はてなキーワード: プレッシャーとは
やる気なくてもやれよって思うんだけど、それでもやらない。
やったにしてもギリギリまで手を付けないし、結果やっつけ。
やるべきことはわかっているのに、やらない。
はてブの記事やマンガ読んだりゲームをして日々を浪費してしまう。
昔はこんなんではなかった。
同期がやめて張り合いがなくなったから?上司に放置されて叱られなくなったから?
やらないことでどんどん信頼を失っていることもわかっているのに、それでもやれない。
鬱病か?と病気のせいにしたくもなるけど、これで病気なら精神的にもっとヤバい事はもっとあった。
食欲もあるしよく眠れるし。むしろずっと眠っていたい。ベッドにずっといたい。
あと数日で30歳になる。
急に劇的にやる気が起こるわけなんてないとわかっている、やる気なんて起こす前にやるしかないのだ。
明日からじゃなくて今日から、そう思っても結局今日も無益に終わっていく。
目的に向かって真摯に着実に行動して、周りの人も前向きに巻き込んでいけるような大人になりたかった。
それどころか、今じゃ自分を前向きにすることすらできない。
「仕事は言われる前に探せ」
「仕事を言われたことだけやっているうちは半人前」
良く聞く台詞だけど、クソ食らえだよ。
まともな指示も出来ねえ、管理も出来ねえ、仕事の指示を適切に出せないから、自分でやれと来た。
良いんだぜ?Aが2時間、Bが3時間、Cが3時間だから、トータル8時間、これにDを残業2時間でやって欲しいってくるならよ。
管理職の連中は違う。
Aを2時間でやれ、Cはオマエの仕事だからやれ、Bも新しく仕事が入った。Dもやれ。Eも。Fも。
「AとBとCをやってるんで、今いきなりEふられても出来ないです。」
「オマエの仕事だろEもFも。出来ないじゃなくて、やり方考えろよ」
そう言う仕事の振り方が多すぎる。
クソだよ。オマエは何を管理してんだよ。
プレッシャーかければ出来ると思ってる、仕事は振ればよいと思ってる。
時間を見積もって何時までに出来るか教えてクレでもなければ、この仕事は何時までにやって欲しいから、今やってるAとBは優先度下げて良いとか無い。
部下の仕事の把握も管理も出来てねえ。日報だの週報だので報告はさせるくせに、先週までのことを何も覚えてない。
そうやってどんどん部下を使い潰してく。仕事だけはあがるから評価は出るんだろうな。そして、成功体験で同じ事を繰り返す。
せっかくなら職場に監視カメラつけて監視してくれよ。残業してたら上司の評価落として残業代引いてくれ。
結局下っ端が一番割食うんだよ。
「Cやってんの?E先にやって欲しいから、Cふったヤツにはオレ調整しとくよ。調整終わったら連絡するからEやってくれな」
こういうヤリカタしてくれ。調整までふってんじゃねえよ。中間管理職という名の単なるガキの使いが多すぎる。
勘弁してくれ。
オレには合わない嫌いな上司が居たが、その一点だけは尊敬してた。自分の仕事を部下にさせてるときは、横入りさせなかった。
仕事の量は把握されてたし、その上司の考えるパフォーマンスが出なけりゃ詰問されてた。
その代わり、その上司の考えるパフォーマンスを越えた部分は、納期だの質だのを調整してた。
アレが管理職だ。
http://anond.hatelabo.jp/20140825213841
以前、このエントリーを書いた。
休んで病院に、というコメントが多く、それを読むだけでも力になった。
心療内科を調べるまではやったが、結局行く気力がなく、行けずじまいになったが・・。
そののち、心を痛める原因の一つになっていた炎上案件が無事収束。
まず行われたことは、コストカット。何のコストかというと、人である。
仕事を手伝ってくれていた人も、その中のひとりになってしまった。
ある程度数字も気にしないといけない役職なので、会社を立ち直らせるには必要なことだとは思う。
が、感情はそうではない。
しょうがない、でもやっぱり、の繰り返し。
一時期は、同僚に「表情が怖い」と言われるくらい、どうにかなっていた。自分では普通の表情をしていたつもりだったのに。
まず、布団を変えてアリが来るのを阻止。来たアリを片っ端から駆除(ごめんなさい)
部屋も掃除した。
数ヶ月行ってなかった美容室に行って、髪を切った。床に落ちた髪を見て、美容師さんに「二人分ぐらいできましたねw」と言われた。
爪噛みの癖もおさまった。形もキレイになってきた。
環境が変わったから、というのが一番大きかったのか、それともプレッシャーから開放されたのか。
人が多くいた時は、自分は手は動かさず、どちらかというと依頼する立場にあった。
よく、「自分がやった方が早い病」にならないように、人に依頼するという記事を見かけるが、まさに
それを実践していた。
ただ、根っからの技術職である自分には、それが合わなかったのかもしれない。
自分自身の手を動かす場合は、どんなことがあっても自分の頭のなかで考えられるからそれほど動じない。
ただ、人に依頼をしている時は、順調に行っている時はかなり楽だが、トラブルや想定外のことが
あった際、こちらの希望通りに動いてくれるとは限らない。向こうには向こうの都合があるのだから。
それが、かなりストレスになっていたといってもいいだろう。
お客さんの願いを叶えてあげたい、自分が動けばすぐできる(技術的に、というよりは、スケジュール調整などで)、
交渉ベタ、依頼ベタだとは思う。そういった職種に向いていないとも思う。
会社として必要な能力は、そういった調整能力だとは思うのだが、自分が技術職なぶん、
