。しかし小池が応援演説に入った実際のところは、細野豪志による依頼によるものだろう。民進党での細野の盟友だった長島昭久は都民ファーストとの連携を水面下でしている。そのつながりで小池の演説が実現したのだろう。
小池都知事の川勝応援は、静岡県内メディアでも大きく伝えられた。相手の溝口や応援する自民陣営も衝撃だったことだろう。
これにより、今回の静岡県知事選が東京都議選の前哨戦的位置づけにもなった。
森友・加計・共謀罪採決によって失われた自民党の支持率は、どれだけ投票行動に影響しているかを図る物差しになる。
情勢は現職川勝がリード。これは最初から分かっていたことだ。負け戦を覚悟しているからこそ自民は溝口紀子を公式に支持も推薦もしていない。本来はあまり国政とは関係ないと思われた。しかし小池都知事が入ってきたことで、地味な田舎の選挙は、国政、東京の色がついてくる。溝口紀子は自民党の候補に様変わりしたのだ。
溝口紀子が知事選に勝利すれば、森友・加計・共謀罪は何ら選挙に影響しなかったということ。都議選も自民が第一党として勝利するだろう。
ただ現職が有利なのは変わらないので注目するのは、自民が応援する溝口がどれだけ川勝に肉薄できるかという点だろう。特に無党派層がどれだけ溝口に投票するかで、森友・加計・共謀罪採決がどれだけ影響を与えたか知ることができる。その結果は都議選にも当てはめられる。
https://anond.hatelabo.jp/20170502150217
静岡県知事選情勢分析その2~「三つ巴で面白くなる」と書いた途端に自民が棄権
https://anond.hatelabo.jp/20170502185435
静岡県民以外は(静岡県民でも)知らない人が多いだろうけど10日後の6月25日に静岡県知事選がある。全国メディアや東京キー局は共謀罪や森・加計W学園問題や都知事選に夢中で、静岡の田舎のことなんて完全スルーしているけれども、実は今回の静岡県知事選では国政と同じ構図で与野党対決となっている。ただし消極的な。
おさらいとして、過去2回の与野党対決となった県知事選について解説。現職の川勝平太知事は2009年に民主・社民ら当時の野党の推薦で選挙を戦い自公推薦候補をやぶって当選した。この時の知事選は政権交代直前の与野党対決の地方選で、総選挙の結果を占う選挙として全国的に注目されていた。その後、2013年に2回目の選挙。当時は安倍自民が政権復帰したばかりで民主党支持率は一桁。民主党の支援を受ける現職・川勝には絶対不利な選挙のはずだったが、1期目の評判が以外と悪くなく県経済界の支援を全面に受け且つ自民県連が出してきた候補があまりにしょぼかったため、アベノミクス全盛期だったにも関わらず民主支援の川勝が過去最高の得票数で勝利した。
そして今回の3期目をかけた選挙。前回の選挙で「選挙に強い」イメージをつけた現職・川勝に対して自民県連は早々に公認の対立候補を出すことを諦めて不戦敗を表明した。そんな中、無所属候補の溝口紀子が「川勝の人柄が知事に相応しくない」と出馬表明。自民県連は今回の県知事選の方針を「川勝を応援しない自主投票」とだけ定めたことで、自民の各市町村支部は次々と溝口紀子支援を表明した(一部は個人の立場で川勝応援に回る地方議員もいた)。
一方で、今までの知事選で毎回独自候補を立てて川勝と戦ってきた共産党の静岡支部。今回の知事選では国政の構図に合わせて、自民が支援する溝口紀子と対決する現職・川勝を支持する方針を取り決めた。
民進党は民進党で、川勝平太を支援はするが、公認はせずという立場で、自分たちが全国的に人気ないことを理解した上で民進党の名前を前面に出すことはしない。
ということで、今回の静岡県知事選は、
V S
ここ1年の県内メディアでは知事の言動批判が定期的に行われているので、単に現職有利とはならないだろう。
静岡県は大きく4地域に分けられるが、イギリスの選挙みたいに地域によって、現職支持と新人支持の色合いがくっきり分かれそう。
関連:
https://anond.hatelabo.jp/20170502150217
