はてなキーワード: サーブとは
ビールが好きで社会人になってから大分のみ歩いた。休日はブルワリーを巡り、クラフトビールを飲み歩いた。同期、先輩、後輩及び友人とそしてマッチングアプリで引っ掛かってくれた女性と連れたってビアバーに行き、布教しまくった。女性と後輩なら必ず奢った。チェコとドイツに行き本場を味わい、通販で様々な銘柄を買って、記憶の相違を確かめた。変わったところでは米軍基地なんかで飲んだ。オクフェスの殺人的な値段付けを憎んだが、良心的なビアフェスがボランティアだのみなのも怒っていた。全国転勤を利用して海外ビールの飲みやすい名古屋へ越した。休日の過ごし方はとりあえず飲みが中心だった。
最近『ラーメン再遊記』という漫画を読んでいて主人公のいう「昨今はクラフトビール・ブームと言われ多種多様でハイレベルなビールを楽しめる状況になってきているが、シェア的には大手メーカー遠く及ばない。その理由は様々に考えられるが…昔ながらの『風呂上がりの生』を凌ぐビール体験を生み出しえていないということは大きいかもしれん」というセリフにノックアウトされてしまった。思えば、銭湯でサウナに入ったり、ランニングしてシャワーの後で飲むのは大好き。ヨーロッパに至っては時差の関係もあり、ギンギンに目のさえた朝走りまくって昼からの飲みに備えていた。風光明媚な市街地、マイン川のほとり、すべてはビールへの助走である。
薄々気づいてはいた。ドイツでだって汚いグラスに洗浄の行き届かないタップから注がれた温度管理されてない樽のビールはカラオケ屋の金麦よりまずかった。サーブされる環境と受け取り手の体調にめちゃくちゃ左右される。それははっきりと銘柄やビールの種類を選ぶ楽しみのすぐ隣で生中に1000円払ってなお、あんまりうまくなかったなという感想になることがある。
快楽を形作る要素として一番大きいは受け取り方だ。風呂上がり、ランニングの後、残業その他ストレスのすべて(ストレスはすべてアルコールをうまくする。おれは労働を止められる気がしない)の後で飲むことそれがすべてだ。後はちょうどよく冷やすことだ(ヨーロッパでは常温で飲むとかしたり顔で言う奴を無視しろ。ヨーロッパは寒い土地だ)。色んなビールのスタイルにチャレンジして尺度がついてしまったのもある。もう好きな味だけ飲めばいいという気もする。
そもそも発泡酒も新ジャンルも好きだ。酒税に翻弄されてできたレシピであるギネスがビールなら、バーリアルだって文化の味わいだ。
うまいビールは本場にはだけではない、ビアホール、ホームタップだけでもない。どこでもいつでもうまい。すべては心のありようだ。それに気づいた。高いビールに果敢にチャレンジすることは減って行くがビールが嫌いになった訳でもない。ちょうどいい距離を保てそうである。ありがとう『ラーメン再遊記』最高の漫画だぜ。
いまいちだよね。
対戦チームは、ほかのスポーツから転向してきた選手がそのスポーツのテクニックをバレーに活かすとか、異常に身体能力の高いアタッカーいてそいつに全部ボールを集めるチームとか、変則的なチームばかりでそれをいかに攻略するかって展開だけど、決勝のチームは奇策は使わずに王道のバレーをやって強いってやつ。
アイシールドも、たしか全国一をきめる試合は、全部のポジションの能力が高いってチームだったし。
はじめの一歩のリカルドマルチネスも、なにか特徴的な能力があるってわけじゃなくてただの完璧超人だし。
まあそのほうがラスボス感はでるけど、試合が始まると「絶望的な差があるようだけど、主人公チーム、わりと戦えてるじゃん」って肩透かしになる。
これはほんとスゴイ。
卓球をしたのは中学の部活以来だが、すんなりと当時の感覚でサーブ、スマッシュ、ツッツキ、ドライブを打つことができた。