クライアントにこう言われたら嫌だろうな、と思うことはなるべく言いたくない。
恐ろしく子だくさんも家庭も居れば、主義として子供を作らない家庭もある。
それぞれの時代に、勿論色んな主義の人はいるが、社会的に「1つの正解」がプレッシャーとなると、大抵の場合それに従う。
つまりだ。特殊な人が10%いて、うまくいかない人が10%いて、残りの80%の人間が、「社会的な正解」に従うとすると、
例えば、「父が働き母が家事をし、子供は3〜5人で、男子一生の仕事として滅多なことでは職を変えず土地を離れず」とすれば、
本来そうしたくはなかった人達をも巻き込んで、それが世の中の主流になる。
女性が働いても良いし、子供は貧困には晒したくはないし、個人の自由は尊重されるし、社会的な「押しつけ」はますます減る。
先進国が人権を尊重し、個人個人の価値観を尊重するのだから当然だが、「XXまでに結婚しなければ」と言う押しつけは減る。
つまりだ。特殊な人が10%いて、うまくいかない人が10%いて、残りの80%の人間が、それぞれの人生を生きはじめる。
当然だ。元々そうしたくなかった人達に、自由が与えられたんだから。
効能だと言っても良い。「子供を産む義務がある」と強要されない権利だからだ。
65歳で強制的に安楽死させて、次世代にその分のリソース(資金や労働力)を回しても、
「65歳で死ぬなら、自由に生きよう」と思う人が増えるだけだ。
本気でどうにかしたいなら、3人兄弟や5人兄弟を普通にするしかないが、
親が子に尽くし、子が親を支える社会は、もうやってこない。
「虫垂だの農家の四男坊なんてのはやたらに切っちまっていいもんじゃないだろう」とブラックジャックは勘当息子の回で言っていたが、
この時点で、息子達は田舎を出てひとりは東京、ひとりは大阪、ひとりは福岡と、還暦の祝いにも姿を見せない。
農家の4人の兄弟達は、同じく4人ずつ兄弟を家庭に迎え入れただろうか。東京や大阪や福岡で、できるだろうか。
たぶん、地方税たる固定資産税を全て国が召し上げて、土地の買い取りと都市への移住推進、
新規建築マンションの、父母兄弟4人の6人家族以上向け物件のみの建築許可のような、
人権を触らない形で、国民に事実上強要する政策が無ければ、無理ではないだろうか。
そしてそれすらきっとライフスタイルの強制として非難の的になり、先進国でその批判は正しい。
たぶん、あと30年もすれば自然に(限界集落が消滅集落となったように)都市は集積化し、地方は老人と趣味人だけになる。
訳もなく悲しい。テレビで笑っている人が浅はかに感じる。仕事で”何でこうしたか経緯だけ聞かせて?”と聞かれるだけで涙ぐんでしまう。目の奥がジンと痛いような頭痛が続き、鉛を背負っているように体はだるい。大好きな曲も色あせて聞こえる。食欲だけは旺盛で、鬱屈した気持ちをどうにかしようと食べる、食べる、食べる。
深夜残業をして家に帰れど1人。部屋は散らかっている。美しくも、可愛げもない、貧弱な体をした二十代半ばの女。恋人もいない。出来合いのお惣菜を食べながら、わたしはこのまま生きている意味があるかと考える。かといって死ぬ勇気もない。昔全身麻酔をかけたことがあるのだけど、あの時のような眠るように意識が飛んで、起きたら不安要素の一つもない素晴らしい世界にワープしていないかと考える。誰も直に私を傷つけているわけではないのに、只々つらい。消えてなくなりたくなる。ベットに入るが寝つきは悪く、新聞配達のバイクの音が遠くに聞こえ、焦りが余計眠気を飛ばしてしまう。寝不足のまま体にムチをうち、仕事に出かける。
そうこうして暮らしているうちに、下腹部の痛みが続き、もしかして…と思うと生理がやってくる。これがわたしのPMSである。毎月ある期間になると、この世の終わりぐらい落ち込むことがあって、生理が始まるといつもの能天気なわたしに戻る。使うかどうか未定の子宮のサイクルに、否応なしに巻き込まれるのは余りに理不尽である。
また生理が始まれば、いつもの私に戻れるのか。毎月”今回こそこの鬱を乗り越えられないかもしれない…”と絶望的になりながらも、生理になるとケロっと忘れてしまうんだけど、(生理が始まらない)今とてもそうは思えない。
かといって、男性は楽だとも思えない。何十年も定年まで働かなければならないプレッシャーや、実力社会、生理がない分強い性欲のコントロール…根性なしの私では太刀打ちできなさそう。
http://ja.virtual-religion.org/
そうだねそうだねと同意しながら読み進めて、「感情表現は、前向きなものにします」が出てきたところでうんざりしてしまった。
自分でも、否定的な事ばかり言ってる人には近づきたくないと思う。
他人に気を使うべきだ。だから否定的なことは言ってはいけない。
この主張は正しい。それは解ってる。
でもどうしても、どうしても、愚痴くらい言わせろよ。という気持ちになる。
前に息を吐いただけで「ため息をすると幸せが逃げる」といちいち言ってきた人がいた。
ため息に聞こえたんだろうし、不快だったんだろう。気を付けなければならない。
でもその人の前でため息ひとつつく事ができない状況は、全く気が休まらなかった。
頑張らないといけない、前向きにしてないといけない。
それと同じく、思ったことを思った通りに表現できないというのも、自分にとっては結構辛い。
映画が面白くなかった。でもどこかではそれを「面白い」と感じる人がいるんだから、面白くないと発言するのは良くない!