3DSを正統進化させた「純然たる携帯ゲーム機」だと、失速してる据え置き機(WiiU)分野をPS4に不戦敗で明け渡すことになってしまって今後の挽回が難しくなる
だからどうにかして据え置き機としての体裁も取り繕わねばならず、そのために「WiiUを越える性能」を求めた結果、携帯ゲーム機としてもかなり巨大なサイズになってしまった(それでいて競合の据え置き機には性能的には及ばない)
メーカーが主体的に選んだ仕様ではなく、八方塞がりな状況であれもこれもと盛り込もうとして全てが中途半端になってしまった、といった感じがする
「据え置き機と携帯機の融合」ってのは単なるおためごかしに過ぎず、実態は「据え置き機の失敗のフォローを携帯機に押し付けただけ」
同様の例としては皆無。それはそうで、負けても対局料が手に入るのにそれをみすみす捨てる馬鹿はいない。
ただ、寝坊やスケジュール管理のミスといった過失による対局放棄はある。
近年の例で言うと、2010年に郷田真隆九段(現・王将、タイトル通算6期の超一流棋士。9月に公開対局での二歩で話題になった)が寝坊で竜王戦の予選を不戦敗になった。
この際の郷田に対する処分は1.対局料の不払い、2.竜王戦参稼手当100万円の半額を返納、3.ファンへの奉仕活動1日 だった。
類似の例としては、日本将棋連盟の分裂寸前にまで至った「陣屋事件」というのがある。
1952年2月に行われたタイトル戦の王将戦第6局で、挑戦者の升田幸三八段が会場となった神奈川県弦巻温泉の旅館「陣屋」に到着したが、「玄関のベルを押したが誰も出てこなかった」ことに腹を立てた、と言って対局を拒否、第6局が不開催になったということがある(ただし当時陣屋の玄関にベルはついておらず、これは枡田の虚言。これをきっかけに陣屋は、玄関に呼び出しのための陣太鼓を置くようになって、陣屋名物となっている。また升田は陣屋に向かわず秦野温泉の別の旅館に籠って対局を促しに来た関係者にも会っているので、過失ではなく明確な故意による対局拒否)。
事の真相は明らかになってないが、将棋界の間ではまず間違いなく以下の理由だったと言われている。
王将戦は当時から現在に至るまで七番勝負で四勝先取したほうが勝ちというシステムだが、この当時はどちらかが四勝以上してもさらに継続する、というシステムだった。そして決着がついた後の対局は、シリーズに勝ったほうが負けた方に対して自分の駒(香車)を落とすハンデをつけて指すことになっていた。このシリーズは第5局までに升田が木村義雄名人に4勝1敗で勝利を決めており、この第6局は升田が木村に対して香車を落とすことになっていた。
名人というタイトルの重みは現在でも特別だが、この当時はそれにも増して大きいものだった。単に将棋界最強というだけではない、ある種の宗教的な権威があるものと言っていい。その名人が、対戦相手に香車を落としてもらうなどということは、名人の品格を著しく傷つけるもので、いかにルールとはいえ誰も見たくない(この感覚は、羽生善治がコンピュータ将棋に角を落としてもらって対局する、という場面を想像してもらえばいいかと思う。対局に関係ない第三者でさえ屈辱を感じるというようなものだ)。もちろん王将戦が始まる前、この事態は当然予想されていて、香車を落とすことに強く反対していたのが升田、一方で「名人が第7局を迎える前にシリーズに負けることはない」と言ったのが当の木村義雄名人で、木村の一声で沙汰止みになってしまった(昔から今に至るまで、将棋界というのは将棋の強い側の声が通るのだ。そして当の本人がこのようにその報いを受けてしまう)。升田は「将棋を守る」ために、バレバレの嘘をついて対局を拒否したのだろう、と思われている。
真意はさておき、タイトル戦を故意にすっぽかしたことには変わりないからこれは一大事で、当初将棋連盟は升田を一年間の出場停止処分にしようとした。これは現代の目から見ても重さとしては妥当だと思う。ただ、日本将棋連盟は関東と関西の将棋指しの団体が合一してできたという経緯があり、東西の対立まではいかずとも派閥意識というのは当時強かった。関西の棋士である升田への処分に対しては関西の棋士たちが反発し、すわ東西分裂か?という事態になった。最終的には木村名人の一存に委ねられ、升田は一切お咎めなし、という結末になった。