ラバーの性質を好みに変化させることができるので、裏も表も粒高も再現できる。
何より試合モードでも練習モードでも卓球やってて玉を拾い集める手間が一切ないのが最高。手元のトリガーを引けば自動で玉が出てくる。玉打ち放題。
そうそう、練習モードでは卓球マシンも再現されていて、どんな球種でも無限に発射できる。
連携とか必要ないから会話もいらない。軽く手を振ってコミュニケーション取れば後は黙々と試合すればいいだけだから女・子供でも安心安全。日本人ユーザーはマイクオフにしてる人ばかりだから大丈夫。
実際にオンライン対戦してみた。
相手は陽気な英語圏の外国人。実力は大したことない相手だが、こちらのスマッシュが決まるたびに「ナイス!」「グーッド」と声をかけてくれて自分も慣れない英語で相手の好プレーに「ナイース」と返したが陰キャ特有の気持ち悪い声にしかならなかったので拍手のジェスチャーで答えることにし、気持ちよく試合できた。
部屋は広ければ広いほうがいいのは当然。卓球台を置くわけだから。かといって狭い部屋でもプレイはできる。見た感じ多くの日本のプレイヤーは狭い部屋でプレイしている。だからネットぎりぎりの角を狙うと物理的に取れない。お互い様なので問題はない。
自分はラリーが続いたほうが楽しいので相手が物理的に取れなさそうな場所は狙わないようにしている。
ソロでも対戦でもラリーが続くと気持ちが上がりとにかく楽しい。試合が終わる頃には息切れして汗がだくだくになる。手軽でいい運動になる。
レーティング2000超えに挑戦してみると、そこは実力が全然違って、サーブやドライブの回転のかかり方がまるで違い、コースも的確に攻めてくるし、一球一球のスピードが断然速い。このクラスとまともに勝負するには真面目に練習が必要。
とはぶっちゃけ思ってないけど、「コロナ禍ならではだな〜」という構成って記憶に残るなと思ってまとめてみた
だいたいなんでも
相撲も力士同士がぶつかるバチーン!みたいな音が響いて迫力満点
音楽系は観客の反応ありきで考えてたのかなみたいなパフォーマンスも無きにしもあらずでちょっと寂しいときがある
ゲストは自宅から中継!とかよりも通信が安定してて良い、映像もきれい
全く違和感なく馴染む
撮影で作ったぶんはどうなるのかな…というのは少し気になる。シェフが自分で食べてるのかな
料理番組系は工夫を全面に出した構成の番組も多くて楽しい、美味しそうすぎて外食したくなるのが玉に瑕
中断後のエールとか、初期はちらほらあった気がするが
ソーシャルディスタンスを逆手に取って「個室にいる何人かの行動をそれぞれ観察する」みたいな演出とか、すごいアイデア〜!と感動した
こんばんは。ファミレスの店員です。普段はキッチンなのにホールの欠員で久しぶりにホールに入ったら地獄をみたのでここで話します。
今日はお子様がとても多い日でした。近くの幼稚園でイベントがあったんですかね。緊急事態宣言中にもかかわらず、何家族かで来ていたことは置いておいて、まずは入店時の検温とアルコール消毒から地獄を見ました。
当店ではお子様を含め全てのお客様に検温とアルコール消毒をお願いしています。しかし、どうしてもご理解ご協力を得ることができませんでした。
ファミレスにはドリンクバーがあります。もちろん店員もドリンクバーはこまめにアルコール除菌しますが、子供が触るたびに除菌することはできません。ここで科学的にどうかは知らないので安全について議論するつもりはありません。ただ、飲食店にとって安心を守ることは不可欠です。全てのお客様が入店時に検温とアルコール消毒をし、その上でお客様が触れる場所はこまめに拭く、こうしたことでお客様がここなら来てもいいと安心できるようにしているんです。なぜ子供ならしなくてもいいと思っているのか理解不能でした。(こういうこと言うと、私は皮膚が弱いからわかってほしいなんてコメントがつくこともありますが、そういう例外の話はしていませんのであしからず。そういうことを言ってくだされば対処の仕様があるのに、言わない時点でただ店のルールに従わない迷惑な客と一緒です)