日本語を駆使して「玄人向けの独特な映画で、見る人を選ぶry」とか言うのが正しいんだろうけど、
言うたびに「つまらん」で済むのになーという気持ちが強くなる。
見た事もない誰かが傷つかないように?
そう考えると、もうその程度で傷つく人はいいよ、去って行ってくれる?に行き着いてしまう。
相手を傷つけないようにと嘘をつくからだ。
その嘘は責められる嘘ではないだろう。でも面と向かって肯定的な事を言っていたのに、後から別ルートで「本当はあの時否定したかった」とわかることは結構ある。
ようするに八方美人。
自分の意見を持っていて、それをちゃんと出す人なら、必ずどこかで自分の意見と食い違い、否定される事が出てくるはずである。
延々肯定的なことばかり言われると「この人どこかで気持ちをごまかしてるな?」と疑心暗鬼になる。
というか、こっちは別にいやだと思って無かった事が「実はいやだった」とか後から言われるのはダメージ大きいのでほんとやめてください、言ってくれたらやめたのに、なんで早く言わなかったの?
前向きなことしか言わない人は信用できない。
前向きなことしか言わない人の反対は、後ろ向きな事も言う人?
後ろ向きな事も言う人は信用できる。だとまたちょっとニュアンス違う気がするんだよね。
否定的な意見も含めて本音を話してくれる人は信用できる。だと近い気がするけど、それ以外の人を信用しないわけではない。
否定もするよ、生きてりゃ
あれさ、マジで止めて欲しいんだけど。
特にさ、労働問題で、適当なこと言うの止めて欲しいんだよね。末端に負荷がかかるだけなんだよ。
国として、本気でブラック企業を減らしたいなら、社員10人以上の会社に、情報開示を義務付けるだけでよい。手始めに、上場会社だけでも有報に記載させればよい。
すべて実績ベースで、3年後離職率、平均年間休日数、平均有休消化率、休職者数、労災認定された人数と内容、在職中の死亡数(労災関係なし)、あたりが重要だ。
(中略)
情報が開示されると、週刊誌がこぞってランキング表にして発表するので、下位にプレッシャーがかかり、自浄作用が働く。これは確実に起きるストーリーである。
もちろん、ブラック企業側、経営サイドは、こうした都合の悪い情報は、開示したくない。さらに、厚労省は、自分のところに予算がつかない、権限も行使できないこうした政策を、やりたがらない。お役所任せでは何も変わらない。政治のリーダーシップでやるしかない。予算はいらない。法案を通せばよいだけだ。
ブラック企業をゼロコストで減らす方法 渡邉正裕 公式ブログ:MyNewsJapan
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.mynewsjapan.com/blog/masa/221/show
もうさ、たぶんバカだと思うんだよね。
学校のイジメ数を報告させた結果、全国からイジメの補足数は低くなってるけどさ、そりゃそうだろ。
低い方が良いに決まってる。そういうプレッシャーのかけ方するんだからよ。
3年以内離職をさせない、在籍したままにさせる。
自分の有休を使って、自分の終わってない仕事するんだから当然だろ?ってな。
終わってない仕事をするんだから、休日出勤とは違うよな?ってな。
(サービス残業は、残業をして残業代を貰うことを指すわけではなく、残業代無しで残業していることを思いだそう)
休職者はさせずに自己都合退職にさせるよ、労災?絶対認めないよ。
労災関係無い在職中の死亡数?個人情報だろそんなもん。そんな法案通んねえよ。
あんだけガツガツ叩かれてる外食産業だとか、コンビニ正社員だとか、どうなってると思ってんだよ。
法規制がかかればかかっただけ、その作業をするのは末端の人間だよ。
有給消化数をトップが把握するために、担当役員→総務部長→各部署→ヒラと降りてきて仕事が増えるんだよ。
しかも、とってもいない有休を取ったことにして、バレたら「下が勝手にやった。処分する」とか言うんだよ。
もう散々見ただろ。まだやりたりねえのかよ。
ホワイト目指してて、有給消化率を上げろって言うと、担当役員は知らずに課長レベルで無茶するし、
もうなにもするな。フツーにブラック企業名指しで叩くだけで良いからよ。
内部通報者がガツガツ企業側にバラされて不利益被ってるのみてて、まだなんか公権力に期待してんのか。
ワンオペ外食には行かないようにしようキャンペーンとか張って裁判沙汰になれよ。それぐらい腹くくってくれよ。
企業名出さないのは裁判リスク取りたくないからだろ?んなことないというなら、社名名指しで署名記事でガッツリやってくれよ。
昨今では忌み嫌われる長文で、たいして面白くもない内容なので誰も読まないだろうが、それでいい。
軽く自己紹介。精神科病棟で働きはじめて一年になろうとしている。看護助手の契約社員。今年で21歳になった。