と思うのは、自分が広島在住であることと無関係ではないだろう。
ここは、日本のバスケ界が抱え続けた爆弾の、言わば爆心地なのかもしれないからだ。
ご存知の方も多いかもしれない。リーグ分裂時代の広島では、ドラゴンフライズとライトニング、
新リーグのチームを改めて見てみると、東京にやたらチームが集まっていて、
これでやっていけるのか心配になるレベルだが、広島の規模では2チームが生き残るのも難しい。
結局、県のバスケ協会はドラゴンフライズを支援する一方、ライトニングへの支援は拒否。
チームの戦績や経営基盤は、外から見る限りどっちもボロボロだったと思うのだが、
政治的な何かでも働いたのだろうか。
とにかく、この時点で、広島に残るのはドラゴンフライズに決まったことになる。
一応、試合の結果だけは新聞にも載るのだが、表記は「広島」のみ。
忘れた頃に記事になることもあるドラゴンフライズに対し、ライトニングはラの字も出ず、
チーム自体も1勝51敗と負け続け、広島のチームのはずがやたら山口県での開催が増え、
しまいには試合の開催すらできずに不戦敗になるなど迷走を続けた。
結局、シーズン終了と同時に活動を停止し、以後の行方は不明である。
果たしてこの不毛な戦いは、広島にいったい何を残したのだろうか。
残ったドラゴンフライズも新リーグでは2部スタートで、プレシーズンマッチでは島根に負けた。
五輪やカープ優勝、サンフレッチェに比べれば、これでも妥当なのかもしれない。
ただでさえバスケ自体に興味がないのに、こういう話ばかり聞かされて、いい加減うんざりなのだ。
今すぐリーグごと消えてくれて構わない。
http://megalodon.jp/2016-0104-0050-09/tm2501.hatenablog.com/entry/2016/01/03/235931
・いいのかなと思っても、当日に、自分自身の宣言に、あるいは他人の誘いから降りちゃいけない
・周りからのプレッシャーに押しつぶされそうなことは、絶対に「ゴール」だけはした方がいい。
・もしかしたら多くを望まずに「ゴールすることだけ」を考えた方が成功するかも。あれもこれも詰め込んだり、高い目標を掲げすぎて自滅するぐらいだったらとにかく完走することを目指すのも1つの選択かもしれない…。
さすがにここまで言って2016年度中に青二才が途中でメルマガやめたら全力でバカにされちゃうし言い訳のしようもないから最低でも1年は続くよね誰か報告よろしく。
しかしメルマガのゴールが期間内の目標達成以外に何があるんだ三ヶ月連載したらゴールとかなんか決まってんのかそれとも考えなしに書いたのかおしえてnekora。
前提条件:「小用を足しているとき隣に人が来ると落ち着かない。ただし万人がそうであるとは限らない」「位置取りの最適については、自分だけを考察の対象としない」
状 況:誰も居ない便所で、右が入り口、上が壁、左が窓として奥から「○○○□」と便器が並んでいる。□は障害者用の手すりが設けてあり少し用を足しにくい。
考 察:一定の割合で人が来るとして、この場合最適の位置取りとはどこか?……これを、我が職場における実践と観察を素材に考察してみた。
A「1○○□」:(1が一人目として自分が入った場所である。)この位置取りの優れた点は、次の自分と同じような入場者にも「1○2□」or「1○○2」と二通りの選択を用意している点である。つまり「優しいポジション」といえる。しかしながら、逆に言えば選択の余地がある時点で弱い。次に入った人間がベストのポジションを取るとは限らないからである。この点は後で考察する。
B□」又は「○○1□」:これは一見等価なポジションだが、相手に残す選択肢が「○」か「□」かの点で大きく異なる。相手に「□」しか残さないのは、感心しない。従って、左は考察対象としない。右は、左右が広く空いて非常にフリーな感じであり、また、相手にAのポジションを与える点でとてもよく見える。「バランス型ポジション」として多くの利用者に用いられているポジションであり(便器の汚れからからそれは想像がつく)、私も愛用者であった。しかしながら、後述するようにこのポジションには大きな欠点があり、それが、そもそも私がこのような考察を始めた理由にもなっている。