席は大人と子供が分かれて座っていました。ここで何が起きるかというと、子供が叫び、騒ぎ、走るわけです。昔喫煙席だった少し隔離されたスペースにご案内したのに、関係ありませんでした。幼稚園生が騒ぐと誘発されてベビーカーの赤ちゃんが泣く。もう地獄です。明らかに他のお客様に迷惑をかけていますし、料理をサーブしてる店員とぶつかっても困るので、声をかけるしかありません。まずは店内を走り回ってるお子さんに声をかけました。「ここはみんながご飯を食べるところだから、走らないで、席に戻れる?」はい、戻れません。次に保護者の方に声をかけます。「他のお客様のご迷惑になりますので、お子様を席に戻すようにお願いいたします」はい、怒られるのは私です。「子供が騒ぐのは当たり前でしょ!」「なんでそんなこと言われなきゃいけないの!」私もなかなか人に怒られるということがなかったもので、恥ずかしながら大きな声で叱責されるとそれ以上何も言えなくなってしまいました。
一度戻り、店長に相談しようと思いました。その途中、他のお客様に声をかけれ、とても悪い予感がしました。案の定「子供たちが走ったり叫ぶのが迷惑だからやめさせてほしい」と言われました。
ここからが本当の地獄です。保護者に何か言っても、言わなくても、どっちを選んでも私は叱責されるわけです。どうすればいいんだろうと思う間にも赤ちゃんの泣き声と幼稚園生の奇声が店内に響き、席の間を駆け抜けています。正直泣きたくなりました。
さて、私はどうすればよかったでしょうか。
結果も書きたかったんですけど飽きてきたのでここまで。皆さんが今日のわたしだったらどうするか、考えてみて欲しいです。本当に。
https://anond.hatelabo.jp/20210130055110
http://anond.hatelabo.jp/20160110142936 |
https://anond.hatelabo.jp/20160131185333
これらを書いて5年が経った。自分はあいかわらず大学教員をやっている。
もっとも、10歳も20歳も年の離れた男性が、同世代の男子学生が及ばないであろう経済力(と女性あしらいの経験値)を背景に、先週告白してきただけの女子学生に手を出すなんて事象は自由恋愛なのだろうか、チート恋愛なんじゃないの、という疑問もなくはないのだが、当職はそのようなトラブルを処理する立場にないので、この疑問はしばらくのそのままとしておきたい。 |
その後、教員組織における管理職として経験を積み、学生-教員間の恋愛・セクハラ系のトラブルに対応する立場になった。
5年前の自分へのアンサーブログとしてここにメモを残しておきたい。
その頻度は、1つ目の記事に書いた数値とそう離れていない。
つまり、30代までの男性教員は、自分が担当する女子学生のうち、0~2%から好意(恋愛感情)を持たれる。「0%~」という下限は、教員本人がその種のことに疎くて気づかないか、教員が持つ心理的安全感が低い(むやみに怒る、清潔感に欠ける、不審なほど暗い等)かであり、大学事務と一般的なコミュニケーションがとれる教員であれば、2%が妥当だ。
そして、40代に入ると2%→0.5%ほどに激減する。
30代まではまだ世代が近いため、冗談やおどけが通じ、親近感を持たれやすいが、40代以降では人間としての重み(または老化)が現れる上、彼女らの父親と年齢が近づくため、恋愛対象から急速に外れることが大きいようである。