一浪して合格した、世間的には難関と認識されている、都内の有名私立大学()を半年で退学して、今の職場に入った。高卒資格なしで将来食っていけるか不安なので、不況でも食いっぱぐれないと聞く、看護師を目指そうと今は考えている。それ以前はコンビニのアルバイトと日雇いの倉庫作業くらいしかしたことがなかった。退学した理由はくだらない。授業に出席せず、単位取得における必須出席率(三分の二)に満たなかったので、留年がほぼ確定していたからである。受験当初から志望校などなく、勉強もさほどせず、たまたま合格した大学にとりあえず入ったという塩梅で、絶対に卒業しなければならないという意志もなかった。中流家庭で経済的には比較的恵まれていたので、仮に努力さえすれば(一般的な大学生にとってはそれは努力ではなく普通のことなのだろうが)一留したとしても卒業はできたはずである。まったく親不孝な息子である。
わたしが働いているのは比較的症状が安定した患者が療養する慢性期病棟である。患者の平均年齢は65歳くらいで、ほぼ全員が統合失調症の患者である。平均入院年数は約15年である。医学的知識に乏しいので統合失調症とは何かといった説明はしないが、約100人に1が罹患するとされている疾患である。自分の身近に統合失調症を患った者がいても珍しいことではない。事実、わたしの身内にも罹患者がいる。距離的に頻繁に会うことはできず、ほとんど疎遠であるが自分と年齢が近いこともあり気にかけている。
慢性期の開放病棟とは言え、当然ながらそれは院内における開放という意味であって、自由に院外に出られるという意味ではない。あたりまえのことだ。また患者各々の処遇によって、院内開放の認められる患者とそうでないものがいる。前者は全体の三割ほどだろうか。それ以外の患者は看護師同伴での外出の外は、ほぼ365日病棟内で過ごすことになる。彼らの生活は異常なほどに規則正しいものになっている。規定の時間に起床を促され、看護スタッフの監視(長年にわたる薬の服用がもとで嚥下に問題がある患者が多く、誤嚥で窒息する恐れがあるため)のもと朝食を済ませ、その日が入浴日であれば風呂に入るよう半ば強引(彼らは清潔観念が乏しく風呂嫌いが多い)に促され、昼食を食べ、自主参加ではあるが作業療法に参加し、夕食を済ませる。食後は各々に処方された抗精神病薬を服用し、就寝前には看護用語でVDSと呼ばれる就寝前薬を服用し消灯、就寝となる。もちろん彼ら全員がすんなりと眠ってくれるわけではないので、必要に応じて追加薬として眠剤をさらに服用させる。それでも睡眠ゼロ時間で朝をむかえる患者もいるが。
規則正しい生活が健康を保つ秘訣であるとは言われるが、物事がすべて規則的に進む環境に長く置かれれば、精神的に健康な人間でも何らかの精神症状を示すようになるのじゃないかと思う。何事も適度にやることが大切である。仮に自分が彼ら患者と同じ生活をしてみるとなれば、1ヶ月も耐え切れないのではないか。
普通の人から見れば異常な規則的生活を強いられているばかりでなく、彼らはプライベート空間を与えられていない。病室は4人1部屋の総室であり、ベッドにはカーテンが備え付けられはいるが、必要とあればスタッフが遠慮無く開けるのでプライバシーの確保としては機能しない。唯一例外として挙げられるとすれば個室トイレであるが、それでも外側から簡単に鍵を開けられる。もちろん理由はある。ここは精神科である。患者を1人にするのはリスクが伴う。その最悪のリスクが患者が病棟内で自殺するというケースだ。自殺するのに銃もロープも包丁も必要ない。タオルやシーツ1枚で十分である。首を吊る必要もなく頸動脈を絞めれば尻をついた体勢でも逝ける。患者に希死念慮の疑いがあれば、保護室と呼ばれる個室で隔離し、常時モニターで観察する。必要であれば拘束帯で手足、体幹を拘束する。それは仕方のないことであると個人的にも思う。そのようなことがあれば直ぐに訴訟になり、病院だけでなく医師、看護師、資格を有していない看護助手も裁判にかけられるのである。人間が外部との接触なく常に1人きりで長時間過ごすことに耐えられないのは、拘置所などにおけるSolitary Confinementが精神に及ぼす悪影響を鑑みれば明らかであるが、それでも生活の中に1人の時間を設けることは精神の安定にとって非常に重要なことである。
一日の中で病棟が最も活気にあふれるのは3時のおやつの時間である。患者は小学生の小遣いほどの小銭を握りしめて、病院に併設された売店へと向かう。わたしも幼少時代、同じように手汗にまみれた小銭を握りしめ駄菓子屋へ足を運んだ記憶があるが、自分より2回り以上年齢を重ねた彼らが喜びと興奮の面持ちで売店に赴くのである。もちろん離院されては困るのでスタッフ同伴である。なかには1時間も2時間も前から「○○さん、おかし」とこちらが辟易とするほど頻回に訪ねてくる患者もいる。そのたびに「△△さん、時計見てください。今何時ですか?3時まで待ってくださいね」と説明する。しかし時間を把握することができないのか、理解に乏しいのか、その後にわたって同じやりとりが何度となく繰り返される。そしておやつの時間が近づくと、患者は詰所(ナースステーション)に詰めかけて「かいもの、かいもの」の大合唱がはじまる。