C「○○○1」:自分に不利を強いるという意味では「自己犠牲のポジション」と言える。もし、第二段階以降で他者が素晴らしいポジション取りができるならオススメできるが、一方で自分が出るまで誰も来ず、結局無駄な自己犠牲に終わる危険性もある。やはり、初手を与えられた利点は生かすべきだという考え方は十分ありである。
A-1「1○2□」:これは、Aからの理想的な展開である。一見、自分が奥においやられて2が偉そうに中央を陣取ってるかのように見えるが、「3」が来た時点でその印象は覆る。多くの場合、この状態で入った「3」は、奥で二人に挟まれるポジションよりは、多少使いにくくても、入って直ぐのポジションを選択し、「1○23」という状況が発生しやすいからである。つまり、混雑した時間帯にも強いのが最大の利点である。
A-2「1○○2」:これは、Aを採用した場合のリスクである。2がシャイな場合、あるいは最大限気を遣った場合、この状況になりがちなのだが、この状況は、次に来た利用者を大変迷わせる。結果として、「13○2」となる可能性は半々よりやや大きい(理由として、手前の2をスルーして奥にきた段階で3にとって2の存在感が大きいためということが挙げられる)。だが、この状況は、単に「隣り合わせた」以上のBADシチュエーションである。なぜなら、3が来た段階で1である自分はほぼ用を足し終わっており、3が隣に位置しておもむろにファスナーをおろす頃に席を離れるため、「一方的にチンコ見られ状態」に陥りやすいからである。いわば不戦敗であり大変不公平な感じである。Aがよいポジションであるにも関わらず、軽々にこれを取れないのは、このA-2リスクがあるためである。状況によりこのリスクをどの程度に見積もるかが、ポジション取りにおいては大変重要な点だ。
A-3「12○□」:こんな状況あるのか?と思われるかもしれないが、実際にあったからとしか言いようがない。世の中には、デリカシーとは無縁な、あるいは単に「奥から詰めるのがルールなのか」とか、無駄に空気を読んでくだらない行動をする輩が一定数いるものなのである。確かに、依然として片側は空いているのだから、心理的圧迫は最悪状況(「312□」)に比べればいくらかマシではあるものの、窓際に追い詰められた後がない圧迫感はなかなかクルものがある。これに比べれば、まだしも「○○21」の方が、出口側がフリーなだけ心理的負担は少ない。
以上を踏まえると、Aは危険もあるが、いきなり一番奥とかねーわ!というイメージの割には、バランスも良く展開もよい、悪くない初手である。
B-1「2○1□」:Bを取った時の基本状況であり、理想型である。体験的に6割はこの状況にもちこめる。だが、言い換えれば「6割しかもちこめない」でもある。また、6割でこの理想型状態に持ち込んでも、次の一手で確実に隣が埋まる、というところが、このバランス型の欠点である。次の3人目は、自分の隣のどちから以外に入る場所が無く、A-1型に大きく劣るのである。
B-2「○21□」:B-1に次いで起こりやすいのがこの状況である。体感では3割はこの形になる。理由としては、奥に押し込められる危険、また、「どうせ片側に人が来るんなら、平等に分かち合おうぜ」という変な平等感などが挙げられる。オレも我慢するからお前も我慢しろよ、というヤツである。また、この形になると、自分が去った後の形が最初に考察から外した「最低の初手」の状況になるのも感心しない。立つ鳥後を濁す形で、後々尾を引く敗戦と等しい引き分けと言えるだろう。
B-3「○○12」:またまたこんな状況あるのか?だが、2のポジションが入り口に近いということを考えると、余裕なく飛び込んできた2がいる場合には十分考慮しなくてはいけない陣形なのである。ただ、これは見た目ほど悪い状況ではない。余裕無く飛び込んできた2に対しては、隣とは言え心理的に優位な状況に立ち得るし、また3がやってきても隣にくる可能性が低い(人間というのは奇妙なもので、さすがにこの状況で「○312」と並ぼうとする人は余りいないのである。「あ、奥空いてるやん」と気付いた時点で、一番奥=一番空いてる=気付いたオレ賢い!となって、距離の不利を気にせず奥へ突っ走ることが多いのである。)