次に、男性教員がずいぶん年の離れた女子学生と交際することが自由恋愛なのか、チート恋愛なのかという問いについては、やはり後者であろう、という意見が大勢となりつつある。
学生と教員の両方を管理する立ち位置にある私自身の経験もあるかもしれないが、ここ5年での世間の変化がもっとも大きいように思われる。
上司と部下、業界のカリスマと新規参入者、業務発注者と受注者、部活の指導者と指導を受ける者といった権力勾配のある関係性における性的な行為は、セクハラその他の違法行為として認識されることが多くなった。
その実例は報道されたものだけでも多く思い出されるであろうし、MeTooという世界的な用語もここ5年で登場した。
学生の意思に反して交際を迫ることが言語道断であることは当然のこと、両者の自由意志のように見えても、異性の学生との交際の進展を積極的に拒否しない場合は、教員が権力勾配のアドバンテージを利用したとみなされるようになってきている。
つまり、自分から積極的に迫ったわけではなく学生側がアプローチしてきただけだという言い分は認められなくなってきている。
そこらへんのおっさん・おばさんが親子ほども年の離れた学生から交際を迫られるのはなろう小説の世界だけであり、現実社会でそれが起こるということはやはり何らかのチート(今回は権力勾配)があると考えるのが自然であろう。
(なお、この記事は女子学生→男性教員を中心的に書いているが、自分が見聞きした最悪の教員セクハラは、男性同性愛者である男性教授が好みの男子学生を(おそらく不当に)期末試験不合格とし、口頭試問と称する再試験をその地域の花火大会がある午後に設定し、当該学生を花火大会へ誘った上で自宅へ泊めようとした事案である。非常に悪質と感じたが、自宅へ誘った以外は状況証拠であり、教員本人が同性愛の指向を公的には否定したこともあり、懲戒には至らなかった。周囲の監視の目は厳しくなったが。)
大学教員が年の離れた学生と交際し、時には結婚までする話は、内田某氏が行ったとき(2009年)には著名人たちから無条件に祝福されたが、今ではかなり厳しい視線にさらされるように感じられる。
最初に書いたように、そのような時代変化を経た現在でも「0~2%」は変わっていないため、教員側が積極的に断る力を発揮する必要があるだろう。
大学教員が学生と交際する話がごろごろしており、温かく祝福さえされていた2000年代までを知る立場からすると、時代は変わるものだと思う。
行為中に首を絞められた。正直無理。
「どうして首元を押さえたの」
「だってMでしょ」
私は元々呼吸器系がそんなに丈夫じゃない。
首締めというにはかなりソフトなものだったと思うけど、苦しかったし、快楽など微塵も感じなかった。
お互いを信頼してるからそういう行為に至っていたのに、また同意のない行動に及ぶのではと思うと無理だった。
説明したら「やり直そう。上書きしたい」って言われたけど、やり直すための信用がもう無い。
イギリスかどこかの教育動画で、性的同意を紅茶に例えるものがあった。
それに準えるならば、「紅茶はいかが」「ありがとう」というやり取りでサーブされた紅茶に唐辛子が入っていて、
「どうして唐辛子を入れたの」
「辛い食べ物が好きでしょう」
「もう飲みたくない」
「ごめんね。入れ直すからもう一回飲んで」
相手が唐辛子を入れていない確証はないし、唐辛子でなくとも他の何かを混ぜてくるのではと身構えてしまう。何年も一緒にお茶を楽しんでいて、私が普段飲んでいるのはストレートティーだって知っているはずなのに。
ティータイムの準備をするのが好きなのだ。どの紅茶を飲もうか、どんな茶菓子を食べようか、と考えて準備するのが好きなのだ。そしていつの間にか紅茶を飲むための手筈が揃ってしまって、相手が紅茶を飲もうというから、それもいいかもしれないねと紅茶を飲んでいたにすぎない。