入社して形式的な研修を終え、病棟で働きはじめた初日、その光景を目の当たりにし、「これはなにごとか、いったい今から何が始まるんだ」と誇張なしで思ったものである。一度に売店へ連れていけるいけるのは、多くて5名である。それに対して2名の看護スタッフが同伴する。離院のリスクが高い患者はマン・ツー・マンで対応しなければならないので、業務の都合上、最後に後回しにしざるをえない。この対応に納得のいかない患者は時としてもの凄い険相でこちらを睨みつけたりもするが、申し訳ないが待って頂く。いざ売店へとたどり着くと、患者は菓子の並ぶ棚を物色し、各々お気に入りの菓子や飲み物(十中八九コーラである)を買うのだが、彼らの選択肢はさほど多くはない。金銭的な問題もあるが、誤嚥のリスクが高い菓子類(特にパンや、硬いもの)は遠慮してもらう。病棟へ戻り、スタッフの目の届く範囲のテーブルで購入した菓子を食べるのだが、彼らの食べる、飲むの早さは尋常ではない。これは食事においても同じである。コーラを飲み干す早さは、ハイキングウォーキングのQちゃんにも引けをとらないだろう。
余談だがこの病棟にはデイルームに自動販売機が1つ設置されているのだが、患者が選ぶのは常にコーラである。コーラの横に並ぶ水やお茶などを患者が買う場面を見た試しがない。聞くところによるとこの傾向はこの病棟(病院)に特異なものではないらしい。特にかくコーラの消費量が半端ではないのである。1日になんども業者がコーラの補充に来る。仮に1日のコーラ販売数が最も多い自販機であったとしても驚かないだろう。
ここで少しOT活動(作業療法)について触れておきたい。その内容ではなく病院経営の観点から見た作業療法である。わたしは不勉強で参加者1人あたりの診療報酬がいくらで、具体的に自分の働いてる病棟で月あたりどれほどの利益が出ているのかといったデータは知らないのだが、現状でも結構な額の利益を稼ぎだしているようなのである。しかしそれ自体はなんら問題ではない。病院も利益を出さないかぎり存続が危ぶまれるわけであり、それは結果として直接的に患者の不利益になるので致し方無いだろう。しかし病院経営者としては、さらなる診療報酬の増収を求めて参加者の今まで以上に増やすことを病棟にプレッシャーをかけてくる。だが経営的観点からのみ作業療法を考えるのは、本末転倒であり、本来の作業療法の意義を見失いやしないだろうか。普段活動意欲の乏しい患者たちの他者と交流する機会の場を提供したり、同じことの繰り返しである日常に些細でも刺激や楽しみを見出させ、活動意欲の向上を目指す。わたしは作業療法士ではないので専門的な知識はないが、研修のとき作業療法士からそのような目的を聞かされた記憶がある。作業療法は任意参加である。もちろん参加したほうが治療的には望ましいことは間違いないが、患者自身が活動に対して主体的にならなければ効果は期待できない。仮に活動に参加しない患者には売店へ行かせない等のやり方で、強制的に参加を促したところで継続しないのは明らかで、それ以前に患者自身の金でおかしを買わせないとなると人権侵害である。ある患者は「おもしろくないから、わたしはいいよ」と参加を断り続けている。確かにプログラムがマンネリ化していることは否めない。病院の作業療法士が仕事に対して不真面目であるからではない。みな限られた予算のなかで真面目に患者のことを思い必死でやっている。要は作業療法で得た診療報酬はどこに還元されているのかという話なのである。言うまでもなく、参加をしぶっている患者に対して毎日声掛けしている現場スタッフには還元されない。それは別にいい。しかしOT部門への予算を増やす、給料面で還元するなど多少はできないのだろうかと常々感じている。慢性期病棟でほとんどの患者は退院が見込めないため、患者を金づるにし作業療法による診療報酬で利益を出そうとう考えなのだろうか。これは完全なる愚痴である。
わたしは今まで目的も夢もなく堕落的に生きてきたので、それゆえか「生きがい」だとか「なぜ人は生きなければいけないのか」といった面と向かって口にするのは恥ずかしい問題だが、漠然と考えてきた。
いままでは、どちらかと言えば普遍的な命題として考えていたのだが、統合失調症を身内に持つものとして、同じ疾患の患者と毎日のように接触を持ち、「彼らに生きがい、あるいは生きる目的があるとすれば、それはなにか」といった具体的な疑問に変遷していった。
ある患者に病棟での生活で一番楽しいことはなんですか、と尋ねたところ「(部屋の窓から)道をみること」という答えが返ってきた。わたしから見れば、そんな些細なことが彼女にとって一番楽しいことなのである。別の患者は「婚約者と結婚して二人で暮らすこと」だと言う。彼には婚約者もいなければ彼女もいない。すべて妄想なのである。しかし誰が「あなたの言ってることは妄想によるものですよ」などと否定できるだろうか。このような閉鎖的な環境で長年生きていれば、自分で虚構の世界をつくりあげてそれにすがって生きていくしかないのではないかと個人的には思う。