以上を踏まえると、Bはバランス型を標榜する割には危険も多く素人向けでない初手であると言える。相当に状況を読んだ上でないと使うべきではない。
C-1「2○○1」:Cを取った場合に一番多いのがこの形である。この形になると、1と2は、お互いに「使いにくさ」「距離の遠さ」という不利を分け合った形になり、妙な紳士的連帯感が発生する。しかも、物理的距離があるので、その連帯感が妙な感情へと結びつく可能性も低いのである。また、A-2の丁度逆で、3が来たとき「23○1」という状況になるケースが、半々よりやや大きいのもメリットである。そんなメリットだらけなら、もうC一択でいいんじゃね?と思われるかもしれないが、そこはそれ、障害者用手すりがついていると、ガードが甘くなり、やはりなかなか使いにくいものなのである。
C-2「○2○1」:これもA-1と同じく、理想的な状況と言える。弱点が見当たらない。ただ、自分が最高であるこのポジションは、同時に、「最悪の初手」を残す形でもある。折角Cという自己犠牲的ポジションを選びながら、残すのは最悪の初手…というのは、自己矛盾であり、なんのために犠牲をはらったのか分からない。
C-3「○○21」:「ハッキリ言うけどお前○○だろう」と言いたくなるのがこの状況である。デリカシーなどという言葉では説明できない。A-3ではこのポジションを「いくらかマシ」と書いたが、それは逃げ場があるからという消極的な理由であって、障害者用手すりによるガード値低下は、間近に迫られた時にときとして致命的なダメージに結びつく。頼むからこの形にならないで欲しいと祈る状況である。ただし、この後の展開を考えればおそらく「3○21」であり、自分が去った後、2が去った後に残る形は悪くない。
以上を考察すると、Cは自己犠牲を払いすぎるか払ったのに意味がないという展開に陥りがちで、自己満足の初手だと言える。
以上の考察から、現在のところ私は我が職場ではもっぱら人の多い時にA、人の少ない時にCを採用しているのだが、さらに4手目、5手目への変化を考えると、まだまだ多様な展開が考えられるのであり、これはあくまで現時点の仮説に過ぎず、実践と検証は引き続き行われていることをお断りしておく。
先日、中学の同級生と酒を飲んだ。選挙だなっつって話題に出した。『そうなの!?』って言われた。『多分行かねー』とのことだ。
『どこを選んでも一緒じゃん』この一言がなぜ出てくるのか、どこで間違っているのかを考えてみた。
それぞれがどのような政策を実現しようとしているのか、その政策は誰にどれくらいの割合で恩恵をもたらすのか、その政策の実現可能性はいくらか、生じうるリスクはなにか、
その政党にとっての優先順位はどのくらいか、これらが全くと言っていいほどつかめない。
特に、社会全体で相対的に貧困で生活にゆとりのない若者世代にとっては、「どの政党を選べば自分の生活がよくなるのか」が全く分からない。
政党間の対立構造は結局のところ茶番なのに、だ。僕たち若者の生活は自民党でも民主党でも良くなりはしない。今後訪れる日本の不況の原因は少子高齢化である。それを生み出しているのは世代間格差である。
しかし、再選目的の政治家(=全ての政治家)たちは、結局のところ、今この瞬間の投票率が高い老人からの投票を頼みに票集めをする。実現する政策も結局、ジジイ共に便宜を図ることを目的にしている。貧乏なジジイか、金持ちのジジイか、その違いだけだ。
そもそも政治家の目的は再選である。ついで政策実現だ。彼らは自分が選挙に受かるために「評価される政治活動」を実施する。そのことを伝えない。日本の政治をよくするために、なんてことを平気で伝える。大間違いだ。政治家は再選の報酬として、支持者層への利益誘導を図る。投資と配当である。自分の持っている属性を細かく自覚し最も便宜を図ってくれる政治家を選ぶこと、権力を持った政治家のステークホルダーとして自分の存在を意味づけること。これが選挙の本質だ。政策の正しさなんて糞食らえだ。