と、言われたところで、元から私の目的は紅茶を飲むことではないので、奇怪な紅茶を飲まされた後では飲みたいとは思えない。
私はティータイムの準備が好きだった。
紅茶が飲みたいわけではなかった。
他部署から「こっちが忙しいの分かってるのになんで手伝わないんてすか」みたいなクレームが出た。
他部署だから責任の範囲も分からないから手伝わないわけで、ヘルプが出て、具体的にどんなことをすればいいか伝えられたら手伝いますよ。
でも、クレームの主は"察して"手伝ってほしいらしい。
察してほしいって、ずるいと思う。
依頼があったら「手伝って"もらう"」という事実が明確になるから、それが嫌なんだとしか思えない。それが嫌じゃなかったら、作業の見通しを立てて、大変になりそうだったら 手伝ってほしいって言えばいい。
「手伝ってくれてありがとう」と言うのが嫌だから、「勝手にあっちが仕事やってくれた。ラッキー」と思いたいんだよ。
そんなこと思ってなくとも、少なくともこちらはそう受け取っていることは事実だ。ひねくれているかもしれんが、こっちはサービス業じゃねえ。
しかし、補強するように上司に、察して手伝ってやってくれと言われた。
カチンときた。
別にこっちも暇じゃないし、空いた時間に進めたいこともある。手伝わないとは言わないが、手伝うための時間は捻出している。
しぶしぶではないが、人の助けを借りるってことは、人の時間を奪ってて、さらに売り上げを作るような部署の人の時間を奪うことは、会社の損失にもつながっている。
で、上司に、手伝わないとは言わないが、察してほしいっていうのは、やめてほしい。クレーム元がしっかり依頼を出すように伝えてくれ。と言った。
そしたら、「一流のレストランは、何も言わずにさりげなく水をサーブする。」「一流の店は、気遣いができる。」「お前も一流の社会人をめざして気遣いができるようになれ」と言われた。
しかし、レストランの人たちはそれが仕事である。サービス業だ。こっちはサービス業ではない。
そりゃできるに越したことはないが、できることは当たり前じゃない。
泥沼だった。
もう、諦めて、「自分の能力が足りないので、察することは自分に求めないでほしい。」と言った。
仕事干され始めた。
新型コロナ感染リスクを避けるために人混みに行くのは避けましょうって言うじゃない。あれ、絶対住んでいる地域で人混みの感覚が違うよな。都心に住んでいれば日常の往来だけど田舎に住んでいたら人混み認定だろうし。
会食の捉え方や人数も、日頃接している場所や習慣で感覚違うよな。一人一人サーブされるような高級料理店で広いテーブルを囲んでやる会食が当たり前な人と居酒屋でこじんまりと皿をつつきあう会食が当たり前な人じゃ会食のイメージが違うだろうし。
医療従事者と個人で居酒屋や宿泊業経営している人とでも感覚違うよな。あと、身近な人にどっちの従事者が多いかでも是非の判断変わってくるよな。
もう何がどうかよくわかんね。
体育の授業ではゴミ扱いされてきてスポーツが超嫌いなキモオタでたる自分が気まぐれでVR卓球やってみた(正式名称は「Eleven Table Tennis VR」という1990円のアプリだ。)。
NPC相手にサーブ打ってラリーをするだけなんだけど超楽しい。
最初は全然サーブが入らなかったけど相手がNPCだから謝る必要ないし誰も見てないから恥ずかしがる必要なし。
そんなことを繰り返していたらたまにサーブが入るようになり徐々にラリーができるようになってきた。
周囲への気の使いとか申し訳なさが無ければこんなに上達して楽しめるようになるなんて思ってもなかった。
今や寝る前に30分くらいNPCと卓球するのが欠かせない日課になりつつある。