精神疾患に対して偏見を持っている者は多くいるだろう。わたし自身も実際に今の職場で働き始めるまで偏見を持っていただろうし、今も偏見はあるだろう。偏見というものは概して無意識のうちに身体に染み付いているものであって、「わたしは○○に対して偏見はありません」などと平気で言う人々は疑ってかかったほうがいい。自分のなかに偏見があることを自覚し、それを少しでも減らしいくことしか我々にはできない。ちなみに今までこの文章は、一つの精神病院にたった一年しか勤めていない人間が書いたものなので多分にいろいろなバイアスがかかっていることだろう。
(追記)
ここで、わたしは実際のところ統合失調症の患者です、つい先日退院しました、と書けば結構な釣りになるのだろうが、残念ながらそうではない。
上記の文章を読まれたかたは、鬱屈した患者たちの姿を想像されるかもしれない。彼ら患者たちは、閉鎖的な環境で長期間に渡る入院生活を余儀なくされている。憐れむべき現実だろう。病棟に飾られた造花の紅葉では秋の匂いを感じさせてはくれない。夏が過ぎ去った後の秋風の涼しさを感じることもできない。しかし患者たちの表情は思いのほか明るく柔和である。無論、ついさっきまでニコニコとしていた患者が、いまにも殴りかからんばかりの表情に急変することは多々あるのだが。概して、彼らは彼らなりに現在の環境に適応し、楽しみを見つけながら生活している。
彼らは退院することなく死ぬまで病院で過ごすことになるのだろうか。慢性期病棟に長期間入院する患者の退院が難しいことは言うまでもない。特に高齢者となると退院後の受け入れ先が限られてくる。また患者自身が退院したいという意欲に乏しいという場合もある。それもそうだろう。入院生活が十数年にも及ぶとなると、社会復帰をためらうのも無理もない。病棟の五十代のある患者は精神症状もほとんど見られず、一見して彼が精神障害者であるとは思えない。人当たりの良いハゲのおじさんといった風貌である。精神保健福祉士が先頭に立って、退院実現を図ろうと粘り強く退院促進をすすめている。退院後は病院のデイケアを利用してもらう計画である。それでも普段多弁である彼は、退院という言葉を聞くとそっぽを向いて耳を貸さない。
『ショーシャンクの空に』という映画がある。有名な映画なので観たことのある人も多いだろう。そのなかでモーガン・フリーマン演ずる囚人レッドがこんなことを言う。
「あの塀を見てみろ。はじめは憎らしく見えるだろうが、しだいにそれに慣れ、しまいには依存するようになる」
わたしは退院をしぶる彼を見て、長期入院している精神科の患者も似たような心境の変遷をたどるのかもしれないと考えることがある。ホームレスと違い、入院していれば働かなくとも毎日腹を満たすことができる。そのかわり自由は制限されるが、ときとして自由は重荷にもなりうるのである。しかし彼は年齢的にまだ中年であり、やりたいことも多々あるだろう。彼が恐怖心を断ち切り、入院生活に終止符を打つことを願っている。ダメだったら戻ってくればいいいのである。
精神科で働いてわかったことは、統合失調症という人格は存在しないという当たり前の事実である。彼らには統合失調症という共通項があるにしても、性格も精神症状も皆異なる。それがこの疾患のおもしろいところと言うと語弊があるかもしれない。しかし患者と日々接するのは、うんざりするどころか楽しいのである。たまに患者にヤクザ口調で怒声を浴びたり、軽く殴られたりもするが、病気のせいだと考えれば、それも仕事だと思える。頓服薬を服用して落ち着いた患者は、自ら「さっきはごめん」と謝ってくる。わたしは「べつに気にしないでいい」と答えるだけである。
最後に、ある六十代の患者さんは「葬式ないよね?」と頻回にスタッフに尋ねる。彼女が「姉さん」と呼んでいる妹さんが死ぬという妄想があるようで、妹の葬式はないかと確認しているのである。とりわけ、わたしに対して尋ねてくる。恐らくはわたしが坊主頭で、彼女に坊さんと呼ばれているからであろう。わたしが実際に坊さんではないことは理解している様で、ある時冗談で、「○○さん(彼女)が死んだら、葬式は僕に任せて下さいね」と言うと、彼女は笑った。ブラックジョークを理解するだけのユーモア精神のある患者さんである。
私は異性・同性を問わず誰かを愛したことがありません。恋に落ちて有頂天になるということがどんなことなのか分からないのです。
私は来年で四十歳を迎えるのですが、恋人というものが居た試しはありません。
そして、それについては孤独感よりもむしろ解放感を抱いているところがあります。
独りぼっちで何がいけないんだろう、私がそれで満足しているのならいいんじゃないか、と。
両親にこの話をしても通じないので、「なかなかこれといった女性に出会えない」と言ってかわしています。
世間では恋愛というものを美しいものとして語ります。人と人とが恋し合うことが当たり前のことのように喧伝されます。
それは私のような人間にとって酷く苦痛です。まるで恋愛をしていない人間は人間ではないと言わんばかりの風潮を感じます。
そんな風潮から逃れたい、そっとしておいて欲しい人間も居るということを忘れないで欲しいのです。