若者が選挙に行かないのは、選挙を選ぶことだと思っているからだ。普通選挙法を治安維持法実現のための飴玉としてしか教えない糞教師がいるからだ。自らが所属するコミューンの投票率を上げることが選挙の目的だなんて考えちゃいない。選挙は、権利ではなくて権力闘争なんだ。投票に行かない=不戦敗っていう事実をきちんと伝えるべきなんだ。
長くなった、まとめる。
選挙は権力闘争だ。ぶくぶくに太った貴族ジジイどもから権力を引っぺがすために僕たちは選挙に行く。
ただ個人的には、世代間格差是正を存立目的に掲げる政党が出てきてくれたら、そう願ってやまない。『若者に便宜はからいまくります!ジジイなんて知ったことか!』『お前らは孫に全て押し付けて豪遊して死ぬつもりか!』そうやって、誰かが高らかに叫んでくれるだけで、僕らはどれほど救われるだろうか。
クラスタとかヒエラルキーじゃなく、世代間で権力闘争しようぜ。
以上。長文しつれいしました。
ここ数日中島義道と加藤諦三の本をまとめて何冊か読んでいたのであるが、読んでから自分自身かわったのかな?と実感しているところが3つある。
1つは相手の興味関心があるところへ、または相手が話をもっていこうとしているところへ自分も合わせて乗っていくやり方である。
これをやると何が違ってくるかというと、会話中自分の話したいことは全然話せないし、仮に今の話題(文脈レベル、文節レベル、単語レベルetc.で)に興味があったとしても次の話題になれば、今度はそちらに合わせなければならないということ。今自分が言おうと思ったことに固執するのではなく、それを気にするのでもない。面倒に思うのではなく、つまらないとイジけるのでもない。それよりも相手のペースを見つけること、つかむこと、そしてそのペースを乱さないことを心がける。つまり話の腰を折らないことを大事にした。
もしかするとこれを迎合と思われるかもしれない。でもちょっと違うと思う。なぜなら、やっていると気づくのだが、これが案外楽しいから。気負わず心地よい時間に感じたりもするから。これは元々迎合体質であった僕の率直な感想である。
本を読んでからというもの、僕にはこの態度が身についていた。身についていた、と言うのは自分からそうなろうと思ったわけではなく、勝手にそのように振る舞うようになっていたからである。本の影響であることにも違いない。
以前であれば、自分の興味のあるところでしか会話のキャッチボールをする意図がなかった。でもいつも自分の都合(好きなテーマ)で会話を推し進める訳にはいかないらしい。会話とは例えるとキャッチボールであり、相手が投げてきたボールはしっかりとキャッチしないといけないらしい。しかもちゃんと相手の胸元に投げ返さないといけないらしい。そしてこの「胸元に」というのがどうやらとてつもなく重要なキーワードであることに気づいた。
キャッチボールの基本は、相手の胸元にボールを投げ返すこと。いきなり遠投をしてはならない。それをすると肩(相手との関係・距離感)を壊してしまうから。キャッチボールをしたことがある人にとって基本中の基本であり、というかそれ以前に当然のことでもある。でもその「ボール」が「会話」となった途端、そんな当然のことにも全く気がつかなくなるから不思議だ。
キャッチボールでは、いきなり遠投(パーソナルな話題、自己開示メッセージetc.)をしてはならない。先程の肩を壊すからという理由に加え、相手がそのボールを取りに行ってくれなければそこで会話は終わってしまうから(遠投すればボールは遠くの方へ飛んでいってしまう。そのためキャッチボールの相手はそれを走って取りに行く必要がある)。身勝手な遠投を続けると、当然、相手からの反応はどんどん薄くなっていくだろう(相手はボールを取りに走らされる。その分だけ疲れるだろうから。もうこんな人とキャッチボールはしたくないと思うだろうから)。