VR卓球は演算とかリアルに相当近いみたいだしいつか友達と実際に卓球してみたい。
上手くなってるといいな。
昨日、以前から楽曲が好きだったHave a Nice Day!のライブに初めて行ってきた。渋谷のO-EAST。
このご時世でライブってちょっと抵抗あるな〜と思ったけど、しっかりコロナ対策されてるみたいだったのでチケット取った。ハバナイのライブはかなり激しめっていうのも聞いてたものの、以下のような事前の公式アナウンスもあったので大丈夫だろうと思い会場に足を運びました。
・公演中はご⾃⾝の⽴ち位置からの不必要な移動はおやめ下さい。
・モッシュ、ダイブ、リフトアップ、クラウドサーブ等の⾏為及び、⼤声での発声、歌唱等の⾏為は、感染症拡⼤防⽌の観点から本公演においてはお控え下さい。
問診票の記入を済ませて入場。まったり音を楽しみたいのでステージに近いところは避け、ステージ向かって右の後方、床に1メートルおきに貼ってある立ち位置シールの上でスタンバイ。
うーんやっぱ開演前って高まるね。
あ、始まった〜
開演後20分くらいして、周りでモッシュが発生しはじめた。どんどんこっちにぶつかってくる。大声で野次も飛ばすし。この時点で既に床の立ち位置シールは何の意味も持たない模様になっていた。スタッフが一応は制止してるけど全く追いついてない。
で、またぶつかってきた。その弾みで私の顎がやられた。
これが例えば去年行われたライブでの出来事であれば、ああハバナイのライブってこういう感じなんだね、と納得して尊重して我慢することができる。
しかし今回はこのコロナ禍でのライブだ。↑の事前アナウンスもあったから、観客どうしの激しい身体接触は全く想定していなかっただけにショックが大きい。ちょっと騙された気さえする。いやほんと何なんだ。建前を信じた私が馬鹿だったのか。
顎やられてすぐにもっと壁際へ移動したものの、全然ライブに集中できず。
すごく楽しみにしていたライブを楽しめなかったことがとても哀しい。
コロナ禍でのオールスタンディングのライブ開催についていろいろ考えさせられました。少なくとも私はもう二度とチケットを取ることはない。
夜中にこれ書いてて寝落ちして、起きたらちょっと冷静になったんだけどせっかく書いたから投稿するね。
あ。ひとつ書き忘れてた。ライブ中、面識がないと思われる女性(20代くらい)にいきなり抱きつく男性(30代くらい)を見た。あれはどう考えても駄目でしょ。せめて終演後にその女性に声をかけておけば……と後悔しています。
スウェーデンの夜を覚えている。2月のスウェーデン。坂道を歩く。サーブ、フォルクスワーゲン、トヨタ、表情豊かな車が路肩に並び、眠っている。不思議とどの車もくすんだ色になる。
北欧の夜には不思議な静寂がある。凍ったアスファルトが音を吸いとってしまうのかもしれない。街灯の光子も彫刻のように止まっている。
あの冬、仕事で北欧にいた。同業者と一緒に北欧を回る出張だった。みな、巡礼者のように、同じような黒のダウンジャケットに身をつつんでいる。凍った道に足を取られないよう、歩幅を狭くして、冷気で化粧した街を歩く。
「ペリカン」という名のレストランに入ったのは、北欧に着いてから何度目かの夜だった。タイル張りの床、チークの壁、スカンジナビア特有の、あのとろけたような飴色の照明。ビアホールスタイルのペリカンレストランはダンスフロアのように広く、笑い声とグラスを打ちつける音に溢れている。今までに見たどのレストランよりも薄暗いが、しかし、今まで見たどのレストランよりも客の顔が明るい。
僕らは4つのテーブルをくっつけた一角に座る大所帯で、めいめいが好きなビールを、あるいはワインを、ぶっきらぼうな英語で注文した。テーブルのろうそくが子熊のダンスのようにゆらめく。人の瞳を大きく見せる、不思議な炎だった。スウェーデンで覚えた「スコール!」の掛け声とともに、琥珀色の液体を冷えた胃に流し込む。