そもそもこの「恋愛を理解出来ない」という感情は子供の頃からあったように思います。中学校の修学旅行で
お決まりの「誰が好き?」という話になったのですが、私は適当な名前を挙げて誤魔化しました。
人は必ず恋愛しなくてはならないんだ、という思い込みはその当時は根強く残っていたので
名前を挙げたその女の子のことを好きになろうと努めました。しかし、結局片思い(?)のままで終わってしまいました。
以来、私の意識の中から「恋をしなくてはならない」という無言のプレッシャーを感じるようになりました。
他人を愛することが出来ない自分は人間として欠陥品なのではないかと思ったこともあります。
もっとはっきり言えば、人間としてどこかが壊れているということです。
それが、「別に恋愛なんてしなくても生きていけるんだ」と思うようになったのはつい最近のことです。
大雑把な言い方になるので間違いがあれば指摘していただければ有難いのですが、恋愛はもともとは宮廷の遊戯として始まったと聞きます。
それが大衆化したのが二百年ほど前。しかもその概念を日本でも知られるようになったのは明治時代。百年ほどしか経っていません。
これを知ってから、別に「恋愛」という概念が自明のものではないのだな、と思うようになりました。それは一種の救済でした。
これは非モテとかそういうのとは別の問題です。恋愛をするチャンスを虎視眈々と狙っているのが非モテだと思うのですが
私はそういうものを特に狙っていないのです。ひとりで居るということに解放感を感じているというのは前に書きました。
何が正しいのか、この方向に進んでも大丈夫なのか
そんなことばかり考えてしまうが
やりたいことですら
今はただ何もしたくない。
世の中は欺瞞に満ちていて、
でもそんなの分かりきっていて
時々すべてに嫌気が差す。
人との距離を間違えてしまいがちなので
依存する相手を探そうとするのはやめようと思うのだけれど
それでも寂しいときはどうしようもなく辛い。
自分は未婚男ですが、数回お見合いしています。どれも失敗しました。
その敗因は主に相性の問題だったけど、もう一つ仲人のプレッシャー問題という大きな問題も背景にありました。
見合いをしてみると、とにかく間に入ってくれる人がせっかち。
早く決めろと連日の連絡。
ゆっくり話をしながら進めたいというが、とにかく急げ、早くしろ、と興奮気味。
これに参ってしまい、もう少しじっくり付き合いたいという当人たちの希望より、
これを味わってしまうと、そのお見合いがまとまらなかった後は、
もうお見合いすること自体、こりごりだという気分になりました。
仲介を自ら買って出るような人たちは、いい意味でおせっかいなタイプの人が多いと思いますが、
こういう人たちは、大概せっかちです。そして申し訳ないけど、自分の手柄欲みたいなものが強いです。
早く自分の親切の結果が見たいという気持ちを、会話の中にありありと感じます。
昭和の中ごろまでの、昔のお見合いは本人たちにあまり拒否権はなかったかもしれません。
即日決定なんてこともあったでしょう。
僕はお見合い自体は全く抵抗がないのですが、仲介してくれる人にアレルギーがあります。
周囲の考え方や仲人のあり方を見直さないと、お見合い結婚を増やそうという良い試みも失敗してしまいそうで、もったいないと思います。
○昼食:なし(厳密にはガムを食べた)
○夕食:トマトオクラ山芋サラダ。マヨツナ。玄米おじや(具は鮭とシグレ)。カマンベールチーズ。サツマイモふかしたの。
○調子
祖母の家でご飯を食べて少し回復。
どうでもいいけど、処女喪失からケツが痛くていたくてしょうがない。
病院?
○ポケカ
ジムバトルに参加。
今日は大会初参加の方が多く、逆に負けるわけにはいかないというプレッシャーが強かったです(笑)
○一戦目:初心者の方の鋼デッキ。相手のポケモン事故で二ターン目で終わり。初心者の人に申し訳ないが、その後色々質問に答えたりして仲良くできたので結果オーライかな。
○二戦目:初心者の方の構築済みHMC。実質、ティーチング的な感じでした。実は今日はディアルガEXが多くいるだろうと予測してメタってきたので問題なく勝利。
○三戦目:常連さんのゲンガーEX軸超デッキ。申し訳ないが、相性差で勝利。コレばっかりはポケカの宿命だなあ。
その後、フリーで常連さんの「ライボルトEX谷ミュウ」と対戦。
シャドーサークルを谷で上書きからの、フラダリからの、メガライボルトEXが止められず敗北。
それでもまだ、本編並みに冷え切った関係じゃない。
多分オイラよりもずっと悩み苦しんでたと思う。
そんな兄が公務員になって何年か経つ。
正直言ってドラマ「聖女」の中村兄弟のようになってたかもしれない。
長幼の序って言うのかな。
兄よりもいい所行ったり成功したりするとバランスが悪いって昔から言われてた。
でもあの兄弟は弟の現役東大法学部合格に加えて在学中の司法試験突破という天才ぶりを発揮したせいか
彼のお兄さんに集まってた期待が全部なくなって弟の方に向かったのが英邁な兄を堕落の道に進ませたんだろう。