自分の肩の強さ(例えばトーク力)をアピールしても、それが暴投(自己満足)になれば、相手にとっては迷惑なだけである。基本は、相手の胸元にきちんとボールを投げ返すこと。それをずっと続けて、少しずつ投げる距離を伸ばしていく。これが肩をならす(相手との距離を縮める)ということ。遠投をするようになっても相手の胸元を目掛けて投げることにかわりはないだろう。要するに、この話は実践面から言って「胸元に」を意識するというただそれだけのことだった。
お互い軽い会話もないまま、いきなりパーソナルな話題に突入してしまうことは危険かもしれない。これは早急に仲よくなろうとする人、すぐに告白したがる人、簡単に信用を得ようとする人にとって陥りやすい罠かもしれない。
試合前の練習では必ずキャッチボールから始める。いきなり試合を始める人はいない。でもそれが会話になると、それを当たり前に思っている人がいる。キャッチボール(2人の会話)もまともにできないのに試合(3人以上の会話)をして、当然負けるのだが、そのことに不満をもってしまう。試合に負けて自分は嫌われたかもしれないと不安に思う。そして徐々に試合をしなくなる。不戦敗を続ける。終いに野球(人間関係)をやめる。
僕はこれまでこの例え通りのコミュニケーションをしてきたようである。自分が興味のある話、つまり自分の胸元に来たボールしかキャッチしようとしなかった。だからといって自分からボールを投げる時は相手の胸元に投げ返すことなど全く意識したことがなかった。
そんなわけだから、この前の自分はいつもと会話の仕方が違っていて、あとあと考えると上記したようなことを無意識に気づいていたからかもしれないと思った。相手の胸元に投げる、そして投げ返されたボールはちゃんとキャッチする。そんな当たり前とも言える行為は思いのほか楽しかった。
2つ目は、無理に笑顔を作らないこと。笑う門には福来たるだから、いつもニコニコしていることは大事かもしれない。でもこれをやってても自分がちっとも楽しくない。ニコニコしていれば自然と嬉しい気持ちになるということは科学的にも正しいと、どこかで話を読んだような気もする。でもそれは嘘だと思った。
ニコニコ仮面をつけて本当の自分(本当の自分=情動:感情よりもう一段階深いレベルの何か存在的なものをここで想像する)を隠し続けるのは、人間関係を見かけ上うまく円滑に回すには役立つ。しかしそれでは本当にわかりあえたことにはならない。わかりあえない関係だから、それはつまり友達のようでいて友達ではない。具体的には、いざというとき(窮地を救うため相手が報われない犠牲を大いに払わなければならないとき)に助けてくれる友人が一人もいない状況になる。それにニコニコ仮面は疲れる。疲れるからあんまり人と関わりをもちたいと思わなくなる。これは自然な感情である。僕としては、顔がひきつってしまう自分が嫌だったから、まわりのニコニコ仮面の人たちを見ていて信頼できなかったから、自分はこの仮面を外したいと思った。(あっ、なんかこう今はニコニコ動画というのがあって、あれは動画にもよるけど、けっこう辛辣なコメントが書いてあったり、もうどうしようもないくらいの罵詈雑言が飛び交っていたりする。ニコニコ動画なのに。なんとなく現実もこれと同じかもしれないと思った)
そもそもなぜ僕はニコニコ仮面をつけるに至ったか。それはそのほうが得だからである。表面上誰からも嫌われない。安全に生きることができる。ニコニコ仮面はときどき空回る。ニコニコ仮面はときどき顔がひきつる。ニコニコ仮面は実はまわりの人を嫌っている。まわりの人が信用できない。だから社会的に評価が高いとされているニコニコという名の仮面をつけるに至った。仮面の下にある表情は増悪にみちているかもしれない。たまに素でニコニコした表情の人がいるかもしれない。その人は自然であるから、いつもニコニコはしていない。いつもニコニコするのは不自然である。そしてこれが仮面の特長である。
というわけで、なぜか突然、仮面を外したい気持ちになった。ニコニコ仮面を外せば、今までの自分が、表面上ではあるが、積み重ねた評価が一気になくなるように思った。だけどこれは幻想だと自分に言い聞かせた。
やったこと自体はすごくシンプルである。いつもニコニコすることをやめた。会話しているときも面白いと感じられたところだけ笑うようにしていた。誘い笑いもできるだけしないように気をつけていた。ばつが悪くても笑ってごまかさないようにしていた。とにかく、できるだけ笑うことを控えようとしていた。