ざらざらとした紙のメニューは、スウェーデン語と英語の2つが印刷されていた。チーズ、魚、マッシュドポテト、そして子猫の頭ほどの大きさがあるミートボールがテーブルに並ぶ。肉厚な白磁の上で、てらてらと光る料理を見ていると、夢と現実の境界が曖昧になる。メニューに刻まれた”smaklig spis!”の文字が滲んでいく。
ふと隣のテーブルを見ると、やけに騒がしい。スウェーデンの若者が盛り上がっている。年の頃は20代。テーブルではしゃぐ8人全員が屈強な男たちだ。不思議なことに、全員が純白のナプキンを頭にかぶせている。ナプキンの四隅を結び、帽子のようにして。
水夫のようだ、と思った。彼らはだいだい色の髭と睫毛をろうそくの光に透かし、歌を歌い始めた。樽いっぱいの勇ましさに、ひとさじの寂しさを混ぜたような合唱。なぜかその歌と、その力強い瞳と拳とは、バイキングを思い出させた。
アルコールの助けもあるのだろう、バイキングのひとりが、僕らに話しかけてきた。君たちはどこから来たのか?トウキョウだと答える。すばらしい!乾杯!と男が叫ぶ。テーブルでできた国境は曖昧になって、アジアとスカンジナビアが溶け合った。トウキョウの明かりは闇を削る。北欧の光は、闇をぼかすようなやわらかさがあった。
日本の歌を聞かせてくれ!——スウェーデンの若者がテーブルの向かいから叫んだ。僕らは困り果ててしまった。この異国の地で、ここにいる日本人が詰まらず歌えて、しかも日本を代表するような歌……それは一体なんだろうか?
君が代。いや、堅すぎる。「翼をください」はどうだろう?しっくりこない。誰かが言った。「『ふるさと』だ」
そして僕らは、声を揃えて歌った。
兎追いしかの山……小鮒釣りしかの川……夢は今も巡りて……忘れ難き故郷……
北欧の地においても、当然ながら僕らは日本語でコミュニケーションをしていた。でもそれ以上に、「ふるさと」は日本語で話していることを意識づける歌だった。
8000キロ離れたスウェーデンの地で、この歌の持つ郷愁は凄まじいものがあった。僕らは住んだこともない日本の原風景を思い浮かべて、目頭を熱くした。バイキングの若者たちはその大きな手で拍手する。ペリカンレストランの客にとって、「兎」や「小鮒」から浮かぶイメージは、僕らのものと随分違っていただろうが、歌の持つなにかは伝わった。
そして彼らは返歌とばかりに、彼らの故郷の歌を歌った。いや、実際は故郷の歌ではなかったかもしれない。けれど、僕らが言葉とメロディで故郷を表現したことを、彼らは彼らなりに感じとって、故郷の歌を口ずさんだのではないかと思う。そう思いたいだけだ。独りよがりかもしれないけれど、ペリカンレストランの光は、そう思わせるに十分な魔力を持っていた。
歌の交換が終わり、場が落ち着いて、ひととおり肉と魚とアルコールを胃におさめた後、僕らは三本締めを派手に決めてやった。これもスウェーデンにはないものだ。隣のバイキングに威勢を張るため……あるいは、友好の意を示すため、僕らは目配せし合いながら手を掲げた。「イヨォーオ!」という掛け声とともに掌を打ち付ける。スウェーデンの若者がワッと歓声をあげる。「俺にもやらせてくれ!」誰かがスウェーデン語で叫んだ。「よし!」日本語が応える。片言の「イヨーオッ!」、それに呼応する柏手。そして都合3回の三本締めを終え、スウェーデンの夜はふけた。
あれは夢だった、と言われても信じてしまうくらい、全てが出来すぎた夜だった。
ホテルに戻り、ベッドに倒れ込む。
頭の中に、凍りついた道と、白い息と、温かなテーブルと、チョコレートのようなミートボール、人懐っこいスウェーデンの男のきらきらした眉毛がこびりついている。