そう考えると、オイラは巧いことアホの振りをしてたから、兄とは在学中も院生時代もとりあえず仲良かったので、
兄を立てたのが大きかったのかなとしみじみ感じてる。
オイラは次男坊だから、親の期待とかも特に無かったし、一念発起しようとも思わなかった。
総合職は兄に譲ってやった。
ていうか、オイラの頭や学歴じゃ総合職は無理なんだけどね(苦笑)。
何にしても兄を立てる弟というのも中々良いんじゃないかしらね。
兄弟仲を保ってた方が都合も良いし、少なくとも中村兄弟のような、金八先生に登場する兼末兄弟みたいになってしまったら
絶対取り返し付かなくなると思う。
と、思うことが常々ある。
サービス業の企業で正社員をしているが、「お客様のため」で大抵いろんなことが許されてしまう。
例を挙げてみる。
・上司「〆切近づいてきたからとりあえず投げるね。納期は三週間後ね。よろしく」
私「え、これいつもは少なくとも一ヶ月かかる仕事ですし、間にお盆挟みますから実質二週間ですよね」
上司「えー?でもお客様に関わるものだから〆切は絶対。お盆休みあるしなんとかなるでしょ」
・上司「お客様が一番来る時期!対応は大事!ということで10連勤よろぴく」
私「えっ・・・・しかもこの日22時あがりで次の日7時なんですけど・・・・」
上司「あ、ほんとだー。でもまーあれでしょ、みんな忙しいし」
私「」
先輩「あ、じゃあ次の月に繰り越しちゃいなよー。それでどんどん繰り越しして、繁忙期じゃない時期に二週間くらい休みなよ☆」
私(そんな時期ねえ)
基本的に「オキャクサマガー」でなんでも通ってしまうので、私が10連勤しようが、お盆休み潰されようが、
本社の思いつきで休みを潰されようが、皆お客様という大義名分のもとでなくなってしまう。
どんなにしんどくても「お客様がお待ちだよ?まさか来てくれたのに穴開けるの?」という無言のプレッシャーから休めない。
最初はやりたくて始めた仕事だけれど、そろそろ仕事の無茶ぶりとオキャクサマガーに辟易してしまって、
辞めることも検討している。
しかしこのご時世、正社員という立場はとてもとてもとても貴重なものなので、こんなことで辞めたくない気持ちもある。
だけど、このままでいたら、いつか死ぬ気がする。だから辞めたい。でも辞められない。
世間の皆様はこういう無茶な仕事とか無茶な上司とかとどのように付き合っているのでしょうか。
あるいはこの会社を見限るべきなんでしょうか。
非モテのまま20代を終えそうになった増田(会社員/31歳厄年/女)が、焦ってオンラインデーティングサイトに登録したところたまたま1歳上の彼氏と出会い
平和的に付き合い2年ほど経って今に至ります。中距離恋愛&休みが合わず、デートは1~2回/月。普段はLINEでやりとり。
最近「理想の将来の自分の姿」を考えてみる機会が増え、特にプライベートを考えたときに
(2) 穏やかに暮らせる配偶者が欲しい
(3) 子供は必須ではない(が、タイムリミットに間に合うなら産んでみたい)
という結論に達し、「彼氏となら楽しく穏やかに暮らせるだろうから結婚したいなー」「親も安心するだろうしな」と思う一方で
もしかすると(1)=(2)で無くても仕方がないかな、ふとと思ってしまったのです。
増田「彼氏のご両親に抜き打ちご挨拶に行こうかしら」彼氏「ガクブル」等冗談のやりとりはあったのですが、先月中旬に
「次回のデートでマジメな話をしたいなー」とLINEで送り、一昨日自宅に泊まりに来た彼氏に「ここ2ヵ月ぐらいで結婚を考えてほしい。2ヵ月後に婚姻届を持って来いとは言わないが
その時点で腹が決まらないのなら別れを考える」と伝えるに至りました。
この人となら穏やかに楽しく老後まで暮らせるだろうから彼氏と結婚したい反面、市場価値の更に落ちた数年後に別れを切り出され、というのもつらいしなー。
彼氏には妥協と計算でどうにか増田で妥結して欲しいけれど、そこまで逃がしたくない魅力は増田にはないよな、と冷静な判断もありつつ。
で、もし別れても増田に新しいご縁があれば、妥協と計算で結婚できそうな気がするし、
でも今の彼氏より気の合う人が見つかるとも思えないし、と自分から別れもプロポーズも切り出せず、中途半端なことになりました。
家に帰りたくないと思うようになっていた。
家に帰って夕飯を作るのが嫌だ。
一人になりたい。
DVや借金がある訳ではないけど、先が見えない夫婦生活に疲れた。
PDCAも回し尽くしたし、何より旦那に生活改善の意欲が無い。
この家の舵取りは私にかかっている。
そんな状況に疲れた。
旦那は「やりたいようにやらせてるのに何の文句があるの?」と、
ゲームをしながらこちらを見ずに言った。
本人は理解ある優しい夫のつもりらしい。
だったら。
生活費は二人で半々ずつ出しているけど、
昼寝している旦那がテーブルを蹴ってコーヒーをこぼされることもなければ
自分が抱える話題の中うちどれが彼の機嫌を損ねないか考える必要も無い。
具合が悪くなったって一人で寝てればいい。
あれだけやめてと言ったFXもまだやっていた。
先日別居を申し出たが、失敗した。
限界が近い気がする。