結果、人との会話の中で、久しぶりに心から笑いあったような実感があった。ニコニコ仮面同士ではなく、どちらかというと素の会話ができるようになっていたんだと思う。とても面白かったのはニコニコ仮面をしていたよりも少ない会話数で、感情はより大きく動かされていたこと。共感するってこういうことか…それが懐かしかった。
3つ目は、沈黙を恐れないこと。沈黙の時間が続くのが怖い。自分がこう思うとき沈黙の意味は、つまり相手にとってあなた(自分)との会話がつまらないからであり、あなたとは気が合わないかもしれないということである。みんなから好かれたい自分とって、これは、これだけは何とか阻止しなければならない。つまり沈黙は一切つくってはならない。僕は必要以上に沈黙を恐れていた。友達との会話であれば、話が途切れないよう、いつも次の話題のことも考えながら話していた。
それくらいに沈黙を恐れていたのであるが、ある時、ふっと沈黙があってもいいと考えている自分がいた。そしてそれを素直に実行している自分がいた。そこで気づいたのは、沈黙がある種絶妙なスパイスのような働きをしていて、会話の本当の旨味成分を引き出してくれているのではないかということだった。
そういう沈黙があってもいいということを、ふと思わせてくれた(中島、加藤の)本だったと今にして思う。人に嫌われることを恐れるのは現実を逃避している証拠であるように感じられた。たぶん絶対何かしらの点では人から嫌われているんだろうなぁ、と素直に納得できた。自分もそうだが、いくら尊敬している人に会っても、いくつか欠点のようなものは必ず露出してくるだろう。それを見たときに感じる何かがあるはずである。嫌悪感や失望感もそうだろう。それを見てみぬふりをするのは簡単で、相手を信じようとする気持ちと言えば尊い感じがするけど、それがせいで人嫌いになったのではあまりに残念だと思った。
相手の100%を好きだと感じられ、それは将来においても変わらないだろうという考えは、例え確信があっても嘘だと思う。そんな友達は死んでもできない(と、僕は思っている)。一番自然なのは好きなところ50%嫌いなところ50%の配分だろう。そう言っても他人のことなんてよくわからない。そもそも表面上の意識で考えようとしてわかることは限られているのかもしれない。根っこにはもっと大きくて広い世界(無意識)があると思う。
もしかすると自分が「嫌いな人」に感じる成分配合は→好きなところ49%嫌いなところ51%、「好きな人」→好きなところ51%、嫌いなところ49%と、ほんとにそれくらいの違いしかわかっていないのかもしれない。それくらいのことで好き嫌いを分類しているのかもしれない。
これまでの僕は人の(自分のことも含めて)新しい一面を見ることを恐れていた。自分が誰かに失望してしまうことが怖かった。それが尊敬している人なら特に。そういうわけだから、ある程度仲良くなると自分から人を避けるようなことをしてしまっていた。よく初対面の人の方がむしろ円滑にコミュニケーションを取れると言っている人がいるが、まさにその状態だった。だがそれ(好きな人に対して失望を感じてしまうこと)はもう人付き合いをするうえでどうしても避けられないようである。だったらこの失望といかにしてうまく付き合っていくか。そもそも付き合っていくとすれば相手の(失望の)存在を認めるところから始めなければならないだろう。
これまで人を嫌ってはいけないという考え、信念(毒薬?)に頭をもっていかれていたように思う。今では人を嫌うことは自然な感情のように思う。むしろみんなのことが嫌いでもいい。嫌いだけど好きなときもある。そう思って暮らしていると自分も人から嫌われているんだなぁという、それも当たり前の現実が見えてきた。好きな人や尊敬している人からも、である。お互い様だったんだ。そう思うだけで気持ちは楽になった。仲がいいっていうのは、相手の嫌いなところはいっぱい知ってるけどそれと同じくらい好きなところもいっぱいあるし、自分もそうやって見られていることを素直に諦めたような関係だと思う。